バートランド・ラッセル

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バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル
Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell
1916年のラッセル
生誕 1872年5月18日
イギリスの旗 イギリスモンマスシャー州トレレッチ英語版
死没 1970年2月2日(満97歳没)
イギリスの旗 イギリスウェールズペンリュンデウドラエス英語版
時代 20世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 分析哲学
1950年度ノーベル文学賞
研究分野 形而上学認識論
論理学数学
言語哲学
科学哲学
倫理学宗教哲学
哲学史
主な概念 分析哲学論理的原子論、記述理論 (theory of descriptions既知知識英語版記述知識英語版ラッセルのパラドックスラッセルのティーポット
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ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1950年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:人道的理想や思想の自由を尊重する、彼の多様で顕著な著作群を表彰して

第3代ラッセル伯爵、バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルBertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell, OM, FRS1872年5月18日 - 1970年2月2日)は、イギリス哲学者論理学者数学者貴族イギリスの首相を2度務めた初代ラッセル伯ジョン・ラッセルは祖父である。名付け親は哲学者のジョン・スチュアート・ミル。ミルはラッセル誕生の翌年に死去したが、その著作はラッセルの生涯に大きな影響を与えた。生涯に4度結婚し、最後の結婚は80歳のときであった。

生涯[編集]

思想と業績[編集]

数学者論理学者として出発し、哲学者としてヘーゲリアンから経験論者に転向、以後その主張はかなりぶれがあったものの基本的にはモノ的対象を基礎とした現象主義もしくは随伴主義的唯物論をとる。そののち、教育学者教育者・政治運動家としても活動する。

論理学・数学[編集]

ラッセルはアリストテレス以来最大の論理学者の1人であり、その業績は、従来の体系におけるパラドックスの発見と、その解決の探求のなかで成し遂げられた。特にラッセルのパラドックスで知られる。

ラッセルのパラドックスの発見について述べるためには、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツの哲学者・数学者・論理学者であるフレーゲの研究について触れざるをえない。フレーゲは、数学は論理に帰着しうる(論理主義)と考え、その思想を現実化する一歩として、論理上で実際に数学を展開するという野心的な著作『算術の基本法則』( Grundgesetze der Arithmetik ) を上梓した。1901年、ラッセルは、この『算術の基本法則』で示された体系で、パラドックスを示せることを発見し、フレーゲにその発見を伝える書簡を送った。このパラドックスは、のちに「ラッセルのパラドックス」と呼ばれるようになった。この手紙は、フレーゲの悲痛なコメントとともに『算術の基本法則 II』( Grundgesetze der Arithmetik II ) に収録されている。

この時期、ラッセル自身もまた、ホワイトヘッドとともに、論理主義の立場から論理上で実際に数学を展開するという事業に取り組んでいたが、このラッセルのパラドックスのために、約2年間の停滞を余儀なくされている。さらに、このパラドックスは、同時期に発見された類似の他のパラドックスとともに、数学の基礎に存在する深刻な問題と受け取られ、いわゆる「数学の危機」の震源となり、その解決をめぐって、ヒルベルトの「形式主義」やブラウワーの「直観主義」の誕生の切っ掛けとなった。

ラッセルは他にもパラドックスを発見したが、通常ラッセルの名を冠して呼ばれるものは一つだけである。他のパラドックスには、例えばブラリ=フォルティのパラドックスはラッセルの発表中に脚注で「ブラリ=フォルティの論文に示唆された」とあるためこの名が冠せられた。ところがブラリ=フォルティの論文を見てもそのパラドックスは載っていないという。[1]

ラッセル自身のパラドックス解決の試みは、1903年、「階型理論」(theory of types) の発見により成功をおさめた。ラッセルは、この成功を礎に、階型理論に基づく高階論理上で全数学を展開するという一大事業を押し進め、その努力は、『数学原理Principia Mathematica(1911-1913年)として結実した。

哲学[編集]

最初期のラッセルは、当時のイギリス哲学界の思潮の影響下にあり、ヘーゲルの影響が強い。ラッセルが学んだケンブリッジは19世紀後半にはヘーゲル主義の支配下にあり、ジョン・マクタガートを筆頭とするこの時期のケンブリッジの哲学学派は、新ヘーゲル派と呼ばれている。しかし、20世紀初頭には、ラッセルはG・E・ムーアとともにヘーゲルの影響から逃れ、独自の哲学を展開し始める。

ヘーゲルの影響を逃れた直後の著作である『数学の原理』Principles of Mathematics(1903年) では、多数の普遍的存在者を容認する極端な普遍実在論を展開したが、『表示について』On Denoting(1905年)で普遍者とみられたものが個物についての記述の連言として分析できることを発見したこと(→ 記述理論)をきっかけにして、『論理的原子論の哲学』Philosophy of Logical Atomismでは、個物のみを実在とし、以後はその個物が何であるか、とくに心と個物の関係が何であるかに関心の中心が向けられた。

晩年の『西洋哲学史』A History of Western Philosophyは、ペンシルベニアのバーンズ財団での講義に使用するために書かれたものであるが、自分にとって重要な哲学者に問題を限定すると共に、これに付加して生き生きとした詳細を付け加えたものであるとされている[2]。ラッセルは、哲学は、その時代時代の哲学者の生きた政治的・社会的制度と切っても切り離せないものであるがゆえに、哲学史は社会史と無関係なものではありえないとの視点の下、「神学と区別された哲学」が古代ギリシアで始まって以来、現在に至るまで、哲学者は、社会連帯を強めようというする人々と、それを緩めようという人々に分かれてきたが、前者は何らかの独断論を擁護し、科学に敵対的にならざるを得ず、後者は、合理的、功利主義的で、宗教の極端な諸形態に敵対的であったが、それらの哲学を理解するためには、その背景にあるその哲学者の生きた政治的・社会的な環境を理解する必要があるとする(本書の副題は「古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史」である。)。そのため、ラッセルは、本書における「哲学」の概念を独断論たる神学と科学の中間にあるものとして極めて広くとった上で、必要に応じてキリスト教哲学たる中世哲学やユダヤ哲学やイスラム哲学に言及するというスタイルをとり、哲学史の書物として初めて'Western'という形容詞を採用したのである[3]

記述理論[編集]

記述理論(Theory of Description)は指示対象が存在しない「現代のフランス王」や「ペガサス」といった語句を解釈する際に、フレーゲのようにそのような語句を含んだ文を無意味としたり、それら非存在者の指示対象としてなんらかの概念の「存在」を仮定することなしに、解釈を可能とするためにラッセルが発見した手法である。1905年の『表示について』で初めて発表された。

記述理論とは、以下のような手法である。

「現代のフランスの王ははげである」

という文章の意味を考える場合、この文を、

「あるものが存在し、そのものは一つであり、フランスの王であり、かつはげである」

と翻訳する。すると、実在しない「現代のフランスの王」が示す指示対象として存在者をなんら仮定することなく有意味に文を解釈でき、その真偽を確定できる。

科学的推理の五つの公準[編集]

ラッセルは、科学的推理を有効にする五つの公準があるとした[4]

擬似永続性の公準
任意の事象Aが与えられたとき、その時点に相次ぐ時点において、またそれの場に近接する場において、Aにきわめて似通った一つの事象が生じることがしばしばある。
分離可能な因果列の公準
ある系列の一つあるいは二つの要素から、その系列の他の一切の要素についてなにがしかを推理できるような、そのような一つの事象系列を形成することがしばしば可能である。
空間時間的連続性の公準
連接しない二つの事象間の因果的連鎖の中にいくつかの中間項がかならずあり、その各々が次のものに連接している。いいかえれば数学的な意味で連続的な一つの過程が存在する。
構造上の公準
構造の似通った多くの複合事象が、一つの事象を中心として、その周辺に余りバラバラにならないように配列されるとき、通常それらの事象は、すべてその中心にすえられた一事象から発する諸因果系列に属する。
類推の公準
二つの事象集合AとBがともに観察されるときにはいつも、AがBを引き起こすと信じうる理由があるとする。このとき、もし与えられた事例においてAが観察されるが、Bが起こるか否かが観察できないとしても、Bが起こることは確からしい。またBが観察されたのに、Aが観察できないとしても、Aが起こっていることは確からしい。

上述の諸公準の一例として、ある種の視覚的外見と固さとのつながりをラッセルは取り上げている。ここでは「固い」という因果的な語は、ある種の触感を引き起こすような物体の性質をさすものと解釈される。はじめの四つの公準は、物体が適当な感覚を引き起こしているとき、その物体が有しているそれに対応する性質がおそらく存在することを推論することを可能とする。これに対して、第五の公準は、物体が触られていない時にも、その視覚的外見に固さがおそらく結びついて存在することを推論することを可能とする。

教育について[編集]

ラッセルは大衆心理の操作において教育による洗脳効果が重要な役割を果たすことを、1952年刊行の著書『社会における科学の影響』The Impact Of Science On Societyにおいて述べた。現代の科学的政治支配においてメディアと教育は最重要課題であり、支配階層のみがその部門の管理を行うことで、大衆に気付かれぬよう簡単に心理操作が可能になるとした。また幼い頃から学校において管理・命令・禁止を常態化させることで、自由意志を破壊し、生涯に渡って権力への批判意識を無くした受動的で無気力な大衆を産み出すことが教育制度の目的であること、それを羊肉を食べる人間に対して絶対に反乱を起こせない羊の群れに例えた。 ラッセルは1960年代の英米におけるリベラル派のフリー・スクール運動を支援し、権力による子供の思考への干渉からの解放を擁護した。

宗教について[編集]

とりわけ神の不可知論を提唱する点で、無神論である。「自由人の信仰」や「わたしはなぜキリスト教徒ではないか」などで、宗教の基礎を、死や神秘的なものへの恐怖にあるとした。リチャード・ドーキンスは「神は妄想である」においてラッセルの宗教的教義への反駁を多数参照している。

社会思想[編集]

ラッセルの平和主義は、現実主義的な平和主義であると特徴づけられる。そのときそのときの情勢の下で、最悪と思われるものと戦い、最良と思われる手段で平和の実現を目指すといえる。彼の平和主義への傾倒は、1901年、ボーア戦争中に始まるとされるが、彼が活発に社会的な発言、著作を出版するようになったのは第一次世界大戦からである。

第一次大戦中、ラッセルは徹底的な非戦論を主張し、ケンブリッジの教授職を追われ、投獄されている。第一次大戦後、ラッセルは戦争に熱狂した民衆の姿に驚きを覚え、平和維持のためには民衆の啓蒙と社会制度の改革から始める必要を痛感した。この彼の政治的スタンスから、社会主義にシンパシーを感じ労働党に入党する。

当時、社会主義に傾倒していた知識層は、フェビアン社会主義で有名なシドニー・ウェッブを筆頭に、マルクス主義にシンパシーを感じソビエト連邦に好意的であったが、ラッセルはそのような風潮とは一線を画し、ソビエトロシアに対して批判的な著作『ロシア共産主義』The Practice and Theory of Bolshevismを著している[5]。 同書において、ラッセルはレーニントロツキースターリンについて厳しい視線を向けている。

ところが、第二次世界大戦においては、第一次世界大戦に対する反戦の態度とは正反対にナチズムに対抗するために徹底した抗戦を主張するようになった(アインシュタインも彼と同じく、第一次世界大戦の際には徹底的に反戦を主張し、青年に対して兵役拒否をするようにさえ訴えていたにも拘わらず、第二次世界大戦では「最早、兵役拒否は許されない」と発言するなど、変節している)。第一次大戦における彼の非戦論との違いから、ロマン・ロラン等から「変節」であると厳しく批判された。ラッセルは批判に対して「世界でもっとも重んずべきは平和だと考えているという意味では、私は依然として平和主義者である。けれども、ヒトラーが栄えているかぎり、世界に平和が可能であるとは考えられないのだ」と弁明した。

第二次世界大戦直後は、世界政府樹立とそれによる平和維持をめざした。1940年代末から1950年代始めにかけて、アメリカの持つ原子爆弾という超兵器の抑止力によってソ連を押さえ込むことで実現することを構想し、西側諸国の核保有による東側諸国との対抗を説き、労働党の委託を受け精力的に講演を行った。

しかし、その構想は、ソ連の核兵器開発の成功、アメリカ・トルーマン大統領による水素爆弾開発計画(→エドワード・テラー)によって破綻する。米ソによる水爆戦による世界の終末というものが一挙に現実味を帯びたため、ラッセルは、その最悪のシナリオを回避するため、核兵器廃絶の運動に身を投じる。

1955年7月9日、「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表。この宣言は、ラッセルが起草し、アルベルト・アインシュタインが署名を行ったものである。アインシュタインがその署名を行ったのは、彼の死の1週間前のことであった。このラッセル・アインシュタイン宣言は、パグウォッシュ会議(第1回開催1957年7月6日 - 7月10日)につながる。

1961年には、百人委員会を結成し、委員長に就任。英国の核政策に対する抗議行動を行った。同年9月、百人委員会による国防省前での座り込みの際に逮捕され、生涯2度目となる懲役刑を受けることになる。

ベトナム戦争に対しても、ラッセルは厳しい批判行動を展開した。サルトルらとともに、アメリカの対ベトナム政策を糾弾する国際戦争犯罪法廷[6]を開廷する。

その後も、1970年、97歳でこの世を去る直前まで、精力的に活動した。

エピソード[編集]

  • Introduction to Mathematical Philosophy は、第一次大戦中の最初の投獄の際、獄中で執筆された。
  • その投獄中、面会に来た友人に「なんでまた、君はそんなところにいるんだね?」と尋ねられたラッセルは「君こそ、なんでそんなところにいるんだい?」と尋ね返したそうである。
  • 第一次大戦中の最初の投獄の際、彼の兄であるフランク・ラッセルの計らいで、絨毯のある差額特別室での獄中生活であった。室代を請求に来た刑務所長に「滞納するとどうなりますか」と聞いたというエピソードが残っている。
  • 第二次世界大戦の直前に渡米し、1944年5月までアメリカ合衆国で生活している。滞在中プリンストン高等研究所に赴き、ゲーデルと面会している。その際の印象をラッセルは『自叙伝』に記しているが、その中でゲーデルをユダヤ人と誤って記述している[7]。1971年にケネス・ブラックウェルがラッセルの『自叙伝』にゲーデルをユダヤ人とする記載があることをゲーデルに知らせた。ゲーデルはその誤りを指摘する書簡を作成したが、実際には投函しなかった[8]

語録[編集]

  • 「不幸な人間は、いつも自分が不幸であるということを自慢しているものです。」
  • 「高潔な人たちが、自分は正当にも「道徳的な悪」を懲らしめているのだと思いこんで行ってきた'戦争'や'拷問'や'虐待'のことを考えると、私は身震いする。」(On Education, 1926 より)
  • 「残酷さと搾取によって財産を獲得した人は、たとえ規則的に教会に行き、不正に獲得した収入の一部を公共事業に寄付したとしても、"不道徳な人間"と見なされなくてはならない。」(Sceptical Essays, 1928 より)
  • 「最悪なのは、あらゆる人間を分類して(仕分けして)明瞭なレッテル(ラベル)を貼ること(行為)である。この不幸な習性の持主は、自分が相手に適切だと思うタグ(札)を貼りつける時に、その相手について(タグをはりつけるに足る)完全な知識をもっていると考える。(Mortal and Others, v.1 より)
  • 「権力愛はまた、臆病な人々の間では全く姿を変えて、指導者に対する唯々諾々とした服従の衝動という形をとることがあり、これが大胆な人々の権力衝動の範囲をますます増大させる結果ともなる。」(Power; a new social analysis, 1938 より)
  • 「もし貴方の考えが理性(reason)に基づいているのなら、それを貴方は説得ではなく議論によって支持するだろうし、もしそれに反する論拠があれはその考えを捨てるだろう。しかしもし貴方の考えが信仰(faith)に基づいていたら、議論は無意味であると気付き、従って説得や、年少者の心を歪めるという強制の力に頼るのである。そしてそれは「教育」と呼ばれる。(Human Society in Ethics and Politics 1954より)
  • 「愚者の楽園に集まる人々の幸福を羨ましがるな。それを幸せだと考えるのは愚か者だけだからである。」(「自由人の十戒」より)
  • 「'正常'というのは、平凡かつ起伏のない感情の寄せ集めでできているものではない。それぞれの感情(情熱)を一つ一つとりあげれば'異常'にうつるかもしれないが、それらの感情(+の狂気、-の狂気)をまとめると、全体としてみれば、プラスマイナス零となる。そういった状態が'正常'というのであろう。」(Nightmares of Eminent Persons, 1954 より)
  • 「'死の恐怖'を征服するもっともよい方法は、(少なくとも私にはそう思われるのだが)諸君の関心を次第に広汎かつ非個人的にしていって、ついには自我の壁が少しずつ縮小して、諸君の生命が次第に宇宙の生命に没入するようにすることである。個人的人間存在は、河のようなものであろう。最初は小さく、狭い土手の間を流れ、激しい勢いで丸石をよぎり、滝を越えて進む。次第に河幅は広がり、土手は後退して水はしだいに静かに流れるようになり、ついにはいつのまにか海の中に没入して、苦痛もなくその個人的存在を失う。老年になってこのように人生を見られる人は、彼の気にかけはぐくむ事物が存在し続けるのだから、死の恐怖に苦しまないだろう。そして生命力の減退とともに物憂さが増すならば、休息の考えは退けるべきものではないだろう。私は、他人が私のもはやできないことをやりつつあるのを知り、可能な限りのことはやったという考えに満足して、仕事をしながら死にたいものである。(Portraits from Memory and Other Essays, 1956 より)
  • 「野原を通ってニューサウスゲートへと続く道があった。そこで私は一人で夕陽を眺め、自殺について考えたものだ。でも結局、自殺はしなかった。もっと数学について知りたいと思ったから」(『The Autobiography of Bertrand Russell(ラッセル自叙伝)』より)
  • 「我々は、無関心な人間のみが公平な人間であるという考えを拒否しなければなりません。我々は偏見のない広い心と空っぽな心とを混同するような、人間の知性についての堕落した考え方は拒絶しなければなりません。」(ヴェトナム戦争犯罪法廷メンバー第1回集会(1966.11.13)でのラッセル(94歳)のスピーチより)
  • 「人々が自分たちの衝動を正当化しようとしているイズム(主義)なるものは、本当のことを言えば、かれらが正当化したつもりになっている衝動の産物です。」(Dear Bertrand Russell, 1969 より)
  • 「経済学は人々がどのような選択をするか明らかにするが、社会学は人々に選択の余地がないことを明らかにする。」

主な著作[編集]

  • 『数学の諸原理』 (1903年/下記『数学原理』とは別の著作) The Principles of Mathematics
  • 数学原理』 (ホワイトヘッドとの共著) (1910年-1913年) Principia Mathematica
  • 『表示について』 (1905年) On denoting
  • 『哲学入門』 (1912年)The Problems of Philosophy
  • 『論理的原子論の哲学』 (1956年) Philosophy of Logical Atomism
  • 『心の分析』 (1921年) The analysis of Mind
  • 『なぜ私はキリスト教徒ではないか』(1927年) Why I Am Not a Christian
  • 『西洋哲学史』 (1945年) A History of Western Philosophy
  • 『教育論』 (1926年) On Education, Especially in Early Childhood 
  • 『結婚論』 (1929年) Marriage and Morals
  • 『幸福論』 (1930年) Conquest of Happiness
  • 『怠惰への讃歌』 (1935年) In Praise of Idleness, and Other Essays

他多数。

日本語訳[編集]

  • 松本悟朗訳『社会改造の原理』日本評論社出版部, 1919
    • 室伏高信訳『社会改造の原理』冬夏社, 1921
    • 村上啓夫訳『社会改造の原理』春秋社(世界大思想全集 第45,1929
  • 浮田和民訳『社会改造の理想と実際』大日本文明協会事務所, 1920
  • 板橋卓一ほか訳『自由への道 全訳』日本評論社出版部, 1920
  • 時国理一訳『正義と闘争』日本評論社出版部, 1920
  • 松本悟朗訳『政治の理想』日本評論社出版部, 1920
  • 前田河広一郎訳『ボリシェビーキの理論と実際』三田書房,1921
    • 江上照彦訳『ソビエト共産主義 ボルシェビズムの実践と理論』社会思想研究会出版部(現代教養文庫),1959
    • 河合秀和訳『ロシア共産主義』みすず書房,1990.4.
  • 松本悟朗訳『神秘主義と論理』世界思潮研究会(ラツセル叢書 第1編),1921
    • 江森巳之助訳『神秘主義と理論』みすず書房(バートランド・ラッセル著作集 第4),1959.
  • 松本悟朗訳『物理学対感覚与料の関係』世界思潮研究会(ラツセル叢書 第3編),1921
  • 松本悟朗訳『数学と形而上学者』世界思潮研究会(ラツセル叢書 第4編),1921
  • 松本悟朗訳『哲学に於ける科学的方法』世界思潮研究会(ラツセル叢書 第5編)1921
  • 松本悟朗訳『物質の究極的要素』世界思潮研究会(ラツセル叢書 第6編),1921
  • 松本悟朗訳『原因の観念に就て・直知と叙述知』世界思潮研究会(ラツセル叢書 第7・8編),1921
  • 中込本治郎訳『倫理学の根本問題』大村書店 1921
  • 宮本鉄之助訳『数理哲学概論』改造社,1922
  • 寮佐吉訳『原子のABC』新光社,1925
  • 佐々木喜市訳『哲学に於ける科学的方法』三共出版社,1925
  • 松本悟朗訳『経済制度に於ける政治の理想』スキア書院,1927
  • 塚越菊治訳『産業文明の前途』早稲田大学出版部,1928
  • 塚越菊治訳『新教育学』早稲田大学出版部,1928
  • 浅田清造訳『新児童教育学』至玄社,1928
  • 福永渙訳『結婚と新道徳』アルス,1930
  • 島為雄訳『幸福の獲得』日東書院,1931
  • 橘源太郎訳『教育と現代世相』国際経済新報社,1933
  • 中込本治郎訳『哲学の問題』三共出版社,1924
    • 八木林二訳『哲学の諸問題』金星堂,1933
    • 新井慶訳『哲学の諸問題』育生社,1946
    • 中村秀吉訳『哲学入門』社会思想社(現代教養文庫),1964.
    • 生松敬三訳『哲学入門』角川文庫,1965.
    • 高村夏輝訳『哲学入門』ちくま学芸文庫,2005.3.
  • 重田光治訳『権力論』青年書房,1941
  • 平野智治訳『数理哲学序説』弘文堂書房,1942 のち岩波文庫 
  • 科学の眼 矢川徳光訳.創元社,1949.
  • 江上照彦訳『権威と個人』社会思想研究会出版部,1951
  • 東宮隆訳『権力 その歴史と心理』みすず書房,1951
  • 堀秀彦訳『幸福論』角川文庫,1952
    • 片桐ユズル訳『幸福論』みすず書房(バートランド・ラッセル著作集 第6),1959
    • 日高一輝訳『幸福論』講談社文庫,1972
    • 安藤貞雄訳『ラッセル幸福論』岩波文庫,1991.3.
  • 赤井米吉訳『原子時代に住みて 変りゆく世界への新しい希望』理想社,1953.
  • 堀秀彦訳『教育論』角川文庫,1954
    • 魚津郁夫訳『教育論』みすず書房(バートランド・ラッセル著作集 第7),1959.
    • 安藤貞雄訳『ラッセル教育論』岩波文庫,1990.5.
  • 市井三郎訳『西洋哲学史 古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との問題における哲学史』みすず書房,1954-56
  • 内山敏訳『ラッセル短篇集』中央公論社,1954
  • 江上照彦訳『結婚と道徳』社会思想研究会出版部(現代教養文庫),1955
  • 万沢遼大内義一訳『愛と性の位置』河出新書,1956
  • 堀秀彦訳『科学は社会を震撼した』角川新書,1956
  • 津田元一郎訳『宗教と科学』元々社,1956
  • 山田英世・市井三郎共訳『人類の将来 反俗評論集』理想社,1958.
  • 堀秀彦・柿村峻訳『怠惰への讃歌』角川文庫,1958 のち平凡社ライブラリー 
  • 大竹勝訳『宗教は必要か』荒地出版社,1959
  • 飯島宗享訳『常識と核戦争 原水爆戦争はいかにして防ぐか』理想社,1959
  • 中村秀吉訳『自伝的回想』みすず書房(バートランド・ラッセル著作集 第1),1959
  • 後藤宏行訳『結婚論』みすず書房(バートランド・ラッセル著作集 第8),1959
    • 柿村峻訳『結婚論』角川文庫,1963
    • 安藤貞雄訳『結婚論』岩波文庫,1996.1.
  • 細川董訳『ライプニッツの哲学』弘文堂,1959.
  • 鈴木祥蔵訳『教育と社会体制』明治図書出版,1960.
  • 柿村峻訳『宗教・性・政治 ラッセル珠玉集』社会思想研究会出版部,1960.
  • 鎮目恭夫訳『人間の知識』みすず書房(バートランド・ラッセル著作集 第9-10),1960.
  • 大淵和夫鶴見良行田中幸穂訳『自由と組織』みすず書房(バートランド・ラッセル著作集 第2-3),1960.
  • 野田又夫訳『私の哲学の発展』みすず書房(バートランド・ラッセル著作集 別巻),1960.
  • 北川悌二訳『事実と虚構』音羽書房,1962.
  • 日高一輝訳『人類に未来はあるか』理想社,1962.
  • 牧野力訳『民主主義とは何か自由とは何か』理想社,1962.
  • 東宮隆訳『懐疑論集』みすず書房,1963.
    • 柿村峻訳『懐疑論』角川文庫,1965.
  • 牧野力訳『政治理想』理想社,1963.
  • 牧野力訳『武器なき勝利』理想社,1964.
  • 東宮隆訳『ラッセルは語る』みすず書房,1964.
  • 津田元一郎訳『宗教から科学へ』荒地出版社,1965.
  • 日高一輝訳『ヴェトナムの戦争犯罪』河出書房,1967.
  • 東宮隆訳『西洋の知恵 図説哲学思想史』社会思想社,1968.
  • 日高一輝訳『ラッセル自叙伝』全3巻,理想社,1968-73
  • バリイ・フェインベルグ,ロナルド・カスリルズ編,日高一輝訳『拝啓バートランド・ラッセル様 市民との往復書簡-宗教からセックスまで』講談社,1970.
  • 金子務,佐竹誠也訳『相対性理論への認識』白揚社,1971.(改題「相対性理論の哲学 ラッセル,相対性理論を語る」)
  • 石本新訳『外部世界はいかにして知られうるか』中央公論社(世界の名著ラッセル・ウィトゲンシュタイン・ホワイトヘッド),1971 
  • 牧野力訳『中国の問題』理想社,1971
  • 毛利可信訳『意味と真偽性 言語哲学的研究』文化評論出版,1973
  • 中野好之太田喜一郎訳『人生についての断章』みすず書房,1979.2.
  • 勝部真長長谷川鉱平訳『ヒューマン・ソサエティ 倫理学から政治学へ』玉川大学出版部,1981.7.
  • A.N.ホワイトヘッド共著,岡本賢吾・加地大介・戸田山和久訳『プリンキピア・マテマティカ序論』哲学書房,1988.7.
  • 河合秀和訳『ドイツ社会主義』みすず書房,1990.4.
  • 竹尾治一郎訳『心の分析』勁草書房,1993.3.
  • 高村夏輝訳『論理的原子論の哲学』ちくま学芸文庫,2007.9.

脚注[編集]

  1. ^ Gregory Chaitin. “A Century of Controversy over the Foundations of Mathematics”. Springer-Verlag. 2008年5月13日閲覧。
  2. ^ 『西洋哲学史Ⅰ』原著者まえがき
  3. ^ 『西洋哲学史Ⅰ』1~10頁
  4. ^ 「人間の知識」
  5. ^ The Practice and Theory of Bolshevism, 1920
  6. ^ いわゆるラッセル法廷:於ストックホルム、1967年
  7. ^

    プリンストン滞在中、私はアインシュタインをよく知るようになった。私は週に一度彼の家に行って、彼およびゲーデルやパウリと議論した。……三人ともユダヤ人亡命者で、少なくとも意図の上ではコスモポリタンであった。

    ラッセル、ワン 1995, p.179

  8. ^

    私についての記述に関する限り、次のことを言っておかねばなりません。まず、(真実のために言えば)私はユダヤ人ではありません。(これが何ら重要な問題であるとは思いませんが。)(2)あの箇所は私がラッセルとずいぶん議論したような誤った印象を与えますが、事実はけっしてそうではありませんでした。(私は一回の議論しか思い出せません。)

    ゲーデル、ワン 1995, p.179

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]