毛沢東
| 毛 沢東 毛 泽东 | |
毛沢東(1976年) | |
| 任期 | 1945年6月19日 – 1976年9月9日 |
|---|---|
| 筆頭副主席 | 劉少奇 林彪 周恩來 華国鋒 |
| 任期 | 1945年8月23日 – 1949年10月1日[注釈 1] 1954年9月28日[注釈 2] – 1976年9月9日 |
| 筆頭副主席 | 朱徳 林彪 葉剣英 |
| 任期 | 1954年9月27日 – 1959年4月27日 |
| 副主席 国務院総理 |
朱徳 周恩来 |
| 任期 | 1949年10月1日 – 1954年9月27日 |
| 政務院総理 | 周恩来 |
| 副主席 | 朱徳 劉少奇 宋慶齢 李済深 張瀾 高崗 |
| 任期 | 1949年9月21日 – 1954年12月25日 |
| 最高指導者 | 毛沢東(兼任) |
| 出生 | 1893年12月26日(光緒19年11月19日) |
| 死去 | 1976年9月9日(82歳没) (廟:毛主席紀念堂) |
| 政党 | (1923年6月 - 1927年4月) (1921年7月 - 1976年9月) |
| 出身校 | 湖南第一師範学院 |
| 配偶者 | 羅一秀 (1907年 - 1910年) 楊開慧 (1920年1月 - 1927年8月) 賀子珍 (1928年6月 - 1937年10月) 江青 (1938年11月 - 1976年9月) |
| 子女 | 10人 |
| 署名 | |
| 毛沢東 | |
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| 各種表記 | |
| 繁体字: | 毛澤東 |
| 簡体字: | 毛泽东 |
| 拼音: |
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| ラテン字: | Mao Tse-tung |
| 和名表記: | もう たくとう |
| 発音転記: | マオ・ツォートン[1] |
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|---|---|---|
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中国の指導者 著作 遺産 |
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| 毛沢東思想 |
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毛 沢東[注釈 3](もう たくとう、マオ・ツォートン[1]、簡体字: 毛泽东、拼: Máo Zédōng、1893年12月26日〈光緒19年11月19日〉 - 1976年9月9日)は、中国の政治家、思想家[2]。
1921年7月に創立された中国共産党の創立党員の1人で、長征と日中戦争を経て党内の指導権を獲得した、1945年より中国共産党中央委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蔣介石率いる中華民国政府を台湾に追放し、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。1949年10月から1976年9月に死去するまで同国の最高指導者であった。
生い立ち
[編集]1893年12月26日(光緒19年11月19日)、清の湖南省湘潭県韶山沖(毛沢東故居)にて、父の毛貽昌(もう いしょう)と母の文素勤の間に誕生する[3]。5人兄弟の三男だったが、長男と次男は夭逝したため、事実上は長男扱いであった。
父親の毛貽昌は、貧農だったたが、やがて韶山で最も裕福な農家の一人となった。毛沢東は父親を厳格な人物として回想している。父親は、毛沢東や3人の兄弟、弟の毛沢民と毛沢覃、養妹でいとこでもある毛沢建に対して折檻を加えることもあった[4]。のち養妹の毛沢建は共産党女性ゲリラ兵となり、1929年8月20日に国民党に処刑された。毛沢覃は1935年4月26日に国民革命軍との戦争で戦死。毛沢民は1943年9月27日に盛世才に殺害された。
母の文七妹は敬虔な仏教徒であり、夫の厳格な態度を和らげようと努めた[5]。毛沢東も仏教徒となったが、10代半ばでその信仰を捨てた[5]。
毛沢東は才覚により地主に成り上がった厳格な父によって、子供の頃から労働に従事し、勉学にも励んだ。毛沢東は8歳の時に韶山の小学校に入学した。彼は後に、儒教的道徳には関心を持てず、『三国志演義』や『水滸伝』といった古典小説を好んだと語っている[6]。
毛沢東は13歳で初等教育を終えると、1907年、17歳の羅一秀との見合い結婚を父によって強いられ、両家の地主としての家系が結び付けられた。毛沢東は彼女を妻として認めようとせず、見合い結婚を激しく批判して一時的に家を離れた。結局羅とは一度も同居することなく、羅一秀は地元で不名誉な立場に置かれ、1910年に20歳で赤痢により死去した[7]。
父の農場で働きながら、毛沢東は貪るように読書に励み[8]、中国の国力低下を憂い代議制民主主義の導入を説いた鄭観応の著書から「政治的意識」を形成していった[9]。毛沢東はまた、アダム・スミス、モンテスキュー、ルソー、ダーウィン、トマス・ハクスリーの著作の翻訳も読んだ[10](p34)。歴史に関心を寄せていた毛沢東は、ジョージ・ワシントンやナポレオン・ボナパルトの軍事的才腕とナショナリズムの熱情に触発された[11]。
毛の政治的見解は、湖南省の省都である長沙で飢饉の後に勃発した秘密結社哥老会主導の抗議運動によって形成された。哥老会は清朝に反対し、漢民族の明王朝の復活(反清復明)を目指していた。毛沢東は抗議運動を支持した。軍隊は抗議運動を弾圧し、指導者たちを処刑した[12]。飢饉は韶山にも波及し、飢えた農民たちが父親の穀物を奪い取った。毛沢東は彼らの略奪行為を道徳的に誤ったものとして認めなかったが、農民の境遇には同情した[13]
従兄から贈られた中国の近代化を説く本に刺激を受けた毛は、1910年秋に故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学[14]。そこで農民出身であることを理由にいじめを受けた[15]。この学校では、康有為や梁啓超らの思想を学び、それらに影響を受けた。
長沙
[編集]1911年春に毛は長沙に赴き、湘郷駐省中学へ入学した[16]。
長沙では革命の気運が高まっており、皇帝溥儀の絶対君主制に対する反感が広く渦巻く中、多くの人々が共和制を唱えた。共和派の旗頭となったのは、ハワイ王国で教育を受けたキリスト教徒であり、中国同盟会を率いた孫文だった[17]。毛沢東は孫文の新聞『民立報』の影響を受け[18]、学校の作文で孫文を総統にすべきだと主張した[19]。清朝に対する反抗として、毛沢東は友人とともに、皇帝への服従の印であった辮髪を切り落とした[20]。
同年10月に辛亥革命が勃発した。孫文に触発された軍が中国南部各地で蜂起した。長沙の知事は逃亡し、同市は共和派の統治下に入った[21]。毛は清中央政府に反旗を翻した湖南駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊する[22]。
毛沢東は、一兵卒として革命軍に加わったが、実際の戦闘には関与しなかった。北部の諸省は依然として皇帝に忠誠を誓っており、内戦の回避を望んだ孫文は、清朝の軍人・政治家袁世凱と妥協を図り、皇帝溥儀が退位し、清朝が事実上崩壊し、中華民国が成立した。袁世凱が中華民国臨時大総統に就任した。革命の終結に伴い、毛沢東は6ヶ月間の軍務を経て、1912年に軍を除隊し[23]、学校へ戻った[24]。この頃、毛沢東は新聞で社会主義を知り、中国社会党の創設者である江亢虎のパンフレットを読んだが、完全に納得するには至らなかった[25]。

その後数年間、毛沢東は警察学校、石鹸製造学校、法律や経済の学校、政府運営の長沙中学校などに、入学しては退学を繰り返した[26]。1912年、長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学し、中学への入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧である月性の詩の「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した[注釈 4]。
いくつかの学校を転々とする間、毛は長沙の図書館に通い、アダム・スミスの『国富論』やモンテスキューの『法の精神』、ダーウィン、ミル、ルソー、スペンサーらの著作を読んだ[30]。自らを知識人と見なしていた彼は、後年になって、当時は自分を労働者階級よりも優れた存在だと考えていたことを認めている[31]。毛は新カント派の哲学者・教育者であるフリードリヒ・パウルゼンから影響を受けた。パウルゼンは、綿密に定義された目標の達成を最高の価値と見なす思想を説いており、これに触発された毛沢東は、強靭な個人とは道徳的規範に縛られることなく、偉大な目標の実現に向けて邁進すべき存在であると考えるようになった[32]。父親は息子の知的な探求に何ら価値を見出さず、仕送りを打ち切り、毛沢東は貧困者向けの宿泊施設へ移った[33]。
教師になることを志した毛沢東は1913年春に長沙第四師範学校に入学した。同校はまもなく、湖南省で最高と目されていた湖南第一師範学院と合併した[34]。入学して最初の年、毛沢東は上級生の蕭子升と親しくなり、二人で湖南省を徒歩で巡る旅に出た。その際、彼らは物乞いをしたり、対聯詩句を書いたりすることで食料を調達した[35]。毛沢東を見込んだ教員の楊昌済は、友人であり北京大学学部長でもあった陳独秀が創刊した雑誌『新青年』を読むよう勧めた。陳は中国ナショナリズムの支持者であったが、迷信や専制政治を払拭するためには、中国は西洋に目を向けるべきだと主張していた[36]。
学生の間で人気があった毛沢東は、1915年に学生会の書記に選出され、学生自治会を組織し、校則への抗議活動を主導した[37]。
1917年春、彼は、略奪を働く兵士たちから学校を守るために結成された学生義勇軍の指揮官に選出された[38]。 戦争の技術に対する関心を深めるにつれて、彼は第一次世界大戦に強い関心を抱き、同時に労働者との連帯感も抱き始めた[39]。
1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛の故郷である湖南省を訪れ、講演会を開いた。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛はアメリカの記者であるエドガー・スノーに日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している[注釈 5]。
「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる」
当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです[40]。
同年、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』に毛の最初の論文となる「体育の研究」を発表、革命のために体力を増強するよう説いた[41]。
毛は、中華民族(漢民族)を復興させて清朝の満洲族の支配を打倒して、新しい国を作ることを訴えた思想家王夫之を研究する船山学社に加わった[42]。
新文化運動やロシア革命の影響を受けて毛沢東は1918年4月に「新民学会」を結成し、陳独秀の思想について議論を交わし、学術の革新、人心風俗の改良を目指した[43]。同会は70〜80名の会員を擁するようになり、その多くは後に共産党へ加わっていった[44]。また毛沢東は蕭子升や蔡和森らと共に、軍事訓練に取り組んだ。
毛沢東は1919年6月、学年3位の成績で卒業した[45]。
北京大学図書館司書補
[編集]毛沢東は北京に移り住んだ。そこでは毛は彼の師である楊昌済がによって北京大学に職を得ていた[46]。楊は毛沢東を並外れて聡明かつ美男子だと考え[47]、のちに初期の中国共産党員となる大学図書館員李大釗の助手として就職した[48]。李は日本に留学し、安部磯雄やマルクス経済学者河上肇の影響を受けていた[49]。なお、董必武、廖承志、李漢俊など中国共産党の創設メンバー57人(または58人)のうち、3分の1が日本留学経験者だった[49]。李大釗は、レーニン率いるボリシェヴィキが権力を掌握したロシアの十月革命について、『新青年』誌で論説を執筆し、中国の革命思想の教義にマルクス主義を加えることとなった[50]。
他方、毛沢東は、ピョートル・クロポトキンの無政府共産主義(アナーキズム)の影響を受けた[51](pp46-47)。北京大学学長の蔡元培をはじめとする中国の無政府主義者たちは、それ以前の革命家が求めていた単なる統治形態の変革にとどまらず、社会関係、家族構造、そして女性の平等といった面での徹底的な社会革命を提唱した。毛は李(大釗)の学習会に参加し、1919年の冬の間にマルクス主義へと傾倒していった[52]。
毛は司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。司書補は雀の涙ほどの薄給であった[53]。低賃金で働いていた毛沢東は、同じ湖南省出身の学生7人と狭い部屋で暮らしていたが、北京の美しさが「鮮烈な埋め合わせ」をもたらしてくれると信じていた[54]。
大学では、湖南省の農村出身であることや訛りゆえに、毛沢東は他の学生たちから冷遇された。彼は大学の哲学研究会やジャーナリズム研究会に参加し、同大学の聴講生として登録し、陳独秀・胡適、銭玄同の講義やセミナーに出席した[55]。毛が胡適の講義に聴講生として出席して質問すると、胡適は威嚇的な態度で「質問していいのは、正規の学生のみだ」と答えた[53]。毛の知識人への憎しみは、このころに培われた[53]。
五四運動と湖南省知事追放運動
[編集]第一次世界大戦中の1915年に大日本帝国の対華21カ条要求を袁世凱が一部を除いて受け入れたこと、そして世界大戦後のパリ講和会議で、戦勝国だった日本がドイツ帝国に属していた山東半島の膠州湾租借地を継承したことなどに対して、1919年5月4日、北京の学生たちが21カ条要求の破棄と日本製品排斥を叫んで反日愛国運動デモを行った[58]。これは全国的な労働者のストライキをもたらし、五四運動となった[58]。結果、中国政府はヴェルサイユ条約に調印しなかった[59][58]。五四運動は、中国の外交的敗北の原因を社会的・文化的な遅れに求めた新文化運動を加速させた[60]。ヴェルサイユ条約の結果は毛沢東にとって、「外交における過去のあらゆる同盟や協商は、国際的な『いじめっ子』たちの結託にすぎない」という見解や、不合理かつ不公正な国際システムを是正するには革命が必要だという考えを強めた[61](p163)。毛、は「民族自決」を唱えながらも山東におけるドイツ権益の日本への継承を支持したウッドロウ・ウィルソン米大統領を「熱いフライパンの上のアリ」と評した[61]。
5・4運動が起きたことで遅れをとった毛は[56]、5月下旬に何叔衡や鄧中夏と共に湖南学生連合会を設立した。段祺瑞派の張敬堯湖南省知事は、その暴力的な統治から「毒蛇」の異名をとったが、毛は抗議活動を組織した[62]。6月の学生ストライキを組織した。同年7月、長沙で『湘江評論』を創刊した[56]。毛は「民衆大連合」の必要性や労働組合の強化を訴えたが、この時点ではマルクス主義よりもクロポトキンの「相互扶助」の概念から強い影響を受けていた[63]。当時の毛はマルクス主義というよりアナキストで、女性解放を主張し、女性も肉体労働をするべきでこれは女性の権利だとしながら、家事はこれまでのように女性の仕事だと主張し、さらに因習を打破して性的に解放されるべきだと唱えた[56]。『湘江評論』は4号で省政府から発禁処分を受ける。張敬堯知事は学生運動の結社を禁止した。毛は雑誌『新湖南』編集長に就任し、地方版『大公報』にも寄稿し、中国社会における女性の解放を訴えるフェミニズム的な主張も行なった。その背景には、彼自身が強いられた「親が決めた政略結婚」への反発があった[64]。
1919年秋、毛沢東は長沙で研究会を組織し、経済・政治問題、民衆を団結させる方法、社会主義、儒教問題について研究を行った[65]。この時期、毛沢東は肉体労働者を対象とした政治活動にも携わり、夜間学校や労働組合を設立した[65]。毛沢東は、母親が重篤な状態になっても故郷の韶山には戻らず[66]、1919年10月に母が死去する[67]。
1919年末、福州市で学生が日本海軍陸戦隊に対してデモを起こし(zh:福州慘案)、湖南省でも学生蜂起が起きると、湖南省長官張敬尭は弟張敬湯が率いる分遣隊を送り鎮圧した[56]。この事件を受けて、力の行使以外の方策は無駄なおしゃべりにすぎないと毛は考えるようになった[67]。毛沢東は自身の論文が革命運動の中で名声を博していることを知り、張を打倒するための支持を取り付けようと動き出した[68]。1919年12月、毛沢東は湖南でのゼネラル・ストライキに尽力し、一定の譲歩を勝ち取ったものの、張敬尭知事の反撃を恐れて北京へ行き、重篤だった楊昌済を見舞った[69]。1920年1月には楊昌済が死去する[67]。毛の父親も1920年1月に亡くなった[66]。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。この頃、新たに翻訳された社会主義者トーマス・カーカップ、カール・カウツキー、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』などの影響を強く受けたが、その見解は依然として折衷的であった[70]。
毛沢東は天津、済南、曲阜を歴訪した後[71]、上海でマルクス主義者陳独秀と出会い、深い感銘を受けた。また、かつての恩師であり、当時影響力を拡大しつつあった中国国民党党員であった易培基と再会した。易は毛を国民党の譚延闓将軍に紹介した。元湖南都督の譚は湖南省と広東省の境界付近に駐留する軍隊を掌握しており、張敬堯の打倒を画策していた。毛沢東は長沙の学生たちを組化して譚に協力した。1920年6月、譚が軍を率いて長沙に入ると、張敬堯は逃亡した。その後の省行政の再編に伴い、毛沢東は第一師範学校の附属小学校(初等部)の主事に任命され、定収入を得られるようになった。毛は、1920年の冬、楊昌済の娘である楊開慧と結婚した[72][73]。
毛は、湖南省独自の憲法が制定されれば市民的自由が拡大し、革命活動も行いやすくなると期待して、湖南の自治運動に関与していたが、新たな軍閥の下で湖南省の統治が実現すると、自治運動を忘れてしまった[74]。
楊開慧との間には岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。なお、第一次国共合作が破れ、共産党と国民党の戦いが激しさを増していた1930年10月に蔣介石率いる国民党軍は楊開慧と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。楊開慧は殺害され、その後息子たちは親類に送り返されている。
中国共産党への参加
[編集]
毛は1920年代初めにマルクス主義にめざめた[67]。中国共産党は1921年、上海フランス租界において、陳独秀と李大釗によって研究会および非公式なネットワークとして結成された。当時の共産党の党員は全国で57人で、共産党結党大会に出席した代表は3人だった[67]。
1921年7月23日、毛は上海で開かれた中国共産党第一次全国代表大会に出席する。この大会には毛沢東を含む13名の代表が参加した。またコミンテルンからヘンク・スネーフリートとウラジーミル・ネイマンが参加し、主役は張国燾だった[67]。張国燾が演説していると、突然誰も知らない男が闖入した[67]。スネーフリートは警察の偵察だとみなして、一同に解散を命じた[75]。その後、共産党は嘉興市の南湖に浮かぶ小舟を拠点として結党作業を継続した[76]。この第1回大会において代表らは、民族革命を掲げる「ブルジョア民主主義者」と共産主義者との一時的な同盟を受け入れるべきだというレーニンの助言を退け、社会主義革命を主導できるのは都市のプロレタリアートのみであるという正統派マルクス主義の信念を堅持した[77]。毛は湖南代表となり、共産党専従として報酬を受け取るようになった[76]。毛は長沙に共産党支部や社会主義青年団の支部のほか、出版社文化書社を設立した[78]。
毛沢東は長沙で中国共産党湖南支部書記となり、党を組織するために様々な戦術を用いた[79]。1921年8月に「自修大学」を船山学社内に設置した[79]。毛は非識字を撲滅するためのYMCAの民衆教育運動に参加すると、そこで使われている教科書に急進的な思想を盛り込んで編集したり[80]、湖南省長趙恒惕政権に対するストライキを行うよう労働者を組織した[81]。
安源炭鉱ストライキ
[編集]劉少奇、李立三、毛沢東は学校や協同組合を設立し、1922年9月の安源炭鉱ストライキは成功を収めた。後の共産党公式の記述とは異なり、このストライキには鉱山労働者だけでなく、知識人、教員、郷紳、軍将校、商人、秘密結社紅幇の有力者、教会の聖職者たちなど「ブルジョワ」の協力を得ていた[82]。
毛の妻の楊開慧も安源鉱山近隣の農村地域で、識字や教育の問題をはじめとする女性の権利向上のための啓発活動に取り組んでいた[83]。毛夫妻は。男性労働者の組織化と地域社会における女性の権利問題への取り組みを組み合わせるという政治的組織化の手法を効果的に活用した[83]。
安源の鉱山における政治的組織化の成功によって、陳独秀は毛沢東を共産党中央委員に招いた[84]。
毛沢東は、上海で1922年7月に開催された共産党の第2回大会を欠席した理由について、会場の住所がわからなくなったためだと言い訳した。代表者たちはレーニンの助言を受け入れ、「国民革命」の推進という大義の下、国民党の「ブルジョワ民主主義者」たちとの提携に合意した。共産党員たちは、国民党を左傾化させることを期待して同党へ加入していった[85]。毛沢東もこの決定に賛同し、階級を超えた提携を主張した。やがて毛は、国民党宣伝部長の地位にまで上り詰めた[73]。
毛沢東は反帝国主義者であり、著作の中で日本、イギリス、アメリカの政府を激しく非難し、特にアメリカについては「最も残虐な絞首刑執行人」と非難した[86]。
国民党との協力(国共合作)
[編集]1923年6月に上海での第3回中国共産党全国代表大会において、コミンテルンの指導の下で、国民党と協力していく国共合作の方針を再確認し、この立場を支持した毛沢東は党委員会委員に選出され、上海に拠点を移した[87]。
1923年9月に毛は共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、中国国民党の湖南支部を組織した[88]。当時、国民党と共産党の双方への参加は奨励されていた[76]。
1924年1月の第1回中国国民党全国代表大会に出席し、国民党中央執行委員会の候補委員に選出された。毛は都市部と農村部の局への権力分散に関する4つの決議案を提出した。同年に毛は国民党上海支部の幹部(組織部書記)となった。毛は指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。毛はしばらくの間、共産党が革命の重要な都市として重視した上海に残った。しかしながら、党は労働組合運動を組織し、民族主義の同盟国との関係を築くという大きな難題に遭遇した。党は困窮し、1924年後半、毛は革命に幻滅を感じて(または病気療養のため)韶山に戻ってきた。そこで彼は、一部の農民が地主から土地を奪ってコミューンを設立しているのを目の当たりにし、農民が革命の潜在力を持っていると確信した。これは当時、国民党左派が主張していたが、共産党は支持していなかった考え方であった[89]。毛沢東とその同僚の多くは、国民党との協力関係の解消も提案したが、これはコミンテルン代表のミハイル・ボロディンによって拒否された[90]。
自宅にいる間の1925年に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで、毛の関心は蘇った。毛の政治的野心は蘇り、第2回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かった。1925年10月に毛は国民党中央宣伝部長代行となった。国民党に対する毛の熱烈な支持は、李立三の疑念を招くほどだった[91]。
1925年冬、革命活動が趙政府の地方当局の目に留まったため、毛沢東は広州へ逃れた[92]。
湖南省農民運動調査報告書での暴力革命論
[編集]広州で毛は、1926年5月から9月にかけて、国民党の農民運動講習所第6期を運営した[93][94]。農民運動講習所では、軍事教練や左翼革命の基本文献の学習を通じて幹部を育成し、急進的な活動に備えさせた[95][96]。
1925年5月に孫文が死去すると、蒋介石が後継者となり、国民党左派や中国共産党を排除する動きに出た[97]。それにもかかわらず、毛は国民革命軍を支持した。同軍は1926年、軍閥に対する北伐を開始した[98]。北伐の余波を受けて農民が蜂起し、地主の土地を接収し、その際、地主の多くが殺害された。こうした蜂起は、国民党の地主層出身の有力者たちを激怒させ、運動内部における対立が深まった[99]
1926年12月、長沙で開催された労働者と農民の代表大会に出席するために毛は湖南省に戻った。1926年に国民党農民運動講習所長に就任した毛はここを気に入り、国民党への移籍を考えてもいる[76]。
毛は、翌1927年1月から2月にかけて湖南省における農民運動調査報告書を作成した。これは「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という毛の革命理論の構築の初期段階と考えられている[100]。同報告書で毛は、地主の封建的権力体制を転覆するには、強力な革命の気運が必要で、その革命においては「過激さ」が必須だと論じた[101][102]。農民たちが、地主の家を襲い、豚を殺し、穀物を奪い、地主の娘や妻を「象嵌細工の寝台」で寝転ばせ、つまり強姦し、地主たちから金を奪い、侮辱し、追放することを毛は喜んだ[102]。毛にとって暴力とは助言者であり、階級の敵を攻撃し、追い詰め、殺すこと、革命と反革命の間の亀裂を広げるためには大量の流血は、必要であると毛は考えた[102]。同報告書で毛は以下のように暴力革命論を主張した[53]。
革命とは、客を招いてご馳走することでもなければ、文章を推敲したり、絵を描いたり、刺繍をするといったような優雅で穏やかでお上品なものではない。革命とは蜂起、暴力である。一つの階級が別の階級をうち倒す暴力である。 — 毛沢東、湖南省における農民運動調査報告書,1927年[101]
この文章から「革命はディナーパーティーではない(Revolution is not a dinner party)」「革命とは客を夕食に招待することではない」というフレーズが有名になった[103][104][105][106][107]。
1927年3月、武漢で開催された中国国民党中央執行委員会第3回全体会議では、蒋介石から権力を剥奪し、汪兆銘を指導者に据えることが目指された。毛沢東はこの会議で農村革命について議論し、悪徳地主や威張り散らした有力者(土豪劣紳)などを殲滅するうえで平和的な手段では不十分であり、武力を用いるべきだと主張し、反革命罪を犯した者に対する死刑を科すことを規定した「土豪劣紳鎮圧条例」を擁護した[108][109]。
1927年4月、毛沢東は、国民党左派の鄧延達、徐謙、顧孟余、譚平山ら5人からなる中央土地委員会の委員に任命された。同委員会は土地改革政策を起草し、武漢政府下で農地改革に取り組んだ[110]。
また、毛沢東は「土地問題に関する決議案」を策定し、「村落内の悪徳豪紳、汚職官吏、軍閥、およびあらゆる反革命分子」が所有する土地の没収を求めた。30畝(2ヘクタール)以上の土地所有者は一律に反革命分子であると断定したが、これは人口の13%を占めた。一方で彼は、革命への熱意には全国的に大きなばらつきがあることを認め、土地再分配に関しては柔軟な政策が必要であると考えていた[111]。しかし、この決議案を提示した際、多くの者が懸念を表明し、行き過ぎだと考える者もいれば、不十分だと考える者もいた。結局、提案が実施されたのは一部にとどまった[112]。
第一次国共内戦
[編集]上海クーデター
[編集]1926年3月20日の中山艦事件で蔣介石は国民党内の中国共産党員弾圧を開始した。1926年7月1日に蒋介石ら国民革命軍は北伐を宣言、北京政府と北洋軍閥を打倒すると、蒋介石は中国全土で数万人の勢力になっていた共産党への攻撃に転じた。1927年3月24日には国民革命軍が南京を制圧するが、一部兵士が日英米の領事館や外国系企業や居留民を暴行・略奪する南京事件が発生している。
1927年4月12日、蒋介石は武漢国民政府 および国民党左派の汪兆銘らの助言を無視して共産党系民兵が支配していた上海へ進軍し、制圧した。蒋は青幇の協力を得て白色テロを断行し、5,000人の共産主義者を虐殺した(上海クーデター)[109][113]。北京では、張作霖によって19人の共産党幹部が殺害された[114][115]。毛は国共合作において重要な役割を果たしていたが、上海クーデターで国共合作は崩壊した。上海クーデターで蔣介石は、共産党員の首を切り、生首を皿の上にのせ、夜にはトラックのヘッドライトで銃殺した[116]。なお、アンドレ・マルローが「人間の条件」で描いた蒸気機関車の釜に投げ込むという殺害は空想であり、事実ではない[116]。
1927年5月、数万人もの共産主義者や共産主義者と疑われた人々が殺害され、中国共産党は2万5000人の党員のうち約1万5000人を失った[115]。国民党の弾圧で共産党員は8割が行方不明になり、毛はこれから先、流血を躊躇しないと決意した[116]。
武装蜂起と井崗山
[編集]中国共産党は国民党左派の武漢政権への支持を継続し、毛沢東も当初はその立場を支持していたが[115]、党の第5回全国代表大会の頃には考えを改め、農民民兵(ミリシア)に賭ける決断を下した[117]。
1927年7月15日、武漢政府の国民党からも共産党員が追放された[117]。これはソ連・コミンテルンからの資金援助があまりにも乏しかったためで、党・政府・軍内の共産党員の職務停止を決定した。
中国共産党は蒋介石と戦うため、中国工農紅軍を創設した。周恩来、譚平山、朱徳、賀竜、葉挺らは、1927年8月1日に南昌蜂起を指揮し、南昌市を占領したが、5日後には撤退を余儀なくされた[118]。その後、南の汕頭市、さらに福建省の山間部へと追い込まれていった[117]。
8月7日に漢口において開催された党中央緊急会議「八七会議」において、毛は「武力で政権を打ち立てる」方針を提案し、国民党との武装闘争が党の方針として決議された。さらに毛は臨時中央政治局候補委員に選出された。八七会議で張国燾、周恩来、李立三、張太雷、鄧小平、李維漢らは、陳独秀を追放して、瞿秋白を高指導者とし、また国民党軍への武装反抗の方針を決定した。
毛沢東は1927年9月に秋収蜂起を指揮し[119]、国民党支配下の長沙への進撃を開始した。攻撃の前夜、毛沢東は「長沙」と題する詩を詠んだが、これは現存する彼の詩の中で最古である。毛の計画は9月9日に長沙を三方から攻撃するというものであったが、第4連隊が国民党側に寝返り、第3連隊を攻撃した。毛沢東の軍は長沙を攻略することはできず、9月15日には敗北を認めて、生き残った1000人の兵と共に湖南省と江西省の境にある井岡山へと向かった[120]。毛は配下の農民兵と共に孤立して家族とも離れて井崗山に立てこもることになった。
1927年11月、上海の党臨時中央政治局は拡大会議を開き、毛は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。上海に潜伏していた中国共産党中央委員会は、毛沢東を党および湖南省委員会から除名処分にした。その理由は、彼の「軍事的日和見主義」、農村での活動への傾注、そして「悪質地主」に対する寛容すぎる姿勢にあった。特に正統派の共産主義者たちは、農民を「遅れた存在」と見なし、毛沢東の農民動員を嘲笑していた[73]。それにもかかわらず、彼らは毛沢東が長年主張してきた3つの政策――労働者評議会の即時結成、例外なき全土地の没収、国民党の拒絶――を採用した。これに対して毛沢東は、彼らを無視した[121]。
毛は井岡山で5つの村を統合して自治的な共同体を形成した。また、富裕な地主からの土地没収を支持した地主たちには「再教育」を施したり、処刑を行った。その一方で、虐殺の発生を防ぎ、党中央委員会が提唱していた方針よりも穏健な手法をとった[122]。毛沢東は井岡山において、土地の再分配に加え、識字教育や上下関係にとらわれない組織的な関係を推進し、同地域の社会・経済のあり方を変革するとともに、地元の支持者を魅了した[123]。毛沢東は「足の不自由な人、耳の聞こえない人、目の見えない人さえも革命闘争に役立つ」と宣言し、軍隊の数を増やし[124]、二つの盗賊団を自軍に編入して兵力を増強し、約1800人の部隊を築き上げた[125]。毛は兵士たちに、命令には即座に従うこと、没収品はすべて政府に引き渡すこと、そして貧しい農民からは何も没収しないことを規律として課し、精強な戦闘部隊へと鍛え上げた[124]。
敵進我退,
敵駐我騷,
敵疲我打,
敵退我追。
敵が進めば我は退き、
敵が休めば我は撹乱し、
敵が疲れれば我は攻撃し、
敵が退けば我は追撃する。
1928年春、党中央委員会は農民蜂起を誘発しようと、毛沢東の部隊に湖南省南部への進軍を命じた。毛沢東は懐疑的ではあったが、命令に従った。しかし、湖南に到着した部隊は国民党軍の攻撃を受け、甚大な損害を被って敗走した。その間に国民党軍が井岡山に侵攻し、彼らは拠点を失った[128]。地方を転戦していた毛沢東の部隊は、朱徳と林彪が率いる連隊と合流し、井岡山の奪還を試みたが、国民党軍の反撃を受け、その後数週間にわたり、山間部で持久的なゲリラ戦を展開した[126][129]。
党中央委員会は再び毛沢東に対し、湖南省南部への進軍を命じたが、毛はこれを拒否し、自身の根拠地にとどまった。朱徳はその命令に従い、軍を率いて移動した。毛沢東の部隊は国民党軍の攻撃を25日間にわたって食い止めつつ、彼自身は夜間に陣地を抜け出し、増援部隊を求めて奔走した。彼は、壊滅的な打撃を受けていた朱徳の軍と合流し、両軍は共に井岡山へ戻って根拠地を奪還した。そこへ、国民党から離反した連隊や、彭徳懐率いる紅軍第五軍が合流した。しかし、山間部では全員を養うのに十分な作物を栽培できず、冬に食糧不足に見舞われた[130]
1928年7月、第6回党大会において中央委員に選出。
井崗山の根拠地に潜伏中の1928年、江西省出身の18歳の革命家賀子珍と暮らすようになり[131]、結婚し、彼女との間に6人の子供をもうけた[132][133]。1929年には長女が誕生している。
中華ソビエト共和国
[編集]井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。
1929年1月、毛沢東と朱徳は、自らの部隊2,000名に彭徳懐が提供した800名を加えた兵力を率いて井岡山を撤収し、江西省の銅鼓県および信豊県周辺地域へと南下した[134]。しかし、井岡山からの撤退によって士気は低下し、多くの兵士が命令に背いて略奪を行なった。李立三や党中央委員会をは毛沢東の軍を、プロレタリアートの「階級意識」を共有し得ない「ルンペンプロレタリアート」と見なしており、懸念した[135][136]。
正統派マルクス主義の思想に則り、李は都市のプロレタリアートだけが革命を成功に導きうると考え、毛沢東の農民ゲリラ部隊の必要性を認めていなかった。彼は毛に対し、軍を解体して各部隊を各地へ派遣し、革命の理念を広めるよう命じた。これに対し毛は、李の理論的立場は理解するものの、軍の解体も根拠地の放棄もしないと回答した[136][137]。李と毛はともに、中国共産党の勝利が世界的な帝国主義と資本主義の打倒の引き金になると考え、中国共産党革命を「世界革命」の鍵と見なしていた。この点において、彼らはソビエト政府やコミンテルンの公式方針とは対立していた。モスクワは中国共産党に対する統制を強めようとし、李の「誤り」を追及するとの名目で彼をロシアに呼び出し、その地位から排除した[138]。さらにモスクワはソビエトで教育を受けた28人の中国人共産主義者たちを据え、そのうちの博古と張聞天が中央委員会の主導権を握った。毛沢東は、この新指導部が中国の情勢をほとんど理解していないと彼らの方針に異を唱え、やがて彼らの主要な対抗勢力として台頭していった[139][140]。
1930年2月、毛沢東は西南江西省ソビエト政府を樹立した[141]。毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月に瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国」の樹立を宣言してその主席となった[142]。住民は1000万人の農民だった[142]。中国共産党中央委員会も、江西省を安全とみなして拠点を移した。
ソ連のクレムリンは、ソ連で教育をうけた28人のボリシェヴィキのうち博古を中共指導者として推薦し、ドイツ人のオットー・ブラウンを軍事顧問として派遣した[143]。
1930年11月、国民革命軍の一派であった湘軍の何鍵によって妻楊開慧が処刑された[144]。毛は三年前から賀子珍と暮らしていたが、開慧の処刑への復讐を決意した[144]。同11月、妹も何鍵に捕らえられ斬首されたことで、彼は精神的な衝撃を受けた[145]。
一ヶ月半後、毛は国民革命軍第18師団張輝瓚を捕縛した[144]。蒋介石は張輝瓚の解放を求めて身代金の支払いを申し出た[142]。毛は大衆教育のための人民裁判を開き、細い声で(毛の声は小さかった)「こいつの首を斬れ!こいつの肉を喰らえ!」と群衆を煽って斬首させ、生首を戸板に固定して贛江に流し、国民党への返答とした[146]。
冨田事変
[編集]内部対立に直面した江西ソビエトの構成員らは毛沢東を「穏健すぎる」、ひいては「反革命的である」と非難し、毛沢東の失脚を図ったことで1930年12月「富田事件(冨田事変)」が勃発し、その過程で毛沢東の忠実な支持者たちは、多くの反対派を拷問にかけ処刑した[147]。毛は異議をとなえた党幹部の粛清を行なった[142]。中国共産党公式史書では「冨田事変」と呼ばれるこの粛清では、はじめ4400人の党員が殺され、ついで、陳毅(のち元帥)が2000-3000人を処刑した[142][147]。拷問は、親指をゆっくりと砕く「地雷爆発」、ペニスに針金を通貫させて耳に結びつけて琴のように弾く「箏を弾く天人」など、嗜虐的で文学的な名前をつけられた[142]。その他、銃口の掃除棒を赤く熱して肛門に差し込む拷問や、女性は乳房を小刀で切ったり、点火した火縄で膣を灼くなどの拷問を行なった[142]。毛はこうした拷問を知らないふりをした[146]。
主導権の喪失
[編集]毛沢東は中華ソビエト共和国人民委員会議主席に任命されたが、紅軍の指揮権が周恩来に移されたため、その権力は低下した。一方、毛沢東は結核から回復した[148]。
国民党軍は、紅軍を包囲して殲滅する囲剿作戦(掃共戦)を展開した。江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。
兵力で劣る中、毛沢東は孫子ら古代の軍事思想を取り入れたゲリラ戦術で対抗したが、周恩来や新たな指導部は正面衝突と正規戦による戦術を採った。その結果、紅軍は第一次および第二次囲剿作戦を撃退することに成功した[149][150]。国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた[151]。
毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。
軍の作戦失敗に激怒した蒋介石は、自ら現地に赴き指揮したが、苦戦を強いられた。さらに日本軍による中国へのさらなる侵攻(満洲事変など)に対処するため、撤退を余儀なくされた[152]。
国民党が日本に対抗する防衛へと重点を移した結果、紅軍は支配地域を拡大し、最終的には人口300万人を擁した[150]。
毛沢東は土地改革計画を推し進めた。1931年11月には「土地調査事業」を開始し、1933年6月に拡大された。また、彼は教育プログラムを主導し、女性の政治参加を促進する施策も実施した[153]。
1933年10月、蒋介石は日本よりも共産党を脅威と見なし、江西省へ戻って第五次囲剿作戦を開始した。この作戦では、航空爆撃と並行して、コンクリートや有刺鉄線を用いた「火の壁」で同地域を包囲する戦術がとられ、周恩来の戦術はこれに対して無力であった。包囲網の中に孤立した紅軍では、食料や医薬品が不足し、士気が低下した。そのため、指導部は撤退を決定した[154]。
「長征」
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紅軍は国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった。1934年10月14日、紅軍は8万5000人の兵士と1万5000人の党幹部を率い、江西ソビエト南西端の信豊で国民党軍の防衛線を突破し、ついに江西ソビエトを放棄して敗走し、「長征」を開始した。この脱出に際しては、負傷者や病人、女性、子供の多くが取り残されたが、彼らは最終的に国民党軍によって虐殺された[155]。
脱出した10万人の紅軍は湖南省南部を目指し、激戦の末に湘江を渡り[156]、続いて貴州省の烏江を越えて、1935年1月に貴州省遵義を占領した。1935年1月15日に中国共産党中央政治局拡大会議「遵義会議」を開いた。遵義会議で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。
毛沢東はゲリラ戦を展開し、目的地として中国北部の陝西省にある陝西ソビエトを提示した。そこを拠点とすれば、共産党は対日抗戦に専念できると考えたからである。毛沢東は、反帝国主義闘争に注力することで共産党は中国人民の信頼を獲得し、人民は国民党を見限るだろうと確信していた[157]。毛沢東は遵義から軍を率いて婁山関へ向かい、敵の抵抗に遭ったものの、共産党軍は巧みな機動で蒋介石の裏をかき、金沙江を渡った[158]。大渡河を渡るという困難に直面した彼らは、5月に瀘定橋をめぐる戦闘を制し、瀘定を占領した[159]。
1935年2月、毛は15000人の中央紅軍(紅軍第一方面軍)を指揮したが、50000人の紅軍第四方面軍は張国燾が率いた[143]。四川省西部の懋功で、彼らは馬鞍山周辺の山岳地帯から進軍してきた張国燾率いる兵力5万の中国共産党紅四方面軍と合流し、甘粛省へ向かった。しかし、進路をめぐって毛沢東と張国燾の意見が対立した。毛沢東が陝西省への進出を望んだのに対し、張国燾は国民党の脅威から遠く離れた西方のチベットやシッキムへの撤退を主張した。結局、両者は別々の道を行くことで合意し、朱徳は張国燾と行動を共にした[160]。毛沢東軍は、数百キロメートルに及ぶモンゴル・満洲の草原地帯を北上した。そこは泥沼と化した地域であり、満洲族の部族民による攻撃を受け、多くの兵士が飢餓やの病気の犠牲となった[161]。陝西省に到達するまで、彼らは国民党軍やイスラム教徒の騎兵民兵と戦いながら、岷山や六盤山を越えて「陝西ソビエト」にたどり着いたが、生き残ったのは7,000〜8,000人だった[162]。
毛沢東率いる部隊は1935年10月に延安ソビエトに到着し、1936年春まで保安に拠点を置いた。滞在中、彼らは地域社会との連携を深め、土地の再分配や耕作、医療の提供、そして識字教育プログラムなどに取り組んだ[163]。湖南から到着した賀龍の部隊や、チベットから戻った朱徳および張国濤の軍勢が合流したことで、毛沢東の指揮下にある兵力は1万5000人に回復した[164]。
「長征」は、党内における毛沢東の圧倒的な地位を確固たるものにした。1935年11月、彼は軍事委員会の主席に任命された。これ以降、毛沢東は中国共産党の揺るぎない指導者となったが、党主席に就任するのは1943年であった[165]。
エドガー・スノーやアグネス・スメドレーなど西側の記者たちも「辺区」(それまで「ソビエト」と呼ばれていた地域の新たな呼称)を訪れた[166]。毛沢東は洞窟住居(a cave-house)に移り住み、読書や菜園の手入れ、そして理論の構築に多くの時間を費やした[167]。
第二次国共合作
[編集]1936年2月、毛沢東は延安に「西北抗日紅軍大学」を設立し、新兵の訓練を行なった[168]。1937年1月、毛は「抗日遠征」を開始し、日本側の支配地域にゲリラ部隊を送り込んで散発的な攻撃を行わせた[169]。
1937年5月、情勢を協議するために延安で共産党の会議が開催された[170]。
毛は、赤軍単独では日本軍を撃破することはできないので、国民党やその他の「ブルジョワ民族主義」勢力と共に、共産党主導の「国防政府」を樹立すべきだと考えるようになった[171]。毛は蒋介石を「国賊」として軽蔑していたものの[172]、スターリンが提唱していた方針にそって、5月5日には南京国民政府の軍事委員会に対し、軍事同盟の締結を提案する電報を送った[173]。蒋介石は毛沢東からのメッセージを無視し、内戦を継続した。
1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年12月7日に朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。
5日後の12月12日に西安で蒋介石は配下の張学良・楊虎城らに拘束され、監禁された(西安事件)。張学良は蒋介石に共産党との協議を強要し、コミンテルンの仲介により、毛沢東と蒋介石の双方が譲歩する形で1937年12月25日に第二次国共合作が成立した[174]。
翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。
日中戦争
[編集]1937年7月7日に始まった日中戦争(当時の日本側呼称:支那事変)では抗日戦線を展開し、国民党軍と共に、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。
毛は紅軍の消耗を避け、日本軍との戦争を国民党軍にまかせた[175]。国民党軍が消耗していく一方で、将来の国民党軍との戦いのための準備をした[175]。毛沢東思想に基づいて農村などの地域共同体と一体化していた八路軍は兵站の確保を容易にし、人民の海に紛れての隠密活動と神出鬼没のゲリラ戦を得意とした。これに対抗するべく日本と同盟する汪兆銘政権は、地域組織「新民会」等を組織して同様の民衆工作に取り組んだが効果は限定的であった。
蒋介石が指導する国民革命軍は米英の援助により装備は優れていたものの、兵力温存を理由に日本軍との正面決戦を避ける傾向があったので中国民衆の支持を失っていた。蒋介石が兵力温存に執心したのは抗日戦後の中国共産党との決戦に備える為であったが、この方針は裏目に出て国共内戦での劣勢を招くことになった。中国国民党を支援していたアメリカも蒋介石に不信感を抱くようになり、蒋介石との関係が悪化した軍事顧問スティルウェルは解任されている。抗日戦での活躍を中国民衆に大きく印象付ける事に成功した八路軍は、その後の国共内戦においても大衆の支持を集めて戦況を有利なものにしている。
日本降伏と日本軍武装解除後に開始された国共内戦時には、中国大陸に残留して八路軍への入隊を希望する日本軍人も少なくなかった。当時の八路軍はその軍紀(三大紀律八項注意)遵守が評判になっており、また日本人捕虜を厚遇して寛大に扱っていたという伝聞もあったので、八路軍に好意的な感情を持つ日本軍将兵も少なからずいた。支那派遣軍勤務だった昭和天皇の弟三笠宮崇仁親王も八路軍の軍紀に魅了されていた。これはソ連の赤軍との大きな違いであった。特殊技能を持つ日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)の中には長期の残留を求められて帰国が遅れた者もいた(気象台勤務であった作家の新田次郎など)。また、聶栄臻のように戦災で親を亡くした日本人の姉妹に自ら直筆の手紙を持たせて日本へと送るよう配慮した人物もいた。
また、対日爆撃を行っていたアメリカのカーチス・ルメイとも連絡を取り、中国北部から気象観測情報を提供する代わりに物資を支援されていた[176]。中国南部にある蔣介石の実効支配地域と同じようなB-29の飛行場の建設も毛沢東はルメイに提案していた[177]。
1937年、当時、日本軍は上海と南京を占領し(その結果、毛沢東が生涯一度も語ることのなかった残虐行為である「南京事件」が引き起こされた)、国民党を内陸の重慶へと追い込んだ[178]。日本軍の侵略により、戦いに加わる中国人が増加し、紅軍の兵力は5万人から50万人へと拡大した[179][180]。
1938年8月、紅軍は新四軍と八路軍を編成したが、これらは名目上、蒋介石の「国民革命軍」の指揮下にあった[181]。
1938年、賀子珍は頭部に榴散弾の破片を受け負傷し、治療のためにモスクワへ渡った。毛沢東は彼女と離婚し、女優の江青と結婚した[182][183]。賀子珍は江青のために部屋を空けるべく、モスクワの精神病院へ送られたとも伝えられる[184]。江青は康生の愛人だったが、おべっか使いの康生は毛の寵を得るために江青を毛に送り込んで取り入った[185]。毛は一生をとおして漁色家だった[67]。
1940年8月、赤軍は「百団大戦」を開始し、40万人の兵力をもって5つの省で日本軍に対し一斉攻撃を仕掛けた。この作戦は軍事的な成功を収め、日本側に2万人の死者を出し、鉄道網の寸断や炭鉱の喪失といった被害をもたらした[180][186]。
毛沢東は延安で著作を執筆した。マルクス主義の認識論を概説した『革命の哲学』、ゲリラ戦や機動戦といった軍事戦術を論じた『持久戦論』、そして中国の将来に向けた構想を提示した『新民主主義論』(1940年)などが含まれる[187]。
整風運動
[編集]遵義会議以降、党の実権を掌握していった毛沢東だったが、1942年からの整風運動(延安整風)によって党内の反毛沢東派を粛清していき、党内の支配権を確実なものとした。整風運動を組織したのは康生だった[185]。
整風運動は冨田事変と同様の大規模な粛清となった[185]。党から4万人が排斥され、何千人が拷問をうけ、何百人が殺され、洗脳が行われた[185]。毛沢東は「病人はまず恐怖でゆさぶり、次の段階でやさしく治療を勧めろ」と手法を教えた[185]。康生は囚人に「国民党のスパイであることを認め、悔悛の証拠を見せたら許してやる。しかしすべての悔悛が誠実なわけではない。再教育は時間がかかるプロセスだ」と語った[185]。1943年にはソ連留学組だった中央書記処総書記の張聞天を排除し、同年3月20日、中央政治局主席兼中央書記処主席(事実上の党首)に就任して党の最終決定権を獲得した。整風運動がエスカレートしたため、毛は康生に暴挙の責任をおしつけた。康生は失脚し、数年後精神が崩壊した[175]。
1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。
第二次世界大戦の終結
[編集]終結目前の国民党と共産党
[編集]1944年、米国軍は中国共産党のもとへ「ディキシー・ミッション」と呼ばれる視察団を派遣した。米軍将兵は、国民党と比較して、共産党は腐敗が少なく、結束が固く、強固な組織力を持ち、広範な地域で人々の支持を集めており、対日抵抗においても精力的に見えると報告した[188]。しかし、米国が中国共産党との間に築いた人脈は、ほとんど成果をもたらさなかった[188]。第二次世界大戦後、米国は国共内戦において、蒋介石とその国民党政府軍への支援を継続し、中国共産党との連立政権構想を放棄した[189]。
1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。そして、「憲政」が国民党主導の国民大会によって実施されるという構想を明らかにした。
一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面上協調関係を結び、毛沢東も蔣介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蔣介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党の対立は深刻化していった。
また、毛は第7回党大会で「たとえ、我々がすべての根拠地を喪失したとしても、東北(満洲)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べ、終戦直前の8月13日には蔣介石との武力闘争を内部指示として発した。
日本の降伏
[編集]
1945年8月6日、連合軍の米軍が広島市への原子爆弾投下を行った。三日後の8月9日、米軍は長崎市への原子爆弾投下を行い、同日、ソ連は満洲侵攻を開始した。日本の支配から中国東北部を奪回したソ連はしばらく満州を占領し、食料、金塊、産業機械などを没収した[190]。
満州・中国東北部
[編集]ソ連軍の庇護下で、現地で活動していた中国共産党の地下ゲリラ部隊は、華北から進出した共産党軍と合流し、1946年1月に東北民主連軍を結成し、ソ連軍から引き渡された日本軍の兵器で武装し、満州を占領した[190]。1946年3月までにソ連は同地を中国共産党に密かに引き渡して毛沢東を支援した[191]。
一方、国民党を支援していた米国は、国民党による満州介入に消極的で、国民党軍による満州の接収は進まなかった[190]。1946年6月までに国民党軍は長春を占領したが、すでに共産党勢力は農村部で強固な地盤を築いており、長春、瀋陽、錦州、営口の各都市において、国民党軍50万人は共産党軍に包囲された[190]。
1948年末までに、満洲の国民党軍は共産党軍に敗北し、1949年には国民党は中国本土全土から追放された。1949年末までに共産党は満洲で地主を排除して、土地を農民に再分配し、工場施設を再建し、1953-1957年の第一次五カ年計画では産業投資が集中した[190]。
双十協定
[編集]1945年8月30日、蔣介石と毛沢東は重慶で会談し、国共和平・統一について議論を重ねた。議論は長引き、10月10日に「双十協定」としてまとめられた。「双十協定」では、国民党が「政治の民主化」「各党派間の平等性や合法性」などを約し、共産党も「蔣介石の指導」「国民党の指導下での統一国家の建設」を承認するなど、内戦回避と統一政権樹立について両党が努力することが確認された。さらに国民党の張群、共産党の周恩来、アメリカのジョージ・マーシャル将軍は三者会談を行い、停戦協定を発表して軍事調処執行部(三人委員会)も成立した。
しかし、「双十協定」が調印されたその日に山西省南部で上党戦役が勃発し、共産党軍と国民党軍が交戦して共産党軍が国民党軍に大きな打撃を加えた。また、この年末には、降伏した日本軍の接収・管理のために国民党軍が東北地方に派遣されると、共産党も林彪率いる東北民主連合軍を派遣し、緊張関係が生じた。
1946年1月、「双十協定」に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割り当てられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。しかし、3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。
第二次国共内戦
[編集]1946年6月26日、蔣介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に共産党支配地区への全面侵攻を命令、国共内戦が始まった。
中国共産党はこれに対して6月22日に「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求した。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマンが蔣介石にその行動を非難し、同年12月18日にトルーマンは「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する。
国共内戦が起きると、毛沢東は地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった[注釈 6]。
国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開した。1947年3月28日に毛は党中央の所在地である延安の放棄を決定、国民党軍を山岳地帯に誘い込み、国民党の戦力消耗を図った。内戦当初優勢だった国民党軍はこの頃より勢いに陰りを見せ始めた。毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。
1948年6月から10月までの長春包囲戦で、中国人民解放軍は長春を占領していた国民党軍を兵糧攻めにし、この包囲戦で少なくとも16万人の民間人が命を落とした[192][193]。
1948年9月から1949年1月にかけて「三大戦役」が展開された。これは1948年9月から11月にかけて東北で展開された「遼瀋戦役」、1948年11月から同年1月にかけて徐州を中心に展開された「淮海戦役」、1948年12月から1949年3月にかけて華北で展開された「平津戦役」を指し、なかでも、劉伯承・鄧小平が指揮した淮海戦役は、中国史上まれにみる大規模な戦いであり、いわば「関ヶ原の戦い」であった[194]。三大戦役において人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与えた。
1949年1月21日、国民党軍は毛沢東率いる軍との決戦において甚大な損害を被った[195]。1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城した。
4月23日に人民解放軍は国民政府の根拠地・首都南京を制圧した。
1949年3月の第7期2中全会において、新政治協商会議の開催と民主連合政府の樹立を各界によびかけた。かくして、9月21日から9月30日にかけて北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、中国人民政治協商会議が開催された。この会議では新国家の臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、新国家の国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東が中央人民政府主席に就任することが決議された。また、北平を北京に再び改称し、国民政府の象徴である南京から遷都することも決定した。
中華人民共和国の成立以後
[編集]中華人民共和国の建国と国民党の敗走
[編集]
1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させた。中国人民解放軍が重慶と成都を包囲し、12月10日、蒋介石率いる国民党軍は台湾島へと逃亡した[195][196]。その後も、1950年6月まで国民党の残党との小規模な戦いが継続した。
中華人民共和国の臨時憲法である「中国人民政治協商会議共同綱領」は、中華人民共和国が「人民民主主義国家」であるとした。そして、政治と経済の体制には「新民主主義」(綱領第1条)と「国家資本主義」(綱領第31条)を掲げ、「共産党の指導」や「社会主義」といった文言は一切盛り込んでいなかった[197]。つまり、建国の段階では中華人民共和国は中国共産党がめざす「社会主義国家」ではなかった。事実、国家元首である中央人民政府主席には毛沢東が、首相である政務院総理には周恩来が就任したものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員であり、副総理・閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めた。
中ソ友好同盟相互援助条約
[編集]とはいえ、毛沢東は社会主義を「将来の目標」としており、ソ連との関係強化を図っている。建国直前の1949年7月には「向ソ一辺倒」を宣言した。
1949年12月から1950年2月にかけて毛沢東はソ連を訪問してヨシフ・スターリンの70歳の誕生日を祝い、政治・経済、外交、鉄道、海軍基地、ソ連による技術援助などが議題となった。その後、中ソ友好同盟相互援助条約を締結して、ソ連の援助を引き出した。この条約には、スターリンの優位な立場と、毛沢東を支援しようとする彼の意欲が反映されていた[198][199]。マルクス・レーニン主義の前衛主義理論に倣って、[200]、毛沢東は共産党による正しい指導だけが中国を社会主義へと前進させることができると信じていたが、他方で官僚機構を抑制するためには大衆運動や大衆による批判が必要であるとも考えていた[200]。
朝鮮戦争
[編集]その後に勃発した朝鮮戦争では、ソ連軍を朝鮮半島から撤退させていたスターリンの意向を受けて台湾侵攻を後回しにして中国人民志願軍を北朝鮮に派遣した。1950年10月、退却を余儀なくされていた北朝鮮軍(朝鮮人民軍)を支援するために中国人民志願軍が朝鮮戦争に派遣された。中央軍事委員会主席として、毛沢東は中国人民解放軍および中華人民共和国の最高統帥者であり、党主席でもあった。朝鮮半島に派遣された中国軍は、周恩来の指揮下にあり、彭徳懐将軍が現地で指揮した[201]。
朝鮮戦争への介入を理由に、米国は中華人民共和国に対して貿易禁輸措置を講じたが、これは後にリチャード・ニクソンによって関係が改善されるまで続いた。
朝鮮戦争で、少なくとも18万人の中国軍兵士が命を落とした[202]。また、毛はソ連で実戦やロシア語を学んで軍司令官の彭徳懐の通訳になっていた長男の岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失った。
土地改革運動
[編集]朝鮮戦争勃発直前の1950年6月20日、毛沢東は「中華人民共和国土地改革法」を公布した。これは、かつて中国共産党が支配地域で実施していた「土地革命」を、全国の未実施地域で行おうとするものであった。ただし、この法律は従来の「土地革命」とは異なり、「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある」改革をめざすものであった。改革は3つの段階をふまえて実施された。第1段階は匪賊の粛清と小作料・不当税・権利金などを地主から取りもどすこと、第2段階は農村の階級区分・土地の分配、第3段階は農村の整頓(地主たちの処遇・土地証書の発行など)と生産活動の準備である。
この改革によって、各種の農業生産高は一気に増大した[203]。なお、同時期の工業は、農業以上に生産の伸長が著しかった。土地改革運動では経済的不平等は縮小した[204]。
土地改革運動では、「地主」や「富農」とされた多数の人々が、土地を没収されて貧しい農民に分配される中で、人民集会において撲殺され[205]、中国共産党員やかつての小作人たちによって大量殺戮された犠牲者数は、20万人から80万人[206][207]、あるいは数十万から数百万にのぼると推定されている[207][208]。1976年に米国務省は、土地改革において最大100万人が、反革命運動において80万人が殺害されたと推定した[209]。
地主、ブルジョワ、「国民党の下僕」への弾圧は熾烈さを極めた[175]。見せしめで彼らは群衆の前で糾弾した[175]。トカレフの銃弾数は8発だったが、20秒で8人を処刑する者もいた[175]。1949年から1954年までに300万-400万人が処刑された[210]。
「反革命分子」の弾圧:鎮反運動と三反五反運動
[編集]反革命分子の鎮圧運動であった「鎮反運動」では、共産等によって「経済的寄生虫」「政治的敵対者」と見なされた商人(買弁)、国民党官僚といった「官僚ブルジョアジー」を標的とした[211][212]。
毛はまた、1951年末から汚職・浪費・官僚主義に反対する「三反運動」を、1952年初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対する「五反運動」を展開した。「三反運動」は行政組織のスリム化と透明化をめざすもので[213]、政府・産業界・党幹部を対象とした粛清であった[214]。「五反運動」は資本家層を標的とし[214]、民族資本家や金融関係者が対象となり、商工業者に深刻な打撃を与えた[213]。その後インドシナ戦争でベトナムを支援した。
三反五反運動では、労働者は上司を糾弾し、夫婦が互いを告発し、子供が親を密告した。標的とされた人々はしばしば「闘争集会」で、罪を自白するまで言葉や暴力による虐待を加えられた。毛沢東は、軽微な違反者は批判と更生、あるいは強制労働収容所送りにし、悪質な者は銃殺すべきだと説いた。この運動により、数十万人が命を落としたが、その多くは自殺によるものだった[215]。上海では、高層ビルからの飛び降り自殺が頻繁に発生したため、住民たちは自殺者が自分たちの上に落ちてくることを恐れ、高層ビル近くの歩道を歩くのを避けた[216]。敵と見なされた人物を自殺に追い込むことは、毛沢東時代における常套手段であった[217]。毛は延安整風運動においても「幹部を殺害してはならない」と指示していたにもかかわらず、実際には治安責任者である康生が反対派を自殺に追い込むことを容認していた[217]。こうした手法は、毛の指導期間を通じて何度も繰り返された[217]。
毛沢東自身は、これらの1950年から1952年にかけての「反革命分子」に対する攻撃で計70万人が殺害されたと主張した[218]。共産党公安部副部長の徐子栄の報告書によれば、反革命分子71万2000人が処刑され、129万人が投獄され、さらに120万人が「統制下」に置かれたKuisong 2008。「ほぼすべての村で、少なくとも1人、通常は数人の地主を公衆の面前で処刑する」という方針があった[219]。
中華人民共和国の成立後最初の3年間に200万人が処刑された[219][220][211]。あるいは犠牲者を500万にのぼるとする研究もある[221]。1952年までに、彼らは農村全域にわたって農地改革を推し進めたが、その過程で200万人から500万人の地主が殺害された[222]。さらに、150万人[223]から400万から600万人の「反革命分子」とされた人々[224]が、強制収容所の「労働改造所」(略称は労改,ラオガイ)に送られ、その多くが命を落とした[224]。毛沢東は、これらの殺害を革命のために必要として正当化した[225]。
五カ年計画
[編集]
建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明した。1950年の全国政治協商会議第2回会議で社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言していた毛が、急進的に社会主義を導入しようと方針転換したことは、周恩来や劉少奇など多くの指導者を困惑させた。
毛沢東は、スターリンを模範として急速な工業化を重視した第一次五カ年計画(1953~1958年)を打ち出した。毛は1953年1月よりソ連型社会主義の計画経済をモデルとした第一次五カ年計画を開始させ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していった。第一次五カ年計画は重化学工業への投資で高い経済成長を達成し[注釈 7]、当時の中国のGDPは同様に戦後復興を進めていた日本より上回っていた。
大規模かつ高度な資本集約型工場の建設を目指し、鉄鋼、電力、石炭、重機械製造、建設資材、基礎化学といった分野が優先された。これらの多くはソ連の支援を受けて建設され、重工業は急速な成長を遂げた[226]。農業、工業、商業は、労働者協同組合として組織された[227]。この時期の中国の急速な工業化は多大な成功を収めた[228]。
国家主席就任
[編集]毛沢東は中華人民共和国を新民主主義国から社会主義国に変貌させるため、国家機構の改造にも着手した。1954年9月、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、9月20日に全人代第1回会議において中華人民共和国憲法が正式に制定された。この憲法では、毛沢東が提唱する社会主義への過渡期論が盛り込まれ、国家の目標として社会主義社会の実現が明記された。9月27日、毛沢東は憲法に基づいて新たに設置された国家主席に就任した。なお、首相である国務院総理には周恩来が改めて就任し、全人代常務委員長に劉少奇、国家副主席には朱徳が任命された。また、国務院副総理10名すべてが共産党員であり、全人代副委員長や国務院の閣僚クラスにおける非共産党員の割合が大幅に減少するなど、国家の要職は中国共産党が独占した。
スターリン批判、ハンガリー危機、知識人の粛清(反右派闘争)
[編集]国家主席に就任した毛沢東は、労働改造所を設置して自己に対する反対勢力を粛清していく。1956年2月にソ連の指導者であるフルシチョフがスターリン批判を行った。
スターリン批判の影響で1956年にハンガリー動乱が起きた。毛沢東は当初、ナジ・イムレ率いる改革派政権に同情的であったが、事態が強硬化するにつれて、ハンガリーにおける「反動的な体制復帰」を懸念するようになった。毛はソ連軍の撤退に反対し、劉少奇を通じてソ連側に対し、「西側帝国主義の支援を受けた」デモ参加者やナジ政権に対して軍事介入を行うよう伝えた。東側諸国におけるモスクワの覇権に異議を唱えてはいたものの、毛沢東は、ソ連の影響下にある国々の国家的な自律性よりも、国際共産主義運動の結束をより重視した。
ハンガリー危機は、毛の百花斉放百家争鳴運動にも影響を与えた。毛は中国の知識人が社会への不満や政府への批判を容認しようとした。それにより、中国国内での同様の蜂起を防ごうと考えた。しかし、いざ知識人が共産党の政策や毛沢東を批判し始めると、毛沢東は自ら開始したこの運動を「反革命的なハンガリー動乱のようだ」と弾圧した[229]。
スターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開し、共産党独裁へ批判する声が多くの知識人からあがった[210]。「百花斉放・百家争鳴」運動の期間中、毛沢東は異論にも耳を傾ける姿勢を示唆した。表現の自由を与えられた中国の自由主義者や知識人たちは、共産党への反対やその指導体制への疑問を呈し始めた。当初、こうした動きは容認され、むしろ奨励さえされていた。
しかし数ヶ月後、毛沢東は方針を転換し、党を批判した人々、批判したと疑われる人々を弾圧した。1957年6月に、毛は百花斉放百家争鳴の目的は「蛇を穴からおびき出す」ことにあったとして、共産党を批判した知識人を反右派闘争によって粛清し、知識人の1割にあたる50万人から[210][230]55万人が犠牲になった[231]。中国共産党は後に、反右派闘争で「右翼」とされた55万人のうち53万人余は冤罪であったことを認めたが、反右派闘争自体は必要であったと総括している[232]。
林彪が始皇帝の焚書坑儒について言及すると、毛は「始皇帝なんて話にならない。たった460人の儒者を生き埋めにしただけじゃないか。我々は4万人を葬ったんだ」と自分の功績を誇った[210]。
大躍進政策
[編集]反右派闘争によって共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざした。毛は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年から1961年にかけて大躍進政策を発動した[233]。
1958年1月、毛沢東は中国を農業国から工業国へと変革するため、「大躍進」政策を開始した[234]。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。それまで形成されていた小規模な農業集団は、大規模な人民公社へと統合され、インフラ整備事業や鉄鋼生産への従事を命じられた。私的な食料生産は禁止され、家畜や農具は集団所有とされた[235]。これらの労働力の転用、および自然災害の影響により、穀物生産量は1959年に約15%減少し、1960年にはさらに10%減少し、1961年にも回復しなかった[236]。
各党機関は、粛清を免れるため、穀物生産量を誇張して報告した。この虚偽の成果報告に基づき、党はその収穫量に見合う大量の穀物徴収を命じた。干ばつや洪水といった要因も重なり、農民の手元にはほとんど食料が残らなくなり、中国大飢饉において数百万人が餓死した。都市住民には毎月食料配給券が支給されていたが、農民は自ら作物を栽培し、その一部を政府に納めることが求められており、農村部における死者数は、都市部での死者数を上回った[237]。これにより、1959年から1962年にかけて約3000万人の農民が死亡した[238]。
大躍進政策は失敗し、人類史上最大級の人為的災害の1つである「3ケ年自然災害(中華人民共和国大飢饉)」をもたらした。大躍進政策発動から数年間で推定2000万人から5500万人の餓死者を出した[239][240]。
大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけた。1959年4月27日、毛沢東は大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲った[241]。毛沢東は国家主席を退任したが、党主席や中央軍事委員会主席には留まった[241]。
1959年7月から8月にかけて江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)では、毛と同郷であった国防部長(大臣)の彭徳懐が政策の行き過ぎだったと進言すると、毛沢東は彭徳懐、黄克誠、張聞天らを「右傾分子」として粛清した[242]。彼らには「右翼日和見主義反党軍事集団」というレッテルを貼った。彭徳懐たちの粛清の動きに伴うキャンペーンの結果、党員や一般の農民が強制労働収容所へと送られた。後に中国共産党は、毛沢東の粛清において600万人もの人々が不当に処罰されたと認めた[243]。
廬山会議以降、毛はさらに強硬的になって大躍進政策を推進しようとしたが、飢餓が全土に拡大して餓死者がますます増加していった。彼が異常な死者数やその他の弊害について再び懸念を表明したのは1960年春のことだったが、それらを改善するための行動は起こさなかった。バーンスタインは、毛沢東が「イデオロギー的な目標を達成するために、最初の急進的段階から得られた教訓を意図的に無視した」と結論付けている[244]。
ついに毛は1962年1月に開催された「七千人大会」において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の権力は大きく低下した。ソビエト連邦共産党書記長フルシチョフの意向を受けて劉少奇が大躍進政策を批判し、毛は一時主席を辞任した[233]。こうして毛は最終的に1962年に大躍進政策を放棄した[245]。
劉少奇と鄧小平は、人民公社を解体し、農民による小規模な私的経営を導入するとともに、カナダやオーストラリアから穀物を輸入して飢饉の影響を緩和した[246]。
このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツのヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった[要出典]。この失敗以降、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていき、後の文化大革命につながる。
中ソ対立
[編集]
スターリン批判や対アメリカ政策をめぐって毛沢東はソ連の指導者フルシチョフと不仲となり、1956年から中ソ対立が深刻化していった。中ソ対立は、世界共産主義運動の主導権をめぐるものだった。ソ連は自らが主導する共産主義ネットワークを擁していたが、中国はそれに対抗する独自のネットワークを構築した[247]。中ソ対立は冷戦における重要な出来事の一つであり、第二次冷戦の枠組みを決定づけ、第二次ベトナム戦争にも影響を及ぼした[248]。この中国とソ連の分裂は、1953年のスターリン死後、フルシチョフの下で穏健な路線へと転換したことに起因する。中国側についたのはアルバニアのみであった。ソ連が核兵器の使用をちらつかせると、毛沢東はその警告を軽視した[249]。ソ連の修正主義および米国の帝国主義との闘争は、革命を正しい方向に導こうとする毛沢東にとって重要な側面であった[250]。
ソ連は中国からソ連の技術家や援助を引き揚げた。1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げた。1962年のキューバ危機では、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難した。さらに1963年からは中国共産党とソ連共産党の公開論争が開始されてイデオロギー面の対立も深まるなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなり、毛沢東はかつて自ら掲げた「向ソ一辺倒」と決別して自力更生を掲げるようになった。理論面でも3つの世界論を唱えてソ連や米国と一線を画す第三世界に中華人民共和国を分類した。また、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連に対する中華人民共和国の優越性を示すとして清朝最後の皇帝で日本の傀儡国家満州国の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀を思想改造して今度は共産党の傀儡にすることで政治的に利用した[251]。
1967年に毛沢東は『ソ連経済学批判』を出版し、ソ連の政治経済学教科書や、スターリンの『ソ連社会主義の経済問題』を批判した[252](p51)。これらの文書は、ソ連が大衆から遊離しつつあり、社会主義の発展を歪めているという毛沢東の見解を反映している[252](p51)。
核兵器の開発
[編集]1954年からの第一次台湾海峡危機において、米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領が福建省の軍事目標に対して核兵器を使用すると脅したことが、毛沢東に中国の核開発計画を開始させるきっかけとなった[253](pp89–90)。1956年、中国は弾道ミサイル開発計画を開始し、中ソ対立によって一時中断するが、ソ連の技術援助で開発が進められた。1957年にソ連はスプートニクの打ち上げに成功した。
毛沢東は両弾一星計画を構想し、アメリカで弾道ミサイルを開発していた銭学森をはじめとする海外から帰国した科学者によって、1964年6月29日核弾頭搭載可能ミサイルのDF-2の開発に成功。同年10月16日、596計画により、新疆省ロプノールで原子爆弾実験を成功させた。1967年には初の水素爆弾実験を成功させた。原子爆弾の開発からわずか2年と8ヶ月で水素爆弾を開発したが、これは五大核保有国の中でも最速だった[254]。1968年の核拡散防止条約(NPT)で中華人民共和国は、アメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリス・フランスに続くアジア初の核兵器保有国として認められた。
1970年には人工衛星東方紅1号、1971年には大陸間弾道ミサイルDF-5 (東風5号)を打ち上げた[255](p218)。さらに核爆弾搭載可能な戦略爆撃機など戦略兵器を次々に開発して軍事的にもソ連から自立するようになった。1969年3月には中ソ国境紛争が発生、両国は交戦するに至り、核戦争の可能性も起きた。また、自らを称賛する東方紅を宇宙から流す人工衛星の東方紅1号を打ち上げ、曙光1号による有人宇宙飛行も計画するなどソ連に対抗して中国の宇宙開発も推し進めた。2026年の核弾頭保有数では、ロシア4400発、アメリカ3700発に次いで中国は620発であり、世界三位の核兵器保有国となっている[256]。
このほか、秘密軍事計画として1967年からの523項目[257]でベトナム戦争で深刻な脅威となっていたマラリアへの対策として、アルテミシニン系の抗マラリア剤を開発した[258][259]。
第三戦線
[編集]「大躍進」の後、中国の指導部は工業化のペースを緩め[260](p3)、沿岸地域への投資を増やし、消費財の生産に注力した[260](p3)。第3次5カ年計画の草案には、中国内陸部における大規模産業の育成に関する規定は盛り込まれていなかった[260](p29)。
1964年4月の参謀本部報告書が、沿岸部への産業集中は外国勢力による攻撃に対して脆弱であると結論付けたことを受け、毛沢東は、中国内陸部の安全な場所に基礎産業や国防産業を整備するよう主張した[260](pp4, 54)。他の指導者たちは当初この構想を支持していなかったが、1964年8月2日のトンキン湾事件によって米国による侵攻の懸念が高まると、毛沢東案(後に「第三戦線」と呼ばれる)への支持が固まった[260](p7)。 トンキン湾事件を受けて、米国による侵攻に対する毛沢東自身の懸念が高まった[261](p100)。毛は幹部たちに対し、戦争が勃発しようとしていると述べ、第三戦線の構築をさらに強く推進した[261](p100)。
秘密裏に進められた第三戦線建設には、成都-昆明鉄道のようなインフラ[260](pp153–164)、衛星打ち上げ施設を含む航空宇宙産業[260](p218–219)、攀枝花鋼鉄を含む鉄鋼生産産業などの計画が含まれた[260](p9)。
第三戦線計画は1966年に一時停滞したが、1969年の中ソ国境紛争を経て、再び加速した[260](pp12, 150)。
1972年のニクソン大統領の中国訪問とそれに伴うアメリカとの関係改善を受け、「第三戦線」の建設は再び縮小した[260](pp225–229)。毛沢東死後、改革開放が始まると、中国はさらに第三戦線プロジェクトを縮小した[262](p180)。インフラ、国家による投資、人材を全国均等に配置することで、第三戦線建設は地域間格差を緩和し、その後の市場発展に有利な条件を整えた[262](pp177–182)
文化大革命
[編集]大いなる混乱が生じれば、やがて大いなる秩序がもたらされる。これは7、8年ごとに繰り返される。階級的本性に突き動かされた「牛鬼蛇神」は必然的に自ら姿を現す。彼らの狙いは我々の党と私の打倒にある。したがって、全国の党内右派を――完全とは言わないまでも――基本的に打ち負かさなければならない。7、8年後には、また「牛鬼蛇神」を一掃しなければならないだろう、その後もさらなる粛清が進められるだろう。.

大躍進政策の失敗によって毛沢東が失脚すると、劉少奇や鄧小平が経済調整に乗り出し、農業集団化を見直した結果、農村の飢餓状態が改善されていった。それにより、党・国家機構における毛沢東の威信はますます減退していった。
1963年、毛沢東は「四清運動(社会主義教育運動)」を開始した。これは、劉少奇の経済改革に伴い農村で再興しつつあると彼が見なしていた封建主義の「誘惑」や資本主義の萌芽に抵抗するよう、農民を教育しようとする試みであった[264]。楊繼繩の『天地翻覆』(2016年)によると、社会主義教育運動の結果、77560人が死亡し、532万7350人が迫害を受けた[265][266]。これは文化大革命の先駆けでもあった[265]。
1960年代初頭、毛沢東は1959年以降の中国のあり方に懸念を抱くようになった。彼は、旧支配層が新たな支配層へと取って代わられたこと、権力者たちが民衆から遊離しつつあることを危惧した。毛沢東は、文化的な革命を起こすことで「支配階級」の座を揺るがし、中国を「不断の革命」の状態に置き続けることが、理論上、ごく一部の特権的エリートではなく大多数の人々の利益にかなう道だと考えた[267]。
1965年11月、歴史学者で北京市副市長でもあった呉晗が執筆した京劇戯曲『海瑞罷官』を批判した姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、1966年5月、北京大学に反革命批判の大字報(壁新聞)が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に、党・国家機関に対する「造反」が起こった。
過激派となった青少年は「紅衛兵」と称して、各地で暴動を引き起こした。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持した。8月5日に毛は「司令部を砲撃せよ ― 私の大字報」と題する指示を『光明日報』に発表し、劉少奇国家主席打倒を示唆した。8月18日には、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動して「四旧打破」のスローガンを打ち立てた。紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。
このようにして、劉少奇・鄧小平らを実権派(経済政策の調整・柔軟化を唱える党員は、「走資派」というレッテルを貼られた)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東に対する個人崇拝の見直しと、代替権力として党官僚の強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、すなわち「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。
文化大革命では紅衛兵によって大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇国家主席(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んだ。彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。また、紅衛兵運動は文化浄化を行うなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。文化大革命の時も拷問に創意工夫がなされた[268]。針金でしばって川で溺死させる、裸で雪のなかに寝かせる拷問の他、窯で焼き殺す「熱烈支援」、死刑執行人が犠牲者に馬のりになり、力つきるまで這い回らせる「ロバが回す粉挽」、首に熱した金属の首輪をかける「オーブン吊るし」、両腕をしばって吊るした被害者の体を殴って回転させる「ねじりんぼう菓子」、ペンチで歯を抜いたり耳をひきちぎる、棒での撲殺、剣で刺殺したり、腹を切り裂いたり、妊婦から胎児をひきだす、顔を傷つけて醜貌にするといった様々な拷問が実行された[268]。これらの拷問は、弾丸の節約ともなった[268]。劉少奇は衰弱死した[268]。毛は康生を文化大革命で再び重用した[269]。
文化大革命による犠牲者の合計数は数百万から数千万とも言われている。文革の被害者数については諸説あるが、死亡数は2000万人に上るという政府高官の見解が中国国民に共有されている[270]。この流れのなか、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。紅衛兵は中南海、紫禁城、核兵器に関わる軍事施設への侵入を試みて毛沢東の護衛を担当する8341部隊と武力衝突も起こしており、毛沢東は中央軍事委員会主席として人民解放軍に紅衛兵の弾圧を命じ[271]、さらに学生たちの農村への下放を指示した[272][273][274]。
文化大革命が発動されて以来、毛沢東の下で実権を掌握したのは毛の妻で党中央政治局委員の江青と党副主席兼国防部長の林彪らであった。林彪は毛沢東の後継者とされたが、1971年までには両者の間に亀裂が生じ、林彪は1971年9月13日、逮捕を予期して逃亡を図る中、搭乗した空軍機がモンゴル上空で墜落し、死亡した(林彪事件)。中国共産党は、林彪が毛沢東の失脚を画策していたと断定し、死後に彼を党から除名した。当時、毛沢東は党幹部の多くを信頼できなくなっていた。ルーマニアの諜報機関員イオン・ミハイ・パチェパは、ニコラエ・チャウシェスクから、KGBが林彪の協力を得て毛沢東を暗殺する計画を組織していたと聞かされたと述べている[275]。林彪失脚後、毛は鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。
1969年、毛沢東は文化大革命の終結を宣言した。一方、多くの歴史家は、毛沢東の死と「四人組」が逮捕される1976年に文化大革命が終わったとしている[276]。1981年、中央委員会は文化大革命は「中華人民共和国にとっての深刻な挫折」であると公式に宣言した[277]。モーリス・マイスナーによれば、文化大革命の犠牲者数を約40万人とする推定値は、広く受け入れられている最小限の数字である[278]。マクファーカーとシェーンハルスによれば、中国の農村部だけで約3600万人が迫害され、そのうち75万人から150万人が殺害され、ほぼ同数が回復不能な障害を負った[279]。
毛沢東崇拝とマオイズムの世界への拡大
[編集]大躍進で威信が傷ついた毛沢東であったが、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。大衆に対する毛沢東への神格化(毛沢東崇拝)は着実に進められた。彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって1964年に『毛沢東語録』が人民解放軍向けに出版された。文化大革命が本格的に開始された1966年10月には一般向けの『毛主席語録』が出版された。党員にはその携帯が推奨され、所持は党員としての資格要件に等しい事実上の義務とされた。やがて毛沢東の肖像は、家庭、職場、商店など至る所に掲げられた。彼の言葉は、些細な文章であっても、太字や赤字で強調して表記された。当時の音楽や子供向けの歌においても、毛沢東の偉大さが強調された。「毛主席万歳」という歌が作られ、「毛主席万歳」という言葉が頻繁に聞かれた[280]。毛沢東を描いた政治色の強い芸術作品が大量に制作・流布された。数多くのポスター、バッジ、楽曲において、毛沢東は「毛主席は我々の心の中の赤い太陽 (毛主席是我們心中的紅太陽; Máo Zhǔxí Shì Wǒmen Xīnzhōng De Hóng Tàiyáng)」や「人民の偉大な救い主 (人民的大救星; Rénmín De Dà Jiùxīng).」という言葉とともに表現された[281]。
毛沢東は個人崇拝という問題について矛盾した発言を行っている。1956年のスターリン批判を行ったフルシチョフ報告への対応として、毛沢東は個人崇拝を「旧社会の有害なイデオロギー的残滓」であると述べ、中国が「集団指導体制」を堅持する姿勢を示した[282]。しかし、1958年の成都における党大会で毛は、「盲目的な崇拝」とは違って、真に崇拝に値すると彼がみなした人物に対する個人崇拝については支持できると述べた[283]。この発言は、中国共産党内で次第に台頭していった毛沢東への個人崇拝を助長する一因となった[283]。1958年に毛自身が臆面もなく公言したように、彼が個人崇拝に反対した主な理由は「自分以外の者が崇拝されるのを防ぐため」であった[284]。毛沢東の自己崇拝は深刻なことに大躍進と文化大革命をもたらしたとも指摘される[284]。
文化大革命と同時に、中国で毛沢東崇拝が高まっていった。これと並行して、毛沢東主義(毛沢東思想)またはマルクス・レーニン・毛沢東主義は世界中で共産主義組織に影響を与えた。同じ頃、フランスなど西側諸国では一部の知識人が毛沢東を崇拝していた(マオイズム)[268]。
1966年にはカンボジアのポル・ポトが中国からの帰国後、「カンボジア労働者党」から「カンボジア共産党」へ改称し、1970年にはカンボジア内戦が開始、シハヌークとカンボジア民族統一戦線およびカンプチア王国民族連合政府が北京で結成された。1975年にカンボジア民族統一戦線がプノンペンを占領した。ポル・ポト派のクメール・ルージュは毛沢東の農村型社会主義や文化大革命の影響下で破滅的な政策を実行し、教師、芸術家、知識人を粛清し、都市から住民を排除し、結果としてカンボジア大虐殺を引き起こした[285][286]。
1968年にはフィリピンで、ソ連派のフィリピン共産党 (PKP)と分離した毛派のフィリピン共産党 (CPP)が設立された。同1968年にはアメリカで、ベイエリア革命同盟(BARU)が設立し、1975年にアメリカ革命的共産党となった。
日本の学生運動でも毛沢東由来の「造反有理」のスローガンが東京大学の正門に掲げられた。1969年には日本共産党(革命左派)神奈川県委員会が結成、共産主義者同盟赤軍派と合流し、1971年に連合赤軍となった。1972年にあさま山荘事件で立てこもり事件を起こしたが、警察と機動隊に制圧された。同じ頃、同志12人を粛清リンチ・私刑で殺害していた山岳ベース事件や同志2名を殺害した印旛沼事件なども発覚し、日本の左翼運動が退潮していくきっかけとなった。1973年には毛沢東思想セクトであるマルクス主義青年同盟が結成された。
ペルーではペルー共産党は中ソ対立により分裂し、1970年にペルー共産党員の哲学者アビマエル・グスマンが毛沢東派のペルー共産党(輝く道 センデロ・ルミノソ) を結成した。
2020年代になると、世界で毛沢東主義を掲げる組織は、指導者が死去するなど、少なくなり、1960-70年代の勢いはなくなった。しかし、ネパールをはじめ存続している。
米中接近と日中国交締結
[編集]毛沢東は中国を訪問した外国の指導者を迎え入れることはあったものの、2度のソ連訪問を除いて自らの外遊は避けたことで当時の国際社会では神秘的かつ閉鎖的な国家指導者の印象を与えていたが[287]、巧みな周恩来の外交手腕もあって1971年に国際連合でアルバニア決議が可決され、中華民国を国連とその関連機関から追放させ、経済的には発展途上国でありながら軍事的には核保有国だけでなく、外交的には国連安保理常任理事国の地位も手に入れたことで加盟当初から事務総長の選出で意にそぐわない候補に対して拒否権を行使[288]するなど列強と並ぶ強い影響力を国際社会で誇示するようになって中華人民共和国は世界にとって無視できない存在となった。
毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京において行われたアメリカ合衆国大統領ニクソンとの会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東は西側諸国のリーダーだったアメリカのニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。ニクソンを通訳から紹介された毛沢東は「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した[289]。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれた。ニクソンの後を継いで米大統領に就任したジェラルド・フォードとも会見した[290]。ただし、米中が国交を正式に樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。
なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などでソ連との関係が悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。1973年に毛沢東はアメリカの国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャーにアメリカ・日本・中華人民共和国・パキスタン・イラン・トルコ・ヨーロッパによるソ連に対する合従連衡を提案していた[291]。また、毛沢東はCIAの職員で二重スパイの金無怠によってアメリカが中国との間でソ連に対抗する戦略的な同盟の形成を計画していることを示す文書を入手していたことでニクソン政権から最大限の譲歩を引き出すことができた[292]。
その後、1972年に高度経済成長を遂げて西側諸国ではアメリカに次ぐ経済力を有する国になっていた日本の首相田中角栄もニクソンの後を追うように中国を訪問して首脳会談を行い、日中国交正常化を果たす。中華人民共和国・中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に中国を訪問しただけで無く、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していたといわれる。
健康悪化
[編集]
彼が晩年に肺や心臓の複数の疾患を患っていたことは、国家機密とされた[293]。毛はパーキンソン病だったとも[294][295]、また筋萎縮性側索硬化症(ALS)だったともいわれる[296]。
ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明した。医師団が懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。1975年には白内障も悪化し、8月に右目の手術をして視力は回復したものの、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。毛が最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の毛遠新を連絡員として病床から指示を発するのみとなった。
毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。毛は周恩来の補佐として、1973年に鄧小平を復活させ、1974年には鄧を国務院常務副総理(第一副首相)に任命した。さらに、鄧小平は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。鄧小平は文革路線からの脱却を図ろうとしたが、文革を推進してきた江青ら四人組は反発し、周恩来・鄧小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対して鄧小平批判を伝えていた。毛沢東も文革を否定する鄧小平を批判するようになった。1976年1月8日の周恩来死去をきっかけに、同年4月5日、第一次天安門事件が発生すると、毛は鄧小平を再度失脚させた。
死去
[編集]毛は1976年5月11日と6月26日に2度の心臓発作に見舞われた。7月6日には朱徳が死去した。「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、9月2日には3度目の発作を起こして身体の自由を失い、1週間後の9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した[297][298][299][295][300]。
共産党は16時に全国ラジオ放送で毛の死去を発表し、党の結束が呼びかけられた[295]。
北京電視台で午後7時からの放送開始時に葬送曲とインターナショナルを流した後に、中国共産党中央委員会からの訃告を読み上げた[301]。日本ではNHKが午後5時10分に「毛主席死去」と速報を表示した[302]。1976年9月18日には天安門広場で追悼大会が実施された[303][304]。
中国共産党の党旗に覆われた防腐処理済みの毛の遺体は灰色の中山装を身に装い、1週間にわたり人民大会堂に安置された[305]。100万人の中国人が別れを告げるために参列し、外国人はテレビでその様子を見た[306][307]。壁には毛沢東の肖像画が掲げられ、「毛沢東主席の遺志を継承し、プロレタリア革命を最後までやり遂げよう」と記された横断幕が添えられていた[305]。9月17日、遺体はマイクロバスで305病院へ搬送され、内臓がホルムアルデヒドで保存された[305]。
9月18日、中国全土で一斉に警報、サイレン、汽笛、警笛が鳴らされ、3分間の黙祷が行われた[308]。天安門広場は数百万の人々で埋め尽くされ、軍楽隊が「インターナショナル」を演奏した。華国鋒は天安門の楼上で20分間にわたる追悼の辞を述べ、式典を締めくくった[309]。毛沢東の遺体は中華民族が追悼の意を表するために毛沢東霊廟に永久展示された[310]。遺体は現在天安門広場にある毛主席紀念堂で一般公開されている。
影響と評価
[編集]肯定的評価
[編集]1956年のフルシチョフによるスターリン批判は世界中の共産主義者や同調者に大きな衝撃を与え、スターリンとソビエト連邦の威信が大きく損なわれた。それと同時期に毛沢東思想(毛沢東主義・マオイズム)は西側諸国の学生運動はじめ、フランス、ポルトガル、西ドイツ、日本、アメリカ合衆国など世界中に支持者をもたらし、大きな影響を与えた。
タイム誌の20世紀の重要人物の1人に選出された[311]。毛沢東は、20世紀において最も重要かつ影響力のある人物の一人とされてきた[312][313]。また、政治的知性の持ち主、理論家、軍事戦略家、詩人とも評された[314]。
毛沢東の人民戦争理論という反乱戦略は依然として反乱勢力に支持されており、その政治思想も世界の多くの共産主義組織に受け入れられ続けている[315]。
毛沢東は、数十年にわたって続いた内戦を終結させ、統一国家である中華人民共和国を建国し、女性の地位を向上させ、当時は低かった識字率や教育水準を改善したことでも評価される[316][317][318][319]。また、貧困の削減、平均寿命と人口の倍増、中国の産業・インフラの発展、自給自足・自立型の経済の構築、さらに中国が世界の大国としての地位を確立する道を開いたと評価されている[318][320][319][321][322][323]。このほか、国の再統一によって国民に誇りを取り戻し、女性の権利や医療・教育を改善し、アヘン乱用の根絶、簡体字や拼音(ピンイン)を開発した文字改革も功績とされる[316][324]。1,000万人の薬物依存者が治療を受けさせられ、密売人は処刑され、アヘン生産地域には新たな作物が植え付けられた。残存するアヘン生産は、ミャンマーの黄金の三角地帯へと移行した[324]。
ジョン・キング・フェアバンクは1983年に「アレクサンドロス大王、カエサル、カール大帝、歴代の欧州諸王、ナポレオン、ビスマルク、レーニン――いかなる先人も毛沢東の成し遂げた規模の業績には及ばない。なぜなら、中国ほど古く、かつ巨大な国は他に存在しなかったからである。」と述べている[325]。フェアバンクの没後に出版されたマール・ゴールドマンとの共著では「将来の歴史家は、毛沢東の役割とは、少数の知識ある支配層と圧倒的多数の一般民衆という中国に古くから存在した二分構造を打破しようとすることにあった、と結論づけるかもしれない。彼がどの程度成功したのかは、現時点ではまだ分からない。経済は発展していたが、新たな政治体制を構築することは、後継者たちに委ねられたのである。」と書かれた[326]。
毛沢東による犠牲
[編集]他方で毛沢東の政策については、現在でも議論の対象となっている。研究者は毛沢東の引き起こした大躍進政策と文化大革命のような、文化・社会・経済・外交に重大な損害をもたらした問題について非難すると共に、彼の政策による犠牲者を数千万と推定する[327]。
毛沢東の政策により数千万人が死亡した[328][329][330]。その多くは大躍進政策にもたらした飢餓によるものだったが、その他、政治的迫害や粛清、「労改(ラオガイ)」での強制労働、大量処刑による死者も含まれる[217][328]。歴史家・ジャーナリストのジョナサン・フェンビーは、4000万から7000万もの人々の命を奪った責任を負う毛沢東は、ヒトラーやスターリンをも凌ぐ大量殺人者であり、人々の苦しみや死に対する毛の無関心ぶりは戦慄を覚えると評した[328]。
マルクス・レーニン主義を中国社会に導入しようと自らが確立した毛沢東思想に基づく毛の政策は、産業の面において結局失敗に終わったと論じられる[327]。毛沢東思想は文化大革命の理論的基礎となったが、莫大な犠牲を出して失敗したため、中国では毛沢東思想からの脱却が図られた[331]。さらに鄧小平の1978年からの改革開放によって市場経済の導入が開始して、毛沢東思想は過去のものとなった[331]。
毛沢東時代の中国は、大規模な弾圧を行った専制的かつ全体主義的な体制であると評されている[332][333][334][335][336]。毛沢東は、ヨシフ・スターリンやアドルフ・ヒトラーと並び、20世紀の独裁者の一人として評されている[337][338][217]。
スパイとして中国で投獄されたこともあり、1980年にアメリカに帰国した中国共産党員のシドニー・リッテンバーグ(李敦白)は、毛沢東は「歴史に残る偉大な指導者」であったが、同時に悪意はなかったが荒唐無稽な空想が数千万人の死を招いた「大罪人」でもあった、と評した[339]。
中国研究者スチュアート・R・シュラムは、毛沢東を「神や人の法、自然の理、あるいはマルクス主義の教義に縛られることを拒んだ永の反逆者であり、当初は崇高であったものの、次第に蜃気楼と化し、最後は悪夢となった理想を追い求めた指導者だった。彼は人類のために不可能に挑んだファウストやプロメテウスだったのか、それとも、権力と才覚に陶酔し、際限なき野望を抱いた独裁者だったのか?」と記した[340]。シュラムはまた、「毛沢東の功績は過失を上回る」とする中国共産党の見解に同意しつつも、何億人もの農民が土地を手に入れたという幸運と、土地改革や「反革命分子鎮圧運動」、あるいはその他の状況下で処刑された何百万人もの犠牲者とを、どう比較衡量すればよいのか。また第一次五カ年計画や経済発展の成果と、「大躍進」政策の誤った熱狂が招いた飢餓や、文化大革命の血塗られた大混乱とをどう比較すればよいか、それは容易ではないと指摘したうえで、毛沢東を天国に送るか地獄に送るかよりも、彼の思想が将来どのような影響を及ぼしうるかという点が重要だと述べた[341]。シュラムは、毛沢東の冷酷さを強調しつつも、革命の大義のために拷問や殺戮を行うことに喜びを見出すような様子は一切なかったと指摘している[342]。
モーリス・マイスナーは1999年の著書で、毛沢東時代の汚点、とりわけ大躍進と文化大革命という無謀な試みが大失敗に終わり、甚大な人的犠牲を強いたという事実は忘れ去られてはならない、しかし、将来の歴史家たちは、中華人民共和国の歴史における毛沢東時代を、世界史における近代化の偉大な画期の一つとして、また中国の人々に多大な恩恵をもたらした時代として記録することだろうと指摘した[343]。マイスナーの2007年の毛沢東伝記では、毛沢東は自らの社会主義が失敗し、最終的にはティラノス(絶対的な独裁者、暴君)となったと評価を厳しくした[344]。
伝記作家のフィリップ・ショートは、毛沢東時代で生じた数百万人に及ぶ死者のうち、半数は「大躍進」に伴う飢饉による意図せざる結果であった、また、毛沢東が思想改造を通じた「救済」を信じていたため、地主階級が集団として根絶やしにされることはなかったとも述べたうえで、「毛沢東の悲劇であり、また彼の偉大さでもあったのは、彼が最期まで自らの革命の夢に囚われ続けていたことである。……彼は中国を儒教的な過去の束縛から解放したが、彼が約束した輝かしい赤色の未来は、不毛な煉獄と化した。」と評している[345]。
アレクサンダー・パンツォフとスティーブン・レヴィンは、毛沢東は複雑な人物であり、聖人として崇めたり、あるいは悪魔として単純化したりすべきではない、なぜなら、彼は「自国の繁栄と国際的な尊敬の獲得を実現しようと、懸命に努力した」からであると指摘したうえで、毛は「成功を収めた創造者であると同時に、究極的には邪悪な破壊者」であると評した[346]。彼らは「才能ある中国の政治家、歴史家、詩人、哲学者、絶対的な独裁者、精力的な組織者、巧みな外交官、ユートピア的社会主義者。世界最多の人口を擁する国家の指導者として過去の栄光に安住する一方で、数百万の人々の生活様式や意識を根本から変えようと真摯に試みた不屈の革命家でもあった。民族革命の英雄であり、同時に血塗られた社会改革者――毛沢東は歴史にそのように刻まれている。その生涯のスケールはあまりに壮大であり、単一の意味に集約することなど到底できない。」[347]。
文化大革命の清算
[編集]文化大革命は、中国の伝統文化の多くを破壊し、多数の市民を投獄し、広範な混乱をもたらした。この文化大革命に伴う暴力によって、数十万人、あるいは数百万人が命を落としたと推定されている[348]。これには劉少奇のような著名な人物も含まれた[349][350][351]。
毛沢東の死去後、江青ら4人組を逮捕・失脚させて党主席・最高指導者に就任した華国鋒は「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。
鄧小平はこれに対して「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は鄧小平を支持し、その後鄧小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い、「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また、党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。例えば、毛沢東死後の1978年に国歌「義勇軍進行曲」の歌詞が毛沢東の偉大さを讃えるものに改変されていたが、文革処理がほぼ終わった1982年には元々の歌詞に回復され、国歌での毛沢東への言及はなくなった。
1981年6月27日、中国共産党中央委員会は「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」を採択し、毛沢東時代および党の今後の課題について評価を下した[352](p166)。この歴史決議では、1957年から1964年にかけての挫折や、1965年以降の重大な過ちについて記述しており、毛沢東の誤りを、彼が党指導部の集団的見解から離反した際に生じた個人主義的傾向に起因するものとした[352](p167)。一方で中国共産党と革命に対する毛沢東の貢献は、彼の過ちをはるかに上回るものであると述べた[353](p445)。中国において毛沢東を総括する際によく用いられるのは、鄧小平の「功績7割、過ち3割」という表現である[10](p55)[353](p445)[354](p253)[355]。鄧小平は「毛沢東主席はその生涯の大部分を中国に捧げ、党と革命が最も危機的な状況にあった時にそれらを救った。彼がいなければ、中国人民が暗闇の中から正しい道を見出すのははるかに困難であっただろう。彼の貢献は偉大であった。」と述べた[356]。
毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、先進国・発展途上国問わず世界に影響を与えた。内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させた。一方で「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力は未だ根強く残っている。文化大革命で失脚したうえに迫害された鄧小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされた。
現代中国
[編集]中国本土において、毛沢東を批判したり、反対することは、検閲や職業上の不利益を招く恐れがあるため、公的な場で表明されることはない[357][358]。1970年代後半に中共政府が市場経済化改革に着手し、その後の指導者たちが権力を掌握するにつれて、毛沢東に対する評価は低下してったが、「大躍進」や「文化大革命」に反対の立場をとっていた鄧小平でさえ、「毛沢東主席の過ちについて記述する際、誇張してはならない。そうした誇張は、彼の威信を傷つけ、中国共産党と国家の威信を傷つけることになる」と述べ、毛沢東への批判を諌めた[359]。
毛沢東の評価については過ちがあったものの、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。例えば1989年の第二次天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道された。
一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。第二次天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。
2008年12月25日、中国は毛沢東の生誕115周年を記念し、故郷である湖南省中部に「毛沢東広場」を一般公開した[360]。
2013年12月、中国共産党の機関紙タブロイド紙『環球時報』が行った世論調査では、回答者1,045人のうち約85%が、毛沢東の功績は過ちを上回ると考えている[361]。中国国民の多くの人々は毛沢東は、日中戦争で日本を打倒し、アヘン戦争以来の西欧帝国主義による搾取から国を解放した国民的英雄とみなしている[362]。
毛沢東の死後の中国は改革開放によって経済が発展する一方、所得格差の拡大・党幹部と官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。そのような状況の下で困窮に苦しむ人々が貧しい農業国でも平等だった毛沢東時代の中国を懐かしみ、毛の肖像・『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。毛の117回目の誕生日に当たる2010年12月26日には、北京で陳情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行った[363]。政治学者のリチャード・カート・クラウスは「中国の一般市民は、毛沢東時代を、貧しくとも質素で、より高い平等性が保たれ、誠実な気風があり、役人たちは時に熱狂的ではあっても高潔であった時代として、しばしば回想している。」と述べている[364](p8)。2015年から2018年にかけて、『ワシントン・ポスト』紙は中国で70人へのインタビューを行った。その「かなりの割合」が、毛沢東時代は貧しく、また悪い面もあったが、人生における明確な意義があり、格差も少なく、精神生活が豊かで、「純真さ」があったと肯定的に語った[362]。
他方、2015年にテレビ司会者の畢福剣が私的な会食の場で毛沢東を批判する動画が拡散した。政府系機関などから批判が噴出する中、Weibo(微博)ユーザーから畢は支持され、ある世論調査では回答者の8割が「畢氏は謝罪すべきではない」と回答した[365][366]。畢福剣はその後停職処分となった。
元中国共産党高官でマルクス‧レーニン研究所長の蘇紹智は、「毛沢東は歴史的な大罪人であったが、同時に善のための偉大な力でもあった」と述べている[367]。1989年の六四天安門事件でアメリカに亡命したジャーナリストの劉賓雁は、毛沢東を「怪物であると同時に天才でもある」と評している[367]。
毛沢東の秘書であったが、大躍進運動を批判し下放されたこともある民主改革派の李鋭は、「毛沢東の思考や統治は恐ろしいものだった。彼は人の命を何とも思わず、他者の死など彼にとっては無に等しかった」と証言した[368]。
鄧小平に次ぐ実権者だった陳雲は「もし毛沢東が1956年に亡くなっていれば、その功績は不滅のものとなっていただろう。1966年に亡くなっていれば、偉人ではあっても欠点のある人物と見なされたはずだ。しかし、彼は1976年に亡くなった。ああ、何と言えばよいのだろうか。」と述べた[369]。
毛沢東の言葉・思想
[編集]軍事戦略
[編集]毛沢東の軍事に関する著作は、反乱を起こそうとする側とそれを鎮圧しようとする側の双方に、依然として多大な影響を及ぼし続けている。とりわけ、毛沢東が天才と見なされているゲリラ戦の分野において、その傾向は顕著である[371]。
ネパールの毛沢東主義者(ネパール共産党毛沢東主義派)は、毛沢東の「持久戦論」「新民主主義」「大衆路線」「不断革命論」そして「文化大革命」に関する見解から多大な影響を受けた[372]。
毛沢東の軍事学への主要な貢献は「人民戦争理論であり、そこにはゲリラ戦だけでなく、より重要な要素として「運動戦」の手法が含まれた。毛沢東は朝鮮戦争において運動戦を巧みに展開し、圧倒的な火力を有していた国連軍を包囲・撃退し、その進撃を阻止した[373]。
- 「ある事物を理解するためには、それを変革する戦いに参加しなくてはならない」(『実践論』)
「東風は西風を圧倒する」
[編集]- 1957年11月にモスクワを訪問した毛沢東は、「この世界には二つの風が吹いている。東風と西風だ。中国には、東風が西風を圧倒しなければ西風が東風を圧倒するという格言があるが、今日の世界情勢はまさに東風が西風を圧倒している(中国語: 东风压倒西风)、つまり、資本主義勢力に対して社会主義勢力は圧倒的有利に立っているということだ」と演説し、さらに「戦争が始まればどれだけの人が死ぬか考えてみよう。地球上には二十七億の人間が暮らしており、その三分の一、いや多ければ半分が失われる可能性がある……私が言いたいのは、たとえ最悪のケースで半分死んだとしても、半分は生き残るということだ。しかし、帝国主義は抹殺され、この正解はすべて社会主義になるだろう。数年も経てば、人口は再び二十七億に達するはずだ」と述べた[374][375]。
毛沢東は「道は自分で切り開くもの」と、過去の歴史の指導者と同じことをしようとは考えてはいなかった。ある時、護衛の者と山登りした際も昇ってきた道を引き返して下りようとはせず、別の道を見つけて下ったという逸話がある。
日本に関するもの
[編集]日中戦争時代には、「戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、われら数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、われらの恫喝により彼らは飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」「日本はいま世界有数の強い帝国主義国である、一方で我が国は依然として弱国であり、軍事力・経済力・政治組織力などの面で敵に劣っている。だが日本は国土が比較的小さく、人力・軍事力・財力・物力にいずれも欠乏を感じており、長期の戦争には耐えられない。一方で中国はさしのぼる朝日のような国で、日本帝国主義の没落状態とは全く対照的である。中国の戦争は進歩的であり、この進歩性から中国の戦争の正義性が生まれている。この戦争は正義の戦争であるために全国的な団結を呼び起こし、敵国人民の共鳴を促し、世界の多数の国々の援助を勝ち取ることができる。中国はまた大きな国で土地が広く、物産は豊かで、人口が多く、兵力も多いので長期の戦争を支えることができ、この点もまた日本と対照的である。」と「持久戦論」(1938)で述べた[376]。
第二次世界大戦後の1964年7月に日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。元大日本帝国陸軍中将の遠藤三郎と毛沢東の会見[377]、元A級戦犯の久原房之助と毛沢東の会見でも毛沢東から似た発言がなされた[378]。この発言をした1964年は大躍進政策の失敗後であり、文化大革命の前夜であった。毛沢東は、日本人を「日本軍国主義者」と「日本人民」に分けて考え、後者と統一戦線を組み、第三の革命とされた日本人民革命を起こさせようと考えていたという[379]。1964年には沖縄返還を要求する日本人民の愛国闘争を支持するとも人民日報で述べていた[380]。
1970年代に国務院副総理陳永貴が日中戦争のとき「漢奸」だったと告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人は命の恩人だ。命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と言った。
- 皇室制度
- 戦争末期の1945年5月28日に日本共産党の代表だった野坂参三の演説原稿を読み、以下のような書簡を送っている。野坂は「人民大多数が天皇の存続を熱烈に要求するならば、これに対して我々は譲歩しなければならぬ。天皇制の問題は、戦後儘速(迅速)に人民投票によって決定される」という投票による皇室制度容認の草稿を用意していたが、毛沢東はそれに対して「『儘速』の二文字は削除した方が良い」「日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期間の内に出来るものではないと思っている」とさらに慎重な態度を取っている。なお毛沢東が戦後日本の皇室制度を批判したことは無く、戦犯問題についても野坂が広範なファシスト分子摘発を訴えたことに毛沢東は反対し、特高警察や思想警察でさえ「一部の積極分子のみ」に限定するのが良いと寛容な態度を取った[381]。
その他
[編集]- 「和尚打傘」
- アメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーとの対談で"和尚打傘"(中国語: 和尚打伞)と述べた。これは「(傘をさした和尚は)髪もなければ、天も見えない(中国語: 无发无天)」と「やりたい放題(中国語: 无法无天)」をかけた歇後語(言葉遊び)であったが、通訳の唐聞生がアメリカ育ちであったために意味を汲み取れず、「和尚が傘をさす」と直訳した。このためスノーは、毛主席の言葉を「自らを、傘を手に歩む孤独な行脚僧とイメージしている」などと紹介し、「なにものにも束縛されず、自分の道を歩んできた」という毛沢東の本来の意図とはむしろ逆のメッセージが全世界に発信された[382][383][384]。
著作・講話
[編集]逸話・人物
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- 毛沢東は大の読書好きで、中南海の邸宅には約70万冊の本が収集されており、とくにお気に入りの本は寝室に置かれていた。主に歴史関係の本を好み、特に中国史(歴代王朝二十四史や三国志)を愛読していた[385]。
- 毛をはじめとする共産党幹部は昼間眠って真夜中に仕事をするという、いわゆる夜型の習慣を革命当時に身につけた。北京入城後、劉少奇、朱徳、周恩来など他の古参幹部らは生活を昼型に戻したが、毛だけはそうせず、逆に終生これを変える事はなかった。幹部党員との会議や、時には外国首脳との接見も毛の執務習慣に合わせ深夜に行われた[信頼性要検証][386]。
- こうした毛の執務習慣に合わせ、昼間鳴き騒いで毛の睡眠の邪魔をするという理由で、中南海で雀退治が行なわれた。幹部職員には1日何羽というノルマが課せられた。それでも北京市内の雀が入ってくるので、市内全部の小中学校の児童・生徒に雀捕りの号令が掛けられた。或る幹部は孟浩然の詩を読み替えて詠んだ。
- 1956年に毛は「雀は年間30kgの米を食う」と言いだし、絶滅を命じた。毛の雀狩りは5年間続けられた。記録では北京で年間11億羽を処分とある[387]。しかし当然の報いとして害虫による作物の被害が蔓延し凶作に陥ったため、ようやく雀狩りは取止められた(四害駆除運動)。

- 天安門広場に掲げられた肖像から人民服を愛用していたように思われがちだが、正装として着用しているだけであり、実際にはあまり着用しなかった。体を締め付けないゆったりとしたガウンのような服が好みで、私生活では寝ているときも起きているときもそれを着用し、深夜の会議や党幹部の報告もベッドの上でその服装で聞き流していた。また、幼児じみたところがあり、そのガウンが破けたたりほつれたりしても新しいものとは交換せず、同じガウンを繕いなおさせてそれを着用した。それゆえ上海に毛専用の縫製ラインが設けられ、傷んだガウンはそこへ送られ一流の縫製職人がこれを修復した。しばらくするとガウンはパッチワークの様相を呈したが、毛本人はなんら気にとめることはなく、来客があるとそのパッチワークのガウンを自慢げに見せびらかしていた[信頼性要検証][386]。
- 味覚の嗜好は終生変わることがなかった。専ら故郷の油っこい味付けの料理を食し、ソ連訪問時もわざわざ彼専用の料理人を連れて行き、現地の味には一切眼をくれないほどであった。このとき、ソ連政府はわざわざクレムリンの一室をさいて毛に供したのだが、毛が用いたのはその空間だけであって、お気に入りのベッドは無論のこと御虎子に至るまで持ち込んで、滞在中ずっと使用していた。
- 食器は、景徳鎮に毛沢東専用のそれを焼くための窯が存在した[信頼性要検証][386]。そこで生産された毛専用のそれら食器は、毛の没後の1982年に保管されていた予備品が市中に出回り、やがて香港を経由して西側にも知られるようになった。2015年現在、それらの食器はその極秘生産指令のコードを付した 7501工程、毛瓷の名称で呼ばれ、中国の経済成長ともあいまって驚くほど高額の骨董的価値を付与されている。これらの食器は陶磁器の専門家や蒐集家から半ば皮肉を込め「最後の官窯」とも呼ばれている。
- スポーツは水泳を好んだ。中国全土に建設された毛専用の別荘には、かならずプールが備えつけられていた。フルチショフが訪中した際は、プール際にまで彼を呼びつけ、金槌である彼をからかうようなそぶりでプールを自由に泳ぎまわる際どい外交戦術を展開したこともある。さらに黄河などで自らの水泳する姿を写真に撮らせて新聞に載せ、意気盛んな様子をアピールしたことも良く知られている。また、最晩年に中南海の菊香書屋を出て、移り住んだ終の棲家は中南海のプールの更衣室(脱衣場)であった[388]。
- 麻雀の名手であった。自身、「麻雀は漢方、『紅楼夢』とともに世界に三大貢献した。」と評価し、高度な戦略を磨き確率性と確実性の関連を学ぶことができるとして楽しんでいた。

- 歯磨き粉をめぐる毛沢東の噂話は幾つかのバージョンがある。いずれもオチつきである。一つは、昔は缶入りの粉歯磨きばかりであったが、やがてチューブ入りの練り歯磨きが出て来たときに、毛沢東は我が国は未だ貧しい、その間は自分は最新のチューブ式歯磨きでなく、昔ながらの缶入りの歯磨き粉でいいと言って、従来通りの粉歯磨き粉を愛用していた。さらに、茶を好んだ毛沢東は歯に茶渋がつくため、すぐに歯が黒くなったので、ヘビースモーカーが歯のヤニを落すために使うような極めて研磨力の強い歯磨き粉を愛用していた。その影響により、歯のエナメル質が削れて、結局かえって多くの歯を失うことになったというものである。別の話では、市中に練り歯磨きが普及してからも、やはりそれを使おうとしなかった、やがて歯磨き粉の生産中止が決定し、部下が次第を報告すると「俺は生まれてこの方、歯磨き粉しか知らないからこれしか使わない。お前たちが練り歯磨きを使うのは勝手だが、俺に練り歯磨きを強制するのは止めろ」と命じたので、生産中止は撤回され、上海の国営工場で、毛沢東一人のためだけに細々と歯磨き粉の生産が継続されたともあり[386]、湖南省韶山市の毛沢東同志記念館には曰くつきのその歯磨き粉が展示されているという。別の話では、毛沢東はお茶を飲んでいれば、虫歯をふせげると信じ、歯磨きをしなかった、そのために、彼の歯は茶渋で真っ黒だったという。これらの話では、歯とくに前歯が黒ずんだか、あるいは歯を失ったかで、それを見られるのを気にして、毛沢東は人前ではあまり口を開けなかったとされる。中には、伝えられるうちに緑茶を良く知らない西洋人によって変形したものと思われるが、緑茶という言葉からか、茶渋で黒ずんでいたではなく、「まるで口内に緑色のペンキが塗ってあるよう」だったとなっている話もある[389]。
- 毛は共産党の正統性を宣伝するため魯迅を利用したことで中国での名声が高まった。本人は特に阿Q正伝を気に入っており、談話でしばしば「阿Q精神」を引き合いに出した[390]。
- 毛沢東は呂蒙に感銘を受けた人物の一人であり、部下への訓告に際しては度々呂蒙の生きざまを引き合いに出している。彼自身、幾度も『呂蒙伝』を読み込んでおり、特に孫権が呂蒙の事を論じた『学門開益、籌略奇至(学問に懸命に取り組み、ずば抜けた策略を得るに至った)』という言葉を大いに気に入っていた。また、陳寿が評した『呂蒙勇而有謀』の六字を部屋中にびっしりと書き加えていたという逸話もある。1958年に安徽省へ視察へ出向いた際には、同行していた羅瑞卿や張治中へ「呂蒙は一兵卒として従軍し、驍勇にして胆略を有していたが、教養を持っていなかった。将軍となってからもそれは変わらず、軍事上の報告をする際には口述して書き写させていた。甚だ不便といえる。孫権が彼に書を読むよう勧めると、彼は軍務が多忙で時間が無いと言ったが、孫権は自らを引き合いに出し、ただやると決心する事が重要であり、時間など大した問題ではないと説いた。呂蒙は孫権の忠告を聞き入れ、刻苦しながらも自ら勉学に励み、数年の後には別人のようになった。そして後に東呉の将帥となり、数多の戦を勝利に導き、関羽を麦城へ敗走させたのだ。我が軍の高級官僚も十中八九が行伍(一兵卒)の出身であり、今になって教養を学んでいる。彼らは『呂蒙伝』を読まないわけにはいかぬ」と語った。また、その後もある時には「呂蒙は用兵を巧みにしてよく敵の心を攻めたが、もし節を曲げて書を読む事が無ければ、どうして東呉の将帥足りたただろうか。我ら解放軍には行伍が多い。『呂蒙伝』を読まねばならない」とも周囲に語っていたという。1972年には『呂蒙伝』の注釈書の作成を監修し、幾度も自ら指摘を行って修正させている。そしてこの際にも、呂蒙が出世してから本を読むようになった事を引き合いに出し、高級官僚に対して学問を学ぶ事の重要性を説いている。
- マイク・タイソンから崇拝されており、タイソンは毛沢東の入れ墨を右腕に掘っている[391]。
- 1960年10月、アメリカの作家エドガー・スノーが北京の中南海で毛沢東にインタビューした際、「あなたの人生で最も暗い瞬間はいつでしたか?」と尋ねた。毛沢東は「1935年の長征の時、草原での張国燾との闘争です」と答えた。
- 毛沢東は絶え間なくタバコを吸い続けたため、健康を悪化させたと指摘されている[392][393]。中国共産党は2013年12月29日に、公共の場での喫煙、公共資金でのたばこの購入、公務中のたばこの提供を禁止した[394][393]。
家族・親戚
[編集]- 家族
- 親族
紙幣・切手
[編集]- 1988年に発行された中華人民共和国の紙幣である中国人民銀行券の第4版では、100元札に周恩来・劉少奇・朱徳と共に毛沢東の顔が、他の札では少数民族の政治家などが描かれていたが、1999年から発行が始まった現行の第5版では、すべての券種に毛沢東の肖像が描かれ、ほかの人物は描かれていない。2006年3月13日人民日報は、中国人民政治協商会議委員が人民元に孫文と鄧小平の肖像も採用するよう提案したと報じた。[395]。
- 毛沢東の肖像や語録がプリントされた1967年や1968年の切手は、文化大革命中の切手購入が実用目的のみに制限されていた事から希少性があり、コレクターの間では非常な高額で売買されるプレミアム切手となっている。
関連作品
[編集]毛沢東は中国のみならず世界中の大衆文化においてもその存在感を示しているとされ、毛沢東の孫娘である孔東梅は「チェ・ゲバラのイメージと同様に、毛沢東もまた革命文化の象徴となっている」と語っている[396]。
一方で、2016年のYouGovの世論調査ではアメリカのミレニアル世代の42%が毛沢東について聞いたことがなく[397][398]、2019年のオーストラリアでは毛沢東を知っていたミレニアル世代は21%だった[399]。
映画
[編集]中国では毛沢東に関する映画は多数ある。毛沢東を演じた主な俳優としては、1978年のドラマ『蝶恋花』、1980年の映画『大渡河を渡る』でのHan Shi[400]、毛沢東に風貌が似ており、計84回にわたり映像作品で毛沢東を演じた古月[401][402]、映画『建党偉業』(2011年)での劉燁[403]、映画『長征』(1996年)『建国大業』(2009年)テレビドラマ『黄炎培』(2010年)での唐国強らがいる[404]。
音楽
[編集]ファッション
[編集]人民服は孫文(孫中山)が考案した。孫文は1905年の日露戦争直後、が横浜の仕立て屋で日本の学生服(プロイセン軍のヴァッフェンロックに由来する)をモデルとして作り、後、中国国民党が人民服(中山装)を高官の制服にした[407]。その後、毛沢東と中国共産党が権力掌握すると、世界での毛沢東の認知が進み、特に英語で人民服はマオスーツ(Mao Suit)と呼ばれるようになった。マオスーツは、インドのジャワハルラール・ネルーが着用していたNehru jacket(ネルージャケット)と並んで、ファッション界でも定着している[408]。ただし、マオスーツを着用することが毛沢東思想を支持しているとは限らない。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 中国共産党中央軍事委員会は、国家機関である中央人民政府人民革命軍事委員会に接収された。なお、毛沢東は中央人民政府人民革命軍事委員会主席に就任している。
- ↑ 中華人民共和国憲法制定による国家機構の再編で中央人民政府人民革命軍事委員会が廃止されたため、中国共産党中央軍事委員会が再設置された。
- ↑ 字は詠芝、潤芝、潤之で、筆名は子任である。
- ↑
。毛沢東年譜より[29]。— 釈月性 将東遊題壁[27] 「碇豊長の詩詞 詩詞世界[28]」日本漢詩選男兒立志出郷關
學若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到處有靑山
(男児 志を立てて 郷関を出づ
学 もし成るなくんば 復還らず
骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を 期せんや
人間 到るところ青山あり) - ↑ なお下記に紹介する詩が、日露戦争時のものであるかについては諸説ある。
- ↑ 1932年、毛沢東は党中央と軍事路線と「土地改革」をめぐって対立し、党中央から軍の指導権を剥奪され、「土地革命」も中止された。その後、毛沢東は指導権を回復して「土地革命」が再開されたが、日中戦争が始まると、毛は「土地革命」を停止して「減租減息」(小作料・利息の軽減)を実施し、支配地域の農民の負担の軽減を図っていた。
- ↑ 国家統計局国民経済綜合統計司編 (2009) p.12 表1-9 国内生産総値指数によると、1952年の実質GDPを100とすると1957年の実質GDPは155.6となり、平均すると年率成長している。
出典
[編集]- 1 2 「毛沢東」『日本大百科全書(ニッポニカ)』。コトバンクより2022年11月23日閲覧。
- ↑ 「毛沢東」『ブリタニカ国際大百科事典』。コトバンクより2021年12月14日閲覧。 "中国の政治家,思想家。"
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参考文献
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- 野中郁次郎・ 戸部良一他『知略の本質 戦史に学ぶ逆転と勝利』日本経済新聞出版社、2019年、ISBN 978-4532176761
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- Gao, Mobo (2008). The Battle for China's Past: Mao and the Cultural Revolution. London: Pluto Press. ISBN 978-0745327808
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関連項目
[編集]外部リンク
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