ウィリアム・ダンロップ・シンプソン

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ウィリアム・ダンロップ・シンプソン
William Dunlap Simpson
サウスカロライナ州最高裁判所英語版首席判事
任期
1880年9月6日 – 1890年12月26日
前任者アミエル・J・ウィラード英語版
後任者ヘンリー・マカイバー英語版
第78代 サウスカロライナ州知事
任期
1879年2月26日 – 1880年9月1日
副知事空席
前任者ウェイド・ハンプトン3世
後任者トマス・ボスウェル・ジーター
第56代 サウスカロライナ州副知事
任期
1876年12月14日 – 1879年2月26日
知事ウェイド・ハンプトン3世
前任者リチャード・ハウエル・グリーヴス英語版
後任者ジョン・D・ケネディ
アメリカ連合国下院議会議員
サウスカロライナ州第4選挙区選出
任期
1863年2月5日 – 1865年3月18日
前任者ミレッジ・ルーク・ボーナム英語版
後任者廃止
サウスカロライナ州上院議員英語版
ローレンス地区
任期
1860年11月26日 – 1863年2月25日
前任者ジェームズ・ヘンダーソン・アービー
後任者バーニー・スミス・ジョーンズ
サウスカロライナ州下院議員英語版
ローレンス地区
任期
1858年11月22日 – 1860年11月26日
任期
1854年11月27日 – 1856年11月24日
個人情報
生誕 (1823-10-27) 1823年10月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 サウスカロライナ州ローレンス郡
死没 (1890-12-26) 1890年12月26日(67歳没)
アメリカ合衆国 サウスカロライナ州コロンビア
政党民主党
配偶者ジェーン・エリザベス・ヤング
子供7人
出身校サウスカロライナ大学
ハーバード・ロー・スクール
専業法律家、政治家
兵役経験
所属国アメリカ連合国
所属組織アメリカ連合国陸軍
最終階級中佐
戦闘南北戦争

ウィリアム・ダンロップ・シンプソン(William Dunlap Simpson, 1823年10月27日 - 1890年12月26日)は、アメリカ合衆国裁判官政治家1879年から1880年までサウスカロライナ州知事を、1880年から1890年までサウスカロライナ州最高裁判所首席裁判官を務めた。

生涯[編集]

1823年10月27日、シンプソンはサウスカロライナ州ローレンス郡において誕生した。シンプソンはサウスカロライナ大学1843年に卒業し、ハーバード法科大学院で1年を過ごした。シンプソンは義父ヘンリー・クリントン・ヤングと共同で法律事務所を経営し、弁護士となった。

シンプソンは1854年から1856年まで、および1856年から1860年までサウスカロライナ州下院議員を、1860年から1863年までサウスカロライナ州上院議員を務めた。南北戦争が開戦すると、シンプソンはアメリカ連合国陸軍において少佐となった。シンプソンは最終的に中佐まで昇格した。シンプソンはサウスカロライナ州第14志願兵部隊の編成を支援した。シンプソンはまた、1863年から1865年までアメリカ連合国下院議員を務めた。

1865年に南北戦争が終結した直後、シンプソンは連邦下院議員に選出されたが、共和党急進派により、その地位を剥奪された。シンプソンは弁護士業を再開した。シンプソンは1876年サウスカロライナ州副知事に選出され、1878年にも州副知事に再選した。1879年2月に州知事ウェイド・ハンプトンが連邦上院議員着任のため辞職すると、シンプソンは第78代知事に昇格した。シンプソンは州知事として、進歩主義教育を奨励する法を制定し、州の農業局を設立した。

1880年9月、シンプソンは州最高裁判所の首席裁判官に指名され、州知事を辞任した。シンプソンはその後1890年に死去するまで州最高裁判所首席裁判官を務めた。

1890年12月26日、シンプソンはサウスカロライナ州コロンビアにおいて死去した。シンプソンの遺体はサウスカロライナ州ローレンスのローレンス墓地に埋葬された。

参考文献[編集]

  • Cooper, William (2005). The Conservative Regime: South Carolina, 1877-1890. University of South Carolina Press. ISBN 1-57003-597-0 

外部リンク[編集]

公職
先代
リチャード・ハウエル・グリーヴス
サウスカロライナ州副知事
1876年12月14日 - 1879年2月26日
次代
ジョン・ドビー・ケネディ
先代
ウェイド・ハンプトン
サウスカロライナ州知事
1879年2月26日 - 1880年9月1日
次代
トマス・ボスウェル・ジーター