ニクソン大統領の中国訪問

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北京でニクソンと会談する毛沢東

ニクソン大統領の中国訪問(ニクソンだいとうりょうのちゅうごくほうもん)は、1972年2月21日アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが世界中が注目する中で中華人民共和国を訪ね、毛沢東主席や周恩来首相と会談して第二次世界大戦後の冷戦時代の転機となった訪問である。

概要[編集]

中ソ対立[編集]

第二次世界大戦後の1949年に成立した中国共産党一党独裁国家である中華人民共和国は、ソビエト連邦を筆頭にした共産主義国陣営に属し、アメリカ合衆国とは冷戦を背景に対峙する関係にあった。特に朝鮮戦争では戦争の相手国であった。しかし、独裁者であるヨシフ・スターリンの死後登場したニキータ・フルシチョフ首相が平和共存外交を展開した時期から中ソ間に外交や共産主義運動の方針をめぐって不協和音が生じ、やがて60年代に入ってからそれまで友好関係を維持してきた中ソ間に深刻な衝突が起こった。69年春には国境線をめぐる武力紛争が起こり、中華人民共和国はソビエト連邦とは袂を分かち、独自の路線を歩みつつあった。またこの時期は文化大革命で国内が混乱し、ようやく収束する方向へ動き始めていた。

電撃訪問[編集]

北京で毛沢東と会談するキッシンジャー

一方、ベトナム戦争に介入して、国内から批判を浴びて、再選を断念したジョンソン大統領を引き継いだニクソン大統領は、米軍のベトナムからの名誉ある撤退を模索していた。1971年ニクソン政権は、北べトナムとの交渉を促進させるとともに、その年秋の国連総会での中華人民共和国の国連加盟がほぼ確実な情勢のなかで、アメリカ外交の主導権を確保するために中国との接近を図る方針に大胆に転換し、1971年7月密かにヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官が中華人民共和国政府を訪問して、周恩来首相との交渉を進め、翌年の5月までに大統領が北京を訪問することで合意した。やがてキッシンジャー補佐官の帰国後、ニクソン大統領は突然テレビで中華人民共和国訪問の電撃的な発表を行い、世界をあっと驚かせた。そして1972年2月に北京を訪問し、初日に毛沢東主席と会談した後、周恩来首相と数回にわたって会談した。1949年に中華人民共和国が成立して以降のアメリカ大統領の訪問はこれが最初であった。

国交樹立[編集]

アメリカはそれまで蒋介石率いる中華民国を中国大陸を統治する正統な政府として、中国共産党政府を承認していなかったが、この訪問で米中共同コミュニケを発表し、中華人民共和国を事実上承認した。その後、ジミー・カーター政権時代の1979年1月にアメリカと中華人民共和国の間で国交が樹立された。

周辺諸国への影響[編集]

アメリカと中華民国の関係[編集]

しかしその後もアメリカは中華民国と事実上の軍事同盟関係にあり、現在は議会制民主主義体制を取る民主主義国である中華民国が(中華人民共和国による)軍事的脅威にさらされた場合は、「台湾関係法」に基づき、中華民国を助けることとなっている。

実際に、1996年に行われた同国の総統選挙に伴い、中華人民共和国の人民解放軍が自由選挙への恫喝として軍事演習を強行し、基隆沖海域にミサイルを撃ち込むなどの威嚇行為を行った際には、アメリカ軍はこれに対して台湾海峡空母機動艦隊を派遣し、同国のウォーレン・クリストファー国務長官は「アメリカは必要な場合には、台湾を助けるために台湾に近づく」と中華人民共和国に対して警告した。

中華人民共和国とベトナムの関係[編集]

ベトナム戦争においてアメリカと戦っていた北ベトナムでは、米中両国の接近を自国に対する中華人民共和国の裏切り行為と受け止めた。以後、北ベトナムはソビエト連邦との関係を強化し、中華人民共和国との関係悪化は決定的になった。戦争終結後、ベトナムは国内の中国系住民(華僑)への抑圧政策を開始し、親中国共産党だった当時の民主カンプチアとの関係も悪化、インドシナ半島中ソ対立の最前線の一つとなった。この対立は、1978年のソ越友好協力条約カンボジア・ベトナム戦争1979年中越戦争の遠因となった。

関連項目[編集]