豊橋 (水雷母艦)

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横須賀軍港での豊橋(1905年9月25日)

豊橋(とよはし)は、日本海軍水雷母艦1906年(明治39年)4月4日に韓崎に次いで第2潜水艇隊の母艦となった。

艦歴[編集]

日清戦争当時、商船の不足を補うために日本政府は海外から十数隻の艦船を日本郵船名義で購入、輸送任務などに就かせた。本艦もそのうちの1艦で元はLondon&Glasgow造船会社で1888年(明治21年)12月に進水、1889年(明治22年)に竣工した英ジェンキンス社所有、フリントシア(Flintshire)、2,879総トンである。日清戦争中は陸軍に徴用された。

戦争終了後に多くの船はそのまま民間に払い下げられたが、海軍では水雷母艦(水雷艇、駆逐艦の母艦)が切望され、本艦は1897年(明治30年)12月に所属を日本海軍に移管、艦名を「豊橋丸」から「豊橋」とした。翌1898年(明治31年)3月には水雷母艦に類別された。わずか3,000トン足らずの小型艦だったが台湾中国本土沿岸で活動した。日露戦争に従事ののち1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦となる。

1914年(大正3年)4月1日に除籍、艦名は「豊橋丸」に戻り同年8月16日に雑役船(水雷艇母船)となるが、翌1915年(大正4年)7月12日に売却され海運救済会の練習船となった。改装され白い船体となった「豊橋丸」は日本各地を回ったという。1922年(大正11年)4月22日に座礁、浮揚ののち修理されたが老齢のため11月に売却された。その後も商船(栄徳丸など)や北洋漁業の蟹工船として昭和10年代まで活躍したという。

主要目[編集]

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 井上敏夫 大佐:1898年7月19日 - 1899年5月1日
  • 今井兼昌 中佐:1899年5月1日 - 1899年10月13日
  • 坂本一 中佐:1899年10月13日 - 1901年2月4日
  • 井手麟六 中佐:1901年2月4日 - 1902年10月6日
  • 毛利一兵衛 大佐:1902年10月6日 - 1903年4月12日
  • 丹羽教忠 中佐:1903年4月12日 - 1903年12月7日
  • 丹羽教忠 大佐:1903年12月28日 - 1904年2月23日[1]
  • 土屋光金 大佐:1905年4月17日 - 1905年6月14日
  • 茶山豊也 中佐:1905年6月14日 - 1905年12月12日
  • 臼井幹蔵 中佐:1905年12月12日 - 1906年11月28日
  • 井出謙治 中佐:1906年11月28日 - 1908年2月1日
  • 広瀬順太郎 中佐:1908年2月1日 - 1908年8月28日
  • (兼)山本竹三郎 大佐:1908年8月28日 - 1908年9月25日
  • 西垣富太 中佐:1908年9月25日 - 1909年4月1日
  • 井出謙治 大佐:1909年4月1日 - 1909年12月1日
  • 平岡貞一 大佐:1909年12月1日 - 1911年4月1日
  • 堀輝房 中佐:1911年4月1日 - 1911年10月25日
  • 松岡修蔵 大佐:1911年10月25日 - 1912年7月5日

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6
  • 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』(KKベストセラーズ、1982年) ISBN 4-584-17023-1
  • 海人社『世界の艦船 増刊 日本海軍特務艦船史』1997年3月号増刊 No.522
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報

関連項目[編集]