中南海

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中南海
各種表記
繁体字 中南海
簡体字 中南海
拼音 Zhōngnánhǎi
注音符号 ㄓㄨㄥ ㄋㄢˊ ㄏㄞˇ
発音: チョンナンハイ
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中南海正門新華門北京市西城区西長安街)
中南海
中南海の紫光閣(中海西岸北部)
中南海平面図

中南海(ちゅうなんかい、簡体字: 中南海拼音: Zhōngnánhǎi)は、北京市の中心部西城区、かつての紫禁城(現故宮)の西側に隣接する地区を指す[1]中華人民共和国政府や中国共産党の本部や要人・秘書の居住区などがある[1][2]。またこの中南海という用語は、単なる場所を示すのみならず、権力の象徴としての政治用語でもあり、「中南海入りする」というのは、「党の指導部入りする」ことを意味する[3]。そのためこの用語は、日本でいう官邸永田町アメリカ合衆国におけるホワイトハウス、ロシアにおけるクレムリンと同様、中国政府・党首脳部を指す換喩としても用いられる[3][4]

中南海の概要[編集]

観光客で賑わう故宮や天安門広場のすぐ近く、高さ6メートル余りの赤い壁で囲まれた人の近付かない一角が本中南海である[4]。その前を横切る北京のメインストリートである長安街から正門(新華門)には、「偉大なる中国共産党万歳」、「必勝不敗の毛沢東思想万歳」のスローガンが掲げてある[4]。この中南海の面積は、中国の単位で1500ムー(100万平方メートル)あり、うち700ムーが池(中海と南海)といわれる[3]。その広さは東京ドーム25個分、東京ディズニーランド東京ディズニーシーを合わせた面積に相当する[3]1898年戊戌政変光緒帝が幽閉された南海の小島・瀛台(えいだい)、毛沢東の住居のあった豊沢園、1976年10月「四人組」が逮捕された懐仁堂、中国共産党中央書記処の執務室のある勤政殿など140以上の様々な建物がある[3][4]。さらには「燕京八景」にも選ばれている水雲榭(すいうんしゃ)、「園中之園」とも呼ばれる静谷などもあり、「皇家園林」(皇帝所有の庭園)時代の施設も残っている[3]

歴史[編集]

狭義の中南海は紫禁城の西側にある中海と南海という二つの人工池の合称である[1]金朝時代、今日の中南海の北半分に太液池と皇帝が夏の離宮として用いていた大寧宮が存在していた。金朝時代、中海の秋の景色は「太液秋波」と称され皇帝章宗によって燕京八景のひとつに選ばれている。の時代になって今日の北京の地に大都が建設されると、太液池は皇城の一部に組み込まれ、池の周囲に大内裏・隆福宮・興聖宮の3棟の宮殿が造られた。元の時代の太液池の範囲は今日の北海と中海に相当する。

の時代になった1406年永楽帝によって新たな宮殿の造営が始まった。永楽帝の宮殿は元の皇城より敷地が南にずらされた。同時に宮殿の景観を豊かにするべく今日の南海が掘削され、南海の掘削残土と紫禁城のにあたる護城河の掘削残土によって、風水の観点から皇城の北に人工の丘、万寿山が築かれた。今日の景山に当たる。これにより北海・中海・南海が太液池と総称され[4]、皇城西苑に属することになった。北海と中海は金鰲玉蝀橋(きんごうぎょくとうきょう)で結ばれ、中海と南海は蜥蜴橋(せきえききょう)で結ばれた。

代となり、元時代には北海まで建設されていた水路が拡張されるとともに、北海から南に連なる中海と南海が掘られた[5]。この北海・中海・南海の周りを囲むように赤い壁がめぐらされた。御苑の面積は赤い壁の内側までに縮小され、それまで西苑の一部とされていた広大な土地には民家が立ち並ぶようになる。御苑は清朝の歴代皇帝らの避暑や政務の場として用いられた。同治帝と光緒帝の時代、咸豊帝の妃で清朝後期の事実上の権力者だった西太后は間もなく迎えることになるであろう光緒親政の日に備えて、引退後の「養老の地」として隣接する西苑を「小紫禁城」とするための大土木事業を行った[6]。参加する工務所は、興隆、天利、聚豊など当代の大手建築業者数10家であり、工匠人夫はのべ600万人を数え、1日1万人を超えるときも珍しくなかった[6]。事業の費用は白銀3000両におよんだ[6]

1900年義和団の乱の際には御苑はロシア軍の駐屯地とされ、略奪の被害に遭っている。8カ国連合軍の司令アルフレート・フォン・ヴァルダーゼーが北京に到着すると中南海の儀鸞殿(ぎらんでん)が宿舎となった。清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が即位すると中海の西岸にある集霊囿(しゅうれいゆう)に摂政王府が建てられている。

1911年辛亥革命によって清朝が滅亡すると中南海は袁世凱率いる北洋政府の総統府として用いられるようになり[1]1915年12月に袁世凱が帝政を宣言すると中南海は新華宮と改称されている。袁世凱が帝政を取り消し失意のうちに没した後も中南海は北洋政府総統と首相の執務の場として用いられ続け、1926年には中南海は「大元帥府」として張作霖の執務の場となった。1928年国民政府南京遷都した後、中南海は公園として一般に開放された。

中華人民共和国建国以降の中南海[編集]

1949年の中華人民共和国建国以後、中南海には中国共産党中央と中央政府(政務院、後の国務院が置かれ[1]、毛沢東・周恩来鄧小平ら党や政府の要人の居住区として整備されてきた[7][8]

さらに、中華人民共和国の建国以降も数々の歴史の舞台となった[9]1972年9月の毛沢東と田中角栄首相との日中首脳会談の舞台ともなった[10][11]1976年9月9日に毛沢東が死去した後、「四人組」と「反四人組連合」による権力闘争が激しさを増し、10月6日の夜「反四人組連合」が、「四人組」のうちの王洪文張春橋姚文元の三人を、中南海内の懐仁堂に呼び出し逮捕した[9][12]。懐仁堂は、1900年の義和団事件のさいに八国連合軍に焼かれて再建されたという歴史的建造物である[13]。政治局会議のほか、中央軍事委員会などの党内の重要な会議はほとんどここで開かれていた[13]。1987年1月16日に開催された政治局の拡大会議は、その前年暮れから続いていた学生デモの収拾を話し合うものだった[13]。胡耀邦総書記が学生デモに対して取った軟弱な対応を批判され辞任に追い込まれた[13]。会議で厳しい「同士的批判」を浴びた胡は、懐仁堂のそとに出てから目に涙を浮かべたとも伝えられる[13]。それから2年あまりのちの1989年4月、同じ懐仁堂で開かれた政治局会議に久々に出席したが、そこで心臓発作に見舞われて倒れた[13]。その死がやがて学生たちを民主化運動に向かわせる直接のきっかけになった[13]

瀛台においては、2014年11月11日にアメリカ合衆国大統領バラク・オバマ習近平国家主席との間で、米中中南海会談が開かれている[14]

中南海の実像[編集]

ヴェールに包まれた中南海ではあるが、例外的に一般人の立ち入りが認められることがあり、その実像を垣間見ることもできる。中国の新興ホテル「桔子水晶(クリスタルオレンジ)酒店集団」を経営する呉海は、2015年3月下旬中国版LINE「微信」に李克強首相への公開書簡を投稿し、民間企業が置かれた理不尽な立場を、権力者にへつらう「卑屈な悪の手先」に例えた[15]。これが中央政府の目に留まり、中南海に呼ばれた[15]。そこで30人もの官僚や専門家を前に中国での行政改革の必要性を語ったという[15]。「地方政府の庁舎には、もっと豪華なものもあるのに。中南海の建物は意外に古かった。まるで1950年代のオフィスみたいだった」と感想を述べた[15]

中南海を訪ねた外国人[編集]

2015年4月、中国国有の巨大複合企業である中信集団(CITIC)傘下の証券会社である中信証券の上級役員を務めた徳地立人(1952年-)は、スタンフォード大学の政治学者であるフランシス・フクヤマと経済学者の青木昌彦王岐山・中央規律検査委員会書記とを中南海において引き合わせた[16]。歴史や哲学など様々な角度から政治制度を深く考えるフクヤマ、中国の経済制度改革にも影響を及ぼす青木と、歴史学を学び、フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルの著書を読む王とを引き合わせ、中国の将来を長い目で語り合うきっかけにしたかったからという[16]。徳地によると、中南海の部屋に入ると、びょうぶの向こうにノーネクタイの王がおり、真っ赤な赤いじゅうたんの上に黒い布靴が目立っていたという[16]

出典[編集]

中南海の位置(北京市内)
中南海
中南海
紫禁城
紫禁城
天壇
天壇
頤和園
頤和園
中南海の位置(北京市)
  1. ^ a b c d e 稲垣(2015年)12ページ
  2. ^ 稲垣(2015年)14ページ
  3. ^ a b c d e f 稲垣(2015年)13ページ
  4. ^ a b c d e 大沢(2013年)195ページ
  5. ^ 春名(2008年)139ページ
  6. ^ a b c 入江(2008年)122ページ
  7. ^ 稲垣(2015年)77ページ
  8. ^ 稲垣(2015年)96ページ
  9. ^ a b 稲垣(2015年)25ページ
  10. ^ 稲垣(2015年)82ページ
  11. ^ 毛利(2006年)75ページ
  12. ^ 天児(2013年)114ページ
  13. ^ a b c d e f g 天児・加藤(1990年)7ページ
  14. ^ 稲垣(2015年)2ページ
  15. ^ a b c d 朝日新聞(2015年6月14日)
  16. ^ a b c 朝日新聞2016年2月1日朝刊第4面

参考文献[編集]

  • 稲垣清著『中南海 知られざる中国の中枢』(2015年)岩波新書
  • 天児慧・加藤千洋著『中国大陸をゆく―近代化の素顔―』(1990年)岩波新書
  • 大沢昇著『ワードマップ現代中国 複眼で読み解くその政治・経済・文化・歴史』(2013年)新曜社
  • 春名徹著『北京-都市の記憶』(2008年)岩波新書
  • 入江曜子著『紫禁城-清朝の歴史を歩く』(2008年)岩波新書122ページ
  • 毛利和子著『日中関係 戦後から新時代へ』(2006年)岩波新書
  • 天児慧著『中華人民共和国史 新版』(2013年)岩波新書
  • 朝日新聞2015年6月14日第7面『波聞風問、「民」の声届くか、中国「党治」のもとでの危うさ』執筆担当;編集委員吉岡桂子
  • 朝日新聞2016年2月1日朝刊第4面『証言そのとき 日中のはざまで1 中国経済日本から風』聞き手;編集委員吉岡桂子

関連項目[編集]

ギャラリー[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯39度54分41秒 東経116度22分50秒 / 北緯39.91139度 東経116.38056度 / 39.91139; 116.38056