塚本三郎
| 塚本三郎 つかもと さぶろう | |
|---|---|
| 生年月日 | 1927年4月20日(91歳) |
| 出生地 | 愛知県名古屋市 |
| 出身校 | 中央大学法学部 |
| 前職 | 公共企業体日本国有鉄道職員 |
| 所属政党 |
(社会党右派→) (民社党→) 自由民主党 |
| 称号 | 勲一等旭日大綬章 |
| 選挙区 |
(旧愛知2区→) 旧愛知6区 |
| 当選回数 | 10回 |
| 在任期間 |
1958年5月23日 - 1960年10月24日 1967年2月19日 - 1993年6月18日 |
| 在任期間 | 1985年4月23日 - 1989年2月25日 |
塚本 三郎(つかもと さぶろう、1927年(昭和2年)4月20日 - )は日本の政治家。元民社党委員長。元衆議院議員(通算10期)。国家基本問題研究所理事、頑張れ日本!全国行動委員会愛知県本部顧問。
経歴[編集]
愛知県名古屋市出身。旧制明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、中央大学法学部卒業。辞達学会(弁論部)出身。 戦後まもなく運輸省で鉄道員として勤務、国鉄労働組合の結成にも関わり一時期本省への出向も経験した。運輸省退職後は家具製造業を営みつつ日本農民組合中央委員を歴任、1952年の総選挙・1953年の総選挙に無所属で、1955年の総選挙に右派社会党公認で旧愛知2区から出馬するも何れも落選に終わる。
1958年の総選挙で初めて当選を果たした。自民党の竹下登、金丸信、安倍晋太郎などは同期。その後社会党を離党し民主社会党結成に参加するが、同年の総選挙・1963年の総選挙と2度の落選を経験。1967年の総選挙では、新設区である旧愛知6区(旧愛知1区から分割)に鞍替え出馬してようやく返り咲きを果たす。
その後、党副書記長・書記長代行を経て1974年2月、党書記長に昇格し、以後11年務めた。同時期に委員長だった佐々木良作が社会党・公明党との連携を重視する社公民路線の主導者だった一方で、塚本は同じ愛知県選出の春日一幸と共に自民党との連携や保守系(竹下登、金丸信、江崎真澄等とパイプを持つ)支持層の取り込みを重視する自公民路線を主導し、こと愛知県での民社党の地盤を確固なものにした。
1985年4月に民社党委員長に昇格、副委員長に永末英一国対委員長、書記長に大内啓伍政審会長がそれぞれ昇格するも、1986年7月の衆参同日選では大内書記長が落選するなど発足早々党に大きな痛手を負い、さらに1988年から1989年のリクルート事件では自分の秘書がリクルートコスモス(現 コスモスイニシア)の未公開株を譲受されていたことが発覚。佐々木常任顧問から委員長辞任勧告を受け、1989年2月7日に党委員長を辞任し常任顧問に退いた。塚本の後任だった永末英一党委員長が1990年総選挙の不振から辞任した後には、大内啓伍党委員長の就任を後押しする役割を果たした。
1992年の参院選では愛知県選挙区からラジオパーソナリティーとして知名度があった新間正次を党の候補者として擁立するのに中心的な役割を果たし、結果的に議席獲得に成功する。しかし、その新間が学歴詐称から公職選挙法違反で在宅起訴されたことから党の地元組織から離党者を生む事態となり、更に1993年総選挙では自身の選挙区で新生党公認の大谷忠雄に票を食われる格好で落選した。
その後1994年12月に民社党が解党し新進党へ所属議員の多くが参加するものの、支持母体だった霊友会や日蓮宗[1]が反創価学会である意向もあって大内前委員長と共に新進党には参加しなかった。1996年1月に自民党に入党し、同党公認で1996年総選挙に愛知4区から出馬するも新進党の三沢淳に敗れている。
1997年に勲一等旭日大綬章を受章し捲土重来を期すものの、2000年総選挙では保守党に属していた三沢を公明党と一緒に自民党が推薦したことから政界引退。その後はアメリカ合衆国下院121号決議の全面撤回を求める抗議書に賛同者として名を連ねたり、頑張れ日本!全国行動委員会愛知県本部顧問を務めたりしている。
活動[編集]
- 1973年、チリのピノチェトがクーデターを起こし、アジェンデ大統領らを自殺に追い込み政権を掌握した。塚本は民社党の調査団代表としてチリを訪問し、クーデターを「天の声」と賛美した。詳細は「チリ・クーデター#クーデター」および「大内啓伍#チリ・クーデターを支持」を参照
- 1974年に春日一幸が日本共産党スパイ査問事件を『毎日新聞』の取材で取り上げた影響から、2年後の1976年にはこの問題を国会で稲葉修法相に質問して問題提起を行っていた。また、1988年2月6日に浜田幸一が予算委員会の席で委員長として「宮本顕治人殺し」発言を持ち上げた際、民社党の全国幹事長会議の席上でこの事件に触れ、「(浜田の)姿勢と中身には、決して反対ではない」と発言[2]しており、スキャンダルで槍玉に挙げられていた浜田をかばうと同時に、日本共産党への対決姿勢を示す面も見せていた。
- 1988年1月28日、衆議院本会議において竹下登首相の施政方針演説に対する代表質問の中で前年11月の大韓航空機爆破事件、「李恩恵」(田口八重子)及び金賢姫等に言及した。詳細は「大韓航空機爆破事件#事件後の北朝鮮」を参照それとともに1978年7月から8月にかけて福井県(地村保志・濱本富貴惠)・新潟県(蓮池薫・奥土祐木子)・鹿児島県(市川修一・増元るみ子)において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件について国会において初めて「北朝鮮による犯行ではないか」と指摘し、真相究明を求める。この質問は政党代表者が代表質問において初めて北朝鮮による日本人拉致問題について取り上げたものであったが、竹下は明確な答弁を避けた(1980年に公明党の和泉照雄が参議院での質問で拉致問題に連なるアベック失踪事件を取り上げたことがあるが、質疑応答において北朝鮮という国名は出なかった)。
脚注[編集]
- ^ 法華経に支えられた人々 塚本三郎(1930~) - 日蓮宗ポータルサイト
- ^ 『新版 日本をダメにした九人の政治家』講談社+α文庫、1995年、317~318頁。
| 党職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 佐々木良作 |
民社党委員長 第5代 : 1985年 - 1989年 |
次代: 永末英一 |
| 先代: 佐々木良作 |
民社党書記長 第5代:1974年 - 1985年 |
次代: 大内啓伍 |