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天安門広場

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座標: 北緯39度54分12秒 東経116度23分30秒 / 北緯39.90333度 東経116.39167度 / 39.90333; 116.39167

天安門広場
天安門広場
天安門広場
各種表記
繁体字 天安門廣場
簡体字 天安门广场
拼音 Tiān'ānmén Guǎngchǎng
発音: ティエンアンメン グァンチャン
英文 Tiananmen Square
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広場のいたる所に武装警察隊が配備されている
天安門広場で行進する中国人民解放軍

天安門広場(てんあんもんひろば、簡体字中国語: 天安门广场拼音: Tiān'ānmén Guǎngchǎng)は、中華人民共和国北京市故宮天安門に隣接する広場。第46回世界遺産委員会において、世界文化遺産に登録された。

沿革

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の成祖永楽帝が北京遷都した時期には天安門から南下し「大明門」(清朝では「大清門」、辛亥革命後に「中華門」と改名)に至る「千歩廊」と称される大通りと、現在の長安路に存在した「長安左門」と「長安右門」の間を結んだ丁字形の空間が存在し、天安門広場の原形が既に存在していた。

1954年に「千歩廊」の左右の官庁と倉庫群を撤去、中華門と長安左右門を撤去して現在の天安門広場が形成され、天安門広場建築(人民大会堂中国国家博物館)に併せ人民英雄紀念碑も建設されている。また1976年毛沢東中国共産党主席が死去すると、翌年にかけて広場の南の中華門跡地付近に毛主席紀念堂が建設された。

天安門広場は最大で50万人を収容でき、国家行事や歴史上の大事件の舞台となってきた。そのため幾度となく革命運動の舞台にもなり抗争が起こってきた。

2013年10月28日、天安門前の金水橋に小型四輪駆動車が歩道に突っ込んで炎上し車内の3人と観光客2人が死亡した[1][2][3][4][5]

2024年7月27日に天安門広場およびその建築群(天安門広場・人民英雄紀念碑毛主席紀念堂国家博物館人民大会堂)は「北京中軸線:中華の理想的秩序を示す建造物群中国語版」の一部として世界遺産に登録された[6]

天安門広場の変遷(旧広場と社会主義期の再設計)

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当時の天安門広場
王朝時代〜中華民国期

天安門広場の原型は、明代の北京都市計画の中で形成された。天安門(天安門城楼)は1417年に建設され、紫禁城の正門として皇城の南端に位置していた。広場は1651年に整備されたが、現在のような巨大な広場ではなく、宮廷施設や門、官庁などに囲まれた儀式空間であった。当時の空間構成は現在の広場とは大きく異なり、周囲には門や官庁建築が並び、都市空間の一部として機能していた。広場は主として王朝の儀式や国家行事の場として使用され、一般市民の公共広場として利用される空間ではなかった。[7]

中華人民共和国成立後の再設計

1949年の中華人民共和国成立後、中国政府は北京を社会主義国家の首都として再編する都市計画を開始した。1950年代の中国の都市計画は、当時の中ソ関係を背景として、ソ連都市計画思想や都市設計モデルの影響を受けていた。この計画の中で、天安門周辺を国家の政治中心として再構成する構想が検討され、広場を大規模に拡張して国家式典や大規模集会、軍事パレードを行うことができる公共空間として整備する方針が採用された。[要出典] [8]

城門の撤去

広場拡張計画の過程では、天安門前に存在していた城門や建築物の一部が撤去された。特に長安左門および長安右門は1952年に撤去され、天安門前の都市空間構成は大きく変化した。[要出典] [8]

1950年代の拡張と社会主義様式

1950年代後半には広場の拡張工事が進められ、従来存在していた門や建築物の一部が撤去されるとともに、広場は現在の巨大な石舗装空間へと整備された。1958年から1959年にかけての改造によって広場は大幅に拡張され、国家行事や大規模パレードを行う政治空間として再設計された。広場の面積は約44万平方メートルに達し、世界最大級の都市広場の一つとなった。また、広場は北京の都市軸線(zh:北京中轴线)上に位置しており、拡張後も紫禁城から南へ延びる歴史的都市構造の一部として維持された。このような巨大広場の整備は、国家式典や大規模集会、軍事パレードなどを行う公共空間を重視する当時の社会主義都市計画の特徴とも関連している。[9]同時期には人民大会堂中国革命博物館などの大型公共建築が建設され、これらは建国10周年記念事業として建設された「北京十大建築」の一部であった。[要出典] [8]

北京旧城保存案

1950年代初頭には、建築史家である梁思成らによって北京旧城の歴史的都市景観を保存する都市計画案が提案された。しかしこの案は採用されず、結果として天安門広場を中心とする大規模な政治広場の整備が進められることとなった。[要出典] [8]

空間の意味の変化

王朝時代の天安門前は宮廷の前庭としての儀式空間であり、皇帝権力を象徴する場として機能していた。一方、中華人民共和国成立後は人民国家を象徴する政治広場(政治空間)として再定義された。広場の巨大化と建築群の配置は国家権力の象徴的空間としての性格を強め、国家式典や軍事パレードの舞台として利用されるようになった。このように天安門前の空間は、王朝国家の儀礼空間から社会主義国家の政治広場へと性格を大きく変化させたとされる。[10]

構造

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南北880m・東西500mの長方形の広場で、敷石は花崗岩である。広場の中央に、人民英雄紀念碑毛主席紀念堂があり、南には正陽門(前門)が建っている。広場の北は北京随一の大通りである長安街に面し、その反対側に紫禁城(故宮)の入口である天安門が位置する。広場の西側には人民大会堂全国人民代表大会議事堂)、東側には中国国家博物館(旧・中国歴史博物館および中国革命博物館)がある。これは太陽の昇る方角を過去、沈む方角を未来に比喩したものである。

周囲の歩道の敷石にまじって長方形の鉄板が敷かれている部分があり、下に水を流せる架渠構造になっている。大規模な集会に際し鉄板を外して周囲を天幕で覆い、臨時の御手洗として使用される。

1969年に、中ソ関係の悪化に伴い、北京地下城という避難壕が作られた。観光スポットとなっていたが、2008年閉鎖。

広場の様子

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天安門付近の地図

国内外の観光客であふれているが、国家のシンボル的施設であるため多数の警備兵がパトロールしており、かつて2回の天安門事件が起きた場所でもあるため、中国政府や中国共産党に批判的なデモ活動が再発しない対策が行われている。広場の北部に国旗掲揚台があり、日の出と日の入りに合わせて毎日警備兵による国旗の掲揚収容儀式が、地方からの中国国内団体旅行客を中心に多数の見学者が見守る中実施される。また夜間は特定日を除き立ち入り禁止となる。2015年8月から紀念中国人民抗日戦争到世界反法西斯戦争勝利70周年閲兵式の警備強化のため、全ての入場が禁止された。

スポーツ

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北京オリンピックマラソンは、この広場からスタートし、天壇公園北京大学清華大学等を通り北京国家体育場でゴールするコースが設定された。

また、毎年開催されている北京国際マラソンもこの広場からスタートし、オリンピック公園まで向かう。

過去には大規模な狩猟が行われた記録もあるが、現地の住民は記憶していない事が多い。

ギャラリー

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天安門から見た天安門広場全景。正面が人民英雄紀念碑毛主席紀念堂、左が中国国家博物館、右が人民大会堂

脚注

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  1. “中国・天安門で車突っ込む5人死亡、邦人ら38人負傷”. 朝日新聞DIGITAL. (2013年10月28日). オリジナルの2013年10月28日時点におけるアーカイブ。 2013年10月29日閲覧。[リンク切れ]
  2. “死者は5人に、日本人男性もけが 抗議活動か”. msn産経ニュース. (2013年10月28日) 2013年10月29日閲覧。
  3. “天安門前で車炎上、5人死亡・38人負傷”. TOMIURI ONLINE. (2013年10月29日) 2013年10月29日閲覧。
  4. “中国:天安門前車両炎上、死者5人に 邦人含む38人負傷”. 毎日jp. (2013年10月28日) 2013年10月29日閲覧。
  5. “天安門前で車突入、5人死亡 故意の可能性 邦人ら38人けが”. 日本経済新聞. (2013年10月28日) 2013年10月29日閲覧。
  6. “北京中轴线——中国理想都城秩序的杰作”成功列入《世界遗产名录》”. 新華網 (2024年7月27日). 2024年7月27日閲覧。
  7. Tiananmen Square”. Encyclopaedia Britannica. 2026年3月8日閲覧。
  8. 1 2 3 4 Tiananmen Square”. Encyclopaedia Britannica. 2026年3月12日閲覧。
  9. Tiananmen Square”. Encyclopaedia Britannica. 2026年3月8日閲覧。
  10. Tiananmen Square”. Encyclopaedia Britannica. 2026年3月8日閲覧。

関連項目

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