特殊潜航艇によるシドニー港攻撃

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シドニー港攻撃
I-15.jpg
シドニー港攻撃に参加した日本海軍の巡潜乙型潜水艦
戦争第二次世界大戦
年月日1942年5月30日
場所オーストラリアシドニー港
結果:大日本帝国軍の戦略的成功
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国  オーストラリアの旗 オーストラリア
戦力
巡潜乙型潜水艦x5
特殊潜航艇甲標的x3
損害
特殊潜航艇3隻撃沈
戦死者6名
事故による死亡1名(戦死扱)
宿泊艦「クッタブル」
戦死者19名

特殊潜航艇によるシドニー港攻撃(とくしゅせんこうていによるシドニーこうこうげき)とは、太平洋戦争大東亜戦争)中の1942年5月31日深夜に、シドニーから約20キロ離れた地点で母艦である潜水艦を発進した大日本帝国海軍特殊潜航艇3隻が、オーストラリアシドニー港停泊中のオーストラリア海軍艦船に対して行った攻撃である[1]

特殊潜航艇のうち1隻はアメリカ海軍の軍艦「シカゴ」を魚雷により攻撃したが、魚雷は目標をそれて宿泊艦「クッタブル英語版」を破壊、沈没させ、19人が死亡した[2]。特殊潜航艇はシドニー湾の南方40キロの地点で母艦に回収される予定だったが、3隻とも帰還することはできなかった[3]

シドニー地区の海軍司令官グルード英語版提督は、戦死した特殊潜航艇の乗組員のために海軍葬を行い、戦死した兵士の遺骨はシドニーに拘留中だった日本公使河相達夫に手渡され、1942年10月に捕虜交換船鎌倉丸で河相公使とともに日本に戻った[4]

攻撃の目的[編集]

マダガスカルの戦いと連動した攻撃で、連合国の主要国であったイギリス連邦間の通商破壊を目的とした。

攻撃部隊[編集]

参加した潜水艦伊21伊22伊24伊27伊29の5隻で、伊22、伊24、伊27の3隻が特殊潜航艇甲標的を搭載した。[5]

使われた特殊潜航艇は基本的には真珠湾攻撃で使われた甲標的と同型のもので、少し改良が施されていた。主要目は以下の通りである。

攻撃の経過[編集]

1942年4月27日に伊21・伊29、同年5月18日朝に伊22・伊24・伊27が、トラック諸島チューク島を出港した。出港当日の夕方、伊24搭載艇が爆発事故を起こし乗員が死傷したため、同艦はトラック諸島に引き返し、乗員を伴中尉らと交替させて再度出港した。5月30日に、伊22、伊24、伊27の3隻はシドニー沖に到着した。

1942年5月31日16時21分、伊22搭載艇が発進。続いて28分に伊27搭載艇が、40分に伊24搭載艇が発進した。

着底したクッタブル

伊27搭載艇はシドニー港入り口で防潜網に絡まり、21時30分ごろ自爆した。

次に伊24搭載艇が港内に向かい、侵入に成功した。伊24搭載艇は港内に在泊していた連合国の1国であるアメリカ海軍重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を発射した。魚雷は2本ともはずれ、そのうち1本は岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。伊24搭載艇は帰途シカゴの攻撃によって撃沈された。[6]

最後に伊22搭載艇が港内に侵入したが、このときには警戒が厳しくなっていた。伊22搭載艇はオーストラリア海軍艦艇からの爆雷攻撃を受け結局自爆し、魚雷は未発射であった。なお、特殊潜航艇を発進させた潜水艦は6月3日まで帰投を待っていた。

海軍葬[編集]

自爆した2隻の特殊潜航艇は1942年6月4日、5日に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将は乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)の海軍葬を行った。

戦時中に敵国である日本の軍人に鄭重な礼を尽くすことには、オーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降することなしに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、豪州国民に訴えた。

「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」[7]

「戦死した日本軍の勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中していることは承知している。けれど私は、あえてこの葬儀を実行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼らのように勇敢な死を遂げた場合、彼らにもまた、同様の名誉ある処遇を受けさせたいためである…」[8]

遺骨の引渡し[編集]

遺骨を乗せ横浜港に戻った第1次日英交換船の鎌倉丸

戦死した4人の遺骨は中立国であるポルトガル東アフリカロレンソ・マルケスでシドニーに拘留中の日本公使河相達夫に引き渡され、第一次日英交換船の鎌倉丸の乗船した河相公使によって、10月9日に遺族らが待ち受ける横浜港に到着した。12月8日山本五十六連合艦隊司令長官はディエゴ・スアレス攻撃部隊とあわせて感状を与えた[9]

○第六艦隊第二次特別攻撃隊
昭和十七年五月三十一日敵英國艦隊ヲ「デイエゴスワレス」灣及「シドニー」港ニ奇襲シ多大ノ戰果ヲ擧ゲ帝國海軍軍人ノ忠烈ヲ克ク中外ニ宣揚シ全軍ノ士氣ヲ振作シタルハ其ノ武勲抜群ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス

昭和十七年十二月八日、聯合艦隊司令長官 山本五十六

1943年3月27日に、特殊潜航艇の乗員は二階級特進した。

引揚船の展示[編集]

引き上げられた特殊潜航艇

引き上げられた特殊潜航艇は、戦時オーストラリア国民の危機意識を高め、戦時募金を募る目的でオーストラリア国内4,000キロを巡回展示されたあと、1943年4月28日にオーストラリア首都キャンベラオーストラリア戦争記念館英語版に展示された。

屋外に展示されていた間は、様々ないたずらや破壊行為の標的にされたが、中でも1966年に現地の学生らによって黄色のペンキを塗りつけられた事件が悪名高い。これは当時流行していたビートルズのヒット曲の「イエロー・サブマリン」にかこつけた洒落とのことである。しかし1980年代に同記念館の館内に展示・保存されて以降は大きな事件はない。

現在ではシドニー湾への侵入経路や戦死した乗員に関する詳しい説明パネルが付されている。海上自衛隊練習艦隊がシドニー港に寄港する際には隊員が慰霊を行うのが通例である。


脚注[編集]

  1. ^ 遠藤(1996) 16-17頁
  2. ^ 遠藤(1996) 17頁
  3. ^ 遠藤(1996) 17頁
  4. ^ 遠藤(1996) 17-18頁
  5. ^ 計画ではもう1隻伊28も参加する予定であったが、同艦は1942年5月17日にアメリカ海軍潜水艦トートグの雷撃で沈没した。
  6. ^ 同艇の沈没位置は不明となっていたが、2006年11月26日にオーストラリアの民放局が、地元のダイバーによってシドニー沿岸数キロ沖の海底で沈没した船を発見したと報じた。映像からは魚雷管などが確認できたため、特殊潜航艇ではないかとの見方が浮上してオーストラリア政府が確認に乗り出し、12月1日に、キャンベル環境・自然文化遺産相によって旧日本海軍の特殊潜航艇と確認と発表された[1]
  7. ^ 『世界から見た大東亜戦争』180頁
  8. ^ 遠藤(1996) 17-18頁
  9. ^ 昭和18年1月27日(水)海軍公報(部内限定)第4301号 p.15』 アジア歴史資料センター Ref.C12070429400 

参考文献[編集]

  • 遠藤(1996):遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社、1996年。

関連項目[編集]