ニューギニア沖海戦
| ニューギニア沖海戦 | |
|---|---|
F4Fの攻撃を受け左エンジンを喪失した一式陸攻 | |
| 戦争:太平洋戦争 | |
| 年月日:1942年2月20日 | |
| 場所:ラバウル東方720km海上 | |
| 結果:日本軍航空隊に大損害 アメリカ海軍は作戦目的を放棄して撤退[1] | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 陸上攻撃機17 | 航空母艦1 重巡洋艦4 駆逐艦10 |
| 損害 | |
| 陸上攻撃機15喪失(不時着2を含む)、飛行艇3喪失[2]、水上偵察機1喪失[3] | 航空母艦1に至近弾、F4F戦闘機2喪失、7被弾損傷 |
ニューギニア沖海戦(ニューギニアおきかいせん)は、太平洋戦争中の1942年2月下旬に発生した日本海軍とアメリカ海軍との間の海戦[4]。 ラバウル沖航空戦という呼称もある[5][6]。
概要[編集]
1942年(昭和17年)1月下旬、日本軍は南洋部隊[7](指揮官井上成美中将、第四艦隊司令長官)[8]の戦力を基幹としてニューブリテン島のラバウルを占領、航空基地を建設した[9][10]。 ラバウルを拠点にパプアニューギニア方面へ展開する日本軍に対し、アメリカ軍はアメリカ海軍機動部隊(空母レキシントン基幹)を派遣してラバウルに奇襲攻撃を試みる[5][11]。 2月20日、日本軍はラバウル基地航空隊(一式陸上攻撃機)でアメリカ機動部隊を迎え撃ったが[6]、戦闘機に邀撃されて大損害を受けた[12][13]。一方、アメリカ機動部隊も作戦目的(ラバウル空襲)を放棄して撤退した[14][15]。
背景[編集]
オーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルは、天然の泊地やオーストラリア軍が設営した飛行場を擁していた[16]。日本軍は、トラック諸島根拠地の防衛と米豪遮断作戦の構想に基づき、ラバウルを奪取する必要性を見出していた[10][17]。特に南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官、旗艦「鹿島」)は、太平洋戦争開戦前からラバウル攻略を持論としていた[18]。
1942年(昭和17年)1月20日から22日にかけて日本軍は第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将指揮下の大型空母4隻(第一航空戦隊〈赤城、加賀〉、第五航空戦隊〈翔鶴、瑞鶴〉)以下の南雲機動部隊をニューアイルランド島沖合の北東とビスマルク海に進出させ、21日にニューギニア島のラエ、サラモアを空襲した[19][20]。この方面に連合軍は有力な艦隊や基地航空隊を配していなかった[20][21]。 南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官)指揮下の艦艇群と第24航空戦隊(司令官後藤英次少将)、さらに日本陸軍南海支隊(堀井富太郎陸軍少将)[22]も、ラバウル(ニューブリテン島)とカビエン(ニューアイルランド島)への進撃および空襲を開始した[18](陸軍輸送船団は第十九戦隊司令官志摩清英少将指揮下の艦艇に護衛され、1月14日にグアム島出発)[23][24]。 1月22日-23日[25]、日本軍はカビエンとラバウルに上陸し[26][27]、これを占領した[23][28]。 日本軍はすぐに水上機部隊や横浜海軍航空隊[29]の九七式飛行艇部隊を進出させた[30][31]。 続いてラバウル飛行場の整備に着手する[32][33]。1月31日には五航戦(瑞鶴、翔鶴)によって空輸された九六式艦上戦闘機18機(千歳空戦闘機隊)が進出した[31][34][35]。2月7日からは陸上攻撃機が進出を開始する[31][35]。南洋部隊はラバウルの航空兵力を増強しつつ、次期作戦に向けて準備を進めた[36]。
アメリカ軍は真珠湾攻撃の影響から戦艦部隊の出撃は行えず[14][37]、空母機動部隊によるマーシャル・ギルバート諸島機動空襲など散発的な反撃を行っていた[38][39]。また日本軍が占領したラバウルに対しては、ポートモレスビーよりB-17重爆による空襲を開始した[40]。 2月15日、シンガポールは陥落した[41](シンガポールの戦い)[42]。これにより日本軍の攻勢が続き、ラバウルを拠点としてニューカレドニアやニューヘブライズ諸島に進撃するのではないかと恐れたアメリカ合衆国やオーストラリアは、アメリカ海軍の投入を決定した[43][44]。ウィルソン・ブラウン海軍中将指揮の大型空母レキシントンを基幹とした機動部隊をハーバート・リアリー中将を司令官とするANZAC部隊に編入し、ラバウルに奇襲攻撃を敢行することにした[37][45]。
1月31日、第11任務部隊(ブラウン部隊)は輸送船団を護衛しつつ、真珠湾を出撃した[46][47]。船団護衛任務終了後、2月21日午前4時の空襲を予定(ラバウルより125浬東方海面より攻撃隊発進)の予定でニューブリテン島(ラバウル)に向かった[1][48]。ただし、ブラウン中将は「ラバウルに二つの飛行場があること」「日本軍がラバウルより600浬の海域まで哨戒機を派遣している」とは思わなかったという[48]。
戦闘[編集]
航空攻撃[編集]
1942年(昭和17年)2月中旬、南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官)は「米海軍機動部隊真珠湾出撃の模様」という情報を入手、2月18日0150、麾下部隊に警戒措置を執るよう下令した[49][50]。 2月19日1335、モートロック諸島(トラック泊地より南東160浬)の見張所から国籍不明の駆逐艦2隻発見との報告を得る[1][51](米軍調査によると、該当駆逐艦なし。米軍機動部隊は該当報告位置から南東約530浬地点を行動中)[50][52]。当時、南洋部隊(第四艦隊)の水上艦艇(鹿島、第六戦隊など)は大多数がトラック泊地にあり、空母祥鳳はパラオ方面に移動中だった[51]。第十七飛行隊や第六戦隊の航空機は、敵艦を発見できなかった[50]。だが、結果として駆逐艦発見の誤認が、日本海軍航空隊の先制攻撃に繋がった[5][52]。
2月20日0615、艦載水上偵察機から「敵情得ず」の報告を受けた井上長官(南洋部隊指揮官)は、陸上隊の索敵攻撃の待機を解く[53]。だが南洋部隊航空部隊指揮官はすでに索敵攻撃を命じており、索敵機は発進した後だった[53]。横浜海軍航空隊の飛行艇部隊はラバウルを拠点に広範囲の索敵を実施した[29][54]。 同日朝0830、哨戒中の日本軍九七式飛行艇(第22号機。指揮官坂井登中尉、海兵66期。横浜海軍航空隊所属)がアメリカ艦隊を発見[54][55]、空母1・巡洋艦4・駆逐艦10を報告した[56][57]。その後、坂井機は消息を絶った[55][57]。続いて別の飛行艇(第34号機)も消息を絶った[55][57]。 米軍側記録によれば、2月20日1015にラバウル東方350浬地点で旗艦レキシントンはレーダーで機影を探知、F4Fワイルドキャット6機を向かわせた[58]。ワイルドキャットは日本軍の四発飛行艇2機を撃墜、1機を撃退した[57][58]。
一方、第24航空戦隊(後藤英次司令官)は関係部隊に敵発見を報告した[55]。 1100[55]、第四艦隊(司令長官井上成美中将)は麾下の第24航空戦隊に対し、ただちに航空攻撃を下令する[59]。またトラック泊地やマーシャル諸島に分散展開していた第四艦隊麾下航空部隊にも米軍機動部隊攻撃を命じた[60][61]。 第24航空戦隊司令官の命令を受けた第4航空隊司令森玉賀四大佐は、陸攻による攻撃を決意する[57][56]。12時20分、日本軍はラバウルから第四航空隊の一式陸攻17機(指揮官、飛行隊長伊藤琢蔵少佐、海兵56期)を発進させた[54][62][63]。 当時のラバウルにおける24航戦兵力は、陸攻18、九六式艦上戦闘機14、零式艦上戦闘機13、飛行艇12と報告されている[64]。このうち零戦7機[31][65]は空母「祥鳳」(南洋部隊所属)により輸送され[66]、15日に到着したばかりだった[67][68]。 また千歳海軍航空隊が装備する九六艦戦用の増槽がなく、戦闘機の護衛はなかった[57][63]。陸攻用の対艦攻撃装備(魚雷)も到着していなかったため、陸攻隊は爆装(250kg爆弾2発、60kg爆弾6発)のみでの出撃になった[57][56]。このため24航戦は飛行艇による黎明雷撃を敢行することにした[54][69]。 陸攻隊に戦闘機の護衛が無く、さらに爆装のみでの敵機動部隊攻撃に関係者は不安をもったが、搭乗員達は南西方面以来の実戦経験から士気は極めてたかく、攻撃の成功を確信していたという[1][54]。
当時のニューアイルランド島東方の天候はよくなかったが、日本軍攻撃隊は九七式飛行艇(敵艦隊発見後、行方不明)や[70]、聖川丸所属零式水上偵察機(松井由五郎飛行兵曹長指揮、未帰還)[71][3]の誘導により米軍機動部隊を発見する[72][73]。 レキシントン側はレーダーで日本軍攻撃隊の接近を探知しており、F4F戦闘機隊で迎撃した[1][57]。 1415時、飛行隊長伊藤少佐は全機に突撃を下令した[72]。1435、第2中隊9機が水平爆撃を開始した[62][74]。だが命中弾はなく、F4F戦闘機隊14機の迎撃と対空砲火で第2中隊は全滅(爆撃前に2機喪失、7機爆撃するも命中弾なし、その後全滅)[57][74]。1500時には第1中隊8機が攻撃を開始した[62]。だがレキシントンに至近弾が1発あったのみで4機を失った(爆撃前3機喪失、5機爆撃してレキシントンに至近弾、襲撃後1機喪失)[57][74]。被弾炎上した2機は特攻を試み[1]、1機はレキシントンの15m手前で撃墜された[74]。後述の「空母1隻火災」報告は、この機の火焔を誤認したとされる[74]。帰途についた4機のうち、2機は不時着して攻撃は終了した[57][72]。F4F戦闘機隊は2機を喪失した[39][57]。
以上の戦闘経過により、ラバウルに帰投した陸攻は被弾損傷した第1中隊の2機のみ(空戦で13機喪失[47]、2機不時着、計15機喪失)という大損害を受けた[62][75]。索敵の九七式飛行艇(坂井機)と零式水上偵察機(松井飛行兵曹長)も未帰還となった[74][76]。
日本側(第24航空戦隊および第四艦隊長官井上成美中将)はサラトガ型を含む空母2隻を攻撃し、写真判定により空母1隻を撃沈[77]、他数隻に損傷を与えたと誤認した[78][79]。 第24航空戦隊はワスプ型航空母艦と認識している[80]。 連合艦隊に伝達された日本側戦果は巡洋艦1隻もしくは駆逐艦1隻航行不能であり、連合艦隊参謀長宇垣纏少将は「遺憾千萬とか云はん」「來るなら今度こそと思ふが攻撃機の被害甚大なるは如何にも残念なり」と記述している[13]。
水上部隊[編集]
同日、第四艦隊司令長官井上成美中将は航空攻撃に呼応して、南洋部隊麾下の水上艦艇部隊により米軍機動部隊の攻撃を企図した[81][82]。 旗艦鹿島[83][84]および敷設艦沖島(第十九戦隊司令官志摩清英少将)[85][86]、五藤存知少将指揮下の第六戦隊(第1小隊〈青葉、加古〉、第2小隊〈衣笠、古鷹〉)[87][88]、丸茂邦則少将指揮下の第十八戦隊(天龍、龍田)[89]を率いて正午以後[74]、トラック泊地を出撃した[88][90]。 別行動中の第六水雷戦隊(軽巡夕張、第29駆逐隊〈追風、朝凪、夕凪〉、第30駆逐隊〈睦月、弥生、望月〉、第23駆逐隊〈卯月、菊月、夕月〉〔第23駆逐隊は臨時編入〕)や[91][92]、航空機輸送任務中の祥鳳隊(空母祥鳳、駆逐艦帆風)にも合流を命じた[68][93]。 第七潜水戦隊の第27潜水隊と第33潜水隊も索敵攻撃に向かった[74]。 当初の情報によると米空母は3隻であり、加古艦長は「勝算のない出撃はいやなものだ」と回想している[94]。また南洋部隊主隊(鹿島、沖島)の出撃(避退)海面は米軍機動部隊と反対方向であり、軍令部では「たとえ戦列に加われないとしても敵にむかって前進すべき」との批判があった[84]。
2月21日[95]、日本側はラバウル東北方面を索敵するが[96]、米軍機動部隊を発見できなかった(第11任務部隊は退避)[97][98]。 2月23日以降、第四艦隊指揮下各艦はトラック泊地に戻った[99][100][101]。 軍令部総長は昭和天皇に戦況を上奏、この中で「航空母艦1隻撃沈確実」と報告すべきところを「航空母艦一隻を撃沈せるものの如きも更に詳細調査中」と訂正して上奏した[102]。
影響[編集]
空戦には勝利を収めたアメリカ機動部隊であったが奇襲が失敗したことは明白となり、燃料の消費も著しかったことから[39][57]、作戦目的であるラバウルへの空襲を中止した[5][103]。機動部隊は撤退行動に移った[103][104]。 しかしアメリカ軍が同方面における行動を断念したわけではなく、ブラウン中将は「今後、ラバウルのような強力な航空基地を攻撃する際には空母2隻以上を必要とし、作戦海域によってはタンカー2隻の追加が必要」とニミッツ提督に意見具申した[47][15]。またハルゼー提督率いる機動部隊(空母エンタープライズ基幹)で[104]、2月下旬以降のウェーク島空襲や南鳥島空襲を実施した[11][105]。つづいて空母2隻(レキシントン、エンタープライズ)により再度のラバウル空襲を予定していたが、3月8日の日本軍ニューギニア島要所2地点(ラエ、サラモア)に対する上陸作戦(ラエ・サラモアの戦い)を受けて[106]、急遽同地点に対する空襲を実施する[105][15]。第六水雷戦隊旗艦「夕張」以下日本軍に大損害を与えた(ラエ・サラモアへの空襲)[107][108]。
本海戦は、戦闘機の掩護のない攻撃隊が大損害を受けることを立証した[75]。奥宮正武(太平洋戦争中第四航空戦隊参謀、第二航空戦隊参謀等)は本海戦について『しかし、この陸攻隊の大きな犠牲は、決して無駄ではなかった。(中略)ラバウルの被空襲を防いだ点からだけでも、伊藤攻撃隊の功績は正しく評価さるべきであろう。』と述べている[75]。南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官は陸攻隊の功績を讃えると共に、基地航空兵力の増強および空母2隻を基幹とする機動部隊の南洋部隊編入を上級司令部に要望した[109]。
日本軍の機動部隊は2月15日にパラオを出航して豪本土ダーウィン空襲に向かうためバンダ海にあり、すぐさま反撃できなかった。日本軍は第24航空戦隊の報告をうけて空母1隻撃沈、艦型不詳1を撃沈、敵戦闘機10機撃墜、味方損害9機との大本営発表を行い[110]、この戦いをニューギニア沖海戦と呼称した[111]。日本側は、被弾した陸攻が敵空母に体当たりして撃沈に追い込んだと宣伝している[4][112]。 井上成美第四艦隊司令長官は「大本営報道部ノ公表ハ貴隊ノ将兵ノ挙ゲタル戦果ニ比シ小(?)モノアルモ右公表如何ニ拘ラズ本職〔中略〕絶大ナル賞(?)ト今後ノ信頼トヲ持スルモノナルコトヲ更メテ言明ス〔後略〕」という所信を述べ、大本営が南洋艦隊の戦果を過小評価し、大本営発表は過小だったと批判した[110]。 連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第24航空戦隊からの戦果報告(誤認)を受けて陣中日誌「戦藻録」に以下のように記述した[113]。
ラボール東北方に出現せる敵は其後沓 として消息を絶てり。二十四航空戰隊の攻撃の成果を寫眞に依り調査するに、サラトガ型に非 ざる空母一隻を轟沈せること確實なりと云ふ。敵避退の行動に鑑 み或は眞ならんと思はる。あれ丈 の飛行機の損害ありたる之位は成果を擧げ得べき筈なり。 — 宇垣纒、戦藻録 86ページ
戦闘序列[編集]
日本軍[編集]
基地航空機(在ラバウル、第24航空戦隊)[44]
- 第4航空隊
- 横浜航空隊ラバウル派遣隊
アメリカ軍[編集]
- 空母 レキシントン
- 重巡 インディアナポリス、サンフランシスコ、ミネアポリス、ペンサコラ
- 駆逐艦 ハル、エイルウィン、バグレイ、ドライトン、パターソン、マクドナー、デウェイ、デラ、フェルプス、クラーク
脚注[編集]
- ^ a b c d e f 戦史叢書14巻78-80頁「レキシントン機動部隊のラバウル空襲」
- ^ a b 戦史叢書38巻440-441頁『横濱空の索敵機、敵発見、触接』
- ^ a b 戦史叢書38巻441頁『聖川丸水偵の触接』
- ^ a b #大東亜戦争記録画報前コマ51(原本94頁)『ニューギニア東北で敵航空母艦撃沈 帝國海軍航空隊の赫々たる戰果|ニューギニア島のラエ及びサラモアに敵前上陸して直に之を占領し、更に戰果を擴大し次いで首都ポートモレスビーを爆撃遂に之を攻略し、ニューギニヤを戡定したが、二月二十一日にはニューギニヤ島の東北海上に於て敵航空母艦を撃沈して赫々たる不滅の大戰果を擧げた。/即ち二月廿一日洋上に巡洋艦驅逐艦に護送せられたる二三の航空母艦を含む有力なる敵艦隊を發見したる帝國海軍航空部隊は機を逸せず敵上空に殺到、敵戰闘機群と壮烈なる空中戰を交へ、その一部は機體もろとも對當りを以て敵航空母艦を大破、大火災を生ぜしめて遂に撃沈し他の軍艦一隻に大損害を與へ、敵戰闘機十機を撃墜した。(以下略)』
- ^ a b c d 戦史叢書80巻177-178頁『米空母機動部隊の機動/ラバウル沖航空戦』
- ^ a b 戦史叢書102巻、108頁「昭和17年(1942年)2月20日/ラバウル沖航空戦(海軍航空部隊、ラバウル東方に米機動部隊を発見し攻撃)」
- ^ 戦史叢書102巻、532頁『(ハ)艦隊区分による主要部隊/南洋部隊』
- ^ 戦史叢書102巻、528頁『第四艦隊』
- ^ 戦史叢書7巻17頁「ラバウルの占領」
- ^ a b 戦史叢書80巻134-136頁『ラバウル攻略作戦決定と攻略』
- ^ a b 戦史叢書35巻、418-419頁『米機動部隊の積極作戦』
- ^ 戦史叢書38巻437頁『日本軍陸上攻撃機、二群に分れて来襲』
- ^ a b #戦藻録(1968)85頁『二月廿日 金曜日 晴 第二段作戰圖上演習。敵機動部隊ラボール來襲。クーパン上陸』
- ^ a b ニミッツの太平洋海戦史41-42頁『太平洋の交通線維持』
- ^ a b c 戦史叢書38巻437頁『ラバウル空襲の断念と次期作戦への準備』
- ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)25-29頁『2.浮かび上がったラバウル』
- ^ 戦史叢書14巻6-7頁「ラバウル攻略の底流」
- ^ a b 写真太平洋戦争2巻77-81頁『ラバウル攻略/井上成美長官の持論』
- ^ 写真太平洋戦争2巻26-31頁『鈴木範樹、機動部隊R作戦を支援』
- ^ a b #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)29-33頁『3.容易だった占領』
- ^ 戦史叢書49巻74-76頁『豪州軍の状況』
- ^ 戦史叢書14巻8-10頁「陸軍部隊の編成」
- ^ a b 戦史叢書35巻、329-331頁『ラバウル攻略』
- ^ 戦史叢書49巻70頁『挿図第五 R攻略作戦各隊行動概要図』
- ^ 戦史叢書102巻、103頁「昭和17年(1942年)1月23日」
- ^ 戦史叢書14巻42-43頁「海軍のカビエン攻略」
- ^ 戦史叢書49巻72-73頁『ラバウル上陸戦/カビエン上陸戦』
- ^ 戦史叢書38巻315頁『ラバウル攻略と同地への進出』
- ^ a b 戦史叢書49巻85-86頁『横濱空大艇隊の作戦』
- ^ 写真太平洋戦争2巻84-87頁『飛行艇隊ラバウルに進出(各写真解説)』
- ^ a b c d 戦史叢書49巻82-83頁『基地航空部隊の進出』
- ^ 戦史叢書14巻46-47頁「航空基地の整備」
- ^ 戦史叢書49巻80-82頁『ラバウル方面航空基地の整備』
- ^ 写真太平洋戦争2巻52-55頁『多賀一史、南海の不沈空母ラバウル』
- ^ a b c 戦史叢書49巻86-88頁『千歳空及び四空の作戦』
- ^ 戦史叢書49巻76-77頁『南洋部隊の作戦指導』
- ^ a b 戦史叢書14巻77-78頁「米機動部隊の策動と戦略的背景」
- ^ 写真太平洋戦争2巻118-124頁『石橋孝夫、米空母機動部隊の反撃』
- ^ a b c 戦史叢書49巻101-102頁『米空母機動部隊の作戦』
- ^ 戦史叢書7巻17-18頁「航空持久戦の端緒」
- ^ 戦史叢書102巻、107頁「昭和17年(1942年)2月15日」
- ^ 高松宮日記4巻107頁『二月十五日(日)雪(略)一四〇〇「シンガポール」英軍降伏申出(一九五〇無条件降伏)』
- ^ 戦史叢書14巻49-51頁「ラバウル攻略の影響」
- ^ a b 写真太平洋戦争2巻113-117頁『阿部安雄、米機動部隊ラバウル空襲ならず』
- ^ 戦史叢書38巻436頁『ウェーク空襲中止とANZAC部隊への編入』
- ^ 戦史叢書38巻436頁『真珠湾からの船団護衛』
- ^ a b c 写真太平洋戦争2巻122-123頁(空襲経過)
- ^ a b 戦史叢書38巻437頁『二十一日早朝のラバウル空襲企図』
- ^ 戦史叢書38巻429頁『モートロックに現われた国籍不明駆逐艦』
- ^ a b c 戦史叢書38巻429頁『情報の入手と警戒措置下令』
- ^ a b 戦史叢書49巻88-89頁『警報の発令』
- ^ a b 戦史叢書38巻440頁『南洋部隊航空部隊司令部の作戦指導』
- ^ a b 戦史叢書38巻429頁『在トラック部隊の警戒解除と航空部隊の索敵』
- ^ a b c d e 戦史叢書49巻89-90頁『米機動部隊の発見と陸攻隊の発進』
- ^ a b c d e 戦史叢書38巻430頁『坂井機の敵発見報告と攻撃命令の下令』
- ^ a b c #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)40頁『2.九六陸攻隊進出直後の試練』
- ^ a b c d e f g h i j k l m 写真太平洋戦争2巻114-117頁(戦闘経過)
- ^ a b 戦史叢書38巻437頁『日本軍四発飛行艇の発見撃墜』
- ^ 高松宮日記4巻130-131頁『○第四艦隊(八四九=二〇-一一〇〇)作九四号』
- ^ 高松宮日記4巻131-132頁『○第四艦隊(八五四=二〇-一四三〇)作九七号 航空部隊指揮官ハ「マーシャル」ニアル大型機大部及トラック所在四空兵力ヲ併用、東方ノ敵艦隊ヲ捕捉撃滅スベシ』
- ^ 戦史叢書38巻441-442頁『在マーシャル、在トラックの陸攻隊の行動』
- ^ a b c d 戦史叢書38巻432頁『第四航空隊伊東隊の敵発見報告』
- ^ a b 戦史叢書38巻441頁『第四航空隊の攻撃』
- ^ 高松宮日記4巻129頁『○二月二十日 24航戦飛行機配備』
- ^ #祥鳳日誌(3)p.21『一五日〇九三〇第四航空隊所属零式戰斗機七機ヲ発』
- ^ #祥鳳日誌(3)p.3『○二月十三日 第四航空隊所属戰斗機空輸任務ヲ帯ビ「トラツク」發同十五日「ラバウル」ノ北方一五〇浬ノ地点ニテ飛行機ヲ發艦空輸シ任務ヲ了ヘ二月十六日「トラツク」ニ皈投ス』
- ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)39-40頁
- ^ a b 戦史叢書38巻431-432頁『「祥鳳」のトラック南方海面への待機』
- ^ 高松宮日記4巻132頁『○第二十四航空戦隊(六一四=二〇-一一〇〇)』
- ^ 高松宮日記4巻132頁『○第第二十四航空戦隊(六一三=二〇-一〇〇〇)』
- ^ 戦史叢書38巻432頁『聖川丸敵針路誤報』
- ^ a b c #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)42頁
- ^ #S1612聖川丸(5)pp.10-11『(ロ)二月二十日「モートロック」見張所ヨリ国籍不明ノ駆逐艦ラシキモノ見ユノ報ニヨリ之ガ索敵ノタメ零式水偵一機ヲ派遣セシガ〇九三〇頃浜空大艇敵ノ大部隊発見ノ報ニ一二三〇零式水偵一機ヲ索敵触接ノ爲RRノ六二度四七〇哩ニ発進セシム 本水偵ハ敵主力ヲ発見之ニ巧妙ナル触接ヲナシ有効ナル無電報告ヲナス處アリシモ皈途二二四〇以後行方不明トナル』
- ^ a b c d e f g h 戦史叢書49巻91-92頁『陸攻隊の戦闘』
- ^ a b c #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)43頁
- ^ #S1612聖川丸(5)p.31『二.二十 曇|敵機動部隊索敵触接|松江飛曹長|零水一機|聖川丸|九 五〇〇 二〇粁|ナシ|燃料一二〇〇主|自一二三〇至二二四〇?敵艦隊発見触接{行方不明皈還セズ|ナシ』
- ^ 戦史叢書38巻434頁『戦果報告』
- ^ #S1612第六戦隊日誌(2)p.4『(ロ)敵軍ノ情勢 一日早朝航空母艦及巡洋艦等ヲ基幹トスル敵機動部隊「マーシャル」諸島ニ来襲ノ報アリシモ敵機動部隊ハ逸早ク避退爾後消息不明ノ処再ビ十九日「モートロック」監視所ラシキ駆逐艦ヲ發見次デ二十日「ラボール」ノ東北東ニ敵機動部隊現レ我R方面航空部隊ハ之ヲ「ラボール」ノ七五度四六〇浬ノ海面ニ於テ捕捉攻撃シ空母一ヲ撃沈其ノ他二損傷ヲ與ヘタリ 更ニ二十六日頃「ハワイ」ヲ出撃セル他ノ敵機動部隊ハ二十四日突如「ウエーク」ヲ襲撃セシガ之ヲ撃退セリ(以下略)』
- ^ 高松宮日記4巻129頁『○第二十四航空戦隊(六五一=二二-二一二五)』-『(第四艦隊(八八九=二三-〇一〇〇)仝文)(六六〇=二三-一五〇〇)「ヌガーバ」島不時着皈還セル搭乗員ノ報告ニ依リ次ノ如ク訂正ス。一、第二十四航空戦隊六五一電中「航空母艦三(内一ハ戦艦ノ疑アリ)」ヲ「航空母艦二」ニ「他ニ艦型不明ナル一艦撃沈」ヲ追加ス。』
- ^ #第24航空戦隊ラエ(1)pp.1-2『「サラトガ」型及「ワスプ」型空母ヲ基幹トスル敵ノ南方部隊ハ二月二十日「ソロモン」諸島北東海面ニ於テ我哨戒機ノ發見スル所トナリ「ワスプ」型ヲ撃沈セラレ敵ハ機動ノ目的ヲ放棄シ再ビ豪州方面ニ退避スルガ如シ』
- ^ 高松宮日記4巻131-132頁『○第四艦隊(八六三=二一-〇〇五八受明廿一日』
- ^ 戦史叢書38巻431頁『主隊のトラック出撃とSR作戦延期下令』
- ^ 高松宮日記4巻131頁『○第四艦隊(二〇-一三一五)主隊ハ「鹿島」・「沖島」ハ一五三〇南水道ヨリ出撃Co.215°Sp.12kt』
- ^ a b 戦史叢書38巻445頁『南洋部隊主隊の行動』
- ^ #S1702十九戦隊日誌(1)p.23『別紙第三 第十九戰隊(二番艦以下欠)行動圖 自二月二十日至二月二十三日』
- ^ #S1702十九戦隊日誌(1)p.50『二十日第六戰隊司令官|二十日一三〇〇第六戰隊 第十八戰隊司令官〔第四艦隊司令長官 第十九戰隊司令官 第四根拠地隊司令官〕|出港時刻一三三〇ニ改ム 出港順序 六戰隊十八戰隊一四三〇 二十節即時 二十四節 三〇分 最大戰速一時間待機トナセ』
- ^ #S1612第六戦隊日誌(2)pp.5-6『(2)作戰行動ノ概要』
- ^ a b 戦史叢書38巻446-448頁『第六戦隊、第十八戦隊および第二十三駆逐隊』
- ^ #S1702十八戦隊日誌(1)p.9『(ル)十九日第十八戰隊PT着機銃換装工事ニ着手セル處二十日〇九一五浜空哨戒機RRノ七五度四六〇浬ニ於テ敵大部隊ヲ發見セルニ依リ一旦工事ヲ中止シ南洋部隊電令作第九七號支援部隊電令作第一號及第二號ニ依リ第六戰隊ト共ニP.T出撃敵ヲ索メテ南下ス』
- ^ #第4艦隊日誌(1)p.22-24『(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)』
- ^ #S1702十八戦隊日誌(1)p.9『(オ)二十一日第六水雷戰隊第二十三駆逐隊ト合同支援部隊集結ス』
- ^ 戦史叢書38巻449-450頁『第六水雷戦隊』
- ^ #祥鳳日誌(3)p.3『○二月十八日 本艦戦斗機補充竝ニ基地訓練ノ爲「トラツク」發「パラオ」ニ向ケ廻航中二月二十日敵機動部隊「ラバウル」東方海面ニ出現スルヤ命ニ依リ急遽反転二月二十二日「トラツク」南東海面ニ到達同日〇五〇〇支援部隊指揮官ノ指揮下ニ入リ作戰ス 同日夕刻的機動部隊ノ敗走後支援部隊指揮官ノ指揮ヲ解カレ再ビ前記任務ヲ以テ「パラオ」ニ廻航中…』
- ^ #鉄底海峡45-46頁
- ^ 戦史叢書38巻432-433頁『二十一日の索敵攻撃と二十二日の作戦要領下令』
- ^ #S1612聖川丸(5)p.11『(前略)二十一日早朝更ニ零式水偵二機ヲ「ラバウル」ノ五〇度及三七度方向ニ四七〇哩ノ索敵ヲ實施セシメタルモ内一機ハ「ラバウル」ノ五一度一一四哩附近ニ不時着午后本艦ニ依リ人員ノミ揚収セリ 他ノ一機ハ全航敵ヲ見ズ 行方不明機ノ捜索ニ万般ノ手段ヲ盡クセルモ遂ニ発見セズ』
- ^ #戦藻録(1968)86頁『二月廿一日 土曜日 晴 上天氣』
- ^ #S1612聖川丸(5)pp.12-13『(三)敵軍ノ實況 米機動部隊ノ來襲三回ニ及ビ各回トモ相當ノ損害ヲ與ヘタルモ其ノ后退却巧妙ニシテ何レモ之ヲ捕捉撃滅スルニ至ラズ其ノ后ノ消息詳ナラズ 「ラバウル」ニ来襲スル敵機ハ上旬頃ハ其ノ行動緩慢ナリシモ下旬ニハ其ノ行動極メテ巧妙トナリ常ニ急襲避退スルヲ常トセリ』
- ^ #S1702十八戦隊日誌(1)pp.9-10『(ワ)航空部隊觸接ヲ失シ各部隊二十日夜ヨリ二十一日ニ亘リ索敵セルモ敵情ヲ得サリシヲ以テ二十一日一二〇〇反轉針路概ネ六〇度ニテ索敵シツツ北上 二十二日総長P.Tヲ空襲スルコトアルベキ敵ニ備へ「ナチツク」島南方海面迄索敵行動セルモ遂ニ敵情ヲ得ズ南洋部隊電令作第一〇一號及支援部隊信令第六五號ニ接シP.Tニ回航ス』
- ^ #S1702十九戦隊日誌(1)p.7『(2)「R」東方海面ニ出現セル敵機動部隊邀撃ノ爲第四艦隊司令長官直率ニテ二十日一五三〇「トラツク」南方海面ニ出撃二十三日〇八〇〇「トラツク」ニ入泊』
- ^ #祥鳳日誌(3)p.3『…二月二十四日「ウエイキ」島附近ニ來龍セル敵機動部隊ニ對處スベク命ニ依リ再度反転「トラツク」南西方海面ニ急行中「トラツク」ニ入泊同地ニリテ訓練ニ従事スベキ旨発令アリ 二月二十六日「トラツク」着爾後同地ニ在リテ警戒碇泊飛行機隊ノ基地訓練ヲ實施シツツアリ』
- ^ 戦史叢書38巻434頁『控え目の戦果の上奏』
- ^ a b 戦史叢書38巻435頁『二月二十日ラバウル東方海面に出現の敵機動部隊に対する作戦経過図』
- ^ a b #太平洋の試練(上)346頁
- ^ a b ニミッツの太平洋海戦史43頁
- ^ 戦史叢書102巻、111頁「昭和17年(1942年)3月8日」
- ^ 戦史叢書102巻、111頁「昭和17年(1942年)3月10日」
- ^ #戦藻録(1968)92-93頁『三月十日 火曜日 半晴 朝霧深し 米機動部隊ラエ、サラモア來襲』
- ^ 戦史叢書38巻433-434頁『たたえられた二十日の戦闘と兵力増強の要望』
- ^ a b 戦史叢書38巻434頁『大本營発表と現地部隊の批判』
- ^ #Z旗高くp.17『大本營發表(昭和十七年二月二十六日 帝國海軍航空隊は二月二十日ニューギニヤ島東北方数百浬の洋上に航空母艦を含む有力なる敵部隊を發見、機を逸せず敵上空に殺到、敵戰闘機群と壮烈なる空中戰闘を交へ、その一部は猛然機體もろとも體當りを以て敵航空母艦を大破、大火災を生ぜしめ他軍艦一隻にも大損害を與へ、敵戰闘機十機を撃墜せり、本攻撃に於て我が方未だ還らざるもの九機なり。』
- ^ #海軍航空戦記(1)コマ90-91(原本158-160頁)『指揮官機、敵空母に自爆』
- ^ #戦藻録(1968)86頁『二月廿二日 日曜日 曇後雨』
- ^ 戦史叢書14巻80頁の損害では、陸攻14機喪失・不時着2機とする。
- ^ 戦史叢書14巻80頁の損害では、飛行艇2喪失とする。
参考文献[編集]
- 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
- 奥宮正武 『ラバウル海軍航空隊』 学習研究社、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6。
- 高橋雄次 『鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記』 光人社NF文庫、1994年10月(原著1967年)。ISBN 4-7698-2062-3。
- 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第四巻 昭和十七年一月一日〜昭和十七年九月三十日』 中央公論社、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X。
- イアン・トール著、村上和久 「第六章 不意を打たれるのはお前だ」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで』 文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376420-7。
- チェスター・ニミッツ/E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳 『ニミッツの太平洋海戦史』 恒文社、1962年12月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦』第7巻、朝雲新聞社、1967年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<1> ポートモレスビー・ガ島初期作戦』第14巻、朝雲新聞社、1968年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 大本營陸軍部<3> 昭和十七年四月まで』第35巻、朝雲新聞社、1970年6月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(1) 昭和17年5月まで』第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊(2) ―昭和17年6月まで―』第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。
- 『写真 太平洋戦争<第二巻> 中部・南部太平洋方面攻略作戦 蘭印攻略作戦/インド洋作戦』 雑誌「丸」編集部、光人社〈光人社NF文庫〉、1995年1月。ISBN 4-7698-2071-2。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍航空本部編、「ニューギニヤ北東方面作戰」 『海軍航空戦記. 第1輯』 興亜日本社、1944年8月。
- 英文大阪毎日学習号編輯局編、「第二編 第五章 反攻敵機動部隊に対する作戦」 『大東亜戦争記録画報. 前篇』 大阪出版社、1943年6月。
- 大本営海軍報道部編 「海軍報道班員 天藤明『ニューギニア上陸と珊瑚海漂流記』」『Z旗高く:四人の報道班員の手記』 実業之日本社、1943年5月。 天藤(従軍記者)はニューギニア沖海戦時、ラバウル基地で取材中
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和16年12月1日〜昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030018200。
- 『昭和16年12月1日〜昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030045400。
- 『昭和17年2月1日〜昭和17年3月31日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030059100。
- 『昭和17年2月1日〜昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030068100。
- 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030580700。
- 『昭和16年12月14日〜昭和17年3月17日 聖川丸戦闘詳報ウ島作戦に於ける作戦 PR作戦 搭乗員表(5)』。Ref.C08030645700。
- 『南洋部隊基地航空部隊戦闘詳報 第24航空戦隊戦闘詳報 昭和17年3月10日 「ラエ」方面に於ける敵の機動に対する作戦/1 形勢』。Ref.C13120108000。
関連項目[編集]
- ラバウル
- マーシャル・ギルバート諸島機動空襲
- ラエ・サラモアへの空襲
- 大本営発表
- 台湾沖航空戦 - 被弾航空機の火焔が、敵艦撃沈誤認に繋がる。