杵埼型給糧艦

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杵埼型給糧艦
公試中の「荒埼」(推定1943年5月)[1]
公試中の「荒埼」(推定1943年5月)[1]
基本情報
種別 運送艦(給糧艦)
命名基準 岬の名
建造所 大阪鉄工所桜島工場
(のちに日立造船桜島造船所)[1]
運用者  大日本帝国海軍
同型艦 杵埼・早埼・白埼・荒埼
建造数 4
要目 (計画)
基準排水量 910英トン[2] または 920英トン[3]
公試排水量 951トン[2]
全長 62.290m[2]
水線長 59.35m[3] または59.45m[2]
垂線間長 58.000m[2]
最大幅 9.40m[2]
深さ 5.30m[2]
吃水 3.107m[4]
主機 艦本式23号甲8型ディーゼル2基[2]
推進器 2軸[2]
出力 1,600hp[2]
速力 計画 15ノット[2]
実際 14.7ノット[2]
航続距離 計画 3,500カイリ / 12ノット[2]
実際 3,600カイリ / 13.8ノット[2]
燃料 重油満載 80トン[2]
公試状態 57トン[5]
搭載能力 冷凍糧食84.6トン
(杵埼は冷凍糧食82トン)
補給用真水71.7トン[8]
乗員 計画乗員 67名[3]
1942年4月定員 56名[6][7]
兵装 40口径3年式8cm高角砲 1門[2]
13mm連装機銃1基[2]
九五式爆雷8個[2]
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杵埼型給糧艦(きねさきがたきゅうりょうかん)は、日本海軍給糧艦。同型艦4隻。

計画[編集]

給糧艦として冷凍品や生糧品の運搬の他、漁場で直接魚を買い付け、冷凍して艦隊に供給する要望があった[9]。1938年10月商議の支那事変に関連する第3次戦備促進で小型冷凍船(約500トン)2隻の補充が要望され[10]、昭和14年度臨時軍事費で1隻1,574,000円、2隻合計3,147,000円の予算が成立している[11]。小型冷凍船(後の「野埼」)との比較検討のため、1隻は艦型を1,000トン型に拡大した中型冷凍船となった[9]

中型冷凍船の「公称第4006号」(後の「杵埼」)は昭和14年度(1939年)の雑船費で建造され、1940年雑役船として竣工[9]、直後に「南進」と改名している。糧食搭載量が小型冷凍船の約2倍あり、こちらが適当とされ[9]、1940年に決定した「急追せる世界情勢に即応する戦備促進要領」(後にマル臨計画の一部となる)で3隻が追加された[12]。昭和16年度臨時軍事費(1941年)での予算は1隻2,110,000円、3隻合計6,330,000円だった[13]

艦型[編集]

多種類の糧食を積む「間宮」「伊良湖」とは異なり、冷凍糧食や生鮮品に特化した艦としたので冷凍庫を持つ遠洋漁船タイプの艦型となった[9]

船体は逓信省の鋼船構造規定に準拠し、船首楼と船橋楼を持つ1層甲板型である[9]。船艙は艦橋前にあり、内部を仕切って獣肉庫、卵果物庫、魚肉庫、野菜庫、氷庫などを設けた[9]。これら冷凍庫の容積は477立方メートルだった[2]。艙口は小型の2個があり、前部マストに1トンデリック4本(「杵埼」はデリック2本[14])を設け、急速補給に対応した[9]。艦橋直下の冷却機室に力量5,000キロ・カロリー/時の炭酸ガス式電動冷却機2台を設置、それより後方には士官室や兵員室、機械室などがあって船艙は無く、後部マストにデリックも無かった[9]

兵装は前部の砲台に8cm高角砲を設置[15]、13mm連装機銃は後部構造物上に設置した[9]。大戦中に13mm連装機銃は25mm連装機銃に換装、艦橋上に13mm単装機銃2挺を追加したらしい[16]

運用[編集]

「南進」は1942年に雑役船から特務艦に変更となり「杵埼」と改名され、残り3艦は1942年から1943年に特務艦として竣工した。

大戦中はもっぱら基地と艦隊間の輸送に従事した。大戦中に「杵埼」が戦没、残った3隻は戦後に復員輸送に従事し、その後連合国側に引き渡された。アメリカに引き渡された「荒埼」は日本に返還された。

なお、1942年改⑤計画で杵埼型7隻の追加建造が計画され[17][18]、予算も成立した[19]が、全て建造取り止めとなった[20]。仮称艦名は第5401号艦から第5407号艦[17]で、片桐大自によると予定艦名はそれぞれ「清埼(きよさき)」「大埼(おおさき)」「部埼(へさき)」「樫埼(かしざき)」「呉埼(くれさき)」「三埼(みさき)」「藤埼(ふじさき)」だった[21]

同型艦[編集]

1940年9月30日、日立桜島で雑役船「公称第4006号」として竣工。10月25日「南進」に改名。1942年4月1日特務艦(運送艦)に類別し「杵埼」と改名。トラックマーシャルギルバート方面への補給に従事。1944年ころよりサイパン方面への船団護衛、ついで南西諸島方面への船団護衛や補給に従事する。1945年3月1日にカタ604船団を護衛中、奄美大島付近で空襲により戦没。
1942年8月31日、日立桜島で竣工。連合艦隊付属に編入されラバウル方面の、1944年以降は中部太平洋からスラバヤ方面での糧食補給に従事。シンガポールで終戦を迎える。戦後は復員輸送艦を務めた後、賠償艦となる。1947年7月、基準艦[22]となりナホトカを往復。同年10月3日にナホトカでソ連に引き渡し。
1943年1月30日、日立桜島で竣工。連合艦隊付属に編入され千島方面の補給任務に従事。大湊で終戦。復員輸送艦の後、1947年7月に編隊基地艦[22]となる。上海青島を3往復。1947年10月3日に青島で中国に引き渡し、「武陵」と改名された。1970年5月1日除籍。
1943年5月29日、日立桜島で竣工。連合艦隊付属に編入されラバウル方面で糧食輸送。1944年以降はシンガポール、スラバヤ方面で糧食輸送。1945年2月1日スラバヤ西方で触雷により損傷。シンガポールで終戦。復員輸送艦の後、賠償艦引き渡しの編隊基地艦[22]となる。その後アメリカへ引き渡されたが日本に返還されて1948年4月に水産大学校練習船「海鷹丸」となった。1956年民間に売却され「高知丸」のちに「なにわ丸」と改称する。1967年フィリピンに売却された。

参考文献[編集]

  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9 
  • 『世界の艦船増刊第47集 日本海軍特務艦船史』、海人社、1997年3月。 
  • (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<2> 開戦以後』 戦史叢書第88巻、朝雲新聞社、1975年。 
  • 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 雑誌「丸」編集部 編『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6 

脚注[編集]

  1. ^ a b #日本海軍特務艦艇史p.31。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『海軍造船技術概要』917頁。
  3. ^ a b c 『昭和造船史第1巻』794,795頁
  4. ^ 『海軍造船技術概要』917頁による。『昭和造船史第1巻』794,795頁によると3.11m。
  5. ^ 『海軍造船技術概要』917頁による。『昭和造船史第1巻』794-795頁によると満載で57トン。
  6. ^ 昭和17年4月1日付 内令第560号別表。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070162200 で閲覧可能。
  7. ^ 昭和17年4月10日付 内令第635号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070162300 で閲覧可能。
  8. ^ 『日本海軍特務艦艇史』による。『写真日本の軍艦第13巻』によると杵埼で補給用真水57.7トン、早埼で71.7トン。
  9. ^ a b c d e f g h i j #海軍造船技術概要p.913
  10. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.787-789
  11. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.804
  12. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.803-804
  13. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.805
  14. ^ #日本海軍全艦艇史p.868、「公称第4006号」(「杵埼」)の公試中の写真。
  15. ^ #日本海軍特務艦艇史p.31の写真及び解説。
  16. ^ #写真日本の軍艦第13巻p.27。
  17. ^ a b #海軍造船技術概要p.1536の表「太平洋戦争中の建艦計画」
  18. ^ #戦史叢書88海軍軍戦備2p.36
  19. ^ #日本海軍特務艦船史p.139、中川努「日本海軍 特務艦船整備の歩み」
  20. ^ #戦史叢書88海軍軍戦備2p.48
  21. ^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝pp.603-606
  22. ^ a b c いずれも賠償艦が引き渡し地へ航行する際に同行し、引き渡し後には回航した日本人乗員を乗せて日本に引き返している。

関連項目[編集]