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ヴァレンヌ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァレンヌからパリへ連れ戻される国王一家(1791年6月25日)

ヴァレンヌ事件(ヴァレンヌじけん、: La fuite à Varennes)またはヴァレンヌ国王一家逃亡事件ヴァレンヌ逃亡ヴァレンヌ逃亡事件[1]とは、フランス革命時の1791年6月20日夜に、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家がオーストリアへの逃亡を図り、東部国境に近いヴァレンヌで発見されパリへと戻された事件[2]西洋史学者の山上正太郎はこれについて「王権反革命性を暴露した自滅行為であり、国民の王家への不信や共和主義を高める結果となった」と述べている[3]

山上が言うには、国王一家はフランス内外の反革命勢力の計画に従っていた[3]。一家の予定は、パリを脱出して北東国境付近に待機中の国王から庇護を受け、オーストリアに依存しつつ反革命を行うことだった[3]。6月20日深夜、変装した一行は大型馬車で王宮を脱出したが、失敗と油断が重なりヴァレンヌで捕らわれ、25日にパリへ送還された[3]

背景

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フリジア帽をかぶり、国の健康を祈って乾杯するルイ16世の風刺画(作者不明、1792年)

民衆

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当時、ジュネーヴオランダでも革命が起き、それらはプロイセンといった外国軍によって鎮圧され、亡命者はフランスにも流れ込んでいた。これによりフランス国民は、革命を起こせば外国軍が介入して弾圧してくるであろうことを認識する[4]

治安維持にあたるべき当局への信頼が大きく揺らいだため、この時期の民衆には、当局にかわって住民自身が処罰に乗り出すという面が生まれていた[5]。ただし1793年までの民衆による蜂起は、基本一定の秩序を保っている。パンを求めてパン屋に押しかける時は単に略奪するのではなく正当だと思う金額を置いて行く、土地を求めて国有財産の競売場に押しかける時も正当な価格で共同購入する、といった行動がそれにあたる[6]

全国三部会の開催によって、民衆は国王が自分たちを気にかけてくれていると喜んだ一方で、それにもかかわらず自分たちの生活が苦しいのは王を取り巻く貴族たちが、庶民の実態が王に伝わらないようにしているからだという考えを強くした。これに浮浪者や野盗に対する恐怖が結びついたものを「アリストクラート(貴族)の陰謀」という[7]

事件の舞台となるヴァレンヌの町は全国三部会における、町の選挙と第二段階の地域選挙、両方の開催地であり、その結果、元弁護士の自分たちの町長を初めは代理の代表として、その後正式の代表として選んでいた。バスチーユ襲撃の知らせを受けて祝典も開催され[8]、やがて彼ら自身の町議会と地域議会を選出し、国民議会と定期的に通信するようになる[9]。1789年8月にはアンシャン・レジーム崩壊後の無秩序の脅威と反革命の可能性に立ち向かうため、町は最初の民兵隊を作った[10]。ヴァレンヌの国民衛兵は全国連盟祭英語版)に参加しており、この町の人は憲法友の会(後のジャコバン・クラブ)の地域支部創設にも助力した[11]

1791年6月までに、ヴァレンヌではアリストクラートの陰謀によって三度にわたりパニックが起こっていた。それ自体は根拠のないものと判明したが、援助を求める町の訴えによって、県当局は防衛のための銃と弾丸、四門の小型大砲も提供するにいたった[12]

さらに、ヴァレンヌや近隣の町々に駐屯する大勢の国王軍は悪名高く、特に若い軍人たちの素行は評判が悪かった。また、個々の村における軍隊の宿営は、ときに共同体から税金を取り立てる役目も担っており[12]。やがてナンシー事件で弾圧に関わったブイエ将軍が歩兵隊を送り込んできたことによって激しい緊張がもたらされた。多くの市民たちは、伝令や軍用物資を積んだ荷車が無数に町を通過し、その地域一帯で兵士たちが行軍しているという噂を聞いて猜疑心を募らせた。軍人たちが話していた「宝物」とは国王本人のことであり、不特定の悪人たちがパリから近々誘拐することになっているのではとの憶測もなされていた[13]

国民議会

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元々、国民議会の議員たちは1789年5月5日、全国三部会のためヴェルサイユ宮殿に召集された人々だった[14]。当時のフランスは、アメリカ独立戦争に参戦したのが直接のきっかけとなり、元から大きかった財政赤字がさらに拡大していた。国庫の破産をおそれた金融業者は1786年、これ以上の国庫の借入には応じないことを宣言する。これによって、ただちに財政改革に着手しなくては国家が潰れる危機に立たされていた[15]。宰相ブリエンヌが開催を決定した全国三部会はそういった改革の一環だったが、議員たちがどんどん表舞台に出て行ったのは、民衆の蜂起や騒乱を受けて地方行政の重役たちが姿を消すといった事態になっていたため、政治機関として実質的に機能しているとともに政治を主導する正統性を持っているのが、良かれ悪しかれ国民議会しかいなかったからだった[16]

アンシャン・レジーム下において、共和制は否定的に捉えられていた。モンテスキュールソーも、共和制はフランスのような大国には向かないとしており、アメリカという共和国のモデルが紹介されてからも、それは新しい国だから可能なのであって、フランスのように中世以来の伝統やしがらみのある国には適用できないと考える者がいた[17]。当時彼らが作ろうとしていたのは立憲君主制の国だった[18]

また議員たちは、国王から武力で解散させられそうになったところをバスティーユ襲撃によって生き延びるなど、民衆が蜂起したおかげで助かった局面があることは認めつつも、もし民衆の暴力が自分たちに向かうようになったらという不安を抱いていた[19]

王権

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全国三部会が開催された頃、議員たちは、まだ革命など考えていなかったにせよ漠然となんらかの政治改革を期待しており[20]、それぞれの選挙区から陳情書も託されていた[21]。しかし国王と財務大臣ネッケルは全国三部会の議題を財政赤字の解消のみに限る意志を示しており、王権側と議員たちの間の落差は最初から大きかった[20]

1780年代後半、原則として臣民のために行動していた国王は、その目標を達成する術について悩みこの頃には無気力化していた。この時期は王妃の影響力がしだいに高まっていった時期でもあり、彼女は改革を目指すテュルゴーを1775年に失脚させ、ネッケルの最初の財務長官時代を1781年に終わらせる上で、王妃も宮廷の陰謀に関与している。王妃の兄ヨーゼフ2世は妹が政治に干渉することをよく思わなかったが、オーストリア大使メルシー伯爵はむしろ煽り、国際政治の仕組みに開眼させようとしていた[22]

シャルル・テブナンが描いた全国連盟祭

議員の一人であるミラボーは、1789年末頃から民衆の暴力を嫌って革命の終結を図るようになり、審議中の憲法においては立憲君主制のもとでできるだけ国王の権限を強化する方向で活動するとともに、国王にもひそかに接触を求めた。国王もミラボーを受け入れたが、彼は1791年4月2日に病死する。隠れた協力者を失った国王は政治的決定に対し、革命と妥協する意思はない王妃の影響をこれまで以上に受けるようになった[23]。なお、この頃には既に王妃はミラボーを信用していなかった[24]

逃亡を決意したきっかけははっきりとはわかっていないが、聖職者を公務員と扱う聖職者民事基本法の他[25]、4月18日に復活祭を祝うためサン=クルー城に向かおうとした国王一家が、テュイルリー宮殿を出たところに集まっていた群衆に阻止されるという事件もきっかけになったとされる。人々は、聖職者基本法に対し宣誓した聖職者(宣誓聖職者)が行う復活祭のミサを嫌って国王がパリを離れ、サン=クルー宣誓を拒否する聖職者(宣誓拒否聖職者)が行うミサに与ろうとしているのだと疑ったのだった。この時、出勤していた国民衛兵も指揮官ラファイエットの命令を無視して群衆に加担している。結局、国王一家はサン=クルー行きを諦め、馬車を降りて徒歩で宮殿に戻った。この事件によって国王を取り巻く貴族・聖職者は制限および追放されている[26]

国王は、少数の狂信的な革命家であると考えていたジャコバン派[27]がパリのならずものたちを煽動し支配することによって、フランス革命による数々の変化がもたらされたと認識していた[28]。一方、王妃はウィーンにいる兄弟やオーストリア人の腹心への手紙で、自分と家族は反逆者の暴徒たち、もしくは御しがたい臣下たちの虜囚のようなものであると訴えた。彼らが貴族や王族とさえ平等であると言い張ることは思い上がりであるとし、1790年6月メルシー伯爵に宛てた手紙では「そのような怪物ども(革命家)は日に日に横柄さを募らせています。私はすっかり絶望しています」「ルイは、私たちを苦しめている悪を、いかなる犠牲を払おうとも放逐しないのであれば、自分自身に対して、臣民に対して、そして全ヨーロッパに対して、義務を怠ることになりましょう」と書いている[29]

1790年7月14日、全国連盟祭英語版)が開催された。1年前のバスティーユ襲撃を記念したこの祭典には、様々な地方から4万4千人もの代表者たちが出席している。会場はシャン・ド・マルスで、有志の者たちが地ならしを行った。ルイ16世、タレーラン、ラファイエットが30万人のパリ市民を前に新たな秩序を宣言した。国王は「国家の基本法によって自らに与えられた権力を使用し、国民議会が決議して自分自身も受諾する憲法を守り、また法律を施行すること」を誓った[30]

計画

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計画に積極的だったのは国王に強い影響力を持っていた王妃マリー・アントワネットであった。彼女は実家であるオーストリア亡命することを企てていた。当時はフランス国外へ亡命する貴族はまだ多く、亡命そのものを罰する法もなかったことから、変装によってそれにみせかけることは可能であった。王妃はメルシー大使を介して秘密書簡で本国と連絡を取り、亡命が成功した暁には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、フランス革命を鎮圧しようと夢見ていたようである[31]。しかし当のレオポルド2世は、ルイ16世が申し出た1500万リーブルの借款を断り、渋々軍隊を送る条件として、国王一家がパリを脱出した後に憲法を否定する声明文を発しなければならないとした。このためルイ16世は「パリ逃亡の際の国王の宣言」[32]を作成して、成功したら発表する予定であった。これはパリ脱出の経緯を説明するもので、国民議会の憲法違反を非難する内容だった。逃走の資金は銀行家から借金することになった。

目的地モンメディ要塞の遺構。小さいがヴォーバン式の稜堡城郭であった

国王夫妻によって実行された計画は、その9ヶ月ほど前、パミエ司祭フランス語版)とブルトゥイユ男爵英語版)によって立案された。その案では、計画の目的はパリから離れた安全な場所(ランブイエルアン)に移すだけでなく、国王が外国の軍隊の支援を得られる、あるいは少なくとも外国の軍隊の支援をもたらせる国境まで、国王を逃亡させるものだった。これによって、首都から離れた国王が大挙して彼に従う民衆を見出し、新たな立場を作り憲法全体を見直すよう交渉して革命を終わらすことが期待されていた。1790年10月下旬までには、国王はその計画について、少なくとも緊急時対応策として考慮することに同意している。この時からブイエ侯爵は、国境地帯に国王を迎え入れる準備を一任されていた[33]

パリからの実際の脱出と陸路の旅は王妃とフェルセンによって計画された。1791年の冬から春、国王が逃亡案をはっきり受けいれていない時から計画は練られた。国王も主要な決定については相談を受けていたが、しだいに王の権威を王妃に譲り渡すようになっていた[34]

しかし、王妃が取り組んでいた外国政府との長期にわたる交渉は難航し、近隣諸国の君主たちは慎重な姿勢を示した。特にヨーゼフ2世崩御の後に皇帝を継いだレオポルト2世は用心深く、王妃をとくに失望させた。1791年6月、ようやく資金と軍隊を全面的に援助すると約束したが、支援を提供できるのは国王が脱出し独自に行動できる立場を得た後のみと皇帝は特記した[35]

当初の計画では、ブイエ将軍もフェルセンとともに、国境にできるだけ早く行けるよう別々の集団に別れ、小型の目立たない馬車で旅するようにと国王一家に促していた。この方針に従うことになるのが王弟プロヴァンス伯(後のルイ18世)で、彼は滞りなくブリュッセルに亡命する。しかし国王夫妻は、別々に旅することや子どもたちや王妹エリザベートと別行動をとることは頑として拒んだ。やがて夫妻は、案内人兼困ったときの世話役としてダグー侯爵を、護衛役として御者に扮した3人の貴族を加え、一行は総勢11名に膨れ上がり、一台の馬車に収容するのは無理だった[35]。フェルセンは旅券を準備し、3ヶ月の月日と6000リーヴル近くの費用をかけて特別仕立ての馬車を作らせた。この馬車は革とタフタの内装、詰め物入りの座席、いくつもの作り付けの荷物入れ、ピクニック用品、瓶の収納棚、革で覆われたおまるを完備し、2人の乳母を運ぶために小さい二輪馬車のカブリオレも用意された[36]

王妃と数人の腹心の侍女たちは、王太子に着せる小さい女の子用のドレスや国王に着せる会計係の服といった変装を考案することに取り組んでいた。国王はこの服以外には赤と金と礼服のみ持っていき、国境で軍隊の指揮をとるとき身につけるつもりだった。一方、王妃は手持ちのすべての衣装やダイヤモンドと宝飾品のほとんど、いくつかの家具、化粧品すべてが揃っている特別仕立ての化粧箱を事前にひそかに持ち出した。この時、化粧箱の製作と輸送が発覚し、小間使いの1人の疑惑をかき立ててしまう。この女性は愛国派であり、国民衛兵将校の愛人でもあった。結局、国王一家はこの女性の非番の日に当たるよう逃亡を1日延ばした[37]

革命家たちを油断させるため、1791年前半とりわけ4月18日以降、国王夫妻は意識して欺瞞戦略をとっていた。諸外国の指導者たちへの密書ではことあるごとにフランス革命を非難していたが、夫妻は愛国派の機嫌をとり自分たちが議会を支持していると思わせるため全力を尽くした。4月19日、国王は自ら国民議会に出向き憲法を受諾すると繰り返し、4日後に同様の公言をすべての大使に伝えた。夫妻は立憲派聖職者による復活祭のミサにも参加している[38]

ブイエ将軍は国王が退避できる守りの強固な場所を選ぶにあたり最終的に、彼の直接の指揮下にあった小さな要塞町モンメディを推した。国王たちの逃亡経路に関しては、ブイエ将軍はランスを通る最短路を提案している。急進派の拠点をほぼ避けることができるルートだったが、ランスで戴冠式をした国王が地元の革命家たちに見破られるのではと恐れたため別のルートで行くことになった。ブイエ将軍は君主政主義者であり軍の技術者兼地図製作者のゴグラに、逃亡の道のりについて実地調査も依頼した。ゴグラは、町は安全そのものであると判断した。ブイエ将軍はヴァレンヌから15マイルほど先でモンメディの南からもほぼ等距離にあるダン近くの最後の中継地点で、馬や大勢の護衛とともに待機することになった[39]

計画立案者たちは、パリを離れた後はできるかぎり早く国王に護衛をつけたがったが、最終的に国王夫妻の同意のもと、一家が到着する数時間前に比較的わずかな数の騎兵を派遣することが決まった。最初の護衛隊をソム=ヴェルの宿駅に配置することが決まった際、ブイエ将軍はショワズール公爵(フランス語版)を指揮官に選んだ。その忠誠心と家柄から選ばれたのだが、王妃とフェルセンは軽佻浮薄という彼の評判を警戒し、人選を改めるよう訴えていた[40]

土壇場になって、国王一家は逃亡の一行からダグー侯爵を外し、王室養育係のトゥルゼル夫人英語版)を入れた。ブイエ将軍は、かくも大胆な計画をやり抜くに足る決断力とゆるぎなさを奮い起こすのは国王には絶対に無理であって、共謀者たちが無防備で無力なまま反逆罪で逮捕されても、瀬戸際で手を引くのではないかと懸念しはじめた。これは国王が出発日を何度も延期したことで更に強くなり、初めは1791年5月下旬だった計画は6月19日になった。そして、国王一家が出発日をまた変更し20日にしたことをブイエ将軍が知ったのは6月15日だった。このときまでには、ブイエ将軍はすべての指令を出しており、彼の部隊は定められた位置へと動きつつあった[41]

王妃とブイエ将軍は、逃亡が成功すれば内乱が起こるだろうと考えており、逃亡後の国王は身の安全のためオーストリア領内にすぐ引く必要があると予測したためこれに従うよう国王を説得する計画も立てていた[42]が、国王は、地方に出てしまえば住民は穏和で王に忠実だと思い込んでいた[43]

メルシー伯爵は逃亡がいかなる結果を招くことになるのか、逃亡が失敗したら何が起こることになるのか、熟慮するようにと王妃に懇願した。国王と王妃はフランス革命に対する民衆の支持の大きさをあまりに低く見積もりすぎている、と彼は主張する。「この時点で逃亡するなどもはや不可能です。どの村も越えられない壁となってあなた方の行く手を遮るでしょう。そして私は、この企てが失敗すればいかなる惨禍が生じるかと考えると恐ろしくなります」。彼は、王家にとってはるかに得策なのは、嵐が過ぎるのをじっと待つことですと説いた。「あなた方が今いる所にただ居座ってさえいれば、革命家たちの狂った創造物は自滅していくであろうと、遅かれ早かれ確信が持てるはずです」反対に「(逃亡という)極端な解決策」を選べば、「国王と王権の運命が、善かれ悪しかれ、かならずや決定されることになるでしょう」[42]

実行と失敗

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『ルイ・カペーの逮捕』[注 1] ジャン=ルイ・プリュール作(1804年)

逃亡開始

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1791年6月20日の午後3時頃、ショワズール公爵が中継宿駅へと馬車で発った。彼はそこで国王の護衛のために派遣された先遣隊の騎兵たちと合流することになっていた。ショワズール公爵が出発する少し前、きちんとした髪結い師がいなければモンメディでの生活の厳しさに耐えることなどできまいと王妃が考えたため、世間ではムッシュ・レオナールとして知られていた王妃の髪結い師ジャン=フランソワ・オチエが急遽この計画に加わった。王妃に呼び出された彼は、自分の頼みをなんでも聞くかと尋ねられ、仰せのままにと答えたところ、ショワズールとともにここを去り彼の命令に逐一従うようにと告げられ、行く先もわからないまま出発した[44]

国王一家は10時半頃から動き始めた[45]。変装した彼らは一度にひとりずつ宮殿を出て行き[46]、最後が王妃だった。彼女が宮殿を出ようとした時、ラファイエットと鉢合わせしそうになったが、自分のまわりにさしかけられた松明で目を眩まされ、他の問題に終われてもいたラファイエットは王妃に気づかなかった。王妃が馬車に乗り込んだ頃には0時半頃になっており、この時点で予定より1時間遅れた[47]

パリを出た頃には予定より2時間遅れていた。ボンディではこれも3人の従者の一人ヴァロリが替え馬とともに待っており、ここでフェルセンは一行から離れた。彼はネーデルランドに入り、フランスとの国境をなぞるように進みモンメディで国王一家と再会するつもりだった。次の中継地点クレイで2人の乳母を乗せたカブリオレとも落ち合い、ここで一行全員が揃った[48]

従者の1人ムスチエによれば、車内での国王一行は狩人やつつましい旅人がするように手づかみでピクニックの朝食を食べていた。彼らは宮殿を抜け出した時の体験談を語り合い、国王は地図と前もって準備していた旅程表を取り出し、村や駅を通過するごとにその名前を告げた。王妃は、逃亡が発覚したからには、ラファイエットはさぞかし困惑し身もだえしていることでしょうと述べた。そしてプチ・トリアノン宮殿で宮廷人に対してしていたように、演じるべき役割をみなに振り分けた[49]

暑くなるにつれて彼らは日よけを降ろし、それを農夫たちも見返した。更に後になると国王は宿駅で馬車から降りるようになり、足を止めてまわりに集まってきた人と雑談した。従者と乳母たちは国王を心配し、休憩地点のひとつではムスチエが田舎の人々の群れから彼を遮ろうとしたが、国王は心配する必要はないと判断した[50]。しかしショワズール公爵と騎兵隊がいるはずのソム=ヴェルの宿駅が見えたとき、そこに騎兵隊の姿は見えなかった。ヴァロリが尋ねたところ、騎兵隊は地元の農民たちに威嚇され1時間前に去ったことが判明した[51]

逃亡失敗

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国王の逃亡に先立つ数日の間、フェルセンと国王一家がパリからの脱出を開始した頃、ブイエ将軍は国王の受け入れを準備するため、事前に取り決めていた一連の軍隊の動きをすべて始動させていた。彼の末息子と一人の将校が、一群の替え馬とともにヴァレンヌに前もって派遣され、そこで既に駐屯していた40名ほどのドイツ兵部隊と合流していた[52]。6月21日の正午頃にはゴグラが、宿駅で待機していたショワズール公爵と髪結い師レオナールと合流をはたした[53]

その間、領主地代を納めることに頑として抵抗していたソム=ヴェルでは軽騎兵が到着した時、この兵らは農民の金銭や穀物を収奪しに来たのだと共同体全体にパニックが広がった。午後の半ば、旅人たちから騒乱が起こっていると聞いて、シャロンから国民衛兵の代表団が調査しにやってきたショワズール公爵たちは金の警護の話をして説得を試み、国民衛兵は帰ったが、農民たちは納得せず脅しを続けた[54]。同時にショワズール公爵は、到着が遅れている国王がパリを出られなかったのではと心配し、宿駅のこの状態は王の旅路を妨げるだろうと怖れ、ブイエ将軍の本営まで退却することに決め、レオナールを伝令役に任じた[54]

トーマス・ファルコン・マーシャル英語版)が描いた国王一家の逮捕(1854年)

宿駅長のジャン=バチスト・ドゥルエ英語版)は騎兵隊員に就いていたことがあり、王妃の顔と新紙幣に印刷されているルイ16世の肖像に似ている男を確認した[55]

ドゥルエは町議会に召還され、騒擾の現場に隣接する町役場で緊急会議が開かれた。街の重鎮たちは、国王がパリを離れようとしているのであれば、おそらくは外国軍を引き連れて戻り、フランスを侵略し、革命を終わらせるために国境に向かっているのだろうと考えた。彼らは国境方面の他の町々に警告を発し、王の逃亡を阻止するために行動に出た。国王を追跡してほしいと頼まれたドゥルエは友人と共にヴァレンヌ方面に向かった[56]

ヴァレンヌの町

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11時頃、ヴァレンヌにある居酒屋にドゥルエ達が駆け込み、その場に居合わせた居酒屋の亭主たちに国王一行を目撃したことを伝え、国民と革命のために王とその一家をはばまねばならないと言った[57]

1791年11月発行の5リーヴル紙幣。コルセ(Corset)の名前でも知られる。

居酒屋の者たちが人を呼びに行き、やがて町議会議員のジャン=バチスト・ソースフランス語版)が到着した。彼は2人の息子に火事だと叫んで残りの町民たちを起こすようにと指示した[58]。11時20分頃にはソースたちは居酒屋近くの街路に集まっていた時、2台の馬車が騎馬の2人にともなわれ門の下を進んできた。国民衛兵の何人かが松明を掲げるなか、他の者たちはマスケット銃を手に、停車して馬車から降りるよう御者たちに命じた[59]

ソースは旅人たちの旅券を検分し、旅券に不審な点はないように見えたので、ソースと同僚の役人たちは一行を通過させようとしたがドゥルエは譲らず、さらに国民議会議長の署名が欠けているので旅券は有効ではないと主張した。彼らは、夜分のことで書類をきちんと調べることはできず、ここから先は悪路で夜は危険だから夜が明けるのを待つほうがよいと告げ、一行を馬車を下ろしてソースの家でもてなすことにした[60]

ソースは、地元の判事がヴェルサイユから来た女性を妻にしており、当人も何度か国王一家を見たと言っていたのを思い出した。そこで判事を一行がいる部屋に連れてきたところ、彼女は打ち震えながら低頭した。変装が見破れたと悟った国王は町議員の議員たちを一人ずつ抱擁し事情を話すと、町の人々は馬を用意し、私が旅を全うできるようにすべきであると主張した。圧倒された人々は打ち負かされ、手筈を整えるため町役場に戻った[61]。しかし事件前から見ていた軍隊や宝物の話が腑に落ちた彼らは、国王の逃亡を阻止しようとする者たちに対する報復の可能性と、この地域に移動してきたことが知られている兵士たちからの攻撃という可能性に気がついた[62]

町議会では緊急会議が開かれた。深夜2時頃、会議を再開した直後に、国王の存在を国民議会に知らせて助言を仰ぐために使者として理髪師親方のマンジャンが送り出された[13]

夜が終わる頃、ソースと一部の議員は、国王のところに戻り「王の住まいはパリであり、地方に暮らす者たちですら王がそこに戻られるようひたむきにまた切実に願っているのです」、また、「王の出立によって生じる血生臭い出来事」への恐怖や「国家の救済は憲法の完成にかかっており、憲法それ自体は王の帰還にかかっている」ことを説明した[63]

国王夫妻は理解せず、旅を続けられるよう馬と護衛を準備してほしいと求め続けた。王妃はソースの妻に、国王を援助することで町はきわめて大きい恩恵を得ることになるだろう、ご主人を説き伏せてくれまいかと言ったが、ソース夫人は、自分は国王を心から愛しているが、夫のことも愛しており、夫は責任ある立場なので、一行を通過させれば罰せられるのではないかと恐れていると返した[64]

朝6時頃、国民議会とラファイエットが前日の朝派遣した2人の伝令、パリの国民衛兵将校バイヨンとラファイエットの副官ロムフがヴァレンヌに到着した。彼らが携えてきた命令は「公職にあるすべての者、国民衛兵ないしは前線部隊に属するすべての者」に宛てられ、「前述の公職にある者は、誘拐ならばそれを阻止し、国王一家の前進をはばみ、立法府にただちに通報するべき、ありとあらゆる必要な手段を講じる義務を負うことになる」。伝令たちが国王夫妻に法令を差し出すと、「なんと不遜な!」と王妃は嘲り法令を床に投げつけた。国王は「フランスには国王はもういないのだな」と言った[65]

パリへ連れ戻されたルイ16世一家

パリへの帰還

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ショワズール公爵とゴグラが騎兵隊を率いて現れ、血路を開いて国王一家を脱出させる提案をしたが、国王は妻や子供たちが危険な目に遭うといけないとして拒否した[66]

一行は時間をかせぐため、考えをまとめたいのでしばらく自分たちだけにしてほしいという要求が受け入れられると、その間に口裏を合わせるための作り話を用意し、所持していた自分たちに不都合な書類を燃やした[67]

ショワズール公爵は王妃を馬車に乗せるため手を貸し終えると、群衆の中に引きずり込まれ暴行された後に何人かの将校と共にヴェルダンの牢獄に連れて行かれた。[67]。計画の失敗を聞いたブイエ将軍はストゥネに退却し、2人の息子と将校を20人ほど集めると、ネーデルランドに亡命した[68]

ヴァレンヌを出発した時、一行は6000人ほどの国民衛兵にともなわれていたが、進んでいくにつれて田舎の人々が合流した。ムスチエによれば「数知れぬ大群には、老いも若きも男も女も、ありとあらゆる人々がいて、マスケット銃、サーベル、熊手、槍、斧、鎌で武装していた」。この帰路は丸4日続き、手を縛られてベルリン馬車の御者席に座っていたヴァロリは「われわれは太陽に焼かれ、砂埃で息がつまった」と語った[69]。多くの者は、国王や王妃に見とれるためにやってきていた。また、国王が誘拐されたとの噂が流れていたため、国民と国王を守護するために駆けつけた者もいた。

一方、国王を捕らえたかどで数千人の兵士たちがロレーヌとシャンパーニュの住民を処罰しにやって来るという噂が広まり、王を感化したとされる者に矛先が向かった。群衆は王妃を標的にすることにほとんど痛痒を覚えなかったが、何よりも3人の護衛に被害が集中し、さまざまな集団が3人を襲撃しようとしては国民衛兵に押し戻された[70]

夜7時頃、マルヌ川沿いで一行はパリの国民議会から派遣された3人の議員、穏健派のバルナーヴ、急進派のペティヨンフランス語版)、ラファイエットの友人モブールフランス語版)と合流する。王妹エリザベートは議員たちに3人の護衛を守ってほしいと懇願し、バルナーヴは慰めの言葉をかけた後、国王のパリへの安全な帰還を保障する役目にこの者たちを任ずるという旨の法令を読み上げ、更に群衆に向かって再度読んだ[71]

この帰路で、バルナーヴは王妃と2人になった機会に取り引きを持ちかけた。自分と自分の友人たちは、君主制を温存し、国王の権威を強化するために全力を尽くすことを約束する。見返りとして求めることは、国王が憲法を受け入れ、オーストリアからフランス新政府の認知を取り付けることであると彼は言った[72]

パリでは議員たち、行列の先頭に立っていたドゥルエとその友人、ヴァレンヌから来た国民衛兵に向けて幾分かは歓声が上がったものの、群衆はおおむね沈黙しており、君主を侮蔑するしるしとして帽子を脱ごうとせず、通りに並んでいた国民衛兵はマスケット銃を逆さに構え地面に向けていた。地方では「国王万歳!」という喝采が起こっていたが、パリではそれもなかった[73]

一行は宮殿の入り口近くで停止した。群衆のなかの人々が馬車に駆け寄り、3人の護衛につかみかかろうとしたので、ペティヨンらは護衛たちを安全な場所に運び出した。その間に国王一行は馬車を降り、徒歩でテュイルリー宮殿に入った[73]

国民議会とパリ

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21日の朝7時、国王一行が宮殿から消えているとわかり、召使いの多くは共謀のそしりを受けるのではないかと恐れてテュイルリー宮殿から逃げ出した。ラファイエットとパリ市長バイイが噂を信じられないまま到着した頃には、逃亡のニュースは宮殿の外を出てパリを駆け巡っていた[74]。ラファイエットとバイイは市庁舎へと向かう途中で集団に取り囲まれ、ラファイエットは数名の国民衛兵に伴われながら、バイイを安全な場所へと移動させた。[75]

事件が起こる前日、逃亡計画を延ばすきっかけとなった王妃の小間使いは逃亡が起こりそうだと役人たちに通報していた。彼女が示した扉近くに追加の衛兵が置かれるといった対策はとられたが、ラファイエットは国王は善良だと信用しており、噂について国王自身に切り出したところ力強く否定されたので国王が立ち去ることはないと思っていた[76]

国民議会の決定

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21日の朝、議長は逃亡のニュースを聞いた。議会はすぐに常時開催状態になり、1日24時間、いつでも必要に応じて審議できるようにするとともに、国王を『アレテ』(止める、さえぎる、逮捕するなどの意味)することを命じる法令を満場一致で採択した。議会は想定外の事実に遭遇してとっさに判断がつかず、アレテという多義的な動詞を用いて、実際の措置は現場の判断に委ねたのだった[77]

また、法令の決定に国王の裁可は不要とする決定を全員一致で行うとともに、大臣には議会に対する忠誠の誓いを求め、大蔵大臣には国王の署名なしで国庫の支出を行う権限を認め、外国の大使には、外務大臣を介して議会と直接交渉することを求めた。緊急の一時的な措置だったとはいえ、議会はこの時、国王の存在しない政体=共和国を出現させた。シャルル・ラメットフランス語版)は「緊急の折には、国家存続のため、臨時の非合法措置をとることが認められる」としてこの決定を正当化した[78]

議会もヴァレンヌの人々と同様、国王の逃亡は外国からの侵攻計画と連動しており、フランス革命を力づくで終わらせるためになされたと考えた。彼らは国民に戦争準備をさせるための措置を講じた。パリにいた主要な軍司令官たちは議会に出頭を命じられ、憲法、法律、国民議会に対して忠誠を誓い、緊急時対応策を立案するため大臣および議会の諸委員会と協働するよう求められた。また、議員たちはフランスの軍隊が弱体であることがつねに念頭にあったため、正規軍での服務という可能性のもと、全国から国民衛兵志願者を募るという策をとった[79]。ここ6ヶ月パリでは民衆騒擾も生じていたため、議場の周囲に武装衛兵が配置され、議員以外の者はいっさい入場できないようにし、パリ市民に向けて秩序を保つように訴えた。パリ市民は動揺し、いくつかの暴力沙汰も生じたものの、全体としては平穏を保っていたので議員たちはこれに感嘆しありがたいと思った[80]

1790年、国民議会議長の横に立ち、憲法を支持するつもりであると宣言するルイ16世[81]

初め、ほとんどの者は国王は拉致されたか誘拐されたのだと予想していたが、国王自筆の手紙が見つかり事態は急変した[80]。議員のほとんどは国王はすでに外国の領土に入ったと結論づけていたが、ヴァレンヌの理髪師マンジャンが議会に何が起きたか伝え、22日の夜遅くに国王一家の身柄が確保されたというニュースが入った[82]

次第に彼らは約2年かけて練り上げ完成間近に迫った憲法はどうなるのか、国王の行動に対しどう対応すべきかについて考え始めた[83]

国王が捕まりパリに帰還すると、128時間に及ぶ議会の常時開催状態を解消するとともに、議員間の党派的な対立も復活した。保守的な議員は、国王は法に違反してはおらず、また免責特権があるのだから、その行動の責任を問うことはできないのであり、即座に無条件で復位させるべきと主張した、一方、革命派の議員は、国王の裁判を要求した。議員の多数は両者の中間の位置を取り、国王の責任は議会で決定されるものとした。国王の行為は容認できないものの、民衆層が政治に介入してくるのを恐れて、できるだけ穏便に処理したかったのだった[78]

国王夫婦を尋問するため、著名な法律家である3人の議員が議会によって選ばれた。国王への聴取は6月26日夜に行われたが、王妃は入浴中として面談を翌日まで延ばし、その間に国王と示し合わせ、国王は国を出るつもりはなく、パリで経験した威嚇や侮辱から自分と家族の身を守れるモンメディに旅行しただけであり、外国勢力と関りを持ったことはない。そして旅のあいだにフランスのいたるところで人々が新憲法を支持しているのがわかって驚いたと語られた[84]

臨時の委員会が作られ、6月27日から行われた審議は2週間以上かかり7月13日、国王は脅迫と圧力によって決定の自由を奪われており、精神的な意味で誘拐された。したがって、その軽率で無責任な行動は道徳的には非難されなければならないが、法的な責任を問うことはできないとされた[85]。この主張は臨時委員会が自分たちの主張を提示する人物として選んだ司法官僚ミュゲ(フランス語版)によってなされた[86]。革命派は委員会の決定を批判したが、15日にはこの結論は正式な決定とされ、翌16日に「国王の権限は憲法採択まで停止され、憲法を公式に承認することで権限が回復される。憲法への署名を拒めば失権させられる。将来において、国王がフランス国民に軍を差し向けた場合、憲法への忠誠の誓いを取り消した場合には退位させられる」という修正条項が可決された[85]

パリの様子

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21日の朝8時すぎには、パリ市中に国王逃亡のニュースは伝わっていたが、市当局がすばやく対応したこともあり、市中は比較的穏やかだった。バイイは朝10時に職員を召集し、常時活動状態にした。また議会と連絡を取り合って、新たな情報が入ると市中に流すとともに、デマや噂をチェックして取り締まった。セクションごとの集会も常時開催を決め、受動的市民にも参加を認めた[87]。最初の衝撃と興奮が過ぎると市は冷静になっていった。「完全な静寂が支配している。それと同時に、誰もが卒中にかかったような、麻痺したような感覚も支配している」とスペイン大使は書いた[88]

ルイ16世がフランス国民に宛てた手紙(フランス語版

国王がフランス国民に宛てた手紙も発見され、大勢の人々が街路で手紙の写しを読んだり議論したりした[89]

「あまりに多くの犠牲を払った唯一の代償が、王国の破壊を目撃すること、あらゆる権力が無視され、私的所有権が侵害され、人々の安全がいたるところで危険に晒されるのを見ることであった」[90]

「フランスの人民よ、とりわけパリの人々よ、余の先祖が『素晴らしきパリの都』と呼んで喜んだ都市の人々よ、偽りの友たちの妄言に注意しなさい。そして、君たちの王の元へと戻って来るがいい。彼は常に君たちの父親であり、親友なのだから」[90]

この時、民衆の間に漂っていた空気は悔恨というよりも憤慨だった[90]

国王が捕まった知らせは22日の夜10時半ごろパリに伝わった。パリの全地区の国民衛兵は、ラファイエットの指示もあって夕食後に議会に赴き、憲法への宣誓を行った。日没頃には一般市民が地区ごと、友愛協会ごとに自発的に議会に赴き、同様の宣誓を行った。作業用の長ズボンをはいた民衆もブルジョワとともに参加し、儀式は2時間ほど続いた。「自由に生きるか、さもなくば死」という標語も出現し、行列に武器を携える者もいた。それまで『サン=キュロット』とは暴力的な民衆に対する蔑称だったが、ここに政治勢力としてのサン=キュロットが、シンボル的な姿ではあったが出現した[87]

逃亡事件は民衆の国王に対する意識も変化させた。21日に逃亡のニュースが伝わると、その日のうちに町中にある君主制のシンボルが破壊され始めた。王の肖像は破棄され、ルイ16世を動物、とりわけ豚の姿で描くカリカチュアが現れるようになった[91]

新聞では、王党派の新聞『ガゼット・ド・パリ』が国王の自由のため自らを捧げる王の身代わりを募集すると4100通の手紙が有志から寄せられる[92]などしたが、国王について肯定的な新聞を見つけるのは難しくなっていた。ブリソは「我々は、この(国王の)すばらしい誓いを信頼していた。我々は眠り込んでいた。国王の約束を厚かましくも疑うなど犯罪であった。なんてことか、この『愛国派の』国王は逃亡した。…いきなり仮面を外したのだ」と主張した。コルドリエ・クラブの会員たちはヴォルテールの戯曲ブリュチュスからの一説を言い換えて発表している[93]

「思い起こすのだ、シャン・ド・マルスで、尊い祭壇で

ルイはわれらに永遠に忠実で公正であると誓ったことを

だが人民と玉座を結ぶ絆はあまりに強いので

彼がみずからその誓約を裏切ったとき、われらの誓約も引き裂いたのだ[93]

地方

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6月21日の深夜にはパリから半径150キロ程度には国王逃亡のニュースは届いており、フランスの北半分には僻地を除けば翌22日のうちに、南フランスには山間部の孤立した村などを除いて25日までには伝わった。また議会は22日に地方当局に向けて、国境に向けた方向への人、武器弾薬、貴金属、馬の移動をすべて止め、公共秩序の維持と祖国防衛に備えるよう指示を出した。地方当局は人々に連帯を呼びかけ、革命の徽章をつけることを求め、「国民・法・議会を守る」ことを誓う儀式を組織した[94]

目的を共有するという感覚を強めるため、サン=カンタンでは「団結!自由に生きるか、然らずんば死か!」と書かれたリボンを男女全員が身につけるよう要求した。他の町でも、地元当局がパリで愛国派の象徴のひとつとなった三色のバッジを身につけて連帯を表明することを全市民に命じる光景は見られた[95]ヴァランシエンヌでは「われわれはみな、自由の擁護と国民の幸福のために血を流すことを誓った」。トゥールではロワール川近くの戸外で儀式が行われ、人々は憲法の護持のために自分の生命を犠牲にするという誓いを一斉に唱えた。サン=マロの城壁下では4000人の武装した国民衛兵が2000人の女や子供達とともに国民と憲法に忠実であることを誓った[96]

国王逮捕の知らせが伝わると、外敵の侵入に対する恐怖はいっそう強まり、一部ではすでに戦闘が始まった、オーストリア軍が侵入したなどの噂が流れて人々をパニックに陥れた。ただし、この時パニックが生じたのは1789年にアリストクラートの陰謀論から生じた大恐怖をほとんど経験しなかった地域であり、大恐怖が生じた地域は噂が届いても冷静に対応している[97]。一方、地方の指導者や国民衛兵によって、宣誓拒否聖職者や貴族を標的にした弾圧行為がみられた[98]

影響

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ヤヌスのような姿で描かれた国王の風刺画。憲法を支持することを約束する一方で、憲法を破棄することも約束している[99]

シャン=ド=マルスの虐殺

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7月15日、議会が逃亡事件に関して国王の責任は問わない旨の決定をしたことがパリ市内に伝わると、コルドリエ・クラブなどいくつかの民衆協会では抗議の声があがった。クラブのメンバーは決定の再考を求めるため議会に赴こうとしたが、ペティヨンやロベスピエールに阻止されたので連帯を求めてジャコバン・クラブに出頭した。ここでも議会の決定について討論していたが、出席していた議員の多くは民衆からの圧力と議会への敵対に怒って退出した。翌日、コルドリエ・クラブは共和国の樹立を含む請願書を用意し、シャン=ド=マルスにある祖国の祭壇で請願書に署名することを呼びかけた[100]

17日、シャン=ド=マルスには見物人も含めて5万人ほどが集まり、中断されるまでに6000名ほどが署名を済ませた。それでも議会は騒乱を疑い、市当局に出頭を要請した。夕方5時半頃にバイイは戒厳令を出し、国王を誘拐したのと同じ外国勢力が民衆を煽動していると演説した。6時半頃、市当局と国民衛兵が出頭した。小競り合いが起こり、国民衛兵が法の定める3回にわたる警告なしに発砲したため場が混乱し、死者約50名、負傷者数百名が出た。戒厳令は25日まで継続され、共和主義の煽動者とみなされた者が200名以上投獄された[101]

1791年憲法

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憲法委員会と改正委員会という2つの委員会を主導していたフイヤン派は、共和主義者がもたらす危険は君主政が潜在的に持ちうる脅威よりはるかに大きいと信じるようになった。フイヤン派が憲法の修正点を押し通そうと試み、国王の権力を強化し民主主義を制限しようとするたび、彼らはすべての段階でジャコバン派によって強く反対された。議会の中道派が、バルナーヴとその一派の動機を不審に思い始め、フイヤン派の指導者たちは新政府のもとで大臣になりたいだけだと考えジャコバン派に味方したため、憲法にはわずかな点の修正しか加えられなかった[102]

9月3日、フランス最初の憲法にして立憲君主政体を採った1791年憲法が完成した。ここで国王が憲法を拒絶したなら、国民議会は彼を玉座から降ろして王太子に摂政を立てなければならないと考えていた。しかし文書はテュイルリー宮殿で国王に手渡され、国王は憲法をまこと私は受諾する、と宣言し[103]、憲法を施行するために全力を尽くすと誓約した[104]

この時、国王はフランス革命に関連する行為によって有罪判決を受けたり起訴されたりした者たち全員に大赦を与えることを提案し、国民議会は国王の提案を即座に承認した。これによってショワズール公爵やダマも監房を出ることを許され、彼らはその後すぐ、ブイエ将軍らの亡命者の軍隊に加わった。国王夫妻の幽閉も解かれ、国民議会がすべての役人と将校が宣誓することを求められている正式な忠誠の誓約に『国王』という語を再び挿入することを投票によって決議したため、憲法の完成を祝う1週間にわたる祝賀行事に顔を見せた国王は市中を移動する時「国王万歳」という叫びに迎えられた[105]

9月の終わり、2年3ヶ月続いた国民議会は選出されたばかりの立法議会議員にその権力を譲り渡して正式に解散した。理論上、ここでフランス革命は終わったかに見えた[106]

第二の革命

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逃亡事件後、王妃は交渉を持ちかけてきたバルナーヴとやりとりしつつ、裏ではフェルセン、メルシー伯爵、レオポルト2世に宛てた手紙ではバルナーヴとのやりとりで自らが言った言葉を否定していた。逃亡が未遂に終わった後に国王一家が受けた数々の侮辱に憤慨し、議員達を「獣」「ならず者」「狂人」と糾弾し、憲法全体が「実行不可能で馬鹿げたものの連続」でしかないと非難した[107]

同じ頃、国王も自筆の短信をオーストリア皇帝に送ることに成功していた。彼は6月21日に自由を取り戻し、国のために最善の利益を心から願うフランス人たちに加わることができなかったのは遺憾であるとし、皇帝に国王とフランス王国を助けに来てほしいとした。一方、既に亡命に成功した弟たちプロヴァンス伯とアルトワ伯への手紙では、最善の策は待つこと、そしてそれ自体の不合理によって革命的な政府が瓦解するに任せることであると主張した。国王は人間の権利という観念自体が「まったく狂気の沙汰」で、平民の中に「自然が定めた身分からのし上がりたいと望む」者がいまやいるにせよ、自分自身と貴族との紐帯は「わが王冠のなかで最も古く美しい宝石である」とした[108]

開戦

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1791年8月27日、オーストリア皇帝レオポルト二世とプロイセン国王フリードリッヒ=ヴィルヘルム二世ピルニッツ宣言を出した。フランス国王の逃亡失敗という事態の後では、なんらかの対応を取らざるを得なくなった結果の行動だったが、フランス側は革命前からあった外国への恐怖の他、依然として国の人手不足は続いており、この時期のフランスにおける外交交渉の専門家の不足などからそのようには読み取らなかった[109]

10月20日、ブリソは立法議会でヨーロッパ列強に対する戦争を支持した。人には居住地を選ぶ自由があるのだから亡命全体は問題ではないとし、外国においてフランスに敵対的な行為をする亡命者と結びつき、彼らを支援する諸外国こそが最大の問題なのだと述べた。他にも国王の宮廷が革命を潰すために企んでいる陰謀を暴き出すこと、食糧問題に関心が向きがちな民衆の目を外に向けさせること、君主国と闘って革命の理念を主外国に広めることが開戦の目的として挙げられた[110]。ラファイエットも軍事力を背景として自分の個人的な勢力を強化したいという野心から戦争に賛成した[111]

ロベスピエールは現下の最大の敵は諸外国ではなく、国内の反革命勢力であり、国王は革命に反対なのだからその政府に戦争遂行を任せるべきではない。また戦争を行えば兵を率いる将軍に人気が集まり、その者の影響力が増して軍事独裁の危険が高まるとして戦争に反対したが、開戦に反対したのは少数派だった[112]。戦争をして敗れることでフランス革命を潰したい国王とブリソが属するジロンド派が開戦という思惑で一致し[113]、1792年4月20日、フランスはオーストリアに宣戦布告しフランス革命戦争が始まった。

7月25日、パリ市民が即座に、かつ無条件で国王に服従しない場合にはパリを徹底的に弾圧することを示唆するブラウンシュヴァイクの宣言を受けた民衆は、委縮するよりもむしろ怒った。そしてその矛先は「外国軍に保護された国王」であるルイ16世に向かう。この声明はフイヤン派からジャコバン派まですべての革命派の反感を買うとともに、反革命を企てる者の実在を確信させた[114]

こうして8月10日事件が起き[115]、新たに召集された国民公会共和国の樹立を宣言した(フランス第一共和政[116]。議会は国王一家をリュクサンブール宮殿に住まわせようとしたが、パリのコミューンは監視付きでタンプル塔に監禁することを要求し、これが実現された[117]。ブルボン王朝は1814年、プロヴァンス伯改めルイ18世が立憲君主制を保証し戴冠するまで中断されることとなる[115]

恐怖政治

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やがて第一次対仏同盟が結成されたものの[118]、外国の関心がフランス革命のみに注がれていなかったためフランス軍は持ちこたえた。しかしその間にも外国や貴族への強迫観念的な疑念、内紛などに悩まされていた。サン=キュロットが経済状況の改善と敵に対する復讐を求め、共和国政府は恐怖政治に踏み切った[119]

歴史学者のティモシー・タケットは、恐怖政治の起源を十全に説明するためにはヴァレンヌ事件が及ぼした衝撃力についても思いを巡らす必要があるとする[120]。事件当時、革命家たちは、原理と便宜主義、法の支配と公安の必要、個人の自由と共同体の防衛、人間の権利の保護と国家の保全とを擦り合わせてバランスをとることを強いられたが、一方で地方の市民すら、根拠のない容疑や特定の集団に属しているために罪があるとすること、適正な手続きがないまま長期にわたって投獄するといった行動にでた。これは恐怖政治下で用いられた方策にも見られる[121]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. 絵の内容はフィクションで、劇的場面のような演出となっている[要出典]

出典

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  1. バレンヌ逃亡事件とはコトバンク
  2. Britannica Japan Co., Ltd. 2021, p. 「バレンヌ逃亡事件」.
  3. 1 2 3 4 山上 2021, p. 「バレンヌ逃亡事件」.
  4. 山﨑耕一2018、P.12-13
  5. 山﨑耕一2018、P.31
  6. 遅塚忠躬1997、P.138
  7. 山﨑耕一2018、P.50-51
  8. タケット2023、P.26
  9. タケット2023、P.27
  10. タケット2023、P.28
  11. タケット2023、P.29
  12. 1 2 タケット2023、P.31
  13. 1 2 タケット2023、P.32-33
  14. 山﨑耕一2018、P.35
  15. 山﨑耕一2018、P.14
  16. 山﨑耕一2018、P.62-63
  17. 山﨑耕一2018、P.108-109
  18. 山﨑耕一2018、P.113-114
  19. 山﨑耕一「シィエスのフランス革命」P.56
  20. 1 2 山﨑耕一2018、P.40
  21. 山﨑耕一2018、P.39
  22. タケット2023、P.54-55
  23. 山﨑耕一2018、P.103
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  25. タケット2023、P.61
  26. 山﨑耕一2018、P.103-104
  27. タケット2023、P.24
  28. タケット2023、P.112
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  30. マクフィー2022、P.141-142
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  109. 山﨑耕一2018、P.112-113
  110. 山﨑耕一2018、P.128-129
  111. 遅塚忠躬「ロベスピエールとドリヴィエ」P.6
  112. 山﨑耕一2018、P.130-131
  113. 山﨑耕一2018、P.132
  114. 山﨑耕一2018、P.136
  115. 1 2 山﨑耕一2018、P.137
  116. 山﨑耕一2018、P.143
  117. 山﨑耕一2018、P.138
  118. 山﨑耕一2018、P.157-158
  119. タケット2023、P.262-263
  120. タケット2023、P.18
  121. タケット2023、P.220

参考文献

[編集]