ミハイル・スースロフ
| ミハイル・スースロフ Михаил Суслов | |
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ミハイル・スースロフ(1964年) | |
| 生年月日 | 1902年11月21日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1982年1月25日(79歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | プレハーノフ記念ロシア経済アカデミー |
| 前職 | 経済学者、エコノミスト |
| 所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
| 称号 |
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| 配偶者 | エリザヴェータ・アレクサンドローヴナ・スースロヴァ |
| 子女 |
レヴォリー(1929年生) マイーヤ(1939年生) |
第19-26期政治局員 | |
| 在任期間 | 1952年10月16日 - 1953年3月5日 |
| 在任期間 | 1955年7月12日 - 1982年1月25日 |
第18-26期書記局員 | |
| 在任期間 | 1947年5月24日 - 1982年1月25日 |
第18期組織局員 | |
| 在任期間 | 1946年3月18日 - 1952年10月14日 |
ミハイル・アンドレーエヴィチ・スースロフ(ロシア語: Михаил Андреевич Суслов, ラテン文字転写: Mikhail Andreevich Suslov、1902年11月21日 - 1982年1月25日)は、ソビエト連邦の政治家。フルシチョフ、ブレジネフ時代のソ連共産党イデオロギー担当書記。クレムリンに君臨し、その黒幕的な役割から、「灰色の枢機卿」、「陰の実力者」の異名をとった。
経歴[編集]
ロシアのシャホブスコエ(現在のウリヤノフスク州)に小作農の家庭に生まれる。1921年ロシア共産党(ボリシェヴィキ)に入党した。1928年プレハーノフ記念モスクワ国民経済大学を卒業する。さらに1931年共産主義アカデミーを卒業。同アカデミーでは、スースロフが後に共産党の理論家として活躍する素地を形成した。1931年アカデミー卒業後、ソ連共産党中央統制委員会に入り、NKVDの高官として1930年代のヨシフ・スターリンの大粛清に参画、レフ・トロツキー、ニコライ・ブハーリン、グリゴリー・ジノヴィエフ一派を粛清した。
1937年ロストフ州党書記、1939年スタヴロポリ地方党第一書記を歴任し、少壮の党官僚として昇進を重ねる。第二次世界大戦時には、スターリンの指令の下、チェチェン人、イングーシ人などのカフカース地方の諸民族をカザフに強制移住させた。1944年ドイツから奪回したバルト三国のひとつ、リトアニアに共産党リトアニア議長として入り、再度の社会主義化に着手すると同時に、約6万人のリトアニア人を「リトアニア民族主義者」の烙印の下、シベリアに送った。
第二次世界大戦が終了すると、スースロフは再びイデオロギー分野に戻る。1946年共産党中央委員会宣伝部長、1949年共産党機関紙『プラウダ』編集長、1950年マルクス・レーニン主義研究所所長を歴任した。1947年のコミンフォルム結成や、1948年から1949年にかけてヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビアに対するコミンフォルムによる制裁に大きな役割を果たした。
1947年には党中央委員会書記、1952年に政治局員に選出された。1954年、ソ連最高会議連邦会議外交委員長に選ばれる。 スターリンの死後に政治局員を解任されるが、1955年には政治局改め党幹部会員として復活した。スターリン亡き後の権力闘争(1957年の「反党グループ事件」など)では、ニキータ・フルシチョフを支持した。スースロフは、1964年10月のフルシチョフ解任劇をアレクセイ・コスイギンとともに直前まで知らされていなかったことがペトロ・シェレストの回想録などから明らかになっている。スースロフ以降、イデオロギー担当書記は政治局員と最高会議連邦会議外交委員長を兼ねて「第二書記」と見做されるようになり、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコ、ミハイル・ゴルバチョフの先例となった。
1956年のハンガリー動乱及び1968年のチェコスロバキアの「プラハの春」の弾圧や、1979年のアフガニスタン侵攻、1981年のポーランド軍政施行など、制限主権論に基づく「ブレジネフ・ドクトリン」を編み出し、ネオ・スターリニストとしてソ連外交をタカ派路線で唱導した。
1968年には日本共産党との関係正常化のために訪日したが、「日本のこえ」派との断絶問題で合意が成立せず、正常化はならなかった。
1982年1月25日、心臓病のため死去。79歳没。「キングメーカー」の地位は、ドミトリー・ウスチノフに受け継がれた。スースロフの葬儀は大々的に行われ、1953年のスターリンの葬儀以来最大のものとなった。ソ連全土で4日間の服喪期間が設けられ、1月29日の葬儀の日には小学校から大学まで休校となり、モスクワに出入りする道路は完全に封鎖された。ソ連の全てのテレビ局が、赤の広場で行われた葬儀をソ連全土に中継で放映した。遺体はレーニン廟裏の革命元勲墓に埋葬された。
表彰[編集]
スースロフは存命中に、いくつもの勲章やメダルを授与されていた。社会主義労働英雄2回、レーニン勲章5回、十月革命勲章、及び1等祖国戦争勲章が1回ずつ授与された。ソ連科学アカデミーはカール・マルクス金賞をスースロフに授与した。他にもドイツ民主共和国、モンゴル人民共和国、チェコスロバキア社会主義共和国の最高賞を受賞していた。
評価[編集]
スースロフは、とかく身内のスキャンダルが絶えなかったブレジネフ書記長に降りかかる火の粉を振り払うのに、強いリーダーシップを発揮したと言われている。実際、スースロフの死後、ブレジネフ周辺には汚職追及の捜査の手がどんどん狭まっていくことになり、逮捕者・自殺者が続出した。さらに、本来最高機密であるはずのそうした情報が、逐一モスクワ市民や西側メディアの知るところとなり、その黒幕はユーリ・アンドロポフ国家保安委員会(KGB)議長であると囁かれた[1]。スースロフの死後、ブレジネフは急速にその求心力を落とし、同年11月に死去。そして後継者となったのはアンドロポフであった。
脚注[編集]
- ^ 今井博『モスクワ特派員報告-ニュースの裏側-』(岩波新書, 1985年)
関連項目[編集]
- レーニン勲章受章者
- 十月革命勲章受章者
- 社会主義労働英雄
- クレメント・ゴットワルト勲章受章者
- ソビエト連邦共産党中央委員会政治局の人物
- 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会組織局の人物
- ソビエト連邦共産党中央委員会書記
- ソビエト連邦共産党スタヴロポリ地方委員会第一書記
- ロストフ州の政治家
- ソビエト連邦共産党中央監査委員会の人物
- 第2回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第3回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第4回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第6回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第7回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第8回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第9回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第10回ソビエト連邦最高会議の代議員
- プラウダ編集長
- モスクワ大学の教員
- サラトフ県出身の人物
- 1902年生
- 1982年没