アンドレイ・グロムイコ
アンドレイ・グロムイコ Андре́й Громы́ко |
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![]() アンドレイ・グロムイコ(1972年)
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生年月日 | 1909年7月5日 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1989年7月2日 (79歳) |
死没地 | ![]() ![]() |
出身校 | ミンスク農業大学 |
所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
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在任期間 | 1985年7月2日 - 1988年10月1日 |
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在任期間 | 1983年3月24日 - 1985年7月2日 |
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在任期間 | 1957年2月14日 - 1985年7月2日 |
アンドレイ・アンドレーエヴィチ・グロムイコ(ロシア語: Андре́й Андре́евич Громы́ко, ラテン文字表記の例:Andrei Andreevich Gromyko, 1909年7月18日(ユリウス暦7月5日) - 1989年7月2日)は、ソビエト連邦の外交官、政治家。28年の長きにわたってソ連の外務大臣を務め、ミスター・ニエットの異名で知られた。
ミハイル・ゴルバチョフ政権時代にエドゥアルド・シェワルナゼと外務大臣を交代し、ソ連閣僚会議第一副議長(第一副首相)、そして国家元首に相当するソビエト連邦最高会議幹部会議長を歴任した。
生涯[編集]
外交官時代[編集]
1909年7月6日、ロシア帝国時代の白ロシア(現在のベラルーシ)ホメリ州の農家に生まれる[1]。出身村は古グロムイコ村で、正教古儀式派のベロクリニツキー派の信徒といわれる[2][3]。祖先は17世紀にニーコン総主教およびその後の改革から逃れ、1684年にポーランドのベトカ村を作り住み着いた古儀式派の流れであり、18世紀のエカチェリーナ2世期には2万5,000人の同郷者がシベリアに追放されたという[2]。1931年にソ連共産党に入党。1932年にミンスク農業大学を卒業する。ソ連科学アカデミー経済研究所勤務を経て、1939年にソ連外務人民委員部(外務省)に入る。米州諸国局課長、アメリカ局次長、同局長、駐米大使館参事官を歴任する。第二次世界大戦中の1943年駐米大使に抜擢され、大戦中は1944年のダンバートン=オークス会議、1945年のヤルタ会談など主要な国際会議に出席し、とくにアメリカとソ連の関係強化に動いた。
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ジェームズ・F・バーンズ米国務長官と(1945年)右は外務人民委員代理だったアンドレイ・ヴィシンスキー
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ポツダム会談にて(中央ハリー・S・トルーマン米大統領とバーンズ国務長官との間の人物。一番右はヴャチェスラフ・モロトフソ連外相、一番左はスターリンソ連首相)
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ジョン・F・ケネディ大統領と会談するグロムイコらソ連外交団
1946年から1949年まで国際連合安全保障理事会のソ連代表を務め、この間に何度も拒否権を行使したことから、「ミスター・ニェット(ニェットнетは、ロシア語のノーにあたる)」の異名を奉られた。1951年のサンフランシスコ会議でもソ連代表として出席したが、講和条約の内容に反対し、署名をしなかった。その後、外務次官、駐英大使などを歴任する。駐英大使時代には、日ソ共同宣言に先立つロンドン交渉でソ連側の代表に立った。
1955年に外務次官を経て、ニキータ・フルシチョフ政権の1957年に外務大臣に就任した。以後、1985年にエドゥアルド・シェワルナゼと交代するまで、28年間にわたって冷戦時代のソ連外交を担った。ブレジネフ時代の1960年代後半から1970年代にかけてのデタント(緊張緩和)を実現するが、1979年のアフガニスタン侵攻によって新冷戦を招いた。
政治家として[編集]
この間、1956年には党中央委員に選出され、1973年4月には党政治局員となる。元来ソ連外務省は、ほかのソ連の国家機関同様、ソ連共産党の国際部や社会主義連絡部などの指導を受けて、外交を実施する機関であったが、1970年代からソ連閣僚会議が膨大な官僚を擁して行政府として強大化していったことと軌を一にしたこと、そしてグロムイコの外務大臣の在職が長期化したことに連れて、その政治的権威も増大していった。
ブレジネフ政権末期からグロムイコは、古参閣僚としてキングメーカー的な存在感を増すようになる。ユーリ・アンドロポフ政権の1983年からは閣僚会議第一副議長(第一副首相)を兼任した。その後アンドロポフの死去(1984年、2月)、さらには1985年3月のコンスタンティン・チェルネンコ書記長の死去と短命な政権が二期続いたことを受け、後継書記長の選出に当たってはゴルバチョフを強く推した。推薦演説に当たっては、ゴルバチョフを「この人物は若いが、鉄の歯を持っている」と評した。
ミスター・ニェット[編集]
グロムイコの別名に「ミスター・ニェット」なるものが存在するが、これは国際連合安全保障理事会のソ連代表や外務大臣時代、国際会議において、西側提出の議案、とくにソ連の不利益となる議案にグロムイコが容赦なく拒否権を行使したり、反対票を投じていたことから来たものである(ニェットнетは、ロシア語で英語のno(否定)にあたる)。グロムイコは特に国際連合安全保障理事会ソ連代表時代において、何度も拒否権を行使している。
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バレント・ビースフーヴェルオランダ首相と(1972年)
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全欧安全保障協力会議で演説するグロムイコ(1984年)
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ホメリにあるグロムイコ像
最高会議幹部会議長に転出[編集]
しかし、皮肉にもゴルバチョフの鉄の歯はグロムイコ自身にも向かった。7月に外務大臣のポストをシェワルナゼに譲り、最高会議幹部会議長に祭り上げられた。これはゴルバチョフが外交の主導権を掌握し、新思考外交を進める上で老齢のグロムイコが障害となったためである。
1988年6月にロシア正教会1000年祭を正教会とともに主催した後、10月に政治局員・最高会議幹部会議長から引退、1989年4月には中央委員会からも退き、その3か月後の7月2日に死去。79歳没。
著書[編集]
著書に『回想録』(1989年、邦題は『グロムイコ回想録・ソ連外交秘史』 読売新聞社)がある。エリツィンの著書『告白』(草思社)には、最高会議幹部会議長時代のグロムイコの様子が描かれており、エリツィンに対しては好意的な姿勢を見せていた。
脚注[編集]
- ^ Gromyko, Andrei. Memoirs, p. 2. Doubleday, New York, 1990. ISBN 0385412886.
- ^ a b 『ロシアとソ連 歴史に消された者たち 古儀式派が変えた超大国の歴史』(269頁)
- ^ 戦争と原発事故とベラルーシ人の日常生活 2013年5月30日閲覧
公職 | ||
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先代: ヴァシリー・クズネツォフ (最高会議幹部会議長代行) |
![]() 第10代:1985年 - 1988年 |
次代: ミハイル・ゴルバチョフ |
先代: ドミトリー・シェピーロフ |
![]() 第7代:1957年 - 1985年 |
次代: エドゥアルド・シェワルナゼ |
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