ネイサン・クリフォード

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ネイサン・クリフォード
Nathan Clifford
1855年–65年頃
アメリカ合衆国連邦最高裁判所陪席判事
任期
1858年1月21日 – 1881年7月25日[1]
ノミネート者ジェームズ・ブキャナン
前任者ベンジャミン・カーティス英語版
後任者ホレイス・グレイ英語版
在メキシコアメリカ合衆国大使英語版
任期
1848年10月2日 – 1849年9月6日
大統領ジェームズ・ポーク
ザカリー・テイラー
前任者ジョン・スライデル英語版
後任者ロバート・レッチャー
第19代アメリカ合衆国司法長官
任期
1846年10月17日 – 1848年3月17日
大統領ジェームズ・ポーク
前任者ジョン・メイソン
後任者アイザック・トウシー
アメリカ合衆国下院議員
メイン州第1選挙区選出
任期
1839年3月4日 – 1843年3月3日
前任者ジョン・フェアフィールド英語版
後任者ジョシュア・ヘリック英語版
メイン州検事総長英語版
任期
1834年1月1日 – 1838年1月3日
知事ロバート・P・ダンラップ英語版
前任者ジョナサン・ロジャース
後任者ダニエル・グッデナウ英語版
メイン州下院議員英語版
任期
1830年 - 1834年
個人情報
生誕 (1803-08-18) 1803年8月18日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州ラムニー英語版
死没 (1881-07-25) 1881年7月25日(77歳没)
アメリカ合衆国 メイン州コーニッシュ英語版
墓地エヴァーグリーン墓地英語版
政党民主党
配偶者アンナ・エアー
署名

ネイサン・クリフォード(Nathan Clifford, 1803年8月18日 - 1881年7月25日)は、アメリカ合衆国政治家外交官裁判官1846年から1848年までアメリカ合衆国司法長官を、1858年から1881年までアメリカ合衆国最高裁判所陪席裁判官を務めた。

生い立ちと初期の経歴[編集]

1803年8月18日、クリフォードはニューハンプシャー州ラムニーの農場において誕生した。父親はイングランドからの移民の末裔ナサニエル・クリフォード (Nathaniel Clifford, 1778-1820)、母親は北アイルランドからの移民の末裔リディア・シンプソン (Lydia Simpson, 1773-1869) であった。クリフォードは7人兄弟の第3子であり、ただ1人の男子であった。クリフォードはラムニーの公立学校で教育を受け、ニューハンプシャー州のヘイヴァーヒル・アカデミーを経てニューハンプシャー文学院を卒業した。

クリフォードはわずかに教職を経験した後、ジョサイア・クィンシー英語版の事務所で法律を学んだ。クリフォードは1827年メイン州から弁護士として認可を受けると、メイン州ニューフィールドで弁護士業を開業した。

政治家として[編集]

クリフォードは1830年から1834年までメイン州下院議員を務め、1832年からは下院議長も務めた。クリフォードはメイン州検事総長を1834年から1838年まで務めた。クリフォードは民主党に所属し、1839年にメイン州第2選挙区から連邦下院議員に選出された。クリフォードは1841年にもメイン州第3選挙区で2選目を果たし、連邦下院議員を連続で2期4年務めた。クリフォードは3選目には立候補しなかった。

1846年10月ジェームズ・ポーク大統領はクリフォードを司法長官に任命した。クリフォードは1848年3月まで司法長官を務めた。司法長官退任後、クリフォードは駐メキシコ公使に指名された。クリフォードはメキシコとの間でグアダルーペ・イダルゴ条約の締結交渉を行い、メキシコ割譲地を獲得した。クリフォードは1849年9月まで公使職を務めた。クリフォードは帰国後、メイン州ポートランドで弁護士業を再開した。

裁判官として[編集]

1858年ジェームズ・ブキャナン大統領はクリフォードを連邦最高裁判所陪席判事に指名した。上院は奴隷制度を支持する民主党員を最高裁判所に置くことに否定的であったが、クリフォードは上院において最低得票数23をわずかに3票上回る僅差で承認を受けた。クリフォードは商法および海事法を専門とし、メキシコ人居住地の無償払い下げに関わる問題や通関手続きの事件を扱った。クリフォードは合衆国憲法に関しての法的哲学に言及することはめったになく、また連邦と州との間には明確な境界線を設けるべきだと考えていた。

クリフォードは連邦最高裁判所の陪席判事として398の事件で法廷意見の執筆を担当した。ときにクリフォードの執筆する法廷意見は過剰に長く、かつ本題から逸脱しているとの批評を受けることもあった[2]。クリフォードは判事職を死去するまで続けた。

クリフォードは1876年の大統領選挙において、その選挙結果を決定するために招集された選挙委員会で委員長を務めた。クリフォードは民主党サミュエル・ティルデンが勝者であるとの意見を出したが、その後1877年の妥協により共和党ラザフォード・ヘイズが勝者となった。

晩年[編集]

ネイサン・クリフォード

1881年7月25日、クリフォードはメイン州コーニッシュにおいて死去した。クリフォードはメイン州ポートランドエヴァーグリーン墓地に埋葬された。

家族[編集]

1828年3月20日、クリフォードはメイン州ニューフィールドにおいてハンナ・エーア (Hannah Ayer, 1811-1892) と結婚した。2人の間には以下の子供が生まれた。

  1. チャールズ・エドワード・クリフォード (Charles Edward Clifford, 1828-1907)
  2. ナンシー・エーア・クリフォード (Nancy Ayer Clifford, 1830-1899)
  3. ネイサン・J・クリフォード (Nathan J. Clifford, 1832-????)
  4. ハンナ・ヘンリー・クリフォード (Hannah Frances Clifford, 1834-1900)
  5. ウィリアム・ヘンリー・クリフォード (William Henry Clifford, 1835-1836)
  6. ウィリアム・ヘンリー・クリフォード (William Henry Clifford, 1838-1901)
  7. エリシャ・クリフォード (Elisha Clifford, 1839-1839)
  8. リディア・J・クリフォード (Lydia J. Clifford, 1842-1843)
  9. ジョージ・フランクリン・クリフォード (George Franklin Clifford, 1844-1903)

関連図書[編集]

  • Clifford, Philip G., Nathan Clifford, Democrat from 1803 to 1881, New York: G.P. Putnam’s Sons, 1922.

脚注[編集]

  1. ^ Justices 1789 to Present”. Washington, D.C.: Supreme Court of the United States. 2022年2月15日閲覧。
  2. ^ History of the New Hampshire Federal Courts - Internet Archive(英語)

外部リンク[編集]

  • United States Congress. "ネイサン・クリフォード (id: C000518)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
公職
先代
ジョナサン・ロジャース
メイン州検事総長
1834年 - 1838年
次代
ダニエル・グッデナウ
先代
ジョン・ヤング・メイソン
アメリカ合衆国司法長官
1846年10月17日 - 1848年3月17日
次代
アイザック・トウシー
先代
ベンジャミン・ロビンズ・カーティス
アメリカ合衆国最高裁判所陪席裁判官
1858年1月21日 - 1881年7月25日
次代
ホーレス・グレイ
外交職
先代
ジョン・スライデル
在メキシコアメリカ合衆国特命全権公使
1848年10月2日 - 1849年9月6日
次代
ロバート・リッチャー