迅鯨 (潜水母艦)
| 艦歴 | |
|---|---|
| 計画 | 1920年度(八八艦隊案) |
| 起工 | 1922年2月16日 |
| 進水 | 1923年5月4日 |
| 就役 | 1923年8月30日竣工 |
| 喪失 | 1944年10月10日[1] |
| 除籍 | 1944年11月10日 |
| 性能諸元 (竣工時) | |
| 排水量 | 基準:5,160英トン 公試:7,678トン |
| 全長 | 125.4m |
| 全幅 | 水線幅:16.215m |
| 吃水 | 6.283m |
| 機関 | ロ号艦本式缶6基 パーソンズ式ギアードタービン2基 2軸 7,500馬力 |
| 速力 | 16ノット(計画)[2] |
| 航続距離 | 10,400カイリ / 14ノット |
| 燃料 | 石炭:402トン 重油:2,047トン[3] |
| 乗員 | 364名 |
| 兵装 | 50口径三年式14cm連装砲2基 40口径三年式7.6cm単装高角砲2基 |
| 航空機 | 水上偵察機1機(1930年以降)[4] |
| その他 | 補給用重油:1,900トン 予備魚雷40本[5] |
迅鯨(じんげい)は、大日本帝国海軍の潜水母艦[6]。 迅鯨型潜水母艦の1番艦[7]。 艦名は鯨の別名で[8]、日本海軍の軍艦としては迅鯨 (初代)に続いて2代目[8][9]。
目次
概要[編集]
迅鯨(じんげい)は[10][11]、日本海軍が三菱長崎造船所で建造した潜水母艦[12][13]。 廃艦になった八八艦隊の戦艦や巡洋戦艦の機関部を流用し[14]、1923年(大正12年)8月30日に水雷母艦として竣工した[9][15](翌年12月1日、潜水母艦に類別変更)[16][17]。 姉妹艦長鯨と共に、日本海軍が最初に保有した本格的潜水母艦である[18][19]。
昭和時代に伊一型潜水艦などの大型潜水艦が充実すると能力不足が顕著となり[18][20]、1938年(昭和13年)以降は新型潜水母艦の大鯨や剣埼に潜水戦隊旗艦を譲り[19][21]、長鯨とともに練習艦[22]や工作艦[14]になった。 だが大鯨が空母龍鳳に[23]、剣埼が空母祥鳳に改造されたため[24]、迅鯨・長鯨とも再び潜水戦隊旗艦に返り咲いた[22]。1940年(昭和15年)11月15日、迅鯨は第四艦隊麾下の第七潜水戦隊旗艦となった[25]。
太平洋戦争開戦時の迅鯨は、引続き第四艦隊麾下の第七潜水戦隊旗艦であった[26]。1942年(昭和17年)7月14日、第七潜水戦隊は新編の第八艦隊に編入され[27]、本艦もラバウルに進出した[17]。 1943年(昭和18年)1月上旬、迅鯨は内地に帰投する[17]。1月15日より第七潜水戦隊旗艦を長鯨に譲り[28][29]、以後は瀬戸内海で潜水艦部隊の練習艦として過ごした[17][22]。同年末には長鯨も内海西部に帰投し、共に練習艦任務に従事した[28]。
1944年(昭和19年)になると、迅鯨型も輸送任務に投入された[28][14]。9月19日、迅鯨は沖縄方面輸送作戦に従事中、米潜水艦の雷撃を受けて大破する[17][30]。沖縄本島の本部半島西端沖の瀬底島で係留中、10月中旬に米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没した[22][31](十・十空襲)[32]。
艦歴[編集]
建造経緯[編集]
日露戦争~第一次世界大戦当時の潜水艦(潜水艇)は限定された能力しか持たず[19]、居住空間も含め、常に母艦の支援を必要とした[21][33]。 しかし日本海軍の潜水母艦(潜水艇母艦)や潜水戦隊旗艦は、輸送船や旧式海防艦・巡洋艦改造の艦艇ばかりだった[6][21]。迅鯨型は日本海軍最初の本格的潜水母艦であり[19][20]、艦隊に随伴可能な速力と航洋性、特設巡洋艦や駆逐艦程度に対抗可能な戦闘力、旗艦としての通信能力、補給能力、母艦としての居住性能、簡易工作艦能力を併せ持った多用途艦である[21][34]。また訓練時には仮想敵としてメリーランド級戦艦などと仮定されることもあった[19]。 なお日本海軍の本格的潜水母艦は、大鯨が竣工するまで迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)しかなかった[35]。これは有事には大型貨客船を潜水母艦に充当する予定であり[20]、平時では艦隊訓練用に2隻あれば充分だったからである[35]。
迅鯨型2隻は、八八艦隊案の水雷母艦として計画された[22][12]。ワシントン軍縮条約により八八艦隊は建造中止となったが、迅鯨型は軍縮化の新軍備計画の一部として建造されることになった[12]。また民間技術者と建造能力維持のため、2隻(迅鯨、長鯨)とも三菱長崎造船所での建造になった[34]。この際、軍縮下で建造費を節約するため、八八艦隊主力艦用として製造されていたボイラー(艦本式ロ号混燃罐)を流用した[34]。当初計画では、迅鯨のボイラー6基は天城型巡洋戦艦4番艦高雄用のものを流用予定だった[36]。
迅鯨は1921年(大正10年)2月17日、日本海軍は建造予定の水雷母艦を迅鯨(ジンゲイ)と命名する[11]。 3月3日、迅鯨を水雷母艦に類別した[20][37]。 1922年(大正11年)2月16日、三菱長崎造船所で起工[22][1]。 1923年(大正12年)5月4日、進水[22][38]。 8月30日、水雷母艦として竣工した[22][39]。 佐世保鎮守府籍となった。10月1日、第一艦隊麾下の第一潜水戦隊に編入される[40]。 同年12月1日、末次信正少将(当時、軍令部第一課長)が第一潜水戦隊司令官に就任する[41]。当時の一潜戦は、防護巡洋艦筑摩、母艦迅鯨、第4潜水隊、第6潜水隊であった[42]。
太平洋戦争以前[編集]
1924年(大正13年)5月15日、筑摩は第一潜水戦隊からのぞかれた[43]。 12月1日の改訂で水雷母艦の類別は潜水母艦と変更され迅鯨もそのまま移行[16][44]、名実共に潜水母艦となった[20]。 当時の第一潜水戦隊は、旗艦〈北上〉、母艦〈迅鯨〉、第6潜水隊、第24潜水隊、第26潜水隊となった[45][46]。末次少将(第一潜水戦隊司令官)は革新的訓練指導をおこない、訓練終了後の研究調査は迅鯨(旗艦兼母艦)で行われた[47]。 主に中国方面で活動した。
昭和に入り伊号潜水艦(巡潜型)や海大潜が潜水戦隊の主力となると[48][49]、呂号潜水艦の潜水戦隊旗艦・母艦を想定していた迅鯨型では能力不足となった[21][50]。海大潜の水上速力は20ノットを越えていたのである[49]。 このため潜水戦隊旗艦には5,500トン型巡洋艦(軽巡由良、鬼怒、五十鈴など)や新型の潜水戦隊用巡洋艦(大淀型)[20][48]が配備もしくは建造された[18][21]。 また迅鯨型の艦齢も15年を超え、旧式化が顕著になった。 新鋭潜水母艦の大鯨[50][51]、剣埼[52]が相次いで竣工すると、潜水戦隊旗艦の座を譲る。 1938年(昭和13年)9月4日、第一潜水戦隊旗艦は迅鯨から伊号第七潜水艦に変更された[53]。翌5日、第一潜水戦隊に大鯨が編入され[54]、同艦は9月8日より第一潜水戦隊旗艦となった[55]。迅鯨は9月15日より第五艦隊付属第2根拠地隊に配備された[1]。 1939年(昭和14年)11月より練習艦となった[22]。航海学校(運用術練習艦)、兵学校、機関学校生徒用の練習艦として重宝される[56]。また日中戦争では工作艦としても利用されたという[14][57]。
しかし新鋭潜水母艦3隻(大鯨、剣埼、高崎〈未完成、のちの瑞鳳〉)は有事の際に空母へ改造する予定であり[35][52]、この3隻は順次軽空母へ改造される[58]。新鋭潜水母艦の空母改装計画により、迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)は翌年11月から再び潜水戦隊旗艦に戻ることとなる。さらに事前の予定どおり、大型貨客船を徴傭して特設潜水母艦とした[35][21]。
なお、迅鯨型2隻は1940年(昭和15年)10月11日に横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加した[59]。 同年11月15日、日本海軍は第四艦隊を増強する[60]。第十八戦隊(鹿島、天龍、龍田)、第六水雷戦隊(夕張、第29駆逐隊、第30駆逐隊)等とともに第七潜水戦隊(潜水母艦〈迅鯨〉、第26潜水隊〈呂60、呂61、呂62〉、第27潜水隊〈呂65、呂66、呂67〉、第33潜水隊〈呂63、呂64、呂68〉)が編制され[25]、迅鯨は同潜水戦隊旗艦となった(司令官佐藤勉少将)[1]。1941年(昭和16年)1月29日に横須賀を出港し[1]、南洋方面に進出する。以後、第七潜水戦隊は第四艦隊各隊・各艦と共に南洋諸島方面で行動した[61]。
太平洋戦争前期[編集]
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時、迅鯨はひきつづき第四艦隊(司令長官井上成美中将、旗艦「鹿島」)麾下の第七潜水戦隊(母艦〈迅鯨〉、呂六十型潜水艦9隻(第26潜水隊、第27潜水隊、第33潜水隊)[62]旗艦であった[26][63]。南洋部隊指揮官(第四艦隊司令長官井上成美中将)の任務は、ウェーク島攻略、グアム島攻略、ギルバート諸島占領、ハウランド島方面掃蕩であり[64]、南洋部隊潜水部隊も各作戦に投入された[65]。 迅鯨(第七潜水戦隊旗艦)はクェゼリンに進出し[1][63]、潜水艦作戦の支援を行った[65][66]。 第七潜水戦隊司令官(南洋部隊潜水部隊指揮官)として迅鯨に将旗を掲げていた大西新蔵少将は、呂六〇型潜水艦の艦内環境は最悪で、南洋での長期行動には堪えられなかったと回想している[67]。また迅鯨乗組員の錬度も低く、前任が戦艦長門の艦長だった大西少将は「潜水艦育ちの人達には、凡そ縁遠い訓練なるが如く、司令官自ら砲戦を主宰するの要なり」と苛立っていた[68]。 ウェーク島攻略作戦中、第七潜水戦隊は呂号第66潜水艦を衝突事故により喪失した[69](衝突した呂号第62潜水艦は損傷なし)[64][70]。 12月29日、ウェーク島攻略戦に参加していた呂号第六十潜水艦は任務を終えてクェゼリン環礁に帰投したところ、同環礁の外北端で座礁する[71]。迅鯨(第七潜水戦隊司令官大西新蔵少将)は直ちに出動して救難を試みたが成功せず[1]、呂号第60潜水艦は処分された(全乗組員は迅鯨に移乗)[72][73]。
1942年(昭和17年)1月7日[1]、迅鯨はトラック泊地に到着した[65][74]。同月中旬以降、第七潜水戦隊(第27潜水隊、第33潜水隊)はトラック泊地を出撃する[75]。南洋部隊(第六水雷戦隊、第六戦隊、第十八戦隊、第十九戦隊)等によるニューブリテン島のラバウルとニューアイルランド島のカビエン攻略作戦を支援し、また同方面の哨戒に従事した(ラバウルの戦い)[76][77]。 2月1日に米空母ヨークタウンとエンタープライズがマーシャル諸島を空襲した際には[78]、トラック泊地に停泊しており無事だった[79][80]。2月10日、七潜戦の第27潜水隊は解隊され、同所属2隻(呂65、呂67)は第26潜水隊に編入された[81]。 2月20日、空母レキシントンを基幹とする米軍機動部隊がラバウル東方に出現したため、トラック泊地の南洋部隊主隊(鹿島、沖島、第六戦隊、第十八戦隊など)は対応のため出撃する(ニューギニア沖海戦)[80][82][83]。迅鯨もトラック泊地を出撃し、23日に帰投した[1][80]。 2月27日、迅鯨はトラック泊地を出港[80]、ポナペ、クェゼリン、サイパン方面で行動した[84]。3月28日にサイパンを出発[84]、4月1日[85]横須賀に到着した[1][86]。
4月10日、日本海軍は第二段作戦に対応して戦時編制の改訂を実施する[87]。姉妹艦長鯨が旗艦を務めていた第六潜水戦隊は解隊され(長鯨は呉鎮守府部隊編入)、同隊所属の第21潜水隊が第七潜水戦隊に編入された[87]。第七潜水戦隊(迅鯨、第21潜水隊、第26潜水隊、第33潜水隊)は、引き続き第四艦隊に所属して作戦行動をおこなう[88][89]。この時点で作戦従事中の隊は、第21潜水隊だけであった[90]。 4月18日、アメリカ海軍はドーリットル空襲を敢行する[91]。迅鯨は横浜浅野ドックで同空襲に遭遇した[1][92]。迅鯨に被害はなかった。4月22日には横須賀へ移動した[1][86]。5月2日に横須賀を出港、5月9日トラック泊地に進出する[93][94]。以降、南洋部隊潜水部隊として麾下潜水隊を率い、トラック方面の警備に従事した[95]。6月5日附で第七潜水戦隊司令官は大西少将から吉富説三少将(元、第四潜水戦隊司令官)に交代した[95]。
7月14日、日本海軍は第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将[95]、参謀神重徳大佐ほか、旗艦「鳥海」)を新編する[27][96]。 第七潜水戦隊は第四艦隊から第八艦隊(外南洋部隊[97]、指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された[98][99]。また第七潜水戦隊の所属潜水隊も変更され、第26潜水隊と第33潜水隊は第五艦隊付属に転出[95]、第六艦隊所属の第13潜水隊が第七潜水戦隊に編入[98][100]。 七潜戦は迅鯨[27]、第13潜水隊(伊121、伊122、伊123)[98]、第21潜水隊(呂33、呂34)となった[101][102]。当時の迅鯨は、トラック泊地に停泊していた[103]。
8月7日、米軍はツラギ島およびガダルカナル島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いがはじまる[104]。8月10日、迅鯨はトラック泊地を出動する[1][105]。8月13日にラバウルへ進出、以後は同地で作戦支援を行った[17][106]。 8月21日、連合艦隊は第三潜水戦隊(当時、外南洋部隊指揮下で行動中)と第七潜水戦隊(外南洋部隊所属)を先遣部隊(第六艦隊)に編入、潜水艦部隊の統一指揮を下令した[104]。この命令により、第七潜水戦隊は先遣部隊(指揮官小松輝久第六艦隊司令長官、旗艦香取)の指揮下で行動することになった[104]。 ガダルカナル島攻防戦の激化にともない、第七潜水戦隊では呂33(8月26日以後消息なし、8月29日沈没)[107]、伊123(8月29日以降消息なし、同日沈没)[108]が失われた[106]。9月時点での第七潜水隊は、旗艦迅鯨の他、第13潜水隊(伊121、伊122)、第21潜水隊(呂34)となった[106][109]。
10月4日の連合艦隊命令作第25号により[110]、先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官、旗艦香取)は兵力部署を改定、第七潜水戦隊は丁潜水部隊となった[111][112]。 11月8日、迅鯨はラバウルを出航した[1]。11月11日、トラック泊地に到着した[1]。丁潜水部隊は整備をおこなう[113]。 12月15日、呂号第百潜水艦は呉潜水戦隊から第七潜水戦隊に編入される[114]。呂号潜水艦の配備にともない、酸素魚雷の調整設備をもった長鯨の第七潜水戦隊編入がきまった[115]。
太平洋戦争中期以降[編集]
1943年(昭和18年)1月6日、迅鯨(丁潜水部隊指揮官=第七潜水戦隊司令官座乗)は内地回航となる[1][116]。指揮官不在の間、丁潜水部隊は先遣部隊指揮官(第六艦隊長官)の直率部隊となった[116]。 1月13日[1]、迅鯨は呉に帰投した[17][117]。 1月15日、第七潜水戦隊旗艦は長鯨に変更され[118][119]、同艦はトラック泊地経由でラバウルに進出した[17][120]。 迅鯨は呉鎮守府練習潜水隊に編入され[29][1]、海軍潜水学校練習艦として瀬戸内海での訓練に従事した[14][1]。 4月1日、呉潜水戦隊は戦時編制から除かれ、第十一潜水戦隊(第一艦隊所属)が新造潜水艦の訓練と練成任務を継承した[121]。
10月16日、迅鯨は呉を出航する[1]。潜水艦の雷撃により損傷した給糧艦間宮[122](10月12日、米潜水艦セロの雷撃による)の曳航作業を実施することになった[123]。間宮は朝風丸に曳航されて佐伯に到着しており、迅鯨は間宮曳航を引き継ぐ[123][124]。 駆逐艦潮や海防艦壱岐等に護衛され[125]、17日に同地を出発、19日呉に入港した[1][123]。
11月1日、日本海軍は、呉海軍工廠で未完成のまま放置されていた改鈴谷型重巡洋艦伊吹(第300号艦、同年5月21日進水)[126]の空母改造工事を佐世保海軍工廠でおこなうことを通達し、昭和20年3月末の完成予定を通知した[127]。迅鯨は伊吹の曳航を担当することになった[128]。 11月中旬、択捉型海防艦「壱岐」に護衛された2隻(迅鯨、伊吹)は呉から佐世保へと移動する[129][130]。11月22日、佐世保に到着した[131]。佐世保海軍工廠は伊吹の空母改造工事を再開するが、同艦は未完成のまま終戦を迎えた[132]。
11月25日、第十一潜水戦隊は第六艦隊(旗艦香取)に編入され、兵力部署では第十一潜水部隊となる[121]。 12月1日、潜水艦乗組員急速大量養成のため、迅鯨や呂号第五百潜水艦などにより再び呉潜水戦隊が再編された[121][133]。また迅鯨はコンクリート船や甲標的など他部隊の実験や訓練に協力することもあった[134][135]。 同年末には長鯨も瀬戸内海に帰投し、迅鯨型は共に練習艦任務に従事した(長鯨は第十一潜水戦隊所属)[28]。
1944年(昭和19年)7月28日、大本営海軍部(軍令部)は大海指第438号により連合艦隊と呉鎮守府から軍艦4隻(長良、長鯨、鹿島、迅鯨)を佐世保鎮守府の麾下に加え、第二航空艦隊(司令長官福留繁中将)[136]の南西諸島方面物資輸送を命じた[137][138]。 これにより、迅鯨型(迅鯨、長鯨)は沖縄方面への輸送任務に就く[17][28][139]。南西諸島方面と呉・佐世保を往復する(迅鯨第一回:8月11日より、第二回:8月22日より。第三回:9月6日より)[1][140]。 同任務中の8月7日、長良は米潜水艦(クローカー)の雷撃で沈没した[138]。また8月22日には米潜水艦ボーフィンにより対馬丸が沈没した[136]。迅鯨も第二次輸送の際に、学童18名と教師1名の沖縄疎開に協力したという[136]。
9月18日、迅鯨は佐世保港を出港し那覇に向かった[141]。 9月19日午前9時15分[142][143]、アメリカ潜水艦(スキャバードフィッシュ)の雷撃により航行不能となる[17][144]。 駆逐艦海威等の支援をうけ[145]、迅鯨は沖縄本島西の瀬底島まで曳航された[14]。 10月10日、迅鯨はアメリカ第38任務部隊による十・十空襲に遭遇して沈没した[146][147](水深10メートル地点)[14]。迅鯨とともに、海威や敷設艇鷹島[148]なども撃沈された[149]。
迅鯨の船体は1952年(昭和27年)2月17日からサルベージ作業を開始、7月7日に浮揚[14]。9月1日に門司到着、その後北九州で解体された[14][150]。解体に先立ち、菊花御紋章は厚生省復員局に還納の上、靖国神社へ奉納された[14]。
兵装の変遷[編集]
航空機は1930年(昭和5年)度より一四式水上偵察機を1機搭載した。射出機は搭載されず、デリックで水上に降ろして運用していた。1940年(昭和15年)ころには九四式水上偵察機を搭載していたらしい[4]。
8cm高角砲2基は1940年(昭和15年)ころ25mm機銃連装2基と交換された。大戦中の機銃増備は明らかでないが艦橋前に25mm機銃連装2基、その他同単装機銃10挺を増備していたとされる[151]。また21号電探が前部マストのトップに装備された。
年表[編集]
- 1921年(大正10年)2月17日、命名[11]。
- 1922年(大正11年)2月16日 三菱長崎造船所にて起工[153]。
- 1923年(大正12年)5月4日 進水。
- 1924年(大正13年)12月1日 水雷母艦から潜水母艦に艦種変更[16]。引き続き第1潜水戦隊所属。
- 1925年(大正15年)12月1日 軽巡洋艦由良を第1潜水戦隊に編入、迅鯨と共に第1潜水戦隊所属[154]。
- 1926年(昭和2年)6月20日、由良は第1潜水戦隊からのぞかれ、第三戦隊に編入(阿武隈、鬼怒、由良)[155][156]。
- この後、第1潜水戦隊は迅鯨と潜水隊のみで編制される
- 1933年(昭和8年)11月1日 軽巡洋艦由良を第2潜水戦隊に編入[156][157]。
- 1934年(昭和9年)1月24日 第2潜水戦隊旗艦を迅鯨から軽巡洋艦由良に変更[161]。
- 11月15日 予備艦となる。第2潜水戦隊は由良・長鯨・3コ潜水隊で再編[162]。
- この時期、迅鯨は復元性向上のための改装を受けたと推定される。
- 1935年(昭和10年)11月15日 第1艦隊第1潜水戦隊旗艦[163][164](それまでの一潜戦旗艦だった多摩は、機関学校練習艦へ)[165]。
- 1936年(昭和11年)12月1日 第2艦隊第2潜水戦隊旗艦[166](それまでの二潜戦旗艦だった鬼怒は、第八戦隊に編入)[167]。
- 1937年(昭和12年)12月1日[1] 第1艦隊第1潜水戦隊旗艦[168](第2潜水戦隊旗艦は軽巡五十鈴に変更)[169]。
- 1938年(昭和13年)9月4日 第1潜水戦隊旗艦を伊号第七潜水艦に変更[53](9月8日より潜水母艦大鯨)[55]。
- 9月15日 第5艦隊付属第2根拠地隊。
- 12月15日 予備艦になる。
- 1939年(昭和14年)6月1日 横須賀鎮守府籍へ転籍。
- 11月15日 練習艦になる。
- 1940年(昭和15年)11月15日 第4艦隊第7潜水戦隊旗艦となる。
- 1941年(昭和16年)12月8日 開戦時はクェゼリンで作戦支援。
- 12月29日 座礁した呂60の乗員を救助。
- 1942年(昭和17年)7月14日 第8艦隊第7潜水戦隊に編入。以降ラバウル方面へ進出。
- 1943年(昭和18年)1月15日 呉鎮守府部隊に編入、海軍潜水学校練習艦となり訓練に従事[170]。
- 10月16日から19日 航行不能の間宮の救助作業にあたり、呉まで曳航する。
- 12月1日 呉潜水戦隊に編入される。
- 1944年(昭和19年)8月11日 呉港を出港し南西諸島方面の輸送作戦に従事
- 1952年(昭和27年)2月17日 浮揚作業開始。
浮揚され関門海峡を曳航される迅鯨(1952年)。
歴代艦長[編集]
※『艦長たちの軍艦史』195-197頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長[編集]
- 神代護次 大佐:1923年5月1日 - 1923年8月30日[171]
艦長[編集]
- 神代護次 大佐:1923年8月30日[171] - 1924年12月1日
- 高崎親輝 大佐:1924年12月1日 - 1925年10月20日
- 瀧田吉郎 大佐:1925年10月20日 - 1926年11月1日
- 小森吉助 大佐:1926年11月1日 - 1927年11月15日
- 和波豊一 大佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日
- 河村重幹 大佐:1928年12月10日 - 1929年10月3日[172]
- 出光万兵衛 大佐:1929年10月3日 - 1929年11月30日
- 寺本武治 大佐:1929年11月30日 - 1930年11月15日
- 大崎義雄 大佐:1930年11月15日 - 1931年11月14日
- 小松輝久 大佐:1931年11月14日 - 1932年12月1日
- 鋤柄玉造 大佐:1932年12月1日 - 1933年10月20日
- 樋口修一郎 大佐:1933年10月20日 - 1934年10月9日[173]
- 加藤正 大佐:1934年10月9日 - 1934年10月22日
- 樋口修一郎 大佐:1934年10月22日 - 1935年11月15日
- 蓑輪中五 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
- 岡敬純 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
- 古宇田武郎 大佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日
- 山崎助一 大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日
- 渡辺清七 大佐:1939年11月15日 - 1940年10月19日
- 佐藤四郎 大佐:1940年10月19日 - 1942年4月20日
- 大倉留三郎 大佐:1942年4月20日 -
- 佐藤敬三 大佐:1943年9月8日 -
- 大山豊次郎 大佐:1944年2月5日 -
同型艦[編集]
参考文献[編集]
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脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 写真日本の軍艦13巻、112-113頁「潜水母艦(剣埼・大鯨・長鯨・迅鯨・駒橋・韓崎)行動年表 ◆迅鯨◆」
- ^ 計画では16ノットだが実際には18ノット近く出たとされる(『海軍艦艇史 3』p270。
- ^ 『海軍艦艇史 3』の巻末表による。
- ^ a b 航空機の搭載時期については『写真 日本の軍艦 第13巻』p95から「1930年より搭載」とした。『海軍艦艇史3』の巻末表によると「1928年より搭載」。
- ^ #海軍生活放談482頁
- ^ a b ポケット海軍年鑑(1935年)コマ46(原本74-75頁)「潜水母艦 "迅鯨 じんげい" 主要目{排水量5,160噸 速力16節 備砲14糎砲6門 8糎高角砲2門 起工大正11年3月 竣工大正13年8月 建造所三菱長崎造船所} 迅鯨は長鯨と共に計畫された同型艦で要目はすべて同じであるが、長鯨より一ヶ年早く上記せる如く大正12年8月竣工してゐる。
この種の艦は元来の任務が任務だけに攻撃力とが防禦力は比較的重視してない。寫眞に見る如く舷側に現れゐる舷窓によつてもその居住性に富んでゐることが窺はれるであらう。即ちこれは碇泊中その潜水戰隊麾下の各潜水艦の乗員を収容して英氣を養はすために居住甲板を廣くしてゐるのである。
我が海軍では長鯨とこの迅鯨の外に潜水母艦は韓埼 からさき 駒橋 こまはし 大鯨 たいげいの計5隻があるが、第一線用として活躍すべきものは長鯨、迅鯨と最新鋭10,000噸の大鯨の3隻である。尚駒橋は1,125噸で沿岸用とでも云ふべきもの、韓埼は9,570噸であるが已に老齢に達し第四豫備艦として僅かにその餘命を止めてゐたが最近艦籍から除籍された。」 - ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ64-66(原本88-92頁)「◎艦艇類別等級 大正十五年十一月二十九日(内令二三八)」
- ^ a b 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ28(原本29頁)「迅鯨(じんげい)【初代】
艦種御召快走船 二檣「フオアエンド・アフター・スクーナー」
艦名考迅はスミヤカと訓ず、疾く行く義なり。鯨は魚の王にして、雄を鯨と曰ひ、雌を鯢と曰ふと傳ふ。迅快なる鯨に因みて艦名と命ぜらしらん乎。
艦歴此艦は御召快走船として建造せられたるものなり。明治26年12月除籍。
―要目― 長249呎/幅31呎/吃水14呎6吋/排水量1,464噸/機關 汽、外車/馬力1,400/速力12/乗組人員138/船材 木/兵装 砲4/起工 明治6-9-26/進水 同9-9-4/竣工 仝14-8-5/建造所 横須賀」 - ^ a b 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ141(原本225頁)「迅鯨(じんげい)【二代】
艦種潜水母艦
艦名考初代「迅鯨」の項参照(P.29)
艦歴「長鯨」二代と姉妹艦なり。大正13年12月1日水雷母艦は潜水母艦と改稱。(長鯨略)
―要目― 長115.82米/幅16.15米/吃水6.91米/排水量5,160噸/機關(空白)/馬力(空白)速力16/兵装 14糎砲4 8糎高角砲2
迅鯨 起工 大正11-2-16 進水 12-5-4 竣工 12-8-30 建造所 長崎三菱造船所
長鯨 起工 大正11-3-11 進水 13-3-24 竣工 13-8-2 建造所 同(長崎三菱造船所)」 - ^ 写真日本の軍艦13巻、68頁「迅鯨(じんげい)-漢成語名」
- ^ a b c #達大正10年2月p.11『達第二十六號 軍備補充費ヲ以テ大正九年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ水雷母艦一隻大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ航空母艦一隻竝二等砲艦四隻ニ左ノ通命名ス|大正十年二月十七日 海軍大臣 男爵 加藤共三郎|大将九年度ニ於テ着手スヘキモノ 水雷母艦一隻 迅鯨ジンゲイ|大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキモノ 航空母艦一隻 翔鶴シャウカク|二等砲艦四隻 勢多セタ 堅田カタタ 比良ヒラ 保津ホヅ』
- ^ a b c 日本潜水艦物語、230-231頁「迅鯨型(迅鯨、長鯨)」
- ^ ポケット海軍年鑑(1937年)コマ44(原本70-72頁)「潜水母艦 "迅鯨 じんげい" 主要目{排水量5,160噸 速力16節 備砲14糎砲6門 8糎高角砲2門 起工大正11年3月 竣工大正13年8月 建造所三菱長崎造船所} 迅鯨は長鯨と共に計畫された同型艦で要目はすべて同じであるが、長鯨より一ヶ年早く上記せる如く大正12年8月竣工してゐる。
元來の任務が任務だけに攻撃力とが防禦力は比較的重視されない。寫眞に見る如く舷側に現れゐる舷窓によつてもその居住性に富んでゐることが窺はれるであらう。即ちこれは碇泊中その潜水戰隊麾下の各潜水艦の乗員を収容して英氣を養はすために居住甲板を廣くしてゐるのである。
我が海軍では長鯨とこの迅鯨の外に潜水母艦は韓埼 からさき 駒橋 こまはし 大鯨 たいげいの計5隻があるが、第一線用として活躍すべきものは長鯨、迅鯨と最新鋭10,000噸の大鯨の3隻である。尚駒橋は1,125噸で近海用とでも云ふべきもの、韓埼は9,570噸であるが已に老齢に達し装備設備にも可成の差がある。」 - ^ a b c d e f g h i j k 日本潜水艦物語234-235頁〔迅鯨型運用〕
- ^ 写真日本の軍艦13巻、114頁
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- ^ 戦史叢書38巻、79-80頁「昭和十六年度の艦隊の改編」
- ^ 戦史叢書38巻、99頁「昭和十六年度第四艦隊行動一覧表」
- ^ 戦史叢書98巻、459頁「付録第一、潜水部隊編制及び仝海底/昭和16年11月1日現在」
- ^ a b #第4艦隊日誌(1)pp.3-5「四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」(昭和16年12月)
- ^ a b 戦史叢書98巻、137-138頁「開戦初期の作戦」
- ^ a b c 戦史叢書38巻、295-296頁「潜水部隊の活躍」
- ^ #海軍生活放談473頁
- ^ #海軍生活放談477頁
- ^ #海軍生活放談479頁
- ^ 戦史叢書38巻、197-199頁「呂六十六潜と呂六十二潜の衝突」
- ^ 戦史叢書98巻、469頁「付録第二、日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/呂66」
- ^ 戦史叢書98巻、469頁「付録第二、日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/呂66」
- ^ 戦史叢書38巻、221頁「「呂六十潜」坐礁」
- ^ #海軍生活放談、483頁「二、呂六〇号の坐礁」
- ^ #第4艦隊日誌(1)pp.12-15「四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」(昭和17年1月)
- ^ 戦史叢書98巻、138頁「ビスマルク諸島方面攻略作戦」
- ^ 戦史叢書38巻、342-343頁「機密南洋部隊命令作第七号別紙(抜粋)」
- ^ 戦史叢書38巻、354-355頁「攻略部隊およびその他の部隊の行動」
- ^ #海軍生活放談482頁
- ^ 戦史叢書38巻、380-382頁「南洋部隊の配備」(7Ss旗艦に大鯨とあるが、迅鯨の誤記)
- ^ a b c d #第4艦隊日誌(1)pp.22-24「(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」(昭和17年2月)
- ^ 戦史叢書98巻、458頁「編成改定/S17.2.10」
- ^ 戦史叢書38巻、445頁「南洋部隊主隊の行動」
- ^ 戦史叢書38巻、446-449頁「支援部隊の作戦」
- ^ a b #第4艦隊日誌(1)pp.36-38「四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」(昭和17年3月)
- ^ 戦史叢書38巻の604頁では4月2日横須賀帰投とする。
- ^ a b #第4艦隊日誌(2)pp.3-5「四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」(昭和17年4月)
- ^ a b 戦史叢書98巻、139-140頁「四月上旬における戦時編制と各部隊の動静」
- ^ 戦史叢書98巻、459頁「編成改定/S17.4.10」
- ^ 戦史叢書98巻、140頁「第二段作戦における潜水艦作戦方針」
- ^ 戦史叢書38巻、604頁「第二十一潜水隊のみ活躍」
- ^ 戦史叢書38巻、545-546頁「5S、5Sf等の南洋部隊への編入とドゥリットルの東京空襲」
- ^ #海軍生活放談489頁
- ^ #海軍生活放談491頁
- ^ #第4艦隊日誌(2)pp.12-14「四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」(昭和17年5月)
- ^ a b c d 戦史叢書62巻、61-62頁「南洋部隊潜水部隊の作戦」
- ^ 戦史叢書62巻、67-68頁「第四艦隊と新編第八艦隊との任務分担」
- ^ #第8艦隊日誌(1)p.8「第八艦隊(七月十四日編成)第六戰隊ヲ加ヘ外南洋部隊トナル」
- ^ a b c 戦史叢書62巻、71-72頁「潜水部隊の戦時編制の改定」
- ^ 戦史叢書98巻、179頁「七潜戦の状況」
- ^ 戦史叢書98巻、459頁「編成改定/S17.7.14」
- ^ #第8艦隊日誌(1)pp.6-8「(三)任務編制配備」(昭和17年8月)
- ^ 戦史叢書98巻、460頁「S17.9.1現在|GF|8F|7Ss」
- ^ #第4艦隊日誌(2)pp.27-29「四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」(昭和17年7月)
- ^ a b c 戦史叢書98巻、179-180頁「潜水部隊の集中」
- ^ #第8艦隊日誌(1)pp.29-31「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動(八月分)其ノ一」(昭和17年8月)
- ^ a b c 戦史叢書98巻、188-189頁「潜水部隊の概況」(昭和17年9月)
- ^ 戦史叢書98巻、470頁「日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/呂33」
- ^ 戦史叢書98巻、470頁「日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/伊123」
- ^ #第8艦隊日誌(2)pp.23-25「(ハ)任務編制配備(1)十月一日艦隊編制」(昭和17年10月)
- ^ 戦史叢書83巻、168-172頁「聯合艦隊作戦命令」
- ^ 戦史叢書83巻、233頁「編制と作戦命令」
- ^ 戦史叢書98巻、194-195頁「十月六日における潜水部隊の概況」
- ^ 戦史叢書83巻、520頁「先遣部隊兵力部署」」(昭和17年11月中旬~12月下旬)
- ^ 戦史叢書98巻、460頁「編成改定/◎呉Ssの編入、転出/転出○ロ100→7Ss、イ36→15Sg(12.15)。」
- ^ 高松宮日記5巻、315-316頁「(1942年12月13日記事)○第七潜水戦隊(一二-〇八一八)「長鯨」ハ一月十五日PT(トラック)ニテ「迅鯨」トノ交代ヲ実施スルコトニ取計ハレ度(略)。《「長」ニハ特空気発生機アル。「迅」ニナシ。呂号潜水艦第七潜水戦隊編入ニツキ「長」ヲ出スヲ可トスルニヨル。「長鯨」艦長ニナツテヰタラ面白カツタ》」(欄外注記、酸素魚雷用の酸素製造装置)
- ^ a b 戦史叢書98巻、212-213頁「ガ島撤退作戦」
- ^ #S1712呉防戦(3)p.14「一二|瑞鶴、鈴谷、天霧、有明、夕暮、迅鯨、伊良湖| | |入泊|」
- ^ 戦史叢書98巻460頁では「編成改定/S18.1.5○迅鯨(7Ss→呉鎮)。長鯨(呉鎮→7Ss)」と記載。
- ^ #第8艦隊日誌(4)p.16「軍隊區分ノ変更」「長鯨、呂一〇一|(空欄)|戰時編成改定ニ依リ7SSニ編入」(昭和18年1月)
- ^ 高松宮日記5巻、466頁「(1943年1月8日記事)○第七潜水戦隊(一六-一九〇七)一、「長鯨」一-一九呉出撃、二十六日トラック着予定。/二、呂101潜ハ「横」ニテ主機械クラッチ関連工事改造実施後、速ニトラックニ進出セヨ。」
- ^ a b c 戦史叢書98巻256頁『呉潜戦、十一潜戦』
- ^ 写真日本の軍艦13巻、46頁「『特務艦』行動年表 ◆間宮(給糧艦)◆」
- ^ a b c 戦史叢書62巻、416-417頁「米潜の機動部隊搭乗員の救助と「間宮」の救援」
- ^ #S1806呉防戦(8)p.1『十六日一〇四〇呉鎮(長官)|十六日一三〇六呉鎮部下艦所〔4F長官、GF長官、五十鈴 間宮 朝風丸 大阪警司令〕|呉鎮機密第一六一〇四〇番電 信電令第四六號 一.朝風丸ハ間宮ヲ曳航十月十八日〇六〇〇深島着ノ見込ミ/二.迅鯨ハ豊後水道ヨリ呉迄間宮ヲ曳航スベシ/三.呉港務部長及徳山港務部長ハ曳船各一隻ヲ派出間宮曳航ニ関シ迅鯨艦長ノ指揮ヲ受ケシムベシ』
- ^ #S1806呉防戦(7)p.46『一五日一八三二|呉防戰司令官|十五日二〇四〇壱岐鷺 三十一掃司令 多摩丸大井丸七玉丸艇長 伯空司令(略)|呉防戰機密第一五八三二番電 電令作第三六七號 一.朝風丸〔間宮ヲ曳航護衛潮〕十五日正午北緯二九度四分東経一三五度五分針路二九五度速力四.五節/二.壱岐鷺多摩丸大井丸七玉丸ハ速ニ出港右ノ會合護衛ニ任ズベシ/三.伯空司令ハ右警戒ニ任ズベシ』
- ^ 日本空母物語、291-292頁「伊吹(1)改鈴谷型重巡として建造」
- ^ #S1811佐鎮日誌(3)pp.23-25『一日海軍大臣(宛略)官房機密第五五三三號 第三〇〇號艦艤装ノ件訓令 佐世保海軍工廠及第二十一海軍航空廠ヲシテ首題ノ件左記ニ依リ施行セシムベシ』
- ^ #S1811佐鎮日誌(5)pp.23-24『十八日一三二〇佐世保鎮守府司令長官(宛略)一.第三〇〇號艦回航豫定左ノ通(以下略)』
- ^ #S1809呉鎮日誌(3)pp.31-32『十八日二一〇四呉防戰|十八日二三四五 壱岐(呉鎮)(迅鯨)(外)|一.伊吹(迅鯨曳航)二十一日〇七〇〇六連發佐世保回航ノ豫定/二.壱岐ハ二十日中ニ六連ニ回航迅鯨艦長ノ指揮ヲ受ケ右ニ對スル對潜警戒ニ任ジ迅鯨、六連歸着迄同艦ノ對潜警戒ニ任ズベシ』
- ^ #S1806呉防戦(9)pp.11-13『(四)麾下艦船部隊行動』
- ^ #S1811佐鎮日誌(1)p.30『註 伊吹ハ呉工廠ニ於テ進水セルモノヲ迅鯨之ヲ曳航十一月二十二日佐世保ニ入港佐世保海軍工廠ニ於テ艤装工事中』
- ^ 日本空母物語、292-294頁「(2)空母への改造」
- ^ #S1812呉潜水戦隊(1)p.4「經過(イ).十二月一日迅鯨、第十八潜水隊、第十九潜水隊、第三十三潜水隊、及呂號第五百潜水艦ヲ以テ呉潜水戰隊ヲ編成セラレ迅鯨ニ将旗ヲ掲揚ス」
- ^ #S1812呉潜水戦隊(1)p.4「(ハ).訓練、實験其ノ他特別行動 (一)迅鯨 自十二月十三日至十二月十六日 呉鎮守府日令第二一二號ニ依ル「コンクリート」船実験ニ從事」
- ^ #S1812呉潜水戦隊(1)p.5「(五))迅鯨 自十二月二十六日至十二月二十九日 P基地機密第三九號ニ依ル第六回士官講習航行艦襲撃教練ニ從事」
- ^ a b c 日本軽巡戦史、563-565頁「鹿島の航空隊輸送」
- ^ #S1904呉鎮日誌(4)p.43「(宛略)大海機密第二八二〇〇九番電 大海指第四三八號 一、GF長官及呉鎭長官ハ夫々長良、長鯨、鹿島、迅鯨ヲシテ南西諸島方面ニ對スル作戰輸送ニ關シ佐鎭長官ノ指揮ヲ承ケシムルモノトス/二、(略)/三、呉鎭長官ハ長鯨第一號任務從事中呉練戰ノ一艦ヲシテGF長官ノ指揮ヲ承ケ11SS訓練任務ニ任ゼシムルモノトス」
- ^ a b 戦史叢書17巻、50-51頁「第二航空艦隊(南西諸島空)の進出輸送」
- ^ #S1812呉潜水戦隊(4)p.5「(一三)二十九日以降迅鯨呉鎮守府電令作第三十七號第一項ニ依ル任務ニ從事」
- ^ #S1812呉潜水戦隊(4)pp.37-39「(ハ)麾下艦船部隊ノ行動」(昭和19年8月)
- ^ #S1812呉潜水戦隊(5)pp.8-10「(二)麾下艦船部隊ノ行動」(昭和19年9月)
- ^ #S1812呉潜水戦隊(5)pp.22-23(迅鯨機密第一九一一二九番電)
- ^ #S1904呉鎮日誌(6)p.27「(宛略)迅鯨機密第一九一一二九番電 一、本艦十九日〇九一五那覇ノ三三三度八一浬ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ク右舷機関室及二、三罐室發電機室ニ浸水(傾斜右一三度)航行及通信不能トナレルモ今ノ所沈没ノ虞ナシ/二、傾斜復元ト殘ノ罐ヲ以テ左舷機航行ノ處置ヲ施シツツアルモ今ノ所見込立タズ/三、戰死者(行衛不明共)准士官以上一名(主計長)下士官兵一二名(艦員九便乗者三)重傷者准士官以上ナシ下士官兵(艦員五、便乗者四)工員一名|無電」
- ^ #S1904四海護(3)p.7「(三)一九日〇九一五N二七度二五分E一二七度ニ於テ迅鯨雷撃ヲ受ケ航行不能トナリタルヲ以テ第三掃蕩隊ノ全力ヲ以テ掃蕩セルモ敵情ヲ得ズ 二一日一二〇〇掃蕩ヲ止ム」
- ^ #S1812呉潜水戦隊(5)pp.23-24(迅鯨機密第一九一七一八番電)
- ^ 戦史叢書37巻、607-611頁「米機動部隊の沖繩強襲による被害」
- ^ #S1812呉潜水戦隊(6)p.1「(ロ)迅鯨七月二十九日以降呉鎮守府電令作第三七號一項ニ依ル特別任務ニ從事中ノ處十月十二日沖繩島瀬底錨地ニ於テ敵爆撃ニ依リ沈没ス(迅鯨戰闘詳報ノ通)」
- ^ 補助艦艇奮戦記、203頁「鷹島(たかしま)」
- ^ #S1812呉潜水戦隊(6)p.13「十二日迅鯨艦長|十二日〇六二五(宛略)|迅鯨機密第一〇二一〇四番電 一.本艦本日〇八〇〇瀬底附近ニ於テ敵空襲ニ依リ沈没(艦橋ヨリ水面ニ露出)(中略)二.第五八號駆潜艇、海威、鷹島、立神、福浦丸消息不明ナリ|無電」
- ^ 写真日本の軍艦13巻、124頁
- ^ 『写真 日本の軍艦 第13巻』p96による。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59(原本78頁)「大正十年三月三日(達三〇)」
- ^ 以下脚注なき限り、写真日本の軍艦13巻の112-113頁「潜水母艦(剣埼・大鯨・長鯨・迅鯨・駒橋・韓崎)行動年表 ◆迅鯨◆」を出典とする。
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ41(原本42-43頁)「大正十五年、一二、一(内令二六四)」
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ41-42(原本43-44頁)「昭和二年聯合艦隊 第一艦隊 六、二〇(内令二一〇)由良(三戰)|昭和二年聯合艦隊 第一戰隊 六、二〇(内令二一〇)球磨(三戰)、由良(一潜戰)」
- ^ a b 写真日本の軍艦8巻、234-235頁「軽巡洋艦『由良・鬼怒・阿武隈』行動年表 ◆由良◆」
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ46(原本52-53頁)「昭和八年聯合艦隊 第二艦隊 一一、一(内令三四三)由良(二潜戰)」「昭和八年聯合艦隊 第一艦隊 一一、一(内令三四三)由良(七戰)/第二艦隊 一一、一(内令三四三)球磨(二潜戰)」
- ^ 『昭和8年11月6日(木)海軍公報 第2028号 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C12070339200 『○旗艦變更 第一水雷戰隊司令官ハ夕張ヨリ川内ニ、第二潜水戰隊司令官ハ由良ヨリ迅鯨ニ旗艦ヲ孰モ變更セリ』
- ^ 『昭和8年11月17日(金)海軍公報 第2029号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C12070339200 『○旗艦變更 第二水雷戰隊司令官ハ神通ヨリ那珂ニ、第一潜水戰隊司令官ハ迅鯨ヨリ長鯨ニ一昨十五日旗艦ヲ孰モ變更セリ』
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ46(原本53-54頁)「昭和八年一一、一五(内令三五一)」
- ^ 『昭和9年2月21日(水)海軍公報 第2102号 p.30』 アジア歴史資料センター Ref.C12070342400 『○旗艦變更 第二潜水戰隊司令官ハ去月二十四日旗艦ヲ迅鯨ヨリ由良ニ變更セリ』
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ47-48(原本55-56頁)「昭和九年一一、一五(内令四七六)」
- ^ 『昭和10年11月16日(土)海軍公報第2616号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C12070352600 『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ鳥海ヨリ妙高ニ、第三艦隊司令長官ハ球磨ヨリ出雲ニ、第一潜水戰隊司令官ハ多摩ヨリ迅鯨ニ、第二水雷戰隊司令官ハ神通ヨリ那珂ニ、第二潜水戰隊司令官ハ由良ヨリ鬼怒ニ、第二航空戰隊司令官ハ赤城ヨリ加賀ニ、第五水雷戰隊司令官ハ龍田ヨリ夕張ニ旗艦ヲ昨十五日變更セリ』
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ48-49(原本57-58頁)「昭和一〇年一一、一五(内令四五八)」
- ^ 写真日本の軍艦8巻、59-60頁「軽巡洋艦『球磨・多摩・木曽』行動年表 ◆多摩◆」
- ^ 『昭和11年12月11日(金)海軍公報(部内限)第2931号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C12070358800 『○旗艦指定 聨合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官ハ本月一日左記各戰隊ノ旗艦ヲ變更セリ 記 第一戰隊 長門/第三戰隊 榛名/第八戰隊 由良/第一水雷戰隊 川内/第一潜水戰隊 五十鈴/第一航空戰隊 鳳翔/第十二戰隊 沖島|第二潜水戰隊司令官ハ本月二日旗艦ヲ迅鯨ニ指定セリ』
- ^ 写真日本の軍艦8巻、235-236頁「軽巡洋艦『由良・鬼怒・阿武隈』行動年表 ◆鬼怒◆」
- ^ 『昭和12年12月14日(火)海軍公報(部内限)第2789号 p.19』 アジア歴史資料センター Ref.C12070369100 『○第七戰隊司令官ハ十二月六日将旗ヲ熊野ニ掲揚セリ|○将旗移揚 第一潜水戰隊司令官ハ十二月二日将旗ヲ五十鈴ヨリ迅鯨ニ移揚セリ/第十一戰隊司令官ハ十二月十二日将旗ヲ一時江風ニ移揚セリ』
- ^ 『昭和12年12月8日(水)海軍公報(部内限)第2784号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C12070369000 『○旗艦變更 第二潜水戰隊司令官ハ十二月一日旗艦ヲ迅鯨ヨリ五十鈴ニ變更セリ|第五水雷戰隊司令官ハ十二月七日旗艦ヲ夕張ヨリ多摩ニ變更セリ』
- ^ #S1801呉鎮日誌(1)p.40「十五日〇〇〇六海軍大臣|十五日一〇四〇呉鎭長官 横鎭長官(潜水學校長)|官房機密第一五〇〇〇六五四番電 十五日附迅鯨ヲ練習兼警備艦ト定メ練習ノコトニ關シテハ海軍潜水學校長ノ指揮ヲ受ケシメラル|有線」
- ^ a b 『官報』第3327号、大正12年9月1日。
- ^ 『官報』第831号、昭和4年10月5日。
- ^ 『官報』第2335号、昭和9年10月11日。
関連項目[編集]
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