ドミトリー・シェピーロフ

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ドミトリー・シェピーロフ
Дмитрий Шепилов
Dmitri Shepilov 1955b.jpg
ドミトリー・シェピーロフ(1955年6月)
生年月日 1905年11月5日ユリウス暦 10月23日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国アシハバード
没年月日 1995年8月18日(1995-08-18)(89歳)
死没地 ロシアの旗 ロシアモスクワ
出身校 モスクワ大学
現職 経済学者
所属政党 ソビエト連邦共産党

在任期間 1956年6月1日 - 1957年2月15日
首相 ニコライ・ブルガーニン

プラウダ編集長
在任期間 1952年 - 1956年

中央委員会宣伝部長
在任期間 1949年7月20日 - 1952年10月27日

第19期政治局員候補
在任期間 1956年2月27日 - 1957年6月29日

第19-20期書記局
在任期間 1956年12月7日 - 12月24日
1957年2月14日 - 6月29日
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ドミトリー・トロフィーモヴィチ・シェピーロフ(ロシア語: Дмитрий Трофимович Шепилов1905年11月5日ロシア旧暦10月23日 - 1995年8月8日)は、ソビエト連邦農業経済学、政治家。日ソ共同宣言調印時の外相英語版1957年反党グループ事件に関与した。

生涯[編集]

前半生[編集]

アシハバード(現在のトルクメニスタン共和国アシガバート)の労働者の家庭に生まれる。1926年モスクワ大学法学部を卒業、ヤクート共和国次席検事、検事正代理となり、1928年から1929年まで西部州(現スモレンスク州)検事補を務める。1931年から1933年までモスクワ赤色教授研究所英語版で学びながら[1]、雑誌『農業戦線』の責任書記を務める。1933年同研究所卒業、ソフホーズの政治課長、1935年ソビエト連邦共産党中央委員会農業科学部門副主任となる。

理学博士号を取得、ソ連科学アカデミー経済学研究所科学書記となる。1937年から1941年までモスクワの各大学で経済学を教える。

バルバロッサ作戦開始から間もない1941年7月、シェピーロフはソビエト人民義勇軍に加わり、1941年から1942年モスクワの戦いでは、義勇軍モスクワ支部の政治委員であった。1942年から1943年まで第24軍で、1944年から1946年まで第4親衛軍で政治委員を務める。終戦時の階級は少将オーストリア東部のソビエト占領期初期にあたる1945年5月から翌1946年2月まで、ソ連軍幹部としてウィーンに駐在した。

権力闘争[編集]

1946年2月、シェピーロフはソ連軍政治総局宣伝・扇動局副局長に任命された。1946年8月2日には共産党機関紙『プラウダ』宣伝部長となる。

1947年半ば、共産党中央委員会宣伝・扇動局長ゲオルギー・アレクサンドロフが、その著書中でロシアの思想家の業績を過小評価しているとして公然批判され、他の宣伝・扇動局幹部らとともに失脚。同年9月18日、シェピーロフが宣伝・扇動局第一副局長に任命される。新しく宣伝・扇動局長になったミハイル・スースロフは他の公務を兼任しており、シェピーロフが宣伝・扇動局の日常業務をほぼ統括することになった。

モスクワ時代のシェピーロフは、細部まで鮮明な記憶力と博識と洗練された身のこなしで知られ、ヨシフ・スターリン側近で共産主義イデオロギーの責任者であったアンドレイ・ジダーノフの下で共産主義イデオロギーを担当した[2]。1947年12月1日アンドレイ・ジダーノフの息子ユーリ英語版が宣伝・扇動局科学部門主任に任命されたことで、シェピーロフは、上司の息子を指導監督するという微妙な立場に置かれた。さらにユーリがスターリンの娘スヴェトラーナと結婚したこと、アンドレイ・ジダーノフは当時スターリンにもっとも近い側近で、ソビエト指導部内に政敵が多かったことで、難しい対応を迫られることになった。

1948年4月、シェピーロフの承認のもと、ユーリ・ジダーノフが、スターリンが後押ししていた生物学者トロフィム・ルイセンコを批判、これを利用してアンドレイ・ジダーノフの権威を失墜させようとする政治局員とジダーノフとの間で激しい政治対立が生じた[3]。同年7月1日、対立陣営の中心人物であるゲオルギー・マレンコフが共産党書記局を掌握、シダーノフは2カ月の休暇を与えられ休暇中に急逝した。しかしシェピーロフはこの政変を乗りきり、さらに同年7月10日、宣伝・扇動局長に昇進。続いて起きた共産党政治局員ニコライ・ヴォズネセンスキーの失脚、処刑にいたる党内抗争もひとまず乗りきったものの、ヴォズネセンスキーがまだ権力の座にあったときに、共産党の理論誌『ボリシェヴィキ英語版』によるヴォズネセンスキーの経済学書の出版をシェピーロフが許可していたことで、1949年7月14日に批判される[4]。1950年~1958年、ソ連最高会議代議員。

1952年、スターリンの指示により、スターリンが発表した論文「ソ連の社会主義における経済問題」に基づく経済学教科書を執筆[5]。同年11月18日、第19回共産党大会で『プラウダ』編集長に任命される[6]

フルシチョフの理論的支柱[編集]

1953年3月にスターリンが死去、シェピーロフは新指導者ニキータ・フルシチョフに与し[7]、首相マレンコフと争うフルシチョフを理論面で支えた。同年ソビエト科学アカデミー通信会員となる。マレンコフが消費財の増産を主張したのに対し、シェピーロフは重工業、国防産業の重点化を説き、マレンコフを以下のように批判した。

一般に理解される言葉で言えば、これは重工業、機械製作、エネルギー、化学工業、電子、ジェット工学、誘導システムなどの研究開発推進の利益を帝国主義世界…に明け渡すことである。さらなる人民の武力放棄につながりかねないこれ以上の反社会主義的腐敗理論は想起することも難しい。[8]

1955年2月、マレンコフは首相を解任された。一方シェピーロフは同年7月12日、党中央委員会書記に選出され、引き続き『プラウダ』編集長を担当したほか共産主義理論上級研究員となり、1956年2月の第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を行ったいわゆる「秘密演説」の起草に関わった。

ソ連外相[編集]

シェピーロフの専門分野は共産主義イデオロギーであったが、やがて外交政策にも関わることになる。1947~1948年に始まったソ連とユーゴスラビアの間の対立を解消するため、1955年5月、フルシチョフと、新たに首相に就任したニコライ・ブルガーニンとともにユーゴスラビアを訪問した。当時のユーゴスラビア政府指導者だったヴェリコ・ミチュノヴィチセルビア・クロアチア語版がそのときの様子を語っている。

チトーとの昼食会の席上、先ほどシェピーロフから説明を受けた事項についてフルシチョフは何度もシェピーロフに確認した。ミチュノビッチは言う。「シェピーロフはそのつどテーブルナプキンをはずし、席から立ち上がってあたかも公式報告のように、そのとおりでございます、第一書記、と返答し、また座りなおした。私はシェピーロフの態度にも、それを受けて平然としているフルシチョフにも非常に違和感を持った」[9]

1955年7月、エジプトを訪問したシェピーロフはガマール・アブドゥン=ナセルと会談、武器供与協定を締結した。これはソ連によるエジプト軍政の事実上の承認であり、後のエジプトとの同盟関係に道を開くものであった[10]。またこれは非共産圏第三世界諸国との外交においてそれまでにない柔軟性を示し、スターリン時代の非協調路線とは一線を画す出来事であった。第20回ソビエト共産党大会後の1956年2月27日、シェピーロフは中央委員会幹部会(1952年以前および1966年以降の政治局にあたる)の委員候補(議決権のない委員)となる[11]

1956年7月1日ヴャチェスラフ・モロトフに代わりソ連外相に就任。『プラウダ』編集長は退任したが、中央委員会書記には12月24日までとどまった[12]。1956年7月はじめシェピーロフは再びエジプトを訪問、アスワン・ハイ・ダムの建設協力を申し出た。エジプトと西側諸国の関係悪化にともない同月アメリカの主導する世界銀行の資金供与が引き上げられると、エジプトはソ連の提供を受け入れた。

1956年7月26日、ナセルがスエズ運河国有化を宣言すると、翌27日、シェピーロフはソ連駐在エジプト大使と会い、エジプトを全面支持することを申し出た。このエジプト支持の姿勢は7月31日のフルシチョフの演説で公にされた。スエズ運河の自由航行に関する条約調印国として、ソ連も8月中旬にロンドンで開かれたスエズ問題に関する国際会議に招かれたが、シェピーロフははじめ参加を見合わせていた。しかし政府指導部により参加の方針が決まると、ソ連代表団団長として会議に参加。会議ではスエズ運河を国際管理下に置くというアメリカの提案が18対4で採択されたが、シェピーロフは指導部の指示どおりインドインドネシアセイロンの票を得ることに成功した。

1956年10、11月のハンガリー動乱スエズ危機の間、シェピーロフは国連安全保障理事会ソ連代表だったが、あらゆる重要な政治判断はフルシチョフや他のソ連指導者によるものであった[13]

作曲家会議[編集]

1957年2月14日、シェピーロフは再び党中央委員会書記に就き[14]、共産主義イデオロギーを担当。翌日アンドレイ・グロムイコが外相に就任する。党中央書記として1957年3月、第2回作曲家会議に参加、1948年1月の第1回会議で決議されたドミートリイ・ショスタコーヴィチ以下のモダニズム作曲家非難を再確認した[15]。同年、この会議の後にショスタコーヴィチがひそかに作曲したピアノ、4人のバス、合唱のための風刺カンタータ『反形式主義的ラヨーク』(1989年公開初演)では、司会者に続いて登場するイェジニーツィン、ドヴォイキン、トロイキンの3人をそれぞれスターリン、ジダーノフ、シェピーロフに擬している。シェピーロフはまたジャズロックを、「野蛮な原始人の馬鹿騒ぎ」、「本能と劣情の暴発」と批判した[16]

失脚[編集]

1957年6月のいわゆる反党グループ事件で、幹部会の多数のメンバーがフルシチョフを排除しようとしたとき、反フルシチョフ派の中央委員会書記はシェピーロフだけだった。シェピーロフは謀略の最後の段階で、幹部会の多数が参画しているとラーザリ・カガノーヴィチに説得されて謀議に加わったとされる[7]。中央委員会を掌握したフルシチョフはシェピーロフの裏切りを見て激怒、1957年6月29日にシェピーロフは党中央委員会委員を解任され、すでにクーデター加担が明らかになっていた他の三人(モロトフ、マレンコフ、カガノーヴィチ)とともに報道機関を通じて非難された。シェピーロフと親しかったゲオルギー・ジューコフ元帥も数カ月後、おそらくこの事件の影響もあって解任された。

党中央委員会の職を失った後、シェピーロフはキルギスタン科学アカデミー経済研究所長に就任したが、すぐに副所長に降格した。1960年にモスクワに呼び戻されソビエト科学アカデミーから追放、1982年に退職するまでソビエト国立公文書館(ゴサルヒーフ)の館員として働く。1961年11月の第22回共産党大会での第2次「反党グループ」批判を受け、1962年2月21日共産党を除名。1976年共産党に再入党するも、主要な地位に就くことはなかった。

1964年10月にフルシチョフが失脚すると、シェピーロフは回想録を書き始める。執筆は1970年頃まで断続的に続いた。1982年、年金生活に入る。89歳でモスクワで死去。回想録は一時原稿が紛失するが、後に発見され2001年に出版された。

「そしてそこに加わったシェピーロフ」[編集]

「そしてそこに加わったシェピーロフ」というフレーズがニュース報道で盛んに繰り返され、ソ連時代のアネクドートにもなった。

  • もっとも長い姓は?とエレバン放送に質問したところ、回答は「イプリムクヌーフシィクニムシェピーロフ(ロシア語: Ипримкнувшийкнимшепилов、そしてそこに加わったシェピーロフ)」だった。
  • 昔ロシアでは1本のウォトカを3人で空ける風習があったが、ときに4人目が加わることもあった。4人目の人物は後世「シェピーロフ」と呼ばれることになる。

これらのアネクドートは反党グループ事件の首謀者をソ連の報道機関が「3人の主犯格、そしてそこに加わったシェピーロフ」と表現したことを皮肉ったものである。

脚注[編集]

  1. ^ William Taubman. Khrushchev: The Man and His Era, New York, W. W. Norton and Co., 2003, ISBN 0-393-05144-7 p.314.
  2. ^ Transcripts of frank conversations between Zhdanov and Shepilov in Jonathan Brent and Vladimir Naumov. Stalin's Last Crime: The Plot Against the Jewish Doctors, 1948-1953, Harper Collins Publishers, 2003, ISBN 0-06-093310-0 p.79.
  3. ^ See Alexei Kojevnikov. "Games of Stalinist Democracy: ideological discussions in the Soviet sciences 1947-1952" in Stalinism: New Directions, ed. Sheila Fitzpatrick, London, Routledge, ISBN 0-415-15234-8 p.158-159
  4. ^ Current Digest of the Soviet Press, Volume 4, No. 50, 24 January 1953, p. 15.
  5. ^ I primknuvshii k nim Shepilov: pravda o cheloveke uchyonom, voine, politike, eds. Tamara Tochanova and Mikhail Lozhnikov, Moscow, 1998, pp. 127-28, 180-82, 281-82
  6. ^ See Yoram Gorlizki, Oleg V Khlevniuk. Cold Peace: Stalin and the Soviet Ruling Circle, 1945-1953, Oxford University Press, 2004, ISBN 0-19-516581-0 p.215
  7. ^ a b Taubman, 上掲書、p.313.
  8. ^ ローレンス・フリードマンによる1955年1月24日付『プラウダ』の引用。The Evolution of Nuclear Strategy, New York, Palgrave Macmillan, 2003 (third edition), ISBN 0-312-02843-1 p.140
  9. ^ 引用符とも Taubman, 上掲書、 p. 312
  10. ^ Rami Ginat. The Soviet Union and Egypt, 1945-1955, London, Frank Cass and Company Ltd., 1993, ISBN 0-7146-3486-7 pp. 213-214.
  11. ^ USSR: Communist Party: Presidium at www.archontology.org
  12. ^ 中央委員会書記の任命、解任は中央委員会本会議で行われるため、形式上次の本会議開催まで書記職にあった。
  13. ^ Laurent Rucker. "The Soviet Union and the Suez Crisis", in The 1956 War: Collusion and Rivalry in the Middle East, ed. David Tal, London, Frank Cass Publishers, 2001, ISBN 0-7146-4394-7 pp.67-82.
  14. ^ USSR: Communist Party: Secretariat at www.archontology.org
  15. ^ L.N. Lebedinsky. "Rayok: The Music Lesson" in Modernism and Music: An Anthropology of Sources, ed. Daniel Albright, University of Chicago, 2004, ISBN 0-226-01267-0 p.363. また Daniel Zhitomirsky. "Shostakovich the public and the private: reminiscences, materials, comments" in Daugava, 1990, No. 3. An English translation is available online as of March 2006
  16. ^ Quoted in David Caute. The Dancer Defects: The Struggle for Cultural Supremacy During the Cold War, Oxford University Press, 2003, ISBN 0-19-924908-3 p.457

関連資料[編集]

  • (ロシア語) I primknuvshii k nim Shepilov: pravda o cheloveke, uchyonom, voine, politike, eds. Tamara Tochanova and Mikhail Lozhnikov, Moscow, 1998.
  • (ロシア語) Dmitry Shepilov. "Vospominaniia" in Voprosy istorii 1998, no. 4.
  • (ロシア語) Biography
  • (ロシア語) K.A. Zalessky. Imperiya Stalina. Biograficheckij Entsiklopedicheskij slovar'. Moscow, Veche, 2000. ISBN 5-7838-0716-8

自伝[編集]

ロシア語伝記[編集]

  • Obshchestvennoe i lichnoe v kolkhozakh, 1939, 79p.
  • Velikij sovetskij narod, Moscow, 1947, 47p.
  • I. V. Stalin o kharaktere ekonomicheskikh zakonov sotsializma, Moscow, Gosudarstvennoe izdatel'stwo politicheckoj literatury, 1952, 35p.
  • Pechat' w bor'be za dal'nejshij pod'em sel'skogo hozyajstwa, Moscow, Gosudarstvennoe izdatel'stwo politicheckoj literatury, 1954, 63p.
  • Za dal'nejshij rastsvet sovetskogo hudozhestvennogo tvorchestva, 1957, 31p.

英語伝記[編集]

  • Speech at the 20th Congress of the C. P. S. U., February 15, 1956, Moscow, Foreign Languages Publishing House, 1956, 28 p.
  • The Suez Problem, Moscow, Foreign Languages Publishing House, 1956, 95p.
公職
先代:
ヴャチェスラフ・モロトフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦外務大臣
第6代:1956年 - 1957年
次代:
アンドレイ・グロムイコ