ジェームズ・F・バーンズ

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ジェームズ・フランシス・バーンズ

ジェームズ・フランシス・バーンズ(James Francis Byrnes、1882年5月2日 - 1972年4月9日)は、アメリカ合衆国国務長官である。

経歴[編集]

サウスカロライナ州出身。母子家庭の貧しい家庭で育ち、仕立屋を営む母を助けるために高校を中退、独学で法律を学ぶ。

その後、上院議員となり、地元での水力発電所建設などの内政面での功績により、州知事を経てフランクリン・ルーズベルト大統領により、第2次世界大戦中は連邦政府戦時動員局長に抜擢される。原爆開発を担当していたマンハッタン計画にも深く関わっていく。

戦時動員局長となったバーンズは国内の産業資本を全て軍需物資の生産に切り替えさせるなど、統制経済的手法を用いた。また、マンハッタン計画の責任者の一人として、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、日本に対する原爆攻撃を支持していた。そのため、天皇制の護持が容れられれば、日本には終戦交渉の余地があるとする、戦後日本を有望な投資先と考える国務次官・ジョセフ・グルー三人委員会とは正反対の路線であった。

ハリー・トルーマン大統領のもと、1945年7月、国務長官となり、三人委員会の提言を独断で黙殺し、原子爆弾の使用を強く大統領に進言した。また、日本の最初のポツダム宣言受諾回答(天皇の統治大権に変更を加えないことを条件とした受諾)を拒否し、「天皇と日本政府の権威は連合軍最高司令官に従属(subject to)する」という趣旨の「バーンズ回答」を起草、返信したことでも知られる。日本政府は最終的にこのバーンズ回答を受け入れてポツダム宣言を受諾した。

戦後は、1946年9月に占領下のドイツにおける強硬な脱工業化政策(モーゲンソー・プラン)を見直して、ソ連に対する牽制に戦後ドイツを利用するため、ドイツ産業の再建を支持する演説(『ドイツ政策の見直し』)を行い、ドイツ国民に将来への希望をあたえている。しかし、「ポケットに原爆」と呼ばれた原爆の使用を対東側外交の切り札に使用する姿勢がトルーマンから危険視され、1947年、罷免された。

その後、故郷に戻り、奨学金制度の創設(バーンズ基金)などに尽力し、地元では今も人気がある。

先代:
エドワード・ステティニアス
アメリカ合衆国国務長官
第49代:1945 - 1947
次代:
ジョージ・マーシャル