エカチェリーナ2世

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エカチェリーナ2世
Екатерина II
ロシア女帝(ツァリーツァ)
Catherine II by J.B.Lampi (1780s, Kunsthistorisches Museum).jpg
1780年代、ランピ
在位 1762年6月28日ロシア暦)/7月9日グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)
戴冠 1762年9月12日(ロシア暦)/10月3日(グレゴリオ暦)、於モスクワ・ウスペンスキー大聖堂
別号 ロシア皇后 (ツァリーツァ)царицы
大帝 (ヴェリーカヤ)Вели́кая
全名 Sophie Auguste Frederike
ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ
ロシア語: Екатерина II Алексеевна, ラテン文字転写: Yekaterina II Alekseyevna
エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ
出生 1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国シュテッティン
死去 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)(満67歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクト・ペテルブルク冬宮殿
埋葬 1796年12月
ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクト・ペテルブルクペトロパヴロフスキー大聖堂
配偶者 ピョートル3世
  グリゴリー・ポチョムキン秘密結婚
子女 公式にはピョートル3世との子女、実際にはセルゲイ・サルトゥイコフロシア語版英語版伯爵との子女
パーヴェル1世
公式にはピョートル3世との子女[1]、実際にはスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)との子女
アンナ・ペトロヴナロシア語版ポーランド語版
グリゴリー・オルロフ伯爵との子女
エリザヴェータ・アレクセーエヴナ英語版[2]
アレクセイ・ボーブリンスキーロシア語版
グリゴリー・ポチョムキン公爵との子女
エリザヴェータ・ポチョムキナ(チョムキナ)ロシア語版
王家 アンハルト=ツェルプスト家
ロマノフ家
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
王朝 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝
父親 アンハルト=ツェルプスト侯英語版クリスティアン・アウグスト
母親 ヨハンナ・エリーザベト
宗教 キリスト教ルーテル教会
ロシア正教会
サイン Catherine the Great (signature).png
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エカチェリーナ2世エカチェリーナ2世アレクセーエヴナロシア語: Екатерина II Алексеевна, ラテン文字転写: Yekaterina II Alekseyevna (イカチリーナ・フタラーヤ・アレクセーエヴナ)1729年4月21日ロシア暦)/5月2日グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)は、ロマノフ朝第8代ロシア女帝(在位:1762年6月28日ロシア暦)/7月9日グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦))。夫はピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン秘密結婚)、子はパーヴェル1世ほか。

プロイセンフリードリヒ2世(大王)やオーストリアヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドウクライナに拡大し、大帝 (ヴェリーカヤ)Вели́кая)と称される。

帝政時代ロシア帝国国立銀行ロシア語版が発行していた100ルーブル紙幣の肖像に描かれていたほか、沿ドニエストル共和国国立銀行ロシア語版が発行する500沿ドニエストル・ルーブルにも描かれていた。

日本では従来「エカテリーナ」の表記が多かったが、近年は原音により忠実な「エカチェリーナ」の表記が普及してきた。また、ドイツ語英語由来の「カタリーナ」(Katharina II.)、「カザリン」、「キャサリン」などの表記も散見する。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

幼少期を過ごしたツェルプスト城英語版ドイツ語版

1729年4月21日ロシア暦)/5月2日グレゴリオ暦)、北ドイツ(現在はポーランド領)ポンメルンシュテッティン神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯英語版クリスティアン・アウグストプロイセン軍少将)の娘として生まれ、ルター派の洗礼を受け、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと名づけられた。

母のヨハンナ・エリーザベトは、デンマーク王家オルデンブルク家の分家でやはり北ドイツの小邦領主であるホルシュタイン=ゴットルプ家出身であったが、次兄アドルフ・フレドリクは後にスウェーデンの王位を継承した。弟が2人で、上の弟は12歳で死亡、下の弟フリードリヒ・アウグスト英語版は後にアンハルト=ツェルプスト侯領を継ぐ。

ゾフィーは2歳の時からフランス人ユグノーの家庭教師に育てられ、特に2番目の家庭教師バベ・カルデル嬢にはロシアへ行くまで教えを受けた。その結果、フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に育つ。乗馬も達者だったが、音楽は苦手。それほどの美貌ではなかったが、生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。本来家柄的にはとても大国の后妃候補に挙がる身分ではなかったが、母・ヨハンナの早世した長兄カール・アウグストがロシア女帝エリザヴェータ・ペトロヴナの若かりし頃の婚約者であった縁もあり、ゾフィーは14歳でロシア皇太子妃候補となる。

結婚[編集]

1756年、皇太子夫妻と小姓

1744年サンクト・ペテルブルクに到着。舞踏をランゲに、正教をプスコフ主教(48年からは大主教)シモン・トドールスキイに、ロシア語を、初めてロシア語を体系化したワーシリィ・アダドゥーロフに習う。ロシア語の勉強に熱中したあまり高熱を発して倒れてしまい、エリザヴェータ女帝やロシア国民の心を動かしたという逸話もある。同年、ロシア正教に改宗し、エカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名した。偶然にもエカチェリーナ1世と同じ名をもつことになった。

翌日、エリザヴェータの甥で母方の又従兄にも当たる皇太子のホルシュタイン公ピョートル・フョードロヴィッチと婚約、翌1745年に結婚した。2人ともドイツ育ちのため、ピョートルにとってはとりあえずドイツ語で存分に会話できる相手ではあったらしい。ロシア文化に不慣れであったが、エカチェリーナがロシア語を習得し、ロシア正教にも改宗し、ロシアの貴族や国民に支持される努力を惜しまなかったのに対し、知的障害もあったと思われるピョートルはドイツ風にこだわり続け、ドイツ式の兵隊遊びに熱中し、周囲の反感を買い続けた。ピョートルに唯一人並みの才能があったと思われるまともな趣味は音楽だったが、こればかりはエカチェリーナの方に才能が無かった。

不幸なことに、ピョートルの男性能力の欠陥のため、結婚後も長期間夫婦の関係はなかった。後にピョートルは手術を受け、ようやく夫婦生活が可能になったものの、その頃には既にエカチェリーナはセルゲイ・サルトゥイコフロシア語版英語版伯爵らの男性と半ば公然と関係を持つようになっていた。エリザヴェータ女帝や周囲が世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも、むしろ積極的に勧めたとも言われる。ピョートルの方もミハイル・ヴォロンツォフ大宰相(帝国宰相)の姪エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァロシア語版英語版を寵愛するようになり、夫婦の関係は完全に破綻する。

出産[編集]

日付は全てロシア暦。()内の日付はグレゴリオ暦

皇后のクーデター[編集]

クーデターロシア語版を指揮する馬上のエカチェリーナ(エリクセン画)
戴冠式でのエカチェリーナ2世(エリクセン画)

1761年12月25日(ロシア暦)/1762年1月5日(グレゴリオ暦)にエリザヴェータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝(ツァーリ)に即位、エカチェリーナも皇后(ツァリーツァ)となった。

ピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者で、皇太子時代からエリザヴェータやロシア貴族と対立していた。七年戦争では、ロシア軍がプロイセン領内に侵攻してフリードリヒ2世を追い詰めていたにもかかわらず、ピョートル3世が即位後にいきなりプロイセンと講和条約英語版を結んだことはロシアの内外で不評を買った。また、皇后エカチェリーナを廃し、寵姫エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァロシア語版英語版を皇后に据えようとして、彼女の一族であるヴォロンツォフ一門を重用した上、ルター派の信者だったピョートルはロシア正教会にも弾圧を加えた。

ピョートル3世への怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こるが、愛人関係にあったグリゴリー・オルロフとの子供・アレクセイロシア語版を妊娠中だったエカチェリーナはすぐには動きがとれなかった。

エカチェリーナは4月11日(ロシア暦)/4月22日(グレゴリオ暦)に極秘出産を済ませ、6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦)に近衛軍イズマイロフスキー連隊やロシア正教会の支持を得てクーデターロシア語版を敢行した。

この時、エカチェリーナはロシア軍伝統の緑色の軍服の男装で自ら馬上で指揮を取ったと伝えられ、その凛々しい姿の肖像画が残されている。オルロフ兄弟やエカテリーナ・ダーシュコワ夫人らの尽力で、近衛連隊を始めとする在ペテルブルクの主要な軍隊や反ピョートル3世派の貴族はことごとくエカチェリーナ側に付き、ピョートル3世側についた重臣たちもその多くがお咎めなしで帰参を許されたこともあり、クーデターはほぼ無血で成功した。

在位6ヶ月のピョートル3世は廃位・幽閉され、間もなく監視役のアレクセイ・オルロフ(グリゴリーの実兄)に暗殺されたという。公式には、「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカチェリーナ2世はこれを深く悼む」と発表され、エカチェリーナ2世は自身の関与を否定したが、真相は不明である。

エカチェリーナ2世が政務を執る事では一致したものの、ロマノフ家の血統でないどころか、ロシア人の血を全く引かないエカチェリーナの女帝即位には疑問の声もあり、嗣子パーヴェルを即位させてエカチェリーナは摂政に、という案もあったが、結局はエカチェリーナ自身が正式に女帝として即位することとなり、1762年9月12日(ロシア暦)/10月3日(グレゴリオ暦)にモスクワクレムリンウスペンスキー大聖堂戴冠式を行った。

女帝としての治世[編集]

1780年代、玉座の女帝
エカチェリーナ2世のモノグラム

エカチェリーナ2世は当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、ヴォルテールディドロなどとも文通して、教育の振興・病院の設立・文芸の保護を行った。社会制度の改革にも取り組んだが、当時のロシア社会は女帝の想像以上に未成熟な状態であり、国内で特筆すべき成果を上げることはなかった。

ロシア皇室の血を引かないどころか、生粋のロシア人ですらないエカチェリーナは貴族の支持を必要とし、貴族が反対する大規模な改革は不可能であった。宮廷の実情やクーデターの経緯を知る由もない一般庶民には、ピョートル3世は待望久しい成人男子の皇帝であり、その非業の最期に対する同情と「皇位簒奪者」の女帝に対する反感があったらしく、その死の直後からピョートル3世の僭称者が何人も現れた。

1773年に発生したヴォルガ川流域でのドン・コサック、農民、工場労働者、炭鉱夫、少数民族(バシキール人チュヴァシ人カルムイク人)による大規模な反乱であるプガチョフの乱はその最大のものであったが、1775年には鎮圧される。また、エカチェリーナ2世の戴冠から2年後、かつての皇帝でエリザヴェータ女帝に幽閉されていたイヴァン6世を救出しようとする試みがあったが、失敗してイヴァン6世は看守に殺害された。

対外政策では、オスマン帝国との露土戦争1768年-1774年1787年-1791年)や3回のポーランド分割などを通じてロシア帝国の領土を大きく拡大した。

まず、オスマン帝国との2度にわたる露土戦争(露土戦争 (1768年-1774年)露土戦争 (1787年-1791年))に勝利してウクライナの大部分やクリミア・ハン国を併合し(キュチュク・カイナルジ条約)、バルカン半島進出の基礎(ヤッシーの講和)を築いた(南下政策)。

また、エカチェリーナ2世は第1次第2次第3次ポーランド分割を主導し、ポーランド・リトアニア共和国を消滅させた。ポーランド分割も、ポーランド王位継承に介入して自らが推挙した、かつての愛人でポーランドの有力貴族家門に属する啓蒙思想主義者のスタニスワフ・ポニャトフスキが、即位直後からポーランドを近代民主主義国家にする大改革を断行し、1791年ヨーロッパ初の近代民主憲法(5月3日憲法)を制定した事が原因となった。というのもこの憲法はカトリックの原則の事実上の絶対化により、正教徒の弾圧を正当化したためである。

豪放磊落で派手好みのエカチェリーナ2世は積極的な外交政策を推進した一方で、対外的には啓蒙専制君主と見られることを好み、紛争における仲裁者の役割をしばしば努めようとした。これはそのままロシアの国際的影響力を高めるということでもあった。1780年にはアメリカ独立戦争に際し、中立国としてアメリカへの輸出を推進した。ヨーロッパ諸国に働きかけ、武装中立同盟を結束させた。[要出典]第一次ロシア・スウェーデン戦争でロシア艦隊はフィンランド湾スウェーデン海軍に敗北こそしたものの(1790年)、イギリスプロイセンの仲介により講和し、ロシアの国体には何の影響も及ぼさなかった。

1789年フランス革命には脅威を感じ、晩年には国内を引き締め、自由主義を弾圧した。フランス革命にも関心を示し、1791年ヴァレンヌ事件後にスウェーデングスタフ3世の提唱した「反革命十字軍」の誘いにも前向きであったが(10月には軍事同盟を締結する)、結成は難航し、露土戦争の優先や1792年のグスタフ3世暗殺などで結成は実現化せず、第一次対仏大同盟にも参加しなかった事で、エカチェリーナ2世の治世下ではフランス革命戦争への介入は行われなかった。また、1791年7月当時、神聖ローマ皇帝レオポルト2世ブルボン王家への援助を呼びかけた回状がヨーロッパ君主国に行き渡っており(この呼びかけによりピルニッツ宣言が発せられる)、グスタフ3世の件もあってエカチェリーナ2世自身は反革命に協力的だったが、ちょうど卒中を起こしていて動けなかった。こうした事から、フランス革命に対する関心は個人的には高かったといえるが、当時はロシアと利害の衝突する国の多くがロシアに脅威を感じていた事から、革命に積極的に関与する必要性はロシア国家としては時期的に見出せなかったといえる。[要出典]

晩年[編集]

1794年、晩年の女帝

エカチェリーナの人生と治世は成功に満ちていたが、晩年には孫を巡る二つの失敗があった。

親戚のスウェーデングスタフ・アドルフが1796年9月に訪れた時、エカチェリーナは孫のアレクサンドラを彼と結婚させてスウェーデン王妃にしようとした。9月11日に舞踏会が開かれ、そこで二人の婚約が発表されるはずであった。スウェーデン王はアレクサンドラに魅かれていたが、アレクサンドラがロシア正教会からルーテル教会に改宗しない事を見通し、舞踏会に出席せずにストックホルムに去った。エカチェリーナは衝撃を受け、健康状態は悪化した。後に回復して、お気に入りの孫アレクサンドルが息子パーヴェルをとばして戴冠するための式典を計画し始めた。だが式典の前、舞踏会から2カ月後に女帝は脳梗塞で死亡することになった。

1796年11月5日(ロシア暦)/11月16日(グレゴリオ暦)の朝、エカチェリーナは早く目が覚めてコーヒーを飲み、いつもの書類仕事を始めた。メイドが良く眠れたかと尋ねると、長い間良く眠ってはいないと答えた。9時過ぎに化粧室に行き、トイレで発作を起こして倒れた。戻らないことを心配したメイドが覗き込むと、エカチェリーナは床に倒れ、顔は紫色で、脈は弱く、呼吸も浅かった。召使たちはベッドルームに運び、45分後に侍医が来て脳梗塞であると診断した。あらゆる努力にも関わらず、昏睡から覚めることはなく、臨終の儀式を受けてその夜9時45分頃に薨去した。翌日に解剖を受け、死因が確認された。

エカチェリーナの遺言には詳細な指示が記されていた。

遺体には白いドレスを着せ、洗礼名を彫った黄金の王冠を頭に載せること。喪服を着るのは6か月を超えないこと。短い方がのぞましい。

遺言に従って遺体は白い絹織物のドレスを着せられ、黄金の冠を載せられた。棺は黄金の織物で覆われ、アントニオ・リナルディが設計・装飾した告別室に置かれた。肖像画家ヴィジェ=ルブランによれば、「棺は6週間安置され、昼も夜も明かりが絶えなかった。女帝はロシアのすべての街の紋章によって取り囲まれたベッドに寝かされていた。顔は覆われず、その手はベッドに置かれていた。すべての婦人たちは順に遺体を訪れ、その手にキスをした」という。

その後、遺体はサンクト・ペテルブルク首座使徒ペトル・パウェル大聖堂に埋葬された。

後継の玉座には長らく確執のあった息子パーヴェル・ペトロヴィチ大公が就き、パーヴェル1世となった。

人物[編集]

文化・教育[編集]

1910年発行の100ルーブル紙幣(ロシア帝国国立銀行ロシア語版が発行)

ロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据え、ロシア語辞典の編纂事業に着手、後世のロシア文学発展の基盤を造る。ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿(現在の小エルミタージュのこと。後に隣接する冬宮など新旧の宮殿と合わせ、現在はエルミタージュ美術館として一般公開)の建設にも熱心であった。[要出典]また、女子貴族のための学校「スモーリヌィ女学院」を設立し、ヨーロッパ諸国の宮廷・社交界に送り込む貴婦人の養成にも力を入れた。エカチェリーナ2世自身も文筆に勝れ、回想録、書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残している。

私生活[編集]

エカチェリーナの生涯唯一の真実の夫とされるグリゴリー・ポチョムキン(タヴリチェスキー公爵)

私生活面では生涯に約10人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる愛人を抱え、夜ごと人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある。孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末であった。

1774年頃(45歳頃)、エカチェリーナは10歳年下のポチョムキン(タヴリチェスキー公爵)と結ばれる。家庭には恵まれなかったエカチェリーナの生涯唯一の真実の夫と言うべき男性で、私生活のみならず、政治家・軍人としても女帝の不可欠のパートナーとなった。「2人は秘密裏に結婚し、エカチェリーナが46歳の時(1775年)に2人の間には実娘エリザヴェータ・ポチョムキナ(チョムキナ)ロシア語版が産まれた。ポチョムキナ(チョムキナ)は後にカラゲオルギロシア語版将軍と結婚し、その末裔は現在も実在している。」などの説があり、かなり信憑性の高い史料であるエカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの直筆の恋文(モスクワロシア国立公文書館に所蔵、ソビエト崩壊後に歴史学者ヴャチェスラフ・ロパーチンロシア語版博士によって公表された[3]。)からもそういう事実があったであろうことが窺えるが、真相は今も研究が続いている。2人に男女の関係がなくなった後も「妻と夫」であり続け、エカチェリーナの男性の趣味を知り尽くしたポチョムキンが、選りすぐった愛人を女帝の閨房に送り込んでいたという。

互いの信頼関係は長く続いたが、1791年、ポチョムキンは任地に向かう途中で倒れ、女帝に先立って病没した。晩年のポチョムキンは女帝から遠ざけられ、失意のうちに死去したとされるが、女帝は「夫」の訃報に「これからは1人でこのロシアを治めなければならないのか!」と深く嘆き悲しんだという。

ポチョムキン以降に女帝が関係を持った寵臣のほとんどは、公的な影響力を持たなかった。例外として、アレクサンドル・ランスコーイは美貌だけでなく、それなりの能力もあって女帝を補佐し、しかも、国家や宮廷の問題には関与せず、女帝の寵愛も深かったが、1784年に26歳の若さで急逝した。

また、エカチェリーナ最晩年の寵臣だったプラトン・ズーボフ英語版ロシア語版はポチョムキンの立場をも脅かすほどの影響力を持ち、ポチョムキンの死後は老齢の女帝の寵愛を良い事にかなりの権力を持ったようだが、容姿以外に大した能力はなく、女帝の死と共に失脚した。

主な愛人たち[編集]

エカチェリーナ所生の子供たち[編集]

日本人が見たエカチェリーナ2世[編集]

1783年伊勢白子(現鈴鹿市)の船頭である大黒屋光太夫は、江戸への航海途中に漂流し、アリューシャン列島アムチトカ島に漂着。その後ロシア人に助けられ、シベリアの首府イルクーツクに滞在した。ここで学者のキリル・ラックスマンの援助で、帰国請願のためサンクト・ペテルブルクに向かい、1791年、エカチェリーナ2世に拝謁して、帰国の儀を聞き届けられている。

キリルの次男アダム・ラックスマンが、江戸幕府の統治下で鎖国状態を続けてきた日本に対して、大黒屋光太夫および小市、磯吉の三名を返還すると同時に、シベリア総督の通商要望の信書を手渡すために、遣日使節として日本に派遣され、1792年、光太夫らは根室に帰着した。

授与された勲章[編集]

ロシア帝国の旗 ロシア帝国勲章
プロイセン王国の旗 プロイセン王国勲章
スウェーデンの旗 スウェーデン勲章
Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg ポーランド・リトアニア共和国勲章

系譜[編集]

エカチェリーナ2世 父:
クリスティアン・アウグスト (アンハルト=ツェルプスト侯)
祖父:
ヨハン・ルートヴィヒ1世
曽祖父:
ヨハン6世 (アンハルト=ドルンブルク侯)
曽祖母:
ゾフィ―・アウグスタ[1]
祖母:
クリスティーネ・エレノオーレ
曽祖父:
ゲオルク・ヴォルラス・フォン・ツォイッチュ
曽祖母:
クリスティーネ・フォン・ヴァイセンバッハ
母:
ヨハンナ・エリーザベト
祖父:
クリスティアン・アウグスト
曽祖父:
クリスチャン・アルブレクト (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)[1]
曽祖母:
フレゼリゲ・アメーリエ(デンマーク王女)[2]
祖母:
アルベルティーネ・フリーデリケ
曽祖父:
フリードリヒ7世マグヌス (バーデン=ドゥルラハ辺境伯)
曽祖母:
アウグスタ・マリー[1]

[1]は、共にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公フレゼリク3世の子。

[2]は、デンマーク王フレゼリク3世の子で、兄はデンマーク王クリスチャン5世、妹はスウェーデン王妃ウルリカ・エレオノーラ

参考文献[編集]

関連書籍[編集]

エカチェリーナ2世を扱った作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ロシア語版では父親がピョートル3世だとされている。
  2. ^ 英語版では1761年に生まれた、エカチェリーナとオルロフの娘だとされている。
    “They had two illegitimate children, Yelizaveta and Aleksey, who were born in 1761 and 1762"
    「(エカチェリーナとオルロフの間には)1761年と1762年に生まれた2人の違法な子供、エリザヴェータ(Yelizaveta)と(1762年生まれの息子)アレクセイロシア語版(Aleksey)がいました。」
  3. ^ Екатерина Вторая и Г. А. Потемкин. Личная переписка (1769-1791) - エカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの直筆の恋文の全文を掲載。
  4. ^ "Екатерина. Взлет. Идут съёмки"”. ロシア1 (2016年11月15日). 2016年11月30日閲覧。

外部リンク[編集]