チリ・クーデター
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チリ・クーデター(スペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生した軍事クーデターのこと。世界で初めて社会主義政権(アジェンデ大統領の人民連合政権)が、自由選挙によって民主的に選出されたにもかかわらず、武力で打倒して新自由主義的な経済政策を押し付けるべく、米国政府、米国多国籍企業、シカゴ学派経済学者がチリ軍部を裏で操った。
概要[編集]

ラテンアメリカで左派ナショナリズムが勢いづいていた[1]1970年(東西冷戦はデタントの時代に入っていた)、サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。これは自由選挙を通じてマルクス主義政権[1]が樹立された史上初の事例として、世界中から注目を浴びた。
しかし、当時チリに進出していた米国多国籍企業がアジェンデ政権の社会主義的な政策に反発し、アジェンデ政権を打倒するよう米国政府に圧力をかけた[1]。米国政府はチリにおいて各種の秘密工作を実施[1]して軍事クーデターの下地を作ってチリ軍部を反アジェンデの方向に向かわせた。一方少数与党の人民連合からは左翼蜂起未遂事件が発覚、1973年9月18日が蜂起の予定日であることを海軍水兵への取り調べからわかった。左翼蜂起未遂事件に関して、海軍は激怒し、その思想的リーダーである、カルロス・アルタミラーノ上院議員資格停止を最高裁に申し立て、その判決は9月11日であった。1973年9月11日にアウグスト・ピノチェト陸軍大将兼総司令官らが率いる軍部が軍事クーデターを決行。アジェンデは拳銃自殺を遂げ、軍事独裁体制のもとで新自由主義的な経済政策をチリに押し付ける条件が整った。結果的に、ピノチェトを議長とした軍事政府評議会による軍事独裁政治が以後16年間にわたって続くこととなる。
なお一般に「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。
クーデターまでのいきさつ[編集]
1970年選挙[編集]
候補者 | 得票数 | % |
---|---|---|
アジェンデ | 1,070,334 | 36.30% |
アレッサンドリ | 1,031,051 | 34.98% |
トミッチ | 821,000 | 27.84% |
総計 | 2,922,385 |
1970年に行われた大統領選挙では、人民連合は社会主義者・マルクス主義者として知られるアジェンデ、国民党は元大統領のホルヘ・アレッサンドリ、キリスト教民主党はラドミロ・トミッチをそれぞれ擁立した。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われた。
ラテンアメリカにおける脱米国依存のナショナリズムの拡大を懸念した[1]ITTやペプシコその他米国実業界はこの動きに危機感を抱き、アジェンデの大統領就任を阻止するようキッシンジャーおよびニクソンその他の米国政府高官たちに働きかけた[1]。そして決選投票の38日前に当たる9月15日、ニクソン大統領はCIAに対し、どのような手段を使ってでもアジェンデの就任を阻止するよう命じた[1]。当時のチリ軍部はアジェンデの大統領就任を静かに受け入れていた[1]ので、CIAは、議会での決選投票における票の買収と軍事クーデターという2本柱の作戦を立てた[1]。チリ駐在米国大使はチリの現職大統領に次のように言って脅しをかけた。「アジェンデ政権下では、ナットもボルトも一つとしてチリに入るのを許さない。あらゆる手段を使ってチリとチリ人を最低の貧困状態に陥れてやる」[1]。
CIAはアジェンデを鬼として描くプロパガンダを展開した。記者たちに金銭を渡してCIA製の記事を新聞や雑誌に掲載させた。ラジオ番組では迫真の演技も行われた。番組の途中で銃声に続いて女性の悲鳴、「息子がマルクス主義者にやられた」との叫び、など。
CIAのサンティアゴ支局長はチリの狂信的右翼の退役軍人ロベルト・ビオーと接触した。そして彼が決起した場合にどうなるかを予測し、その場合にはチリで「大虐殺が長引いて内戦になるだろう」とCIA本部に伝えていた。この点についてチリ国家警察隊の高官から問われた彼は、「米国政府は気にしない。結果としての混沌がアジェンデ大統領を阻むのなら」と告げた[1]。
しかし、陸軍総司令官のレネ・シュナイダー将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、米国の陰謀にとって邪魔者となり得る人物であった。そんなシュナイダーは、決選投票直前の10月22日に陸軍司令部へ登庁の際、何者かによって襲撃されて重傷を負い、25日に死亡した[1]。すでに陸軍を退役させられていたロベルト・ビオー将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票で当時は中道左派政党であったキリスト教民主党も議会制度、裁判所制度を継続させる条件をつけ人民連合を支持(同党の議員74名全員がアジェンデに投票した[1])、アジェンデ大統領が誕生した。
アジェンデ大統領の任期中[編集]


米国政府はさっそくアジェンデ打倒の作戦に着手した。まず手始めに行ったのが対チリ金融封鎖だった。チリの経済を混乱させ、社会不安を煽り、それによってチリ軍部が反政府で蜂起する口実を作るのが目的だった。米国政府の直接の支配下にある米国輸出入銀行と米国国際開発庁は即座に対チリ融資を停止した。米国が牛耳る国際金融機関である世界銀行と米州開発銀行に対しても、対チリ融資を停止させた[1]。またニクソン大統領はヨーロッパ諸国に対しても、対チリ融資を控えるよう圧力をかけた[1]。当時のチリは、前政権から引き継いだ債務が10億ドルにのぼり[1]、また、チリの産業も伝統的に米国からの融資に依存していたため、この金融封鎖がチリ経済に与えた打撃は大きかった[1]。しかし、ヨーロッパ、日本などとの貿易は問題なく行われた。ただ、ヨーロッパ企業の国有化が続き、各国政府の大使から抗議を受けることになる。
金融封鎖と並行して、米国政府はチリ軍部に対しては法外な支援を提供した。資金面での支援だけでなく、技術面での支援も惜しげ無く提供し、軍事顧問団も派遣した[1]。1971年の段階では、チリ軍部内の反アジェンデ派はごく少数だった[1]。
こうした外国からの妨害がありながらも、政権交代後しばらくは経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に(14.2%増[1])支持を伸ばした。しかし議席数ではキリスト教民主党、国民党の右翼連合に勝てず、アジェンデが提出した議案はことごとく国会で否決、それに対してアジェンデは拒否権の乱発と、チリの政治は混迷していった。アジェンデ政権成立の時には、中道左派のキリスト教民主党と右派の国民党は対立していたが、1971年のバルパライソ補欠選挙の時から、キリスト教民主党と国民党は共同歩調を取ることになる。キリスト教民主党の中には、右翼の国民党と連立を組むことを嫌い、人民連合側に鞍替えするものも現れた。結果として、キリスト教民主党、国民党の結束は強まり、その後の補欠選挙では接戦になった。この時も人民連合は上院下院とも過半数を得ることができず、政治混乱が継続した。CIAが右翼勢力に対する公然非公然の支援を強めるようになったり、政情が不安定化した。
とりわけ効力を発揮したのが、CIAの資金援助もあったデモ(物資不足、行列を作らないとスーパーで買物もできない。ガソリンも1回20リットルまでの厳しい配給制、牛肉の販売を金曜土曜のみとする制限強化による、婦人を中心とした「鍋たたき運動」)(1971年12月「からなべデモ」)と、CIAがトラック所有者組合に報酬(支援が行われたのは公然の秘密だが、報酬の支払いに関しては議論が分かれている)を支払って敢行させた長期ストライキ(1972年10月と1973年7月)だった。前者は、物不足を不満とする中間層の婦人連が自発的に行った、チリの「すべての」婦人がアジェンデに反対しているような印象を与えることを狙ったものだった。チリの運輸当局がトラック事業を国有化することに対して、全国約4万の零細トラック事業者が生活圏侵害として、ストライキを決行し、チリ経済に大きな打撃を与えた[1]。
それに先立つ1971年7月、チリ国会は銅山国有化の憲法修正案を全会一致で採択した。この憲法修正は「公正なる補償」を原則としており、接収対象の銅会社(当時チリの銅山を支配していた米国のケネコット社およびアナコンダ社)に対する補償額(資産価値)から過去の超過利潤額を差し引くことを可能としていた。そのため、結果的に補償額よりも控除額の方が大きくなり、ケネコット社およびアナコンダ社に対する補償額はゼロではなく、7億5千万ドルの請求を行った、無償接収どころか、更に7億5千万ドルの請求を行い、アメリカの態度を硬化させた。チリの会計検査院もこの措置を支持し、補償は不要との決定を下した[1]。
しかし米国のニクソン大統領はチリにおける接収の前例がラテンアメリカの他の国々に波及することを恐れ[1]、以前にも増して対チリ金融封鎖を強化した。このニクソン政権による対チリ金融封鎖政策は米国内でも議論の的となり、とりわけ金融封鎖に批判的だったエドワード・ケネディ上院議員は次のように主張した。「社会正義と政治的自由を積極的に追求している国には、我が国からどんどん二国間援助を提供すべきです」と[1]。
ニクソン政権による対チリ報復措置は金融封鎖だけにとどまらず、国営化されたチリの銅産業を妨害するまでになった。まずは米国内のチリ政府の口座を凍結させた[1]。これによりチリは米国に銅を販売することができなくなった。さらに米国政府はケネコット社と共謀し、ヨーロッパに輸出されるはずのチリの銅を差し押さえるようヨーロッパ諸国の司法当局に要請した[1]。それだけでなく米国政府は、銅の生産に用いられる機械類の部品をチリに供給しないよう圧力をかけることによって銅の生産そのものを妨害する作戦に出た[1]。さらには、米国内に保有していた銅備蓄を放出することによって銅の国際価値を低下させるという工作も行った。こうして、輸出収入の80%を銅に依存していたチリは大きな打撃を被った。ただ、日本やヨーロッパとの貿易は問題なく行われていた。
こうした事態に直面したアジェンデは、銅の接収の問題を国際仲裁によって解決することを提案した。ところがニクソン政権は、1914年の二国間条約を持ち出すことによってアジェンデの提案を拒否した。その条約には「一方もしくは両方の国の自主、名誉あるいは重要な利益を害するおそれのある問題(中略)は、どのような仲裁も受けない」と記されているから、というのがその理由だった[1]。
政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものであり、それが結果的にインフレと物不足を引き起こした、とする説は過去には聞かれた。とはいえ、アジェンデ政権が成立した当時のチリでは人口の30%が栄養不良の状態に放置され、医療も受けられない状態ではあった。また、銅山の国有化はチリ国会では否決された。しかし政権側、アジェンデはとりわけ急進左派連合の調整に手間取り、無償接収の上に7億5千万ドルの要求も行った。アジェンデ与党が穏健な共産党、急進な社会党、急進な人民統一行動党と複雑であったこと。また、これらの政党が上院下院とも少数与党であった。一方、野党のキリスト教民主党、国民党は、過半数を占めていたものの、3分の2の議席をもっておらず、大統領の弾劾決議はできなかった。アジェンデは、自らの与党の調整に手間取り、本人が大統領の政治基盤を高めるための、国民投票を行うことを、与党内で提案しているが、急進左派である、人民統一行動党の反対によって行うことができず、アジェンデの政権運営は不安定なものになった。さらに、国営化の範囲も社会保障の内容も1970年選挙の人民連合の綱領に明確に謳われており、チリ国民の信を得ていた。アジェンデ政権時代、政権与党は上下両院とも過半数は得ることは全くなかった。常に少数与党で政権運営が不安定であった。フレイ政権時代、農林大臣が急進的すぎる、と、フレイが罷免したチョンチョルを農林大臣に任命し、極端な国営農場化を行い、小麦生産を3分の一まで減らした、また、トラック所有者組合は、自主的な運営である4万を超える零細業者の集合体で有ったが、それを画一的な輸送公団にしようとして、トラック所有者組合の強烈な反発を受けた。米国による金融封鎖および銅産業に対する妨害に起因する外貨不足にあったとする説が現在では圧倒的に優勢である。この時、アジェンデは、金融封鎖に対抗し、西ヨーロッパ諸国や日本などへ、自動車組み立て工場の誘致などを行っている。更にソ連を訪問し資金援助を乞うたが、ソ連の資金援助は微々たるものであった。からなべデモやトラック所有者ストも含め、米国のリチャード・ニクソン政権が資金供給は行ったが、中間層の反発が主たる原因である。こうして、与党内調整に手間取りアジェンデ政権末期には600%の、チリ歴史上最大のインフレを経験することになった。
しかしそれにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持は過半数は得られないものの低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票(7%増)で議席を増加させた(10議席増)。政権の座について2年以上を経過してから現職勢力が獲得した票の伸び率としては「前代未聞」(ただし、当選時の支持率はあくまで36%と歴史的に見て低い数字である)と言われた[1]。ただし、あくまで上下両院では、与党連合は過半数を得ておらず、少数与党のままであった。少数与党、特に社会党、人民統一行動党はプロレタリアート独裁を目指し、東欧から多くの武器を調達し、政権末期には、カラビネーロ(国家警察)が武器摘発に躍起になっていた。この選挙をきっかけに、CIA職員は1973年4月、次のように論じた。「我々の理解しているところでは、今後6か月から1年の間に軍事クーデターを引き起こすことを狙った政策では、政治的緊張を高めることと、経済的な苦難をより深刻なものにすることに努めるべきです。特に、国民の絶望という感覚が軍を動かすためにも、下層階級の間での経済的苦難が必要です。政治的野党、特にキリスト教民主党が計画している大衆運動に対する資金援助は、この絶望という感覚を打ち消してしまい、経済を救う結果につながる可能性があります」[1]。
とはいえ、対チリ秘密工作を統括していた国家安全保障問題担当大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーは野党に対する資金援助も続けた。とりわけ、チリの最大野党であったキリスト教民主党の右派(フレイ派)には莫大な資金を投入していた(党の指導部に資金を渡したのではなく、右派の個々のメンバーに直接渡した[1])。その結果、1970年の大統領選挙当時は左派が支配権を掌握していた同党は右派が支配するようになり(数の上では左派の方が多数派だった[1])、アジェンデとの協力を拒否して軍事クーデターを支持するようになった。同党右派は、クーデター後に軍は自分たちに権力を譲るものと信じていたからだ[1]。そしてキリスト教民主党は1973年8月22日、アジェンデ政権を違憲とする決議案を下院で可決させた。これによりチリ軍部はクーデターの正当性を得ることになった。
1973年6月29日には軍の一部が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した(戦車クーデター)。これは、軍人の釈放問題であり、直接の軍事クーデターではない。1973年8月8日、海軍内で水兵階層に浸透した左派過激派による武装蜂起未遂事件が発生、100人以上の逮捕者が出た。海軍は社会党書記長アルタミラーノの議員資格停止要求をし、最高裁判所に申し立て、その判決は9月11日に出されることになった。この海軍内の左派武装蜂起に関連して、同日、バルパライソで左派武装派と海軍が衝突をする。社会党所属であるアジェンデに対して、彼が既に党内調整力すら失ったことから、海軍と、アジェンデ政権の対立が深刻化した。2度めのトラック所有者スト解決のため、アジェンデは8月9日に内閣改造を行い、空軍司令官セザール・ルイスを運輸大臣に任命した。空軍司令官兼運輸大臣となったセザールルイスはスト調停を図ったが、トラック所有者組合と国(少数与党人民連合との主張)の双方の隔たりが大きすぎると運輸大臣の職責のみを辞任した。その辞任に対して、アジェンデは辞任の意思もないセザール・ルイスの空軍司令官としての地位も解任した。これによって、空軍と政権の間には決定的な亀裂が発生した。アジェンデは、「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったが、トラック所有者組合ストを人民連合側有利に調停したカルロス・プラッツ陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任に追い込まれた。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった(8月24日就任)。ピノチェトはプラッツの推薦により陸軍総司令官に選任された。この段階では、アジェンデもプラッツもピノチェトを信頼していた[1]。
この時期にいたっても、チリ国民の間におけるアジェンデ人気は半数以下ではあるが衰えていなかった。9月4日の人民連合3周年記念集会には約100万人のチリ労働者階級(労働者向け物資配給価格調整委員会JAP、から配給が受けられる階層が中心だったと言われている)国民が集結し、アジェンデ支持のデモ行進を行った。それは、チリ史上最多の参加者を集めたデモだった[1]。翌9月5日には、アジェンデ辞任要求デモに約15万人参加した(JAPの配給を受けられなかった人たちが中心であったと言われている)。クーデターを起こせば抵抗活動が起きると考え、徹底した弾圧が必要との認識を再確認した。
クーデターの足音が迫る中、アジェンデは最後の手段に訴えようとした。国民投票を実施して自身の政権の信任を問うことを考えた(と言われているが、後述の様に結果として拒否している)。
9月7日国民投票による事態打開を求める海軍第一管区司令長官ホセ・トリビオ・メリノ大将によるアジェンデに対する6時間の説得にもかかわらず、社会党強硬派の反対もあり、国民投票の申し入れは物別れに終わった。少なくとも9月7日の時点での、6時間に渡る国民投票の申し出をアジェンデは拒否している。
彼は9月9日の昼、「近く国民投票の実施を発表する」とピノチェトに告げた(この時点でもアジェンデはピノチェトを信頼していた)。それを聞いたピノチェトは同日中に他のクーデター首謀者らと会談し、クーデター決行の予定日を当初の14日から11日に早めた。
そして10日、アジェンデは共産党との間で国民投票合意を取り付け、キリスト教民主党とも国民投票の話し合いのテーブルに付くことに合意した。ただし、社会党とは、国民投票に関して何もできなかった。出身与党の社会党の合意が無い空手形であるが11日に国民投票実施を発表すると決定した[1]。ところが11日の早朝、クーデターが勃発した。
クーデター[編集]

1973年9月11日早朝、陸海空三軍のトップと当時カラビネーロス(国家憲兵)のナンバー2であったセサル・メンドーサ=ドゥラン将軍がクーデターを起こした。当時の軍部はチリ社会の階層を反映しており、下層は親アジェンデだったが上層部は反アジェンデであり、下層の者は家族の生活のためにも上層部に抵抗できなかった[1]。またチリ軍部はケネディ政権の時代から米国政府から支援を受けていたため、アジェンデとしても武力で抗うことは最初から選択肢になかった[1]。実際、彼はクーデターの最中に6度も国民に向けてラジオ演説を行ったが、その中で「武器をとれ」とは呼びかけなかったが、「労働者の諸君にモネダ宮殿に集まれ」、と呼びかけた。後日談になるが、モネダ宮殿を検分したチリ陸軍兵站部は1000人以上武装できる武器が隠されていることを発見した。また、クーデターが近づく中、カストロがアジェンデに対して兵器の提供を提案したが、その兵器の内、モネダ宮殿に貯蔵されていたものは利用されなかった。しかし、市中には急進的な社会党、人民統一行動党の拠点に東欧製(一部はベルギー、アルゼンチン製)武器が出まわり、カラビネーロは摘発に大わらわであった。アジェンデは、労働者を人間の盾にする、もしくは武装蜂起を示唆した発言も行っている。結局、アジェンデ本人と大統領護衛団および国家警察隊の忠誠派だけが大統領官邸を守ることになった。国家警察隊のトップはアジェンデの側についていたが、クーデターの直前に組織内クーデターにより、序列6以下の者がカラビネーロの指揮を取ることになった。これは、容易にクーデターに参加した、空軍海軍と異なり、カラビネーロの革命参加に手間取っていることを示すものであった。クーデターはバルパライソで午前4時、他の地域で午前6時に決起された。バルパライソ決起を知ったアジェンデはトマスモロの私邸を出てモネダ宮殿に向かった。この時点では、空軍と海軍の反乱の情報以外、正確な情報は無かった。アジェンデに伝わった第一報は、海軍による反乱にて、バルパライソが占領されたことで有った。
アジェンデ大統領は、トマスモロの私邸から、警護部隊、武装した兵を載せたトラック2台、その他装甲車2台で、モネダ宮殿に向かった。陸海空軍および国家警察は、ラジオ、拡声器で、大統領に対し投降を呼びかけ、脱出用の飛行機を用意すると複数回にわたって告げた。午前8時30分頃、陸海空軍および国家警察は、ラジオ放送、ならびに拡声器で直接モネダ宮殿に対し、アジェンデに降伏勧告を行うと伴に新政権誕生の旨の放送も行った。しかしアジェンデは辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否した。午前11頃、陸海空軍および国家警察は、婦女子ならびに投降の意思があるものはモネダ宮殿から脱出する様に命じ、十数名が、陸軍、国家警察に投降した。その後、正午ごろ、モネダ宮殿に対し4機のホーカー ハンター戦闘機によるロケット攻撃が行われ、その後陸軍が突入し、およそ2時間の白兵戦の後、炎上するモネダ宮殿内で、自ら自動小銃(カストロから贈られたもの[1])AK-47改造型を握って自殺した。アジェンデが正確に自殺したことを特定したのは2011年で有った。その死因は概ね顎から頭に向けて銃弾が2発発射されたもので有った(自動小銃を膝に抱えて銃弾2発を発射した[1])。
ちなみに、ホーカーハンターから発射されたロケット弾は概ね大統領官邸モネダ宮の居室に命中しているが、居室以外に着弾したものも見られた。この時、別の2機のホーカーハンター機がトマス・モロのアジェンデの私邸を攻撃しているが、1発は空軍病院を誤爆し、からかいの対象となった。
15時30分頃、ラジオ放送で、アジェンデ政権側の無条件降伏およびアジェンデの死亡が伝えられた。その時軍部はクーデターの証として、チリ国旗掲揚の要請を行った。多くの中産階級、上流階級の建物から、チリ国旗が掲揚された。その後22時に、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリーノ(José Toribio Merino)、空軍のグスタボ・レイ(Gustavo Leigh)、国家警察隊のセサル・メンドーサ・ドゥラン(César Mendoza Durán)を構成員とする軍政評議会の発足、ならびに政治不介入の原則に反した行動の根拠をチリ国民対し、テレビ・ラジオで説明が行われた。当初、この4名は同等の立場に立つメンバーで、評議会の委員長は持ち回りとされていた。が、最年長ということで初代の委員長にはピノチェトが就任した[1]。そのピノチェトは、陸軍のトップかつ軍事評議会の委員長という二重の役割を利用することで次第に権力を自分に集中していった。同時に、クーデター直後からチリ全土を恐怖に陥れた秘密警察DINA(チリ国家情報局)を自らの直属の組織として創設することで、自分に敵対する者たちを脅すことができた[1]。こうして徐々に独裁体制を固めていくピノチェトを見た空軍のレイ将軍は「海軍の反乱、その後の空軍の反乱、そして陸軍の反乱と、クーデターに加わるのが遅かったにもかかわらず全権を掌握しているかのように振る舞っている」としてピノチェトを批判したが、クーデター発生から5年後の1978年に軍事評議会から追放された[1]。
左翼狩り[編集]
9月11日午前6時、チリ陸海空軍および国家警察は、チリ国内の左翼活動拠点を一斉摘発した。工科大学に左翼集団が有り、チリ軍は武器の放棄と抵抗の停止を求めたが、工科大学側から発砲、銃撃戦となり、チリ軍、左翼集団双方に死傷者が出た。このような戦闘行為はサンチャゴにおいては概ね9月13日には鎮圧されたが、地方部では戦闘が数ヶ月におよぶところもあった。サンチャゴ市内をはじめ、チリ全土に非常線が張られ、チリ軍が張った非常線では武装した人民連合の摘発、人民連合が張った非常線では、右翼の射殺などが行われた。サンチャゴ市内の戦闘と伴にチリ軍部は「左翼狩り」を行い、武器を持った人民連合の関係者や労働組合員、市民や活動家が逮捕・拘束・殺害され、その中には人気のあったフォルクローレ歌手ビクトル・ハラもいた。彼が殺されたサンティアゴの室内競技場エスタディオ・チレには、他にも多くの左派市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。また、左翼系の書籍や雑誌はことごとく没収され、公衆の面前で焚書された。ビクトル・ハラの音楽のマスターテープも破棄された。穏健派であった共産党員の殺害も見られた、一方、急進左派の社会党員は、アルゼンチン経由、もしくはメキシコ経由で亡命し、政治活動を継続したものも大勢いる。
前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、クーデターの直後に兵士が自宅に押し入り、家を荒らされた上に蔵書も破棄される狼藉に遭った。9月24日に危篤状態となって病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて無理やり取り調べを受け、そのまま病院到着直後に亡くなった。
またクーデターにより多くの左派市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、翌年1974年9月にピノチェトの創設した秘密警察「DINA」の仕掛けたとされる車爆弾によって妻とともに暗殺された。ただし、この当時のアルゼンチンは汚い戦争の最中であり、多くの左派系人物が暗殺、行方不明となっている。プラッツは人民連合よりのスト調停を行い、右派からは反発を受けていた。またアジェンデ政権末期には軍部と連携して打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後に非合法化され、1975年10月には、党の前大統領エドゥアルド・フレイ・モンタルバの下で副大統領を務めていたベルナルド・レイトンが、亡命先のイタリアで妻と共に襲撃され重傷を負った。
これら一連の非公然のテロ活動は、DINA単独によるものではなく、ブラジルやアルゼンチン、ボリビア、パラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権と秘密裏に連携し、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していった、所謂コンドル作戦の一環だったことが今日では知られている。
海外の反応[編集]
クーデターを主導したニクソン政権は、クーデターが成功すると、自分たちの役割を小さく見せることを目論んだ。9月16日、ニクソンとキッシンジャーは電話で次のような会話を交わした。キッシンジャーが「祝杯でもあげてもらいたいところですが。アイゼンハワーの時代なら我々はヒーローですよ」と不平をもらすと、ニクソンは録音されていることを意識して「だがな、俺たちがやったんじゃないぜ。君も知ってのとおりだ。今回の件では、俺たちは日陰者だ」と返した[1]。結局米国政府は、ピノチェトのチリを即座に承認することは避け、9月24日に静かに承認した。世界で11番目だった。ちなみに、この承認を遅らせるという作戦を提案したのはピノチェトの側である[1]。自分の政権が米国にとって厄介な問題になるとピノチェトが認識していた証拠との説が有力である。
それよりも早く、クーデターの翌々日(13日)に、米国はピノチェト政権を歓迎する旨の公電がホワイトハウスからサンティアゴへ打たれた[1]。その公電では「軍事政権を支援したい、協力したい」としている[1]。
米国政府は経済面でもピノチェト軍事政権を支援した。米国農務省は10月と11月にそれぞれ2400万ドルを供与した。米国国際開発庁は3年間で1億3200万ドルを提供した。米国が牛耳る国際金融機関も対チリ信用供与を再開した[1]。
ピノチェトの側も、抑圧のための装備品も含めて大量の兵器類を米国に注文し、米国もそれを歓迎した。その結果、チリは米国軍需品の輸入国として世界で第5位の地位についた[1]。
プロパガンダの面でも米国政府はピノチェトを支援した。その多くは、ピノチェト政権の国際的イメージアップを狙ったもので、チリのキリスト教民主党の著名な議員たちがラテンアメリカとヨーロッパを回ってクーデターを正当なものとして説明するというツアーの資金を提供した[1]。
ピノチェトの権力の源泉でありチリ全土を恐怖に陥れた秘密警察DINAも、CIAと密接な関係にあった。DINA創設時には、組織化と訓練の面でCIAが協力した[1]。DINA内部にCIA工作員を配置することをCIA副長官が提案したこともある[1]。さらにDINA長官のマヌエル・コントレラスはCIAから報酬を受け取っていた。それは、CIAが進める工作でDINAの協力が必要だったから、とのことだ[1]。
1976年9月、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあったオルランド・レテリエルが滞在先のワシントンD.C.でDINAによる車爆弾で暗殺された。レテリエルは、その一か月ほど前に、ピノチェト軍事政権による人権侵害と同政権による新自由主義的経済政策は表裏一体の関係にあるとする批判記事を『ネイション』誌で発表したばかりだった[1]。この事件は、よりによって米国の首都でのテロ行為であったため、当時の大統領ジミー・カーターが態度を硬化させ、一時ピノチェト政権との関係が悪化した。
1977年3月8日、アメリカは国連人権委員会でアジェンデ政権転覆に介入していたことを認め遺憾の意を表明。「どれほど遺憾の意を表明したところでチリ国民が二年間経験した苦しみと恐怖の緩和には役に立たないだろう」として、ピノチェト政権の暴走ぶりを非難した[2]。とはいえ、この発言はあくまでも国務省の一職員による個人的な見解にすぎなかった。国務省とホワイトハウスは即座にこれを撤回。発言者は召還された[1]。
その後関係はある程度回復したが元の状態にまでは戻らず、アメリカ政府内にはピノチェトに対する不信感が残った。そして、米国の合法的居住者だった19歳のチリ人カメラマンが生きたまま火をつけられるという事件[1]が米国でも報道されると、米国政府もピノチェトから距離を置くようになり、スポンサーを失ったピノチェトは1990年に大統領を辞任する。レテリエル暗殺がその遠因ともなっていたとする説もある。
日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共主義を理由にクーデターを支持した。とりわけ民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。ピノチェトは、クーデター後すぐにキューバとの国交を断絶。ソ連、北朝鮮、ベトナム、ドイツ民主共和国、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ユーゴスラビアなどの社会主義国側も対抗して次々と断交に踏み切った。当時西側諸国に接近していたルーマニア人民共和国と中華人民共和国だけ国交を継続した[3]。
混乱と崩壊[編集]
国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時にシカゴ学派の新自由主義経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を公表しなかった。
ピノチェトの独裁政権は1989年に民政移管し、コンセルタシオン・デモクラシアからキリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィンが19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として影響力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。なお2005年9月にチリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、2005年10月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられたが、結局彼自身が裁かれることはなく2006年に死去した。
チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品[編集]
小説[編集]
- ラテンアメリカ
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- イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』木村榮一訳、国書刊行会 1989年/河出文庫(上・下) 2018年 ※下記の映画『愛と精霊の家』の原作
- ガブリエル・ガルシア=マルケス『戒厳令下チリ潜入記~ある映画監督の冒険』後藤政子訳、岩波新書 1986年
- アントニオ・スカルメタ『イル・ポスティーノ』鈴木玲子訳、徳間文庫 1985年 ※同名映画の原作。映画版はイタリアに舞台を移し、時代もパブロ・ネルーダの亡命時代に設定している。
アメリカ合衆国
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- トーマス・ハウザー『ミッシング』古藤晃訳、ダイナミック・セラーズ 1982年 ※下記映画の原作
映画[編集]
- 「サンチャゴに雨が降る」(1975年、フランス・ブルガリア合作、エルビオ・ソト監督、出演:ジャン=ルイ・トランティニャン他、音楽:アストル・ピアソラ)
- 「戒厳令の夜」(1980年、日本作品、山下耕作監督、出演:伊藤孝雄、樋口可南子他、音楽:ジョー山中)
- 「ミッシング」(1982年、アメリカ作品、C.コスタ・ガヴラス監督、出演:ジャック・レモン、シシー・スペイセク他、音楽:ヴァンゲリス)
- 「愛と精霊の家」(1993年、ドイツ・デンマーク・ポルトガル合作、ビレ・アウグスト監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェレミー・アイアンズ、メリル・ストリープ、グレン・クローズ、アントニオ・バンデラス他)
- 「愛の奴隷」(1994年、アメリカ・スペイン・アルゼンチン合作、ベティ・カプラン監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェニファー・コネリー、アントニオ・バンデラス他)
- 「死と処女」(1995年、アメリカ作品、ロマン・ポランスキー監督、アリエル・ドーフマン原作、出演:シガニー・ウィーバー、ベン・キングズレー、スチュアート・ウィルソン)
- 「11'09''01/セプテンバー11」第6話(2002年、イギリス、ケン・ローチ監督、出演:ウラジミール・ヴェガ)
- 「マチュカ〜僕らと革命〜」(2004年、チリ=スペイン=イギリス=フランス、アンドレス・ウッド監督、出演:マティアス・ケール、アリエル・マテルーナ、マヌエラ・マルテリィ、アリーン・クッペンハイム他)
- 「ぜんぶ、フィデルのせい」(2006年、フランス、ジュリー・ガブラス監督、出演:ニナ・ケルヴェル、ジュリー・ドパルデュー、ステファノ・アコルシ、バンジャマン・フイエ他) - 1970年代フランスのブルジョワ知識人家庭が、アジェンデ政権の発足やフランコ政権のファシスト的状態に影響を受け、奮闘する様をブルジョワ生活に未練を抱く娘の視点から、アジェンデ政権崩壊までの時期を通して描く。
- 「コロニア」(2015年、ドイツ、フランス、ルクセンブルク、フローリアン・ガレンベルガー監督、出演:エマ・ワトソン、ダニエル・ブリュール、ミカエル・ニクヴィスト) - ピノチェト独裁政権下でナチスの残党パウル・シェーファーと結びついた拷問施設「コロニア・ディグニダ」(尊厳のコロニー、後のビジャ・バビエラ)の実態を描いた。
- ドキュメンタリー映画
- 「チリの闘い」(チリ=フランス=キューバ、パトリシオ・グスマン監督)第1部 ブルジョアジーの叛乱(1975年)第2部 クーデター(1976年)第3部 民衆の力(1978年)
- 「戒厳令下チリ潜入記」(原題:Acta General de Chile)(1986年、スペイン作品、ミゲル・リティン監督)
- 「光のノスタルジア」(2010年、フランス=ドイツ=チリ、パトリシオ・グスマン監督)
- 「真珠のボタン」(2015年、フランス=チリ=スペイン、パトリシオ・グスマン監督)
音楽[編集]
- キラパジュン El pueblo unido jamas sera vencido(邦題「不屈の民」)他多数
- インティ・イリマニ Canto a los caidos(倒れたものに捧げる歌)ほか多数
- シルビオ・ロドリゲス Santiago de Chile(「Días y flores」収録)ほか
- スティング「孤独なダンス」They Dance Alone(1987年のLP『ナッシング・ライク・ザ・サン』に収録)
- フレデリック・ジェフスキー 「不屈の民」変奏曲
など
その他[編集]
- 『MASTERキートン』 - 第24話「14階段」にてピノチェト政権下のチリを扱っている。
- 『プリンプリン物語』 - 劇中に登場する独裁国家「アクタ共和国」の国名は軍事政権下のチリと「塵芥」をかけたものとされる。
- 『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』 - 冒頭で民主選挙で選ばれた大統領が軍部のクーデターに遭遇し、大統領府に籠城して最後の抵抗を試みようとするくだりが描かれており、チリ・クーデターを意識した展開となっている。
- 『ゴルゴ13 33+G』 - チリのコピアポ鉱山落盤事故に巻き込まれたデューク東郷が大統領暗殺の犯行は自身によるものだと回想するシーンがある。
脚註[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd 『アメリカのチリ・クーデター』. Amazon Services International. (2019)
- ^ アジェンデ政権転覆 米の介入を認める 国際人権委で遺憾表明『朝日新聞』1977年(昭和52年)4月24日朝刊、13版、23面
- ^ Valenzuela, Julio Samuel; Valenzuela, Arturo (1986). Military Rule in Chile: Dictatorship and Oppositions. Johns Hopkins University Press. p. 316.
参考文献[編集]
- 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II アンデス・ラプラタ地域』山川出版社、1985年。
- 増田義郎編『新版各国史26 ラテンアメリカ史II 南アメリカ』山川出版社、2000年。
- ロバート・モス/上智大学イベロ・アメリカ研究所訳『アジェンデの実験』時事通信社、1974年。
- 朝日新聞社編『沈黙作戦 チリ・クーデターの内幕』朝日新聞社、1975年。
- ホアン・E・ガルセス/後藤政子訳『アジェンデと人民連合 チリの経験の再検討』時事通信社、1979年。
- アウグスト・ピノチェト/G.ポンセ訳『チリの決断』サンケイ出版、1982年。
- J.L.アンダーソン、S.アンダーソン/山川暁夫監修、近藤和子訳『インサイド・ザ・リーグ 世界を覆うテロ・ネットワーク』社会思想社、1987年。
- 伊藤千尋『燃える中南米』岩波新書、1988年。
- 高橋正明(文)、小松健一(写真)『チリ 嵐にざわめく民衆の木よ』大月書店、1990年。
- 安藤慶一『アメリカのチリ・クーデター』Amazon Services International、2019年。
関連項目[編集]
- アウグスト・ピノチェト
- ヘンリー・キッシンジャー
- ビクトル・ハラ
- 開発独裁
- アメリカナイゼーション
- 内政干渉
- 白色テロ
- アメリカ同時多発テロ事件(2001年の「9・11」)
外部リンク[編集]
- Chile Documentation Project: 公開されたアメリカの外交文書