美保関事件

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美保関事件(みほのせきじけん)とは、1927年昭和2年)8月24日大日本帝国海軍で夜間演習中に起こった艦艇多重衝突事故である[1][2]美保関沖事件美保ヶ関事件ともいう。

概要[編集]

日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約(大正10年11月締結)の結果として保有主力艦艇の総排水量を制限された[1][3]連合艦隊司令長官加藤寛治大将は東郷平八郎元帥から激励された「訓練に制限無し」を掛け声として[4][5]1926年大正15年)11月以来、猛訓練と個艦優秀主義によって戦力の劣勢を補おうとした[1][6]

翌1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖での徹夜の夜間無灯火演習中に川内型軽巡洋艦2番艦「神通」(第五戦隊3番艦。神通艦長水城圭次大佐)と駆逐艦」(第一水雷戦隊、第27駆逐隊。蕨駆逐艦長五十嵐恵少佐)が衝突事故を起こし、「神通」は艦首を喪失して大破、「蕨」は沈没した[7][8][9]。 このとき「神通」を避けようとした後続の川内型3番艦「那珂」(第五戦隊4番艦。那珂艦長三戸基介大佐)も駆逐艦「」(第一水雷戦隊、第27駆逐隊。葦駆逐艦長須賀彦次郎少佐)に衝突[2]、両艦も大破した[8][9]。一連の経緯により、事故発生時の神通艦長水城圭次大佐は自決した[10][11]

これを美保関事件と称する[12]

経緯[編集]

編成[編集]

1927年(昭和2年)8月24日島根県美保関沖に日本海軍・連合艦隊(第一艦隊第二艦隊)の主要艦艇が集結[13][9]。 同町沖で行われた第八回基本演習(夜間無灯火演習)において、第五戦隊(司令官清河純一中将:第1小隊〈加古古鷹〉、第2小隊〈神通那珂〉)および第二水雷戦隊(司令官八角三郎少将:旗艦〈夕張〉、第22駆逐隊〈第27号〔皐月〕第28号〔水無月〕第29号〔文月〕第30号〔長月〕〉、第26駆逐隊〈柿、楡、栗、栂〉、第27駆逐隊〈菱、菫、蕨、葦〉、第29駆逐隊〈第11号〔追風〕第13号〔疾風〕第15号〔朝凪〕第17号〔夕凪〕〉、第30駆逐隊〈第19号〔睦月〕第21号〔如月〕第23号〔弥生〕第25号〔卯月〕〉)[14][15]乙軍を編制し、夜間雷撃訓練を実施する[16][17]。 那珂には伏見宮博義王(海軍大尉)が[2]、同艦水雷長として勤務していた[18][19]

この時、本来第一水雷戦隊(司令官高橋寿太郎少将:旗艦「龍田」)に所属する第26駆逐隊(柿、楡、栗、栂)と第27駆逐隊(菱、菫、蕨、葦)は[20][21]第二水雷戦隊(旗艦「夕張」)に臨時編入され、前述のように乙軍として行動することになった[22][23]。 指揮系統の違う部隊を組み込んだ臨時編制に、第一水雷戦隊先任参謀小沢治三郎中佐は危機感を覚えた[23]。小沢参謀は連合艦隊司令部に意見具申をおこなったが、加藤長官の意向を受けていた連合艦隊参謀長高橋三吉少将と連合艦隊先任参謀近藤信竹中佐は発令通りの夜間演習を実施した[4][23]

対する甲軍は、加藤寛治連合艦隊司令長官率いる第一艦隊の戦艦群(長門型戦艦長門陸奥〉、伊勢型戦艦伊勢日向〉)、第二艦隊(司令長官吉川安平中将:戦艦〈金剛比叡)等と軽巡4隻(鬼怒阿武隈龍田由良)で編制されていた[9][22]

事故発生[編集]

同日(8月24日)午後11時過ぎ、第五戦隊第2小隊(神通、那珂)は戦艦部隊を仮想敵(甲軍)にみたてて接近中、戦艦2隻(伊勢、日向)や軽巡複数隻(由良、龍田)等から照射を受けた[24]。特に龍田の探照燈に捉えられた「神通」は攻撃の機会を失ったと判定され、「那珂」とともに右へ旋回する[25]。すると第五戦隊第2小隊(神通、那珂)は後続していた第五戦隊第1小隊(加古、古鷹)および第26駆逐隊(柿、楡、栗、栂)、第27駆逐隊(菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ込んだ[26]。 これにより「神通」と第27駆逐隊2番艦「」が衝突、ボイラーを粉砕された「蕨」は爆発を起こし、真っ二つに分断されて沈没した(蕨殉職者、五十嵐艦長ほか91名)[1][27][28]遺体は殆ど回収できなかった[29][30]。「神通」は艦首から1番砲塔直下まで船体下部を失った[31]

一方、2隻(神通、蕨)の衝突を見て避けようとして転舵した後続の「那珂」は、第27駆逐隊3番艦「」(葦駆逐艦長須賀彦次郎少佐)と衝突[1]。 「那珂」は艦首を、「葦」は艦尾を大破する(葦殉職者27名)[32][33]。 「那珂」の損傷は「神通」程ではなかったが、それでも船体艦首下部を失う大きな損傷を受けた[34]。「葦」は艦体後部をもぎとられた[33]。 事故を受け、衝突現場に居合わせた各艦(加古、古鷹、伊勢、鬼怒、阿武隈、由良、龍田)等は協力して沈没艦と損傷艦の救援に従事した[35][33]。陸奥艦載機や能登呂鳳翔艦載機も捜索に従事した[36]

その後、自力航行可能だった「那珂」は金剛型戦艦2番艦「比叡」と古鷹型重巡1番艦「古鷹」に護衛されて舞鶴へむかった[37]。 「神通」は金剛型1番艦「金剛」に曳航され[38][8]、古鷹型2番艦「加古」の護衛下で同港へ向かった[39]。「葦」は長良型6番艦「阿武隈」に曳航され同港へむかった[38][8]。 当時の舞鶴工作部は吹雪型駆逐艦複数隻(第35号駆逐艦〈吹雪〉第37号駆逐艦〈初雪〉)等の建造に追われており、その中で最初に「那珂」を修理した[40]。次に「神通」を修理する事になったが、その際に姉妹艦「那珂」に準じた改正が施された[41]。スプーンバウから凌波性に優れたダブルカーブドバウへの変更であり、川内型2隻(神通、那珂)の外見上の特徴となっている[1]。艦首改造工事に関して「神通」は応急修理を施したうえで呉に回航され、翌年3月まで修理に従事した[40]

8月26日、連合艦隊司令長官加藤寛治大将(戦艦長門艦上)は新聞記者達に対し「今回の事件に多数の部下と艦とを損傷したことは長官としても恐くの至りである。しかしながらこゝに考へて頂きたいことは我々としてはベストをつくして訓練をやつた、もつとも眞劍な訓練と絶對保安とはなかなか兩立しがたいものである。戰艦も驅逐艦も近來夜間戰闘の最新戰術をつくしてやつてをつた。從つて困難な作業はもつとも眞劍に行はれてゐた、一秒間二十八メーターの高速力をだしてアツと思つたせつ那は三十メーターといふ有様であつた、故に一面また今度の遭難は不可抗力といひ得るものである、尚遭難者捜査については全力を擧げてつとめてをる」とのコメントを発表する[42][43]

事故の詳細は、前年に即位したばかりの昭和天皇(当時26歳)にも海軍次官大角岑生を通じて伝えられた[2]。天皇は侍従武官住山徳太郎を慰問使として派遣した[2]。8月30日には海軍大臣岡田啓介も参殿し、経過を奏上した[44]9月1日、日本海軍は殉職者合同葬儀を実施する[45][46][47]。 9月15日、「蕨」は除籍された[48]。10月7日附で水城圭次大佐は神通艦長を免じられて横須賀鎮守府附となり、装甲巡洋艦「吾妻」艦長三矢四郎大佐が、吾妻艦長と神通艦長の兼務を命じられた[49]

現在、事件現場付近の美保関灯台と境港市の台場公園に慰霊碑が建立されており、長崎県佐世保市の海軍墓地にも蕨と葦の犠牲者の殉難者忠魂碑が建立されている。

損害[編集]

艦首を大破した「神通」。
  • 神通 蕨と衝突
軽巡洋艦 神通 大破
駆逐艦 蕨 沈没 死者92名
  • 葦 那珂と衝突
軽巡洋艦 那珂 中破
駆逐艦 葦 大破 死者28名

処分[編集]

海軍省法務局は業務上過失・艦船覆没・業務上過失致死罪で、事故発生時の神通艦長水城圭次海軍大佐を起訴、横須賀鎮守府軍法会議(判士長立野徳次郎海軍少将)が審問したが、水城大佐は判決前日の12月26日に自宅で自決[50][10]。告別式は12月28日に水交社で行われた[12]。この時、伏見宮博恭王(当時、軍事参事官)は鈴木貫太郎軍令部総長や岡田啓介海軍大臣の反対(御付武官の差遣が妥当との意見)を押し切り、通常礼装で告別式に赴いて拝礼、遺族を感激させた[12]。 海軍省は特旨により水城の海軍少将進級を計画したが、遺族が辞退したために日の目を見なかった[51]。ただし、海軍有志の手により水城の慰霊碑が建立されている[52]。 なお水城自決の一報をアメリカ滞在中に聴いた山本五十六大佐は、三和義勇補佐官が「死んでも仕方がない」と発言したことに対し、「死をもって責に任ずるということは我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ人の長としてもお勤めができる」と厳しく叱責した[53]

最大の責任者とみなされていた水城大佐が自決したことで、事件当時第27駆逐隊司令の倉田弘保中佐が責任を追及されることになった[54]。1928年(昭和3年)3月13日、倉田は謹慎60日処分を言い渡されたが、発令直前に取り消しとなり、大佐進級後に除隊した[55]

過重な訓練を課した加藤寛治連合艦隊司令長官[56]高橋三吉連合艦隊参謀長は責任を問われなかった[57]。また批難や抗議に対し高橋三吉参謀長が「訓練を緩めましょうか」と進言すると、加藤長官は「いくら世間から攻撃非難あるも構はん、やれやれ。年度の始めに訓示した通りの決意に変りはない。米国には勝たねばならぬのだ」と答え、引き続き猛訓練を行う決意を示したという[58]

1935年(昭和10年)頃、海軍部内に「加藤寛治を元帥にしよう」という署名活動があった(当時の連合艦隊司令長官は高橋三吉大将)[59]。第二艦隊司令長官米内光政中将は麾下の重巡洋艦摩耶艦長だった小沢治三郎大佐を招き、署名活動についての意見を聞く[59]。小沢(摩耶艦長)は「軍人が署名活動なんてとんでもない」「加藤大将は美保ヶ関事件の責任者であり、あの時責任を取らねばならぬ人物だった」と返答している[59]。同年末、加藤は現役を引退して予備役となった[59]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f #ハンディ判艦艇写真集15p.34
  2. ^ a b c d e 昭和天皇実録第四759-760頁『(昭和二年八月)二十五日 木曜日(美保関事件の第一報/美保関事件の続報)』
  3. ^ #海を征くコマ67-68(原本120-123頁)
  4. ^ a b #回想の提督12-13頁
  5. ^ #東郷元帥と山本伯コマ13(原本16-17頁)『十 元帥と海軍猛訓練』
  6. ^ #邦枝、加藤寛治コマ92-95(原本177-183頁)
  7. ^ #加藤大将伝コマ468(原本489頁)『美保關沖に於ける軍艦衝突事故』
  8. ^ a b c d #災害篇コマ191(原本371頁)『○那珂と葦も觸衝す 昨二十四日聯合艦隊夜間演習中午後十一時二十分美保關の北東約二十マイルの地点において第五戰隊軍艦神通と第一水雷戰隊驅逐艦蕨と衝突蕨は約十五分の後沈没し、神通は前部錨鎖庫に浸水あり、軍艦金剛に引かれ舞鶴に回航中、又第五戰隊軍艦那珂は驅逐艦葦と觸衝、葦は船體の最後方の一部を切断せられしも應急修理の上軍艦阿武隈にて引航、那珂は損害輕微自力にて舞鶴に回航中である、又那珂乗艦中の博義王殿下には御異状あらせられず。』
  9. ^ a b c d #邦枝、加藤寛治コマ98-99(原本189-190頁)『八月二十五日の夜が來た。今夜の水雷發射演習を限りに、本年度の大演習は愈々終了することになつたので、聯合艦隊は威風堂々と島根縣美保ヶ關の沖合へ集結した。長門、陸奥、伊勢、日向、金剛、比叡の世界に誇るべき第一艦隊が防禦隊となり、神通、那珂、古鷹、加古を初め精鋭を謳はれた第二艦隊が攻撃隊となつて、双方五十隻の艦艇が入り亂れての海戰は、日本海軍なればこそと思はれる壮絶極まりないものであつた。
    (中略)午後十一時二十分であつた。戰闘が開始されて三十分、突然一大音響が海上を壓した。奮戰してゐた驅逐艦わらびが巡洋艦神通と激突した瞬間、その傍を猛進してゐた驅逐艦あしが更に、巡洋艦那珂と衝突といふ大事件を起したのであつた。蕨は艦體が眞ッ二つとなつたため、一瞬にして艦長五十嵐中佐を初め、乗組員百二十名が一人殘らず行方不明となり、葦もまた艦を大破して、二十七名の行方不明者を出すに至つた。』
  10. ^ a b #災害篇コマ194-195(原本377頁)『水城大佐自殺す(十二月二十七日 東京日日新聞)』
  11. ^ #近世自殺者列伝p.27『水城圭次 海軍大佐 昭和二年十二月二十六日自殺 享年四十四 長野縣の人、明治三十七年海軍兵學校卒業。昭和二年八月の海軍特別大演習に於ける美保關沖衝突事件の第一責任者として海軍々法會議に付せられたが、憂悶三月終に責任自殺を遂げた。』
  12. ^ a b c 天皇・伏見宮と日本海軍18-19頁『伏見宮の心情』
  13. ^ 昭和2年8月24日(水)海軍公報 第194号 pp.40-41』 アジア歴史資料センター Ref.C12070310000 『○艦船所在○八月二十四日午前十時【美保關】(長官)長門陸奥伊勢日向、(司令官)鬼怒阿武隈由良、(司令官)龍田、(司令官)迅鯨、(長官)金剛比叡、(司令官)加古古鷹神通那珂、(司令官)夕張、(司令官)長鯨、鳳翔 (司令)樅梨竹榧、(司令)栂柿楡栗、(司令)菱菫蕨葦、(司令)蓼蓮蓬、(司令)驅二八 驅二七 驅二九 驅三〇、(司令)驅一一 驅一七 驅一五 驅一三、(司令)驅二一 驅一九 驅二三 驅二五、(司令)梅楠、(司令)呂六八 呂六四 呂六三、(司令)呂六二 呂六〇 呂六一、(司令)呂六七 呂六五 呂六六、(司令)伊五三 伊五二 伊五一 間宮、能登呂』
  14. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)pp.63-64『大正一五.一二.一(内令二六五)|佐世保防備隊|第二艦隊|第二十二驅逐隊|第二十七號、第二十九號|第二十八號(昭和二、四、一 一〇七)/第三十號(昭和二、五、二〇 一八〇)/第二十九驅逐隊|第十一號、第十三號、第十五號、第十七號/第三十驅逐隊|第十九號、第二十一號、第二十三號、第二十五號』
  15. ^ #艦艇・駆逐艦(1)pp.2-3『驅逐艦改稱新舊名稱對照表』
  16. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(2)p.11『軍艦神通ハ昭和二年八月二十四日聯合艦隊第八回基本演習ニ参加シ乙軍第五戦隊第二小隊ノ先頭艦トシテ二番艦那珂ヲ率ヒ仝日午後十時美保湾錨地ヲ出港…』
  17. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(3)p.50『触接及襲撃要領』
  18. ^ #黒き日本海に消ゆ62頁
  19. ^ 昭和2年5月21日(土)官報第116号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ6(原本561)
  20. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.41『大正一五.一二.一(内令二六四)|聯合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 長門陸奥伊勢日向/第二戰隊/第三戰隊 阿武隈鬼怒球磨/第一水雷戰隊 龍田 第二十五 第二十六 第二十七 第二十八驅逐隊/第一潜水戰隊 由良 迅鯨 第二十四 第二十六潜水隊|第二艦隊|第四戰隊 金剛比叡/第五戰隊 加古古鷹神通那珂/第二水雷戰隊 夕張 第五 第二十二 第二十九 第三十驅逐隊/第二潜水戰隊 長鯨 第七 第十七潜水隊』
  21. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)pp.63-64『大正一五.一二.一(内令二六五)|佐世保防備隊|第一艦隊|第二十五驅逐隊|梨、竹、樅、榧/第二十六驅逐隊|柿、楡、栗、栂/第二十七驅逐隊|菱、菫、蕨、葦|葦(昭和二、九、五 二八七)/蕨(昭和二、九、一五 二九四)/第二十八驅逐隊|蓼、蓮、蓬』
  22. ^ a b #黒き日本海に消ゆ20頁
  23. ^ a b c 智将小沢治三郎108-111頁
  24. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)pp.7-16
  25. ^ #黒き日本海に消ゆ36-37頁(龍田は神通が右旋回を終えるまで6分間照射)
  26. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(3)pp.46-47『実施経過概要 午後十時演習開始各隊予定ノ如ク行動ヲ開始ス午後十一時六分左翼列ノ第五戦隊第二小隊ハ甲軍伊勢型ヲ発見触接探照灯ヲ用ヒ之ヲ友軍ニ通報ス爰ニ於テ第二十六及第二十七駆逐隊ハ第五戦隊第一小隊ヨリ分離進撃ス 第二小隊ト概ネ竝進セシ第一小隊ハ其頃艦首ニ長門型ラシキモノヲ発見シテ之ガ艦尾ニ触接運動中十一時二十六分葦ヨリ衝突救助ヲ要スル旨信号ニ接シ反転現場ニ至リ損傷艦ノ救助溺者捜索ニ従事ス』
  27. ^ #黒き日本海に消ゆ46-47頁
  28. ^ #災害篇コマ193(原本374-375頁)『○悲壮なる蕨の最後(八月二十七日同上)』
  29. ^ #災害篇コマ192(原本373)『○犠牲者は百二十名死體は一名あるだけ』
  30. ^ #災害篇コマ193(原本375頁)『○一個の死體も發見されず』
  31. ^ #ハンディ判艦艇写真集15pp.32-33(舞鶴修理中の神通写真)
  32. ^ #黒き日本海に消ゆ56-59頁『「那珂」衝突』
  33. ^ a b c #海を征くコマ71-72(原本129-130頁)『その時、驅逐艦蘆の艦長だつたのが過般、大角大将と一緒に戰死された須賀中将であつたが、須賀君はこの時艦橋に居て巡洋艦のため、後部の三分の一を切り取られたのが判らなかつたといふ。まるで剃刀でさつと斬られたような工合だつたので、一寸も應へなかつたといふのだから全く凄い。これは兩方共が高速で運動して居つたためであると思ふ。全艦隊は爲に演習を中止して、直ちに救助作業をやつたが、その時世間では、海軍の訓練はあまりに猛烈すぎる―と云つて、新聞を始め、色々の批判が出たものである。』
  34. ^ #ハンディ判艦艇写真集15pp.59-60(那珂損傷写真)
  35. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.12『当時遭難地附近ニ在リテ極力短艇等ヲ以テ救難ニ従事シツツアリシ艦艇左ノ如シ 伊勢加古古鷹鬼怒阿武隈由良龍田第二十六第二十七駆逐隊』
  36. ^ #黒き日本海に消ゆ71頁
  37. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.13『那珂ハ25日午前2時40分防水区画補強工事及防水畫出シ方終了自力航行ニ差支ナキヲ確メタル旨報告ニ接シ比叡及古鷹之ヲ護衛シ舞鶴ニ回航セシム25日午後5時無事到着セリ』
  38. ^ a b #黒き日本海に消ゆ73-74頁
  39. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.14『神通ハ損傷最甚シク二十五日午前八時其ノ防水補強作業終了シ金剛ハ之ヲ艦尾曳ニテ舞鶴ニ回航加古之ヲ護衛シ二十六日午前九時無事舞鶴着』
  40. ^ a b #黒き日本海に消ゆ102-103頁
  41. ^ #軍艦神通艦首形状改正p.2『別紙図面ニ示ス通リ艦首形状ヲ軍艦那珂ニ準ジ改正』
  42. ^ #災害篇コマ193-194(原本375-376頁)『○不可抗力の惨事』
  43. ^ #黒き日本海に消ゆ138-139頁『連合艦隊司令長官』
  44. ^ 昭和天皇実録第四761-762頁『(昭和二年八月)三十日 火曜日(美保関事件に関する海相の奏上)』
  45. ^ #高松宮日記1巻273頁『九月一日 木曜 晴凉し。窓あけては涼しすぎる風入り来る。秋の朝なり。又便乗の生活かと思へばつまらなし。何だか元気なき一日なりき。午后二時半より、「わらび」「あし」の殉難者合同葬儀あり、武官(鮫島具重中佐、海兵37)を代拝せしむ。生花を供ふ。皇族一般の他に、博義王(海軍大尉、那珂水雷長)は直拝。』
  46. ^ 昭和2年8月30日(火)海軍公報 第199号 p.9』 アジア歴史資料センター Ref.C12070310100 『故海軍中佐從五位勲四等五十嵐恵以下百二十名來九月一日午後二時三十分横須賀海兵團舞鶴練習部ニ於テ佛式ニ依リ合同葬儀執行』
  47. ^ #災害篇コマ194(原本376-377頁)『秋風冷かに海軍合同葬(九月二日同上)』
  48. ^ #除籍艦艇・駆逐艦(3)pp.9-10『蕨(千噸以下)昭和二、八、二四美保關沖ニ於テ沈没、九、一五、除籍』
  49. ^ 昭和2年10月8日(土)官報第235号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4
  50. ^ #黒き日本海に消ゆ179頁
  51. ^ #黒き日本海に消ゆ181頁
  52. ^ #黒き日本海に消ゆ185-186頁
  53. ^ #追悼山本五十六197-198頁
  54. ^ #黒き日本海に消ゆ189-190頁
  55. ^ #黒き日本海に消ゆ191-192,216-217頁
  56. ^ #災害篇コマ193-194(原本375-376頁)『加藤司令長官進退伺ひ(八月二十九日 同上)』
  57. ^ #黒き日本海に消ゆ205頁
  58. ^ #海を征くコマ72(原本130-131頁)
  59. ^ a b c d 生出、伏見宮元帥252-253頁『まず兵をされ』

参考文献[編集]

  • 五十嵐邁 『黒き日本海に消ゆ 海軍・美保関遭難事件』 講談社、1978年11月。
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  • 生出寿 『昭和天皇に背いた伏見宮元帥 軍令部総長の失敗』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年10月(原著1991年)。ISBN 978-4-7698-2971-3
  • 生出寿 「水雷学校、海軍大学校の戦術教官」『智将小沢治三郎 沈黙の提督 その戦術と人格』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2017年7月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-3017-7
  • 小沢提督伝刊行会編 『回想の提督 小沢治三郎』 原書房、1971年3月。
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第四 自大正十三年至昭和二年』 東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74404-6
  • 杉本惇 『追悼 山本五十六 海軍機関誌の「追悼号」が伝える在りし日の山本元帥の姿……。直近の人々が語る貴重な証言集!』 新人物往来社、2010年6月。ISBN 978-4-404-03867-8
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第一巻 大正十年一月一日~昭和七年十二月三十一日』 中央公論社、1996年3月。ISBN 4-12-403391-5
  • 野村實 『天皇・伏見宮と日本海軍』 文藝春秋、1988年2月。ISBN 4-16-342120-3
  • ハンディ判日本海軍艦艇写真集15 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型』 雑誌『』編集部/編、光人社、1997年8月。ISBN 4-7698-0816-x
    • 高橋治夫「連合艦隊の悲劇 "美保ヶ関事件"の顛末」(34-35ページ)
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    • 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(6)』。Ref.C04015668600。
    • 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(7)』。Ref.C04015668700。
    • 『艦艇/駆逐艦(1) 恩給叙勲年加算調査 上巻 参考法例 在籍艦艇 昭和9年12月31日』。Ref.C14010003300。
    • 『除籍艦艇/駆逐艦(3) 恩給叙勲年加算調査 下巻 参考法例 除籍艦艇 昭和9年12月31日』。Ref.C14010006100。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]