マダガスカルの戦い
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マダガスカルの戦い(まだがすかるのたたかい、英語: Battle of Madagascar、フランス語: Bataille de Madagascar)は、第二次世界大戦中の1942年5月5日から同年11月6日にかけて起きた戦い。イギリス軍がヴィシー・フランス支配下のフランス領マダガスカルに侵攻し、フランス軍を撃破してマダガスカル島を奪取した。イギリス軍とフランス軍の戦闘中に、大日本帝国海軍の特殊潜航艇「甲標的」がディエゴ・スアレス湾内のイギリス海軍艦艇を攻撃した[11]。
概要
[編集]ナチス・ドイツの侵攻に敗れたフランスは、ナチス・ドイツへの降伏後に親ドイツ政権であるヴィシー・フランスが成立した。一方で、連合国の一員としてドイツとの戦争を継続する自由フランスも結成されたため、フランスは一国に二つの体制が存在する分断国家となった。
フランスは世界各地に植民地を保有していたが、それらの植民地でもヴィシー・フランス側と自由フランス側に分かれ対立・交戦していた。マダガスカルはヴィシー・フランスに与したため、イギリスなどと対立することになった。また枢軸国の大日本帝国は、ヴィシー・フランスを支援するため海軍部隊をマダガスカルに向かわせており、イギリスとしては日本軍がマダガスカルに上陸する前に占領する事を目的として攻撃を計画した[1][2]。
イギリス軍は約10,000人から13,000人の兵員を動員し、航空母艦のイラストリアスとインドミタブルや戦艦のラミリーズ、巡洋艦2隻、駆逐艦9隻から11隻、コルベット6隻、掃海艇6隻、更に複数の補助艦艇や支援艦艇を派遣。またイギリス帝国の一員としてイギリス領インド帝国の英印軍や北ローデシア、南ローデシア、南アフリカ連邦の部隊も参戦し、中でも南アフリカ空軍は大々的に参戦し複数の航空機を派遣した。その他にも海上部隊にはオーストラリア軍やオランダ軍、ポーランド軍の艦艇なども参戦した[1][2][12]。
それに対してヴィシーフランス側としてはマダガスカルには8,000人の駐留軍がおり、また沿岸には沿岸砲8台を備えていた他武装商船2隻、潜水艦5隻、複数の戦闘機や爆撃機を動員。その中には同盟国ナチス・ドイツの工作員も居た[1][2]。そして日本軍は海軍の特務潜航艇を2隻派遣した。なお日本軍は当初特務潜航艇を3隻動員する予定であったが、作戦前に1隻が故障したため2隻となった[4]。
上記の部隊の指揮系統地しては、イギリス側では上陸部隊はロバート・スタージェス司令官の指揮下に置かれ、海上部隊はエドワード・サイフレット司令官が指揮。また南アフリカ空軍の派遣に関しては、当時の首相であったヤン・スマッツが命令した。それに対するヴィシーフランス軍は当時マダガスカルの総督であったアルマンド・レオン・アネット司令官の指揮下となった[1][2]。
戦いで1942年5月5日に攻撃が開始された。イギリス軍はまずマダガスカル北部のディエゴスアレス(現在のアンツィラナナ)に上陸し、3日間でこれを占領した。ディエゴスアレスのフランス軍が降伏した後の5月30日に日本軍潜水艦隊から2隻の特殊潜航艇「甲標的」が出撃、うち1隻が湾内に成功してイギリス海軍艦艇への雷撃に成功し、戦艦「ラミリーズ」を大破、油槽船「ブリティッシュ・ロイヤルティ」を撃沈するという大戦果を挙げた[13]。しかし、日本軍の攻撃はここまでで、その後も戦いは続いたが、6ヶ月後の1942年11月6日にヴィシーフランス軍が降伏。同島はイギリス軍が占領したが、後にその管轄は自由フランスに移された。しかし、ヴィシーフランス側とはいえフランスの領土を攻撃するのにイギリス側は自由フランスに通告なしで攻撃を行った事で反感を買う結果となった[1][2][4]。
背景
[編集]仏領マダガスカル
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1940年代のマダガスカル島はフランスの植民地で、第二次世界大戦が始まるとフランス本国との貿易量が激減しマダガスカル経済は深刻な状況となった。その後フランス本国がドイツの侵攻で占領されると、フランスはドイツに休戦を提案し、親ドイツのヴィシー政府が誕生した。当時のマダガスカル総督は連合国軍への降伏を選択せず、ヴィシー政府の支持を表明した。
このころ地中海および北アフリカの戦況はドイツ軍とイタリア軍を中心とした枢軸国側に有利であり、その為に中東及びインド方面、さらにインドを経由してオーストラリアなどへ軍事物資の補給などのために向かう連合国側船団は、地中海-スエズ運河ルートではなく喜望峰 - インド洋のルートへ迂回していた。
マダガスカル島はこの迂回ルートの途上に位置しており、マダガスカル島の港や飛行場が日本軍に占拠されると、連合国軍のヨーロッパと中東及びインド、オーストラリア方面との補給路が絶たれる恐れがあった。
日本海軍のインド洋制圧
[編集]日本軍は1941年12月の開戦以降、1942年3月の末までに東南アジア全域(イギリス領マレー半島や蘭印、アメリカ領フィリピンなど)を制圧し、続いてアメリカ本土への空襲やオーストラリアへの空襲を行ったほか、イギリス植民地のビルマ南部まで攻略を行い、さらに西進を行うことが可能であった。
この頃、日本海軍の潜水艦はインド洋で完全に制約を受けずに活動でき、3月には日本海軍の機動部隊がセイロン島攻撃を行った。そのため、イギリス海軍の東洋艦隊はモルディブ諸島のアッドゥ環礁に退避したが、日本海軍の更なる攻撃によって手持ちの空母他多くの艦船を失い、ケニアのキリンディニまで撤退した。
この全面的な撤退により、イギリス海軍および連合国軍は、日本海軍がマダガスカルをインド洋およびアフリカ大陸攻略への前進基地として使用する可能性に対処しなければならなくなった。つまり、イギリス海軍は次のような情勢展開を危惧した。
ヴィシー政府は日本と同盟関係にあり、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス軍基地を日本海軍も使用できるようになると予想される。日本海軍は航空機や潜水艦を配備するであろう。さらにその基地をドイツ海軍やイタリア海軍も使用し、そうなれば連合国軍にとってさまざまな脅威が生じる。まず、連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響する。また、守りが手薄であった西インド洋や南大西洋はおろか、アフリカ大陸東岸や南岸、ペルシャ湾まで日本海軍の攻撃にさらされる。最悪、日本陸軍によるアフリカ大陸東岸や南岸上陸と、その末には東岸や南岸を抑えた日本陸軍と、北アフリカを抑えたドイツ陸軍による二面作戦すら予想された。
しかし実際には、対英米開戦後に勝利を重ねてアメリカ本土やオーストラリア本土にもその前線を広げていた日本軍にとって、イギリス軍をはじめとする連合国が勢力を保っていた(その上にドイツ軍は北アフリカの多くを占領したが、それも1942年には英米軍の反撃により怪しくなっており、またそれ以外はヴィシー政権下で頼りない親独政権があったのみであった)アフリカ大陸中部へ、新たに本国から数千キロから1万キロの距離を越えて上陸部隊を送り、その戦線を広げることは戦略上からいっても労が多すぎ、あまり重要視していなかった。
アイアンクラッド作戦
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しかし連合国は、この様な事態が起きることを想定して仏領マダガスカル島ディエゴ・スアレス攻略作戦「アイアンクラッド作戦[14](Operation Ironclad)」の実行を決めた。イギリス陸軍、イギリス海軍を中心とする連合軍部隊の指揮はロバート・スタージェス少将が取り、空母「イラストリアス」、「インドミタブル」、戦艦「ラミリーズ」を基幹とする艦隊が上陸作戦の援護を行うこととなった。

南アフリカ空軍機により何度も偵察が行われた後、英第5歩兵師団第17歩兵旅団、第13歩兵旅団、英第29歩兵旅団、5つの奇襲部隊、イギリス海兵隊は1942年5月5日、ディエゴ・スアレス西のクーリエ(Courrier)湾およびアンバララタ湾へ上陸した。マダガスカル島の東海岸で陽動攻撃も行なわれた。上陸に空母艦載機や少数の南アフリカ空軍の航空機が援護した。この作戦の際、イギリス軍はコルベット「オーリキュラ」を触雷で失った[15]。
アルマン・レオン・アネ(en:Armand Leon Annet)総督率いるヴィシー・フランス軍は約8000名で、うち約6000名はマダガスカル人で残りは大部分がセネガル人であった。1500から3000名がディエゴ・スアレス周辺に集中していた。
海軍の戦力は仮装巡洋艦1隻、通報艦2隻、潜水艦4隻などであったが、このうち通報艦1隻と潜水艦3隻はイギリス軍による攻撃時には在泊していなかった[16]。フランス軍のほかの戦力は沿岸砲8門、モラーヌ・ソルニエMS406戦闘機17機、ポテ 63.11偵察機6機、少数のポテ 25TOEとポテ 29であった。フランスの戦力は本国からの供給が久しく途絶えていたこともあり少なかった。
艦艇は最初の空襲で仮装巡洋艦「ブーゲンビル」とルドゥタブル級潜水艦「ベヴェジエ」が撃破され、それを逃れたブーゲンヴィル級通報艦「ダントルカストー」も攻撃を受けて座礁した[17]。さらに洋上にあったルドゥタブル級潜水艦「ル・エロー」と「モンジュ」も撃沈され、ブーゲンヴィル級通報艦「ディベルヴィル」と潜水艦「ル・グロリュー」のみがマダガスカル南部に逃れた[18]。
イギリス軍第5歩兵師団の第13歩兵旅団と第17歩兵旅団の2個旅団(1個旅団欠)は、上陸用舟艇で西海岸のクーリエ湾に上陸したが、海岸にフランス軍部隊は配置されておらずほぼ無血上陸となった[19]。クーリエ湾を見下ろす高台には城塞ウィンザー・キャッスルが構築されていたが、イギリス軍は海抜393mを駆け上がると真っ先にこの拠点を攻略してフランス軍の抵抗を封じた[20]。その後もイギリス軍は順調に進撃を続け、沿岸砲台や兵舎を次々と占領して約100人のフランス軍捕虜を獲得した。イギリス軍は捕虜を連れたままマングローブの森や沼地を抜けるとディエゴ・スアレス市街に突入した。しかし市街でのフランス軍の抵抗は殆どなく、あっさりとディエゴ・スアレスはイギリス軍の手に墜ちた[21]。
アンバララタ湾にはイギリス軍第29歩兵旅団と第5コマンド部隊が強襲上陸用舟艇で上陸し、バレンタイン歩兵戦車とMk.VIIテトラーク軽戦車12輌の戦車を伴ってフランス海軍のアンティサラン基地に向けて進撃を開始した。この方面はフランス軍が固く守っており、イギリス軍は銃剣突撃を駆使しながら強硬に進撃を続けたが、アンティサラン基地前にはトーチカや塹壕で堅固な防衛線が敷かれており、フランス軍の激しい抵抗でイギリス軍は多くの死傷者を被ったうえバレンタイン歩兵戦車3輌、Mk.VIIテトラーク軽戦車2輌を失って撃退された。イギリス軍はこの防衛線を迂回しようと試みたが、地形的に不可能であり、その後も激戦は続いてイギリス軍は12輌の戦車のうち10輌を失う大損害を被ってしまった[22]。
イギリス軍は防衛線への正面攻撃は困難だと判断すると、戦艦「ラミリーズ」に配置していたイギリス海兵隊約1個小隊50人を「アンソニー (A級駆逐艦)」に移乗させ、「アンソニー」は海兵隊を乗せたままアンティサランの港湾防衛線をまっすぐに突破し、防衛線背後にイギリス海兵隊員を上陸させた。海兵隊は少数であったが「その数に見合わないほど町に騒乱」を引き起こし、フランス砲兵隊の指揮所とその兵舎、海軍基地を奪取した。その間に主力も前進を開始してフランス軍防衛線を突破し、たまらずアンティサラン基地はその夜に降伏した。その後小規模な戦闘は5月7日まで続いたが、アンティサランの陥落で事実上の戦闘は終結し、戦闘開始からわずか3日間で、イギリス軍は109人が戦死、283人が負傷という大損害を被りながらもマダガスカルに足場を築いた、一方でフランス軍の損失は600人以上が死傷し、約1,000人が捕虜となった[23]。
空の戦いでもフランス軍はイギリス軍に圧倒された。イギリス海軍は艦載機によりアラチャート飛行場を爆撃し、地上でMS406 (航空機)戦闘機を7機、ポテ 63.11を2機撃破し、初日でマダガスカルのフランス軍航空戦力のうち25%を無力化した。また艦載戦闘機F4Fマートレットは制空戦闘でMS406を圧倒し、4機を一方的に撃墜、5月7日までにMS406が地上と空戦で12機が失われ、ポテ 63.11など8機も撃破され、35機のフランス軍航空戦力はあっさり壊滅状態となった[24]。

アンティサラン海軍基地とディエゴ・スアレスの市街地は陥落したが、ヴィシーフランスのフィリップ・ペタン元帥は、フランス国民に宛てた声明で、イギリス軍の侵攻を激しく非難するなど対抗心を露わにした。ペタンの強硬姿勢を受けて、マダガスカル総督のアルマンド・アネットは、ディエゴ・スアレスを失ったのにも関わらず「マダガスカルでの抵抗は続く」と宣言し、ヴィシー・フランス軍の主力は南へ後退し態勢を整えようとした。この時のフランス軍の主力はマダガスカルの現地住民から召集した兵士であったが、フランスに対する忠誠心と戦意は極めて高く、ヴィシーフランス軍司令官フランソワ・ダルラン元帥の「フランスの名誉を守れ。イギリスが自らの犯罪の代償を払う日が来るだろう」という演説に奮い立ち、「ゲリラ戦を行って最後まで抗戦せよ」という命令にも忠実に従って徹底抗戦を決意し[25]、島南部へ続く進路上の橋を爆破したり、道路上に障害物を設置するなどして、陸路からのイギリス軍の進撃を妨げた[26]。
どのルートからは不明であるが、ヴィシーフランスから日本に対して支援要請が行われた。この後に日本海軍潜水艦によってディエゴ・スアレスに停泊するイギリス軍艦艇への攻撃が行われるが、この攻撃が、ヴィシーフランスの求めに応じて実行されたかは不明である[27]。
- F部隊
- 東洋艦隊
- Y船団
- Bachaquero、Empire Kingsley、Mahout、Martand、Nairnbank、Thalatta、Derwentdale、Easedale
- Z船団
- Duchess of Athpll、Franconia、Karanja、Keren、Oronsay、Royal Ulsterman、Sobieski、Winchester Castle
- その他
- 病院船Atlantis
日本海軍による攻撃
[編集]目標設定
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昭和17年(1942年)3月10日に編制された第8潜水戦隊の甲先遣支隊の潜水艦5隻(伊号第三〇潜水艦、伊号第一〇潜水艦、伊号第一六潜水艦、伊号第一八潜水艦、伊号第二〇潜水艦)はペナンに進出後、連合艦隊よりアフリカ東海岸の交通破壊戦を命じられた。連合艦隊は真珠湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」が多大な戦果を挙げたと評価しており、積極的な活用を決定し、甲先遣支隊のうち「伊号第一六潜水艦」、「伊号第一八潜水艦」、「伊号第二〇潜水艦」の3隻に「甲標的」を搭載させ、連合軍艦艇停泊地への特別攻撃を企図していた[29]。連合艦隊の命令により「伊号第三〇潜水艦」が1942年4月22日に、甲先遣隊の旗艦で司令官石崎昇少将が座乗する「伊号第一〇潜水艦」を含む4隻が1942年4月30日にペナンを出撃した[30]。
先行した「伊号第三〇潜水艦」は、5月7日から20日にかけてイギリス軍の拠点南アフリカのダーバン港のほか、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港を偵察したが、イギリス軍艦艇を発見できず、旗艦の「伊号第一〇潜水艦」も20日にダーバンを強行偵察したが有力艦艇を発見できなかった。そこで石崎は1942年5月21日になって、イギリス軍が占領したばかりのディエゴ・スアレスにイギリス軍艦艇が集結している可能性が高いと判断し、ディエゴ・スアレスを攻撃目標とすることに決めた[31]。
石崎がディエゴ・スアレスへの攻撃を決意した頃、敵前上陸作戦を成功させたイギリス軍の艦船の多くは既にマダガスカルを去っていたが、戦艦ラミリーズ(リヴェンジ級戦艦)[32]を旗艦とし、駆逐艦3隻、小型の高速護衛艦2隻が湾内に留まっていた[33]。
撃沈
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1942年5月30日(イギリス側の記録では29日)には「伊号第一〇潜水艦」の搭載機がディエゴ・スアレス港を偵察し、クィーン・エリザベス級戦艦1隻、巡洋艦1隻などの在泊を報告[34]、石崎は翌5月31日の深夜に「甲標的」によるディエゴ・スアレス港内艦艇への特別攻撃を命令、命令を受けて31日0:00に[35]「伊二〇潜水艦」から艇長・秋枝三郎大尉(海兵66期)、艇附・竹本正巳一等兵曹、「伊一六潜水艦」からは艇長・岩瀬勝輔少尉、艇附・高田高三二等兵曹の2隻の「甲標的」が出撃した[36]。なお、「伊一八潜水艦」搭載艇は、5月18日に海面のうねりによって浸水しており攻撃には参加できなかった[37]。
2隻のうち、秋枝艇がディエゴ・スアレス港内への侵入に成功、計画では岩瀬艇と合流してから攻撃する予定であったが、岩瀬艇は湾内に侵入することはできず、秋枝艇単独での攻撃となった。湾内の灯火管制は徹底されておらず、秋枝艇は戦艦の艦影に向け2発の魚雷を発射した[38]。2本の魚雷のうち1本は戦艦「ラミリーズ」のA砲塔横のバルジに命中し30フィートの大穴を空けた。大量の海水が主砲と副砲の弾薬庫に流れ込み、さらに電気系統も損傷して全艦停電となってしまった。もう1発の魚雷が命中すれば致命傷となるところであったが、魚雷攻撃を避けるために移動していた油槽船「ブリティッシュ・ロイヤルティ」(British Loyalty、6,993トン)がちょうど魚雷の進路上を横切る形となり、機関室後部に魚雷が命中してそのまま沈んでしまった。図らずも「ブリティッシュ・ロイヤルティ」に救われた「ラミリーズ」は、弾薬を投棄するなどの復旧作業で艦の傾きを抑えて、どうにか沈没だけは避けることができたが致命的な損傷を被ることとなった[39]。なお、この被雷による「ラミリーズ」の人的被害はなかったが、「ブリティッシュ・ロイヤルティ」では5人の乗組員と1人の砲手が艦と運命を共にした[40][注釈 1][41]。
その後「ラミリーズ」はディエゴ・スアレス港にて応急修理を受けた後、護衛艦に守られながら10ノットの低速で南アフリカのダーバンに向かうと、そこで簡単な修理をされ、さらにイギリス本土で恒久的な修理を行うため、ケープタウンを経由してデヴォンポート海軍基地に回航された。デヴォンポートでは修理の他に近代化改修と兵装の強化も行われたが、再就役したのは攻撃を受けてから約1年後の1943年5月のことであり、長期の戦線離脱となった。「ラミリーズ」は再就役のあとも活躍し、1944年6月のノルマンディー上陸作戦ではドイツ軍に艦砲射撃を浴びせて、連合軍の勝利に大いに貢献している[42]。
なお、この戦闘の後、イギリス海軍は駆逐艦隊の総力を挙げディエゴ・スアレス湾内全域で夜を徹して爆雷攻撃を行った。あまりに苛烈な攻撃であったので、湾内の魚が死滅してしまい、衝撃で腹が避けた魚が大量に海面に浮かんできたという。地元の漁民は喜んでその魚を拾い集めたが、喜んだのは一瞬で、翌日からは広いディエゴ・スアレス湾内で殆ど魚が獲れなくなってしまった。この状況はしばらく続き、魚が獲れるようになるまでには相当な日数を要したので、イギリス海軍は地元の漁民から大いに疎まれたという[43]。
地上戦移行
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から発進した甲標的は上記のように雷撃に成功したが、後に艇がノシ・アレス島で座礁したため、艇長の秋枝三郎大尉と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名は艇を放棄し、マダガスカル島のアンタラブイ近くに上陸して、付近を通りかかった漁師の助けを受けて母潜との会合地点付近に徒歩で向かうこととした。やがて秋枝らはアンドラナボンドラニナという小集落に到着、現地住民に食料を無心し、現地住民は怯えながらもそれに応じていたが、この動きが後にイギリス軍に発見される原因となってしまう[44]。
母艦との会合地点は「甲標的」が健在という前提で、アンバー岬から南へ5kmの沖合と決められていたが、「甲標的」を失った秋枝らに沖合の会合地点に行く手段はなく、陸路でなるべく会合地点近くまで行くこととした。6月2日にマダガスカル中央部のペタメタという村落に到着すると、日没を待ってその近くの標高54mの高地に行き、沖合にいるはずの潜水艦に発見してもらえるように携行していた懐中電灯で海面に向けて味方識別信号を送ってみたが、反応はなかった[45]。「伊二〇潜水艦」は当初の予定では6月2日までであった「甲標的」の捜索を2日間延期して6月4日まで行ったが、陸上にいる秋枝らを発見することはできなかった[46]。
翌6月3日になって、秋枝らは食糧確保のためにアンドラナボンドラニナに戻ることとしたが、集落には地元住民の通報により完全武装のイギリス海兵隊18人が捜索に来ていた[47]。秋枝らは集落に到着する前にイギリス海兵隊に捕捉され降伏を勧告されたが、秋枝らはそれを拒否すると、竹本が携行していた拳銃をイギリス海兵隊に向けて発砲した。竹本の射撃でイギリス海兵隊2~3人が倒れたが、イギリス海兵隊指揮官はすぐに反撃を命じ、イギリス海兵隊員は軽機関銃と小銃で応射して竹本は顔面に被弾して戦死した。一方で秋枝は軍刀を抜刀し、イギリス海兵隊に斬り込んで数人を切り捨てたが、斉射を浴びせられて戦死した。イギリス海兵隊指揮官は2人の遺体から肌着以外の身ぐるみを剥がすと、遺体を地元住民に埋葬するよう命じた[48]。なお、この戦闘でのイギリス海兵隊の損害は1人戦死、5人戦傷であった[49]。秋枝らの戦死日は英側資料では6月2日、現地の目撃証言では6月4日である[50]。
なお、岩瀬と高田が搭乗していたもう1隻の「甲標的」は海上で遭難したらしく、攻撃翌日に両名の遺体が海岸に打ち上げられているのが発見された[51]。
岩瀬らの遺体を発見したイギリス軍であったが、ディエゴ・スアレス港への攻撃が日本軍によるものだとは判断しておらず、降伏したはずのフランス軍が攻撃したものと疑い、自由フランスに配慮して休戦後に軍施設や官公庁に掲げることを認めていたフランス国旗を降ろすよう命じている。その後に地上戦の結果回収した秋枝らの遺品の中には作戦の計画書等も含まれており、これでフランス軍への疑いが晴れて再び国旗の掲揚が認められたという[52]。
戦果
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日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でのイギリス軍兵士の損害と一定の戦果を挙げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。
その後日本軍の援護攻撃が行われなかったこともあり、イギリス陸軍第5師団は日本軍による新たな攻撃が予想されたイギリス領インド帝国へ移された。また、1942年6月に第22東アフリカ旅団が到着し、その翌週、第7南アフリカ連邦自動車化歩兵旅団と第27ローデシア歩兵旅団が上陸した。
その後も日本軍によるヴィシー・フランス軍への支援及び援助行動は行われなかったこともあり、戦力が枯渇したヴィシー・フランス軍と、イギリスを中心とした連合国軍との間の交戦は数ヶ月間低レベルの状態で続いた。
その後の作戦
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第29旅団および第22旅団は1942年9月10日、雨季に先立つイギリス軍の再攻撃のためマジュンガに上陸した(ストリーム作戦)。直接攻撃はほとんどなかったが、イギリス軍はヴィシー・フランス軍によって主要道路に設置された多くの障害物に遭遇した。また、牽制作戦としてモロンダバへの上陸(タンパー作戦)も行われた。続いて9月18日にはタマタブ攻略作戦(ジェーン作戦)が実施された。
フランス軍の抵抗の前にイギリス軍の進撃速度は遅かったが、恐れていた日本軍の援護攻撃も行われなかったこともあり、圧倒的な戦力差で、首都のタナナリブおよび重要拠点アンバラバオを占領すると、10月18日にアンドラマナリーナを激戦の末奪取した。アンドラマナリーナの喪失で守備隊は崩壊し、11月6日にアンバラオで休戦協定が締結され、11月8日には徹底抗戦を宣言していた総督のアネットがイギリス軍に降伏した。1942年9月10日以降の作戦でイギリス軍が被った損害は30人が戦死、90人であった。1943年1月にイギリスはマダガスカルの支配圏を自由フランスに引き渡し、降伏して捕虜となったフランス兵1,200人のうち900人が自由フランス軍に従軍することとなった。しかし、ヴィシーフランスと共に戦った現地住民は、敵対したイギリスから支配圏を譲られた自由フランスに対しても敵対心を抱くこととなり、その後大規模な抗議運動が行われるようになっていく[53]。
マダガスカルを巡るイギリス軍とフランス軍の戦いは、途中の部隊交代などによる小康状態はあったものの。結果的には半年に渡って戦い続けることとなり、その間フランス軍はマダガスカルを持ち堪えた。これはフランス本国がナチス・ドイツのフランス侵攻で持ち堪えた期間より遥かに長い期間であったと皮肉交じりに評されることもあった[54]。
イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、作戦の展開に満足していたものの、日本軍の「甲標的」による攻撃の報告を受けるとかなり狼狽し、後年出版した回想録で以下の様な文学的な回想をしている[55]。
ここまでは万事がキチンキチンとはこんだが、突然、最も周章狼狽させる事件が起こった。5月29日、国籍不明の航空機が湾の上空に現れ、忽ち姿を消した。これが空中からのあるいは潜水艦による攻撃の序曲のように思われたので、極度の警戒が命令された。その翌晩ラミリーズと近くにいたタンカーに魚雷がぶちこまれた。魚雷はどこから来たのであろう?何の予兆だろう?—ウィンストン・チャーチル
戦後の慰霊
[編集]1973年に日本マダガスカル協会と戦記作家の豊田穣が、在マダガスカル日本大使館の協力を得て現地調査を実施し、上陸後の秋枝らの消息や最期の地を特定した[注釈 2][56][57]。その後、1976年に在マダガスカル日本大使館が秋枝らの戦死地に慰霊碑を建立し、1997年には有志が前述2名と岩瀬勝輔大尉、高田高三兵曹長の4名の日本軍人の慰霊碑をアンツィラナナ(旧名ディエゴ・スアレス)に建立している[58][59]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ その後ブリティッシュ・ロイヤルティーは浮揚修理され、アッドゥ環礁に移動。同地でドイツ軍のUボートU-183の雷撃を受けて大破。応急修理後燃料油貯蔵船となり、戦後の1946年1月5日に浸水により沈没した
- ^ 当時のマダガスカル大使館の加川大使は、予備学生として海軍に従軍し、マダガスカル方面も管轄する南西方面の暗号担当をしており、本作戦の情報収集を担当していた。大使夫人は東京オリンピックでコンパニオンも務めたタレントのムーザ毛馬内であった。
出典
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参考文献
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