八カ国連合軍

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八カ国連合軍(はっかこくれんごうぐん、中国語: 八国联军; ピン音: Bāguó Liánjūn英語: Eight-Nation Alliance)はオーストリア=ハンガリー帝国フランスドイツイタリア日本ロシアイギリスアメリカによる連合軍であり、義和団の乱中の中国に干渉し、1900年の夏に北京の外交公使館の包囲を解いた。

背景と主な出来事[編集]

義和団は農民の運動であり、1899年と1900年に中国北部で外国人宣教師、国民、中国人キリスト教徒を攻撃し、殺害した。清国政府と皇帝軍は義和団を支持し、満州栄禄将軍の元で北京の公使館の区画に避難していた海外の外交官と一般市民を包囲した[1]。公使館の区画を解放する当初の試みが失敗した後、1900年8月に連合軍は天津から北京へ行進し、いくつかの戦闘で皇帝軍の武威部隊を破り、義和団の乱と包囲を終了させた。連合軍の隊員は北京を占領し、略奪し始めた[2][3]。連合軍は様々な国からの約45000人の軍隊で構成された。軍事行動の最後に、清政府は1901年に北京議定書に調印した[4]

海外大使館と北大聖堂への包囲攻撃[編集]

包囲下の北京にある外交公使館と最前線の場所。

北京の公使館区域は中国軍の武威部隊といくらかの義和団員によって6月20日から8月14日までの55日間包囲されていた。合計473人の外国人民間人、8カ国からの409人の兵士、約3000人の中国人キリスト教徒は公使館の区画に避難した[5]。イギリス大使クロード・マクドナルドの指揮で、公使館の職員と警備員は小型の武器と、中国人キリスト教徒によって地中から発掘されて連合軍に渡された一つの古い口装砲で敷地内を防衛した。この口装砲は樽状部はイギリス製、可動台部はイタリア製、砲弾はロシア製、操縦者はアメリカ軍だったため国際砲とあだ名された[6]

また、北京では北大聖堂とカトリック教会の西什庫教堂英語版も包囲されていた。西什庫教堂は43人のフランスとイタリアの兵士、33人の外国人神父と修道女、そして約3200人の中国人キリスト教徒によって防衛されていた。彼らは食糧不足に悩まされ、また中国側が敷地下までトンネルを掘って地雷を爆発させたため多くの犠牲者を出した[7]

参加国[編集]

八カ国連合軍の戦力
公使館英語版救助作戦

Troops of the Eight nations alliance 1900.jpg
八カ国連合軍(1900年)
左から: イギリス、アメリカ、ロシア[8]、インド
ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本
軍艦
(隻)
海軍
(人)
陸軍
(人)
大日本帝国の旗 日本 18 540 20,300
ロシア帝国の旗 ロシア 10 750 12,400
イギリスの旗 イギリス 8 2,020 10,000
フランスの旗 フランス 5 390 3,130
アメリカ合衆国の旗 アメリカ 2 295 3,125
ドイツの旗 ドイツ 5 600 300
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー 4 296
イタリア王国の旗 イタリア 2 80
総計 54 4,971 49,255
八カ国連合軍の兵士およびヨーロッパの補充兵。

オーストリア=ハンガリー帝国[編集]

オーストリア=ハンガリー帝国は義和団の乱のはじめ、ロシアの租借地である旅順口区に一隻の巡洋艦ツェンタを停泊していた[9]。義和団の乱においてオーストリア=ハンガリーが派遣した軍は、このツェンタからの水兵だけだった[10]。いくつかの分遣隊は包囲下の公使館の防衛に関与し、一方別の分遣隊は救助に関与した[10] 。6月には、オーストリア=ハンガリー帝国は義和団軍に抵抗して天津鉄道を防衛し、北京の通州区の近くにある海河のいくつかの武装したジャンク船に砲撃した。分遣隊は天津への進路を見渡すことのできる大沽砲台の占領とイギリスのロジャー・キーズ船長による4隻の中国の駆逐艦の拿捕にも参加した。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍は巡洋艦カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジアカイゼリン・エリザベート、アスペルンと海兵隊の一団も中国へ送った。しかしながら到着が遅すぎたために、9月に到着する頃にはほとんどの戦闘は終了し、公使館も解放されていた。ツェンタと共に行動していた巡洋艦は中国のいくつかの砦への砲撃と占領に関与した[10]。オーストリア=ハンガリー帝国は義和団の乱中の犠牲者が諸外国の中で最小であった。義和団の乱後、オーストリア=ハンガリーの巡洋艦は恒常的に中国沿岸に維持され、海兵隊の分遣隊は北京のオーストリア=ハンガリー大使館に配置された[10]。1959年のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』で有名なゲオルク・フォン・トラップ中尉は、義和団の乱中、巡洋艦カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア上での勇敢さに対して勲章を授与された。

大英帝国[編集]

イギリス軍は連合軍の中で三番目の規模であったが、大部分はインドからであり、海軍旅団、王立砲兵第12中隊、香港シンガポール砲兵隊、王立ウェールズ・フュージリア連隊第2歩兵大隊、ベンガル第1槍騎連隊、ラージプート第7歩兵連隊、パンジャーブ第24歩兵連隊、シク第1歩兵連隊、香港連隊、中国第1連隊、王立工兵隊と他の支援人員から構成されていた[11][12]

オーストラリア植民地[編集]

オーストラリア植民地のいくつかはイギリスの分遣隊を支えるために海軍と陸軍の分遣隊を送った。南オーストラリア州の海軍全て、砲艦MASプロテクターを派遣した[13]。オーストラリアは公式には八カ国連合軍には参加していなかったが、八カ国連合軍に物資や部隊を供給した[14]

インド[編集]

イギリスは10000人の軍隊を提供したが、大部分はバルーチ族、シク教徒、グルカ、ラージプート、パンジャーブからなるインド軍であった[15][16][17]

ドイツ[編集]

義和団の乱中島のドイツ兵士

ドイツ人宣教師が1897年11月に中国で殺害された。その報復に、ドイツは海軍の根拠地と商業用の港として利用するために膠州青島を攻め落とした。青島を含む膠州湾租借地はドイツ帝国海軍によって統治され、占領された。駐屯軍は海軍砲兵中隊と海軍第三歩兵大隊で構成されていた。

義和団の乱中の青島のドイツ人将校

義和団の乱が勃発したとき、第三海兵大隊はドイツの利益を守るために小団を青島から北京と天津に派遣し、一方大部分は青島に対する攻撃を防ぐために後方に残ったままだった。北京の公使館の包囲は、すぐにドイツと他のヨーロッパの軍隊により多くの軍勢を中国に派遣する必要があると確信させた。ドイツから最初に到着した軍隊は第一および第二海兵大隊であり、すぐに東アジア遠征軍も続いた。

しかし多くのドイツ軍は到着が遅れて治安維持しか役目を果たせず、1901年に帰還した。

フランス[編集]

天津フランス租界を行進するフランス軍植民地歩兵。

インドシナのフランス軍はフランス領インドシナから派遣された。

イタリア[編集]

イタリア軍は当初は軍艦からの水兵で構成されていたが、後にイタリアから将校83人、軍隊1882人、馬178頭を含むより大きな分遣隊が派遣された。

日本[編集]

イギリス人司令官エドワード・ホバート・シーモア英語版指揮下の日本陸軍海兵隊。

日本は20840人の軍隊だけでなく18隻の軍艦を含む連合軍の中で最大の軍隊の分遣隊を派遣した。全体のうち20300人は山口素臣大将指揮下の第五歩兵師団で、残りの540人は海軍陸戦隊日本帝国海軍海軍陸戦隊であった。

ロシア[編集]

義和団の乱中のロシア軍

ロシアは主に旅順口区とウラジオストク港からの守備隊から構成された軍隊12400人からなる日本に次いで二番目の規模の軍隊を派遣した。

アメリカ[編集]

義和団の乱中のアメリカ兵

アメリカでは、義和団の乱の鎮圧が「中国救援遠征軍」として知られていた[18]。アメリカは、主に1898年のフィリピン併合以来フィリピンにアメリカ軍が配置されていたため、義和団の乱鎮圧において大きな役割を果たすことができた[19]。包囲下の外国軍の中には、USSオレゴンとUSSニューアークからのアメリカ人海兵隊員と水兵56人がいた[19]。主な配置されたアメリカ軍の構成は、アドナ・チャフィー指揮下の第9歩兵連隊、第14歩兵連隊、第6騎兵隊、第5歩兵隊、海軍歩兵大隊であった[20][21]

影響[編集]

前述の八カ国の軍隊は1900年8月14日に北京を侵略し占領した。西太后と皇帝と政府高官らは紫禁城から西安へ逃亡し、李鴻章を連合軍との和平交渉に派遣した。

研究論文でケネス・クラークは「北京獲得の後、連合軍は首都から略奪し、彼らがヨーロッパへ帰る途中で発見した多くの中国の遺産と共に紫禁城を略奪さえした。」と述べている[22]

残虐行為[編集]

数えきれないほどの義和団だと疑われた人々が義和団の乱の最中やその後に斬首された。この出来事は短編映画の主題になった[23]

アメリカの海兵隊員は、ドイツ兵とロシア兵が女性を強姦したあとで彼女たちを銃剣で突いて殺害するのを見たと記していた[24]

北京では、ピエール・マリー・アルフォンス・ファビエ=デュペロン司教が、カトリック教徒が生き残るために必要最低限の生活必需品と50以下の銀の強奪を8月18日から26日まで許可する告示をしたと言われていたが、本人はそのような告示は出していないと否定した[25]

一方の義和団も残虐行為を行っていた。多くのキリスト教徒が義和団の乱の前に殺害された。義和団の乱の前や最中に殺害された正教徒の集団は中国の聖なる殉教者としてこの日に記念されている。

脚注[編集]

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  1. ^ Grant Hayter-Menzies, Pamela Kyle Crossley (2008). Imperial masquerade: the legend of Princess Der Ling. Hong Kong University Press. p. 89. ISBN 962-209-881-9. http://books.google.com/?id=sNPFc7kkjwAC&pg=PA88&dq=muslim+dong+fuxiang#v=onepage&q=cracking%20of%20fireworks&f=false 2010年10月31日閲覧。. 
  2. ^ O'Conner, David The Boxer Rebellion London:Robert Hale & Company, 1973, Chap. 16. ISBN 0-7091-4780-5
  3. ^ Hevia, James L. 'Looting and its discontents: Moral discourse and the plunder of Beijing, 1900–1901' in R. Bickers and R.G. Tiedemann (eds.), The Boxers, China, and the world Lanham, Maryland:Rowman & Littlefield Publishers, 2009
  4. ^ Eight-Nation Alliance in Section 4 Archived 2008年12月2日, at the Wayback Machine.
  5. ^ Thompson, 84-85
  6. ^ Benjamin R. Beede (1994). The War of 1898, and U.S. interventions, 1898–1934: an encyclopedia. Taylor & Francis. p. 50. ISBN 0-8240-5624-8. http://books.google.com/?id=48g116X9IIwC&pg=PA50&dq=prince+tuan+replaced+prince+qing#v=onepage&q&f=false 2010年6月28日閲覧。. 
  7. ^ Thompson, 85, 170–171
  8. ^ Example of Australian uniform of the period
  9. ^ Sondhaus 1994, p. 139.
  10. ^ a b c d Sondhaus 1994, p. 140.
  11. ^ Bodin, Lynn (1979). The Boxer Rebellion. Osprey Publishing. p. 34. ISBN 9780850453355. http://books.google.com/?id=2YleP1OP4HsC&lpg=PA34&dq=British%20Regiment%20%22Boxer%20rebellion%22&pg=PA34#v=onepage&q=British%20Regiment%20%22Boxer%20rebellion%22&f=false 2013年1月22日閲覧。. 
  12. ^ Harrington, Peter (2001). Peking 1900: The Boxer Rebellion. Osprey Publishing. p. 29. ISBN 9781841761817. http://books.google.com/?id=xxE6rybpvHQC&lpg=PA29&dq=British%20Regiment%20%22Boxer%20rebellion%22&pg=PA29#v=onepage&q=British%20Regiment%20%22Boxer%20rebellion%22&f=false 2013年1月22日閲覧。. 
  13. ^ Nicholls, B., Bluejackets and Boxers
  14. ^ China (Boxer Rebellion), 1900–01”. Australian War Memorial. Australian Government. 2013年1月22日閲覧。
  15. ^ Krishnan, Ananth (2011年7月8日). “The forgotten history of British India troops in China”. The Hindu (Beijing). http://www.thehindu.com/todays-paper/tp-national/the-forgotten-history-of-british-india-troops-in-china/article2209465.ece?textsize=large&test=1 2013年1月22日閲覧。 
  16. ^ Raugh, Harold E. (2004). The Victorians at War, 1815-1914: An Encyclopedia of British Military History. ABC-CLIO. p. 177. ISBN 9781576079256. http://books.google.com/books?id=HvE_Pa_ZlfsC&lpg=PA177&ots=8CE3exdB5z&dq=%22British%20units%22%20Boxer%20rebellion&pg=PA177#v=onepage&q=%22British%20units%22%20Boxer%20rebellion&f=false 2013年1月22日閲覧。. 
  17. ^ Lee Lanning, Colonel Michael (2007). Mercenaries: Soldiers of Fortune, from Ancient Greece to Today#s Private Military Companies. Random House Digital, Inc.. p. 105. ISBN 9780307416049. http://books.google.com/books?id=bnnIIHaj6LIC&lpg=PA105&ots=H4-GpJbH3G&dq=%22British%20units%22%20Boxer%20rebellion&pg=PA105#v=onepage&q=%22British%20units%22%20Boxer%20rebellion&f=false 2013年12月22日閲覧。. 
  18. ^ Documents of the Boxer Rebellion (China Relief Expedition), 1900–1901”. Naval History & Heritage Command. United States Navy (2000年3月13日). 2013年2月2日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年1月22日閲覧。
  19. ^ a b The Boxer Rebellion and the U.S. Navy, 1900–1901”. Naval History & Heritage Command. United States Navy. 2013年1月2日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年1月20日閲覧。
  20. ^ U.S. Army Campaigns: China Relief Expedition”. United States Army Center of Military History. United States Army (2010年11月19日). 2013年1月22日閲覧。
  21. ^ Plante, Trevor K. (1999). “U.S. Marines in the Boxer Rebellion”. Prologue Magazine (United States National Archive) 31 (4). http://www.archives.gov/publications/prologue/1999/winter/boxer-rebellion-1.html 2013年1月22日閲覧。. 
  22. ^ Kenneth G. Clark THE BOXER UPRISING 1899–1900. Russo-Japanese War Research Society
  23. ^ Beheading a Chinese Boxer at IMDB
  24. ^ Robert B. Edgerton (1997). Warriors of the rising sun: a history of the Japanese military. W.W. Norton & Company. p. 80. ISBN 0-393-04085-2. http://books.google.com/?id=wkHyjjbv-yEC&pg=PA70&dq=sugiyama+akira#v=snippet&q=raped%20woman%20attractive%20marine&f=false 2011年4月25日閲覧. "Several U.S. Marines, hardly squeamish men, were so sickened by what they saw that they violently restrained some of their more rapacious German allies, leaving at least one wounded." 
  25. ^ 《遣使会年鉴》 1902, pp. 229-230

参考文献[編集]

  • Harrington, Peter (2001). Peking 1900: The Boxer Rebellion. Oxford: Osprey. ISBN 1-84176-181-8. 
  • Sondhaus, Lawrence (1994). The Naval Policy of Austria-Hungary, 1867–1918: Navalism, Industrial Development, and the Politics of Dualism. Purdue University Press. ISBN 1-55753-034-3. 
  • Thompson, Larry Clinton. William Scott Ament and the Boxer Rebellion. Jefferson, NC: McFarland, 2009. [1]

関連項目[編集]