見島 (海防艦)

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RUS Admiral Senyavin in 1901.jpg
ロシア時代(1901年)
艦歴
起工 1892年8月2日
進水 1894年8月22日
竣工 1896年ロシア海防戦艦として
就役 1905年6月6日、日本海軍籍に編入
除籍 1935年10月10日
その後 1936年1月10日、廃艦7号と仮称[1]
標的として使用、1936年5月5日沈没
性能諸元(1920年
排水量 常備:4,960トン[2]
全長 垂線間長:80.62m (264ft 6in)[3]
全幅 15.88m (52ft 1in)
吃水 5.49m (18ft)
機関 円缶4基
直立3気筒3段膨張レシプロ
2軸 6,000馬力
速力 16ノット
航続距離
燃料 石炭 400トン
乗員 62名
兵装 露式45口径25.4cm連装砲塔 1基
安式40口12cm単装砲 4門
安式40口径7.6cm単装砲 4門
山内式短5cm砲 2門[4]

見島(みしま)は[5]日本海軍海防艦[6][7]。 後日、砕氷艦[8]。 その後、潜水艦母艇[9][10]として運用された。 艦名は山口県の沖、日本海に浮かぶ見島からとられる[11]。 元はロシア海軍の海防戦艦「アドミラル・セニャーヴィン」だった[11][12]

海防艦「沖島」は同型艦。

概要[編集]

海防艦[編集]

元は1894年(明治27年)にロシアのアドミラルチースキー工廠[13]で進水したロシア海軍アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦「アドミラル・セニャーヴィン(Admiral Seniavin)」[11]日露戦争時、バルチック艦隊に所属して日本海海戦に参加、1905年(明治38年)5月28日に降伏[11][14]

同年6月6日、日本海軍は鹵獲したロシア軍艦5隻を改名する[12][15]。 「オリョール」は戦艦「石見」、「インペラートル・ニコライ1世」は戦艦「壱岐〈壹岐〉」、駆逐艦「ベドーヴイ」は駆逐艦「皐月[15]、「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦「沖島」、そして「アドミラル・セニャーヴィン」は海防艦「見島」と命名された[5][11]。 同日附で5隻(石見、壱岐、沖島、見島、皐月)は、それぞれ軍艦籍に編入される(沖島と見島は二等海防艦籍)[6][16]

第一次世界大戦では第二艦隊に所属し、青島方面で作戦に従事[8][14]。またシベリア出兵に際して1918年(大正7年)[17]砕氷艦としての改造が行われる[8]。工事内容は、前部砲塔を撤去、艦首の砕氷構造、艦橋の耐寒令式とするなど[8]。改装前の主砲は艦前方に45口径25.4cm連装砲塔を1基、艦後方に45口径25.4cm連装砲塔を1基の計4門。改装後は艦後方に45口径25.4cm連装砲塔を1基の計2門となった[8]1919年(大正8年)2月以降、「見島」はウラジオストックシベリア方面に進出した[11]。舞鶴で修理後、1920年(大正9年)2月からは、小樽港北海道)を基地としてシベリア方面に出動した[8]

潜水母艦[編集]

1920年(大正9年)、佐世保鎮守府に初めて潜水艇が配備される[18]。当時の潜水艦は性能的にも技術的にも未熟で、常に母艦の支援を必要としていた[19][20]

1922年(大正11年)4月1日、「見島」他艦艇は軍艦籍より除籍[21]艦艇類別等級表からも削除[22][23]。 2隻(千代田、見島)は特務艇(潜水艦母艇)に類別される[11][9]。 本艦は佐世保防備隊の潜水艦母艇として[18]、長期間にわたり使用された[8]。兵装や甲鈑を撤去したため「見島」の乾舷は増し、南西諸島まで潜水隊に随伴して出動することもあったという[18]

1935年(昭和10年)10月10日、除籍[24]。 翌1936年(昭和11年)1月10日に「廃艦第七号」と仮称された[1]。 以後は実艦標的として使用される。5月上旬、空母「鳳翔」の標的艦となり演習に従事[25]。装甲巡洋艦「常磐」に曳航されて宿毛湾へ移動中[26]5月5日都井岬沖合にて浸水が進み[27]、廃艦7号(見島)は艦前部から海没[28]。16時43分に全没した[29]

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 和田賢助 大佐:1905年6月14日 - 1905年12月12日
  • (兼)高木助一 大佐:1905年12月12日 - 不詳
  • 高橋助一郎 大佐:不詳 - 1907年9月28日
  • 東郷吉太郎 大佐:1907年9月28日 - 1908年7月11日
  • 山田猶之助 大佐:1908年7月11日 - 9月15日
  • 上村経吉 大佐:1908年9月15日 - 12月10日
  • 森義臣 大佐:1909年11月1日 - 1910年4月9日
  • 松岡修蔵 大佐:1910年4月9日 - 12月1日
  • (兼)榊原忠三郎 大佐:1910年12月1日 - 1911年1月16日
  • (兼)水町元 大佐:1911年1月16日 - 4月1日
  • (兼)今井兼胤 大佐:1911年4月1日 - 1912年12月1日
  • (兼)本田親民 大佐:1912年12月1日 - 1914年5月27日
  • (兼)三輪修三 大佐:1914年5月27日 - 不詳
  • (兼)有馬純位 大佐:不詳 - 1915年10月1日
  • (兼)大島正毅 大佐:1915年10月1日 - 12月13日
  • (兼)四元賢助 大佐:1915年12月13日 - 1917年5月8日
  • (兼)島内桓太 大佐:1917年5月8日 - 12月1日
  • (兼)篠崎真介 大佐:1917年12月1日 - 1918年5月3日
  • (兼)安村介一 大佐:1918年5月3日 - 11月10日
  • (兼)福地嘉太郎 大佐:1918年11月10日[30] - 12月5日[31]
  • 横地錠二 大佐:1918年12月5日 - 1919年2月21日
  • (兼)福地嘉太郎 大佐:1919年2月21日[32] -
  • 坂元貞二 大佐:1920年1月30日 - 6月3日
  • (兼)福地嘉太郎 大佐:1920年6月3日[33] -
  • 谷川清治 大佐:1920年12月1日[34] - 1921年12月27日[35]
  • (兼)有沢四十九郎 大佐:1921年12月27日[35] -

脚注[編集]

  1. ^ a b 昭和11年1月10日(金)海軍公報(部内限)第2233号 p.17』 アジア歴史資料センター Ref.C12070359300 『官房第九七號 當分ノ間舊特務艦見島ヲ左ノ通假稱シ部内限之ヲ使用ス 昭和十一年一月十日 海軍大臣 假稱名 廢艦第七號』
  2. ^ 『日本海軍史 第7巻』によると排水量4,126トン。
  3. ^ 『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』附表1-1によると長さは164フィート6インチとなっているが排水量に比較して短すぎる。要目がほとんど同一の沖島と同じ264フィート6インチと思われる。『日本海軍史 第7巻』によると長さ84.3m、幅16.5m、吃水5.6m。
  4. ^ 『日本海軍史 第7巻』によると25cm砲4門、12cm砲4門、8cm砲4門、魚雷発射管4門。改装前の要目と思われる。
  5. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)第199コマ『◎戰利軍艦石見壹岐沖島見島命名ノ件 明治三十八年六月六日(達七三) 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル|戰艦「アリヨール」 イハ|戰艦「インペラートルニコライ」第一世 |海防艦「ゲネラルアドミラル、アプラキシン」 オキノシマ|海防艦「アドミラル、セニヤーウヰン」 シマ
  6. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)第52コマ『明治三十八年六月六日(達七六)軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄「三笠」ノ次ニ「石見」ヲ、「鎮遠」ノ次ニ「壹岐」ヲ、海防艦ノ欄二等ノ部ニ「沖島」「見島」ヲ、驅逐艦ノ欄「霰」ノ次ニ「皐月」ヲ追加ス』
  7. ^ 「海軍」編輯局編、「二等海防艦 見島」 『帝国最新軍艦帖』 画報社支店、1912年11月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966146/78 
  8. ^ a b c d e f g 日本補助艦艇物語230-231頁『(2)二等海防艦 見島』
  9. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ73『大正十一年四月一日(内令一一〇)特務艇類別等級別表中左ノ通改定ス 掃海艇二等ノ欄内「叢雲」「夕霧」ヲ削リ「薄雲、」「不知火、」「朝潮、」「白雲、」「村雨、」「朝霧」ヲ加ヘ潜水艦母艇ノ欄内「椅子山」ヲ削リ「千代田、」「見島」ヲ加フ』
  10. ^ 日本潜水艦物語222頁『▽しま
  11. ^ a b c d e f g 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ68(原本102頁)『見島(みしま) 艦種海防艦二等 二檣(戰闘檣あり) 艦名考島峡名に採る、見島は長門國阿武郡に属す、高山岬の西微北20浬、萩の北微西に當る。
    艦歴明治29年露國「ニュー・アドミラルチー」造船所にて進水したる舊露國軍艦、原名「アドミラル・セニヤーウヰン」。明治37・8年日露戰役中、「バルチック」艦隊の一艦として日本海々戰に参加、同38年5月28日竹島(日本海の孤島)の南西沖合に於て、我が艦隊之を捕獲す、同年6月6日帝國軍艦と定め「見島」と命名す。大正3年乃至9年戰役(日獨)從軍:同13年8月第二艦隊第二戰隊に属し、膠州灣封鎖哨戒勤務に從事(艦長中佐坂本重國)、同8年2月砕氷艦に改装、同9年2月第三艦隊第五戰隊に属し、北樺太竝に沿海州に出動、警備任務に從事(艦長大佐坂本貞二)、同11年4月1日軍艦籍より除かれ、更に潜水艦母艇として佐世保防備隊に附属せしめらる。
    ―要目― 長264呎/幅52呎/吃水18呎/排水量4,200噸/機關 三聯成汽罐2基 ベルビル罐8臺/馬力5,000/速力16/乗組人員400/船材 鋼|兵装 9吋砲4/12拇砲4/8拇砲4/發射管4/起工 明治26/進水 同27/竣工 /建造所 露國ニュー・アドミラルチー』
  12. ^ a b #達明治38年6月p.2『達第七十三號 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛|戰艦アリヨール イハ|戰艦インペラートルニコライ第一世 |海防艦ゲネラルアドミラル、アプラキシン オキノシマ|海防艦アドミラル、セニヤーウヰン シマ
  13. ^ 『日本海軍史 第7巻』によると建造所はニュー・アドミラルティー工廠。
  14. ^ a b #水難救済軍艦コマ97-98(原本41-42頁)『二等海防艦 見島(舊名 アドミラルセニヤーウヰン)|一、進水年月日 明治二十七年/一、排水量 四千五百噸/一、馬力 約五千馬力/一、速力 約十六節/一、主砲 四五口徑露式十吋砲四門/一、建造地及建造所 露國ペトログラード海軍造船廠/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項 /一、日露戰爭に参加したる際重要なる事項 三十八年五月二十八日鬱陵島附近に於て旗艦「ニコライ」一世と共に我軍に降伏し捕獲せらる/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 青島攻撃に参加し各所砲撃に偉功あり/一、其他特に重要なる事項 /以上』
  15. ^ a b #達明治38年6月p.2『達第七十四號 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛 戰利驅逐艦「ビヱードウヰー」ヲ皐月サツキト命名ス』
  16. ^ #達明治38年6月p.3『達第七十六號 軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄「三笠」ノ次ニ「石見」ヲ、「鎮遠」ノ次ニ「壹岐」ヲ、海防艦ノ欄二等ノ部ニ「沖島」「見島」ヲ、驅逐艦ノ欄「霰」ノ次ニ「皐月」ヲ追加ス 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』
  17. ^ 『日本海軍史 第7巻』によると工事は1919年(大正8年)2月に舞鶴工廠で行われる。
  18. ^ a b c 日本潜水艦物語227-229頁『駒橋』
  19. ^ 日本潜水艦物語48-51頁『潜水母艦と後方支援』
  20. ^ 日本潜水艦物語219-221頁『わが潜水母艦の諸特徴』
  21. ^ #達大正11年4月(1)pp.1-2『達第四十七號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 津輕/軍艦 橋立/軍艦 武藏|呉鎮守府在籍 軍艦 周防/軍艦 千代田/軍艦 大和|佐世保鎮守府在籍 軍艦 沖島/軍艦 見島 右帝國軍艦ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 薄雲/驅逐艦 不知火|呉鎮守府在籍 驅逐艦 朝潮/驅逐艦 白雲/驅逐艦 村雨/驅逐艦 朝霧/驅逐艦 陽炎 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 第六十七號水雷艇/第六十八號水雷艇/第七十号水雷艇/第七十一號水雷艇|佐世保鎮守府在籍 水雷艇 雁/水雷艇 蒼鷹/水雷艇 鴿/水雷艇 燕 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
  22. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十一年四月一日(達四八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル』
  23. ^ #達大正11年4月(1)pp.2-3『達第四十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎|軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル』
  24. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ74『昭和十年十月十日(内令三九四)特務艇類別等級別表中左ノ通改定ス 特務艦ノ部潜水艇母艦ノ項中「見島」ヲ削ル』
  25. ^ #廃艦第7号沈没pp.31-38『第四 常磐ニ於ケル爆撃観測圖』
  26. ^ #廃艦第7号沈没p.9『昭和十一年官房機密第三九九號ニ依リ廢艦第七號ヲ宿毛湾ニ曳航中同艦全部ニ浸水ノ為宿毛湾外ニ於テ沈没セリ』
  27. ^ #廃艦第7号沈没p.39『別紙第一 行動経過圖』
  28. ^ #廃艦第7号沈没pp.47-48『別紙第五』
  29. ^ #廃艦第7号沈没p.24『一六四三|廢艦々首ヲ突込ミ垂直ニ全没ス状況寫眞別紙第六』
  30. ^ 『官報』第1883号、大正7年11月12日。
  31. ^ 『官報』第1903号、大正7年12月6日。
  32. ^ 『官報』第1965号、大正8年2月22日。
  33. ^ 『官報』第2351号、大正9年6月4日。
  34. ^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
  35. ^ a b 『官報』第2823号、大正10年12月28日。

参考文献[編集]

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』(朝雲新聞社、1969年)
  • 福井静夫 「第三部 日本海軍の潜水母艦」『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本潜水艦物語』第9巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、1994年12月。ISBN 4-7698-0657-4
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記 日本補助艦艇物語』第10巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『軍艦壱岐以下三艦ヘ勅諭ヲ下付セラル』。Ref.A01200239900。
    • 『明治三十七、八年戦役ニ於ケル戦利艦船処分済ノ件』。Ref.A04010138000。
    • 『日本海海戦戦果(明治38年5月27・28日)戦場に現はれたる敵艦数38隻中』。Ref.C14120009600。
    • 『佐鎮機密第292号 11.9.9廃艦第7号に関する件』。Ref.C05035392600。
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。
    • 『明治38年 達 完/12月』。Ref.C12070053600。
    • 『大正4年 達 完/5月』。Ref.C12070069200。
    • 『大正11年 達 完/4月(1)』。Ref.C12070080200。

関連項目[編集]