ドミートリー・ドンスコイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ドミートリー・ドンスコイ

ドミートリー・ドンスコイドミートリイドミトリー、またドンスコーイとも;ロシア語: Дмитрий Донской ドミートリイ・ダンスコーイ1350年10月12日 - 1389年5月19日、在位は1359年 - 1389年)は、モスクワ大公イヴァン2世の子。イヴァン1世の孫。本名はドミートリー・イヴァーノヴィチ。ドミートリー・ドンスコイという名は「ドン川のドミートリー」という意味の称号で、ドン地方で武功を挙げたことによる。

生涯[編集]

1359年、父・イヴァン2世が亡くなり、9歳のドミートリーがモスクワ大公位を継承した。幼少のころは府主教アレクセイが摂政として彼を支えた。即位後、まもなく、宿敵であるトヴェリ公国の侵攻を受けたが、これを退けた。1363年には全ロシアの公の指導者となり、1368年にはトヴェリ公国とリトアニア大公国侵攻を撃退した。この頃、モスクワ大公国の宗主国であったジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)はサライハン位を巡る混乱から分裂しており、そのうちルーシ諸公国と直接に境を接するヴォルガ川以西の黒海北岸には、ママイを支配者とする政権(ママイ・オルダ)があった。1371年、ドミートリーは、ママイのもとにおもむき、その権威のもとにウラジーミル大公位を獲得している。1375年、トヴェリ公ミハイル2世の挑戦を受けるが、これに勝利した。この際に結ばれた条約でトヴェリ公はモスクワ大公を「兄」として敬い、ウラジーミル大公位の請求権を放棄することが定められた。

その後、ドミートリーはママイと敵対し、1380年クリコヴォの戦いでこれを破った。この戦いはルーシの諸公国にとってはタタールに対する史上初めての大勝であり、モスクワ大公国の威信と勢力を大きく拡大することにつながった。また、ロシアが「タタールのくびき」から脱却する最初のきっかけになった事件とも評価されている。しかしその後には、ママイを滅ぼしてジョチ・ウルスを再統一したトクタミシュ・ハンは再びロシアに対するタタールの宗主権を主張してモスクワ大公国を攻撃し、首都モスクワを占領した。ドミートリーはトクタミシュに対して改めて臣従を誓い、大公の地位と、徴税権を再び認められた。

1389年、死に際して、彼はこれまでの慣例を破ってハンの同意を得ずに息子ヴァシーリー1世を後継者に指名した。その遺言状の中で「将来、ハン国が動揺することがあれば貢納を停止せよ」と述べた。

先代:
イヴァン2世
モスクワ大公
1359 - 1389
次代:
ヴァシーリー1世