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楊開慧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楊開慧
楊開慧と毛岸英毛岸青
プロフィール
出生: 1901年11月6日(光緒27年9月26日)
死去: 1930年民国19年)11月14日
中華民国の旗 中華民国湖南省長沙市
出身地: 清の旗 湖南省長沙府長沙県
職業: 革命家・政治活動家
各種表記
繁体字 楊開慧
簡体字 杨开慧
拼音 Yáng Kāihuì
ラテン字 Yang K'ai-hui
和名表記: よう かいけい
発音転記: ヤン カイホイ
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楊 開慧(よう かいけい、1901年11月6日 - 1930年11月14日』)は、中華民国の女性革命家・政治活動家。中国共産党員で、毛沢東の2番目の妻として知られる。日本イギリスに留学し、ドイツでも学んだ哲学者・楊昌済の娘[1]は霞、は雲錦[1]

事績

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父は、清朝末期から民国初期にかけての高名な学者で1913年にヨーロッパから帰国し、湖南省の長沙で教鞭をとっていた[1]。当時、毛沢東も長沙に出て学びはじめ、楊昌済の居宅に訪れていた[1]。このとき、娘の楊開慧とも知り合ったと考えられる。楊開慧は、楊公廟公立第四十小学、衡粋実業学校附設小学班、陰儲女子学校、稲田女子師範などで学んでおり[2]、父の影響を受けて開明的な思想をもっていた。楊昌済は1918年春、北京大学の倫理学教授に任じられ、彼女は両親とともに北京に移った[1]。毛沢東との恋愛は、北京時代以降である[1]。楊昌済は毛に目をかけ、金のない毛沢東に北京大学図書館副司書の職を世話した[1][注釈 1]。父死後の1920年民国9年)1月、18歳の楊開慧は長沙に帰り、ミッションスクールである長沙福湘女子中学選修班に入学した[1]。直後に毛と再会、足繁く楊家に通う毛と恋愛し、結婚した[1][注釈 2]。楊開慧は毛とのあいだに、1922年10月に長男毛岸英、1923年に次男毛岸青、1927年に三男毛岸龍(4歳で死亡)をもうけた[1]

1920年冬、楊開慧は中国社会主義青年団に加入している。1921年(民国10年)、中国共産党湘区党委員会で機密・交通に関する連絡事務を担当する。同年冬、正式に共産党に加入した。1924年(民国13年)夏、上海に赴き、女性運動に従事している。1925年(民国14年)2月に毛沢東の下に戻り、毛を補佐して農民夜学の創設に取り組んだ。10月、広州に移り、女性運動に再び参加している。1926年(民国15年)11月、長沙に戻る。まもなく毛沢東に随従して武漢に移り、中央農民講習所を開き、女性運動を展開した。1927年(民国16年)4月、国共が分裂し、蔣介石が反共運動を開始した[1]

1927年11月、楊開慧は長沙に引き返し、以後、共産党地下工作に従事した。楊は母親とともに3人の幼い息子たちを連れて故郷にひそみ、苦難な生活のなか、あらゆる手段で井崗山にある夫と連絡をとった[1]1930年(民国19年)10月、国民革命軍の一系統である湘軍(湖南軍)の指導者・何鍵により、楊開慧は子どもたちとともに長沙で逮捕された[1]。楊昌済の生前の同僚たちが彼女を救おうと運動した結果、省長の何鍵は毛沢東と離婚するという声明を出せば、すぐに釈放するとの回答を得た[1]。獄中の楊開慧は、夫と自分の信条に忠誠を尽くし、夫に貞節を尽くして、この申し出を拒絶した[1]。11月14日、何鍵の命令で彼女は射殺された[1]。まだ29歳であった[1]。一報を聞いた毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ」と嘆息したといわれる[注釈 3]。しかし、毛は楊開慧がまだ生きていた1928年、当時17歳だった「美形の同志」賀子珍延安ですでに結婚していた[1]

なお、文化大革命期の1976年4月に起こった四五天安門事件では、周恩来追悼のために天安門に集まった群衆が横断幕や血書などによって、いわゆる「四人組」を批判・攻撃しているが、そのなかには楊開慧を称賛するものもあった[4]。これはもとより、当時の毛沢東夫人で「四人組」のひとり江青に対する当て付けにほかならない[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 毛沢東の北京生活は半年ほどであり、恩師の紹介した図書館の仕事もすぐに辞めてしまった[1]
  2. ^ 毛沢東は当時、長沙で陶斯咏(陶毅中国語版)と一時同棲していた[3]。相思相愛のなかで、2人で書店をひらいて革命活動を始める間柄でもあったが、長続きせず、毛の造反思想や暴力革命の考えについていけなくなった陶が毛沢東の元を去ったといわれる[3]
  3. ^ 毛沢東にとって楊昌済は革命の同志であり、毛の晩年には自身の女性秘書を楊開慧と同じ髪型にさせていたという。彼女の死から二十数年経過した1957年、毛沢東は楊開慧のために「蝶恋花」という詩を書いた[1]1962年11月、90歳を超えた楊開慧の母親が死去した際には、毛沢東は手紙のなかで、それまで通り、義母を「お母上」と呼んでいる[1]

出典

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参考文献

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  • 安藤正士太田勝洪辻康吾『文化大革命と現代中国』岩波書店岩波新書〉、1986年7月。ISBN 978-4004203469 
  • 徐友春主編『民國人物大辭典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 京夫子 著、船山秀夫 訳『毛沢東 最後の女』中央公論新社〈中公文庫〉、1999年11月。ISBN 978-4122035386