キューバ危機

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ソ連製MRBM(ミサイル)発射基地の航空写真(1962年10月17日にアメリカ空軍が撮影)

キューバ危機(キューバきき、: Cuban Missile Crisis西: Crisis de los misiles en Cuba: Карибский кризис)は、キューバを舞台に1962年10月14日から28日までの14日間に亘って米間の冷戦の緊張が全面核戦争寸前まで達した危機的な状況のこと。

勃発までのいきさつ[編集]

キューバ革命[編集]

革命後にアメリカを訪問したカストロ首相(左から2番目/1959年)

1959年1月キューバ革命で親米かつ軍事独裁のフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒し、その後首相の座に就いたフィデル・カストロ首相は、共産主義の影響を受けた学生らとともにゲリラ活動を行い親米政権を倒したことから、革命後にアメリカに対してどのような姿勢を取るのか懸念されていた。

このような懸念に反してカストロは「アメリカ合衆国に対して変わらず友好関係を保つ」と表明し、早くも4月にワシントンD.C.を訪問しアメリカ政府に対して友好的な態度を見せるとともに、革命政権の承認を求めた。

しかしカストロからの公式会談の申し入れを受けたアイゼンハワー大統領は、カストロが革命前よりCIAの報告で「容共的」のみならず、「共産主義者」との疑いさえもたれていたことに加え(当時カストロは自分が共産主義者であることを明確に否定していた)、アメリカ合衆国の傀儡政権だったバティスタ政権を背後から操ってキューバに多くの利権を持つに至ったアメリカの大企業やマフィアからの圧力を受けて、「かねてから予定されていたゴルフに行く」との理由で公式会談に欠席し、代わって会談したリチャード・ニクソン副大統領とも短時間の面会程度に終わらせられるなど、あからさまな冷遇を受けることとなった。

キューバとソ連の接近[編集]

このような「予想外」の冷遇に反発したカストロ首相は、アメリカとの友好関係の継続と支援を受けることにまだ期待を持ちながらも、帰国後に農地の接収を含む農地改革法の施行を発表した。当時ユナイテッド・フルーツとその関連会社がキューバの農地の7割以上を所有していたことから、これは事実上アメリカ企業の資産の接収を目的にした法の施行ということになり、アメリカ政府や企業からの大きな反発を受けることとなった。

アメリカとの関係が悪化する中、カストロは全方位外交を掲げることで各国から革命政権の承認を受けることを目論み、革命の同志で工業大臣に就任したエルネスト・チェ・ゲバラ日本をはじめとするアジアアフリカ諸国に派遣した。さらにカストロは、弟のラウル・カストロ国防大臣にソビエト連邦首都モスクワを訪問させ、アナスタス・ミコヤン第一副首相をハバナに招請するなど、冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソビエト連邦との接近を開始する。

その後もキューバとアメリカの関係は悪化の一途をたどり、1960年1月にはユナイテッド・フルーツの農地の接収を実施したほか、2月にはソ連のアナスタス・ミコヤン第一副首相のハバナ訪問を受け入れ、ソ連との砂糖と石油の事実上のバーター取引や有利な条件での借款の受け入れ、さらにソ連からの武器調達の取引に調印した。アメリカ合衆国本土の隣国であるキューバがソビエト連邦と手を組む事態を受け、アメリカ合衆国は共産主義国家の脅威を間近で感じることになった。

アメリカとの対立[編集]

国連総会に出席したカストロ(ひげの男)(1960年4月)

同年4月には早くもソ連のタンカーがキューバの港に到着し、さらに6月には、キューバ政府によりユナイテッド・フルーツやチェース・マンハッタン銀行、ファースト・ナショナル・シティ銀行をはじめとするアメリカ合衆国の政府や企業、国民が所有する全てのキューバ国内の資産の完全国有化を開始するとともに、穏健的なルフォ・ロペス大蔵大臣の更迭(その後アメリカに亡命)など、キューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。

さらに9月にアメリカ政府は、アメリカ国内にあるすべてのキューバ資産を差し押さえるとともに、キューバに経済及び軍事援助を行った国に対する制裁を規定する法案を可決した。

同月下旬にカストロは自ら国連本部で開催される国連総会に出席すべくニューヨーク市を訪問したものの、これに対してアメリカ政府はキューバ代表団のマンハッタン島外への外出を禁止し、さらに宿泊予定のシェルボーン・ホテルはキューバ代表団に対して膨大な額の「補償金」の支払いを要求するなど、嫌がらせともいえるような対応を取った。なおその後ハーレムにある安ホテルに移動したカストロは、ホテルを訪問したフルシチョフやガマール・アブドゥル=ナーセルマルコムXなどと会談し、さらに26日には国連総会において4時間29分に渡る長時間の演説を行いキューバ革命の意義を自画自賛するとともにアメリカを非難した。

アイゼンハワー政権は更なる対抗策としてキューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取る形で禁輸措置に踏み切り、1961年1月3日にはキューバに対して国交断絶を通告した。この間、大量のキューバからの避難民がフロリダ州マイアミに集まり、その数は10万人に達した。

アメリカによるキューバへの軍事侵攻[編集]

アイゼンハワー(右)とケネディ
ピッグス湾事件で撃墜されたアメリカのB-26爆撃機の残骸

これに先立つ1960年3月に、カストロのソビエト連邦への接近を憂慮したCIAとアイゼンハワー大統領はカストロ政権転覆計画を秘密裏に開始。母国を脱出してきた亡命者1,500人を「反革命傭兵軍」として組織化し、アメリカの軍事援助と資金協力の下でキューバ上陸作戦を敢行させるため、1954年のPBSUCCESS作戦により親米軍事政権が成立していたグアテマラの基地においてゲリラ戦の訓練を行った。任期満了による退任間近だったアイゼンハワー大統領はこの時点でキューバ問題から手を引き、その後はリチャード・ニクソン副大統領やCIAのアレン・ダレス長官らに委ねられた。

その間、作戦は当初のゲリラ戦から通常戦に変更する決定が下された。そして、兵員数と物資で圧倒的に劣る反革命傭兵軍がキューバ政府軍に勝つために、アメリカ軍の正規軍の介入が計画に組み入れられた。

この時点でアメリカでは大統領選挙が行われ、1961年1月20日民主党選出のジョン・F・ケネディが大統領に就任することが決定した。ケネディ新大統領はこれらの軍事力によるカストロ政権転覆計画を引き継ぎ、就任後間もない4月15日に「ピッグス湾事件」を起こしたものの、途中で正規軍の援助がキャンセルされるなど複数の理由が重なり失敗した。

この事件の直後の4月28日に、ケネディは「西半球における共産主義者とは交渉の余地がない」としてキューバに対する経済封鎖の実施を発表した。なおキューバ製葉巻H.アップマン」を愛好していたケネディは、この発表の直前にピエール・サリンジャー報道官に対して「H.アップマン」を至急大量に入するように命じ、1,200本を確保したことを確認した後に経済制裁の実施を発表したと伝えられている[1]。なおアメリカのこれらの軍事侵攻や経済制裁の実施を受けて、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言しアメリカの挑発に答えた。

ピッグス湾事件の7カ月後の1961年8月、ケネディ政権はエドワード・ランスデール空軍少将[2]を作戦立案者に指名し、政権の総力を挙げてカストロ政権打倒を目指す「マングース作戦」(Operation MONGOOSE)を極秘裏に開始し、軍事訓練を施した亡命キューバ人をキューバ本土に派遣して破壊活動を実施させ、またCIAを中心にカストロ暗殺計画と同時に、再度のキューバ侵攻作戦の計画立案を進めた。

ソ連によるキューバへのミサイル配備とは無関係に進められた「マングース作戦」は徐々に速度を上げて進捗し、アメリカ軍によるキューバ侵攻作戦の準備は1962年10月20日に完了する予定であった。それは奇しくもキューバへのミサイル配備計画とほとんど時期を一にするものであった。

キューバへの核ミサイル配備[編集]

ロバート・マクナマラ国防長官と話すケネディ(6月)
イリユーシンIl-28爆撃機
キューバに向かうソ連の貨物船「クラスノグラード」(9月)

そのような状況下で、キューバとソ連の関係は一層親密化し、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に最新鋭のジェット戦闘機や地対空ミサイルなどの供与を要求しはじめた。しかしソ連は表立った最新兵器の供与はアメリカを刺激し過ぎると考え、1962年には、ソ連は最新兵器の提供の代わりに秘密裏に核ミサイルをキューバ国内に配備するアナディル作戦ロシア語版を可決し、キューバ側のカストロもこれを了承した。

アナディル作戦の背景には、当時核ミサイルの攻撃能力で大幅な劣勢に立たされていたソ連がその不均衡を挽回する狙いがあった。アメリカは本土にソ連を攻撃可能な大陸間弾道ミサイルを配備し、加えて西ヨーロッパ、トルコに中距離核ミサイルを配備していた。これに対し、ソ連の大陸間弾道ミサイルはまだ開発段階で、潜水艦と爆撃機による攻撃以外にアメリカ本土を直接攻撃する手段を持たなかったといわれる。

1962年7月から8月にかけて、ソ連やその同盟国の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったため、これを不審に思ったアメリカ軍は、キューバ近海の公海上を行き来するソ連やその同盟国の船舶やキューバ国内に対する偵察飛行を強化していた。

このような動きに対してケネディ大統領は、11月の選挙の前に偵察機が撃墜されて政治問題化されることを恐れてキューバ上空に偵察機を飛ばすことを制限した。しかしその間にもソ連から、通常の工作機器の輸出に巧妙にカモフラージュされたソ連製核ミサイルや、核兵器が搭載可能でアメリカ東海岸の主要都市に達する航続距離を持ったイリユーシンIl-28爆撃機が秘密裏に貨物船でキューバに運ばれた。さらに核兵器の配備に必要な技術者や軍兵士もキューバに送られ、急速に核ミサイルがキューバ国内に配備されはじめた。

しかし当初アメリカ軍の解析班は、これらの貨物船で運ばれている物の多くがアメリカからの経済制裁の発令に伴って供給が止まり、その代わりにソ連から送られるようになったドラム缶に入ったガソリンや木材であると解析した。さらに中央情報局(CIA)による分析では、貨物船でキューバに運ばれたソ連軍兵士の数も実際は4万3000人程度いたところを、その4分の1以下の約1万人と見積もるなど、ケネディの命令により偵察機による撮影が制限されてしまったアメリカの情報チームは、ソ連によって行われた巧妙なカモフラージュを全く見抜くことができなかった。

ようやく9月に入りケネディは偵察機によるキューバ上空の飛行を再開させたものの、この間にキューバにソ連からSS-4核ミサイルとその弾頭99個、さらに核兵器の搭載が可能なイリユーシンIl-28爆撃機が秘密裏に運ばれ、同時期に貨物船の船底にぎゅうぎゅうに詰め込まれて送られた万単位のソ連将兵とともに、キューバ国内への配備が始まっていることには気が付かないままであった[3]

キューバ危機の発生[編集]

核ミサイル発見[編集]

サン・クリストバルに配置されたソ連のMRBM(10月14日)
グロムイコ外務大臣(座って左から3番目)らと会談するケネディ大統領(10月18日)

同年10月14日に、キューバ上空で偵察飛行を行ったアメリカ空軍ロッキードU-2偵察機が撮影した写真を、後述のオレグ・ペンコフスキー大佐がもたらした技術仕様書や、メーデーの際にクレムリン広場をミサイル搭載車がパレードした際の写真と見比べて解析したアメリカ空軍とCIAの解析班が、アメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル(MRBM)の存在を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル(IRBM)を発見した[4]

これらの写真は10月16日朝にCIA高官のリチャード・ヘルムズによってホワイトハウスに届けられた。ケネディ大統領は激烈な反応を示し、即座にこれらのミサイルをアメリカの攻撃機で破壊するか空爆を行う、もしくはキューバに軍事侵攻する計画についての討議を始めるとともに、エクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置した。この場でミサイル基地への空爆を主張する国防総省CIAの強硬論を抑えて、第1段階としてキューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検を行うことでソ連船の入港を阻止することを提案した。そしてアメリカ政府は北大西洋条約機構(NATO)や米州機構(OAS)の指導者たちに状況を説明し、彼らの全面的な支持を得た。

またケネディは10月18日に、アメリカを訪問していたアンドレイ・グロムイコ外務大臣とホワイトハウスで会見し、ソ連政府の対応を迫ったが、グロムイコは「キューバに配備されたミサイルは防御用の通常兵器である」と繰り返し述べることで、キューバへの核ミサイルの配備を認めようとしなかった。ケネディ大統領はこの時点ではアメリカの握っている証拠を明らかにせず、会談は物別れに終わった。

続く10月19日にも再びロッキードU-2偵察機による決定的写真が撮影され、これを受けて再度同盟国への説明が行われた。ケネディ大統領は10月22日午後7時に行われた全米テレビ演説で、アメリカ国民にキューバに核ミサイルが持ち込まれた事実を発表しソ連を非難した。

ペンコフスキー逮捕[編集]

なおこの日に、アメリカの諜報員にキューバにおけるミサイル発射サイトの計画案をはじめとする核ミサイルの配備状況を伝え、アメリカの偵察機による核ミサイルの発見に多大な貢献をしていたソ連軍参謀本部情報総局の大佐で、ソ連軍参謀本部情報総局長官であったイワン・セーロフや陸軍の兵科総元帥セルゲイ・ヴァレンツォフと友人だった[5]オレグ・ペンコフスキーがモスクワ市内で逮捕された。

ペンコフスキーの逮捕によって、キューバ国内の核ミサイルの配備状況のみならず、ニキータ・フルシチョフが当初から妥協を模索していたなどのクレムリン内の動向がアメリカ側に伝わらなくなってしまったものの[6]、これまでにアメリカに伝わっていた情報は、アメリカとソ連の間の交渉において大いに役立った。ソ連軍参謀本部情報総局大佐で後に亡命したヴィクトル・スヴォーロフは、「歴史家はGRU大佐オレグ・ペンコフスキーの名前を感謝の念とともに心に留めることになるだろう。彼の計り知れない価値のある情報によってキューバ危機は最後の世界大戦に発展しなかったのだ」と述べている[7]

準戦時体制発令[編集]

ボーイングKC-135から空中給油を受けるロッキードU-2
発射準備が進められたジュピター

アメリカ軍部隊の警戒態勢は、22日の大統領演説中にデフコン3となり、26日午後10時にデフコン2[8]となり準戦時体制が敷かれ、ソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスタイタンソージュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置き、ソ連と隣接するアラスカ州などのアメリカ国内の基地のみならず、日本トルコイギリスなどに駐留するアメリカ軍基地も臨戦態勢に置いた。

また、核爆弾を搭載したボーイングB-52戦略爆撃機ポラリス戦略ミサイル原子力潜水艦がソ連国境近くまで進出し、B-52はボーイングKC-135による空中給油を受けながら24時間体制でアラスカ北極近辺のソ連空域近辺を複数機で飛行し続け、戦争勃発と攻撃開始に備えた。

ソ連も国内のR-7やキューバのR-12英語版を発射準備に入れた他、ハバナ市内をはじめキューバ国内の主要地点に対空砲を構えてアメリカ軍の攻撃に備えた。またキューバの工業大臣を務めていたチェ・ゲバラは、サンクリストバルのミサイル基地の近くの洞窟に緊急の指令室を作り、そこで現場の指揮を執った。

また、デフコン2の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことを受け、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットへ、飲料水食料などを買いに殺到する事態が起きたほか、アメリカやイギリスでは「キューバへのアメリカの介入」を非難する一部左翼団体のデモが行われた。

なお、マリリン・モンローをはじめとして大統領就任後も多数の女性と不倫関係を続けていたケネディ大統領は、このような緊迫した状況下である10月22日にも、デビット・ドブスを通じて学生時代から性的関係を持っていたメアリー・ピンショー・マイヤー(夫はCIA高官のコード・マイヤー)と関係を持っていたことが明らかになっている [9]

海上封鎖[編集]

ソ連の貨物船の上空を飛行するアメリカ軍のロッキードP-3(10月25日)

10月23日にケネディ大統領は、戦時国際法を適用解釈して、キューバ海域近辺の公海上に設定された海上封鎖線に向けて航行するソ連の貨物船に対して、アメリカ海軍艦艇が臨検を行うことに同意し、命令書に署名した。さらに臨検に従わない貨物船に対しては警告の上で砲撃を行うこと、さらにこれらの貨物船を護衛する潜水艦による攻撃や、アメリカ海軍艦艇や航空機に対する銃撃などの敵対行為を取ってきた場合は即座に撃沈することを併せて指示した。

これに伴い10月24日の午前10時に海上封鎖が開始され、アメリカは陸海軍及び海兵隊、沿岸警備隊などを総動員した体制を取り、航空機、艦船、潜水艦などで海上封鎖線近辺の警備を強化したほか、ソ連の貨物船が海上封鎖を突破しアメリカ軍がこれを撃沈した場合、即座に全面戦争となる可能性もあったことから、日本やドイツをはじめとする海外の基地においても総動員体制をかけ、アメリカ軍人のみならずドイツ軍なども休暇の兵士を呼び戻した。

なおこれに対してソ連の貨物船は、もし公海上での臨検を受け入れた場合はアメリカの「恫喝」に屈服する形になるだけでなく、アメリカ側に様々な軍事機密が流れてしまう恐れがあることから臨検を受けることをよしとせず、また海上封鎖を突破し攻撃を受けた場合は即座に報復合戦となり、さらに全面核戦争になる可能性が高いことから、本国からの指示によりアメリカ海軍により通達された海上封鎖線を突破することはせず、海上封鎖線手前で引き返した。

ミサイル撤去交渉[編集]

緊急国連安全保障理事会でキューバのミサイル基地を撮影した写真を示すアドレー・スティーブンソン国連大使(10月25日)

その一方でアメリカはソ連に対しミサイル撤去交渉を開始する。10月25日の緊急国連安全保障理事会で、アメリカ国連大使のアドレー・スティーブンソンが、ソ連の代表団にミサイルをキューバに設置しているのか尋ね、ソ連国連大使のワレリアン・ゾリンが「そんなものは存在しない」と否定した後、それを反証する決定的な写真を見せ「通訳は必要ないでしょう。(ミサイルがあるのか否かを)イエスかノーでお答えしてほしい( Don't wait for the translation, answer 'yes' or 'no'! )」と再質問し、今度はゾーリンが回答を拒否するや、「地獄が凍りつくまで回答をお待ちしますよ( I am prepared to wait for my answer until Hell freezes over. )」と言い放った。この駆け引きで、ソ連がキューバにミサイルを配備していることを世界中に知らしめることに成功した。

10月26日にソ連からアメリカへ妥協案が示される。その内容は、アメリカがキューバに対する軍事行動をしないなら、キューバの核ミサイルを撤退させるというものだった。しかし、10月27日に内容が変更され、トルコに配備されているジュピター・ミサイルの撤退を要求する。これは当初アメリカにとって受け入れがたいものだった。

暗黒の土曜日[編集]

キューバ近海を航行するソ連海軍の潜水艦を監視するアメリカ軍の航空機と艦艇

その後「暗黒の土曜日」と呼ばれることになった10月27日の昼頃、キューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍ロッキードU-2偵察機が、ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜された。また同日にはワシントンD.C.のソ連大使館で、開戦に備えて大使館員が機密書類を焼却する姿が目撃されている。

なお、4隻のディーゼル潜水艦[10]が1962年10月1日ムルマンスクを出港し、キューバのマリエル港へ向かっており、ちょうどキューバ危機の時に、アメリカ海軍が設定した海上封鎖線近くにいた。4隻とも核魚雷を搭載し、もし攻撃を受けたら発射するよう口頭命令を受けていた。アメリカ海軍はキューバ海域に向かう潜水艦を発見し、これに対してキューバ海域を離れるように警告しても従わない場合、被害のない程度の爆雷を投下して警告することになっていた[11]

10月27日昼頃、冷戦終結後になって分かったことだが、アメリカ海軍は海上封鎖線上で警告を無視してキューバ海域に向かうソ連のフォックストロット型潜水艦B-59に対し、その艦が核兵器(核魚雷)を搭載しているかどうかも知らずに、爆雷を海中に投下した[12]。攻撃を受けた潜水艦では核魚雷の発射が決定されそうだったが、潜水艦隊政治将校ヴァシーリイ・アルヒーポフの強い反対によって発射を止め、また浮上して交戦の意思がないことを表し、その後海上封鎖線から去ることにより核戦争は回避された。

ミサイル撤去[編集]

キューバ港からミサイルを運び出すソ連の貨物船(アメリカ空軍の偵察機が撮影/1962年11月)

10月27日に危機は極限にまで達したと見えたが、ワシントン時間(東部標準時10月28日午前9時、ニキータ・フルシチョフ首相モスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表した。

この決定は、ケネディ大統領が教会に礼拝に訪れ(アメリカ大統領が通例として戦争突入前に教会で祈りを捧げる、という憶測)また、再度TV演説を行う、という情報を受け、ここでアメリカによる戦争開始声明が読み上げられると同時にキューバへの空爆が実行に移される、という憶測に狼狽したソ連首脳部の決定で、その放送予定に間に合うよう、外交ルートを通さずにモスクワ放送を通じてロシア語でミサイル撤去声明を読み上げるという形で急遽行われたとされている。

しかしこれらは誤報と誤解で、実際のケネディ大統領演説放送は単なる海上封鎖演説の再放送番組にすぎなかったことが後に判明している。さらにソ連側でも「通常のカトリック教徒なら日曜礼拝は当たり前ではないか」という意見が出されており、礼拝と演説が本当にミサイル撤去のきっかけとなったかどうかは疑問である。

いずれにしてもフルシチョフはケネディの条件を受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体し、早くも11月中には貨物船でソ連に送り返した。ケネディもキューバへの武力侵攻はしないことを約束、その後1963年4月トルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了した。なおアメリカはマクドネル・エアクラフトRF-101などの偵察機を、ソ連のミサイル撤去声明の直後より公然とキューバ国内や港湾上空に飛行させ、ミサイルが完全に撤去されたか否かを調査し、ソ連軍もこれらのアメリカ空軍の偵察機を撃墜することをソ連軍の現地司令官やキューバ軍に対し行わないように厳命している。

その後[編集]

カストロ(左)とフルシチョフ(1961年)
フルシチョフ(左)とケネディ(1961年)

その後、キューバに対するアメリカの介入も減少し、冷戦体制は平和共存へと向かっていくことになる(米ソデタント)。この事件を教訓とし、首脳同士が直接対話するためのホットラインが両国間に引かれた。

一方キューバのカストロ首相は、この措置に激怒した。キューバが国家を挙げて対アメリカ戦に備えていたのにもかかわらず、キューバの頭上で政治的な妥協を、米ソで決定してしまったからである。一方、後のフルシチョフ首相の回想によれば、アメリカの度重なる偵察と海上封鎖に興奮したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫ったとされ、ソ連の方も、核戦争をもいとわない小国の若手革命家と次第に距離を置くようになっていった(チェコ事件で和解)。

カストロはその後ソ連に2回訪問し、フルシチョフと2人で事件について冷静に振り返っている。カストロは一旦は「自らがアメリカを核攻撃をするようにソ連に迫ったことを記憶していない」としたが、フルシチョフは通訳の速記録まで持ってこさせて、カストロに核攻撃に関する自らの過去の発言を認めさせた。

冷戦終結後とソ連崩壊後の情報公開と、同じくアメリカの情報公開によって分かったことは、キューバ危機の時点で、ソ連は既にキューバに核ミサイル(ワシントンを射程に置く中距離核弾頭ミサイルR12、R14、上陸軍をたたく戦術短距離核ミサイル「ルナ」)を9月中に42基(核弾頭は150発)配備済みであり、グアンタナモ米軍基地への核攻撃も準備済みであった。さらに、臨検を受けた時には自爆するよう命じられたミサイル(核弾頭を取り外している)搭載船が封鎖線を目指していた為、アメリカによる臨検はほとんど効果がなかったことである。

またキューバの兵士の数はアメリカ側の見積もりの数千名ではなく、4万名であった。カーチス・ルメイ空軍参謀総長をはじめとするアメリカ軍は、その危険性に気付かず、「圧倒的な兵力」と思い込んでいた軍事力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。

もしフルシチョフの譲歩がなく、ルメイの主張通りキューバのミサイル基地を空爆していたら、残りの数十基の核ミサイルが発射され、世界第三次世界大戦に突入していた可能性が高い。しかし実はこの時点で、アメリカ軍にもソ連軍にも相手を壊滅させるほどの核兵器がなかった。そのため、中距離核ミサイルをアメリカ軍はトルコに、ソ連はキューバに配備していた。また、これをきっかけに核戦争の恐怖が世界へ広がっていった。

解決までの経緯[編集]

テーラー統合参謀本部議長(左から4番目)、カーチス・ルメイ空軍参謀総長(左から3番目)らと会談するケネディ大統領
エクスコムに参加するケネディ大統領(窓際真ん中)やロバート・ケネディ司法長官(写真の一番左で、椅子を机から離している)、マクナマラ国防長官(大統領の右)など(1962年10月29日)
エクスコムでディーン・ラスク国務長官(中央)やロバート・マクナマラ国防長官(右)と話すケネディ大統領(左)(1962年10月29日)

なぜソビエト連邦のフルシチョフがキューバからのミサイル撤退を受け入れたかについては様々な説がある。よく聞かれる説には次のようなものがある。

ワシントン時間10月28日午前9時にケネディが緊急テレビ演説をするという情報がフルシチョフのもとに入った。そしてその演説に先立ってケネディは教会で礼拝をするという。開戦前のアメリカ大統領は開戦を告げる前に必ず礼拝に行くと聞いていたフルシチョフは、ケネディが開戦を決意したと勘違いしてミサイル撤退を決意した、というものである。

しかし、当時は情報機関の間では様々な不確実な情報が飛び交っており、ソ連のアレクサンドル・アレクセーエフ駐キューバ特命全権大使の所には「数時間以内にアメリカが武力侵攻するという確実な情報」が届けられ、これを知って激高したカストロは、フルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫った。しかし、老練なフルシチョフは、この情報はアメリカの情報機関がソ連の情報機関に意図的に流したデマだとして取り合わなかった。ケネディが教会で礼拝をするという話を聞いて、フルシチョフがあわててミサイル撤退を決意したなどというのは、ゴシップ誌の報道に過ぎず、むしろ敬虔なキリスト教徒が、毎週日曜日に礼拝を行うのは当然の慣習である。

ケネディの側近だったセオドア・C・ソレンセンの著書「ケネディ」では、キューバ危機の米ソ対決が沈静化したのは、ロバート・ケネディ司法長官とアナトリー・ドブルイニン駐米大使が、ABCネットワークの記者、ジョン・A・スカリー英語版[13]の仲介で、深夜のワシントン市内の公園で密かに会って話し合った時であったことが記されている。その会談で、実際にどのようなやり取りがなされたかは、具体的には書かれていない。しかし、当時のソ連の権力機構から考えて、駐米大使に決定的な権限が与えられていたとは考えられず、会談の存在が事実だとしても、この会談が問題解決に決定的な役目を果たしたとは考えられない。

なお当時の両国の核戦力は、ソ連の核爆弾保有数300発に対してアメリカは5000発と、ソ連は圧倒的に不利な状況であり、仮に両国の全面戦争という事態になれば、ソ連は核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられたものの、敗北するのは決定的であった。第二次世界大戦時にドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフは、このことをよく理解しており、アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが、国際政治の現実であったと考えられている。

実際にフルシチョフは「正直なところ、アメリカが戦争を開始しても、当時の我々にはアメリカに然るべき攻撃を加えられるだけの用意はなかった。とすると、我々はヨーロッパで戦争を始めることを余儀なくされただろう。そうなったら無論、第三次世界大戦が始まっていたに違いない」と後に回想している。その一方、フルシチョフとしては、キューバに対するアメリカの干渉を阻止したことで満足したとも考えられているが、実際にはケネディがトルコからの核ミサイルの撤去を行うことを約束したことがフルシチョフを満足させ、土壇場での両国間の合意を決定づけた。

この2年後に、フルシチョフは失脚することになるが、フルシチョフが更迭された中央委員会総会では、キューバ危機におけるアメリカへの「譲歩」が非難されることになる。また、このキューバ危機を教訓として、2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。

ケネディは、クレマンソーの言葉「将軍たちに任せておくには、戦争は重要すぎる」を頭に置いて外交的解決を目指し、第一次世界大戦への道筋を描いた「八月の砲声」(バーバラ・タックマン)を読み、自分が「十月の砲声を演じる気はない」と言っていたという[14]

主な関係者(前職::その後)[編集]

アメリカ
ソ連
キューバ

キューバ危機を扱った作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「The Rake」Issue 8 P.104 2016年3月
  2. ^ CIA所属
  3. ^ 『CIA秘録』(上)ティム・ワイナー著 文春文庫 P.357
  4. ^ 『CIA秘録』(上)ティム・ワイナー著 文春文庫 P.360
  5. ^ Oleg Gordievsky and Christopher Andrew (1990). KGB: The Inside Story. Hodder & Stoughton. ISBN 0-340-48561-2; cited from Russian edition of 1999, pages 476-479
  6. ^ Aleksandr Fursenko and Timothy Naftali, "Khrushchev's Cold War", 2006. ISBN 978-0-393-05809-3
  7. ^ Suvorov, Viktor. Soviet Military Intelligence. Grafton Books, London, 1986, p. 155
  8. ^ 2012年末までデフコン2まで警戒態勢が上昇したのはこのときだけであったといわれる。2001年アメリカ同時多発テロ事件当時などもデフコン2は発令されなかった
  9. ^ [マイケル・ドブス(Michael Dobbs)著、布施由紀子訳『核時計零時1分前―キューバ危機13日間のカウントダウン』NHK出版、2010年1月 P546-547
  10. ^ B-4,B-36,B-59,B-130
  11. ^ The Underwater Cuban Missile Crisis: Soviet Submarines and the Risk of Nuclear WarNational Security Archive Electronic Briefing Book No. 399 2012年10月24日
  12. ^ The Cuban Missile Crisis, 1962: Press Release, 11 October 2002, 5:00 pm. George Washington University, National Security Archive. October 11, 2002. Retrieved October 26, 2008.
  13. ^ その後1972-75年に国連大使となる。
  14. ^ 『挑発が招く惨事 回避を 第1次大戦の教訓(上)』ローレンス・フリードマン 日本経済新聞2014年7月17日朝刊24面「経済教室」

参考文献[編集]

  • マイケル・ドブス(Michael Dobbs)著、布施由紀子訳『核時計零時1分前―キューバ危機13日間のカウントダウン』NHK出版、2010年1月
  • 『NHKスペシャル キューバ危機・戦慄の記録 十月の悪夢』NHK DVD(1992年放送)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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英語サイト[編集]