初瀬 (戦艦)

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初瀬
艦歴
計画 明治30年度
建造所 アームストロング社エルジック工場
起工 1898年1月10日
進水 1899年6月27日
就役 1901年1月18日
その後 1904年5月15日触雷、沈没
除籍 1905年5月21日
要目
排水量 常備:15,000トン
全長 134.1m(439ft8in1/2)
全幅 23.5m(76ft8in1/2)
吃水 8.2m(27ft)
機関 ベルビール25基
3気筒3段レシプロ2基
2軸、14,500馬力
速力 18.0ノット
航続距離 (10ノットで7,000海里[1]
燃料 石炭1,643トン
乗員 836名
兵装 40口径30.5cm連装砲2基
40口径15.2cm単装砲14基
40口径7.6cm単装砲20基
47mm単装砲12基
45cm水中魚雷発射管4門
装甲 HS(ハーベイ・ニッケル)鋼
舷側:最大9インチ(229mm)
甲板:最大4インチ(102mm)

初瀬(はつせ)は日本海軍戦艦[2][3]敷島型戦艦の3番艦である。

艦名の由来は奈良県を流れる初瀬川大和川上流部別称)による[4]日露戦争における旅順港閉塞作戦に従事中の1904年(明治37年)5月15日、ロシア海軍が敷設した機雷により爆沈した[5][6][7]

概要[編集]

1896年(明治29年)度から10カ年計画による「第一、二期海軍拡張計画」の中の1艦として英国ニューキャッスルのアームストロング社エルジック工場で建造。 1898年(明治31年)1月10日、起工[4]。 同年3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義[8]。該当する4隻(富士、八島、朝日、敷島)が一等戦艦に類別された[9][10]。 4月27日、第三号甲鉄戦艦は「初瀬」、第六号一等巡洋艦は「出雲」と命名される[11][2]。「初瀬」は1899年(明治32年)6月27日、進水[4]10月18日、軍艦4隻(初瀬、三笠出雲磐手)等は軍艦及水雷艇類別等級表(艦艇類別等級表)に類別[12][3]1901年(明治34年)1月18日、竣工[4][13]。 2月2日、ポーツマスを出発し、プリマス軍港へ移動[13]。2月12日、プリマスを抜錨[14]。4月15日、横須賀に到着する[15]

竣工4年目で日露戦争に参加した。1904年(明治37年)2月9日からの旅順口攻撃に参加、砲撃により戦死者2名を出す[16]。 同年5月15日、「初瀬」は第一戦隊司令官梨羽時起少将の旗艦として旅順港閉塞作戦に従事していた[4][7]。 旅順港外の老鉄山沖を初瀬敷島八島笠置龍田等で行動中[17][18]ロシア海軍機雷に触雷した(敷設艦アムールによる)。午前11時頃、「初瀬」は左舷艦底に触雷し、航行不能となる(舵機故障、左舷傾斜、艦後部沈下)[19][20]。 当時は好天で、初瀬乗組員達は全く警戒していなかった[19]。 続いて初瀬救援中の僚艦「八島」も触雷する(夕刻になり沈没、戦死者なし)[21][22][23]。 「敷島」は戦場を離脱[24]。日本側は機雷もしくは潜水艦に襲撃されたと判断していた[5][25]。 救援のためかけつけた「笠置」が曳航準備をほとんど終えた午後0時33分、2回目の触雷があり「初瀬」は後部火薬庫の大爆発を起こして艦後部より沈没した[26][20]

初瀬・八島触雷時、旅順要塞よりロシア海軍の駆逐艦や水雷艇が出撃してきたため[7]、救援各艦(笠置、龍田、明石千代田秋津洲大島赤城宇治高砂)等は、敵艦を撃退しつつ生存者の救出に従事する[22][20][5]。初瀬戦死者492名(傭人12名を含む)、生存者337名(梨羽少将、中尾艦長を含む)[4]。後年の調査では、戦死者495名(乗員834名)[27]。 梨羽司令官、中尾雄(初瀬艦長)、千坂智次郎(初瀬航海長)、佐藤亀太郎(初瀬機関長)、小林恵吉郎(初瀬水雷長)等の主要幹部は「龍田」に収容され、梨羽は「龍田」に将旗を掲げた[25]。だが第一戦隊司令部人員のほとんどが戦死[25]。のちに芥川龍之介の妻となる塚本文の父、塚本善五郎(第一艦隊第一戦隊先任参謀)も、本艦と共に戦死している[28]

日本海軍は当時保有していた主力戦艦6隻(富士、八島、敷島朝日初瀬三笠)のうちの2隻を一挙に失うこととなった[29][30]。また同日未明に巡洋艦「吉野」が沈没(味方艦春日との衝突による)[31][7]。初瀬生存者(梨羽司令官を含む)・八島生存者を収容していた「龍田」も座礁、5月15日は日本海軍厄災の日となった[32][33]

1905年(明治38年)6月15日、「初瀬」は艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍された[34][35]1935年(昭和10年)10月2日、昭和天皇は弟宮の崇仁親王大正天皇第四皇男子)の称号について「泊瀬(初瀬)」を選んだが[36]、後日「三笠」に変更されている[37]

艦歴[編集]

初瀬 (1901)

歴代艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 植村永孚 大佐:1900年8月1日 - 1901年7月5日
  • 梨羽時起 大佐:1901年7月5日 - 1902年7月18日
  • 島村速雄 大佐:1902年7月18日 - 1903年10月27日
  • 中尾雄 大佐:1903年10月27日 - 1904年5月24日

参考文献[編集]

  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑-日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年。 ISBN 4-87687-221-X
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第六 昭和七年至昭和十年』 東京書籍株式会社、2016年3月。ISBN 978-4-487-74406-0
  • 鎌田芳朗 『海軍兵学校物語』 原書房、1979年7月。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第2巻 戦艦II』光人社、1989年。 ISBN 4-7698-0452-0
  • 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語(1)』光人社、1992年。 ISBN 4-7698-0607-8
  • 官報
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』 海軍大臣官房、1939年
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』 海軍大臣官房、1940年
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886713』 海軍大臣官房、1940年
    • 河村貞編 「初瀬、吉野の二艦沈没」『日露戦争大本営公報集 info:ndljp/pid/774421』 立誠堂、1906年1月。
    • 藤田定市編 『戦袍余薫懐旧録.第2輯 info:ndljp/pid/1447099』 財団有終會、1926年12月。
    • 鳳秀太郎編 『日露戰役話集 大戰餘響 info:ndljp/pid/954055』 博文館、1917年3月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治31年 達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。
    • 『明治32年 達 完/10月』。Ref.C12070042900。
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。
    • 『日露役旅順附近海戦一覧表(明治37年)』。Ref.C14120009300。
    • 『日露役(旅順附近黄海海戦)に於ける沈没艦船並戦死者一覧表(昭和10年6月7日旅順要港部港務部調製)』。Ref.C14120009400。
    • 『日露役旅順陥落迄の両国艦船勢力並亡失表(明治37年)』。Ref.C14120009500。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本戦艦物語I』による。ただし括弧書きで記載され、その説明はない。『昭和造船史』では空欄となっている。
  2. ^ a b #達明治31年4月p.25『達第七十六號 英國ニ於テ製造中ノ第三號甲鐡戰艦及第六號一等巡洋艦左ノ通命名セラル 明治三十一年四月二十七日 海軍大臣 侯爵西郷從道|第三號甲鐡戰艦 ハツ|第六號一等巡洋艦 イツ
  3. ^ a b #達明治32年10月pp.6-7『達第百七十八號 明治三十一年達第三十五號軍艦及水雷艇類別等級表中別紙ノ通追加ス 明治三十二念十月十八日 海軍大臣 山本権兵衛 |軍艦|戰艦|一等|初瀬 三笠|/|巡洋艦|一等|出雲 磐手|』
  4. ^ a b c d e f g #幕末以降帝国軍艦写真と史実第60コマ(原本87頁)『初瀬(はつせ) 艦種戰艦 二檣(戰闘檣あり)
    艦名考川名に採る、初瀬川は大和國磯城郡上之郷の山中に發し、南流長谷寺の傍を過ぎ西流、朝倉三輪を過ぎ、西北に屈折し、山邊郡二階堂村に至りて佐保川となる、長さ凡そ十里。
    艦歴明治37・8年日露戰役に從軍:第一戰隊司令官少将梨羽時起の旗艦として行動中、同37年5月15日旅順口外に於て2回に亙り敵の機械水雷に觸れて沈没、副長中佐有森元吉外准士官以上35名、下士卒443名、傭人12名殉難。司令官及び艦長大佐中尾雄以下337名救助せらる。
    ―要目― 長400呎/幅75呎/吃水27呎/排水量15,000噸/機關 三聯成汽罐2基、ベルビル罐25臺/馬力1,000/速力18/乗組人員741/船材 鋼/兵装 12吋砲4/6吋砲14/3吋砲20/3听砲8/2.5听砲6/發射管4/起工 明治31-1-10/進水 同32-6-27/竣工 同34-1-18/建造所 英國エルスウィック安社』
  5. ^ a b c #日露戦争大本営公報集コマ36-37(原本51-52頁)『三、初瀬が敵の水雷に罹りしは老鐡山の南東約十海里の所にして當時同方面には霧なく又其附近に敵の驅逐艦もあらざりしと云ふ此事實より判断するときは敵は其附近に機械水雷を沈置したるか或は又潜水艇を利用したるものならん初瀬は約三十分間を隔て二回の被害にて瞬時に沈没したるも敷島、八島、笠置、龍田等にて梨羽少将中尾大佐以下三百名を救助収容せり初瀬沈没の頃的の驅逐艦十六隻旅順口内より出で來り我を追尾せしが會々其他に來りし明石、千代田、秋津洲、大島、赤城、宇治及高砂は前記諸艦と協力して之を撃退し初瀬生存者の収容を果たすことを得たり以上の報告は混信の爲め文意不明瞭なる無線電信と今朝遭難報告の爲め來し龍田の少尉並に八島の艦載水雷艇指揮官の口頭報告等を綜合して制作したるものなり當地近傍霧未だ霽れず(五月十六日午後四時三十七分大本營着電)』
  6. ^ #日露戦争大本営公報集コマ37(原本52-53頁)『五、昨朝濃霧霽れ各隊逐次入港す其報告により初瀬は全く敵の機械水雷に罹りしものなることを確かむることを得たり(五月十八日午後零時四十分大本營着電)』
  7. ^ a b c d #旅順附近海戦一覧p.5『五月十五日|夜|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我吉野ハ春日ト衝突ス|艦長以下三百十八名艦ニ殉セリ/敵驅逐艦「ウエマテリスイ」渤海灣ニテ坐礁放棄/晝|我「初瀬」及「八島」ハ敵監視中老鐡山ノ南東約十海里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ此時敵驅逐艦十六隻大擧我艦隊ヲ襲撃セシモ我巡洋艦ノ爲撃退サル|初瀬八島沈没|五月初旬ヨリ海軍ノ援護ニヨリ續々我陸軍關東半島ニ上陸開始』
  8. ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道』
  9. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『◎軍艦及水雷艇類別等級』
  10. ^ #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道|軍艦|戰艦|一等|富士、八島、敷島、朝日』
  11. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ198番『◎戰艦初瀬及一等巡洋艦出雲命名ノ件』
  12. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『明治三十二年十月十八日(達一七八)明治三十一年達第三十五號軍艦及水雷艇類別等級表中別紙ノ通追加ス』
  13. ^ a b c d 明治34年2月5日官報第5275号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○新艦領収及回航 英國ニ於テ製造ノ軍艦初瀬去月十八日領収ヲ了シ本月二日出艦本邦ヘ回航ノ途ニ就ケリ(海軍省)|○軍艦發箸 軍艦松島ハ佐世保ヘ、同敷島ハ清水ヘ、本月二日、常磐ハ呉ヘ、同千代田ハ横濱ヨリ横須賀ヘ、同初瀬ハ ポーツマウス ヨリ プリマウス ヘ一昨三日孰モ投錨、同秋津洲ハ佐世保ニ向ヒ岩國ヲ、同宮古ハ上海ニ向ヒ下關ヲ、同豊橋ハ横須賀ヲ、同赤城ハ呉ヲ、昨四日孰モ抜錨(海軍省)(以下略)』
  14. ^ 明治34年2月12日官報第5280号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○軍艦發箸 軍艦松島及豊橋ハ本月八日呉ヘ投錨、同赤城ハ同日宮島ヘ投錨、同九日呉ニ向ヒ同所ヲ、同初瀬ハ同日 モールタ ニ向ヒ プリマウス ヲ孰モ抜錨セリ(海軍省)』
  15. ^ a b 明治34年4月16日官報第5332号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○軍艦發箸(略)同初瀬ハ昨十五日横須賀ヘ投錨(以下略)』
  16. ^ #日露役旅順港海海戦戦死者p.1『年月日:明治三七-二-九|別:晝|沈没艦艦名:/|戰死者乗艦船名:初瀬|戰死名:二|概要:我聯合艦隊主力港外残留ノ敵艦砲撃』
  17. ^ #日露戦争大本営公報集コマ36(原本51頁)『二、本艦は海軍に在て最大不幸の日にして茲に又最も不幸なる報告を通達するの止むを得ざるに遭遇せり、初瀬、敷島、八島、笠置、竜田は本日午前11頃旅順口沖にて敵を監視中初瀬は敵の水雷に罹り先づ舵機を破られ初瀬より曳船送れの電信に接したるを以て将に之を發送せんとする時更に敷島より初瀬は第二の水雷に罹り沈没せりとの悲報來れりも本職は之を報告するに臨み只遺憾至極と云ふの外なし善後の處置に就ては夫々出來る丈けの手段を盡し災厄を増大せざるに努め居れり當地付近濃霧未だ霽れず(五月十五日午後六時大本營着電)』
  18. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ78-79(原本115-116頁)『龍田の遭難附初瀬八島の爆沈(龍田艦長海軍中佐)海軍中将釜屋忠道』
  19. ^ a b #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ90(原本140-142頁)『初瀬の遭難(初瀬水雷長海軍少佐)海軍大佐小林惠吉郎』
  20. ^ a b c #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ106-107(原本170-174頁)『笠置より見たる初瀬八島の遭難(笠置航海長海軍少佐)海軍中将内田虎三郎』
  21. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ97-98『八島の遭難(八島艦長海軍大佐)海軍中将坂本一』
  22. ^ a b #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ98(原本154-155頁)
  23. ^ #日露役旅順港海海戦戦死者p.2『明治三七-五-一五|晝|八島|同上|/|初瀨ト共同動作中敵機雷ニ觸レ沈没』
  24. ^ #日露戦争大本営公報集コマ36-37(原本51-52頁)『三、敷島は初瀬遭難状況報告の爲め今當地に歸港しつヽあり驅逐隊全部及二個水雷艇は敵の驅逐隊に當り溺者救助の爲め午後一時三十分當地を發して旅順口方面に向へり霧未だ霽れず(五月十五日午後十時三十分大本營着電)』
  25. ^ a b c #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ81-82(原本121-123頁)『(略)収容した人の中には梨羽司令官もあり、頭の光るので著しく判つてゐた。此に於て龍田の檣頭には梨羽司令官の将旗を掲揚した。幕僚は一人も助かつてゐなかつた。孰れも墨水の中から出て來た人の如く、顔と云はず手足と云はず黒く染まつて、目玉計りピカゝすると云ふ有様で、地獄の黒鬼も斯くやと許りに思はれた。初瀬の機關長佐藤亀太郎君は龍田の艦橋に上り來て、『艦長残念』と叫んで落涙した。予も思はず落涙した。(略)龍田に収容した初瀬の乗員は梨羽司令官、中尾初瀬艦長、外准士官以上十五名、下士官卒百九十八名で、其の中重傷者十九名、輕傷者二十六名であつた。』
  26. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ104(原本166-167頁)
  27. ^ #日露役旅順港海海戦戦死者p.2『明治三七-五-一五|晝|初瀨|同上|四九五|敵監視中老鉄山南東方面約十里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ沈没 乗員八三四名ノ内四九五名戰死』
  28. ^ #海軍兵学校物語p.73
  29. ^ #戦袍余薫懐旧録コマ101『初瀬八島の遭難(敷島艦長海軍大佐)海軍中将寺垣猪三』
  30. ^ #亡失表p.1
  31. ^ #亡失表p.2『二・三等巡洋艦|吉野|四,一五〇|春日ト衝突沈没|(濃霧中)五月十五日|』
  32. ^ #大戦余響コマ28-30(原本35-39頁)『〔十一〕吉野初瀬八島の沈没』
  33. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ86(原本130-131頁)
  34. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ52番『明治三十八年六月十五日(達八三)軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル』
  35. ^ #達明治38年6月p.7『達第八十三號 軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル 明治三十八年六月十五日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
  36. ^ #昭和天皇実録六巻789頁『(昭和十年十月)二日 水曜日 午前十時三十分、宮内大臣湯浅倉平に謁を賜い、崇仁親王の青年に際して賜うべき称号の候補案として、「泊瀬(初瀬)」「真幸」「石瀬」の三候補の内奏を受けられる。なお、天皇は「泊瀬」を御採択になるも、その後、支障あることが発見され、候補案は再詮議のこととなる。』
  37. ^ #昭和天皇実録六巻809頁『(昭和十年十一月)四日 月曜日(崇仁親王に賜う称号候補の内奏)午前、宮内大臣湯浅倉平に謁を賜い、来る十二月二日、崇仁親王の成年に際して賜うべき称号の候補案として、「三笠」「常陸」「榛名」「筑紫」の四候補の内奏を受けられ、「三笠」を御採択になる。(以下略)』

関連項目[編集]