アンドレイ・グロムイコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
アンドレイ・グロムイコ
Андре́й Громы́ко
Andrej Gromyko 1967.png
1967年6月25日
生年月日 (1909-07-18) 1909年7月18日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 白ロシア ホメリ州
没年月日 1989年7月2日(1989-07-02)(79歳)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of the Russian SFSR.svg ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ
出身校 ミンスク農業大学
所属政党 КПСС.svg ソビエト連邦共産党
配偶者 リディア・ドミトリエフナ・グリネヴィッチ
子女 2人

在任期間 1985年7月2日 - 1988年10月1日
第一副議長 ヴァシリー・クズネツォフ
ピョートル・デミチェフ

在任期間 1983年3月24日 - 1985年7月2日
閣僚会議議長 ニコライ・チーホノフ

在任期間 1957年2月15日 - 1985年7月2日
閣僚会議議長 ニコライ・ブルガーニン
ニキータ・フルシチョフ
アレクセイ・コスイギン
ニコライ・チーホノフ

在任期間 1952年6月 - 1953年4月
閣僚会議議長 ヨシフ・スターリン
ゲオルギー・マレンコフ

在任期間 1946年4月10日 - 1948年5月
閣僚会議議長 ヨシフ・スターリン

その他の職歴
КПСС.svg ソビエト連邦共産党
第24-27期政治局員

1973年4月27日 - 1988年9月30日
ソビエト連邦の旗米国ソビエト連邦特命全権大使 アメリカ合衆国の旗
1943年8月22日 - 1946年4月11日
テンプレートを表示

アンドレイ・アンドレーエヴィチ・グロムイコロシア語: Андре́й Андре́евич Громы́коラテン文字表記の例Andrei Andreevich Gromyko1909年7月18日[1] - 1989年7月2日[2])は、ソビエト連邦政治家外交官。28年間に渡って外務大臣を務め、ミスター・ニエットの異名で知られた。アンドロポフ政権以降は閣僚会議第一副議長(第一副首相)を兼務した。ゴルバチョフ政権発足後にシェワルナゼ外務大臣を交代し、国家元首に当たる最高会議幹部会議長に選出された。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1909年7月18日ロシア帝国・白ロシア(現在のベラルーシホメリ州ラヨンの農家に生まれる[3]。出身は古グロムイコ村で、正教古儀式派ベロクリニツキー派の信徒といわれる[4][5]。祖先は17世紀にニーコン総主教及びその後の改革から逃れ、1684年にポーランドのベトカ村を作り住み着いた古儀式派の流れであり、18世紀のエカチェリーナ2世期には2万5,000人の同郷者がシベリアに追放されたという[4]1931年ソ連共産党に入党。1932年にミンスク農業大学を卒業する。

外交官として[編集]

ソ連科学アカデミー経済研究所勤務を経て、1939年にソ連外務人民委員部(外務省)に入る。米州諸国局課長、アメリカ局次長、同局長、駐アメリカ大使館参事官を歴任する。第二次世界大戦中の1943年に駐アメリカ大使に抜擢され、大戦中は1944年ダンバートン・オークス会議1945年ヤルタ会談など主要な国際会議に出席し、特にアメリカとソ連の関係強化に動いた。

1946年から1948年まで国際連合安全保障理事会のソビエト連邦常任代表を務め、この間に何度も拒否権を行使したことから、「ミスター・ニェット(ニェット、нетは、ロシア語のノーに当たる)」の異名を奉られた。(後述

1951年サンフランシスコ会議でもソ連代表として出席したが、講和条約の内容に反対し、署名しなかった。その後外務次官、駐イギリス大使などを歴任する。駐イギリス大使時代には、日ソ共同宣言に先立つロンドン交渉でソ連側の代表に立った。

1955年に外務次官を経て、フルシチョフ政権の1957年に外務大臣に就任した。以後は1985年シェワルナゼと交代するまで、28年間に渡って冷戦時代のソ連の外交を担った。ブレジネフ時代の1960年代後半から1970年代にかけてのデタント(緊張緩和)を実現するが、1979年アフガニスタン侵攻によって新冷戦を招いた。

ミスター・ニェット[編集]

グロムイコには「ミスター・ニェット」と言う別名が存在するが、これは国際連合安全保障理事会ソビエト連邦代表と外務大臣を務めていた時に国際会議において、西側諸国が提出した議案で特にソ連にとって不利益となる議案に容赦無く拒否権を行使したり、反対票を投じていたことに由来するものである。ちなみにニェット(нет)はロシア語で英語の「No」に当たり、グロムイコは特に国際連合安全保障理事会ソビエト連邦代表時代において、何度も拒否権を行使している。

政治家として[編集]

この間1956年には党中央委員に選出され、1973年4月には党政治局員となる。元来ソ連外務省は、他のソ連の国家機関と同様にソ連共産党の国際部や社会主義連絡部などの指導を受けて外交を実施する機関であったが、1970年代から閣僚会議が膨大な官僚を擁して行政府として強大化していったことと軌を一にしたことと、グロムイコの外務大臣の在職が長期化したことに連れて、その政治的権威も増大していった。

1975年以降はブレジネフの指導力が低下するに連れて、KGB議長のユーリ・アンドロポフ、国防相のドミトリー・ウスチノフと共にトロイカを形成し、ソ連の政策決定に大きな役割を果たすようになる。1982年11月10日にブレジネフが亡くなった後、アンドロポフが後任の書記長に選出された。その直後アンドロポフは、グロムイコにブレジネフが生前兼ねていた憲法上の国家元首ポストである最高会議幹部会議長への就任を打診した。しかし、このときはグロムイコはそれを固辞した。替わりに1983年からは閣僚会議第一副議長(第一副首相)を兼任した。その後1984年2月のアンドロポフ、1985年3月のコンスタンティン・チェルネンコと書記長の死によって短命な政権が2期続いたことを受け、後継の書記長の選出に当たってはゴルバチョフを強く推した。推薦演説に当たっては、ゴルバチョフを「この人物は若いが、鉄の歯を持っている」と評した。

最高会議幹部会議長に転出[編集]

7月に外務大臣のポストをシェワルナゼに譲り、儀礼的なポストである最高会議幹部会議長(国家元首)に祭り上げられた。これはゴルバチョフが外交の主導権を掌握し、新思考外交を進める上で老齢のグロムイコが障害となったためであると同時に、グロムイコ自身の希望でもあった。一部の西側ジャーナリストは、グロムイコがゴルバチョフの改革に否定的であると考えていたが、グロムイコは回想録の中でゴルバチョフやペレストロイカの方針について好意的に書いている。

1988年6月にロシア正教会1000年祭英語版正教会とともに主催した後、9月30日にゴルバチョフに辞意を伝え、同日開催の党中央委員会総会で政治局員を退任。翌10月1日には最高会議で最高会議幹部会議長から引退。後任の最高会議幹部会議長にはゴルバチョフが就いた。1989年4月に中央委員会からも退いた後、グロムイコは回想録の執筆に取り掛かった。その3ヶ月後、80歳の誕生日を目前に控えた7月2日に血管の病気により死去した。79歳であった。人民代議員大会ではグロムイコの死を追悼し、1分間の黙祷が捧げられた。アメリカジョージ・H・W・ブッシュ大統領はグロムイコの息子であるアナトリーロシア語版に対して哀悼の意を表した。ソ連政府は、他のソ連指導者と同じようにクレムリンの壁墓所にグロムイコの遺体を埋葬することを提案したが、家族の意向によりノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。

著書[編集]

  • 『グロムイコ回想録・ソ連外交秘史』 読売新聞社外報部訳、読売新聞社、1989年。原著も同年
    • なおエリツィンは、著書『告白』(草思社)で最高会議幹部会議長時代のグロムイコの様子が描いており、エリツィンに対しては好意的な姿勢を見せていた。

脚注[編集]

  1. ^ ユリウス暦では7月5日。
  2. ^ グロムイコ』 - コトバンク
  3. ^ Gromyko, Andrei. Memoirs, p. 2. Doubleday, New York, 1990. ISBN 0385412886.
  4. ^ a b 『ロシアとソ連 歴史に消された者たち 古儀式派が変えた超大国の歴史』(269頁)
  5. ^ 戦争と原発事故とベラルーシ人の日常生活 2013年5月30日閲覧

外部リンク[編集]

公職
先代:
ヴァシリー・クズネツォフ
最高会議幹部会議長代行
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦最高会議幹部会議長
第10代:1985年7月2日 - 1988年10月1日
次代:
ミハイル・ゴルバチョフ
先代:
ドミトリー・シェピーロフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦外務大臣
第7代:1957年2月15日 - 1985年7月2日
次代:
エドゥアルド・シェワルナゼ