迅鯨 (潜水母艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
迅鯨
艦歴
計画 1920年度(八八艦隊案
起工 1922年2月16日
進水 1923年5月4日
就役 1923年8月30日竣工
喪失 1944年10月10日戦没
除籍 1944年11月10日
性能諸元 (竣工時)
排水量 基準:5,160英トン
公試:7,678トン
全長 125.4m
全幅 水線幅:16.215m
吃水 6.283m
機関 ロ号艦本式缶6基
パーソンズ式ギアードタービン2基
2軸 7,500馬力
速力 16ノット(計画)[1]
航続距離 10,400カイリ / 14ノット
燃料 石炭:402トン
重油:2,047トン[2]
乗員 364名
兵装 50口径三年式14cm連装砲2基
40口径三年式7.6cm単装高角砲2基
航空機 水上偵察機1機(1930年以降)[3]
その他 補給用重油:1,900トン
予備魚雷40本[4]

迅鯨(じんげい)は、大日本帝国海軍潜水母艦迅鯨型潜水母艦の1番艦。

概要[編集]

軍艦(ぐんかん)迅鯨(じんげい)は、日本海軍が三菱長崎造船所で建造した潜水母艦[5]。廃艦になった加賀型戦艦2番艦土佐の機関部を流用し[6]1923年(大正12年)8月に水雷母艦として竣工した(翌年12月、潜水母艦に類別変更)[7]。 姉妹艦長鯨と共に、日本海軍が最初に保有した本格的潜水母艦である[8][9]。 昭和時代に伊一型潜水艦などの大型潜水艦が充実すると能力不足が顕著となり[8]1939年(昭和14年)以降は新型潜水母艦の大鯨剣埼に潜水母艦と潜水戦隊旗艦を譲る[9][10]。2隻(迅鯨、長鯨)とも練習艦や工作艦になった[6]。だが大鯨が空母龍鳳[11]、剣埼が空母祥鳳に改造され[12]、迅鯨・長鯨とも再び潜水戦隊旗艦に返り咲いた。

太平洋戦争開戦時の迅鯨は、第四艦隊麾下の第七潜水戦隊旗艦であった[13]1942年(昭和17年)7月14日、第七潜水戦隊は新編の第八艦隊に編入され、本艦もラバウルに進出した[7]1943年(昭和18年)1月、第七潜水戦隊旗艦を長鯨に譲り[14]、迅鯨は内地に帰投[7]。呉鎮守府練習潜水隊に所属し、瀬戸内海で練習艦として過ごした[7]。同年末には長鯨も内海西部に帰投し、共に練習艦任務に従事した[14]

1944年(昭和19年)になると、迅鯨型も輸送任務に投入された[14][6]。9月19日、迅鯨は沖縄方面輸送作戦に米潜水艦の雷撃を受けて大破[7]沖縄本島本部半島西端沖の瀬底島で係留中、米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没した(十・十空襲[7]

艦歴[編集]

建造経緯[編集]

日露戦争第一次世界大戦当時の潜水艦潜水艇)は限定された能力しか持たず、居住空間も含め、常に母艦の支援を必要とした[9][10]。しかし日本海軍の潜水母艦(潜水艇母艦)や潜水戦隊旗艦は、輸送船や旧式海防艦・巡洋艦改造の艦艇ばかりだった[9][10]。迅鯨型は日本海軍最初の本格的潜水母艦であり[9]、艦隊に随伴可能な速力と航洋性、特設巡洋艦や駆逐艦程度に対抗可能な戦闘力、旗艦としての通信能力、補給能力、母艦としての居住性能、簡易工作艦能力を併せ持った多用途艦である[10][15]。また訓練時には仮想敵としてメリーランド級戦艦などと仮定されることもあった[9]。 なお日本海軍の本格的潜水母艦は、大鯨が竣工するまで迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)しかなかった[16]。これは有事には大型貨客船を潜水母艦に充当する予定であり、平時では艦隊訓練用に2隻あれば充分だったからである[16]

迅鯨型2隻は、八八艦隊案の水雷母艦として計画された[5]ワシントン軍縮条約により八八艦隊は建造中止となったが、迅鯨型は軍縮化の新軍備計画の一部として建造されることになった[5]。また民間技術者と建造能力維持のため、2隻(迅鯨、長鯨)とも三菱長崎造船所での建造になった[15]。この際、軍縮下で建造費を節約するため、八八艦隊主力艦用として製造されていたボイラー(艦本式ロ号混燃罐)を流用した[15]。当初計画では、迅鯨のボイラー6基は天城型巡洋戦艦4番艦高雄用のものを流用予定だった[17]

迅鯨は1923年(大正12年)8月末、水雷母艦として竣工[7]佐世保鎮守府籍となった。

太平洋戦争以前[編集]

1924年(大正13年)12月1日の改訂で水雷母艦の類別は潜水母艦と変更され迅鯨もそのまま移行、名実共に潜水母艦となった。同日に第一艦隊麾下の第一潜水戦隊に編入され、同隊は旗艦〈北上〉、母艦〈迅鯨〉、第6潜水隊、第24潜水隊、第26潜水隊となった[18]。 主に中国方面で活動した。

昭和に入り伊号潜水艦(巡潜型)や海大潜が潜水戦隊の主力となると[19]、呂号潜水艦の潜水戦隊旗艦・母艦を想定していた迅鯨型では能力不足となった[10][20]。海大潜の水上速力は20ノットを越えていたのである[19]。 このため潜水戦隊旗艦には5,500トン型巡洋艦(軽巡由良鬼怒など)や新型潜水戦隊用巡洋艦(大淀型)が配備もしくは建造された[8][10]。また迅鯨型の艦齢15年を超え、旧式化も顕著になった。 新鋭潜水母艦の大鯨[20]剣埼[21]が相次いで竣工すると、1939年(昭和14年)11月より練習艦となった。航海学校(運用術練習艦)、兵学校、機関学校生徒用の練習艦として重宝される[22]。また日中戦争では工作艦としても利用されたという[6]

しかし新鋭潜水母艦3隻(大鯨、剣埼、高崎〈未完成、のちの瑞鳳〉)は有事の際に空母へ改造する予定であり[16][21]、実際に軽空母へ改造される[23]。新鋭潜水母艦の空母改装により、迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)は翌年11月から再び潜水戦隊旗艦に戻ることとなる。さらに事前の予定どおり、大型貨客船を徴傭して特設潜水母艦とした[16][10]

太平洋戦争[編集]

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時、迅鯨は第四艦隊(司令長官井上成美中将、旗艦「鹿島」)麾下の第七潜水戦隊旗艦であった[7][13]呂六十型潜水艦9隻(第26潜水隊、第27潜水隊、第33潜水隊)と共にクェゼリンに進出し、潜水艦作戦の支援を行った[24]。第七潜水戦隊司令官として迅鯨に将旗を掲げていた大西新蔵少将は、呂六〇型潜水艦の艦内環境は最悪で、南洋での長期行動には堪えられなかったと回想している[25]。また迅鯨乗組員の錬度も低く、前任が戦艦長門の艦長だった大西少将は「潜水艦育ちの人達には、凡そ縁遠い訓練なるが如く、司令官自ら砲戦を主宰するの要なり」と苛立っていた[26]

1942年(昭和17年)2月1日に米空母ヨークタウンエンタープライズマーシャル諸島を空襲した際には、トラック泊地に停泊しており無事だった[27]。その後、迅鯨は日本に戻り、4月18日のドーリットル空襲横浜浅野ドックで迎えた[28]。迅鯨に被害はなかった。5月2日に横須賀を出港、5月9日トラック泊地に進出する[29]

7月14日、日本海軍は第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、旗艦「鳥海」)を新編する。第七潜水戦隊は第四艦隊から第八艦隊に編入された[7]。迅鯨は8月13日にラバウルニューブリテン島)へ進出、作戦支援を行った[7]

1943年(昭和18年)1月13日、呉に帰投[7]。1月15日、第七潜水戦隊旗艦は長鯨変更され、同艦はラバウルに進出した[7]。迅鯨は呉鎮守府練習潜水隊に編入され[7]海軍潜水学校練習艦として瀬戸内海での訓練に従事した[6]。 同年末には長鯨も瀬戸内海に帰投し、共に練習艦任務に従事した[14]

1944年(昭和19年)8月より、迅鯨型(迅鯨、長鯨)は沖縄方面への輸送任務に就くこととなった[7][14]南西諸島方面とを往復する。同年9月19日、迅鯨は佐世保港を出港し那覇に向かったが潜水艦の雷撃により航行不能となる[7]沖縄本島西の瀬底島まで曳航されたが、10月10日にアメリカ第38任務部隊による十・十空襲に遭遇して沈没した(水深10メートル)[6]

船体は1952年(昭和27年)2月17日からサルベージ作業を開始、7月7日に浮揚[6]。9月1日に門司到着、その後北九州で解体された[6]。解体に先立ち、菊花御紋章は厚生省復員局に還納の上、靖国神社へ奉納された[6]

兵装の変遷[編集]

航空機は1930年(昭和5年)度より一四式水上偵察機を1機搭載した。射出機は搭載されず、デリックで水上に降ろして運用していた。1940年(昭和15年)ころには九四式水上偵察機を搭載していたらしい[3]

8cm高角砲2基は1940年(昭和15年)ころ25mm機銃連装2基と交換された。大戦中の機銃増備は明らかでないが艦橋前に25mm機銃連装2基、その他同単装機銃10挺を増備していたとされる[30]。また21号電探が前部マストのトップに装備された。

艦歴[編集]

  • 1922年(大正11年)2月16日 三菱長崎造船所にて起工。
  • 1923年(大正12年)5月4日 進水。
  • 1924年(大正13年)12月1日 潜水母艦に艦種変更、第1艦隊第1潜水戦隊旗艦となる。
  • 1933年(昭和8年)11月15日 第2艦隊第2潜水戦隊旗艦。
  • 1934年(昭和9年)11月15日 予備艦となる。この時に復元性向上のための改装を受けたと推定される。
  • 1935年(昭和10年)11月15日 第1艦隊第1潜水戦隊旗艦。
  • 1936年(昭和11年)12月1日 第2艦隊第2潜水戦隊旗艦。
  • 1937年(昭和12年)12月1日 第1艦隊第1潜水戦隊旗艦。
  • 1938年(昭和13年)9月15日 第5艦隊付属第2根拠地隊。
    • 12月15日 予備艦になる。
  • 1939年(昭和14年)6月1日 横須賀鎮守府籍へ転籍。
    • 11月15日 練習艦になる。
  • 1940年(昭和15年)11月15日 第4艦隊第7潜水戦隊旗艦となる。
  • 1941年(昭和16年)12月8日 開戦時はクェゼリンで作戦支援。
    • 12月29日 座礁した呂60の乗員を救助。
  • 1942年(昭和17年)7月14日 第8艦隊第7潜水戦隊に編入。以降ラバウル方面へ進出。
  • 1943年(昭和18年)1月15日 呉鎮守府部隊に編入。海軍潜水学校練習艦となり訓練に従事。
    • 10月16日から19日 航行不能の間宮の救助作業にあたり、呉まで曳航する。
    • 12月1日 呉潜水戦隊に編入される。
  • 1944年(昭和19年)8月11日 呉港を出港し南西諸島方面の輸送作戦に従事
    • 9月19日 4回目の輸送作戦で佐世保から那覇へ向かう途中、潜水艦の雷撃を受け航行不能、沖縄本島へ曳航される。
    • 10月10日 沖縄本島西岸の瀬底島付近で敵機の攻撃を受け沈没(十・十空襲)。
    • 11月10日 除籍。
  • 1952年(昭和27年)2月17日 浮揚作業開始。
    • 7月7日 浮揚。
    • 9月6日 北九州市戸畑港に回航され解体着手[6]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』195-197頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 神代護次 大佐:1923年5月1日 - 1923年8月30日[31]

艦長[編集]

  1. 神代護次 大佐:1923年8月30日[31] - 1924年12月1日
  2. 高崎親輝 大佐:1924年12月1日 - 1925年10月20日
  3. 瀧田吉郎 大佐:1925年10月20日 - 1926年11月1日
  4. 小森吉助 大佐:1926年11月1日 - 1927年11月15日
  5. 和波豊一 大佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日
  6. 河村重幹 大佐:1928年12月10日 - 1929年10月3日[32]
  7. 出光万兵衛 大佐:1929年10月3日 - 1929年11月30日
  8. 寺本武治 大佐:1929年11月30日 - 1930年11月15日
  9. 大崎義雄 大佐:1930年11月15日 - 1931年11月14日
  10. 小松輝久 大佐:1931年11月14日 - 1932年12月1日
  11. 鋤柄玉造 大佐:1932年12月1日 - 1933年10月20日
  12. 樋口修一郎 大佐:1933年10月20日 - 1934年10月9日[33]
  13. 加藤正 大佐:1934年10月9日 - 1934年10月22日
  14. 樋口修一郎 大佐:1934年10月22日 - 1935年11月15日
  15. 蓑輪中五 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  16. 岡敬純 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
  17. 古宇田武郎 大佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日
  18. 山崎助一 大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日
  19. 渡辺清七 大佐:1939年11月15日 - 1940年10月19日
  20. 佐藤四郎 大佐:1940年10月19日 - 1942年4月20日
  21. 大倉留三郎 大佐:1942年4月20日 -
  22. 佐藤敬三 大佐:1943年9月8日 -
  23. 大山豊次郎 大佐:1944年2月5日 -

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 計画では16ノットだが実際には18ノット近く出たとされる(『海軍艦艇史 3』p270。
  2. ^ 『海軍艦艇史 3』の巻末表による。
  3. ^ a b 航空機の搭載時期については『写真 日本の軍艦 第13巻』p95から「1930年より搭載」とした。『海軍艦艇史3』の巻末表によると「1928年より搭載」。
  4. ^ #海軍生活放談482頁
  5. ^ a b c 日本潜水艦物語230-231頁『迅鯨型(迅鯨、長鯨)』
  6. ^ a b c d e f g h i j 日本潜水艦物語234-235頁〔迅鯨型運用〕
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 補助艦艇奮戦記168頁『迅鯨(じんげい)』
  8. ^ a b c 日本潜水艦物語44-45頁
  9. ^ a b c d e f 日本潜水艦物語48-51頁『潜水母艦と後方支援』
  10. ^ a b c d e f g 日本潜水艦物語219-221頁『わが潜水母艦の諸特長』
  11. ^ 補助艦艇奮戦記169頁『大鯨(たいげい)』
  12. ^ 補助艦艇奮戦記169頁『剣埼(つるぎざき)』
  13. ^ a b 日本潜水艦物語46-47頁〔太平洋戦争開戦時潜水戦隊一覧〕
  14. ^ a b c d e 補助艦艇奮戦記168-169頁『長鯨(ちょうげい)』
  15. ^ a b c 日本潜水艦物語231-233頁〔迅鯨型特長〕
  16. ^ a b c d 日本特設艦船物語101-10103頁『特設潜水母艦』
  17. ^ #造機部長会議1(2)pp.7-9『新造中止艦ヨリ利用シ得ベキモノ(大正一一.三.一九調)』
  18. ^ 日本潜水艦物語43頁〔大正十五年度潜水戦隊〕
  19. ^ a b 日本潜水艦物語78-81頁『世界に冠たる海大潜』
  20. ^ a b 日本潜水艦物語235-237頁『大鯨』
  21. ^ a b 日本潜水艦物語247-249頁
  22. ^ 日本潜水艦物語249-250頁『新計画(昭和十七年立案のマル五計画)の潜水母艦』
  23. ^ 日本潜水艦物語239-240頁
  24. ^ #海軍生活放談473頁
  25. ^ #海軍生活放談477頁
  26. ^ #海軍生活放談479頁
  27. ^ #海軍生活放談482頁
  28. ^ #海軍生活放談489頁
  29. ^ #海軍生活放談491頁
  30. ^ 『写真 日本の軍艦 第13巻』p96による。
  31. ^ a b 『官報』第3327号、大正12年9月1日。
  32. ^ 『官報』第831号、昭和4年10月5日。
  33. ^ 『官報』第2335号、昭和9年10月11日。

参考文献[編集]

  • 大西新蔵 『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。
    大西は第七潜水戦隊司令官として、1941年8月11日「迅鯨」に着任、1942年7月14日転出。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 寺崎隆治ほか 『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』 潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1
    • (164-287頁)戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争/潜水母艦(六隻)
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』KKベストセラーズ、1982年。 ISBN 4-584-17023-1
  • 福井静夫 「第三部 日本海軍の潜水母艦」『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本潜水艦物語』第9巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、1994年12月。ISBN 4-7698-0657-4
  • 福井静夫 「第五章 特設水雷母艦、特設掃海母艦および特設潜水母艦」『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本特設艦船物語』第11巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、2001年4月。ISBN 4-7698-0998-0
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0463-6

関連項目[編集]