第一次中東戦争

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第一次中東戦争
(パレスチナ戦争/独立戦争)
Palestine War/War of Independence
Raising the Ink Flag at Umm Rashrash (Eilat).jpg
アカバ湾北岸の街ウム・アル=ラシラシ(現エイラート)において急造の国旗「インクの旗」を掲揚する
アブラハム・アダン大尉。1949年3月10日
戦争中東戦争
年月日:1948年5月15日 - 1949年3月10日
場所:主にパレスチナやイスラエル
結果:イスラエル軍の勝利
交戦勢力
イスラエルの旗 イスラエル エジプトの旗 エジプト
シリアの旗 シリア
イラク王国の旗 イラク
レバノンの旗 レバノン
ヨルダンの旗 トランスヨルダン
Flag of Saudi Arabia (1938 to 1973).svg サウジアラビア
イエメン王国の旗 イエメン
モロッコの旗 モロッコ
エジプトの旗 イギリス・エジプト領スーダン
指導者・指揮官
イスラエルの旗 ベン=グリオン ヨルダンの旗 アブドゥッラー1世
戦力
(開戦時)29,677
(停戦時)117,500
損害
6,373 戦死者[1] 死者
第一次中東戦争
アラブ軍進攻 - エルサレム英語版 - 第1次攻勢 - ガリラヤ地方 - 第2次攻勢

第一次中東戦争(だいいちじちゅうとうせんそう、ヘブライ語: מלחמת העצמאות‎、アラビア語: حرب 1948‎)は、1948年から1949年にかけて行われたアラブ諸国イスラエルとの戦争のこと。パレスチナ戦争ともいう。イスラエル側の呼称は「独立戦争」(ヘブライ語מלחמת העצמאות)で、アラブ側の呼称は「アン・ナクバ(大災害)」(アラビア語 النكبة )である。イスラエルはこの戦争に勝利し、独立国としての地位を固めた。

背景[編集]

第一次世界大戦以降、パレスチナにおいてはパレスチナ人と入植してきたユダヤ人との間で嘆きの壁事件など、散発的な衝突が発生していた。第二次世界大戦中ユダヤ人はイギリスドイツ攻撃のため協力していたものの、大戦終結後にパレスチナにおけるユダヤ人国家建設に前向きでないイギリスに対し、武力闘争を開始する。

国連決議[編集]

1945年後半より、パレスチナにおいてユダヤ人組織のレヒイルグン・ツヴァイ・レウミ、パルマッハによる武力闘争が活発化する。イギリスは陸軍部隊を派遣し、治安維持活動を行うもののなかなか成果は上がらなかった。そこで1946年6月29日にユダヤ人組織の一斉拘禁を行い、3,000名以上を逮捕した。しかしユダヤ人組織イルグンがこれに反撃し、7月22日にイギリス軍司令部があるエルサレムのキング・デービッド・ホテルを爆破する(キング・デービッド・ホテル爆破事件)。これにより司令部要員多数が死亡した。

このためパレスチナ統治に困難を覚えたイギリス政府は、1947年1月にパレスチナ統治問題を国際連合に依頼すると発表した。国連での討議においてアメリカ合衆国ソビエト連邦アラブ人とユダヤ人の分割統治を推したため、11月29日に国連決議181号としてパレスチナ分割決議が決議された。

これはパレスチナをアラブ人地域、ユダヤ人地域、国連統治地域(エルサレム周辺)に三分割するものであった。しかし、この分割案はアラブ人に対して極わずかな人口のユダヤ人に、パレスチナの三分の一以上を与えるというものであったため、アラブ人は一斉に反発した。

決議の翌日より、パレスチナは事実上内戦状態となった。決議に反発したアラブ人による襲撃・焼き討ちなどが行われ、ユダヤ人も同様に反撃した。イギリス軍はもはや治安維持能力が無く、内戦状態は放置された。手に負えなくなったイギリス軍は、1948年5月15日までにパレスチナから撤退することを決定した。

戦争準備[編集]

この内戦状態を見てアラブ側の義勇兵が各国より集まり、1948年2月にアミーン・フサイニーアブドゥル=カーディル・アル=フサイニー英語版などが率いるアラブ救世軍英語版が結成され、ファウズィー・アル=カウクジ英語版率いるアラブ解放軍英語版も結成された。また、結成間もないアラブ連盟の初代事務総長に就任したアブドゥル・ラフマーン・ハサン・アッザーム英語版はユダヤ系の商店やシナゴーグの破壊などの反ユダヤ主義行為を非難する人物で知られたが[2]、この状況について『個人的にこれは排除の戦争となってモンゴルの大殺戮や十字軍の戦争と並び称されるような危険な虐殺の戦いになると思う、ユダヤ人は我々に戦争を強いないでほしい。義勇兵はパレスチナの人口を遥かに超えると私は考えている』と懸念を示し[3]、あくまで自治権を視野に入れた一国家でのアラブ人とユダヤ人の平和的な共存を求めた[4]

ユダヤ人側も民兵組織ハガナーを中心に召集をかけ、また海外在住の従軍経験のあるユダヤ人にも勧誘を行い、7万人ほどを動員した。特に従軍経験のあるユダヤ人の参加は、ユダヤ人側の軍事的能力を大いに高めた。また武器については大戦終結直後の欧州各地より購入したり、詐欺まがいの方法で入手した。中でもイギリス軍から盗み出したM4中戦車およびクロムウェル巡航戦車計6輌は砂漠での戦闘を制するための貴重な機甲戦力となった。

1948年3月頃よりアラブ人部隊はエルサレムを包囲し、ユダヤ人の輸送トラックを襲撃するようになった。このためアラブ人部隊とユダヤ人部隊の衝突は続き、デイル・ヤシーン事件ハダサー医療従事者虐殺事件などの双方による虐殺事件も起きた。特にデイル・ヤシーン事件は当地在住のアラブ人に大きな恐怖感を与え、パレスチナからの脱出・難民の発生が始まった。

戦争推移[編集]

戦争の勃発[編集]

イギリス軍がパレスチナから撤退する1948年5月14日に、ユダヤ国民評議会はテルアビブにおいてイスラエル国の独立宣言を行った。そして、この日、レバノンシリアトランスヨルダンイラクエジプトアラブ連盟5ヶ国はイスラエルに対し戦争を宣言した(後にサウジアラビアイエメンモロッコも部隊を派遣)。アラブ連合軍は翌15日にパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が勃発した。

開戦時のアラブ側兵力は15万人、対してユダヤ人は民兵合計3万人という圧倒的な差であった。アラブ側の主力は、アラブ軍団と呼ばれる精鋭部隊を持つヨルダン軍と、シナイ半島から進撃するエジプト軍である。対してイスラエル側は国連によって武力保持が禁じられていた為、ゲリラ部隊ハガナーチェコスロバキアから密輸(イスラエル=チェコスロバキア武器取引英語版)されていた小銃などで応戦していた。5月18日にヨルダン軍がエルサレムを包囲し、28日には旧市街のユダヤ人防衛部隊が降伏した。

しかし、エルサレム新市街はイスラエルが保持し続け、テルアビブの支持もあり徹底抗戦を行っていた。そこへの補給を巡り、ラトゥルン要塞などで激戦が行われた。結局、要塞はアラブ側が保持したものの、6月にイスラエルは迂回路を設定しエルサレム新市街への補給に成功する。

第一次休戦[編集]

ここで国連が停戦を呼びかける国連決議を可決、双方はこれを受け入れ6月11日より4週間の休戦となった。

この休戦期間中にイスラエル側は部隊の再編成を行った。この時点でのイスラエル武装組織は、主力のハガナーの他にシュテルンやレヒなど複数に分かれており、指揮系統が一本化されていなかった。そのためハガナーを中心にイスラエル国防軍を編成し、全武装組織の指揮系統を一本化することとした。しかし、これにイルグンが反発し、ついには武器輸送船「アルタレナ号」を巡り6月21日よりイスラエル国防軍と戦闘となった。イルグンは国防軍に制圧され、イスラエルは自軍の指揮系統の一本化に成功した。次いでチェコスロバキアからアヴィア S-199第二次世界大戦後にチェコスロバキアで製造されたメッサーシュミットBf109戦闘機を中心とした武器が到着し、さらにM4中戦車もスクラップの名目で世界中から大量に入手・再生し、反攻の準備を整えていった。

一方のアラブ側もアラブ連盟がヨルダンのアブドゥッラー1世に全アラブ軍最高司令官の地位を与えるもヨルダンの影響力を恐れた各国の思惑から指揮系統の統一は成功しなかった[5]

第二次休戦・戦闘再開[編集]

停戦終了の7月9日、イスラエル国防軍はアラブ軍へ反攻を開始、戦闘が再開された。これに対し国連は再び停戦決議を可決、7月18日より第二次休戦が行われた。しかし、この停戦はすぐに小競り合いをきっかけに消滅し、全面的な戦闘が再開された。第一次停戦期間中に再編成を行い軍備を強化したイスラエル軍は強力であり、アラブ側を各地で撃破していった。特に中古の戦闘機によって制空権が確保されたが、パイロットは第二次世界大戦アメリカ軍やイギリス軍の軍人として戦った経験を生かした。

その一方で、9月17日スウェーデン赤十字総裁のフォルケ・ベルナドッテがエルサレムでユダヤ人組織・シュテルンに暗殺される事件があり、国際世論がイスラエルに厳しくなる面もあった。

1948年12月にイスラエル軍は南部ネゲブ砂漠で攻勢に出て一時シナイ半島に侵攻したが、ここでエジプトを影響圏としていたイギリスの警告を受けてそこより撤退した。

停戦協定[編集]

1949年1月から、戦争に疲弊した各国はラルフ・バンチの仲介[6][7]休戦交渉を開始し、2月23日にイスラエルとエジプトの休戦協定が結ばれたのを始めとして、7月までに各国と停戦協定が結ばれた(1949年の休戦協定英語版)。

パレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得したが、停戦時にエジプト軍が保持していたガザ地区はエジプト領になり、ヨルダン軍が保持していたエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区は、12月に部分的なパレスチナ人の賛同とトランスヨルダン議会の決議により、トランスヨルダン領に編入され、国名をヨルダン・ハシミテ王国に変更した。この時に確定した国境線はグリーンライン(en:Green Line (Israel)と呼ばれ、現在もイスラエルとパレスチナとの境界線として国際的に認知されている。

聖地エルサレムは旧市街を含む東部をヨルダン、旧市街を含まない西部をイスラエルが領有して、中間を国連が監視する非武装中立地帯とした。しかし、ユダヤの聖地たる嘆きの壁はヨルダン統治下になった東側の旧市街にあり、嘆きの壁へ巡礼することができなくなった正統派ユダヤ教徒の不満は募った。

地図[編集]

無人化させられた村と町[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 約4,000の軍人と約2,400の民間人。
  2. ^ Beinin, J. (1998). The Dispersion Of Egyptian Jewry. Culture, Politics, And The Formation Of A Modern Diaspora. pp. 64–65. University of California Press. ISBN 0-520-21175-8
  3. ^ British Institute Gutted; Demonstration near Cairo". The Times of India. December 3, 1947. p. 5. Margaret Pope (December 1, 1947). ""Will Fight to Finish," Says League Official". The Scotsman. p. 2.
  4. ^ Palestine Post, 21 May 1948, p. 3.
  5. ^ Efraim Karsh. Kumaraswamy, P. R. (2003). Israel, the Hashemites, and the Palestinians: The Fateful Triangle, p. 28.
  6. ^ Asle Sveen "Ralph Bunche: UN Mediator in the Middle East, 1948–1949". Archived from the original on December 31, 2008.
  7. ^ Benjamin Rivlin, "Vita: Ralph Johnson Bunche: Brief life of a champion of human dignity: 1903–1971", Harvard Magazine, November 2003.

外部リンク[編集]