バトル・オブ・ブリテン

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第二次世界大戦 > バトル・オブ・ブリテン
バトル・オブ・ブリテン

イギリス本土に来襲するドイツ軍機を迎撃するため戦闘機に向かって走るイギリス空軍パイロット
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日:1940年7月〜1941年5月
場所イギリス上空
結果イギリス空軍の勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗
ドイツ国

イタリア王国の旗 イタリア王国

イギリスの旗
大英帝国

カナダの旗 カナダ
ニューファンドランド
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
自由フランス
ポーランドの旗 ポーランド
ベルギーの旗 ベルギー
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
南アフリカの旗 南アフリカ連邦
ジャマイカ
バルバドス
南ローデシア
パレスチナ

指導者・指揮官
ヘルマン・ゲーリング
アルベルト・ケッセルリンク
フーゴ・シュペルレ
ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ
リノ・コルソ・フォギエレ英語版
ヒュー・ダウディング
キース・パーク英語版
トラフォード・リー=マロリー
クインティン・ブランド英語版
リチャード・ソール英語版
ロイド・サミュエル・ブリードナー英語版
戦力
単座戦闘機1,107[1]
複座戦闘機357[1]
爆撃機1,380[1]
急降下爆撃機428[1]
偵察機569[1]
沿岸哨戒機233[1]
単座戦闘機754[1]
複座戦闘機149[1]
沿岸哨戒機500[1]
パイロット2,937[2]
損害
航空機 1,733[3]~1,918[1]
戦死 2,662[1]
航空機 915[3]
戦死 449[4]
民間人死者 43,000[5]
民間人負傷者 139,000[5]
第二次大戦ヨーロッパ戦線

バトル・オブ・ブリテン: Battle of Britain, : Bataille d'Angleterre)とは、第二次世界大戦におけるドイツ空軍イギリス空軍の戦いのうちで、ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた一連の航空戦を指す。戦略目標を達することなく独ソ戦を前にしてヒトラーによって中止された。

ドイツ語ではイングランド航空戦: Luftschlacht um England )という。日本語では英国本土航空戦[6]または、英国の戦い[7]などとも表記される。

概要[編集]

イギリス空軍の主力戦闘機スピットファイア

1940年7月10日から10月31日までイギリス上空とドーバー海峡でドイツ空軍とイギリス空軍の間で戦われた航空戦であり、史上最大の航空戦と呼ばれる。

緒戦でドイツ空軍はドーバー海峡付近の輸送船や沿岸の港湾を攻撃した。ロッテ戦術を使った戦法と軍用機の保有数において、ドイツ空軍が優位に立った。

数において劣るイギリスは、軍民一体となって空軍を支援した。レーダーにおいて当時世界で群を抜いていた[8]イギリスは近代的なレーダー網を活用した要撃体制を構築し、イギリス連邦諸国から人的支援、中立国(当時)アメリカ合衆国からは経済支援を得ることができた。

ドイツ空軍は7月中旬から内陸部の飛行場を狙った空襲を繰り返してイギリス空軍に打撃を与えた。しかし、目標選定の失敗や必要な軍用機の整備不足、途中で主要な空襲目標をロンドンに変えたことなどにより、ドイツ空軍も大きな被害を受けた。10月になってイギリス空軍はドイツのイギリス上陸作戦を断念させることに成功した。その意味でバトル・オブ・ブリテンの結果は第二次世界大戦の重大な転機となった。

イタリア空軍はドイツ空軍から航空機の派遣を少数受けたものの、効果なくイギリス軍に撃退された。

ドイツ空軍の攻撃は翌1941年5月頃まで継続された。

背景[編集]

1939年9月1日に開始されたポーランド侵攻スロヴァキアソ連の参戦で成功させたドイツは翌年の1940年5月、西方電撃戦を開始し、僅か1ヶ月ほどでフランスベルギーオランダを降伏させ、ヨーロッパ大陸における軍事的優勢と主導権を獲得した。しかし、完全勝利を目前にしてドイツ首脳部の判断ミスによってダンケルクに袋の鼠状態であった英仏連合軍将兵34万人がイギリスに撤収することを許した(ダンケルクの戦い)。

1940年7月16日にイギリス本土上陸作戦準備を決心したドイツは上陸作戦のための準備を開始し、舟艇や水陸両用戦車等の用意を始めた。さらに上陸部隊の安全を確保するためドーバー海峡における航空優勢及び制海権の獲得を目指し、ドイツ首脳部は1940年8月2日にイギリス空軍部隊の殲滅をドイツ空軍に指令した。ドイツ空軍は航空作戦を開始してバトル・オブ・ブリテンが始まった。

ドイツの戦略[編集]

ドイツ空軍はヨーロッパ大陸での作戦を念頭に置き、地続きの戦場において味方陸軍部隊への近接支援と敵の補給遮断を行うという陸空直協を前提に航空艦隊 (Luftflotte) を基本にして編制され、空軍単独での渡洋攻撃を想定していなかった。

この方針は空軍の研究開発に多大なる影響を与えた。主力戦闘機メッサーシュミット Bf 109は航続距離が短く、イギリス南東部までしか爆撃機を護衛できなかった。Bf 109よりも航続距離の長い双発戦闘機メッサーシュミット Bf 110は重武装ではあったがエンジンが2基ある分重いため、軽快な単発単座戦闘機と敵対した際の空戦能力で劣り、Bf 110もまた護衛任務に限界があった。

フランスを屈服させた後、ドイツ空軍の司令官ヘルマン・ゲーリングは2個航空艦隊を西方に移駐させた。アルベルト・ケッセルリンク率いる第2航空艦隊は、ネーデルラント(司令部:ブリュッセル)へ展開した。フーゴ・シュペルレ指揮する第3航空艦隊は、フランス西部(司令部:パリ)へ展開した。この2個航空艦隊は双発爆撃機1200機、急降下爆撃機280機、単発戦闘機760機、双発戦闘機220機の航空兵力を有した。爆撃機の内訳は、ドルニエ Do 17、ドルニエ Do 215、ハインケル He111、そしてユンカース Ju 87であった。この他にノルウェー第5航空艦隊(司令部:クリスティアンサン)も限定的な支援を行い、その航空兵力は爆撃機130機、双発戦闘機30機だった。

ヒトラーは、ポーランドと北欧で見せつけたドイツ軍の強さを外交材料にイギリスの降伏を望み、戦わずして屈服できると期待していた。そのため、イギリス本土上陸作戦を実施する必要性に懐疑的であった。また、西方電撃戦の成功により大した被害を受けることなくフランスを屈服させることができたため、ヒトラーを含めドイツ首脳部はイギリス本土上陸作戦の計画を速めなければならず、北欧侵攻ドイツ海軍の艦艇が大きな被害を受けたため慎重に検討された。イギリス海軍第一次世界大戦から第二次世界大戦に至るまで精強な艦隊を維持しており、ドーバー海峡とイギリス海峡にドイツ海軍の艦艇を派遣することは困難であり、ライン河などの内陸河川用運搬船を上陸用舟艇に転用して、また空軍輸送機で地上部隊を輸送させなければならなかった。

ドイツの苦心[編集]

この戦いはドイツにとって当初から予定されていたものではなかった。そのためパイロットの訓練や空軍のドクトリンの策定だけでなく、飛行場の整備や燃料供給体制の構築といった基本的な事項にも取り組んでいなかった[9]。また、ベネルクス三国とフランスへの侵攻での損失は予想を上回る大きなものとなり、ドイツ空軍は1,248機もの航空機を失っていたが、ゲーリングはその補充には時間が必要だと考えていた[10]

その上、ヒトラーから度々横槍が入った。ヒトラーは英本土上陸のための「アシカ作戦」の準備を7月16日に命じたが、指揮官たち(第二航空艦隊[注釈 1]のアルベルト・ケッセルリンク上級大将、第三航空艦隊司令官フーゴ・シュペルレ上級大将)が詳細な指示を受けたのは、8月6日になってからだった。

ドイツの失策[編集]

ドイツ空軍は接収したフランス北部の航空基地を利用する予定だった。しかし設備には差があり、主脚が華奢なBf109戦闘機には負担となった。他にも弱点があった。ドイツのレーダーは英国よりもかなり遅れており、情報の質も悪かった。ドイツ空軍も、イギリス本土に次々と建てられるレーダーアンテナに警戒し、第二次世界大戦開戦前には、飛行船を使って偵察を繰り返してその性能を確かめようとしていたが、開戦後にドイツ空軍が破竹の進撃で勝利を重ねると、すっかりと慢心してしまい、イギリスのレーダーへの関心を失ってしまったが、この慢心は後に仇となってドイツ空軍に返ってくることになった[11]

さらに上述の通り、ゲーリングやヒトラーが目標選定や近接護衛戦術などについて横槍を入れ、搭乗員には十分な休息がなかった。しかしそれによる波状攻撃は英パイロット達を疲労困憊させた[9]。ドイツは、軍事行動における主目標の見極めと最適な手段の選択を誤ったとの指摘もある。そもそも基本的な狙いが"制空権"という漠然としたものでしかなかった。9月初旬、ドイツ空軍はその狙いを果たせずに800機以上を失い、さらに多数に損傷を受けた。英空軍に多大な損害を与えることこそできたが、英国は海だけでなく空においてもドイツ軍を大幅にしのぐ戦闘能力を備えていることが明らかになった[12]

イギリスの戦略[編集]

ヒュー・ダウディング キース・パーク
ヒュー・ダウディング
キース・パーク

イギリス空軍の戦闘機軍団司令官ヒュー・ダウディング大将は初代トレンチャード子爵ヒュー・トレンチャードの協力を受けつつ戦闘機の存在意義を問う声を撥ね退け、軍用機の近代化を後押しした。イギリス空軍は世界恐慌の影響を受け、大戦勃発の直前になって軍用機の量産が開始されるという状況にあったが、ダウディング大将は航空省と計画を練ってイギリス本土防空計画を策定した。この計画では、戦闘機スーパーマリン スピットファイアと戦闘機ホーカー ハリケーンからなる46個戦闘機飛行隊が必要と見積もられ、1939年中に部隊編成を達成することができた。しかし、旧式機のグロスター グラディエーターだけでなくフェアリー バトルブリストル ブレニムといった軽爆撃機の転用で飛行隊が補完されていた上、チャーチル首相の戦闘機派遣命令を繰り返し受けたことによるフランス派遣軍での損失と北欧派遣軍の損失によって、計画以上の機数が必要であった。戦闘開始時には2000機以上を擁するドイツ軍に対してイギリス空軍の保有戦力は戦闘機620機、その他84機に過ぎなかった。

チェイン・ホーム・レーダー

チャーチル内閣が発足すると、初代ビーヴァーブルック男爵マックス・エイトケン航空機生産大臣として迎えられた。マックス・エイトケンは倉庫で眠っていた修理用の部品を民間企業に押し出して新造機を生産させ、定数の確保に貢献した。空軍が整備のみに徹することが出来るように損傷した航空機の修理も民間企業に委託させる契約を結んだ。また、スーパーマリン スピットファイア、ホーカー ハリケーン、ブリストル ボーファイターなどの新型戦闘機、アブロ ランカスターハンドレページ ハリファックスといった新型爆撃機に搭載されるエンジンであるロールス・ロイス マーリンの供給が滞らないようアメリカの企業にライセンス生産を交渉し、フォード・モーター社には断られたがパッカード社が生産を承諾した。

航空省は無線電波を飛ばして航空機を発見・捜索するシステムの実用化をワトソン・ワットに依頼した。それから5年余りでレーダー監視網の整備が行われた。高空探知用のチェイン・ホーム・レーダー (CH) と低空探知用のチェイン・ホーム・ロウ・レーダー (CHL) は、発信塔から連続的な長波を発信して受信したものはブラウン管モニターに映し出された。それぞれのレーダーサイトで互いに死角を補完することができた。敵の航空部隊がイングランドの海岸線に到達する前から、その規模、方位、高度が航空統制官に伝えられ、迎撃部隊は最適な迎撃ができた[13]。しかし、レーダー網は敵味方を区別できないため目視で確認する必要があり、人員を配置した監視所も設けられた。これらの防空監視システムは、まとめて「ダウディング・システム」と呼ばれる。

イギリスの備え[編集]

上述の通り、イギリスは指揮系統や統合防空態勢においてかなりの備えをしていた。世界最高のレーダー網、観測所、空襲警報、地域指揮所、航空交通管制はすべて、分散されながらもネットワーク化され、すべての情報がダウディングの戦闘機軍団の各指揮所に届けられるようになっていた。1930年代からイギリス政府は戦争への備えを進めており、ムッソリーニ政権下のイタリア王国ナチス政権下のドイツに対しミュンヘン会談などの宥和政策を打ち出していたネヴィル・チェンバレンですら、防空予算は出し惜しみしなかった。そして、1940年には世界最高の防空体制が整っていた[14]

ドイツ軍がフランスに侵攻するとイギリス空軍は支援のためにホーカー ハリケーンを出撃させていたが、その消耗は激しく、5月8日から18日のわずか10日間で250機を失ってしまった。その損失に苦悩するダウディングに対して、チャーチルはフランスからの要請によってさらに150機以上のホーカー ハリケーンをフランスに派遣するようダウディングに命じた。業を煮やしたダウディングは「我が空軍が健在である限り、海空軍協力して大規模なドイツの上陸作戦を阻止することは可能である。万一、ドイツが完全に制空権を獲得した場合を想像すると、我が海軍は一時的にはもちこたえることができるかもしれないが長くは続かない」と、イギリス本土の命運は「イギリス空軍の健在」にかかっているという報告書を作ると、5月15日に閣議室に乗りこんでチャーチルに「この消耗率が続けば、フランスでもイギリスでもハリケーンは2週間で1機も無くなる」とフランスへの支援打ち切りを直談判した。チャーチルは苦悩のうえ、ダンケルクからの撤退支援以外でのイギリス空軍機によるフランス支援の打ち切りを決断した。この決断はチャーチルにとって第二次世界大戦における最大の痛恨事とはなったが、ダウディングの諫言がなければイギリス空軍はフランス上空で消耗しつくして、この後のバトル・オブ・ブリテンの勝敗に大きな影響を与えたのは間違いなかった。それでも、イギリス空軍はダンケルクの撤退支援までフランスで430機もの戦闘機を失い、既述の通り圧倒的な戦力差の状態でドイツ空軍の侵攻を迎え撃つことになってしまった[15]

バトル・オブ・ブリテンの経過[編集]

夜間に出撃するホーカー ハリケーン

前哨戦[編集]

西方電撃戦が開始されてからドイツ空軍は陸軍の支援とフランス空軍を殲滅しながら、イギリス本土に散発的な航空攻撃をしていた。しかし、ドイツ本土からでは航続距離の関係から護衛に戦闘機を随伴できないため、夜間空襲のみで、夜間では地上目標の確認が困難なため、効果的な空襲ができなかった。イギリスの戦闘機も軽爆撃機ブレニムを改造しレーダーを搭載した急造夜間戦闘機があったものの旧式で、ドイツの爆撃機に振り切られることが多かった。爆撃機をサーチライトで照射し昼間戦闘機のハリケーンで撃墜させる方法もあったがサーチライトが少なく、夜間に対抗できるのは高射砲のみで十分ではなかった。

1940年6月25日にフランスと休戦条約を締結、ドイツ軍はフランス北部沿岸と西部沿岸一帯を占領、旧フランス軍空軍基地を対英前進基地として使用可能になった。

戦闘の本格化[編集]

7月10日の朝、偵察機を護衛するドイツ戦闘機Bf 109Eと、これを迎撃に向かったイギリス戦闘機スピットファイアとの空戦がバトル・オブ・ブリテンの始まりと言われている[16]。同日の午後にはドーバー海峡付近を航行するイギリスの船団を巡って空戦が行われた。翌11日にドイツ空軍の攻撃隊が30から50機ほどでイギリス南東部の港湾に襲来し、12日にはイギリス海峡を航行する船団を攻撃した。

降伏勧告に近い和平案に対し回答を伸ばすことでイギリスは時間を稼いだ。その間、イギリス特有の悪天候で、港湾や船団へのドイツ空軍の攻撃は低調に終わった。しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦『アシカ作戦』の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れ、25日のイギリス海軍駆逐艦の護衛する輸送船団への攻撃では、10隻近い艦船が被害を受け、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。

ドイツ空軍の艦船攻撃は戦闘機と爆撃機のみで行われ、爆撃機を改修して航空魚雷を搭載させることはあっても本格的な雷撃機は保有していなかった。連日のようにイギリスの船団が攻撃を受けていたにも拘らず比較的少ない被害で済んだのは、ドイツ空軍が雷撃機の開発を怠っていたことに起因するという見方もある。一方でイギリス空軍は防空レーダー網であるダウディング・システムをフルに活用して港湾の上空で迎撃し、基本的に待ち伏せをした。実際、ドイツ空軍と英空軍の7月中に行われた空戦の損失割合は概ね2対1で、ドイツ空軍には爆撃機や偵察機が多数含まれたが、英空軍の戦闘機軍団は善戦した。

ドイツ空軍の標的変更[編集]

第51戦闘航空団 (JG 51) のメッサーシュミット Bf109

1940年8月1日、和平案を拒絶されたヒトラーは軍事侵攻によってイギリスを屈服させることを決定した。上陸作戦そのものはドイツ陸軍とドイツ海軍が実施することとなったが、制空権の確保が前提とされたため作戦決行の鍵はドイツ空軍が担うことになった。作戦開始当初からドイツ空軍を率いるゲーリングは、イギリス本土上陸作戦『アシカ作戦』の実現には懐疑的で、「イギリス本土占領を目指さぬ作戦に、我が空軍勢力をすり減らすのは得策ではない」と考えていたが[7]、ヒトラーは和平案が拒否されると一気呵成のイギリス空軍の航空戦力殲滅を考えており、飛行場、飛行機生産施設を集中的に攻撃して破壊し、迎撃してきたイギリス空軍を撃滅するといった、航空殲滅作戦アドラーターク英語版(鷲作戦)の準備をゲーリングに命じた[17]

ドイツ空軍はこれまで。作戦準備の第一目標を海上封鎖として、英仏海峡上のイギリス軍艦船の攻撃を行ってきたが、ゲーリングはドイツ航空省次官エアハルト・ミルヒ元帥と隷下の航空艦隊司令官を呼び、本格的な対イギリス本土航空撃滅戦の開始を8月10日に決定したと告げた。作戦名は鷲作戦とし、作戦の狙いは「イギリス軍戦闘機狩り」で、爆撃機と戦闘機による大編隊によって、イギリス軍飛行場と航空機工場を爆撃してイギリス軍戦闘機隊をおびき寄せて殲滅するという作戦目的も告げた[7]。ゲーリングはこの作戦を成功させるためには連続3日間の晴天が必要と考えていたが、希望通りの天候とはならずに、作戦開始予定日の8月10日には延期が決定された。作戦に消極的と疑われていたゲーリングはこの延期も怠慢と疑われており、参謀総長フランツ・ハルダー大将は、この日の日記に「空軍はやる気がないらしい」と書いたほどであったが、天候の回復が予想された8月12日になってゲーリングはヒトラーに明日13日からの鷲作戦実施を約束した[18]

鷲作戦実施検討中の期間は、引き続き艦船など港湾に対する攻撃が行われた。この期間中、双方は航空機の修復と補充を行ったが、イギリス空軍は早くも深刻になり始めていたパイロット不足を補う貴重な時間を得ることができた。11日になってドーバーポートランドの港湾を狙った大規模な空襲があったが、レーダー網が正確にドイツの編隊を捉え、無線管制を受けた戦闘機軍団の6個飛行隊が邀撃に成功し、イギリス側は戦闘機31機を失ったがドイツの戦闘機23機と爆撃機15機を撃墜した。

8月12日、メッサーシュミット Bf110に500 kg爆弾2発を搭載した戦闘爆撃機型のBf 110 C-4/Bがイギリスのレーダー・サイトを攻撃した。攻撃開始当初、ドイツ空軍はレーダーの重要性を認識しておらず、レーダー・サイトを攻撃の目標としていなかったが、正確なイギリス軍戦闘機の迎撃によって、ようやくその重要性を認識し、翌日から始まる鷲作戦に備えた目潰しのため4箇所のレーダー・サイトを攻撃した。このうち、第210実験飛行隊 (Erprobungsgruppe 210) が攻撃した、ポーツマスへの侵入機を察知するベントナー・サイトは完全にダウンした。さらにドイツ軍爆撃機隊は、ケント州の3か所の飛行場を爆撃し、迎撃のスピットファイアを潜り抜けて、飛行場に相当の損害を与え、175機の爆撃機に爆撃されたマンストン飛行場は翌日まで使用ができなくなった[19]

レーダー・サイトと飛行場に相応の損害を被り、ダウディングはドイツ空軍がこのまま航空戦略上で重要な施設を集中的に攻撃してくることを恐れたが、ドイツ空軍は航空殲滅戦の準備攻撃であるにもかかわらず、攻撃目標を航空関係施設から、テムズ川河口の船舶や軍港ポーツマスに変更してきたため、ダウディングは胸をなでおろしている。同日のポーツマスには多数の艦艇が停泊していたほか、ドックなどの港湾施設も所狭しと林立しており、軍港上空に飛来したJu 87 シュトゥーカのパイロットは、あまりの目標の多さに「飛行機乗りが夢に見た目標がいっぱいあった」「あまりにくっついているので、狙いを定める必要すらない」と喜んで、空襲阻止のために多数浮遊させていた阻塞気球をすり抜けながら急降下爆撃を敢行したが、ドイツ軍の爆弾は重要施設には殆ど命中せずに、ブルワリーを破壊しただけであった。ドイツ空軍はこの日の爆撃で重要施設を多数破壊したうえ、60機のイギリス軍戦闘機を撃墜したと大勝利を報じ、ドイツ空軍パイロットや軍高官は祝杯をあげたが、実際のイギリス空軍の損害は22機に対し、ドイツ空軍は31機を失っていた。また、航空戦略上の重要施設の被害が少なくて済んだため、イギリス空軍の「敵がもし全力をあげてレーダー・サイトと戦闘機飛行場を集中して攻撃していたら、どれだけ持ち堪えられたかわからない」というこの日の総括の通り、ドイツ空軍の不徹底さが翌日以降の鷲作戦の展開を大きく左右することになってしまった。[20]

鷲作戦[編集]

出撃前のブリーフィングを行なうイギリス空軍パイロット

8月13日、ゲーリングは空中偵察やUボートからの報告に加えて、イギリスのラジオ放送の天気予報までを参考にして鷲作戦開始を発令した。しかし、その後に天候の悪化の報告が入り、ゲーリングは慌てて作戦開始を午後に延期するという命令を発令したが、既に出撃準備中の各部隊には届かなかった。このドタバタ劇の通り、鷲作戦は竜頭蛇尾で、発動の初めから作戦の先行きに暗雲が垂れ込めていた[21]。延期の連絡が行き届かず予定通り出撃した部隊は、皮肉なことにゲーリングが作戦延期を決める原因であった英仏海峡にかかる厚い雲に助けられて、イギリス軍戦闘機の迎撃を受けずにイギリス本土に到達することができた。しかし、鷲作戦に備えて入念に偵察してきたはずなのに、ドイツ空軍は目標選定を誤っており、沿岸警備隊の飛行場やそれほど重要でもない研究施設など、鷲作戦の目的であるはずの航空戦力殲滅にはあまり役に立たない施設ばかりを爆撃してしまった[22]。その爆撃に成功したあとの帰路にイギリス軍戦闘機が待ち構えており、多数の爆撃機が撃墜されてしまった[23]

朝があけきった頃から、ドイツ空軍の本格的な攻撃が開始された。この日のためにゲーリングは485機の爆撃機と戦闘機1,000機の合計1,485機の作戦機を準備しており[24]、朝早くの攻撃が失敗してからも数回にわたり、大編隊を組んでイギリス本土に進撃してきた[25]。ドイツ軍は前日までの攻撃でレーダーを事前に破壊したと考えていたが、実際にはレーダーは復旧を終えており、ドイツ軍機は予想もしていなかった待ち伏せ攻撃を受けることとなった。Bf 110が30機が爆撃機を援護するため空中待機していたところに、レーダーで管制されたイギリス軍戦闘機が突入し、わずか6分間で5機を撃墜し、残ったBf 110は爆撃機護衛任務を放棄してフランスに逃げ帰った[26]。イギリス軍の効果的な迎撃に苦戦しながらも、高速の新鋭爆撃機ユンカース Ju 88イーストチャーチ飛行場英語版を爆撃し、地上に並んでいたブリストル ブレニム5機を撃破、作戦室を含む50か所に大穴を空けたが、スピットファイアが迎撃に到着したので、攻撃前のユンカース Ju 88は爆弾を投棄して退避してしまった。ドイツ空軍はこの爆撃で、地上で多数のスピットファイアを撃破し、イーストチャーチ飛行場を当面の間使用不能にしたと判定したが、イギリス側の突貫工事により翌日には復旧している[27]

天候が回復した午後からはさらにドイツ軍機の来襲が増加した。この日は茹だるような暑さで、イギリス空軍パイロットはシャツ1枚で汗だくになりながら戦闘機のコックピットに乗り込むと、次から次へとやってくるドイツ軍機の大編隊を見て、「ゲーリングだけを残して、ドイツ空軍は全部揃って来やがった」と冗談を交えながら、ドイツ軍機大編隊のなかに突入していった[25]。この日の戦いにはアンドリュー・メームドフ英語版バーノンチャールズ「ショーティ」キーオ英語版ユージン・クインビー「レッド」トービン英語版の3人のアメリカ義勇軍パイロットも参戦していた。3人の所属するスピットファイアの中隊13機は、レーダーで管制され、ライム湾英語版上空でBf 109とBf 110に護衛されたJu 87 シュトゥーカ40機編隊に襲い掛かった。中隊は太陽を背にして急降下でまずシュトゥーカ編隊に一斉射撃し、たちまち14機を撃墜すると、護衛のほぼ同数のBf 109とBf 110との空戦となったが、損失することなく5機を返り討ちにして撃退した。アメリカ人パイロットはこの痛快な勝利を「忘れられないティータイムとなった」とユーモアを交えて報告している[28]

空戦は終始イギリス空軍が優勢であったが、ドイツ軍機が合計1,485機も来襲したのに対して、迎撃に出撃できたイギリス軍機は700機に過ぎず[29]、飛行場への爆撃を阻止することはできなかった。この日攻撃された12か所のイギリス軍飛行場のうち、2か所が重大な損害を受け、7か所が何らかの損害を受けた。参謀総長のハルダーは「結果は極めて良好、8個の主要航空基地が殆ど破壊された」と判断し、また88機もの撃墜報告を受けて作戦開始日にしては上首尾だとドイツ空軍を賞賛した[25]。しかし、イギリス軍の実際の損害は13機にしか過ぎず、戦死者はわずか3人であった。一方でドイツ軍は45機という大損害を被っていた。また、各飛行場の損害も大したものではなく、速やかに修復されて翌日には殆どの飛行場が使用可能となっていた[29]。むしろ、イギリスにとって痛かったのはこの日のドイツ空軍による夜間爆撃で、キャッスル・ブロムウィッチのスピットファイア秘密工場を[27]、夜間航法の特別訓練を受け、特殊照準器を装備した爆撃機で編成された精鋭部隊カンプグルッペ100英語版が夜間爆撃して、11発の高性能爆弾を工場に直撃させスピットファイアの生産力に影響を与えたことであった[25]

14日は前日と比較すると小競り合いに終始した。午後には双発戦闘機Bf 110に護衛された急降下爆撃機Ju 87がドーバーを空襲し、ドーバー上空では戦闘機同士の空中戦が生起した。この日の損害はドイツ空軍19機、イギリス空軍8機であった[27]

過大戦果報告に惑わされていたゲーリングは、イギリス軍航空戦力殲滅まであと一息と誤認し、バトル・オブ・ブリテン期間中唯一となった3個航空艦隊の総力出撃を命じた。いつもの第2航空艦隊第3航空艦隊がフランスやオランダから出撃したのに加えて、遠く、ノルウェーに展開していた第5航空艦隊も攻撃に加わり、これまでで最多の1,790機が攻撃に参加した[30]。攻撃は軍事的な手段だけではなく、ドイツの放送局はイギリスに向けて英語で「イギリスの運命は決まった」とか「イギリス人は逃げることはできない。残された道は降伏か壊滅するしかない」という謀略放送を流し、イギリス国民の恐怖心を煽った[31]。しかし、ダウディングは煽られることなく冷静に、莫大な戦力で広範囲を攻撃してくると予想されるドイツ軍機に対して、限られたイギリス軍戦闘機の配置を検討していた[32]

この日の戦いはまず、午前中の第2と第3航空艦隊によるイギリス本土南東部の飛行場や工場に対する攻撃から始まった。レーダーに管制されたイギリス軍戦闘機にドイツ軍爆撃機は追い立てられ、どうにか目標近郊に到達しても高射砲の弾幕によってなかなか有効弾を与えることができず、軍事目標を逸れた爆弾がサンダーランドで24戸の住宅を破壊したぐらいが見るべき戦果となった[32]

撃墜されるユンカース Ju 88のガンカメラ映像

午後になってからは、スカンディナヴィアから遠路はるばるやってきた第5航空艦隊がイギリス本土に到達した。司令官のハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ大将は、激戦のイギリス南東部への増援を阻止するため、イギリス北東部にある飛行場を攻撃するように命じていたが、これはシュトゥムプフの判断ミスであり、激戦で疲労していた南東部のイギリス軍戦闘機隊主力を休息させることとなったうえ、逆に休息十分の北東部の第13戦闘機群英語版の全力迎撃を受けることとなり、司令官リチャード・ソール英語版少将は手持ちの戦闘機4個中隊を全て出撃させて、レーダー管制によりファーン諸島沖合で第5航空艦隊を待ち構えさせた。第5航空艦隊のドイツ軍パイロットは実戦から遠ざかり、イギリス上空での他の部隊の活躍談を聞く中で、自分たちもその中に早く加わりたいとノボセあがっており、この出撃も気楽なものになると油断していたが、予想もしない場所でイギリス軍戦闘機に待ち構えられてパニックになった。スカンディナヴィアからの出撃であったため、護衛の戦闘機は航続距離は長いが鈍重なBf 110の30機であり、軽快なスピットファイアには全く歯が立たず、たちまち7機を撃墜されると、He 111爆撃機を守るどころかいち早く遁走してしまった。無援護となったHe 111の100機であったが、爆撃機パイロットは戦闘機パイロットよりは勇気に溢れており、2手に別れるとイギリス軍戦闘機にかまわず前進を続けた。しかし、海岸線に到達するまでに8機が撃墜されると、これ以上の前進は無理と判断して爆撃を投棄するとスカンディナヴィアに引き上げていった。意気軒昂に参戦した第5航空艦隊であったが、司令官のシュトゥムプフの判断ミスで大損害を被った上に、爆撃すらできずに戦闘が終わってしまった[33]

同じ第5航空艦隊でも新鋭の高速爆撃機ユンカース Ju 88はまだマシであった。50機のユンカース Ju 88には、初めから戦闘機の護衛は全く付いていなかったため、フランボロー岬英語版にたどり着くとスピットファイア12機とホーカー ハリケーン6機の迎撃を受けて8機が撃墜されたが、生き残った30機はグレイト・ドリフィールド飛行場にどうにか到達し、爆撃でアームストロング・ホイットワース ホイットレイ10機を撃破し、弾薬庫を誘爆させた[32]。しかし、爆撃後にイギリス軍戦闘機に追撃され、さらに8機のユンカース Ju 88が撃墜されてスカンディナヴィアに追い返された。この1日で出撃させた123機の爆撃機のうち23機と戦闘機34機を失った第5航空艦隊は、この後、大損害に懲りて昼間のイギリス本土爆撃の出撃を二度と行うことはなかった[34]

第5航空艦隊が酷い目にあっているなか、、第2と第3航空艦隊はドイツ南東部の飛行場や工場を広範囲に爆撃していた。あまりに多数のドイツ軍機が広範囲にわたって来襲したため、来襲した全ての編隊を迎撃することはできず、各地で被害が生じた。主なものは2か所の工場が大きく損傷し、いくつかのレーダーサイトや飛行場が一時的に使用不能となったが、いずれも速やかに修繕され稼働できるようになった。しかしこの戦果の代償はドイツ空軍にとって甚大なものとなり、実にこれまでで最悪の78機を失って、ドイツ空軍はこの日を『暗黒の木曜日』と呼ぶようになった[35]。大損害は被ったものの、ドイツ空軍はイギリス空軍にも相当の損害を与えたと考えており、88機ものイギリス軍戦闘機を撃墜したと判定していたが、実際の損害は34機でさらに戦死したパイロットは17人に過ぎなかった。ゲーリングはドイツ空軍の全力を投入してイギリス軍戦闘機隊を殲滅しようとしたが、実際にはその目的を果たすことはできず、鷲作戦は失敗に終わった[36]

戦術の開拓[編集]

イギリス戦闘機とドイツ戦闘機の空戦

鷲作戦の失敗で、ドイツ空軍の致命的な欠陥が露になってきていた。それは、航続距離の長さから、爆撃機の護衛をしてきたBf 110が軽快なイギリス軍戦闘機に全く歯が立たないことであり、イギリス空軍パイロットはあまりにBf 110が容易く撃墜できたので、「テーブルの上の肉」というあだ名で呼んでいたほどであった。イギリス軍戦闘機に全く歯が立たないBf 110のパイロットは、自分たちにBf 109の護衛を付けてくれと泣きつく有様で、もはや護衛戦闘機としては役に立たないのは明らかであった[37]

そこでやむなく、ゲーリングの指示によってメッサーシュミット Bf 109が爆撃機を攻撃してくるイギリス軍戦闘機を撃退するようになったが、そこでも新たな問題が生じていた。それは作戦当初から懸念されていたBf 109の航続距離の短さが、想定以上に作戦に大きな影響を与えていることであった。Bf 109はイギリス本土上空では、せいぜい20分しか戦闘することができず、これは増槽を装備して出撃し、空戦直前に投棄するだけでもかなり改善されるはずであったが、なぜか検討されることすらなかった。また、技術力に優れたドイツ航空産業であれば、航続距離の問題も労せずに対策を講じられたはずであったが、この戦いの期間中にそれが実現できなかったのは、なんとも理解しがたいことであった。そしてこの欠陥はさらにドイツ空軍に大きな損害を強いることになっていく[38]

無為無策のドイツ空軍中央に対し、現場では独自の戦法が生みだされていった。16日に行われたドルニエ Do 17による攻撃は高空に達してから緩やかな降下に入り、徐々に速度を増しながら攻撃地点に向かうというものであった。爆撃する頃には時速600キロを超える速度になり、スピットファイアでも追撃は難しかった。この攻撃でウェスト・モーリングが被害を受けた。その日の午後には第2航空艦隊がテムズ河口やホーンチャーチを爆撃し、1時間後には第3航空艦隊が西部を爆撃した。第11戦闘機群は補給のため基地に戻らざるをえず、第10戦闘機群が迎撃に向かったが、再びベントナー・サイトが爆撃されて復旧に一週間要する被害を受けた。夜間にはブライズ・ノートンが爆撃された。この新戦法は見事に成功し、ブライズ・ノートン空軍基地は大損害を被ったが、同基地は爆撃訓練基地に過ぎず、地上で撃破された46機は練習機のエアスピード オックスフォードであり、制空権争いには殆ど影響のない損害であった。この戦果のためにドイツ空軍は45機を失った[39]

18日にドイツ空軍は、ロンドンを護る戦闘機基地のケンリー飛行場英語版ビギン・ヒル飛行場英語版を目標として新戦術による攻撃を行った。その新戦術とは、ドルニエ Do 17が低空から侵入して小型爆弾で施設に打撃を与えて注意を引いている間に、続いてハインケル He 111やユンカース Ju 88が高空から爆撃して徹底的に叩くというものであった。ケンリー飛行場では、このドイツ空軍の新戦術が成功し、100発以上の爆弾が飛行場に命中、難敵ホーカー ハリケーンを地上で6機も撃破し、格納庫10棟を炎上させて、ケンリー飛行場を修羅の巷と化して損害もなく飛び去って行った[40]

一方で、ビギン・ヒル飛行場を襲撃した爆撃機隊は酷い目にあっていた。まずは低空侵入を行うDo 17の9機が飛行場に接近すると、たちまち地上からの激しい対空砲の十字砲火と、レーダーで誘導され上空から降下してきたイギリス軍戦闘機に次々と撃墜されていき、生還できたのはわずか2機であった。時間差で高高度から侵入したユンカース Ju 88も悲惨な目にあっており、イギリス軍戦闘機の待ち伏せにあって4機が撃墜され、這う這うの体で離脱した。11機もの爆撃機を失ったビギン・ヒル飛行場爆撃であったが、飛行場に多数の弾痕と不発弾を残した以外は大きな損害はなかった。その不発弾を危険を顧みずに処理した王立婦人空軍の女性兵士ジョーン・モルティマー軍曹が、本来なら男性にしか授与されないミリタリー・メダル Military Medalを授与された[41]

ビギン・ヒルと同様に、他の飛行場を攻撃したドイツ空軍爆撃機隊は、低空侵入を行うDo 17が濃密な対空砲火と妨害を受け、高空侵入の爆撃隊も護衛機と迎撃機の空戦に妨害されて作戦通りにはなかなかいかず、損害の割には戦果はふるわなかった。 特に損害が大きかったのがJu 87 シュトゥーカで、電撃戦では大活躍し、その独特の急降下音は敵軍を震え上がらせていたが、鈍足のためイギリス空軍戦闘機に対してはいいカモとなり、この日出撃したシュトゥーカが大量に撃墜されて帰還することができなかった。この大損害にゲーリングは怯んでしまい、この日以降、イギリス本土での主要任務からシュトゥーカが外されてしまったほどであった[42]

18日の戦いは先の15日の激戦を再現するかのような戦いとなった。ドイツ空軍は『暗黒の木曜日』に匹敵する71機もの作戦機を失う大損害を被ったが、イギリス空軍の損失は27機に過ぎず、さらに多くのパイロットが救出されたので戦死者は10人に止まった。この日のように、本土上空で戦うイギリス空軍パイロットは乗機が撃墜されても、脱出に成功して多くが生還し再度出撃できたが、敵地上空で戦うドイツ空軍パイロットは戦死するか、脱出できてもそのまま捕虜となって永遠に失われ、ドイツ空軍はイギリス空軍と比較して、機体の損失の対比以上に、パイロットの損失が遥かに大きくなった[43]

19日からは天候が悪化したため、午後になってポーツマス、サウサンプトンドーバーなど軍港を含む港湾への小規模な攻撃が行われた。ドイツ、イギリスともに3機を失った。

かくも少ない人に[編集]

飛行艇の操縦席に座るイギリス首相ウィンストン・チャーチル

20日は雨天だったが、イーストチャーチマンストンウェスト・メイリングなど南東部の基地が攻撃の対象となった他、沖合いの船団に対する攻撃も実施され、ドイツが6機、イギリスが2機を失った。ゲーリングは鷲作戦開始以降の連日の大損害に気分を害しており、緊急に指揮官を招集すると「諸君、本職は不快である。わが対イギリス攻撃の戦果に心からの不満を表明する」と叱責した。爆撃機の損害が多いのは、戦闘機の護衛が不十分であるからと断じ、「戦闘機は爆撃機護衛の任務を最後まで果たせ」「違反するパイロットは、何者であろうと軍法会議にかける」と言い放った。戦闘機パイロットからは、鈍足の爆撃機と同行することで、イギリス軍戦闘機への対応が遅れているので、自由戦闘をさせてほしいという要望が上がっていたが、ゲーリングはその要望を拒絶したのであった。さらに損害の多かったJu 87 シュトゥーカをイギリス本土爆撃任務から外すことも正式に決定した[44]

ドイツ空軍指揮官からは、イギリス軍の防空司令部の戦闘指揮所がロンドンにあり、それを攻撃してイギリス軍の防空体制に揺さぶりをかけるべきとして、ロンドンへの空襲が発議されたが、ヒトラーはベルリンへの報復攻撃を恐れてロンドンへの爆撃を禁止しており、ゲーリングも「時期尚早」として指揮官らの発議を却下した。ドイツ空軍総司令部の想定では、残存のイギリス軍戦闘機は350機であるが、戦闘機の月産機数は100機以下に過ぎず、これまでのペースでイギリス軍戦闘機を狩っていけば近いうちにイギリス軍戦闘機は枯渇するとしていた。この報告を受けていたゲーリングはドイツ空軍指揮官に「10日で敵を半減させた。あと10日で殲滅できる」と発破をかけたが、この想定は全て間違っており、まずはイギリス軍戦闘機の損失数を過大なドイツ軍パイロットの申告で集計していたが、実際のイギリス空軍の損害はそれより遥かに少なかった[45]。ドイツ空軍内では士気向上のために、過大戦果報告が横行していた。総撃墜数100機以上のあるエースパイロットは、ある日に英仏海峡上空でスピットファイア3機を撃墜したと申告し認められたが、整備員が機銃の残弾を確認したところ、1発も発射されていないことが判明した。この事実は伏せられたものの、やがて噂となって広まったため、そのエースパイロットは転属を余儀なくされた[46]、戦後にイギリス空軍のエースパイロットジョニー・ジョンソンが、アフリカの星ことハンス=ヨアヒム・マルセイユが1942年9月1日に撃墜したと主張する17機について調査したが、この日の連合軍の損失は合計でも11機で、そのうち2機はマルセイユの撃墜機には入っていないホーカー ハリケーンであった。また、その損失はマルセイユがまだ出撃していない時間のものであったという[47]

戦闘機の月産数においても誤った情報であった。イギリス軍は航空機生産相ビーヴァーブルック男爵の尽力により、ドイツ空軍による空襲下でも毎月戦闘機の生産数を増加させており、4月には月産256機であったのが、その5か月後には467機と戦闘機の生産は倍増していた[48]。生産される戦闘機も順次改良が加えられて洗練されていた。ドイツ戦闘機パイロットは、Bf 109がスピットファイアに追われた場合、急降下すれば容易く退避できることを戦闘の中で気が付いた。これはガソリン直噴エンジンユンカース ユモ 210を搭載するBf 109は、急降下してもエンジンへの燃料供給には問題なく性能が落ちることがなかったのに対し、スピットファイアのエンジンはキャブレターの問題で、急な姿勢変化をすると燃料供給が円滑にいかず、ブツブツいって失速することが多かったからであった[49]。Bf 109はこのスピットファイアの弱点をついて一時空戦を有利に進めていたが、ロールスロイス社はすぐにキャブレターの改良に着手して問題を解決し、スピットファイアの降下性能はBf 109に劣らぬものとなった。日進月歩していくスピットファイアに苦戦するドイツ軍エースパイロット第26戦闘航空団司令アドルフ・ガーランド大佐は、ゲーリングに対して「スピットファイアが欲しい」と言ってゲーリングを脅かせているが、これは皮肉ではなく操縦性のいいスピットファイアの方がBf 109より戦闘機として優れていると思っていたからであった[50]。ゲーリングはこれらドイツ軍にとっては不利な情報には目をつぶる一方、イギリス軍の状況については正確な情報を把握することもなく、この後も作戦指揮を執り続けることとなる。

ただし、イギリス軍の状況も決して楽観できるようなものではなかった。ドイツ空軍の本格的な攻撃開始以来、イギリス空軍は213機を喪失していたが、他にも事故機や故障機も続出しており、爆撃により一時的に生産力の低下した航空機工場ではその損失の穴埋めを十分にはできず、ダウディングはやむなく予備機に手を付けざるを得なかった。さらに深刻であったのはパイロットの損失で、154人が死傷して戦線を離脱していたが、補充できたのはわずか63人の訓練が終わったばかりの新米パイロットであった[51]。問題解決のため、ダウディングは政治力を発揮し、既に借り受けていたイギリス海軍航空隊の50人のパイロットに加えて、沿岸警備隊や爆撃機隊からパイロットを借り受けるよう交渉した。各航空隊もドイツ軍の本土侵攻が迫る中でパイロットを手離すことに渋ったが、戦闘機パイロットを「子供たち」と呼んで大事にしているチャーチルの口添えもあって、53人のパイロットの借り受けに成功、これらのパイロットはわずか6日間の戦闘機教練だけを受けて、戦闘機隊に配置された[52]

また、各国からの義勇パイロットも集めた。特にポーランド亡命政府pl)とは協定を締結し、ポーランド人パイロットで編成された中隊が参戦した。ポーランド人義勇パイロットは、ヴィトルト・ウルバノヴィチのように、先行してイギリス空軍に入隊して戦っている者もいたが、8月2日に第303コシチュシコ戦闘機中隊が編成され、そこに集められた。その後も順次ポーランド人パイロットによる中隊が編成され、バトル・オブ・ブリテンに参戦したポーランド人パイロットは145人に上り、イギリス帝国の各国を含めても、もっとも多くの外国人パイロットが参戦した国となった[53]

しかしこの後も、戦闘機とパイロットの問題は戦いが激化するに従って深刻度を増していった[52]。ダウディングは少なくなった戦力を最大限に活かすため、ゲーリングとは異なり、敵と味方の状況を冷静且つ正確に判断して新たな戦術を検討した。検討の結果、ドイツ空軍機の航続距離の短さを利用することとし、戦闘機隊をロンドン周辺の飛行場に集結させることとした。これは、航続距離が短いドイツ軍機を、さらにイギリス本土内部深くまで誘い込んで戦いを有利に進めようという意図であった[45]

両軍で作戦の再検討や戦力の再構築が進む中、8月20日にイギリス首相ウィンストン・チャーチルは直感的にタイミングを見計らって、敢闘する戦闘機パイロットを勇気づけるべく下院で有名な演説英語版を行った[54]

Churchill's speech 'The Few' August 20, 1940 House of Commons

  • Sir Winston Churchill(ウィンストン・チャーチル首相)

    Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few.

    All hearts go out to the fighter pilots, whose brilliant actions we see with our own eyes day after day.

    • (人類闘争の戦場で、かつてかくも多くの人が、かくも多くのことを、かくも少ない人に依存したことはありませんでした。全ての人の心は戦闘機パイロットに向けられており、その華々しい活動を毎日その目で見守っています。)
— 1940年8月20日 下院スピーチ[55]

ロンドン誤爆[編集]

ドイツ本土に対するイギリス軍の報復攻撃を記した地図に見入るロンドン市民

8月21日~22日は悪天候のため、ドイツ空軍の昼間空襲は低調であった。第210実験飛行隊のBf 110 C-4/BとBf 109 E-1/Bによる小規模な強襲作戦や船団攻撃が行われた。しかし、夜間爆撃でドイツはフィルトンのブリストル社工場の爆撃に成功した。23日も基地、港湾への攻撃を続行。三日間でドイツが19機、イギリスが6機を損失。

8月24日、早朝から攻撃が開始されたが、この日はドイツ空軍の新戦術が奏功し、イギリス空軍は大損害を被った。ドイツ空軍爆撃機は完全に復帰していないベントナー・サイトの隙をついて、ロンドンを護る内堀的な役割を果たしてきた、イギリス本土南東部の前線飛行場ホーンチャーチ、マンストン、ノース・ウィールドなどを徹底的に叩き、その内堀を埋める作戦をとった。マンストンにはユンカース Ju 88が20機来襲してきたので、ボールトンポール デファイアント緊急発進したが、離陸中に滑走路に爆弾が着弾し、離陸できても上空にはBf 109が待ち構えており、たちまち3機を失った。ボールトンポール デファイアント隊はどうにか戦場を退避してホーンチャーチに着陸しようとしたが、そのときにホーンチャーチにもドイツ軍爆撃機が来襲し、さらに1機が地上で撃破された。マンストンはこの日に4回もの空襲を受け破壊され放棄されることとなった。ダウディングはドイツ空軍の徹底したイギリス本土南東部の飛行場攻撃に対し、このまま南東部から叩き出されやしないかと懸念したが、逆に戦闘機パイロットたちは、窮状を打開するために士気を向上させている[56]。この日は南東部の飛行場に加えて、サウサンプトンとポーツマスの港湾設備も爆撃され、イギリス空軍戦闘機パイロットは休む間もなく何度も迎撃に上がった。ドイツ軍の空襲の中で燃料補給のために着陸し、整備兵が周りに爆弾が着弾するなかで手際よく給油し、そのまま離陸と言った状況で戦い続けた結果、ドイツ軍機38機を撃墜し、イギリス空軍は22機を失った[57]

夜間には、ロンドン郊外のテムズ河口の施設を狙った攻撃があったが、事態はここで予期せぬ大きなターニングポイントを迎える。ドイツ軍爆撃機はテムズ河口に広がる石油タンクと航空機工場を爆撃する予定であったが、170機のHe 111のうち10機が目標を見誤って、ロンドン市街地に爆弾を投下してしまった[58]。この爆撃でロンドン市民9人が犠牲となり、バトル・オブ・ブリテンの勝敗を大きく変える歴史的な錯誤となったのにもかかわらず、ドイツ空軍はその重要性に気が付くことはなく、あくまでも事故として、翌25日にもロンドン郊外7か所の防空指揮所を爆撃した[59]

この度重なるドイツ軍によるロンドン爆撃はイギリス国民を激怒させ、報復の声が上がったが、チャーチルは速やかにベルリンに対する報復爆撃を決定し、同日に80機のウェリントンとハンプデンがベルリンを目指して出撃した。爆撃機パイロットには爆撃目標は軍事施設に限定し、軍事施設を発見できなければ爆弾をそのまま持ち帰る様にと厳命されており、実際に21機が投弾せずに爆弾を持ち帰り[60]、爆撃による死者も出なかったが、首都に鳴り響く高射砲の発射音はベルリン市民に絶大な心理的影響を与えた[59]

イギリス軍飛行場への空襲激化[編集]

メッサーシュミット Bf 110 コクピット内の様子

8月27日はあしか作戦の実行日を決定する日であり、第2航空艦隊のアルベルト・ケッセルリンク元帥とクルト・ベルトラム・フォン・デーリング英語版大将はヒトラーに対して自信満々に「ドイツ軍戦闘機は絶対に優勢である」と報告したが、ヒトラーはドイツ空軍の過大戦果報告を疑っており、作戦の10日間の延期を決定した。ヒトラーはゲーリングに対して、その間にさらにイギリス軍戦闘機隊を叩くように命じた。これで本当にイギリス軍戦闘機隊が弱体化しているかの証明ができるうえ、本当に弱体化しているのであれば、危険なイギリス本土上陸作戦を実施せずともイギリスが屈服するかも知れないという淡い期待もあった[61]

早速27日には広範囲な基地攻撃が行われたが、悪天候で成果がなくドイツ空軍は41機を失い、イギリス空軍は28機を失った。翌日は大規模な戦闘がなく、28日になってドイツ空軍が2波に分かれてイーストチャーチとロックフォードを目標に攻撃、第3波では多数の戦闘機による地上掃射攻撃が行われ、イギリス空軍は散発的に反撃、20機を失い、ドイツは31機を失った。29日にはBf 109とBf 110のみによる大編隊がケント上空でイギリスの戦闘機を誘い出そうとしたが、この日のイギリス戦闘機部隊は第11戦闘機群司令官キース・パーク英語版少将の指示を守って編隊に爆撃機がいないことを確認すると引き揚げた。

30日は戦闘機のみの編隊に戦闘を仕掛けてこないことを見ると、ケッセルリンクは少しずつ爆撃機を混ぜて行かせた。また、Bf 109の航続距離の問題を緩和するため、ドーバーにほど近い基地に集結させた。午前はケンリー、ビギン・ヒルを狙った攻撃で、イギリス空軍もこの日は激しく抵抗した。しかし、ドイツの第3波攻撃が行われる直前に電力供給の不具合で各レーダー・サイトがダウンし、早期警戒機能を失ったイギリス空軍は苦戦した。ドイツ空軍は36機を失ったが、イギリス空軍は26機を失った上、ビギン・ヒルの基地機能を一時的に喪失、レーダー・サイトや交戦指揮所も被害を受けた。ビギン・ヒルはロンドンに近い位置にあるうえ、第11戦闘機群司令部があり特に念入りに狙われた。31日には短時間のうちに何度も低空爆撃を受けて、滑走路は穴だらけになって飛行場の建造物の大半が破壊されて、65人もの死傷者が出た。しかし、パークは大損害を被ったビギン・ヒルを放棄することはなく、生存者を集めると基地機能を復活させた。翌9月1日には、戦闘指揮所では王立婦人空軍の女性兵士たちが、頭上を飛び交う両軍航空機も爆音に怯むことなく戦闘指揮盤に両軍の飛行機を示す駒を並べていたが、そのときこの日6回目の空襲が開始され、1発の爆弾が彼女らが作業していた戦闘指揮所に命中し押しつぶしてしまった[62]

ハインケル He 111を攻撃するスピットファイアの銃弾

同日、ドイツ空軍はビギン・ヒルの他にも、航空機工場も攻撃の対象に加えて、イーストチャーチ、デトリングへの基地攻撃を継続した。夜には夜間爆撃でスワンジー近辺の石油コンビナートが大きな被害を受けた。2日は基地攻撃がさらに強化され、イーストチャーチ、デトリングの基地施設が破壊された。夜間爆撃ではショート・ブラザーズ社やビッカース社の工場が爆撃された。3日~5日もドイツは基地と航空機工場への攻撃を続行したが、戦闘機軍団の司令官ダウディングが航空機工場の防空体制を整えさせたため、戦闘機の量産体制に支障は出なかった。6日にはのパークは航空機工場の優先防衛が各飛行隊に指示された。

8月23日~9月6日の空戦でイギリス空軍は戦闘機295機を失い、損傷で171機が使用不能となり、新規生産や修理で補充された戦闘機は269機だった。パイロットの消耗は引き続き激しく、ダウディングは策なき邪道の用兵と自ら評価したランク付けによる安定化を図った。これは熟練者を上位カテゴリーに振り、空襲を受けやすい南東部の基地へ配属させるものであり、一方で新兵を抱える飛行隊は、戦闘機の護衛がついていない爆撃機の迎撃に振り分けられた[63]。戦闘機やパイロットの損失に加えて、連日の爆撃による地上施設の破壊や地上要員の多くの死傷者もイギリス空軍にとって深刻な問題となっていた。作戦室の多くは爆撃や銃撃で穴だらけになっており、司令部は動揺して崩壊が危ぶまれるほどであった[64]

このドイツ空軍によるイギリス空軍航空戦力殲滅作戦中に、既述のベルリン誤爆事件が発生した。それまではドイツ軍もイギリス軍も互いに、報復合戦による惨状を招かないように攻撃目標について自主規制をしてきたが、ドイツ空軍による誤爆とそれに対するイギリス空軍の報復ですっかりその箍が外れてしまった。29日未明のイギリス空軍によるベルリンへの報復空襲では、ベルリン市街にも多数の爆弾が着弾して、死者10人、負傷者29人の被害が生じると、ついにヒトラーも「チャーチルがこんなに馬鹿だとは知らなかった。この馬鹿さ加減は膺懲に値する」と激怒し、天候が回復次第、ロンドン市街地への集中爆撃をゲーリングに命じた[65]。これは致命的な判断ミスであり、飛行場や航空機工場への爆撃により、積み重なる損害に崩壊寸前であったダウディングの戦闘機軍団は、目標が飛行場からロンドン市街に変更されて救われることとなり、ドイツ空軍の敗北が確定的となる悪手となってしまった。ただ、爆撃に巻き込まれるロンドン市民にとっては厄災となってしまった[66]

ザ・ブリッツ[編集]

ロンドンへの空襲激化[編集]

ロンドンを爆撃するドルニエ Do 17
空襲直後の消防隊

8月30日、ヒトラーはゲーリングに報復の報復として爆撃目標をロンドンに集中するよう指示し、9月4日にベルリン・オリンピアシュタディオンで演壇に登壇すると聴衆に対して吠えた[64][67]

わたしは敵がこの不法行為をやめるかも知れないと考え、待っているが返答がない。これをみてチャーチルは、我々を見くびったのである。敵が我々の都市に大爆撃をくわえることを宣言した以上、我々も敵の都市を撲滅してやろうではないか。我々2人のうち、どちらかが倒れる時期が来るだろう。そして、それはナチス・ドイツではない。

これは戦略的には全く誤った決断であったが、他の多くのヒトラーの独善的な判断ミスとは異なり、この決断に対しては、ゲーリングを始めドイツ空軍の指揮官たちも正しいものと思われて異論をはさまなかった。これは既述の通り、ドイツ空軍指揮官たちは、自軍に楽観的な全く誤った情報を妄信しており、イギリス空軍の戦力はもはや風前の灯火であると誤認していたからであった。そのため、ロンドンを爆撃することにより、イングランド中部及び北部に残っている予備戦力を誘い出すことができ、一気呵成にイギリス空軍戦闘機隊に引導を渡せると考えていた。冬の到来を前にして、ドイツ空軍はヒトラーのイチかバチかの賭けに全面的にのることとなった[64]

9月7日、豪華な専用列車で部下たちと勝利の祝杯を挙げながら、ゲーリングはほろ酔い気分でパドカレーに到着した[68]。ドイツ空軍はこれまでの大損害にもめげず、ロンドンに対する本格的な空襲のため、爆撃機625機と戦闘機648機を準備していた。午後4時過ぎにその大編隊がイギリス本土に向かって飛行していくのをゲーリングはアルベルト・ケッセルリンク元帥と一緒に見送った[69]。まだ日が高い時間帯にはイギリス軍戦闘機隊も激烈に迎撃し、第11戦闘機群、第10戦闘機群、第12戦闘機群から合計11個中隊が出撃し、27機を失いながらドイツ軍機41機を撃墜した[70]

しかし、第2波以降は夜間爆撃となり、この時点では実験的な夜間戦闘機しかなかったイギリス空軍は殆ど迎撃することができず、250機のドイツ軍爆撃機は縦横無尽にロンドン市街を爆撃した[71]。ロンドン市街と郊外には264門の高射砲があったが、高高度から侵入してくるドイツ軍爆撃機に届かず、損害はわずか1機であった。ロンドンは大火災の光で煌々と照らされ、ロンドン市民はまるで沈んだ太陽がまた頭を出したかのような錯覚にとらわれたという。これまで昼間の出撃でイギリス軍戦闘機に苦しめられてきたドイツ軍爆撃機パイロットは、あまりの抵抗の弱さに開戦直後に無防備のワルシャワロッテルダムを爆撃したときのことを思い出していた[72]

イギリス政府の対応のまずさも被害を拡大した。イギリス政府はドイツ軍上陸を警戒するあまり、この本格的な空襲に対し、上陸に対処するために策定された「クロムウェル計画」を発動したため、ロンドン市内には避難を促す大音量の鐘が鳴り響いて市民を動揺させたうえ、工兵隊が上陸部隊対策のため橋を爆破したり、地雷を埋設したりしたため、却って混乱を深めて避難を妨害することとなってしまった。ゲーリングはこの成功で上機嫌となり「ロンドン空襲が開始された。本職が自らこの『バトル・フォア・ブリテン(イギリスへの戦争)』を指揮している」と自慢げにラジオ放送で国民に向けて語っている[69]。翌8日もドイツ軍機は来襲したが、昨日に引き続き、昼間の爆撃よりは夜間爆撃に重きを置いており、ロンドンの火災は消火する暇もなく燃え盛った[73]。この2日間の爆撃により、ロンドンでは民間人842人が死亡し2,347人が負傷するという甚大な損害が出た[69]。ドイツ軍爆撃機のパイロットは、炎上するロンドンを眺めながらこの甚大な損害でさすがにロンドン市民は恐怖に打ち震えていると思ったが、英語を理解できるパイロットがBBCのラジオ放送を聞いたところ、鳩レース英語版の番組を普通に放送しており、このような状況下でのロンドン市民の落ち着きに衝撃を受けている[72]

地下シェルターに避難しているロンドン市民一家

その後もゲーリングはロンドンにドイツ軍機を送り続けた。相変わらず昼間の出撃は激烈なイギリス軍戦闘機の迎撃を受け、9月9日の昼間爆撃に出撃した100機の爆撃機のうち28機が撃墜され、生き残った爆撃機は爆弾をばら撒きながら退却していった[74]。しかし、夜になると様相が一変してドイツ空軍が有利となった。9日、11日、12日、13日に夜間爆撃が行われたが、イギリス軍の反撃は高射砲のみであり、ドイツ軍爆撃機は縦横無尽に暴れまわったが、ロンドン市民の士気は少しも衰えることはなかった[73]。西ヨーロッパが席巻され、ドイツ軍によるイギリス本土侵攻が現実的な脅威となると、イギリス国民は地下シェルターを作り始めた。地下シェルターは家庭用の小さなものから、ある程度のコミュニティーが入れる50人収容のものまで様々なものが作られたが、イギリス政府も堅牢な地下鉄駅を地下シェルターとして開放し、9月7日のロンドン本格爆撃開始以降の数週間で175,000人が避難し、人的被害を抑えることができた[5]

また、“英国人気質”もロンドン市民の士気の向上に繋がった。ロンドン市民は毎日の空襲で強いストレスを感じている筈であったが、同時に現実からどこか一線を引くような冷静さも保っており、これは「ブリッツ・スピリット」(Blitz Spirit)とも呼ばれた。非日常が続くことで、強い連帯感と相互互助の精神が培われたうえ、ロンドン市民の精神は鍛えられて、平時よりも精神病を発症する患者が少なかったという[5]。夜間爆撃があっても、朝になればデパートや商店は普通に開店し、サラリーマンは出勤し、さすがに飲酒こそは規制されていたがパブの来客数は逆に増加し[75]ローズ・クリケット・グラウンドでのクリケットの試合を観戦するため、空襲警報が断続的に出る中でも多数の観客が押し寄せている[76]

ロンドン市民をなかなか追い込むことができないドイツ空軍であったが、逆に積み重なる損害に苦しんでいた。爆撃機の護衛を任されたBf 109は、イギリス上空で20分もいれば燃料残量が帰投ぎりぎりとなるので早々に引き上げてしまい、爆撃機は戦闘機の護衛がない状態でイギリス軍戦闘機に迎撃されて大損害を被っていた。そのため、ドイツ空軍の爆撃機パイロットと戦闘機パイロットに対立が生じたほどであった。しかし戦闘機の損失も激しく、戦闘機パイロットはあまりの消耗の激しさに怯んでいた。ドイツ空軍エースパイロットガーランドはこの時のドイツ軍戦闘機隊の窮状について、戦後に自著で「Bf 109の航続距離の短いことでますます不利になっていった。大隊は1回の出撃ごとに12機の戦闘機を失っていたが、これはイギリス軍戦闘機との空戦によるものではなく、援護している爆撃機が2時間経ってもヨーロッパ大陸に辿り着けないというただそれだけの理由であった。損失のうち5機は燃料がなくなってフランスの海岸に不時着したもので、残りの7機は英仏海峡に墜落したものである」と振り返っている[77]

ドイツ空軍パイロットの士気低下は厳しい戦況だけが原因ではなく、ドイツ空軍パイロットが常に疲労困憊していたことも原因となっていた。ダウディングは自身がパイロットであった経験から、パイロットの疲労が戦闘力を大きく左右することをよく認識しており、第一次世界大戦で航空隊を指揮したときからパイロットの福利厚生に細心の気配りをしており、このバトル・オブ・ブリテンの期間中もその方針が変わることはなかったが、同じパイロットであったゲーリングは、パイロットの福利厚生に関してはまったく無頓着であり、ドイツ空軍パイロットは疲労によって、更に士気も操縦能力も低下して損害を増大させていくという悪循環に陥っていた[42]

イギリス軍はロンドンに攻撃が集中している隙をついて、反撃を強化していた。イギリス軍爆撃機隊とドーバーの岸壁上に配置された長距離砲隊は、英仏海峡のドイツ軍港湾や船舶に向けて砲爆撃を繰り返しており、ドイツ西部海軍部隊本部は、「イギリス軍の砲爆撃があまりに激しいので、オステンドダンケルク、パドカレー、ブローニュの諸港は船舶の停泊が困難となっており、イギリス海軍は英仏海峡で何の支障もなく活動している」という報告をしている[73]。また、夜間爆撃ではイギリス軍戦闘機が殆ど出撃してこないため、ドイツ空軍が一方的に消耗している状況であり、イギリス軍戦闘機隊殲滅の為には、昼間に大規模な空襲を行って誘い出す必要があることや、「ブリッツ・スピリット」を甘く見たヒトラーが「もし大規模な空襲で800万人のロンドン市民が恐慌状態になれば、上陸作戦は不要になるかも知れない」という甘い期待を抱いており、イギリス空軍の息の根を止め、ロンドン市民を恐怖に陥れるために、最大規模のロンドン爆撃の実施が決定された[78]

バトル・オブ・ブリテンデー[編集]

ハインケル He111を攻撃するスピットファイア

9月15日にこれまでで最大規模のロンドン空襲が行われた。ドイツ空軍はこれまでの戦訓から、爆撃機1機につき5機の戦闘機を護衛につけ、迎撃してくるイギリス軍戦闘機隊の殲滅を画策していた[79]。そのようなドイツ軍の動きを敏感に察したチャーチルは、本日がロンドンに対する空襲の山場になると考え、婦人と共に非公式で第11戦闘機群司令部の戦闘指揮所を訪ねた。応対した第11戦闘機群キース・パーク英語版少将も、チャーチルと同様にただならぬ気配を感じており、チャーチルに対して「今日は何が起こるかわかりませんが、今のところは平穏です」と話していたが、その直後にレーダーが英仏海峡の対岸で集合中の大量のドイツ軍機を探知し、チャーチルもパークもレーダーに目を奪われた[80]

ドイツ軍機の集合は、パークに十分な時間的余裕を与えた。やがて午前11時30分に先導のドイツ軍機がイングランド南部の海岸線に達すると、パークは手持ちの21個中隊の戦闘機のうち10個中隊に出撃命令を出した[80]。ゲーリングは現在の手持ちの作戦機の殆どをこの日に投入しており、第一波にはハインケル He111、ドルニエ Do 17に加え、高速の新鋭爆撃機ユンカース Ju 88 合計100機に護衛として400機のBf 109を付けていた[81]。そこでパークはスピットファイアでBf 109を蹴散らしている間、重武装のホーカー ハリケーンで爆撃機を攻撃させる作戦をとった[80]。ドイツ軍爆撃機隊はV字編隊を組んでケント州東方海岸からイギリス本土に進入したが、その瞬間からスピットファイアが機銃を発射しながら編隊に殴りこんできた。護衛のBf 109がすかさず反撃したちまち乱戦になったが、その間にホーカー ハリケーンがドイツ軍爆撃機に襲い掛かった。ドイツ軍爆撃機はホーカー ハリケーンの激しい攻撃により、次々と撃墜されていき、ロンドン上空にようやく達したが、目標をゆっくり選定している余裕はなく、出鱈目に爆弾を投下することしかできなかった。ロンドンに到達してからもホーカー ハリケーンの激しい追撃は続いており、1機のドルニエ Do 17がロンドン・ヴィクトリア駅のすぐ傍に墜落し、ハーケンクロイツアイアンクロスが描かれた破片をまき散らした。そして燃え盛るドイツ軍機はそのままドイツ空軍パイロットの即席火葬場となった[79]。また、別の撃墜されたドルニエ Do 17が公共住宅前に墜落して、その残骸を見た住人たちは歓声を上げた[82]。この第一波の攻撃で、ドイツ空軍は目的を果たすことができず大きな損害を被って撃退された。1発の爆弾がバッキンガム宮殿の女王私室に着弾したが、幸いにも不発弾であった[83]

撃墜されたドイツ空軍爆撃機の残骸に座って本を読むイギリス女子学生

ゲーリングはそれでも懲りずに、午後から爆撃機100機、戦闘機300機をロンドン空襲に差し向けた。午前中激戦を潜り抜けたイギリス軍パイロットは十分な休養を取る暇もなく、再度迎撃に出撃していったが、合計200機以上にもなる友軍の威容に意気が上がり、さほどの疲労感を感じることもなく空戦に突入していった。墜落していく航空機は圧倒的にドイツ空軍のものが多かったが、なかにはイギリス空軍戦闘機もあった。しかし、イギリス空軍パイロットは撃墜された戦闘機から巧く脱出し、パラシュートでロンドン近郊に着陸すると、タクシーをひろって飛行場まで戻り、また新たな機体に搭乗して空戦に復帰した[84]。第2波も撃退されたゲーリングは日没前に第3波も送り込んできた。第3波はロンドン市街地に加えて、ポートランド島ドックも爆撃したが殆ど損害はなかった。3度にも渡った大規模昼間空襲で最も損害を被ったのはドイツ軍爆撃機であった、ただえさえ鈍足のハインケル He111は爆弾を満載してさらに鈍重となっており、イギリス空軍戦闘機の攻撃にまともな回避運動をすることすらできなかった。それでも、戦闘機の護衛があるうちはまだマシであったが、航続距離の短いBf 109は激しい空戦で普段以上に燃料を消費したため、早々に引き返してしまい、爆撃機だけがイギリス軍戦闘機の大群のなかに飛び込むこととなった。それでもどうにかイギリス軍戦闘機をかわすと、ロンドン上空では無数の高射砲の十字砲火を浴びせられ、次々と撃墜されていった[85]

9月15日の日中の戦いはイギリス空軍の勝利に終わった[82]。ドイツ空軍は、大規模なイギリス空軍戦闘機の迎撃を受け、逆にこれを殲滅してイギリス本土上空の制空権が奪取できると意気込み、爆撃機1機に対し5機の戦闘機という手厚い護衛体制でイギリス空軍を待ち受けたが、スピットファイアやホーカー ハリケーンは易々とそれを打ち破り[86]、逆にドイツ空軍は大損害を被ってその目論見は失敗した[87]。夜間になってもドイツ軍機の来襲は続き、181機の爆撃機が満月を背景にしてロンドンに襲い掛かった。しかし、夜間爆撃の精度は低く致命的な損害を被ることはないとパークは割り切って、イギリス空軍パイロットを夜間には出撃させずに休息させて、翌朝の出撃に備えさせた。ロンドン市街は、これまでと同じように大きな損害を受けて、数百人の民間人が犠牲になり、鉄道駅を含む多くの建物が破壊されて街は炎に包まれたが、被害は派手に見えるものの、イギリスの継戦能力に影響を及ぼすものではなく、意味のない破壊であった[79]。空襲の様子は、BBCによってほぼリアルタイムで正確な報道がなされており、ロンドン市民の不安は払しょくされ、次々と撃墜されていくドイツ空軍機を見て士気も上がった[88]

バトル・オブ・ブリテン最大の山場となった9月15日はこれでようやく終わり、のちにこの日は「全戦闘を通じて最も激烈な、最も混乱した、最も広範囲な闘争」とも言われるようになった。チャーチルは終日防空司令部で戦闘を見守った後帰宅したが、パークが「閣下、御覧いただきましてありがとうございました。我々の現有戦力の限度はおわかりになったものと思います。本日は、実に最大限に活躍したのでございます」と誇らしげに見送った[89]。この日のうちにイギリス空軍は戦果をまとめたが、それによればドイツ軍爆撃機125機、戦闘機53機撃墜の大戦果であった。この戦果報告は翌朝出勤してきたチャーチルに報告され、チャーチルはすぐにイギリス空軍にお祝いの言葉を送っている[79]。しかし、実際の撃墜数は60機で、それに対するイギリス空軍の損害は戦闘機25機でパイロットの戦死は12人に止まった。前述の通り、航空機の損失数差よりも、ドイツ空軍のパイロットは遥かに大きな損失を被っていた。撃墜されたパイロットの戦死、行方不明に加えて、撃墜を免れどうにか生還した損傷機で多くの死傷者も生じていた[90]。この日の大損害で、ゲーリングは日中の大規模なロンドン空襲を諦めざるを得なくなり[91]、また、空襲によってイギリス国民を屈服させることはできないと認識させられた[86]。そして、この輝かしい勝利の日となった9月15日は、 バトル・オブ・ブリテンデー英語版として、毎年祝われるようになった[92]

イギリス空軍の勝利[編集]

撃墜されたドイツ軍爆撃機の残骸

挫折感を味わったゲーリングであったが、依然として表面上は強気であり、翌日の9月16日には専用列車でブローニュに移動すると、集めたドイツ空軍将官たちを前に「現在でもなお4日間好天が続けば、ドイツ空軍はこれまでつかみそこなってきた制空権を獲得することができる」と豪語した。これまでの苦戦でそれが困難であることを痛感していたドイツ空軍将官たちは、それを口にすることを避けて、そのゲーリングの空虚な強がりを絶賛し、会合があった専用列車内は媚びへつらいの言葉で充満した[89]。しかし、強気な戦況判断とは裏腹に、9月17日に開催されたヒトラーとゲーリングの会議では、イギリス本土上陸作戦を実行できる段階にはないという判断となり、ヒトラーは「アシカ作戦」の無期限延期を決定した[86]

その後も、ドイツ空軍は規模を次第に縮小しながらも、ロンドンやその他航空機工場や港湾などの戦略施設に爆撃を加えた。爆撃機の損害が大きすぎたことから、Bf 109やBf 110を爆装した戦闘爆撃機も投入した[93]。バトル・オブ・ブリテンデー以降の最初の空襲は9月18日で、休養十分のイギリス空軍戦闘機の17個中隊が出撃し、損害なく36機撃墜を報告したが、実際のドイツ空軍の損失は19機であった。ドイツ空軍の来襲が下火になると、イギリス空軍は反撃を開始し、9月19日にはイギリス軍爆撃機がフランス沿岸を攻撃し、上陸作戦のためにドイツ軍が準備していた艦船のうち12%を撃沈・撃破したうえ、生き残った艦船も英仏海峡沿岸からの退避を余儀なくされ、ドイツ軍のイギリス侵攻をほぼ不可能にしてしまった[92]

バトルオブブリテン75周年航空ショー

9月23日にドイツ空軍は260機でロンドンを夜間空襲したが、イギリス軍はその反撃として119機でベルリンの兵器工場を夜間爆撃した。ベルリン爆撃の実際の効果はほとんどなかったが、規模は小さくなったとはいえ爆撃を受け続けるロンドン市民は、敵首都への反撃で多少ではあるが溜飲を下げることができた[94]。しかし、ドイツ軍は以前のようにイギリス軍の挑発にはのらず、報復のロンドンに対する大規模爆撃はせずに、イギリスの航空機工場に対する精密爆撃を行ってきた。9月24日には、これまでドイツ空軍を散々苦しめてきたスピットファイアを主任設計技師レジナルド・ジョセフ・ミッチェルが開発した、スーパーマリン社サウサンプトン航空機工場をドイツ軍戦闘爆撃機が奇襲した。生産設備には大きな損害はでなかったが、スーパーマリン社幹部が避難していた防空壕に爆弾が命中し、同社幹部100人が死傷した。翌日にはブリストルの航空機工場が襲撃され、工場設備に大きな損害と死傷者250人が生じた。ここに至ってダウディングが懸念していた、航空機工場に対する攻撃が本格化してきたが、しかし、ゲーリングはこの方針を徹底することはできず、9月27日にロンドンに対する大規模な昼間爆撃を行ってしまう[95]

9月27日の大規模空襲は、効果を上げつつあった戦闘爆撃機による精密爆撃ではなく、真昼間に多数の爆撃機がそれを上回る数の護衛の戦闘機と堂々の大編隊を組んで進撃するという作戦に立ち戻ってしまったが、この作戦は9月15日にイギリス空軍の前に惨敗を喫しており、今回もその脆さを露呈してしまった。ロンドンとブリストルに向かったドイツ軍機合計380機のうち、15%にあたる55機が撃墜されてしまった。損失機数は9月15日より少なかったが、損失率は大きく上回った。一方でイギリス空軍の損害は28機であった[86]。さすがにこの惨敗により昼間の大規模なロンドンへの空襲は最後となったが、その後もドイツ空軍による散発的な空襲は続いた。攻撃の主力は戦闘爆撃機となり、ロンドンの市民は夜間空襲の脅威から解放されることはなく、ザ・ブリッツは9月7日から8か月間267日間に渡って続き、その間ロンドンは57日間も連続して空襲され、その回数は合計で71回にも達した[5]。もっとも激しかった7月から10月の間には、高性能爆薬13,785トン、焼夷弾14,385トンがロンドンに投下された[96]。終戦が近づいたころにはドイツ軍機に代わって、飛行爆弾V1弾道ミサイルV2ロケットなどがロンドン市民の生活を脅かした[86]

イギリス本土に対する空襲により、イギリス国民43,000人が死亡し[5]139,000人が負傷、60万戸の住宅が破壊されたが[5]、ついにゲーリングは空襲でイギリス国民を屈服させることができなかった。ドイツの外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーは、「イギリス人を煙でいぶりだすことは重要な武器ではない」と空襲の効果を否定的に見ており、「海上封鎖による飢餓こそが、イギリスに対するもっとも重要な武器である」とUボートによる通商破壊戦がイギリスを屈服させることができると述べており、この後のイギリスを屈服させる戦いは空の戦いから大西洋の戦いへと比重を移していくこととなった[97]

バトル・オブ・ブリテンで、ドイツ空軍は開戦以来初めて持てる力のすべてを注ぎ込んだが、所詮は戦術的な空軍であり、戦略的な運用は不得手なこと[98]、また戦術的運用を想定して開発された脆弱な爆撃機に航続距離の短い戦闘機が主力兵装であるといった自らの弱点をさらけ出しながら惨敗した。損害も甚大であり、作戦機1,918機と[1]パイロット2,662人を失った[1]。そして失われたパイロットはこれまでドイツ空軍の栄光を支えたベテランパイロットであり、ドイツ空軍はこの痛手から立ち直ることができず『無敵ドイツ空軍』の神話は永久に打ち破られてしまった[98]

また、純軍事的な視点以外でも、ドイツ軍が都市爆撃に固執した結果、一般市民に対する無差別爆撃は世界世論の反感を買って、世界中の世論の反感を買い、世界中の人々の心を駆り立ててイギリス支持に向かわせ、イギリス国民もヒトラーやゲーリングの思惑とは全く逆の反応で、戦争に対する決意を固めさせることになってしまった[99]

イギリス空軍の多国籍パイロット[編集]

スタニスワフ・スカルスキ
国籍 パイロットの数
ポーランド 145–147
ニュージーランド 101–115
カナダ 94–112
チェコスロヴァキア 87–89
ベルギー 28–29
オーストラリア 21–32
南アフリカ 22–25
フランス 13–14
アイルランド 10
アメリカ 7–9
南ローデシア 2–3
ジャマイカ 1
パレスチナ 1
バルバドス 1

バトル・オブ・ブリテン勝利の大きな要因として、外国人パイロットたちの多大な貢献があった。イギリス空軍は減少していくイギリス人パイロット人員を補うものとして、イギリス連邦諸国やイギリスの植民地さらには外国人パイロットを当初から受け入れていた。イギリス空軍名誉戦死者名簿には510人の外国人パイロットが1940年7月10日~10月31日にイギリス空軍あるいはイギリス海軍航空隊の正規部隊でそれぞれ少なくとも1回の正規出撃をしたと認定されている[100]

ポーランド人
1940年6月11日ポーランド亡命政府pl)はイギリス政府と協定を締結、イギリスで自由ポーランド陸軍ポーランド空軍を編成、1940年8月に2個(最終的には10個)のポーランド人戦闘機中隊が参加、バトル・オブ・ブリテンには4個中隊(第300爆撃機中隊、第301爆撃機中隊、第302戦闘機中隊、第303戦闘機中隊)が投入され、89人のパイロットが参戦。さらに50人以上がイギリス空軍飛行中隊で戦い、全部で145人以上が参戦した。ポーランド人は最も老練なパイロットたちで、すでにポーランドの戦争フランスの戦争で実戦経験を積んでいたほか、戦前には高度な訓練を受けていた。ポーランドの英雄タデウシュ・コシチュシコ将軍に因んで名づけられた第303コシチュシコ戦闘機中隊は、8月30日(公式には8月31日)になってから参戦したにも拘らず126機を撃墜、バトル・オブ・ブリテン期間の全戦闘機中隊のなかで最高の記録を挙げた。イギリス側の全パイロットの5%にすぎないポーランド人が、バトル・オブ・ブリテン期間中の全撃墜記録の12%を叩き出した。
チェコスロヴァキア人
多くのチェコスロヴァキア人パイロットも投入された。第310戦闘機中隊と第312戦闘機中隊である。他の連合国軍部隊に配属された者を合わせて、87人以上のチェコスロヴァキア人がイギリスの空を守った。そのうちの一人、ヨセフ・フランティシェクはチェコスロヴァキア人と共に行動することを嫌ってポーランド人の第303コシチュシコ戦闘機中隊に加わり、不慮の事故で殉職するまでに敵機17機を撃墜して、バトル・オブ・ブリテンにおける最高のエース・パイロットとなった。
アイルランド人
バトル・オブ・ブリテンに参加したイギリス空軍パイロットのうちで特筆すべきは、1942年7月に戦死するまでに32機の撃墜記録を挙げたアイルランド人エース・パイロットブレンダン・フィニュケインPaddy Finucane)である。彼は1940年8月12日Bf109を仕留めて初の撃墜記録を挙げ、翌日にもう1機の Bf109 を撃墜した。1941年にはオーストラリア人部隊の第452戦闘機中隊 (452 Squadron) に加わり、51日間で16機の Bf109 を撃墜した。パディと呼ばれた彼は1942年6月27日に21歳でホーンチャーチを基地とする戦闘機部隊の指揮官となった。これはイギリス空軍で最も若い飛行隊指揮官であった(Wing Commander)。早くに戦死したにも拘らず、イギリス空軍エース・パイロットのうちでは2番目となる撃墜記録を挙げた。
カナダ人
80人のカナダ人が参加、26人がダンケルクの戦いの直後にイギリスに到着したカナダ空軍第一戦闘機中隊に所属しており、そのうち16人がイギリス空軍第242「カナダ人」戦闘機中隊に所属して出撃、残りは他のカナダ人たちとイギリス空軍の各飛行隊に配属された。幾人かのカナダ人は他の部隊に分散配置され、そのうちの1人はポーランド人の第303コシチュシコ戦闘機中隊に所属し、1人は南アフリカ人の第74戦闘機中隊に所属した。他に200人のカナダ人航空兵がイギリス空軍爆撃機軍団en)やイギリス空軍沿岸軍団en)で戦った。
オーストラリア人
イギリス連邦の構成国のオーストラリアはいつもイギリスを支える立場にあり、1939年にドイツとの戦争が始まるとロバート・メンジーズ首相はすぐに軍を派遣しイギリスの戦いを支援した。しかし1941年12月に日本とイギリス、オーストラリア間が開戦した後に、瞬く間に日本軍がマレー半島香港をはじめとするアジアにおけるイギリスの植民地を制圧したのみならず、インド洋の制海権を握ったためにイギリスとオーストラリア間の交通が滞り、さらに1942年2月から1943年11月にかけて日本軍がオーストラリア本土を空襲したことから本土防衛に専念せざるを得なくなり、オーストラリア人の多くはバトル・オブ・ブリテンに参加できなかった。
パレスチナ人
イギリス空軍名誉戦死者名簿には1人のパレスチナ人がバトル・オブ・ブリテンに参加したと記録されている。ジョージ・アーネスト・グッドマン少尉(42598)はパレスチナ(現イスラエル)のハイファ出身だった。彼の貢献は「イスラエル人の貢献」とも紹介されることがある。グッドマン少尉の両親はユダヤ系イギリス人で、彼本人はイギリスの国籍を持ち、ハイゲート・スクールHighgate School)で教育を受けた。なお彼はパレスチナ人でもイスラエル人でもなく、イギリス人航空兵と看做されることもある。
アメリカ人
イギリス空軍はバトル・オブ・ブリテンにおいて7人のアメリカ人の参加を認定している。イーグル飛行中隊Eagle squadron)として知られるアメリカの義勇兵で編成された3個戦闘機中隊(第71イーグル戦闘機中隊、第121イーグル戦闘機中隊、第133イーグル戦闘機中隊)もイギリス空軍と共に戦ったが、最初の部隊が参戦したのはバトル・オブ・ブリテン後の1941年2月になってからで、それも昼間攻撃が終わった後の出撃だった。アメリカ参戦後、これら戦闘機中隊は1942年9月にアメリカ第8航空軍第4戦闘航空群に移管された。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ドイツ空軍独特の名称。様々な機種を組み合わせていることによる

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m THE BATTLEDates: 10 July – 31 October 1940”. N A Webb. 2023年8月20日閲覧。
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  5. ^ a b c d e f g ロンドン市民を戦火から守ったエア・レイド・シェルター”. Eikoku News Digest Ltd. 2023年8月20日閲覧。
  6. ^ 有江浩一、山口尚彦「米国におけるIAMD(統合防空ミサイル防衛)に関する取組み」『防衛研究所紀要』第20巻第1号、防衛省、2017年12月22日、37-61頁。 41頁に「米太平洋空軍のケネス・ドーナー(Kenneth R. Dorner)らは、IAMDが発展した事例として第二次世界大戦における英国本土航空戦(Battle of Britain)を挙げ」とある。
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  100. ^ Battle of Britain Roll of Honour, www.raf.mod.uk(英語)

参考文献[編集]

  • ハンソン・ボールドウィン『勝利と敗北 第二次世界大戦の記録』木村忠雄(訳)、朝日新聞社、1967年。ASIN B000JA83Y6 
  • アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45(上)』平賀秀明(訳)、白水社、2015年。ISBN 978-4560084359 
  • アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45(下)』平賀秀明(訳)、白水社、2015年。ISBN 978-4560084373 
  • エドワード・ビショップ 著、山本親雄 訳 訳『栄光のバトル・オブ・ブリテン―英本土航空決戦』産経新聞社〈第二次世界大戦ブックス41〉、1972年。ASIN B000J9H4TC 
  • ベッセル, リチャード 著、大山晶 訳『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』中央公論新社、2015年。ISBN 978-4121023292 
  • 児島襄『第二次世界大戦・ヒトラーの戦い 第3巻 ポーランド電撃戦』小学館、1979年。ISBN 978-4093610032 
  • 野中郁次郎戸部良一、鎌田伸一、寺本義也杉之尾宜生村井友秀『戦略の本質 戦史に学ぶ逆転のリーダーシップ』 日本経済新聞社、2005年
  • 飯山幸伸『英独航空戦 - バトル・オブ・ブリテンの全貌』 光人社、2003年 ISBN 4-7698-2374-6

イギリス空軍

  • ジョン・ベダー 著、山本親雄 訳 訳『スピット ファイア―英国を救った戦闘機』産経新聞社〈第二次世界大戦ブックス16〉、1971年。ASIN B000JA3E04 
  • J.E.Johnson『編隊飛行』子出英一(訳)、 朝日ソノラマ、1983年
  • Len Deighton『戦闘機:英独航空決戦』内藤一郎(訳)、早川書房、1983年
  • Alfred Price『戦うスピットファイア』大出健(訳)、 講談社、1984年 ISBN 4-06-187228-1
  • Richard Hough / Denis Richards『バトル・オブ・ブリテン:イギリスを守った空の決戦』川合裕(訳)、新潮社、1994年、ISBN 4-10-243001-6
  • Malcom Brown Spitfire Summer, When Britain stood alone Carlton Books, 2000 ISBN 1-84222-043-8

ドイツ空軍

市民生活

  • 工藤信一良、毎日新聞社ロンドン支局長 『悶ゆる英国』 成徳書院、1943年
  • Constantine Fitzgibbon(著) London's Burning(ロンドンは燃えている), 1970年
  • Ben Wicks 『ぼくたちの戦争:イギリスの学童疎開』 ありえす書房都留信夫 / 都留敬子(訳)、1992年、ISBN 4-900535-04-4
  • Colin and Eileen Townsend 『スミス婦人たちの戦争:第二次世界大戦下のイギリス女性』 近代文藝社、1993年、ISBN 4-7733-1733-7
  • Laura Wilson Daily Life in a Wartime House Hamlyn Childern's Books, 1995年, ISBN 0-600-58694-4

関連作品[編集]

映画

テレビドラマ

  • イアン・トレイトン監督 『バトル・オブ・ブリテン』 イギリス、1988年、原題:Piece of Cake

音楽

関連項目[編集]