ピッグス湾事件

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ピッグス湾事件(プラヤ・ヒロン侵攻事件)
BayofPigs.jpg
コチーノス湾(ピッグス湾)の位置
戦争キューバ革命
年月日:1961年4月15日-4月19日
場所:コチーノス湾(キューバ)
結果:キューバ政府の勝利。キューバの社会主義宣言。
交戦勢力
キューバの旗 キューバ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
キューバの旗 亡命キューバ人
指導者・指揮官
キューバの旗 フィデル・カストロ
キューバの旗 ホセ・ラモン・フェルナンデス
キューバの旗 チェ・ゲバラ
アメリカ合衆国の旗 ジョン・F・ケネディ
キューバの旗 ペペ・サン・ロマン
戦力
15,000人 1,511人
損害
戦死 176人 戦死 114人
捕虜 1,189人

ピッグス湾事件(ピッグスわんじけん、スペイン語: Invasión de Bahía de Cochinos英語: Bay of Pigs Invasion)は、1961年に在米亡命キューバ人部隊がアメリカ合衆国CIAの支援の下でグアテマラで軍事訓練の後、キューバに侵攻してフィデル・カストロ革命政権の打倒を試みた事件。

ピッグス湾とは反カストロの亡命キューバ人部隊が上陸侵攻した場所の地名(コチーノ、スペイン語の意)を英訳したもので、別にコチノス湾事件とも呼ばれ、キューバをはじめとする中南米諸国においてはプラヤ・ヒロン侵攻事件(Invasión de Playa Girón)と呼ばれる。

またこのピッグス湾事件を第一次キューバ危機として、翌1962年10月の核戦争の寸前までいったキューバ危機を第二次キューバ危機とする呼び方もある。

概要[編集]

就任して間もないケネディ大統領の承認を経て1961年4月15日の爆撃に始まり、17日から上陸部隊がピッグス湾に上陸侵攻を開始したが、ソビエト連邦の援助を受けたキューバ軍は19日までの3日間の戦いで撃退し、ピッグズ湾に閉じ込められた反カストロ軍[注 1]上陸部隊は戦死及び捕虜となった。この事件の直後、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言し、ソ連への接近を強め、その結果翌1962年10月にキューバ危機が起きることになる。

キューバ革命[編集]

フィデル・カストロ(右)とチェ・ゲバラ(左)(1961年)

1959年1月に発生したキューバ革命により、アメリカが支援していたフルヘンシオ・バティスタ大統領の政権は崩壊し、ゲリラ軍を率いたフィデル・カストロが革命政権の首相に就任した。

カストロ首相は当初は「アメリカ合衆国に対して友好関係を保つ」と表明しその直後にアメリカを訪問。アメリカ政府に対して革命政権の承認を求めたが、CIAの報告により「共産主義者」との疑いをもたれていたことに加え、アメリカ合衆国の傀儡政権だったバティスタ政権を背後から操ってキューバに多くの利権を持っていたアメリカの大企業やマフィアからの圧力により、アイゼンハワー大統領はカストロ政権の承認を拒否した。

国交断絶[編集]

これに反発したカストロ首相は1960年6月にアメリカ合衆国の資産の国有化を開始するとともに、弟のラウル・カストロをソ連の首都モスクワに派遣し、アナスタス・ミコヤン第一副首相をハバナに招請し、冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソビエト連邦との接近を開始。アメリカ合衆国本土の隣国であるキューバがソビエト連邦と手を組む事態を受け、アメリカ合衆国は共産主義国家の脅威を間近で感じることになった。

1959年5月にカストロは農地改革を断行し、アメリカの資産を国有化したため、アイゼンハワー大統領は対抗策としてキューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取る形で禁輸措置に踏み切り、1961年1月3日にはキューバに対して国交断絶を通告した(制裁は国際連合総会からの非難と再三の解除要求決議にも拘らず50年以上解かれなかったが、2015年7月に国交を回復した)。この間、大量のキューバからの避難民がフロリダ州マイアミに集まり、その数は10万人に達した。

アイゼンハワー政権のカストロ転覆計画[編集]

アイゼンハワー大統領

これに先立つ1960年3月に、カストロのソビエト連邦への接近を憂慮したCIAとアイゼンハワー大統領はカストロ政権転覆計画を秘密裏に開始。母国を脱出してきた亡命者1,500人をゲリラ軍として組織化し、CIAの軍事援助と資金協力の下でキューバ上陸作戦を敢行させるため、1954年のPBSUCCESS作戦により親米軍事政権が成立していたグアテマラの基地においてゲリラ戦の訓練を行った。この時すでに退任間近だったアイゼンハワー大統領はこの時点でキューバ問題から手を引き、その後はリチャード・ニクソン副大統領やCIAのアレン・ダレス長官らに委ねられた。

その間、作戦は当初のゲリラ戦から通常戦に変更する決定が下された。そして、兵員数と物資で圧倒的に劣る反カストロ軍がキューバ政府軍に勝つために、アメリカ軍の正規軍の介入が計画に組み入れられた。この時点で大統領選挙が行われ、1961年1月20日民主党選出のジョン・F・ケネディが大統領に就任した。

CIAの計画[編集]

大統領選挙に当選したばかりのケネディは、就任前にCIAのダレス長官からこの作戦計画の説明を受けた時はことの重要さと大胆さに仰天した。その後レムニッツァー統合参謀本部議長とバーグ海軍作戦部長の専門的意見を聞いたがいずれも成功する作戦として問題ないというものであった。

1961年4月4日、[注 2]キューバでの作戦行動について国務省で最後の会議が開かれた。大統領の他にラスク国務長官、マクナマラ国防長官、ディロン財務長官、フルブライト上院外交委員長、シュレジンジャー大統領顧問、ダレスCIA長官、カペル副長官、ピッセル担当官、そしてレムニッツァー統合参謀本部議長などの顔ぶれであった[1]。ダレスCIA長官と作戦担当のリチャード・ピッセルがこの作戦の内容を説明した。まずアメリカが介入するのではなくカストロ政権が成立後にアメリカに避難した亡命者から約1400人がグアテマラで軍事訓練を受けており、この1400人が陸海共同でキューバへの上陸作戦を展開し、上陸が成功すればキューバ国内の反政府抵抗組織2500人と同調する反カストログループ約2万人が行動を起こし、これに鼓舞されて情報機関の推定で総人口の25%を占めるカストロに反感を示す大衆が蜂起する、というものだった[2]。反カストロ軍の空軍がカストロ政府軍の飛行場を爆撃して最初に制空権を奪う。カストロ政府軍の空軍は経験のあるパイロットがおらず、全く組織化されていないので二度の爆撃で十分であり、この計画の成功は空軍の無力化にかかっている。海からの上陸後にまずキューバ革命委員会が亡命政府樹立を宣言し、カストロ政府の空軍は事前爆撃で完全に破壊される、もしうまくいかなかった時は近くの山に逃げ込みゲリラ戦術を展開する、このピッセルの説明に反対を表明したものはいなかった。

ケネディはあくまでアメリカの介入には慎重であった。当時ベルリンが危機的な状況で、キューバを口実にフルシチョフがベルリン問題で軍事的行動を起こすことを恐れていた。しかしダレス長官の正規軍を介入させないとする説明で(実際はCIAは反カストロ軍にアメリカ軍の応援を確約していた)、ケネディは作戦の実行を承認したがアメリカの直接の関与が露見しないように、最初の空襲での爆撃機の数を減らし、その際に上陸地点の変更(夜間上陸に適しているという理由で)を命じた。これは結果として作戦に大きな障害となった[3][注 3]また、CIAが作戦失敗のリスクを過小評価して報告していた。

爆撃の失敗[編集]

1961年4月15日に、反カストロ軍は国籍を隠したアメリカ空軍ダグラスA-26爆撃機によりキューバ軍基地を空襲し最初の空爆でキューバ空軍機を壊滅して制空権を反カストロ軍が確保するはずが、空爆が不十分で制空権を奪えず、逆に政府軍の空襲で上陸作戦に支障をきたした。この日キューバ国籍のマークを付けた8機がニカラグア東岸プエルト・カベサスにある秘密のCIA航空基地から発進し上陸作戦支援のための予備的攻撃を加えた。そして政府軍が所有する36機の戦闘機のうち5機を破壊するに留まった。そして上陸地点がピッグス湾に変更になったが、そこにサンゴ礁があることを誰も予期していなかった。また上陸後に苦戦となった場合は反カストログループがいるエスカンプライ山脈に逃げ込む予定であったが、上陸地点がピッグス湾に変更してそれが不可能となったのである[4]

上陸作戦の実行[編集]

続いて4月17日にピッグス湾への上陸を開始した。グアテマラで武器の供与を受け訓練されて上陸した反カストロ軍は2,000人以下にすぎず、政府軍が約20万人で迎え撃った。また制空権が確保されず、空からT33ジェット機から爆撃を受け、武器弾薬や食糧そして医療品などを積んだ2隻の物資補給船が撃沈されるなど補給経路が早々に破壊されたことで、弾薬が早く尽きて劣勢になった。

その後、アメリカ政府内が混乱してケネディ大統領の命令によりアメリカ合衆国軍の戦闘機による次の爆撃機への援護に出発したが、時差を計算せず正確な時刻が明確でないままに先に爆撃機が飛び立ち、援護は成功しなかった。状況が絶望的になるとCIAはケネディに対しアメリカ空軍の支援を許可するよう要請したが、ケネディはその要請を拒否した[5]。そして4月19日に完全に撃退されて114名が戦死、1189名が捕虜となり作戦は大失敗に終わった。

敗因[編集]

CIAがキューバ軍の勢力を過小評価していたことや、「キューバ軍の一部が寝返る」という根拠がない判断をした上に、事前に作戦の実施がキューバ側に漏れていたこと、ケネディ大統領の命令が二転三転したことなどが失敗の最大の原因とみられている。

もともとアイゼンハワー政権時代に立案された計画では、亡命キューバ人を訓練して武装させて、そしてキューバ中部のエスカンプライ山脈上空から投下して、カストロに反対する現地キューバ人グループと合流させることであった。ところがカストロ政権が脆弱であるという誤った認識と政権転覆に必要な戦力の予測がまた誤っていて最初から問題があった作戦であった。そこへ作戦担当のリチャード・ピッセルが亡命キューバ人部隊の上陸地点を中部の山岳から南部のトリニダ付近の海岸から上陸させることに変更し、そして大統領との協議の末に実行直前にエスカンプライ山脈より遠い西方のプラヤ・ヒロンに変更した。そこは遮蔽物も退避すべき(劣勢の場合は山岳に逃げる計画であった)場所もなかった。そして事前の爆撃(4月15日)も大幅に削減されたので政府軍の航空戦力を撃破出来ず、結果上陸部隊は空からの援護がなく、むしろ政府軍の空からの攻撃に耐えながら上陸を敢行した[6]。しかもそこにはサンゴ礁があった。

ケネディ政権の大統領顧問だったテッド・ソレンセンは後に著書「ケネディの道」の中で、作戦の失敗の原因として①作戦の秘密保持が出来なかったこと、②上陸後の山岳地帯までの退避行動が全く計画されていなかったこと、③上陸部隊がアメリカ軍の公然たる支援を想定し国内の地下組織と合流するという誤った想定を持っていたこと、④キューバ国内のカストロに反対する地下組織の助力や民衆の蜂起で上陸部隊を助けるものとケネディは考えていたが実際はカストロの支配が強くその活動は皆無であったこと、⑤1961年4月の時点で作戦行動に移ったのは以後カストロ政府軍が強化されると予測し弱い今のうちに実行すると判断したが実際はカストロ政府の軍事力はすでに強化されていたこと、などの作戦自体に現実とのギャップがあったとしている。

さらにケネディ政権側にとっては、①政権がスタートしてまだ日が浅く、閣僚やスタッフとの円滑なコミュニケーションが醸成されるにはまだ新しい政府であったこと、②少数の関係者以外は作戦の存在すら知らず計画の細目を検討する時間も機会もなかったこと、③新しい政府がまだ完全に機能するまでには至らずCIAと統合参謀本部だけでの作戦立案であったことが他からの意見聴取を難しくしたこと、などの原因を挙げている。

事件後[編集]

ウイーンで会談するケネディ(右)とフルシチョフ(左)

ケネディ大統領は記者会見を行い、失敗の全ての責任が計画の実行を命じた自分にあることを認めていた。しかし、同時にCIAに対しては軍事行動の失敗の責任を追及し、ダレスCIA長官、チャールズ・カベル副長官を更迭した。後任にはジョン・マコーンを就任させた。後の記者会見で「古いことわざにあるように、勝利した者には百人の生みの親が集まるが、敗北した者には一人も集まらない孤児(みなしご)だというのがある。私は政府の責任者であり、これはきわめて明白なことです」と語っている。その後彼は軍部とCIAを全く信用しなくなった。そして軍事・情報分野の助言者に対しても懐疑的になった。そのことが翌年1962年10月のキューバ危機で、空爆を強く主張する軍部の意見を抑えて、海上封鎖にもっていく高い手腕に彼の評価が表れている。

しかし以後、CIAとの関係は冷え込んでいった。翌年11月の暗殺事件直後に当時の司法長官ロバート・ケネディはジョン・マコーンCIA長官を自宅に呼び出して、「CIAが殺したのか」と詰問してマコーン長官が即座に否定した。ロバートはキューバでの最初の大失敗でCIAにも亡命キューバ人に対してもケネディ兄弟に対する反感が根強いと感じていた。実際、ピッグス湾事件に参加し捕虜となりその後身柄をアメリカに送られた亡命キューバ人グループは反カストロ感情とともに、ピッグス湾で最後に裏切った?ケネディに対する反感は強いものがあった。後に亡命キューバ人グループの指導者ハリー・ウィリアムズに向かってロバートは「君のところの誰かがやったんだろう」と声をかけている[7]

カストロ首相はアメリカ合衆国の介入政策から、キューバの独立とキューバ人自身による統治を守るために、軍備増強の必要性を認識し、社会主義体制・共産党政権の東側諸国との友好関係の確立を図った。それまでキューバ革命は特に社会主義革命と宣言されていたわけではなかったが、カストロ首相は1961年5月1日メーデー演説で「社会主義革命であった」と正式に宣言し、正式に社会主義体制・共産党政権の東側諸国と同盟・友好関係を築いた。

このピッグス湾事件後もケネディ政権はカストロ政権の打倒を目ざして、キューバ国内へのクーデター支援・政権打倒工作、ゲリラ攻撃、カストロ暗殺工作などマングース作戦と呼ばれる工作を続け、このままではアメリカ合衆国から政権を打倒されると危機を感じたカストロが、1962年5月にソビエト連邦に軍事的支援を求めて、核ミサイルの搬入とミサイル基地の建設に入り、その結果1962年10月のキューバ危機を招くに至った。

2011年4月にはこのピッグス湾事件から50年を記念した式典がキューバ国内で行われた。

脚注[編集]

  1. ^ この軍隊を亡命者旅団とも、亡命軍とも、亡命キューバ人グループとも名称は様々であり、「反革命傭兵軍」というのはカストロ政権の側からの呼称であり、傭兵ではなく、実際にキューバから逃れ、カストロ体制を転覆させるためにCIAの訓練をグアテマラで受けた後に故国に上陸した部隊である。失敗後に捕虜となり、その後アメリカが捕虜となったキューバ人上陸部隊1189名の身柄をキューバから入国させたが、これらのグループはケネディ大統領への反感を露わにしていた。
  2. ^ 落合信彦著「2039年の真実」では4月4日に開催したことになっているが、フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻では4月5日に開催したことになっている。またこの作戦計画にゴーサインを出したのは3月11日で、4月5日に会議を開き、4月7日にケネディはトルーマン政権で国務長官だったアチソンに、このキューバでの作戦計画を明らかにしている。それに対してアチソンは衝撃を受けて「クレイジーだ」と語っている。「ベルリン危機1961」上巻 219-220P 
  3. ^ ジョンソン副大統領、ラスク国務長官、マクナマラ国防長官、ロバート・F・ケネディ司法長官らに説得され、作戦の実行を決意した」との言説があるが、陸海空三軍の最高司令官である大統領が閣僚に説得されて作戦実行を決めたなど、およそ奇妙な話である。統合参謀本部議長やCIA長官が説明して大統領が裁可するのであって、合議制のもとで決定しているのではない。この時も重い疑念を持ちながらも前任のアイゼンハワーが進めた作戦であり、実行はケネディ大統領自身の判断であった。そしてこの苦い経験が、翌年秋のキューバ危機で最後の土壇場で空爆支持が閣僚も含めて多数を占めても、大統領が1人反対して強いリーダーシップを発揮することとなり、後にケネディへの高い評価となって表れている。

出典[編集]

  1. ^ 落合信彦著「2039年の真実」167P
  2. ^ フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻 243P
  3. ^ フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻 243P
  4. ^ フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻 241-243P
  5. ^ ドン・マントン、デイヴィッド・A・ウェルチ共著「キューバ危機」47P
  6. ^ ドン・マントン、デイヴィッド・A・ウェルチ共著「キューバ危機」46-47P
  7. ^ ギャレス・ジェンキンス著「ジョン・F・ケネディ、フォトバイオグラフィ」333P

事件を扱った作品[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]