第一インターナショナル

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第一インターナショナル(first International)または国際労働者協会(International Workingmen's Association、以後「IWA」と略記)は、ヨーロッパの労働者社会主義者が1864年9月28日に創設した世界初の国際政治結社。社会主義政策とその内容に関して国家的枠組みを超えて討議・検討すると共にこれを決議して各国政府に提言した他、世界初の 社会主義革命というべきパリ・コミューン革命を支援するなど政策論争から革命戦略に至るまで横断的な挑戦を試みた。しかし、ブリテンの素朴単純な労働組合主義者の確執やフランスで影響力をもったアナーキズムとの対立によって分裂、崩壊した。ここでは1840年代の国際労働運動を起点に1860年代のIWAの設立と活動を論じる。

目次

前史[編集]

チャーティズム時代[編集]

IWA創立までには、ヨーロッパにおけるナショナリズム運動や労働者階級の長い苦闘の歴史がある。グレート・ブリテン王国ではチャーティスト運動反穀物法運動、また労働組合運動が展開されたほか、ヨーロッパ大陸およびブリテン諸島ではフランス革命ギリシア独立戦争、フランス七月革命ベルギー独立革命アイルランドジャガイモ飢饉1848年革命など事変が相次いで生じていた。これは「旧体制」支配者の「敗北」を意味するものであり、各国のナショナリズム、改革の運動を刺激するものであった。なかでもブリテンの労働運動・政治運動は特筆するものがある。とりわけ、チャーティスト運動はマルクスの理論形成に大きな影響を及ぼし、国際労働運動の祖先形をなすものであった[1]

1845年9月、チャーティズム最左派の指導者ハーニー(George Julian Harney) によって「友愛民主主義者協会」が設立された。IWAはチャーティストと大陸民主主義者の交流から生まれたものであり、国際主義の性格を強くおびていた。1850年に入っても多数の指導者たちが参集して多数の大会および国際集会を開き、「地球とそれが生み出す全ての自然の生産物は、全ての人間の共有財産である」という宣言を採用している。ハーニーは、抑圧され困窮に喘ぐ労働者の状態は万国で同一であり、彼らの解放のための主義も同一であるとして、共通の大義のために友愛と連帯をふかめるべきだと訴えた[2]

ジョージ・ジュリアン・ハーニー

一方で、ハーニー、アーネスト・ジョーンズをはじめチャーティスト指導者はカール・マルクスフリードリッヒ・エンゲルスと親交を深めていった。

マルクスなど亡命中の革命家たちがチャーティストの同士達に加わって、各国代表書記が設置されて国際団体の様相を呈することになる。エンゲルスは「エンゲルス商会」の経営に携わるための研修で1842年秋ブリテンにわたっており、『ノーザン・スター』編集者のハーニーを訪ねていた。翌年、エンゲルスはパリに行った際にマルクスと再会しており、郷里に戻ったときにかの有名な『イギリスにおける労働者階級の状態』という著作を世に発表している。1846年に発足したマルクスらの共産主義者通信委員会は、エンゲルス・ハーニーの協力を得てチャーティストと急速に接近していった。大陸での革命運動を支援していく「友愛民主主義者協会」とその後マルクスが参加していた「ブリュッセル民主主義者協会」のネットワークが確固としたものとなった。1849年になると、マルクスはラッサールの援助でロンドンに移住している。マルクスの研究は移住先のロンドンで更なる発展を遂げている[3]

チャーティズム衰退と革命派[編集]

『レッド・リパブリカン』創刊号

チャーティスト運動は1850年代に入ると急速に弱体化して消滅していくが、国際労働運動としては余命を残していた。

少し遡る1846年のクラクフ蜂起を受けて、翌年11月、ポーランド問題に抗議する集会が開かれている。1848年革命の際には、ハーニー、ジョーンズ、マグラスがパリにわたり、パリ臨時政府に「全国憲章協会」からの書簡を渡したほか、「ブリュッセル民主主義者協会」のメンバーら多数の大陸民主主義者と交流した。1848年はチャーティスト・インターナショナルズムの絶頂期となった。しかし、ブリテン政府はチャーティスト運動の封じ込みを図り、大陸の革命が上陸してくるのを恐れて外国人送還法をもって危険分子とみなした外国人活動家を追放し始め、「友愛民主主義協会」も解散を余儀なくされた。

だが、「万国のすべての人々は兄弟」、「地球は万人の共有財産」、「人民憲章」、「労働者は労働の全成果を享受すべし」というスローガンは残り続けた。1850年、共産党宣言が英訳され『レッド・リパブリカン』に掲載されたほか、チャーティスト・インターナショナリズムの活動が後のIWAの礎石になったのである[4]。ただし、こうした連帯の実質的な方向性は各派で異なったものとなっていた。大陸民主主義者は機密結社による武装蜂起を基本戦術にしていた。しかし、ハーニー等チャーティストは、長年の政治経歴から、デモや集会、チャーティスト運動が署名を集めて「国民請願」をなしたように平和的な活動によって議会への圧力を加えて改革を得るという穏健な方法論を採用する立場へと転向していた。この路線の相違は将来のIWAの活動にも影を差すものであった[5]

労働者連帯とIWA結成[編集]

1860年代と国際情勢[編集]

チャーティストの残党たちは1860年代の国際危機に刺激され復活を遂げていく。

大英帝国の歴史的支配領域の広がり
帝国主義列強各国の領土変遷

1860年代には大英帝国の世界支配が完成する一方、世界各地で紛争が多発していた。新興国の工業化、近代化が急速に進展し始めていた。この時代の動きはアメリカにおいて南北戦争、南欧でイタリア統一運動、東欧でポーランド蜂起(1月蜂起)、ブリテン諸島周辺部ではアイルランドのフィニアン蜂起、そして極東では日本の尊王攘夷運動や戊辰戦争といった事象が次々と生じた。これらの事象に対する労働者の反応が第一インターナショナル創立の直接的契機となったのである。

大英帝国は第一次・第二次アヘン戦争を勝利したほか、クリミア戦争でロシアの地中海への南下政策を阻み、インド大反乱を制して無敵の覇権国家として世界に君臨していた。

大英帝国は奴隷制度廃止の先進国を自負していたが、経済従属圏(非公式帝国)に組み込まれていた南部アメリカは未だ黒人奴隷制を布く後発の農業地帯であった。しかし、南北戦争前後にアメリカは北部を中心に本格的な工業化への軌道に入り、労働者確保を南部の黒人奴隷や欧州からやってくる移民たちに求めていくようになる。もはや、黒人奴隷制は経済的に割に合わない仕組みになりつつあった。こうした中、アメリカを二分する内乱・南北戦争(1861-1865年)が勃発する。

ゲティスバークの戦い

南北戦争と欧州世界への影響[編集]

南北戦争中、大英帝国は公的には中立を保っており南部連合を国際法上の交戦団体として認めていたが、南部連合に対する国家承認はしなかった。しかし、ブリテンの首脳たちは開戦当初の18ヶ月間は公然と介入を議論していたし、彼らは世論が合衆国支持に傾いていく間も南部連合を支持する傾向が強かったのである。南部アメリカは近隣に位置する重要な綿花供給源であり、大英帝国の工業のお膝元となっていた重要地域であった。ブリテンと南部連合間ではブリテンへの穀物・綿花の輸出が大々的に展開され、一方でブリテンからは工業製品や武器が盛んに輸出されるなど、双方で大規模な貿易が続けられていた。また、合衆国(北部)へは移民が続いており合衆国へは多数の民間レベルでの義勇軍兵士が送り出された。大英帝国は南北戦争に介入寸前の状況に置かれており、南部連合も介入を期待していた。分離独立への南部連合の戦略はブリテンとフランスを北部合衆国に対する軍事介入に踏み切らせることにあったが、この期待は果たされずに終わっている。

1861年アメリカの南部諸州が連邦からの脱退を宣言してアメリカ連合国を結成し、南軍が連邦の軍事拠点に攻撃を加え南北戦争の戦端が開かれた。リンカーン大統領は1862年9月、『奴隷解放宣言』を発した。この頃からリンカーンは「奴隷制に対する戦い」を大義として戦争を継続した。その成果もあって南部連合がブリテンやフランスから援助を受けようとする努力は失敗に終わったとされている。

ただし、ブリテン労働者の反応は単純なものではなかった[6]

ブリテンの繊維産業は南部からの綿花に支えられていた。北部による海上封鎖のために、1861年にランカシア地方が綿業飢饉という恐慌状態に陥った。そのため、『レイノルズ・ニュースペーパー』[7]や『ビーハイブ』(The Bee-Hive )など労働者系有力紙は、「毎週毎週悪口の馬力をふりしぼって、労働者階級が自己の利益のために合衆国との戦争を政府に要請するよう」訴えていた。それゆえに綿業労働者をはじめブリテン労働者は南部支持の傾向が強かった[8]。南北戦争はアメリカ社会の軽薄さの産物であり、「彼らは両者とも人間労働の専制的支配者である」という認識が一般的な見解であった[9]。南部の分離独立のために戦争に介入し、利己的な保護貿易主義の北部連邦を痛打すべきだという声が高まっていた。

一方、急進主義の指導者ジョン・ブライトは熱烈な北部支持者であった。ブライトにとって南北戦争とはブリテン国内の「旧体制」との代理戦争であり、南北戦争は地主階級との聖戦であった。したがって、彼にとっての北部の勝利とは「イングランドの自由主義を強力なものにし、労働者に選挙権を与え、アイルランドの国教会制度を廃止し、地主に最初の打撃を与える」ものとして捉えられたのだ。また、ブライトを嫌悪していたチャーティストの大半が南部支持者であったが、ハーニーやアーネスト・ジョーンズなどチャーティスト最左派は北部支持者であった。彼らにとって、一掴みの綿花のためにアメリカの民主主義を見捨てることはできない話であった。1862年末になると多くが北部支持に転向していく。南北戦争の被害者となったランカシア労働者は自己犠牲的な「沈黙」を貫き、北部への軍事介入の要求をしたわけでも、騒擾や打ち壊しに走るわけでもなかった[10]。こうしたランカシア労働者の姿、アメリカの民主主義制度や国際的気風、特権階級の不在、移民でアメリカへ移った家族との絆が一般の労働者を北部支持に引き戻していったのである。

その代表者が1860年代の労働組合運動の指導者となったロバート・アップルガース(Robert Applegarth)であろう。1862年、彼は「大工・指物工合同組合(Amalgamated Society of Carpenters and Joiners, 以下ASCJと略記)」の書記となっていた。彼には若い頃にアメリカ渡航の経験があった。アップルガースは、豊富なアメリカ経験から労働者の物質的利害に拘泥するのではなく、アメリカに立身出世や一攫千金が可能な「自由の国」という体感を見出し、帰国後も堂々と北部を支持できたのである。こうした人物の登場は労働者の北部支援に大きな後押しになった。アップルガースの精神は過去のチャーティズムを凌駕する影響力を発揮していく。労働者階級の社会的上昇へとつながっていく。このような六〇年代危機をくぐりぬけて労働者階級は自信を深めていく。国際的連携によって世界史的趨勢に影響を与え、国際大義を実現させる運動母体を結成しようとする熱意に火をつけたのである

IWA結成まで[編集]

国際労働者協会
(第一インターナショナル)
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スペイン大会で最初に使用された国際労働者協会のロゴ
後継 第二インターナショナル
設立年 1864年
廃止年 1876年
種類 社会主義者の国際組織
目的 社会主義
共産主義
アナキズム

1862年にロンドンで開かれた万国博覧会に、300名のフランス労働者、ドイツから12名の労働者の代表団が派遣された。フランス代表団を組織し費用を出したのはナポレオン3世である。彼らは8月5日の晩ブリテン労働者の歓迎を受け、「フランスおよびブリテン労働者の同盟への万歳三唱」をもって終了した。7月22日の集会には5名のフランス労働者が出席して、ポーランドの義挙を賞賛する演説を行う。次の晩にこのフランス人たちがイギリスの組合代表者たちと会合し、オッジャーを含む3名の委員会を任命し、パリの労働者へ向けて宣言文を発した。資本家たちが脅しとして使う外国人労働者の輸入などの手段に対抗するためには、労働者の国際組織が必要である、と[11]

1863年1月1日リンカーン大統領による奴隷解放宣言を受け、自由・労働主義者の最初の選挙候補者として知られる労働運動の実力者ジョージ・オッジャーを中心に集会が開かれ労働者たちが演説した。またその年に起こったポーランド反乱に同情するブリテン労働者や急進主義者たちは、4月28日に集会を開き、ブリテン政府はポーランドを救うために干渉するべきであると要求し、その代表団がパーマストン首相に同じ趣旨の決議文を手渡した。この期間ブリテン・フランス労働者代表者間の談合で国際組織を実現させる具体的な道筋が定まっていく。

1864年9月28日、ロンドンはセント・マーティン・ホールにてフランスの代表団を受け入れる歓迎集会が催され、「国際労働者協会」(第一インターナショナル)の設立が宣言された。

ブリテン側の世話人はオッジャーと石工組合書記のクリーマー、フランス代表はトラン、議長はロンドン大学教授のエドマンド・ビーズリだった。また、この集会にはマルクスも同席していた。この集会は、組織の決裂について言及した後半部で詳述するが、オーウェン主義者や旧チャーティスト指導者たち、そして多数の労働組合指導者からなるブリテンの急進主義者、ブランキ派やプルードン主義者などフランスの革命的急進派、アイルランドやポーランドのナショナリスト、ドイツの社会主義者などを含むヨーロッパ各国の諸勢力が一堂に会する大集会となった。ビーズリは各国政府による国際法の重大な違反を非難するとともに暴力的な協定を暴露し、地球上における正義と公正の実現のために世界の労働者の団結を呼びかけた。集会の決議に基づきロンドンに本部を設置することが定められたほか、21の組織委員会が発足し、そのひとつとして綱領作成委員会をつくられた。同委員会はさまざまな国籍の労働者を合わせて50名を数えた。また、ブリテンにおいては労働運動の先導役であった『ビーハイブ』紙(The Bee-Hive:蜜蜂の巣)を機関誌とすることが確認された。このときの綱領はオーウェン主義者やマッツィーニ派の提案を退け、マルクスが「労働者階級への献辞」として案を提出、満場一致で採択した。マルクスはIWAにチャーティズム復活を願い、その綱領においてブリテンの労働運動の歴史を賞賛していた[12]

『創立宣言』に見るIWAの理念[編集]

1875年のマルクス

マルクスの『宣言』その主張[編集]

10月はじめ、オッジャーが議長、クリーマーが書記長に選出されたほか役員選定が進められた。11月1日に開かれた小委員会で、ドイツ担当書記であったマルクスが起草した創立宣言と規約が満場一致で採択された。マルクスは『宣言』において次のような見解を示した。

「持つ者」と「持たざる者」との格差社会[編集]

マルクスは、ブリテンの大蔵大臣グラッドストンの議会演説(1864年4月7日)に言及しながら、社会病理と化した資本主義の実態を指摘した。まず、1845年から1864年までにブリテンは目覚しい経済成長を遂げたが、「富と権力の驚くべき増大は、完全に中産階級(ブルジョワジー)に限られている」[13]、この時期には貿易額、国家歳入の歴史的増加が見られる半面、「貧困の境涯に沈もうとしている人々の身の上、いっこうに上がらない…賃金、十中九まで生存のための闘争にすぎない…人生を、考えてみよ!」といったグラッドストンの発言を引用した[14]。アイルランドでは「北部では機械に、南部では牧羊場によってしだいに駆逐され」[15]ジャガイモ飢饉を期に人口の急激な減少を経験した。まさに、マルクスが語った以下の言葉が目に浮かばざるをえない。

「どこでも、上流階級の人間が社会的階段をのぼっていくのとすくなくとも同じ割合で、労働者階級の大多数はさらに一段と低く沈んでいった。機械の改良も、化学上の発見も、科学の生産への応用も、交通機関の新機軸も、新しい植民地も、海外移住も、市場の開発も、自由貿易も、あるいはこれらすべてを合わせたものも、勤労大衆の貧困をなくすことはできず、労働の生産力の新たな発展は、現在の欠陥のある基礎(資本主義経済)のうえでは、つねに社会的対比をふかくし、社会的敵対を鋭くする結果とならざるをえない。()内筆者補足」[16]

マルクスは、産業の発展によって貧困は消滅するという資本主義の大言壮語は完全に破綻したと語り、社会の現実はまさにその逆の様相を呈していることを克明に非難した。そして、土地と資本の集中過程はさらに強化されて、富める者はますますと富み、貧しい者はますます貧しくなる不可避的な状況に陥っていると批判した(窮乏化理論)。1845年からの労働者の貧困と権利獲得を概括して資本の専制国家のもとでの従属状態の克服の必要を説いた[17]

労働者の政治闘争と国際連帯[編集]

過去における労働者による闘争のなかで重要なものはチャーティスト運動であり、社会経済的には1847年の工場法による十時間労働制の獲得であるとマルクスは指摘している。チャーティスト達は、自由主義の盲目的な経済法則に代えて生産は社会的見通しおよび人間的配慮に支配されるべきだとということを三十年の長きにわたって力説してきた。それ故に十時間労働法は、一つの偉大なる実用的な施策であるばかりでなく、一つの主義の勝利であり、中産階級の経済学(古典派経済学)が初めて白日の下で労働者階級の経済学(マルクス経済学)に屈服したということを示していると言えるのである[18]

また、ロバート・オーウェンやカベ主義者の試みやプルードン的な社会主義が強く主張する協同組合的生産の構想(これらは空想的社会主義に位置付けられる思想である)、あるいは、個々の労働者による気紛れな努力(自助による自力救済や素朴単純な労働組合主義自由・労働主義)という局地的な成果では、資本の力を圧倒することはできないし、労働者階級の窮状の根治にはつながらない[19]。それゆえ、マルクスは次のように言う。

「勤労大衆を救うためには、協同労働を全国的な規模で発展させる必要があり、したがって、国民の資金でそれを助成しなければならない。しかし、土地の貴族と資本の貴族は、彼らの経済的独占を守り永久化させるために、彼らの政治的特権を利用することを常とする。今後も彼らは、労働の解放を促すことはおろか、労働の解放の道にあらゆる障害を横たえることをやめないであろう。……、したがって、政治権力を獲得することが、労働者階級の偉大な義務となった。……。このとき、労働者階級は成功の一要素、すなわち「数」を有していた。しかし、「数」は団結にもとづいて結合してそして知識によって指導されるときにのみ、国民的勢力の中で重きをなしうるのである。さまざまな国の労働者は兄弟の絆で結ばれ、この絆に励まされて、彼らのあらゆる解放闘争でしっかりと支持しあわなければならない……。1864年9月28日、セント・マーティンズ・ホールの公開集会に集まった諸国の労働者は、この思想に促されて、ここに国際協会を設立した。」[20]

そう、マルクスが述べるように、かつてのチャーティスト運動と同様に労働者は団結によって再び政治勢力を成していき、やがては政治権力を制圧して、国家機構を自らの利害の増進のために実際に利用できるようにすることが労働者階級の重大な義務となっていくのだ。著名なマルクス史家マックス・ベアは、こうした新時代の理念のもとに諸勢力結集の必然的契機が生じたのだと、マルクスの『宣言』を読み取った[21]

列強の帝国主義戦争と反戦[編集]

その一方で、徒らに国家対立を煽り侵略戦争に没頭する各国政府に対抗する団結と外交・軍事政策への抵抗を呼びかけ、マルクスは『宣言』で次のように述べている。

「この問題は国際政治の機密に通暁し、それぞれの自国政府の外交活動を監視し、必要な場合には手中に存するあらゆる手段を行使して自国政府に対抗し、そして防止できない場合は一斉に示威運動を組織し、そして個人の諸関係ならびに諸国民の結びつきを支配しなければならない道徳及び正義に関する簡明なる準則を擁護することが労働者階級の義務であることを教えている。かくのごとき外交政策と戦うことは、労働者階級の解放のための全般的闘争の一部を形成している。」[22]

そして、最後に「万国のプロレタリアートよ、団結せよ!」という共産党宣言と同じ結び方をしている[23]

来るべき「解放」の可能性と組織概要[編集]

暫定規約は、人種・信仰・国籍に関わりなく、真理・正義・倫理を行動の基礎として認めることとした[24]。IWAの目的を以下のごとく宣言した。

労働者階級の解放は、労働者階級自身によって達成されなければならない。

この解放のための闘争は階級的特権と独占を得るための闘争ではなく、平等の権利と義務のための、そしてすべての階級支配の廃絶のための闘争を意味する。労働手段すなわち生活源泉の独占者への労働する人間の経済的隷属が、あらゆる形態の奴隷制、あらゆる社会的悲惨、精神的退廃、政治的従属の根底に存在している。それ故に労働者階級の経済的解放は、すべての政治運動が従属すべき目的である。これまでこの大目的にはらわれた努力はすべて、それぞれの国のさまざまな労働部門の間に連帯がなく、またさまざまな国々の労働者階級の間に兄弟的同盟の絆がなかったために失敗してきた。労働者の解放は一地域あるいは一国民の問題ではなく、現代社会が生存しているすべての国を包括し、そして最も発展した諸国が実際的にも理論的にも連帯することによって解決されなければならない社会問題である。現在ヨーロッパの最も工業化した国々に見られる労働者階級の運動の復活は、あたらしい期待を生み出すとともに、古い誤りを繰り返さないようにという厳粛な警告を与えるものであり、いま尚ばらばらな運動をただちに結合するように要請する。」[25]

協会の最高組織はロンドンに設置された「中央評議会」であって、国際協会に代表される各国の労働者をもって大会で選出・任命された評議員が指導すること、各国の首都に支部委員会を設置することが決議された。中央評議会は、議長、会計、書記長、各国担当の通信書記など業務処理に必要な役員を互選するものとされた。また、実行機関として総務委員会(General Council)が設置され、協会に代表を送る各国の労働者で構成されることが明示された。中央評議会の権限は、各国の労働者組織の連絡を引き受け、労働者階級の運動を報告し、統計研究を行い、国際紛争が起こった場合は加盟団体に統一行動をとらせること、など諸規定が定められた[26]

IWA内のセクト[編集]

IWAは諸派の混在状態にあった。近い立場の旧チャーティズムの信奉者、ブランキラッサールの他に、IWAにおいて権威となったマルクスへの主な反対者として、ブリテンの労働組合指導者たちやプルードンやバクーニン、マッツィーニらが存在した。

ロバート・アップルガース

主要勢力[編集]

ブリテン労働組合主義[編集]

チャーティスト運動は1850年代に崩壊しており、革命的な社会運動は大英帝国による世界支配の完成とともに姿を消していた。しかし、ブリテンの労働組合運動は極めて活動的で次第に政治への影響力を獲得していった。優れた技能をもつ熟練労働者であったアップルガースやオッジャー、クリーマー、ハウエルといった人物が有力となっていた。彼らは「合同組合」(Amalgamated Society)という呼称をもった組織を結成し、ストライキより共済制度を重視したこの新型の労働組合を支えるようになっていた[27]

政治的権利の獲得や労働条件の改善を重視し、改革連盟(Reform League)「労働組合会議」(Trades Union Congress)などの組織を結成していた。労働時間の短縮を掲げて活動を始め、やがて選挙権の拡大や労働法の整備、労働組合や闘争活動の合法化を要求するようになっていたものの、運動戦術の要はデモやロビー活動など専ら合法的な活動の展開に置かれ、社会主義の思想や理論に否定的で革命階級闘争には反対であった。ブリテンの労働組合指導者たちは一般労働者の二倍の賃金を得ていた労働貴族層を支持母体としており、彼らは自由主義に肯定的な立場(自由・労働主義)を持っていて、かつてのチャーティスト運動や科学的な社会理論として登場したマルクス主義とは正反対な性格をもっていた。一九世紀半ばには世紀初頭の急進主義から離れており、議会主義資本主義の枠を超えず、経済的目標を実現させるために盛んにストライキをおこない、労働条件を向上させることに活動の重点が置かれた。レーニンによれば、当時のブリテン労働組合主義は「チャーティストの気概が欠けており」、アップルガースやオッジャー、クリーマーといった労働運動指導者(ジャンタ)は、急進的なブルジョアと労働者の中間物になりはじめ、資本家はこれを好機として「労働者をブルジョア化しようとした」のである[28]

その結果、労働運動指導者はIWAを大陸との経済利害の衝突を回避する手段としてしか見ておらず、日和見主義を決め込んでIWAの主導権獲得に関心を全く示さず、活動の発展に対しても消極的な姿勢をとっていった。このため、マルクスとエンゲルスはブリテンの労働組合主義との対立姿勢を強め、この対立は最終的には「決裂」へとつながっていく[29]

ブランキ主義[編集]

ブランキは1830年代から活躍した革命家として知られている。かれはバブーフを信奉した戦闘的な共産主義者プロレタリアート独裁を主張しており、その主張は一切の社会立法や改革を拒絶する過激なものであった。武装蜂起を闘争の要としており、秘密結社を使って陰謀を巡らし、情勢不安を利用して政府を転覆するという戦術理論を持っていた。ブランキ主義はフランスの革命思想の発展形であるが、IWAの最左派勢力をなしてパリ・コミューンの中核となった。しかし、ブランキ主義者の多くはその後のパリ・コミューンの崩壊とともに命を落とし、この不運な左翼冒険主義的な一揆のイデオロギーはマルクス主義へと合流していく。そして、図らずもブランキ主義はマルクスの意図を越えるようなかたちでマルクス主義そのものとして解釈されていくようになる[30]

ピエール・プルードン

プルードン主義[編集]

プルードンはフランスの印刷工出身のインテリ労働者であり、『財産とは何か』、『貧困の哲学』を著して「自由な互助的共同体」が理想の社会であるとしてアナーキズム思想の提唱した。「財産とは何か。財産とは盗みである」と主張して財産とくに何より不労所得を生み出す資本による大所有を否定したが、下層中産階級や熟練労働者が持っていた小財産を擁護したほか土地私有を放棄は主張しなかった。資本主義の「あり方」は批判したが、資本主義の「本質」に対しては否定もせず、肯定もしない態度を取っていたのである。専制的なフランス政治のなかで、協同組合や土地の所有が自由を守るために重要であったため、互助的な協同組合の発展によって漸進的に国家を廃止するという理想を強めていった。それ故に、プルードンの思想は技芸を持った職人や土地を持った農民から支持されていたが、かれは田舎の農民や職人の助けあいが社会の革新手段として位置づける一方で、労働者の団結と闘争は犯罪であるとする反時代的な見解を持っていた。かれは労働組合からストライキ、賃金交渉、労働立法に至るまで反対し、更には女性の社会進出(女性解放)にも批判的であった。IWA内ではトランやフリブール、ヴァルランがプルードン主義の支持者であった。また、プルードンの思想はバクーニンへと継承され、発展していく[31]

ミハイル・バクーニン

バクーニン主義[編集]

バクーニンはロシア貴族の出であるが、役人になってロシアによるポーランド支配に当たるにつれて次第に政治に疑問を抱き、ついに革命家となっていった。1848年革命の混乱の中で革命運動に参加したことが角で死刑を宣告されたが、ロシア政府に引き渡されて1855年にはシベリアに流刑となっている。1861年、バクーニンは収容所を脱走して日本とアメリカを経てヨーロッパに帰還している。 バクーニンはプルードンの弟子で、反権力の思想や自由な生産者の連帯にもとづく理想の未来社会というヴィジョンを柱とするアナーキズム思想を継承した[32]

ただ、バクーニンは労働組合の発展期のなかで労働運動の役割を評価する立場をとっており、組合を通じて生産共同体をつくり、その連合に新社会の基礎を見出していた。バクーニン主義の綱領は、無神論、国家の廃棄、暴力革命、労働組合を単位とする生産共同体、共同体の同盟による緩やかな統合を謳うものであった。また、バクーニンは反権力の立場から、マルクスの理論に反対して権力集中の危険性を説いた。マルクスは、移行段階の国家形態として、プロレタリアートブルジョアを逆搾取していくための国家形態「社会主義国家」を新社会のモデルに据えており、そのための政府モデルとしてプロレタリアート独裁の概念を提唱していた。しかし、バクーニンはマルクスの国家理論に反対であった。バクーニンは、社会の末端の下層労働者が革命の担い手だと考えており、暴力革命による権力の転覆を支持する一方で、マルクスが説くような権力主導の理想(共産主義社会というユートピア)実現にはどうしても賛同できなかったのである。また、マルクスは、プロレタリアート独裁を提唱する傍ら自身が説く革命独裁には拘っておらず、議会政府を通じて民主的な方法で社会主義政策を遂行する方向も認めていた。バクーニンはこうした現状肯定的な態度にも反対していた。彼はあくまでも暴力革命を説き、現状との妥協や支配階級に対する説得や交渉といった理性的手段には断固反対で、その思想には柔軟性には欠いた[33]

バクーニンとマルクスの思想的、運動実践上の相違はIWAを二分する論争へと発展、組織内で最大の衝突をもたらし、ついに組織の解体を招いていく[34]

ラッサール主義[編集]

…要加筆…

これに加えて、マッツィーニらのイタリアスイス支部が存在した。 マルクスは1871年アメリカ人会員のフリードリッヒ・ボルテに宛てた手紙において、「インターナショナルが作られたのは、社会主義的、半社会主義的な宗派を労働者階級の本当の闘争組織でおきかえるためであった。これは最初の規約や創立宣言をみれば一目でわかる。……インターナショナルの歴史は、労働者階級の本当の運動に逆らって…自分の地位を保とうとつとめた宗派やアマチュア実験に対する、総評議会のたえまない闘争であった」と語っている[35]

IWAの活動―その展開と射程[編集]

マルクス(1867年)とエンゲルス(1868年)

ジュネーヴ大会[編集]

当初は1865年にブリュッセルで開催する予定だったが、ベルギー政府の反対のために開催計画は挫折した。このため、計画を練り直して1866年に最初の年次大会をジュネーヴで開くことになった。1866年9月3―8日にかけて開催されたジュネーヴにおけるIWAの大会は、最初の世界労働者会議だった。同大会では開催地スイスと近隣のフランスが代表者の大半を占めるが、それでも世界各地22支部、60名の代議員が集まった。マルクスは欠席したが、中央評議会からはオッジャー、クリーマー、カーター、ユンク、エッカリウス、デュポンが出席した[36]

同大会では先の『創立宣言』・『規約』を審議してこれを正式に採択した。しかし、各国ともに労働運動の黎明期にあって社会主義政党以前の時代だったため、加盟団体は労働組合から政治団体、協同組合や教育団体に至るまで雑多のセクトから構成されることとなった。ブリテンからはシェフィールドの地区労が参加を表明し、これに賛同する15団体が参加した。フランスとベルギーからは雑多のプルードン派の団体が参加した。ジュネーヴ大会では世界各地の労働運動指導者たちが集まって討議し、この混成的な会議は様々な議論と論争をおこなったが、イデオロギーの異なる勢力を一つの関心にまとめるのは困難だった[37]。IWAは雑多の勢力が掲げる諸々の見解が乱立し、有象無象のグループが割拠した複雑で混沌とした情勢にあった。ブリテン労働組合主義者でウェストンという大工からは賃上げに労働者が直接受ける経済効用はなく、労働組合自体が無意味であるとする虚論まで登場していた。マルクスはこうした虚論への反駁に手を惜しまなかった。中央評議会で『賃金・価格および利潤』という講演をおこない、労働運動の重要性を専門家であるべき組合指導者たちに教示したりしている。また、マルクスはIWA中央評議会を乗っ取り主導権を奪取しようと画策するフランスのプルードン派に対しては致命傷と言える徹底した打撃を加えるため、包括的な理論的指導をおこなおうとしていた。彼は知人に宛てた手紙でプルードン派への攻撃を次のように示唆している。

「パリの諸君は、きわめて無内容なプルードン流の空文句で頭がいっぱいになっていました。かれらは学問についておしゃべりするが、なにも学んではいないのです。彼らは革命的行動、すなわち階級闘争から生じる行動すべてを退け、また集中的、社会的な運動、したがって、また、政治的手段(たとえば法律によって労働日を短縮すること)によって実現できる運動をすべて退けています。これらの諸君は、自由、反政府主義あるいは反権威‐個人主義という口実のもとに(中略)実際には月並みなブルジョア経済(資本主義経済)を、ただプルードン流にして理想化してお説教しているのです。プルードンがとてつもない禍を引き起こしたのです。[彼の主張は]、まず「才気あふれる青年たち」つまり学生たちを、ついで労働者とくに贅沢品労働者のように知らず知らずのうちに古い汚物(資本主義経済)に「すっかり」はまりこんでいるパリの労働者を捕えて籠絡したのです。(中略)。かれらが、その[IWA]構成数に不釣り合いな数で押し掛けてきて、危うくすべてを台無しにするところだったのです。その報告書(マルクス指令)のなかでかれらを密かにやっつけるつもりです。[]内筆者補足。」[38]

十九世紀当時は、資本主義経済の現実を美化し擁護する現状肯定的な主張と立場―ブリテンでは自由・労働主義であり、フランスではプルードン主義であり、ドイツではラッサール主義など妥協的で日和見的な半社会主義や自由民主主義―のイデオロギー支配が労働者の階級意識を曇らせていた。以上の言及とかかる経緯を踏まえて、ジュネーブ大会終了後、大会での討議の成果はマルクスとエンゲルスによって時間をかけて総括されることとなり、全世界の労働者のため『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』というタイトルで最低限度の『綱領』として発表されている[39]『綱領』の内容とその射程は五点に要約できる。すなわち、1)労働組合の奨励と運動の支援、2)労働時間の短縮、3)婦人・児童労働の制限、4)税制問題の討議、5)常備軍の廃止を決議したのである[40]

労働日の制限[編集]

労働時間の制限は、労働者の生活状態を決めるうえで非常に重要な問題であった。ブリテンのような先進国に限らず工業化の過程にある国では、日の出から日没までの労働と合間の休息という前近代的な労働時間管理がいつまでも存続していた。農村で田畑を耕し、鍛冶場で精錬に従事するのも農民や職人の世界は労働の独立が保障された世界であるが、工場や事務所、店舗、邸宅など働く労働者は労働時間を使用者から管理される状況にあった。当然、人間生活の最低限度を保証するかしないかは貴族、資本家の恣意に委ねられ、この不平等な関係が労働者の人生の現実であった。

すでにブリテンでは工場法の通過成立により、労働時間が十時間に制限されていたが、それでも建築業や機械工など職種によってはまだまだ重労働であった。労働者は絶え間ない闘争によって労働時間の短縮を部分的ではあるが達成していたものの、それは個々の職種における業界ルールに留まるもので法的拘束力などない代物であった。しかし、アメリカの労働者は八時間労働の法制化獲得を要求しており、全世界がその考えに感銘を受けていた。IWAは「労働日の制限は…先決条件である。労働者階級の…健康と体力を回復するためにも、またこの労働者階級に知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動に携わる可能性を保証するためにもぜひとも必要である」と時短運動の重要性を主張して、生活の質が向上していく道を確保して、次のステップを踏んでいくべきだと述べた。「方向としては夜間労働の完全な廃止を目指さなければならない」、「女子については夜間労働はいっさい厳重に禁止しなければならないし、また両性関係の礼儀を傷つけたり、女性の身体に有害な作用やその他の有害な影響を及ぼすような作業も、いっさい厳重に禁止されなければならない」と指摘して、健康を害し生活を破壊するきつい夜業の禁止、結婚前に重労働で命を落とすような女子労働が根絶されるように工場労働の抜本的改善が必要だと訴えた[41]

児童労働の制限[編集]

坑道で石炭をひく少女。19世紀中頃、このような児童労働の実態が議会でも採り上げられ問題となった

また、十九世紀社会は現代社会と同様に児童労働と子どもの貧困が最も深刻化した時代であった。あらゆる先進工業国が児童を酷使し、搾取し、虐げることを経済発展の糧としてあらゆる形態の人権侵害を恣にした。 一方、当時の社会では十八歳未満の児童が労働するのは自然な社会であった。古代中世から徒弟労働が近代工業社会にいたってもなお存在していたのである。徒弟修業には、技術習得の機会を与える教育的効果、そして人間として一人前にいていくという育成的な場を提供していた。したがって、こうした過酷な情勢に対して、IWAは「合理的な社会状態のもとでは、九歳以上のすべての児童は生産的な労働者とならなければならない。食うためには労働しなければならず、しかも頭脳によってではなく、手によって労働しなければならない」と言及し、児童労働に対して「現実主義」の立場を取った。ただし、「九歳から十七歳までの者を夜間労働や健康に有害なあらゆる職業に使用することは、いっさい法律によって厳重に禁止されなければならない」し、「資本のもとで歪められた忌まわしい形をとって」酷使して使いつぶすという資本主義経済に対して痛烈な批判をおこなった。

IWAは「労働が教育と結合されないかぎり、両親や企業家に年少者の労働の使用を許してはならない」と主張し、鋭いアンチ・テーゼを提出している。児童を三つの等級に分けて区分し、別々に取り扱うことを提唱した。すなわち、第一級は九歳から十二歳までとしその使用を二時間に制限すること、第二級は十三歳から十五歳までとし四時間に、第三級は十六、十七歳として一時間以上の休憩を与えることを前提に六時間に制限することを提案した。そして労働を制約して自由な生活時間を約束することに加えて重要なことが教育を与えることである。IWAは「労働者のひとりひとりは、窮迫がせまってやむなくされる非行を避けることができない。労働者はあまりにも無知なため、子どもの真の利益や人間の発達の正常な条件を理解できない場合が非常に多い」と述べる一方、「知的労働者は、自分の階級の将来、したがってまた人類の将来がひとえに若い労働者世代の育成にかかっていることを、十分に理解している」として児童問題の重要性を強調し、そして教育権を次のように語る。「初等学校教育は、おそらく九歳に達するより早くから始めることが望ましいであろう。児童と年少者の権利は守らなければならない。かれらは自分でそれを守るために行動することはできない。だから、かれらに代わって行動することが社会の義務である」。知育、体育、技術教育を軸として年齢に基づく発達学習を受けるプログラムが最適として提唱した。この技術教育を通じて、やがて製造の現場で通用する技術力を養い、製品を製造・販売して売り上げを小遣いとして若い生活を満喫できるように図り、やがて将来の飛躍を志していくように育成するべきであると認識を提示している[42]

労働立法のための政治の必要性[編集]

これらの具体的プランは法律によって施行されるべきものであるが、これらプランの提唱は労働立法の重要性を強調するものであった。マルクスは、立法活動に反対するアナーキストの反抗を退けて労働立法全般に関する声明を出し、次のように説いた。「この種の法律を通過させることで、労働者階級は支配権力を強化するのではなく、反対に、現在彼らを抑えるために使われているその権力を、自分自身の武器に変えるのである」[43]。マルクスには、労働立法が労働者保護のための法的な盾となり、そして攻撃手段である武器として資本家を痛打する際に大いに役立つと考えていたのである。

ポーランドの復興が『綱領』に追加され、「民族自決権の実現を通して」、「民主的・社会主義的基礎をもつポーランドの再建」が要求された。また、ロシア専制体制と大国主義的な侵略が強く非難され、ロシアを擁護して反動主義を守ろうとするヨーロッパの君主国(ヨーロッパ大陸でもっとも未開的かつ野蛮な国がロシア、そして次いで反動的なのがベルギー、オーストリア、プロイセン、時代錯誤の帝政フランスと羞恥に欠くブリテン王国、品性に欠けるアメリカが退嬰の世界を仕切っていた)、そして、国家とこれを牛耳る資本家に対抗する世界的連帯の確立が呼びかけられた[44]IWAは世界的な連帯によって一国家を非難し、制裁を呼びかける歴史的に初めての国際団体となった。同大会は国家への経済制裁の実施と国際的なスト破りの防止のために結束するよう呼びかけた。

IWAは各地の支部を基礎に、それぞれが連合評議会に統合され、さらにその上に運動全体を指導するものとして「中央評議会」すなわち総評議会が設置されていた。この総評議会を構成する代表は労働者団体が参加する大会で選出され、大会の決定を実行して大会に対して責任を果たすものとされた。IWAはマルクスが起草した決議のもとに労働組合運動に反対するプルードン派を抑えて、ジュネーヴ大会で労働組合支援の立場を打ち出し、ストライキ支援のために資金援助をおこなうようになる[45]

労働組合に関する決議[編集]

マルクスは労働組合に関する歴史的決議を提出し、同案を採択に導いた。

労働組合―その過去、現在、未来

(1)資本は集中された社会的力であるが、これに反して労働者は自ら個別的労働しか保有していない。それ故に労働と資本との契約は、(所有と被所有の関係において)平等な条件に基づくことはできない。労働者の唯一つの社会的力は自らの数である。この数はしかし、不一致により分散し弱められてしまう。労働者階級の社会的力の分散は、職を求めての不可避の競争によって惹き起こされ持続せしめられる。労働組合運動は、資本の専制的命令に抵抗し、労働の機会を求める相互の競争を阻止ないしは少なくとも抑え、これによって労働者を正に奴隷の水準から引き上げる……試みとして始められた。このことからして労働組合運動の直接的目的は、労働と資本の間の日常的抗争、要するに賃金と労働の時間に限定されることになる。労働組合のこれらの活動は単に正しいことのみならず、絶対必要なことであって、現体制が存続する限り免れられない活動である。さらに、これらの活動は労働者の同盟によって普遍化されなればならない。……労働組合は、賃労働および資本家的支配の廃絶のために組織された団体としていよいよ重要である

(2)労働組合は、……政治運動に対して超然としてきた。

(3)資本家の侵害に対する日常闘争を避けることなく、労働組合は労働者階級の完全な解放のために、彼らの「中核」として意識的に行動することを今や学ばなければならない。労働組合は……あらゆる社会的ならびに政治運動を支援しなければならない。全労働者階級の擁護者および代表と任じるべきであり、……低賃金労働者の利害に周到な配慮をめぐらすべきである。かくのごとき行動は、不可避的に未熟練労働者の大群を惹きつけることになり、そして労働組合は狭隘な利己な利害を追及するものではなく、むしろ蹂躙された民衆を解放するために働いているという確信を彼らに抱かせることになろう。()内筆者記述。」[46]

マルクスは、労働組合の社会的歴史的な意義を非常に重視し、これまでの経済的利害の闘争と労使交渉に留まらない価値を主張しようとしていた。かれは社会革命的な役割を労働組合に付与し、全労働者階級の先陣として見なし、労働組合運動を鼓舞して、労働組合とその連合(歴史的にはブリテンのTUC・労働組合会議が代表例)を資本家による階級支配に対する要塞へと作り変え、また、すべての労働者階級、そして社会主義勢力の政治力を強化しようとする考えを鮮明にしたのである。これ以降、IWAへの労働組合の加入は増加し、また同時にIWAの指導下にあって労働闘争は一層激しく展開していくこととなる[47]

フランスでの闘争[編集]

IWAの当面の目標は「八時間労働制」の獲得であった。

ブリテンでは1851年の機械工のストライキや1859年のロンドン建築工ストライキが労働時間問題を争点に展開され、アメリカでは1866年の全国労働同盟(National Labor Union, 以下NLUと略記)の創立大会でもこの問題が討議されるなどアメリカやブリテンの労働運動では長い闘争の歴史があった。1866年の恐慌によってストライキが激しさを増し、暴力事件や武装蜂起の噂が巷に広まり、社会不安が生じた。IWAは暴力革命の陰謀に組みせず、当面はストライキ支援に専念していた。中でも1867年のパリのブロンズ工のストライキ支援は大々的におこなわれた。雇用主のロックアウトに敢然と立ち向かい、IWAの1000ポンドの支援金を武器に抵抗を続け、雇用主はたちまち音を上げて労働者側の要求を呑むことになった。ジュネーヴ大会は、マルクスにとって1866年の時勢に適ったストライキ支援が焦点とすることでプルードン主義者から主導権を奪取することが要点だった[48]

選挙法改正とライトに見るブリテン労働者[編集]

ハイドパーク事件の様子。改革連盟の運動は革命の恐怖を見事に煽った

一方、イングランドでは1859年のロンドン建築工ストライキに代表される労働時間短縮運動が、重大な政治危機をウェストミンスターの議会に投げ込んでいた。

熟練労働者は自分たちの生活防衛のため、ついに立ち上がったのである。この闘争は選挙権拡大による熟練労働者の発言権獲得に、労働闘争の焦点が収斂されていく。1865年、長らく政界に強い影響力を及ぼしたパーマストン首相が急死した。この時期結成された改革連盟は、非常に狡猾な方策で選挙法改正を決定的なものに導いていく。改革連盟の指導者エドマンド・ビールズはハイドパークでの集会の権利など衝突点をロンドンの労働者に提供して、グラッドストンを自陣に引き込む周到な政治戦術を弄して保守党政権を翻弄した。かくして、ダービー内閣の中核をなしていたディズレーリやスペンサー・ウォルポールを追い込み、都市選挙区で戸主参政権の導入をもたらし、選挙法改正を未曾有の規模で実現させる。IWAの名誉職についたブリテンの労働組合主義者は時局を最大限に活用して大勝利を収めた。第二次選挙法改正の結果、イングランドでは熟練労働者100万人が選挙権を獲得し、有権者構成の過半数を労働者が占めるようになった。これ以降議会が労働組合の利害や関心に譲歩することが民主主義の命脈を維持する生命線になっていったのである

しかし、第二次選挙法改正とその後に続く労働組合法の制定によって労働組合指導者の目的は達成されていくようになり、彼らは徐々にIWAからの離脱を図るようになっていく。こうして、ブリテン勢力はIWAから実質的に撤退した[49]。また、1869年には最後のチャーティスト指導者アーネスト・ジョーンズが若くして急死しており、マルクスとブリテンの関係はいよいよ冷え切ったものとなってしまった。マルクスがドイツの知人にジュネーヴ大会について宛てた手紙では「わが中央評議会(ここで私は大いに参加してきましたが)が生命を吹き込んだ当地の改革運動[選挙法改正運動とその中核である「改革連盟」]は、いまや巨大な抵抗しがたい規模に広がりました。私はいつも舞台裏にいましたが、運動が軌道にのってからは、もうこれ以上かかわらないことにしています。[]内筆者補足」と語っている[50]

こうした脱力にも似たマルクスの述懐には理由があった。1867年の資本論公刊を前に執筆活動の追い込みに入っており、それどころではなかったということも理由の一つである。だが、もう一つの理由は当時の労働者が「ノー・ポリティクス」という立場を堅持していたことにあった。マルクスと同時代期を生きたある機械工(トマス・ライト―ASEの会員)は1868-73年にかけての執筆期間を通じて、『労働者階級の諸々の風習と様々な習慣』、『偉大な下層民』、『新しい主人』という著作を世に送り出し、自身の書で「知的な職人たちは権利や尊厳、労働と資本の圧政、普通選挙権などのトピックに関して、明確な思慮もなく話題にする」と著書で言及するなど労働者の躍進を自己否定する立場を表明していた[51]。彼はつづけてこのように語る。

ダービー首相はどうなるかわからないという意味で改革を暗中飛躍と評した

知的な職人たちは政治的だが、彼らは実情に通じているわけではなく職業的扇動家に影響されやすいのだ。彼らは触発を受けやすく憲政と社会構造、政治経済学について無知である。勤勉に働き生産に勤しむ労働者の窮状を語り富の配分に十分与っていないと不平を並べるものの、黙々と働く仲間が存分に富を享受していることを全く知らない。扇動家たちは労働者の権利を擁護すると称して痛烈な批判を奏でており、ジャーナリズムの乱暴な論法を用いて選挙法改正に関して支離滅裂な記述を繰り返している。」

以上、見てわかるとおり、1860-70年代のブリテン労働者の保守化(体制内統合)・ブルジョア依存は目を覆うばかりとなっていたのである。ブリテン労働者の社会的上昇は順調に展開したが、その間ずっと自由・労働主義というキメライデオロギーの成長期にあって、国民意識ははぐぐまれる一方でプロレタリアート的な階級意識は消失の一途を辿っていた。ブリテン労働組合主義者たちは労働運動や社会主義の大義や目標を利用はしたが、チャーティスト時代には敵であった自由党に寝返って味方し、むしろ攻撃対象であった資本主義の前衛部隊と化していた。トマス・ライト、トマス・バート、ジョージ・ハウエルらが代表者となった職人急進主義は、「労働者が抱える問題が厳しいことも理解している」とする一方、自分たち職人は「自助努力によって生活を変えることができることを弁えており」また同時に労働組合に参加しても「労働の権利に加え、資本がリスクに見合うだけの権利をもつことを学習し、雇主と資本家たちの利害や権利に対する敵対構造など存在しないことを学んでいて」、十九世紀当時の自由主義に基づく常識的な権利観や政治観を有していると主張していた。かれらは政略的にはIWAに参入して「労働者の声」を利用したとしても精神的には完全に社会主義の思想や理論からは逸脱していたのである。

たとえば、トマス・ライトの場合、知的アーティザンと呼ばれた労働者像の体制化傾向はきわめて顕著なものだった。ライトは「今日、労働者は仕事と娯楽を両立すべきとするのが常識になろうとしている。……八時間労働、八時間休日、八時間睡眠、日給八シリングが次の世代で実現するであろう。……今日の労働者は娯楽を楽しむことが自らを怠惰から救い出す方法だということを証明しつつある」と語るなど社会的には極めて進歩的で、労働者の生活向上に対する関心は高く、労働日やレジャーなどの社会生活に関する評論は非常に秀逸なものである。それに加えて、世襲の特権階級を嫌って王室批判をしたりパリ・コミューン革命を支持したり、労働立法の必要性を説いたり政治的にはかなりの積極性を示していたが[52]、一方でライト自身の政治志向は中産階級の急進主義と大差ないものであって、「ストライキは労働者の収入を減らし、ブリテン産業の国際競争力を削ぐ二重の悪である」と主張するなど無知な労働者の急進的な闘争や革新志向の政治活動に対して極端な消極主義者であった[53]。彼はこのように語る。

「ロンドンの労働者は労働者階級の最良のモデルではない。(中略)デモが目指す綱領を理解せずに遊び半分で参加して楽しみに没頭している人がはるか大多数なのだ。(中略)。かれらは政治的な労働者の真の見本ではない。労働者の中で最良のグループは夜間自宅で過ごし、読書をして思索と黙想をおこなう。ロンドンにもこうした労働者は一部にはいるが、そもそも彼らの多くがデモ隊とは無縁である。彼らは政府を告発したり、重要法案の通過のために集会に参加しようとはしないのである。」[54]

要するに、本当に真面目な労働者は政治活動をしないものだと主張しているわけである。この見解は資本主義への楽観論を前提としており、ストライキや暴動に対する警戒感や暴力への嫌悪を反面とする一方で、他方ではブルジョア階級の知的指導性に依存するあまり労働者の政治的主体性を自己否定するなどライトの思想は労働者自身による政治参加への道を自ら中絶するものであった。だが、労働者の中には無知への嫌悪、主張することへの恐怖、労働者であることの羞恥心と引け目から、こうした他力本願的な見解が流布し始めており、「自由のチャンピオン」であり「民衆のヒーロー」であるグラッドストンやジョン・ブライトなどの著名な自由党指導者に政治を任せておけば良いのだ、労働者は自由党のインテリ議員や良識派の政治家を全力で支援してつき従っていけば良いのだ、という感覚を広くもたらした[55]。こうした情勢は社会主義の発展史という文脈では堕落した現実であるわけだが、こうした自由・労働主義が支配的になるにつれて、政治的にも社会的にもブリテン労働者のプロレタリアート階級としての自立性はますます低下していった。改革連盟の政治方向が社会主義との合流ではなく自由党への提携へと明確になっていくことで、ブリテン労働組合主義とマルクスとの分裂は必然不可避のものとなっていったのだ。かくしてチャーティスト運動以来の悲願であった、ブリテンの労働組合主義と社会主義との統合の試みは再び立ち消えとなった。このような国際連帯に外れる姿勢は現代的問題でいえばEU離脱を主張するブリテンの身勝手さを彷彿とさせる。

ローザンヌ大会[編集]

1867年のローザンヌ大会では、普墺戦争への非難が行われたほか、マッツィーニユゴーバクーニン、ルイ・ブランによる「平和自由連盟」との一時的ではあるが協調が図られた[56]。一方、ブリテンの労働組合主義者は、選挙法改正運動や労働組合活動に関する王立調査委員会の招集で多忙となってしまったために大抵が欠席しており、もはやいないも同然であった[57]

一方、白熱した議論を呼び起こす問題もあった。「国有化経済」は社会主義者たちの大願であり、プルードン派にとっては死守すべき「小財産」すなわち農地所有の争点となっていた「生産手段の集団化」が議論された。このときの「土地国有化」の決議案は審議されたものの否決されることとなった。一方、オーウェン派やプルードン派が主張していた「人民銀行」や「信用銀行」の設置も否決された。マルクス派とプルードン派の経済問題に関する衝突は引き分けとなっていた[58]

政治的自由の確立と障壁の撤廃[編集]

政治問題に関して、マルクス派の勝利に終わった。

「政治的自由がうばわれていることは、労働者の社会的解放の一障害であり、社会の混乱の主な原因の一つではないか?どうすれば速やかに政治的自由を再建することができるか?政治的自由がうばわれていることは、人民の社会的進歩とプロレタリアートの解放とに対する一障害であると考え、大会は次のように決議する。一、労働者の社会的解放は、労働者の政治的解放なしには実現できない。二、政治的自由の確立は準備段階として絶対に必要である。」[59]

マルクスは政治活動の重要性を度々強調して、政治力を梃子に運動を強化していく方向性がより現実的であると考えていた。社会組織の変革が必要で、そのために政治的自由の獲得が必須であることを宣言した。この考え方に基づいて経済機構の構造改革には労働者階級の政治的権利の獲得は急務であり、各国で労働者階級を包括する普通選挙が実現されるべきだとする認識が打ち出されている。アメリカやフランスでは早い段階で成人男子選挙が実施されており、ブリテンも1867年のまさにこの年に限定的ながら戸主参政権が実現した。しかし、依然として東欧や南欧、そして南米、アジア諸国など大半の国では労働者階級の政治参加はまだまだ夢物語であった。マルクスは社会主義者の勇敢な闘争によって世界中で政治参加への障壁とこうした世界的ギャップが是正され、民主主義と社会主義の世界的な運動が胎動していく新時代の到来を予感し、挑戦していたのである。20世紀後半に入るとこれらの活動目標は歴史的に実現されるようになった。しかし、19世紀半ばに位置するこの時代においては、プルードン派に引導を渡すという歴史的意味合いがはるかに濃いのである[60]

ブリュッセル大会[編集]

1868年のブリュッセル大会は、トランをはじめとするプルードン派に代わって発言権を増したブランキ派とマルクス派が連携して「土地国有化」を決議し、同決議は圧倒的多数で採択された。この連携はその後に起きる普仏戦争後、突如として歴史の表舞台に浮上したパリ・コミューンで結実する。IWA組織網はフランス全土へと拡張され、工場労働者の間に広がっていき、各地で続発するストライキとの連帯を深めて、リヨン、ルーアン、マルセーイユまどの大都市にも支部が設置された。プルードンの影響下を離れてインターナショナルとフランスの革命的な労働組合運動の結合は成功を収めた。

所有の廃止と国有化経済モデル[編集]

所有とくに土地所有に関するIWAの方針に関して、プルードン派は大敗北を被った。製本工のウージェーヌ・ヴァルランや染織工出身のジャーナリスト、ブノア=マロンなどプルードン派であった労働者階級の知識層たちはこのような情勢を追い風にして続々とマルクス派への合流を果たしていった。

工場から噴き出す煤煙

賛成130票対反対4票、棄権15票で、鉄道だけではなく耕地、山林、運河、道路、電信、水道等を含めて国有化を要求する決議を採択した。国有化決議には経済の社会主義化以上の歴史的で、かつ社会的な意義が含まれている。19世紀は食糧に限らず、ライフラインであるガスや水道の供給に至るまで、日光と大気以外のありとあらゆる必要物と社会的サービスの提供が民間企業の自由競争任せにされていた。徒な市場原理による価格決定、中心街や高級住宅地優先の都市開発、そしてインフラの不均衡が是正されるべき社会問題となっていた[61]

実際、世界各地の農村地帯では食糧生産地でありながら食糧不足が蔓延していた。その代表例が1846年アイルランドで発生したジャガイモ飢饉、インド大飢饉である。1860年代オリッサラージプーターナーでは深刻な飢饉が発生していた。これらはインドでの度々発生した大飢饉の一つである。(オリッサ飢饉 (1866年)ラージプーターナー飢饉 (1869年)を参照)グレート・ブリテンやアメリカ、フランスの栄華を極めた諸都市は公衆衛生が確立していなかったため、おぞましいほどの貧困と不衛生が蔓延り、コレラの大流行、そして深刻なまでの汚染が溢れかえっていた。これら都市的な不健全さと不均衡、その一切の汚物は資本主義経済の悪しき実態を象徴するものであった。資本主義と市場経済は繁栄の象徴であると同時に、社会病理、もはや制度化された「社会的公害」と化していたのである。

1849年、アイルランドでの飢饉のただ中にいる母親と2人の子供

こうした混沌とした時代状況の中で、社会における貧富の階級格差の源泉である土地や生産資源の私有に批判の矛先が向かっていった。土地は地球そのものの大地であるが、生活の糧を得る手段であるだけでなく投機の格好の対象でもあって、生活できる範囲での財産所有で生きることもできるが、少数の人間の独占的な富となり果ててそこで暮らす多くの人々が小さい土地を耕作しながら年貢や地代を納めて先のない生活へと隷属していく現実も存在していた。しかし、たとえ私有と市場経済が社会の成長のエンジンとなって一国の繁栄の源泉になっていたとしても、人間社会の所有制度に基づく誤った歴史過程によって何の罪のない人々が活かさず殺さず酷使され、ついには困窮して凄惨な餓死を遂げていくことに正当な道理は全くない。マルクスをはじめとするIWA執行部は現実世界の深刻な矛盾を踏まえたうえで、決然と妥協的なブリテン労働組合主義や中途半端なプルードン的思考を排して古くチャーティスト運動の時代から語られた「社会主義の伝統」すなわち社会正義を復活させようとしたのである。地代で暮らしを立てている統治者は、アメリカやロシア東欧諸国からの大量の穀物や、船舶技術の向上を前に、農業政策をどうするか、土地をどのように配分していくべきか、貿易をどうするかという課題をめぐって苦悩し、自分たちの収入源を死守しなければという文脈から土地政策の重要性は時代が下るにしたがって切迫した問題となっていった。パーネルをはじめとするアイルランド自治派の議員による政治的圧力と、餓死する民衆が大量発生した統治をめぐる過去への反省からブリテンでは1870年から1909年にかけて断続的に「アイルランド土地法」というものが立法され、農民に資金を貸し付けて有償で土地を購入させる小農創出政策が推進された。このように各国で長い年月をかけて農地解放が進み、チャーティストの土地会社計画や社会主義者たちの土地国有化論に対するリアクションが進んでいった。

また、アジアでは古代から存在していたが儒教的な倫理のない欧米諸国では、国有化経済は資源の市場収奪と資源利用の投機性を抑制して食料やサービス、資源の安定供給を図り、そして公共サービスの公平性、コミュニティにおける信頼形成のために必要な透明性の確保、さらに社会の安全性や清潔性を向上させるために必要とされていた、当時最先端の経済モデルだったのである。現代において、この公共性という考え方は社会契約説功利主義ヘーゲル哲学の核をなすものだが、この時代に至ると次第に思想や哲学、イデオロギーとは直接関係ない行政による社会政策を支えるニュートラルな観念となっていた。そうした社会公共的な主張を最初に提示して「ハイ・ポリティクス」との対決姿勢を最初に示したのはIWAを代表とする初期の社会主義者たちであった。その後、保守党のディズレーリ政権期に洗練された行政を実現させるという必要性が高まり始めた1870年代半ば、こうした立場は次第に権力者サイドに影響を及ぼし始め改良的な社会改革へとその展開を見せていた。バーミンガム市長ジョゼフ・チェンバレン(自由党急進派)は、社会主義とは無関係だが積極的に公共政策を進めるという意味合いで「ガス・水道社会主義」を掲げて、急進的で斬新な市政改革を実施した。また、かれは保護貿易主義者で、19世紀半ばにあって金科玉条に信奉されていた自由貿易帝国主義的な文脈であるが反対していた。時代はIWAの主張と歩調を合わせて進んでいたのである。

IWAと反戦主義のメッセージ[編集]

また、同大会は戦争反対の抗議をもっとも力を込めて記録にとどめた。

IWAによるものではないが、示唆に富む反戦ポスターを掲示しておく「戦争 - 少数には善 - 大多数には悪」(左側の袖にはハリバートンと書かれている)

この時期、フランスを率いるナポレオン3世北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦との統合を試みていたオットー・フォン・ビスマルクとは、各々国家の引き締めを強化するために互いに戦争を望み、利己的で野心に満ちた両国の衝突は避けがたいものとなっていた[62]普仏戦争を目前に控えており、戦争に関してのIWAとしての立場を鮮明にしなければならなかった。同大会は参加団体のすべてに対して戦争を防ぐためにもっとも力強い行動に出るように呼びかけることなった。

彼らにとって戦争とは「諸民族間の戦争は内戦そのものと考えるほかないからである。なぜなら、戦争は生産に携わるもの同士の間で戦われるものであり、兄弟同士、市民同士の戦いにほかならないはずだからである。大会は、万一自分たちの国の間に戦争が起こった場合には、労働者は仕事を辞めるべきであると主張するものである。」

このように、ローゼンヌおよびブリュッセルの大会では領土的野心に基づく侵略戦争への反対が強く主張された。というのも、あらゆる戦争は強者が自らの都合で開始し、常に弱者を虐げるかたちで遂行されるためである。将校は貴族や軍のエリートたちによって占められるが、従軍する兵士はもとは多くが農民や労働者であり、生きるために戦いを強いられ、そして戦争を遂行するための「消耗品」とされるであろう。権力者や資産家、そして、その子弟はありとあらゆる方法で兵役逃れを試み、前線、いや鉄火場と化した戦場に赴くことは決してない。卑劣な戦争指導者とその家族は同胞を戦場に送る一方で、自己の一身の安全のみを図ることとなる。国家への戦争協力は前線の兵士や銃後の労働者を犠牲にしてなされるが、その犠牲によって人々の幸福が約束されることはない。労働者には過酷な労働と飢えの中での苦しい戦時生活が科され、男女の隔てなく不幸が強いられることになる。打ちひしがれるべきなのは、帰らない夫、息子、父親、家族との別れによる涙と悲しみの日々、そして前線の兵士自身にとっては死である。あるいは、生きていたとしても帰還兵には負傷による不自由が戦後長く強制され、社会のお荷物扱いされる厳しい現実を背負わされるのだ。両大会ではかかる悲惨への憂慮から、戦争は労働者にとって百害あって一利もない不毛な行為であり、諸国家間の戦争は将来は内乱同様に見なされるべきであると宣言した[63]

IWAの発展と実情[編集]

IWAはブリュッセル大会時にその勢力は最盛期に達していた。

IWAは各地の労働闘争を支援し、闘争のたびに支部の設置が進展して、会員も増加していった。同大会の参加団体も最多となっていた。しかし、会費徴収や組織運営に難があり、財政的には厳しい戦いを強いられていた。1870年の会員数は主要国で以下の通り、フランスで43万3000人、ドイツで15万人、オーストリアで10万人、ブリテンで8万人、スイスで4万5000人といった状況であった[64]。しかし、フランスでは逆風が吹いていた。フランスではIWAが非合法化され、1870年までにヴァルランなどの主要な活動家が次々と逮捕されるなど厳しい弾圧を受けた[65]。各国で迫害がなされるなかIWAは力強い発展を遂げていた。その発展の中心は、ドイツとアメリカであった。ドイツではアイゼナッハとアウグスト・ベーベルによって社会民主労働党が設立されたほか、アメリカでも短期間ながらも全国労働改革党が発足した[66]

バーゼル大会[編集]

バクーニンはイタリアを中心に活動しており、「平和自由連盟」の中央委メンバーとなっていたが、「連盟」から離脱し1868年新たなの活動団体として「国際社会民主同盟」を組織した。バクーニンは、無神論、階級の平等化、相続権の廃止、政治活動の拒否を唱えて支持者を集めていった[67]。その活動は生活力のある労働者には差して支持は広まらなかったが、学生やインテリ、そして貧困労働者など社会的立場の乏しい人々に支持基盤があった。1868年12月、「国際社会民主同盟」とバクーニン一派はIWAへの加入を申し入れたが同盟を解散させない限り認められないとして、加入を断られていた。しかし、バクーニン一派は密かに潜入してIWA内に分派を形成し始め、影響力を行使しようと試みるようになる。土地国有化や労働組合に関する問題では、マルクス派とバクーニン派は強調してプルードン派などを抑える役割を果たしていた。しかし、IWA内ではアナルコ・サンディカリズムが台頭し始めており、組織内で亀裂を生じさせるようになっていった[68]

アイルランド問題と民族解放[編集]

…要加筆…

普仏戦争論とパリ・コミューン論[編集]

マルクスと普仏戦争論[編集]

1870年の7月19日に勃発した普仏戦争によって年次大会は2年間延期となったが、IWAの活動はその間も活発に展開した。IWAは普仏戦争に対する反戦、第二帝政への批判を強めていたが、マルクスの個人的感想はまったく異なったものだったようである。7月20日、マルクスはエンゲルスに宛てた書簡でこのように述べている。

「もしプロイセン人が勝てば、国家権力の集中はドイツの労働者階級の集中に有益だ。さらに、ドイツの優越は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツに移すことになるだろう。そして、これら両国における1866年から現在に至るまでの運動を比較してみただけでも、ドイツの労働者階級が理論的にも組織的にもフランスの労働者階級にも勝っていることを知るには、十分なのだ。世界の舞台におけるフランスの労働者階級に対するドイツの労働者階級の優越は、同時に、プルードンなどの理論に対する我々の理論の優越でもあるだろう。」

マルクスは、ブリテンやフランスのような先発工業国による運動よりも、アメリカやドイツのような新興工業国の運動の方が未来を捉えていると考えていたようである。各国の労働者階級は母国の伝統や政治文化を抜けきれなかった。大掴み的にいえば、ブリテン・フランス組は現状維持的な姿勢を持っており、アメリカ組は進取の精神を有し、ドイツの場合は歴史的大局的な見通しを重視するといった性格の違いが背景にあった。こうした背景を俯瞰しつつ、各国労働運動の政治文化と自身の社会理論とを重ねわさせるように見ており、プルードン主義の空想的社会主義に対するマルクスによる科学的社会主義理論の優越を主張していた。マルクス自身は自分の理論の科学性と新興工業国の労働運動とその先にある革命運動の革新性に期待していたのである。

マルクスの読みは的中する

普仏戦争はプロイセン側の圧勝で終わって、ナポレオン3世は投降した。フランスとその首都パリでは民衆が立法院に殺到して帝政の失効を求めた。この蜂起によってナポレオン3世による第二帝政は崩壊した。ガンベッタを中心に穏健共和派は1870年9月4日共和国宣言を発してトロッシュを首班に仮政府を組織した。講和条件に領土割譲―アルザス=ロレーヌの併合が浮上した。これを受けて、マルクスはプロイセン側の祖国防衛がやがて侵略戦争へと変貌し、独仏間の確執が抜き差しならないものになっていくことに不吉な予感を抱く。1870年8月末、マルクスはマンチェスターで働いているエンゲルスを訪問して、ベーベルが指導するドイツ社会民主労働者党・党委員会に連名で書簡を送付している。マルクスとエンゲルスは戦争についてこう語った。

「1866年の戦争が1870年の戦争を胎内にはらんでいたのとまったく同じように、1870年の戦争もドイツとロシア間の戦争を必然的にはらんでいることは誰だってわかるはずです。……。今回の戦争が吉となるか凶となるか、それはひとえに戦勝国ドイツの振る舞いにかかっているのです。ドイツがアルザスとロレーヌを奪うならフランスはロシアと組んでドイツと戦争するでしょう。それが破滅的な結果をもたらすことは言うまでもありません。」

ドイツ統一を目指すプロイセン王国は、周辺の大国と覇権競争を繰り広げ、普墺戦争から普仏戦争へと、ある戦争から次の戦争をつくりだしてプロイセンの覇権を確立した。こうした展開の中からドイツ帝国が実現したのは歴史的必然だったとマルクス、そしてエンゲルスが見ていたことが伺える。だが、領土割譲をフランスに強いるのであれば、フランスの報復が近い将来に控えていることが容易に予想された。マルクスとエンゲルスにとって世界大戦の勃発は眼前に見えていたということが考えられる。マルクスはこうも語っている。

「ドイツがフランスと名誉ある講和を結ぶなら、……西部の大陸は平和な発展が可能になります。(西欧の平和繁栄の結果)、……ロシアの社会革命の発生が助長されることになり、それはロシアの国民のためにもなるでしょう。しかし、ドイツの労働者が一斉に声を上げないのであれば、ならず者とばか者は彼らの無謀な冒険を支障なくもてあそぶのでないかと私は心配しています。()内筆者補足。」

すなわち、両国首脳が戦後処理を賢く検討して独仏協調の可能性を模索すれば、ヨーロッパは域内平和を確立して、この平和が辺境のロシアに軍国主義の維持を不可能にさせると考えていたと見える。EU・ヨーロッパ連合の先駆けを見てとれるのではないだろうか。マルクスとエンゲルスは、世界大戦の回避の努力を報復への恐怖という消極的理由としてではなく、欧州統合という希望に向けてのステップとして考えていたのであろう。マルクスとエンゲルスは卓越した先見で次のように語っている。

「現在の戦争はそれを通じて世界史の新しい画期を開きつつあります。オーストリアを除いてもドイツは外国から独立してその道を行くことができることを証明したということです。……状況は大幅に発展し単純化することでしょう。そのときには、ドイツの労働者が彼らにふさわしい歴史的役割をもし演じないならば、それは彼らの責任だということになります。この戦争は大陸の労働者運動の重心をドイツからフランスに移しました。それによって、ドイツの労働者階級にはより大きな責任がかかってくるのです。……。」

マルクスとパリ・コミューン[編集]

一方、マルクスは9月9日に総評議会として「プロイセンによるアルザス=ロレーヌの併合」を非難する声明を採択するとともに『普仏戦争反対第二宣言』を発表した。マルクスは普仏戦争後の情勢不安に便乗したパリの蜂起に懸念を示し、プロイセン軍との戦時中に革命を試みるというのは不毛と考えて新政府との協力を説いて、次のように語った。

「敵がパリの城門をたたこうとしている現在の危機に、新政府を倒そうとする試みは、すべて絶望的な愚行であろう。フランスの労働者は、市民としての彼らの義務を果たさなければならない。しかし、同時に、彼らは、フランスの農民が第一帝政の国民的追憶に惑わされたように、1792年の国民的追憶によって操られることがあってはならない。彼らは過去を繰り返すべきではなく、未来を建設すべきである。」

この時期の情勢は挙国一致の抗戦に向かっていたため、急進派・革命派は徹底抗戦のために仮政府と同調する立場を維持した。だが、休戦交渉が始まると仮政府はプロイセン側と交渉締結に心血を注ぎ始め、戦争指導から関心が外れていくようになる。こうなると、政府の裏切りとその利敵行為に対する敵意が増大し、ジャコバン革命派とブランキ派による反政府蜂起―10月31日蜂起が発生した。この蜂起は仮政府の反撃の前に粉砕されてしまう。しかし、厳冬の籠城戦のなかでパリの革命派の活動はいよいよ盛んになり、仮政府は退陣する。しかし、革命派の躍進はパリに限定され、地方各州の議員は戦争の終結を急ぎ始めていた。

1871年2月8日、国民議会の総選挙が実施され、オルレアン王党派のティエールが首班に指名される。アルザス=ロレーヌの併合と50億フランの賠償金支払いをその妥結点で休戦交渉がまとめられる。その結果、パリでは武装解除がなされ大砲の接収が進められるが、3月18日モンマルトルの丘にて大砲の移送中に国民衛兵と女・子どもを含む無数の民衆が襲撃、政府側の二将校が殺害された。ここにパリ・コミューン革命が発生、ティエール政府はヴェルサイユに逃亡した。その後、コミューン選挙が実施され、パリ・コミューン政府が組織され、世界初の労働者政府が誕生した。およそ70日あまりにわたってコミューンはパリを統治するが、ヴェルサイユ軍との戦闘の結果、数多くの革命戦士の殉教者の壮烈な死と共にわずか二か月ほどで崩壊していく。

パリ・コミューンの歴史的経験はマルクスに刺激を与えた。マルクスはひとたびパリ・コミューン革命が宣言されるとコミューン政府を支持した。そして、『フランスの内乱』を執筆して、総評議会の名で自身の見解を世界に発表した。著書においてはコミューン革命の経緯を辿りながら、革命の事績を総括するとともに、コミューン崩壊の原因を分析している。そして、社会主義政党の必要性を説き、反革命勢力の一掃とプロレタリアート独裁の確立、社会主義国家の建設に関する本格的な議論を提示した。こうしたコミューン論は後にボリシェビキを指導したウラジミール・レーニンによって徹底的に研究されてマルクス・レーニン主義思想として体系化され、ロシア十月革命の理論的支柱へと発展していく。

マルクス・バクーニン論争[編集]

…要加筆…


…要加筆…

IWAの崩壊[編集]

ハーグ大会とニューヨーク移転[編集]

マルクスとバクーニンは、1864年11月3日にロンドンで友好的に会見して以来、最後まで顔を合わせることがない。

1871年12月バクーニンとその支持者であるスイスのジュラ連合は、IWA全会員の即時招集を要求し、マルクスが牛耳る総評議会の専制を非難する『ソンヴィリエ通達』という文書をあらゆる国の支部会に送った。バクーニンは自由な政治組織による緩い連合を提案し、マルクスはその意図を疑い権威と規律を主張したため、1872年9月2日のハーグ大会ではマルクス派の定数計算では40名のマルクス派代議員とその他24名の反対派は決裂し、第7条付則として規約に「政党結成」と「政治権力奪取」を明記して平和的な手段もありうると議会進出に理解を示し[69]、それに反対して無政府主義を掲げたバクーニンとその一派を除名した。9月6日に総評議会をロンドンからニューヨークに移転するという決議を採択し、最初の国際的政治団体にして労働者組織であるインターナショナルはここで自然消滅する。バクーニン派をはじめとするインターの支部は、ハーグ大会に続くソンヴィリエ大会を開き、その後の1876年フィラデルフィア大会で正式に解散する。

…要加筆…

参考文献[編集]

  • 飯田 鼎 『マルクス主義における革命と改良―第一インターナショナルにおける階級,体制および民族の問題』 御茶の水書房 1966年
  • エイザ.ブリッグズ 著 村岡健次,河村貞枝 訳 『ヴィクトリア朝の人びと』 ミネルヴァ書房、1988年
  • 桂 圭男 『パリ・コミューン』 岩波書店 1971年
  • 桂 圭男 『パリ・コミューン―パリが燃えた70日』 教育社 1981年
  • カール・マルクス(著), 木下半治(訳) 『フランスの内乱』岩波書店 1952年
  • カール・マルクス(著),フリードリッヒ・エンゲルス (編), 向坂逸郎 (訳)『資本論(1)』 岩波書店 1969年
  • カール・マルクス(著), 長谷部 文雄(訳)『賃銀・価格および利潤』 岩波書店 1981年
  • カール・マルクス(著), 不破哲三(編) 『インタナショナル (科学的社会主義の古典選書)』 新日本出版社 2010年
  • カール・マルクス フリードリッヒ・エンゲルス 不破哲三 (編)『マルクス、エンゲルス書簡選集 (上)(科学的社会主義の古典選書)』 新日本出版 2012年
  • カール・マルクス フリードリッヒ・エンゲルス 不破哲三 (編)『マルクス、エンゲルス書簡選集 (中)(科学的社会主義の古典選書)』 新日本出版 2012年
  • 木下賢一 『第二帝政とパリ民衆の世界―「進歩」と「伝統」のはざまで』 山川出版社 2000年 
  • 古賀秀男 『チャーティスト運動-大衆運動の先駆』 教育社 1980年
  • 川北 稔 他著『新編 高等世界史B 新訂版』 帝国書院 2007年
  • 小牧 治 『マルクス センチュリーブックス 人と思想 (20)』 清水書院 2000年
  • 佐喜真 望 『イギリス労働運動と議会主義』 御茶ノ水書房、2007年
  • ジョルジュ・ブルジャン 著, 上村 正 訳 『パリ・コミューン』 白水社 1961年
  • マックス・ベア著 大島清 訳 『イギリス社会主義史(4)』 岩波書店 1975年
  • 橋爪 大三郎 著 ふなびき かずこ (イラスト) 『労働者の味方マルクス―歴史に最も影響を与えた男マルクス』 現代書館 2010年
  • ロイデン・ハリソン著 田口富久治 訳 『近代イギリス政治と労働運動(原題・『社会主義者以前』)』 未来社、1972年
  • 薬師院 仁志 『社会主義の誤解を解く』 光文社 2011年
  • W.Z.フォスター著 長洲一二・田島昌夫 訳 『国際社会主義運動史』 大月書店 1956年

脚注[編集]

  1. ^ ベア (1975年) 34-35ページ
  2. ^ 古賀秀男 (1980年) 198-201、239、259ページ
  3. ^ 同上 (1980年) 244-252ページ
  4. ^ フォスター(1956)37ページ
  5. ^ 古賀秀男 (1980年) 242-244ページ
  6. ^ ハリソン (1972年) 19、39ページ
  7. ^ 同上 (1972年) 35ページ
  8. ^ 同上 (1972年) 25ページ
  9. ^ 同上 (1972年) 30ページ
  10. ^ 同上 (1972年) 50ページ
  11. ^ フォスター (1956年) 40-41ページ
  12. ^ 同上 (1956年) 41ページ
  13. ^ 『インタナショナル』(2010年)13-14ページ
  14. ^ 同上(2010年)11ページ
  15. ^ 同上(2010年)10ページ
  16. ^ 同上(2010年)16ページ
  17. ^ フォスター(1956年)43-44ページ
  18. ^ 『インタナショナル』(2010年)17-18ページ
  19. ^ 同上(2010年)19-20ページ
  20. ^ 同上(2010年)19-20ページ
  21. ^ ベア(1975年)34-38ページ
  22. ^ 同上(1975年)38ページ
  23. ^ 同上(1975年)38ページ
  24. ^ 『インタナショナル』(2010年)28ページ
  25. ^ 同上(1975年)38ページ、『インタナショナル』(2010年)26-27ページ。
  26. ^ 『インタナショナル』(2010年)28-29ページ
  27. ^ フォスター(1956年)47-48ページ
  28. ^ 同上(1956年)48ページ
  29. ^ 同上 (1956年) 49ページ
  30. ^ 同上 (1956年) 49―50ページ
  31. ^ 同上 (1956年) 50-52ページ
  32. ^ 同上 (1956年) 55ページ
  33. ^ 同上 (1956年) 56-59ページ
  34. ^ 同上 (1956年) 58-59ページ
  35. ^ 同上 (1956年) 47ページ
  36. ^ 同上 (1956年) 64ページ
  37. ^ 同上 (1956年) 64ページ
  38. ^ 『書簡集(上)』 (2012年) 288ページ
  39. ^ 『インタナショナル』 (2010年) 46-47ページ
  40. ^ フォスター (1956年) 65ページ
  41. ^ 『インタナショナル』 (2010年) 51-52ページ
  42. ^ 『インタナショナル』 (2010年) 52-54ページ
  43. ^ フォスター (1956年) 67ページ
  44. ^ 同上 (1956年) 68ページ
  45. ^ 同上 (1956年) 66ページ
  46. ^ ベア (1975年) 41-43ページ、『インタナショナル』 (2010年) 56-58ページ
  47. ^ フォスター (1956年) 65ページ
  48. ^ 同上 (1956年) 69ページ
  49. ^ フォスター (1956年) 70ページ
  50. ^ 『書簡集(上)』 (2012年) 288ページ
  51. ^ 佐喜真望(2007年) 226-227ページ
  52. ^ 同上(2007年) 218ページ
  53. ^ 同上(2007年) 227ページ
  54. ^ 同上(2007年) 228ページ
  55. ^ 同上(2007年) 229-231ページ
  56. ^ フォスター (1956年) 71ページ
  57. ^ 同上 (1956年) 72ページ
  58. ^ 同上 (1956年) 73ページ
  59. ^ 同上 (1956年) 73ページ
  60. ^ 同上 (1956年) 73ページ
  61. ^ 同上 (1956年) 74ページ
  62. ^ 同上 (1956年) 86-87ページ
  63. ^ 同上 (1956年) 71ページ
  64. ^ 同上 (1956年) 79ページ
  65. ^ 同上 (1956年) 75-76ページ
  66. ^ 同上 (1956年) 76-79ページ
  67. ^ 同上 (1956年) 82ページ
  68. ^ 同上 (1956年) 82-84ページ
  69. ^ 「ハーグ大会についての演説」1872年9月 マルクス・エンゲルス全集(18) 158ページ、不破哲三『科学的社会主義における民主主義の探求』40ページ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]