吉野 (防護巡洋艦)

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Yoshino.jpg
艦歴
発注 1891年度計画
起工 1892年3月1日
進水 1892年12月20日
就役 1893年9月30日
その後 1904年5月15日 沈没
除籍 1905年5月21日
性能諸元
排水量 常備:4,216t
全長 109.73m(垂線間長)
全幅 14.17m
吃水 5.18m
機関 蒸気レシプロ2基
15,900hp
最大速 23.0kt
航続距離 10ktで4,000浬
兵員 360名
兵装 40口径15.2cm単装速射砲4基
40口径12cm単装速射砲8基
47mm単装砲22基
35.6cm水上魚雷発射管5門
装甲 甲板水平部:45mm
甲板傾斜部:115mm
防盾:115mm

吉野(よしの)、は、日本海軍巡洋艦二等巡洋艦[1][2]吉野型防護巡洋艦1番艦である。設計はフィリップ・ワッツが手掛けた。 艦名は奈良県の吉野山に由来する[3]日清戦争で活躍[3][4]日露戦争に従事中の1904年(明治37年)5月15日、味方艦「春日」と衝突して沈没[5][6][7]

艦歴[編集]

完成当時、世界最速の軍艦。1892年(明治25年)3月1日、起工[3]。8月30日、「吉野」と命名される[1][8]。12月20日、進水[3]1893年(明治26年)9月30日、竣工[3]イギリスから回航する時にのちに艦長となる河原要一とともに委員として秋山真之も同行した。

日清戦争においては、第一遊撃隊(司令官坪井航三少将)の旗艦であった(吉野艦長河原要一大佐)[3][4]豊島沖海戦黄海海戦で活躍[3]。『吉野桜に武士の姿』と謳われたという[4]

1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[9]。該当する9隻(浪速高千穂厳島松島橋立吉野高砂笠置千歳)が二等巡洋艦に類別された[10][2]

日露戦争においては、第三戦隊(司令官出羽重遠少将)に所属。旅順口攻撃旅順港閉塞作戦)従事し、任務を終えて旅順沖から裏長山列島へ向かう途中の1904年(明治37年)5月15日午前1時40分[11][4]千歳(出羽少将旗艦)・吉野春日八雲富士という編制の日本艦隊は濃霧に遭遇し、「春日」が「吉野」左舷後部に衝突する[3][4]。 本艦は吉野艦長佐伯誾大佐以下三百余名(将校31名、下士官以下286名、他)を乗せたまま沈没した[5][4]。戦死者319名、生存者約90名(計104名)[12][5][4]。 同日には戦艦2隻(初瀬八島)も機雷により沈没[13][14][6]5月15日は日本海軍厄災の日となった[15][16]

1905年(明治38年)6月15日、「吉野」および「高砂」等は軍艦籍[17]および艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍された[18][19]

兵装[編集]

砲は全て防盾付きで上甲板に置かれており、アームストロング 40口径15.2cm単装速射砲は司令塔の前に1基、司令塔両脇の船橋の横に片舷1基ずつ両舷で2基、艦後部に1基。アームストロング 40口径12cm単装速射砲は片舷4基ずつ両舷で8基。片舷に5基並んでいる砲の内、先頭が15.2cm砲である。

「吉野」は、日本海軍において初めて無煙火薬の導入と測距儀(バー・アンド・ストラウド社製(海軍呼称:武式)1.5メートル測距儀)を搭載した艦であった[20][21]

年譜[編集]

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 河原要一 大佐:1893年6月7日 - 1895年6月4日
  • 諸岡頼之 大佐:1895年6月4日 - 1896年11月26日
  • 島崎好忠 大佐:1896年11月26日 - 1897年12月1日
  • 植村永孚 大佐:1897年12月1日 - 1898年6月13日
  • 丹治寛雄 大佐:1898年6月13日 - 1899年6月17日
  • 大井上久麿 大佐:1899年6月17日 - 1900年2月13日
  • 酒井忠利 大佐:1900年2月13日 - 1901年1月21日
  • 寺垣猪三 大佐:1901年2月4日 - 1901年3月13日
  • 松本有信 大佐:1901年4月23日 - 1902年4月22日
  • 佐伯誾 大佐:1903年4月12日 - 1904年5月15日戦死

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b #達明治25年8月p.8『達第六十四號 英國ニ於テ製造ノ巡洋艦ヲヨシト命名セラル 明治二十五年八月三十日 海軍大臣 子爵仁禮景範』
  2. ^ a b #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道|軍艦|巡洋艦|二等|浪速 高千穂 嚴島 松島 橋立 吉野 高砂 笠置 千歳』
  3. ^ a b c d e f g h #幕末以降帝国軍艦写真と史実第40コマ(原本53頁)『吉野(よしの) 艦種巡洋艦 二檣(戰闘檣あり)
    艦名考山名に採る、吉野山は大和國吉野郡吉野村に在り、吉野川の南、金峰山の下、川名に採る、夾地に據り一郷邑を爲す、吉野山とは此山地の總稱なり。
    艦歴明治26年9月30日英國に於て竣工、同年10月英國出發、同27年3月呉到着。同27・8年戰役從軍:同27年7月25日豊島海戰に参加(艦長大佐河原要一、第一遊撃隊旗艦司官少将坪井航三)、同8月威海衛砲撃に参加、同9月17日黄海々戰に参加、同11月大連及び旅順港占領に從事、同28年2月威海衛總攻撃及び同地占領に從事、同31年3月二等巡洋艦に列す。同33年北清國事變從軍:同37・8年戰役に從軍(第三戰隊):同年5月15日旗艦千歳(出羽第三戰隊司令官座乗)吉野・春日・八雲・富士と編隊航行中、深夜遽然濃霧に遭遇し、變針の際、後續艦春日に衝かれ沈没、艦長大佐佐伯誾、副長少佐廣渡目頁一其の他准士官以上30名、下士卒284名、傭人3名殉難。
    ―要目― 長350呎/幅46.5呎/吃水20呎/排水量4,160噸/機關 縦置汽關隻螺旋高圓罐12/馬力15,000/速力23/乗組人員385/船材 鋼/兵装 15拇安砲4/12拇安砲8/47粍砲22/發射管5/起工 明治25-3-1/進水 同25-12-20/竣工 同26-9-30/建造所 英國エルスウィック安社』
  4. ^ a b c d e f g #日露戦争史(1906)コマ124-125(原本223-225頁)『吉野も初瀬も、其の沈没は同じく五月十五日の事なりき、吉野は第三戰隊と共に、深夜旅順口封鎖の任務より歸航の途に就き、艦上少数の哨兵を殘して、艦員皆眠につきぬ。此の日午前一時四十分頃、恰も山東角の北方海面に來りし時、濃霧の爲めに咫尺を辧せず。将に針路を轉ぜむとする時、忽ち一大響音を聞く、是れ春日が其の左舷艦尾に衝突したるなり。前艦橋に在りし佐伯艦長は、依りて直に衝突防水を命じ、全力を擧げて、之が防水に努めしも其の効なく、浸水益々甚しくして「總員上へ」の命下りし時は、潮水既に甲板に及び、艦長が「總端艇卸し方」を命じ次いで「總員乗艇退去」を命じたる時は、後部○に浸入を見ざるのみなりき。斯くて佐伯艦長は、御眞影を奉じて、廣渡副長と共に、天皇陛下萬歳を發聲するや。總員は之に和して、萬歳の聲は波間に響きぬ。第二唱未だ唱へ終らざるに、吉野は早や右舷に傾斜して、佐伯艦長、廣渡副長以下、三百の将校下士卒は、既に其の艦に殉じて、皆水底に沈みぬ。殊に佐伯艦長が、廣渡副長、竹内航海長と共に最後に至るまで、吃然として司令塔に卓立し、從容迫らず、音吐朗々、號令整然たりし最後の威厳は、以て帝國海軍の模範となすに足る。救助されし者は将校六名、准士官一名、下士以下九十七名にて、戰死せしは、佐伯艦長以下将校三十一名、下士以下二百八十六名なりき。
    顧れば去る二十七年、花の吉野と歌はれて、英國より回航せし當時、我が、國民が、花の姿に比べしも、短かヽりき十年の夢となりぬ。殊に日清戰争の際、最も快速なる堅艦として、第一遊撃隊の旗艦となり、坪井少将を頂きて、勇壮活溌なる行動をなし、吉野櫻に武士の姿など謡はしめたるは、今猶吾人の記憶を新たならしむ。爾來十年を經て、日露戰開戰以來、敵地に出入せし事前後十六回、あはれ暗夜濃霧の裡、舷燈を許さぬ戰場に於いて、空しく悲惨の最後を遂げたるは、惜しむべく、悼むべきにこそ。』
  5. ^ a b c #日露戦役海軍写真集(1)p.18『軍艦吉野艦長以下士官 嗚呼是れ明治三十七年五月十五日午前一時四十分、山東角の北方海面に於て、濃霧に遭ひ、春日と衝突して沈没したる吉野の艦長以下士官諸氏にして、前方第二列の中央なるは、艦長大佐佐伯誾君なり。また艦と共に沈みぬ。吉野は四千二百二十五噸速力廿五哩の巡洋艦、明治廿五年の進水にて、日進戰役の當時功績最も多かりしに、今や此の災厄に遭ひ、乗組員中救助艇にて収容せられたる者は、機關長以下約九十名、恨は黄海の底よりも深し。』
  6. ^ a b #旅順附近海戦一覧p.5『五月十五日|夜|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我吉野ハ春日ト衝突ス|艦長以下三百十八名艦ニ殉セリ/敵驅逐艦「ウエマテリスイ」渤海灣ニテ坐礁放棄/晝|我「初瀬」及「八島」ハ敵監視中老鐡山ノ南東約十海里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ此時敵驅逐艦十六隻大擧我艦隊ヲ襲撃セシモ我巡洋艦ノ爲撃退サル|初瀬八島沈没|五月初旬ヨリ海軍ノ援護ニヨリ續々我陸軍關東半島ニ上陸開始』
  7. ^ #亡失表p.2『二・三等巡洋艦|吉野|四,一五〇|春日ト衝突沈没|(濃霧中)五月十五日|』
  8. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ198番『◎巡洋艦吉野命名ノ件 明治二十五年八月三十日(達六四)英國ニ於テ製造ノ巡洋艦ヲヨシト命名セラル』
  9. ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道』
  10. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『◎軍艦及水雷艇類別等級 明治三十一年三月二十一日(達三五)軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム(別紙)軍艦|巡洋艦|二等|浪速 高千穂 嚴島 松島 橋立 吉野 高砂 笠置 千歳|』
  11. ^ #日露戦争大本営公報集コマ36(原本51頁)『一、本職は茲に三度不幸なる變災の報告を進達するを遺憾とす十五日午前五時千歳出羽司令官よりの無線電信報告によれば本日午前一時四十分頃第三戰隊は旅順口封鎖の任務より歸航中山東角の北方海面に於て濃霧に遭ひ春日は吉野の左舷艦尾に衝突し浸水甚しく吉野は終に沈没せり春日より出したる救助艇にて収容されたる者機關長以下約九百十名なりと濃霧未だ霽れず痛心に堪へず(五月十五日午前十時五分大本營着電)』
  12. ^ #日露役旅順港海海戦戦死者p.2『(三七)〃-五-一五|夜|吉野|同上|三一九|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我春日ト衝突沈没 乗員四二七名ノ内艦長佐伯大佐外三一九名戰死』
  13. ^ #亡失表p.1『戰艦|初瀬|一五,〇〇〇|敵機雷ニ觸レ沈没|五月十五日|』
  14. ^ #亡失表p.1『戰艦|八島|一二,三二〇〇|敵機雷ニ觸レ沈没|五月十五日|』
  15. ^ #戦袍余薫懐旧録コマ101『初瀬八島の遭難(敷島艦長海軍大佐)海軍中将寺垣猪三』
  16. ^ #大戦余響コマ28-30(原本35-39頁)『〔十一〕吉野初瀬八島の沈没』
  17. ^ #達明治38年6月p.7『達第八十二號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 愛宕|呉鎮守府在籍 軍艦 八島/軍艦 高砂|佐世保鎮守府在籍 軍艦 大島|舞鶴鎮守府在籍 逐驅艦 速鳥 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 水雷艇 第六十九號|佐世保鎮守府在籍 水雷艇 第三十四號/水雷艇 第三十五號 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|明治三十八年六月十五日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
  18. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ52番『明治三十八年六月十五日(達八三)軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル』
  19. ^ #達明治38年6月p.7『達第八十三號 軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル 明治三十八年六月十五日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
  20. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第237コマ(原本82頁)『一、初めて六吋(十五拇)速射砲及び紐状無煙火藥を採用す―明治二十五年(一八九二)「吉野」に之を装備す』
  21. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第237コマ(原本83頁)『一、保式十四吋魚雷及びB・S式距離測定器採用―明治二十六年(一八九三)「吉野」以降之を使用す』

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治25年 達 完/8月』。Ref.C12070029900。
    • 『明治31年 達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。
    • 『明治32年 達 完/10月』。Ref.C12070042900。
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。
    • 『日露役旅順附近海戦一覧表(明治37年)』。Ref.C14120009300。
    • 『日露役(旅順附近黄海海戦)に於ける沈没艦船並戦死者一覧表(昭和10年6月7日旅順要港部港務部調製)』。Ref.C14120009400。
    • 『日露役旅順陥落迄の両国艦船勢力並亡失表(明治37年)』。Ref.C14120009500。
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』 海軍大臣官房、1939年
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』 海軍大臣官房、1940年
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886713』 海軍大臣官房、1940年
    • 河村貞編 「初瀬、吉野の二艦沈没」『日露戦争大本営公報集 info:ndljp/pid/774421』 立誠堂、1906年1月。
    • 川俣馨一編 『日露戦争史 info:ndljp/pid/774407』 尚文社、1906年4月。
    • 坪谷善四郎編 『日露戦役海軍写真集. 第1輯』 博文会、1905年9月。
    • 藤田定市編 『戦袍余薫懐旧録.第2輯 info:ndljp/pid/1447099』 財団有終會、1926年12月。
    • 鳳秀太郎編 『日露戰役話集 大戰餘響 info:ndljp/pid/954055』 博文館、1917年3月。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡Ⅰ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報

関連項目[編集]

外部リンク[編集]