伊号第十潜水艦

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Japanese submarine I-10 at Penang port in 1942.jpg
ペナンを出航する伊10
艦歴
計画 第三次海軍軍備補充計画(マル3計画
起工 1938年6月7日
進水 1939年9月29日[1]
就役 1941年10月31日
喪失 1944年7月4日沈没
除籍 1944年10月10日
性能諸元
排水量 基準:2,434トン
常備:2,919トン
水中:4,150トン
全長 113.7m
全幅 9.55m
吃水 5.36m
機関 艦本式2号10型ディーゼル2基2軸
水上:12,400馬力
水中:2,400馬力
速力 水上:23.5kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:16ktで16,000海里
水中:3ktで90海里
燃料 重油:878トン
乗員 竣工時定員100名[2]
兵装 40口径14cm単装砲1門
25mm機銃連装2基4挺
魚雷発射管 艦首6門
53cm九五式魚雷18本
九三式探信儀1基
九三式聴音機1基
航空機 零式小型水上偵察機1機
(呉式1号4型射出機1基)
備考 安全潜航深度:100m
行動期間:3ヶ月

伊号第十潜水艦(いごうだいじゅうせんすいかん)は日本海軍潜水艦伊九型潜水艦(巡潜甲型)の2番艦。1944年(昭和19年)サイパン島付近で戦没。

艦歴[編集]

1937年昭和12年)の第三次海軍補充計画(マル3計画)により川崎造船所1938年(昭和13年)6月7日起工、1939年(昭和14年)9月20日(もしくは29日)進水、1941年(昭和16年)10月31日に竣工した。佐世保鎮守府籍となり、第六艦隊第二潜水戦隊に編入。

太平洋戦争開戦時は第六艦隊第二潜水戦隊に所属し、先遣部隊として11月16日に横須賀を出港し、クェゼリンに寄港した後、30日フィジー諸島スバを飛行偵察するも、途中で搭載機が消息不明となり、3日間にわたり捜索するも発見できなかった。12月4日、サモア諸島トゥトゥイラ島パンゴパンゴ湾を偵察しアストリア級巡洋艦を視認後ハワイ方面に進出しハワイ作戦に参加。任務中の12月10日、北緯08度00分 東経152度00分 / 北緯8.000度 東経152.000度 / 8.000; 152.000のハワイ南東700の地点にて、砂糖パイナップルを積んでスバからバンクーバーへ航行中のパナマ貨物船ドネレイル(Donerail、4,473トン)を発見。魚雷を発射するも、命中しなかったため浮上し、20発ほど砲撃した。2時間後、ドネレイルは沈没した。その後、アメリカ西海岸沿岸における通商破壊作戦に参加し、1942年1月21日に横須賀に入港。3月10日、第六艦隊第八潜水戦隊に編入。12日、空母 レキシントンを旗艦とする第11任務部隊(司令官:ウィルソン・ブラウン中将)の追跡のため横須賀を出港。20日にに入港した。

4月16日に呉を出港してペナンに寄港した後、インド洋に向かう。5月20日にダーバンを飛行偵察。30日にマダガスカル島ディエゴ・スアレスを飛行偵察し戦艦、軽巡洋艦各1隻等の在泊を報告。その後通商破壊に参加する。6月5日0231、南緯21度03分 東経37度36分 / 南緯21.050度 東経37.600度 / -21.050; 37.600のベイラ東方350浬地点付近のモザンビーク海峡で、パナマ、ウァーレム社貨物船アトランティック・ガルフ(Atlantic Gulf、2,639トン)を撃沈。同日1044、南緯21度44分 東経36度38分 / 南緯21.733度 東経36.633度 / -21.733; 36.633の地点で米貨物船マーヴィン・H・ベイカー(Melvin H. Baker、4,999トン)を撃沈。8日0953、南緯20度00分 東経40度00分 / 南緯20.000度 東経40.000度 / -20.000; 40.000で軍需品と政治的製品を積んでニューヨークからボンベイへ航行中の英ドッド・トムソン社貨物船キング・ルド(King Lud、5,224トン)を雷撃により撃沈。28日、南緯21度15分 東経40度30分 / 南緯21.250度 東経40.500度 / -21.250; 40.500のベリア南方のモザンビーク海峡で、軍需品を積んでタインからアデンへ航行中の英T・ダンロップ社貨物船クイーン・ヴィクトリア(Queen Victoria、4,937トン)を雷撃し、撃沈。30日0035、南緯23度30分 東経37度30分 / 南緯23.500度 東経37.500度 / -23.500; 37.500でマンガン鉱石と繊維、皮を積んでボンベイからケープタウンへ航行中の米貨物船エクスプレス(Express、6,736トン)を発見し雷撃。魚雷2本が右舷に命中し、エクスプレスは船尾から沈没した。7月6日1615、南緯15度48分 東経40度42分 / 南緯15.800度 東経40.700度 / -15.800; 40.700でギリシャ貨物船ニンフェ(Nymphe、4,504トン)を雷撃により撃沈。8日0718、南緯18度00分 東経41度42分 / 南緯18.000度 東経41.700度 / -18.000; 41.700のモザンビーク海峡で、一般貨物8,000tを積んでフィラデルフィアからロレンソ・マルケス経由でアレクサンドリアへ航行中の英J&C・ハリソン社貨物船ハーティスマー(Hartismere、5,498トン)を発見し雷撃。1番船倉に魚雷1本が命中したハーティスマーは大爆発を起こしたため放棄され、なおも浮かんでいたハーティスマーを砲撃して沈めた。1755、南緯18度30分 東経41度40分 / 南緯18.500度 東経41.667度 / -18.500; 41.667のモザンビーク海峡で、4,000tの弾薬を積んでダーバンからアデン経由でロンドンへ航行中の蘭貨物船アルチバ(Alchiba、4,427トン)を発見し雷撃。魚雷は左舷機関室に命中し、アルチバは放棄された。漂流するアルチバへ砲弾9発を発射して沈めた。12日に横須賀に入港。

10月21日に横須賀を出港し、トラックに寄港してソロモン諸島方面に進出。12月18日にトラックに帰投した。

1943年1月5日、トラックを出港した後、再びソロモン諸島方面に進出。16日、ニューカレドニア島ヌーメア南南東80浬地点付近で空母1、駆逐艦2を発見し、魚雷を発射するも、命中しなかった上、見失ってしまう。24日0100にヌーメアを飛行偵察し戦艦、巡洋艦、駆逐艦各1-3、商船20の在泊を報告後、ソロモン諸島南方で通商破壊戦に従事する。30日0449、南緯24度21分 東経166度12分 / 南緯24.350度 東経166.200度 / -24.350; 166.200のアメデ灯台南方115浬地点付近で、ヌーメアからニューキャッスルへ航行中の米リバティ船サミュエル・ゴンパース(Samuel Gompers、7,176トン)を発見し雷撃。魚雷はサミュエル・ゴンパースの船尾に命中し、サミュエル・ゴンパースは爆発して5分で沈没した。2月9日から10日にかけて、ニュージーランド~ヌーメア間の海域を哨戒する。9日1400、商船を発見し雷撃するも、魚雷は目標の船底下を通過し命中しなかった。10日0542、別の商船を発見し雷撃するも、命中しなかった上見失ってしまう。27日朝、ウェリントン沖にて商船を発見し、雷撃するも命中しなかった。3月1日、南緯20度30分 東経174度45分 / 南緯20.500度 東経174.750度 / -20.500; 174.750で米タンカー、ガルフウェーヴ(Gulfwave、7,141トン)を雷撃し撃破。ガルフウェーヴは出力低下を起こしながらスバに入港した。5日、ニュージーランド~オーストラリア間にあるトレス諸島を偵察。その後、トラックに寄港して21日に佐世保に入港して修理を受ける。

5月17日、佐世保を出港して瀬戸内海へ向かう。19日から21日にかけて、第2次遣独潜水艦作戦に向けて伊8への燃料補給訓練に従事し、26日に呉に帰投。6月1日に伊8、特設潜水母艦日枝丸と共に呉を出港し、佐伯経由で12日にペナンに移動する。27日1630、第8潜水戦隊旗艦として伊8と共にペナンを出港する。7月1日と6日に伊8へ補給を行って伊8と別れた後、インド洋で通商破壊戦に従事する。22日には、南緯03度00分 東経68度00分 / 南緯3.000度 東経68.000度 / -3.000; 68.000アデン湾南南東沖合で、アバダンからフリーマントルへ航行中のノルウェー貨物船アルシデス(Alcides、7,634トン)を発見し、雷撃。魚雷2本が命中したアルシデスは沈没し、船長と無線員、航海士を捕虜にした。8月4日にペナンに帰投。

9月2日1600、インド洋における第七次作戦行動につくためペナンを出港。この哨戒では日映のスタッフが乗艦して60日余りの作戦行動を撮影している。9月14日、北緯06度10分 東経67度37分 / 北緯6.167度 東経67.617度 / 6.167; 67.617チャゴス諸島南西沖のインド洋で、油を積んでバンダレ・アッバースからメルボルンへ航行中のノルウェータンカーブラモラ(Bramora、6,361トン)を雷撃し、撃沈した。24日0200、北緯11度37分 東経45度46分 / 北緯11.617度 東経45.767度 / 11.617; 45.767のアデン南東75浬地点付近で米リバティ船エリアス・ハウ(Elias Howe、7,176トン)を発見し追尾。0312、魚雷を2本発射し、うち1本がエリアス・ハウの機関室に命中した。火災を起こしたエリアス・ハウはSOSを発信した。15分後、浮上して魚雷1本を発射し、これを命中させる。命中したエリアス・ハウは衝撃で積み荷の爆発物が誘爆し、船尾から沈没した。10月1日1630、北緯11度43分 東経48度07分 / 北緯11.717度 東経48.117度 / 11.717; 48.117のアデン湾で、西へ向かう輸送船団を発見し、石炭を積んでモンバサからアデンへ航行中のノルウェー貨物船ストルヴィクセン(Storviken、4,836トン)へ向け魚雷3本を発射。うち2本が右舷に命中したストルヴィクセンは船尾から沈没し、乗員2名を捕虜とした。4日、アデン湾近海で輸送船団の航行音を聴取。これは、アデンからアバダンへ向かっていたAP-47船団で、追跡を開始。夜になってから浮上した。5日0510、北緯14度20分 東経50度47分 / 北緯14.333度 東経50.783度 / 14.333; 50.783グアルダフィ岬北方140浬地点付近にて、約5,100mで輸送船の密集しているところめがけて魚雷3本を発射。発射完了と共に深度119mへ急速潜航した。やがて、3つの爆発音と船体破壊音が聞こえてきた。この攻撃でノルウェータンカー、アンナ・クヌドセン(Anna Knudsen、9,057トン)を撃破。アンナ・クヌドセンは総員退船となったものの、後にアンナ・クヌドセンに戻った乗員の手によって復旧に成功し、アデンに引き返していった。24日1125、北緯01度02分 東経71度14分 / 北緯1.033度 東経71.233度 / 1.033; 71.233のアッヅ環礁北西沖で一般貨物を積んでカルカッタからダーバンへ航行中の英A・ウェア社貨物船コンゲラ(Congella、4,533トン)を発見し、魚雷2本を発射するも命中しなかった。そのため、砲撃に切り替えてコンゲラを撃沈した。10月30日にペナンに帰投。撮影された映像は1944年に映画館で「轟沈」として上映された[3]。その後、11月5日にペナンを出港し、シンガポールを経由して12月16日に佐世保に入港し修理を受ける。

1944年2月3日に佐世保を出港し、10日にトラックに到着。17日朝、トラック島空襲に遭遇して小破した後、米空母の追跡に出港するも発見できずトラックへ帰投。この空襲で乗員3名が戦死し2名が負傷した。25日にトラックを出港し、アメリカ西海岸へ向かう。3月4日、ミレ東方で襲撃運動中、爆雷攻撃を受けて損傷。修理のため本土へ向かい、20日に横須賀に到着した。

5月9日、横須賀を出港し、マーシャル諸島東方に進出。6月12日にメジュロを夜間飛行偵察し港内に輸送船1隻を視認後、搭載機が着水に失敗し破損したため機体を放棄した[4]。14日ににサイパンの第六艦隊司令部救出に向かうべくグアム島方面へ急行し、24日にサイパン島東岸に到着するも、救出に失敗。その後、6月28日1200の艦位連絡を最後に消息不明。

アメリカ側記録によると、7月4日、サイパン東北東65浬地点付近にて、米護衛空母ブレトンとタンカー6隻による海上補給を護衛しているキャノン級護衛駆逐艦リドル英語版」は自艦から250°、1700mの位置で潜航中の潜水艦を聴音により探知する。報告により、タンカー6隻とブレトンが港へ向かう中、リドルは爆雷を5発投下し、潜水艦を威嚇。これにより、潜水艦は攻撃に失敗したように見えた。発見から18分後、リドルは自艦から1100mの位置にいる潜水艦を再び探知し、ヘッジホッグを発射する。しかし、潜水艦はそれを回避するべくより深く潜り、積極的に動いていた。1822、潜水艦の進路上を通過するフレッチャー級駆逐艦デヴィッド・W・テイラー英語版」も潜水艦を探知し、中深度に設定した爆雷11発を投下する。1828、リドルが再度爆雷攻撃をしようとした時、海中で大きな爆発音がした。このため、2隻は潜水艦を見失った。しばらくして、潜水艦のものと思われる破片と、重油が浮かび上がった。翌日、現場にはおよそ17kmの長さの重油の帯が出来上がっていた。これが最期の瞬間であり、艦長の中島清次中佐以下乗員103名全員戦死。沈没地点はサイパン島近海、北緯15度26分 東経147度48分 / 北緯15.433度 東経147.800度 / 15.433; 147.800

1944年7月2日サイパン方面で沈没と認定され、同年10月10日除籍。

撃沈総数14隻は帝国海軍潜水艦随一であり、撃沈トン数は81,153トンである。また、2隻を撃破しており、そのトン数は16,198トンである。

潜水艦長[編集]

艤装員長
  1. 栢原保親 中佐:1941年7月31日[5] - 1941年10月31日[6]
潜水艦長
  1. 栢原保親 中佐:1941年10月31日[6] - 1942年9月15日[7]
  2. 山田隆 中佐:1942年9月15日[7] - 1943年4月15日[8]
  3. 殿塚謹三 中佐:1943年4月15日[8] - 1944年1月18日[9]
  4. 中島清次 中佐:1944年1月18日[9] - 1944年7月2日 戦死認定、同日付任海軍大佐[10]

脚注[編集]

  1. ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇、19頁。
  2. ^ 昭和16年10月31日付 内令第1326号。この数字は法令上の定員数であり、航空関係要員を含み、特修兵その他臨時増置された人員を含まない。戦隊司令部の定員は別に定められるものであって、潜水艦の定員には含まれない。
  3. ^ 『五十年ぶりの再会-伊号第六十三潜水艦殉難者に捧ぐ-』、16頁。
  4. ^ これが日本潜水艦搭載機による最後の泊地偵察となる。
  5. ^ 昭和16年7月31日付 海軍辞令公報(部内限)第681号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072081600 で閲覧可能。
  6. ^ a b 昭和16年10月31日付 海軍辞令公報(部内限)第736号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072082900 で閲覧可能。
  7. ^ a b 昭和17年9月15日付 海軍辞令公報(部内限)第942号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072086800 で閲覧可能。
  8. ^ a b 昭和18年4月15日付 海軍辞令公報(部内限)第1093号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072090500 で閲覧可能。
  9. ^ a b 昭和19年1月18日付 海軍辞令公報(部内限)第1299号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072095300 で閲覧可能。
  10. ^ 昭和20年1月4日付 秘海軍辞令公報 甲 第1684号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072102800 で閲覧可能。

参考文献[編集]

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0462-8
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 中島義之『五十年ぶりの再会-伊号第六十三潜水艦殉難者に捧ぐ-』(朝日新聞社西部事業開発室編集出版センター、1994年)