朝日 (戦艦)

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朝日
艦歴
計画 1897年度計画
建造所 ジョン・ブラウン社クライド・バンク
起工 1897年8月18日
進水 1899年3月13日
竣工 1900年7月31日
喪失 1942年5月25日戦没
除籍 1942年6月15日
要目 (戦艦時)
排水量 常備:15,200トン
全長 129.62m (425ft 3in)
全幅 22.92m (75ft 2in1/2)
吃水 8.31m (27ft 3in)
機関 ベルビール25基
3気筒3段膨張レシプロ2基
2軸、15,000馬力
速力 18.0ノット
航続距離 不明
燃料 石炭1,549トン
乗員 836名
兵装 40口径30.5cm連装砲2基
40口径15.2cm単装砲14基
40口径7.6cm単装砲20基
47mm単装砲12基
45cm水上魚雷発射管4門
装甲 HS(ハーベイ・ニッケル)鋼
舷側:最大9インチ(229mm)
甲板:最大4インチ(102mm)

朝日(あさひ)は、日本海軍戦艦[1]

概要[編集]

軍艦(ぐんかん)朝日(あさひ)は、日本海軍の戦艦で[2]日露戦争時代の主力艦[1]敷島型戦艦の2番艦である。イギリスで建造され[3][4]、1900年(明治33年)7月末に竣工した[5][6]日露戦争における海上戦闘(黄海海戦日本海海戦等)では、主力艦として参加する[7][8]。 なお旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫少佐は、朝日の水雷長であった[9][10]

1920年(大正10年)9月、朝日は戦艦から海防艦へ類別変更された[6][11]。 1922年(大正12年)4月、ワシントン海軍軍縮条約に伴い、練習特務艦となる[8][12]。後日、潜水艦救難艦に改造される[6][8]1937年(昭和12年)8月、工作艦に類別変更された[6][13]。 工作艦として日中戦争太平洋戦争に参加する。南方作戦が一段落したあとの1942年(昭和17年)5月下旬、シンガポールから日本本土へ帰投中に米潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没した[6]。船籍港は横須賀港。後に呉鎮守府所属[14]

朝日(旭日)の艦名は[8]本居宣長の和歌の

敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花

の歌からと思われる。当時大和は既に艦名として使われていたため敷島に続いて朝日が艦名に選ばれたと推測される[15]

艦歴[編集]

戦艦として[編集]

1897年(明治30年)度の「第一、二期海軍拡張計画」により第二号甲鉄戦艦として、イギリスのクライド・バンクのジョン・ブラウン社で建造された[16]。 同年10月18日、第二号甲鉄戦艦は「朝日」と命名される[2][17]1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義する[18]。該当する4隻(富士、八島、敷島、朝日)が一等戦艦に類別された[19][20]。 同年8月18日、朝日はジョン・ブラウン社で起工した[16][21]1899年(明治32年)3月13日、進水[8][21]1900年(明治33年)5月、西洋滞在中の秋山真之広瀬武夫が竣工間際の朝日を見学している[22][23]。 また公試の帰りに座礁する事故があり、竣工が予定より約3カ月遅れたという[24]。 7月31日、朝日は竣工した[8][21]。引き渡し当日にイギリスを出発した[25]。 同年10月23日、朝日は横須賀に到着した[8]。日本海軍としては竣工順で4隻目(富士、八島、敷島、朝日)の近代的戦艦となった[26]

1902年(明治35年)4月22日、広瀬武夫大尉は朝日水雷長兼分隊長を命じられた[23]。広瀬は『朝日艦の歌』を作った[27]。  1904年(明治37年)からの日露戦争では第一艦隊第一戦隊として[28]旅順口攻撃旅順港閉塞作戦黄海海戦日本海海戦に参加した[8]。日露開戦時の朝日水雷長は、引続き広瀬武夫少佐であった[29]。旅順閉塞作戦では朝日からも決死隊志願者が殺到するなど、本艦を含めて連合艦隊の士気は極めて高かったという[30]。3月27日、広瀬水雷長は閉塞船福井丸を指揮して第二次旅順閉塞作戦に従事して戦死[31]、のちに軍神と謳われた[32][33]。 日本海海戦当日は、第一戦隊(三笠〈連合艦隊司令長官東郷平八郎大将〉、敷島、富士、朝日、春日、日進〈第一戦隊司令官三須宗太郎少将〉、龍田〈通報艦〉)[34]の4番艦であった[35]。 同海戦勝利後の朝日と装甲巡洋艦浅間[36]、降伏したロシア戦艦オリョールの護衛を担当している[37][38]。朝日はオリョールの乗組員を収容した[39]。回航中の5月16日、戦闘で負傷していたオリョール艦長のニコライ・ユーンク大佐が死去、水葬に伏された[40]。またオリョールの浸水が増したため[41]、3隻(朝日、浅間、オリョール)[42]は予定を変更して舞鶴港に入港した[41][43]。 後日、オリョールは戦艦石見と改名された[41][44]

1905年(明治38年)12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表を改定する[45]。戦艦の等級廃止にともない、日本海軍保有の9隻(富士敷島朝日三笠石見相模丹後肥前周防)が『戦艦』に類別された[46][47]

第一次世界大戦では1918年(大正7年)に第三艦隊第五戦隊の旗艦として、ウラジオストック方面の警備に従事した。同方面の警備には石見(元オリョール)も加わっている[44]

1921年(大正10年)9月1日、日露戦争時の主力艦艇は海防艦に類別され、朝日も海防艦(一等)となる[11][48]

練習特務艦として[編集]

練習特務艦朝日の舷側に取り付けられているのが潜水艦救難用のブラケット。

1923年(大正12年)にワシントン軍縮条約により練習艦として保有が許されたので兵装、装甲を撤去し練習特務艦となった[8]。 同年4月1日、3隻(敷島、朝日、須磨)は軍艦籍より除籍された[49]。 艦艇類別等級表からも削除[50][51]。 2隻(敷島、朝日)は練習特務艦に類別された[12][52]1924年(大正13年)7月、海防艦石見(元ボロジノ級戦艦オリョール)が航空機(基地航空隊や空母鳳翔航空隊)の標的として処分されることになった[41][53]。演習海域の三浦半島城ヶ島西方まで、朝日は石見を曳航した[54]。沈まない場合は、駆逐艦浦風による撃沈処分が予定されていた[55]。だが7月9日以降の爆撃実験で大破、石見は沈没した[54]

このころに第70潜(呂31)、第43潜(呂25)と潜水艦事故が続けて起こった為、1925年(大正14年)に潜水艦救難設備を設置した[56]。これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を位置させ、反対舷に廃潜水艦を置いてワイヤで結び、つるべ式に比較的少ない力で沈没潜水艦を浮上させようという原理だった[1][56]。 改造の際に機関部の改装をおこない、一本煙突となっている[57]。 朝日はに常駐し潜水艦事故に備えていた。

1927年昭和2年5月19日からは〇一潜水艦を沈没潜水艦を浮揚する際の(沈錘船)として改装し[58]1932年(昭和7年)4月1日に雑役船公称第2929号が登場してからは〇一潜水艦改め公称第2900号を重錘に、公称第2929号を沈没潜水艦に仕立てての潜水艦救難実験・訓練に従事する。

1937年(昭和12年)5月31日、沈錘船2隻が老朽化したことや、朝日が工作艦へ改装される際に救難設備を撤去することが決まったため、沈錘船は製鋼材料とすることとなった[59]。朝日は工作艦への改装と同時に救難設備を撤去し[56][60]、公称第2900号、公称第2929号は同年6月26日に廃船となった[61]。朝日の救難設備が事故に使用されることはなかった。朝日にかわり、知床型給油艦佐多が潜水艦救難艦に改造された[56]

また、朝日は1928年(昭和3年)には試製呉式一号射出機を仮装備し、日本海軍で初の射出実験を行った[56][62]。 撤去された前部主砲は、海軍砲術学校の教材として泊浦海岸に据え付けられた[1]

工作艦として[編集]

工作艦関東1924年(大正13年)12月に座礁放棄されて以降、日本海軍は工作艦を保有していなかった[63][64]。 朝日は1931年(昭和6年)頃に簡単な工作設備を設置した[1][64]1937年(昭和12年)7月には日華事変の勃発により中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので、日本海軍は正式に朝日を工作艦に改造する[56][64]。艦橋前にはダミーの木製30cm砲を装備した[65]呉海軍工廠で改装工事を実施、8月15日に工事を完了した[65]。朝日水雷長広瀬武夫少佐(戦死後、中佐)が使用していた私室は、工作艦に改造後も記念室として残されていたという[10]。 8月16日、海軍は朝日の類別を練習特務艦から工作艦に変更する[13]。 朝日は中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事した[56][66]1939年(昭和14年)11月には、上海方面根拠地隊旗艦となっている[66]

1940年(昭和15年)11月1日、朝日工作部は上海陸上に移り第一海軍工作部と改称したため[56][66](昭和15年11月1日、発足)[67]、朝日は日本へ戻った[66]。 11月15日からは連合艦隊付属となった[68]。新鋭工作艦明石(昭和14年7月竣工)[69]と共に、連合艦隊各艦の故障修理や整備をおこなう[56][70](練習戦艦から戦艦に改装された比叡など)[71]

工作艦朝日。1938年、上海にて。

要目[編集]

朝日の工作艦時の要目は以下の通り。

  • 基準排水量:11,141トン
  • 垂線間長:122.10m
  • 最大幅:22.94m
  • 吃水:6.93m
  • 機関:ロ号艦本式ボイラー石炭専焼4基、3気筒3段レシプロ2基、2軸、15,000馬力
  • 速力:12ノット
  • 燃料搭載量:石炭1,722トン
  • 計画乗員数:286名
  • 兵装:7.6cm単装高角砲2門

喪失[編集]

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、朝日は南方作戦(南方部隊本隊指揮官近藤信竹中将:第二艦隊司令長官)に参加する[66]カムラン湾所在だった[1][72]1942年(昭和17年)2月にシンガポールが陥落すると、翌月には同地に進出する[1][73]。3月13日、シンガポールに入港した[68]。工作艦明石と共に、シンガポールの港湾施設の復旧や、損傷艦の修理に活躍した[64][74]。給油艦鶴見(3月1日、潜水艦雷撃で損傷)や軽巡洋艦那珂(4月1日、潜水艦雷撃で大破)の応急修理も、朝日工作部が第101工作部(シンガポール陸上)に協力したため順調に進んだ[73]

同年5月22日[68][75]、朝日は自身の修理をおこなうためシンガポールを出発し、日本へ向かった[73]。護衛は駆潜艇1隻で、危険な沿岸航路をさけて南シナ海の中央を北上することにしたという[74]。 しかし、朝日は旧式低速(福井静夫によると艦首に白波の迷彩塗装を施していたが、当時の速力は8ノット程度)[73]の大型艦であったため敵潜水艦の格好の目標となってしまい、5月25日の深夜にカムラン湾南東(サイゴン沖約120浬)[66]でアメリカの潜水艦サーモンから雷撃される[6][73]。朝日の左舷に2発の魚雷が命中した[76]。最初の魚雷が命中したのは軍神広瀬武夫中佐(最終役職は朝日水雷長)[77]の記念室の真下で、同部屋に保存されていた広瀬の遺品は沈没と共に全て失われた[10]。 翌26日午前1時3分[78]、転覆して沈没した[76]。この時、朝日の乗員の多くは救助されたが、戦死者十数名を出した[73]

同年6月15日[79]、朝日は特務艦籍[14]および特務艦類別等級表より除籍された[80]。 残務処理は呉海兵団内において行われた[81]。 朝日機関長の樺山大佐は空母龍驤機関長に転じたあと、第二次ソロモン海戦における同艦沈没から生還した[72][10]

行動年表[編集]

  • 1897年8月18日 イギリスのジョン・ブラウン社で起工される。
  • 1899年3月13日 進水。
  • 1900年
    • 7月31日 竣工、同日イギリスを発。
    • 10月23日 横須賀に到着する。
  • 1904年 第1艦隊第1戦隊所属で日露戦争に参加。
  • 1905年5月27日、28日 日本海海戦に参加。
  • 1918年 第一次世界大戦ウラジオストック作戦に参加。
  • 1921年9月1日 一等海防艦に類別変更。
  • 1923年4月1日 特務艦に編入し、練習特務艦となる。
  • 1925年2月-8月 横須賀工廠で潜水艦救難設備を設置。
  • 1926年7月-1928年3月 呉工廠で潜水艦救難設備を改造。
  • 1937年8月16日 工作艦に類別変更。支那事変に従軍[82]
  • 1940年5月29日から11月7日 上海方面の警備に従事。
  • 1941年 カムラン湾に進出、太平洋戦争に参加。
  • 1942年
    • 3月13日 シンガポールのセレター軍港に入港。
    • 5月22日 シンガポールを出港。
    • 5月26日 南シナ海で米潜水艦サーモンの雷撃で沈没した。
    • 6月15日 除籍

歴代艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長[編集]

艦長[編集]

  • 三須宗太郎 大佐:1900年1月12日 - 1901年7月3日
  • 橋元正明 大佐:1901年7月3日 - 1902年5月24日
  • 小倉鋲一郎 大佐:1902年5月24日 - 1903年11月21日
  • 山田彦八 大佐:1903年11月21日 - 1904年6月6日
  • 野元綱明 大佐:1904年6月6日 - 1905年12月12日
  • 竹内平太郎 大佐:1905年12月12日 - 1906年5月10日
  • 滝川具和 大佐:1906年5月10日 - 1906年11月22日
  • 土屋保 大佐:1906年11月22日 - 1907年9月28日
  • 宮地貞辰 大佐:1907年9月28日 - 1908年4月7日
  • 森義太郎 大佐:1908年4月7日 - 1908年9月15日
  • 石田一郎 大佐:1908年9月15日 - 1908年11月20日
  • 牛田従三郎 大佐:1908年11月20日 - 1910年12月1日
  • 伏見宮博恭王 大佐:1910年12月1日 - 1912年3月1日
  • 関野謙吉 大佐:1912年3月1日 - 1912年4月20日
  • 中島市太郎 大佐:1912年5月22日 - 1912年12月1日
  • 町田駒次郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
  • 浅野正恭 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
  • 荒川仲吾 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
  • 有馬純位 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  • 増田高頼 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
  • 大角岑生 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日
  • (兼)島内桓太 大佐:1918年12月4日 - 1919年3月27日 (本職:金剛艦長)
  • 古川弘 大佐:1919年3月27日 - 1919年6月10日
  • 小山武 大佐:1919年6月10日 - 1919年12月1日
  • 武光一 大佐:1919年12月1日 - 1920年11月20日
  • 上田吉次 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月20日
  • 石田幸太郎 大佐:1921年11月20日[83] - 1922年8月15日[84]
  • 田中豊一 大佐:1922年8月25日[85] - 1922年11月10日[86]
  • 森初次 大佐:1922年11月10日 - 1922年12月1日
  • 常松憲三 大佐:1923年1月20日[87] - 1923年4月1日[88]

特務艦長[編集]

  • 常松憲三 大佐:1923年4月1日[88] - 1923年11月20日[89]
  • 丹生猛彦 大佐:1923年11月20日[89] - 1924年6月16日[90]
  • 徳田伊之助 大佐:1924年6月16日 - 1924年10月20日
  • 太田質平 大佐:1924年10月20日 - 1925年7月15日
  • 杉浦正雄 大佐:1925年7月15日 - 1926年11月1日
  • 今川真金 大佐:1926年11月1日[91] - 1927年12月1日[92]
  • 津留信人 大佐:1927年12月1日[92] - 1928年12月10日[93]
  • 公家種次 大佐:1928年12月10日[93] - 1929年11月30日[94]
  • 合葉庄司 大佐:1929年11月30日[94] - 1930年12月1日[95]
  • 蜂屋義尾 大佐:1930年12月1日[95] - 1931年12月1日[96]
  • 藤森清一朗 大佐:1931年12月1日 - 1932年5月10日
  • (兼)佐倉武夫 大佐:1932年5月10日 - 1932年5月20日 (本職:鬼怒艦長)
  • 小橋義亮 中佐:1932年5月20日[97] - 1933年11月15日[98]
  • 井上幸吉 大佐:1933年11月15日[98] - 1934年10月22日[99]
  • 岡村政夫 中佐:1934年10月22日 - 1935年11月15日
  • 殿村千三郎 中佐:1935年11月15日 - 1937年8月16日
  • (兼)加藤仁太郎 大佐:1937年8月16日 - 1938年1月8日 (本職:第一港務部長)
  • 平岡粂一 大佐:1938年1月8日 - 1938年11月1日[100]
  • 龍崎留吉 大佐:1938年11月1日[100] - 1938年12月2日 戦死
  • 畠山耕一郎 大佐:1938年12月5日 - 1939年11月15日
  • 松山光治 大佐:1939年11月15日 - 1940年11月15日
  • 森野草六郎 大佐:1940年11月15日 - 1941年9月13日
  • 田村劉吉 大佐:1941年9月13日 - 1942年6月15日

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 日本補助艦艇物語、217頁「工作艦(1)朝日」
  2. ^ a b #達明治30年10月(1)p.31『達第百四十一號 第二號甲鐡戰艦以下六艦左ノ通命名セラル 明治三十年十月十八日 海軍大臣公爵西郷從道|英國ニ於テ建造 第二號甲鐡戰艦 アサ|獨國ニ於テ建造 第一號一等巡洋艦 クモ|佛國ニ於テ建造 第二號一等巡洋艦 ヅマ|英國ニ於テ建造 第三號一等巡洋艦 アサ/第四號一等巡洋艦 トキ|横須賀海軍造船廠ニ於テ建造 第一號水雷砲艦 ハヤ
  3. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ24『明治三十年 巡洋艦笠置及千歳ヲ米國ニテ、戰艦敷島及朝日、巡洋艦常磐及驅逐艦六隻ヲ英國ニテ起工シ戰艦富士及八島竣工ス』
  4. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ24『明治三十三年 驅逐艦二隻ヲ英國ニテ、水雷艇千鳥ヲ佛國ニテ、同二隻ヲ獨國ニテ起工シ戰艦敷島及朝日、巡洋艦八雲、吾妻及出雲、驅逐艦二隻及水雷艇二十二隻ヲ竣工ス』
  5. ^ 日本補助艦艇物語、10頁(朝日写真解説)
  6. ^ a b c d e f 補助艦艇奮戦記、269頁「朝日(あさひ/工作艦)」
  7. ^ 帝国軍艦帖コマ40-41「戰艦 朝日」
  8. ^ a b c d e f g h i 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ59(原本85頁)『朝日(あさひ)
    艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり)
    艦名考朝昇る太陽、旭日なり。
    艦歴明治33年7月31日英國にて竣工、同日英國出發、10月23日横須賀到着。明治37・8年戰役に從軍(第一艦隊第一戰隊):同37年8月黄海々戰参加(艦長山田彦八)、同38年5月日本海々戰参加(艦長大佐野元綱明)、明治38年12月戰艦の等級を廢止せらる。大正3年乃至9年戰役に從軍:同7年1月第三艦隊に属し露領沿岸警備(艦長大佐大角岑生)、同12年4月1日軍艦籍より除き特務艦と定められ、練習特務艦となる。同13年3月15日華府條約により武装解除、其後潜水艦引揚装置を施し工作艦を兼ねしめらる。
    ―要目― 長 400呎/幅 75呎/吃水 27.5呎/排水量 15,200噸/機關 直立三聯成汽機2基 ベルビル25臺/馬力 15,000/速力 18/乗組人員 741/船材 鋼/兵装 12吋砲4 6吋砲10 12听砲20 3听砲8 2.5听砲6 發射管4/起工 明治31-8-1/進水 同32-3-13/竣工 同33-7-31/建造所 英國クライドバンク』
  9. ^ #軍する身コマ86(原本141頁)「朝日では軍神廣瀬武夫少佐が水雷長として乗って居った。」
  10. ^ a b c d 補助艦艇奮戦記、43頁「海底に消えた軍神の遺品」
  11. ^ a b #達大正10年9月p.1『達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
  12. ^ a b #達大正12年4月(1)p.12『達第七十二號 艦艇類別等級別表中練習特務艦ノ欄内「富士」ノ次ニ「、敷島、朝日」ヲ加フ 大正十二年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
  13. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ73(原本106頁)『昭和十二年八月十六日(内令四七二)特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 工作艦ノ部中「明石」ノ下ニ「、朝日」ヲ加フ 練習特務艦ノ部中「、朝日」ヲ削ル』
  14. ^ a b #内令昭和17年6月(1)pp.41-42『内令第千五十二號 呉鎭守府在籍 伊號第二十八潜水艦 右帝國潜水艦籍ヨリ除カル/呉鎭守府在籍 特務艦 朝日 右帝國特務艦籍ヨリ除カル  海軍大臣 嶋田繁太郎』
  15. ^ 聯合艦隊軍艦銘銘伝p341。
  16. ^ a b 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ188(原本282頁)『朝日(あさひ)〔再出〕
    艦種特務艦
    艦名考 艦歴 }「日清戰役以降、日露戰役迄の艦艇」の部参照(p.85)。
    ―要目― 長122.10米/幅 22.94米/吃水 6.93米/排水量 11,441噸/速力 18.20/起工 明治31-8-18/進水 同32-3-13/竣工 同33-7-31/建造所 英國ジョン・ブラウン社』
  17. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ198『◎戰艦朝日巡洋艦八雲吾妻淺間常磐及水雷砲艦千早命名ノ件 明治三十年十月十八日(達一四一)』
  18. ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道』
  19. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『◎軍艦及水雷艇類別等級』
  20. ^ #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道|軍艦|戰艦|一等|富士、八島、敷島、朝日』
  21. ^ a b c #海軍制度沿革(巻11、1940)コマ568(原本1084-1085頁)「朝日|練習特務艦|122.10|22.94|6.93|(常備)12,141|(基準)11,441|(速力 節)18.2|(乗員數)307|(短艇數)8|英國ジョン、ブラウン社|(起工年月日)30-8-18|(進水年月日)32-3-13|(竣工年月日)33-7-31|(主要兵装-空欄)|(探照燈)2|機械(種類)直立三段膨張式(數)2|罐(種類)ベルビー式(數)25|(推進器數)2|備考-空欄」
  22. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 194-195.
  23. ^ a b 軍神広瀬武夫 2009, pp. 221-222.
  24. ^ #福井戦艦物語弐、66頁
  25. ^ 明治33年8月3日官報第5126号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○陸海軍 ○新艦領収及囘航 英國ニ於テ製造ノ一等戰闘艦朝日ハ去月三十一日領収即日日本邦ニ向ヒ囘航ノ途ニ就ケリ(海軍省)』
  26. ^ #福井戦艦物語壱、73-74頁「日露開戦に備えて」
  27. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 225-226.
  28. ^ 写真日本の軍艦 戦艦II、239頁(朝日項目)
  29. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 230-231.
  30. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 236-238.
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  32. ^ 軍談秋山真之 2010, pp. 102-103「軍人の亀鑑広瀬中佐の戦死」
  33. ^ 軍神広瀬武夫 2009, pp. 296-297.
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  35. ^ 日本海海戦の証言 2018, p. 174.
  36. ^ 日本海海戦の証言 2018, pp. 111-113.
  37. ^ #朝日の光コマ119(五月廿八日敵艦隊降伏の時に於ける「アリヨール」(其二)降伏艦アリヨールの捕獲廻航は、「朝日」と「春日」の乗員に命ぜらる、「朝日」乃ち乗員を出してアリヨールの捕獲に向はしむ、此圖即ち是れ、』
  38. ^ #朝日の光コマ128『「朝日」及「春日」より任命せられたる「アリヨール」廻航員中の機關部員』
  39. ^ #日露戦役海軍写真集(2)コマ45『日本海々戰後朝日に敵の捕虜収容(明治三十八年五月二十八日)捕虜は皆な敵艦アリヨールの乗員、今や我等が昨年來住み慣れたる乗艦より、忽ち我が艦に移され、塒離れし群鴉の如く、囂々として立騒光景、其心事を察すればまた憫むべきなり。』
  40. ^ 日本海海戦の証言 2018, pp. 122-124.
  41. ^ a b c d #福井戦艦物語壱、111-112頁「◇石見―アリヨール」
  42. ^ #朝日の光コマ123『「朝日」「淺間」の二艦「アリヨール」を率ひ某軍港に向ふ』
  43. ^ #戦袍余薫懐旧録IIコマ236-237(原本430-433頁)
  44. ^ a b 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ69(原本105頁)『石見(いはみ) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、山陰道石見國に採る。
    艦歴舊露國軍艦、艦名「アリヨール」、明治35年進水、明治37・8年戰役中「バルチック」艦隊の一艦として、日本海々戰に参加、同38年5月28日日本海中の孤島竹島の南南西約18海浬の地點に於て我が艦隊之を捕獲す、同年6月6日帝國軍艦と定め「石見」と命名、同12月戰艦の等級を廢止せらる。 大正元年一等海防艦に編入、同3年乃至9年戰役に從軍:同3年8月第二艦隊第二戰隊に属し青島戰に参加(艦長大佐小林惠吉郎)、同9年堪奈加方面警備(艦長大佐白根熊三)、同10年11年西比利亞方面警備、同11年9月1日除籍。
    ― 要目 ― 長397呎/幅76呎/吃水26呎/排水量13,516噸/機關 直立四汽筩三聯成汽機2基、ベルビル25臺/馬力16,500/速力18/乗組人員730/船材 鋼(甲帶227粍)/兵装 30拇砲 4/20拇砲 6/8拇 16/5拇 2/機砲 4/發射管2/起工 明治33-6-11/進水 同35-7-19/竣工 同37-9/建造所 露國ガラーニイ』
  45. ^ #達明治38年12月pp.6-7『達第百八十一號 艦艇類別標準別表ノ通改メラル 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
  46. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ53-54『◎艦艇類別等級 明治三十八年十二月十二日(達一八二)』
  47. ^ #達明治38年12月pp.8-9『達第百八十二號 艦艇類別等級別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛(別表)|軍艦|戰艦| |富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防、』
  48. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』
  49. ^ #達大正12年4月(1)p.12『達第七十號|軍艦 敷島/軍艦 朝日/軍艦 須磨 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|水雷艇 雲雀/水雷艇 鷺/水雷艇 鶉/水雷艇 鷂/水雷艇 第七十二號/水雷艇 第七十三號/水雷艇 第七十四號/水雷艇 第七十五號 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル 大正十二年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
  50. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十二年四月一日(達七一)艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「敷島、朝日、須磨、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雲雀、鷺、鶉、鷂、第七十二號、第七十三號、第七十四號、第七十五號」ヲ削ル』
  51. ^ #達大正12年4月(1)p.12『達第七十一號 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「敷島、朝日、須磨、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雲雀、鷺、鶉、鷂、第七十二號、第七十三號、第七十四號、第七十五號」ヲ削ル 大正十二年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
  52. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ72『大正十二年四月一日(達七二)特務艦類別等級別表中練習特務艦ノ欄内「富士」ノ次ニ「、敷島、朝日」ヲ加フ』
  53. ^ #実験研究1(1)p.3『石見實験要領』
  54. ^ a b #大正の海軍物語コマ134-135(原本249-251頁)『廢棄軍艦の撃沈/大正十三年七月八日、横須賀軍港に於て、小爆彈の爆撃實驗の標的として使用された軍艦石見は、翌九日軍艦朝日に曳航されて、三浦半島の南端なる城ケ島の西方約十浬に到り、ここに漂流せしめられ、飛行機隊の爆撃を受くることゝなつた。(中略)爆撃はやがて終つたが、石見は次第に沈没し、午後四時半頃より右舷に傾き始め、五時二十分より益々その度を加へ、遂に右舷に巓覆し、五時三十三分城ケ島の西方約四浬に於て、全く海中に没してしまつた。』
  55. ^ #実験研究1(2)p.26『石見爆撃實験委員會決議概要(略)右終テ朝日ハ石見ヲ曳航相模灘ニ向フ(略)右終テ沈マザルトキハ浦風ノ魚雷ヲ発射ス』
  56. ^ a b c d e f g h i #福井戦艦物語弐、113-114頁「◇朝日」
  57. ^ 写真日本の軍艦13巻、4頁(朝日写真解説より)
  58. ^ #沈没潜水艦救難用沈錘船p.2
  59. ^ #軍務1機密第218号p.3
  60. ^ 写真日本の軍艦13巻、3頁(朝日写真解説より)
  61. ^ #S12第6102号p.74
  62. ^ 写真日本の軍艦13巻、5頁(朝日写真解説より)
  63. ^ 日本補助艦艇物語、217-218頁「(2)明石」
  64. ^ a b c d 日本補助艦艇物語、244-247頁「わが海軍における工作艦の歴史」
  65. ^ a b 写真日本の軍艦13巻、6頁(朝日写真解説より)
  66. ^ a b c d e f 写真日本の軍艦13巻、7頁(朝日写真解説より)
  67. ^ 支那事変 第8回功績概見表綴 特設部隊 特設艦船 海軍武功調査/第1海軍工作部支那事変第8回功績概見表 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C14121011600 『(略)記事 一五、一一、一 第一海軍工作部開設セラル』
  68. ^ a b c 写真日本の軍艦13巻、42頁「『特務艦』行動年表 ◆朝日(工作艦)◆」
  69. ^ 補助艦艇奮戦記、268-269頁「明石(あかし/工作艦)」
  70. ^ 高松宮日記3巻、177-178頁(昭和16年1月6日、1月7日記事)
  71. ^ 高松宮日記3巻、182頁(昭和16年1月15日記事)「(略)高角砲、副砲、射撃盤に九八転輪入れること、「朝日」で訓令を準備する意味で、艦本へ問ひ合わせの上、着手することゝす。司令塔の観測鏡、防水扉修理も「朝日」でやることゝす。(以下略)」
  72. ^ a b 補助艦艇奮戦記、37頁
  73. ^ a b c d e f #福井戦艦物語弐、115-116頁
  74. ^ a b 補助艦艇奮戦記、38頁
  75. ^ 『日本戦艦物語II』では5月23日になっているが、それ以外の文献では5月22日となっている。
  76. ^ a b 補助艦艇奮戦記、39-41頁「突如ひびいた大音響」
  77. ^ 朝日機関長の回想(補助艦艇奮戦記の43頁)では広瀬の役職を朝日運用長とするが、実際は朝日水雷長。
  78. ^ #S17.05.17-05.31経過概要p.19(昭和17年5月)「26|0103|昨夜(潜水艦)雷撃ヲ受ケシ朝日沈没シ永福丸(11aBg 7w)ニテ対潜掃蕩中|馬来|罐室当直員16戰死 他乗組員大部ハ9chニ収容セラル 御寫眞御勅諭ハ無事」
  79. ^ #S1705呉鎮日誌(2)pp.48-49「(昭和17年6月15日項目)二、戰時編制中左ノ通改定セラル(略)(ロ)伊二八潜及朝日ヲ戰時編制ヨリ削除ス(以下略)」
  80. ^ #内令昭和17年6月(2)p.22『内令第千八十七號 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年六月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎  工作艦ノ項「、朝日」ヲ削ル』
  81. ^ 昭和17年7月13日月金)海軍公報(部内限)第4038号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C12070421800 『○殘務整理 第十一掃海隊主計科關係殘務整理ハ軍艦磐手内平場主計大尉之ヲ行フ|特務艦朝日殘務整理ハ呉海兵團内ニ於テ之ヲ行フ(朝日殘務整理委員)』
  82. ^ 昭和12年8月26日(木)海軍公報(部内限)第2699号 p.32』 アジア歴史資料センター Ref.C12070367200 『○官房機密第三四〇一號 今次事變中特務艦朝日ノ工作ニ關シ左ノ通定ム 昭和十二年八月二十六日』
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参考文献[編集]

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  • 新人物往来社編 『軍談 秋山真之の日露戦争回顧録 黄海海戦と日本海海戦勝利の要因』 新人物往来社〈新人物文庫〉、2010年2月。ISBN 978-4-404-03809-8
  • 高橋安美 『軍神広瀬武夫の生涯』 新人物往来社〈新人物文庫〉、2009年9月。ISBN 978-4-404-03741-1
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第三巻 昭和十五年五月一日〜昭和十六年十二月三十一日』 中央公論社、1995年11月。ISBN 4-12-403393-1
  • 寺崎隆治ほか 『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』 潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1
    • (37-43頁)当時「朝日」機関長・海軍大佐樺山滋人『浮かべる工廠 工作艦「朝日」の最後 軍港復旧工事をおえての帰途、広瀬中佐ゆかりの艦を襲った魚雷二発
    • (164-287頁)戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争
  • 戸高一成編 『日本海海戦の証言 聯合艦隊将兵が見た日露艦隊決戦』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年3月。ISBN 978-4-7698-3058-0
  • 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』第3刷、原書房、1981年。 ISBN 4-562-00302-2
  • 福井静夫福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第一巻 日本戦艦物語〔Ⅰ〕』 阿部安雄、戸高一成編、光人社、1992年5月。ISBN 4-7698-0607-8
  • 福井静夫福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕』 阿部安雄、戸高一成編、光人社、1992年8月。ISBN 4-7698-0608-6
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻 日本補助艦艇物語』 光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2
  • 「多田一史『明治時代の戦艦』」『写真 日本の軍艦 戦艦II 金剛・比叡・榛名・霧島 戦艦時代の夜明け』第2巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1989年8月ISBN 4-7698-0452-0
  • 写真 日本の軍艦  小艦艇I 特務艦・潜水母艦 特設潜水母艦 駆潜艇・哨戒艇 掃海艇・輸送艦』第13巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年8月ISBN 4-7698-0463-6
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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関連項目[編集]