ドミトリー・ウスチノフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ドミトリー・ウスチノフ
Дмитрий Устинов
Il ministro della difesa dell'URSS Dmitrij Ustinov.jpg
生年月日 1908年10月30日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サマーラ
没年月日 (1984-12-20) 1984年12月20日(76歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic.svg ロシア共和国 モスクワ
所属政党 КПСС.svg ソ連共産党
称号 Hero of Socialist Labor medal.svg Золотая Звезда Героя Советского Союза.svg Rank insignia of маршал Советского Союза.svg
サイン Автограф Маршала Советского Союза Д.Ф. Устинова.png

在任期間 1976年7月30日 - 1984年12月20日
最高指導者 レオニード・ブレジネフ
ユーリ・アンドロポフ
コンスタンティン・チェルネンコ

ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦第一副首相
在任期間 1963年3月13日 - 1965年3月26日

その他の職歴
КПСС.svg ソ連共産党政治局局員
1976年3月5日 - 1984年12月20日
КПСС.svg ソ連共産党書記局局員
1965年3月26日 - 1976年10月26日
テンプレートを表示

ドミトリー・フョードロヴィッチ・ウスチノフロシア語: Дмитрий Федорович Устинов、Dmitri Fyodorovich Ustinov、1908年10月30日 - 1984年12月20日)は、ソビエト連邦政治家ブレジネフアンドロポフチェルネンコ時代のソ連国防相。半世紀にわたり、ソ連軍需産業の育成と運営にあたり、冷戦時代のソ連をアメリカと並ぶ軍事大国に押し上げるのに巨大な役割を果たした。

経歴[編集]

ロシア帝国ヴォルガ河畔の町、サマーラの労働者の家庭に生まれる。製紙工場で機械工として働くなど、いくつかの職場を経て、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の軍事機械大学に入学する。設計技師を資格を取得する。卒業後、レニングラード市の軍事工場「ボリシェビーク」に就職。1937年に同工場の企業長となる。

1941年6月独ソ戦の直前に32歳でソ連軍需工業人民委員に抜擢される。ドイツ軍の攻撃からソ連の軍需産業を守るため、数週間でウラル地方への軍需産業の疎開を実現した他、兵器の大増産に抜群の事務能力を発揮して、ソ連軍の反攻作戦に多大な貢献をし、「社会主義労働英雄」と、文官ながらソ連軍技師・技手勤務大将の称号を授与された。

フルシチョフ時代には、国防工業相として、引き続きソ連軍産複合体を統括し、1957年ロケット、兵器、原子力産業担当の副首相となる。ミサイルやロケットの開発を推進した。1961年ユーリ・ガガーリンによる人類初の宇宙飛行を成功させた功により、再度「社会主義労働英雄」の称号を得た。1963年第一副首相となり、軍需の他、民間工業も担当した。

ブレジネフ時代、再び軍事工業部門に復帰する。1966年4月、第23回党大会でソ連共産党中央委員会書記(国防産業担当)に就任し、これを1976年10月まで務め、アメリカに拮抗する核戦力を構築した。また同時に、党政治局員候補に選出され、1976年3月には党政治局員となった。同年4月、在職中に死去したアンドレイ・グレチコ元帥の後任としてソ連国防相に就任し、あわせて上級大将に昇進。次いで7月30日、ソ連邦元帥の称号を授与された。

1979年アフガニスタン戦争開戦を決定する政治局会議に参加。1982年のアンドロポフ、1984年のチェルネンコ両書記長の選出に力を貸し、ミハイル・スースロフの死後、「クレムリンキングメーカー」とその実力を恐れられた。一方で、1979年の米ソ首脳会談に同席した際、アメリカ側にぬいぐるみを贈って「厭な目にあわされない限り、平和で大人しいのが、この動物だ」と語るようなエピソードも持つ。

1984年12月20日モスクワで死去。遺骨はクレムリンの壁に葬られた。76歳。イジェフスク市はウスチノフの死後、ウスチノフを記念して「ウスチノフ市」と改名されたが、ゴルバチョフ就任後の1987年に元の名に戻された。

先代:
アンドレイ・グレチコ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦国防相
1976年 - 1984年
次代:
セルゲイ・ソコロフ