サイパンの戦い

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サイパンの戦い
LVTs heading for shore.
日本軍の激しい攻撃の中でサイパン島に上陸するアメリカ海兵隊
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日:1944年6月15日から7月9日
場所マリアナ諸島サイパン
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
十六条旭日旗の旗 斎藤義次中将
Naval Ensign of Japan.svg 南雲忠一中将
アメリカ合衆国の旗 レイモンド・スプルーアンス大将
アメリカ合衆国の旗リッチモンド・ターナー中将
アメリカ合衆国の旗 ホランド・スミス中将
戦力
31,629[1] 66,779[2]
損害
戦死 約30,000
捕虜 921
民間人死者8,000~10,000
戦死 3,441
戦傷 11,685[3]
マリアナ・パラオ諸島の戦い

サイパンの戦い(サイパンのたたかい)は、太平洋戦争大東亜戦争)中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍日本軍マリアナ諸島サイパン島における戦闘斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団第4海兵師団第27歩兵師団英語版が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日~20日)が発生した。

背景[編集]

日本軍の事情[編集]

南雲中将以下海軍守備隊幹部

1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)前半にかけて連合国軍はソロモン諸島ギルバート諸島マーシャル諸島に侵攻し、ニューギニア島北岸を東から西へと飛び石作戦で攻略しつつ、カロリン諸島パラオ諸島マリアナ諸島へ迫った。

マリアナ諸島は、アメリカ軍の新型爆撃機B-29が展開すれば東京など日本本土の大部分を攻撃圏内に収めることができる位置にあるため、戦略的に重要であった。アメリカ軍は中国の成都市にもB-29を進出させており、1944年6月16日の八幡空襲を皮切りに日本本土空襲を開始する直前の状態であったが、成都からでは九州など西日本の一部しか攻撃できなかった。もし、マリアナからの本土空襲が始まれば日本は関東の工業地帯を破壊され、さらには民間人に大量の死者を出すことや国民の士気が低下して戦争継続が困難となることが予想された。

日本軍もマリアナ諸島の重要性は認識しており、1943年9月末に大本営絶対国防圏を定め、サイパン島をその中核拠点とした。日本海軍は絶対国防圏よりも遠方での艦隊決戦を重視したため、マリアナ諸島の防備強化はなかなか進まなかったが、アメリカ軍の侵攻が差し迫った1944年初頭になって慌てて防備強化が図られた。サイパン島にも南部にアスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)、西岸タナパグ水上機基地、最高峰タッポーチョ山(標高473m)に電探を置くなど、軍事施設を整備していった[4]

一方、海軍の担当地域であり、また補給上の観点からも、それまでは太平洋正面への大規模な兵力派遣を嫌がっていた日本陸軍も、中部太平洋の島嶼に大陸、日本本土から旅団師団規模の部隊の展開を本格的に開始する。マリアナ諸島には関東軍から第29師団 (師団長:高品彪中将)が送られたが、この時期になるとマリアナ諸島の防衛は1個師団で事足りるとは考えられなくなっており、松輸送の名の下に本土から第43師団(師団長:斎藤義次中将)などがサイパンに派遣された。松輸送は期待以上の成功を収め、戦車連隊や第43師団の第一陣は無事到着した。しかし敵潜水艦の雷撃によって第43師団の第二陣を輸送中の第3530船団は大損害を受け、サイパンに到着できたのは歩兵第18連隊で半分にも満たず、歩兵第118連隊は丸腰の将兵が1/3だけなど、戦場に辿り着く前に約1万名が大量の物資と共に海の藻屑と消えた。 現地で増援部隊の一部は再編成され、独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐)が編成されている。海軍の陸上部隊としては、第5根拠地隊の下に第55警備隊(司令:高島三治大佐)などが置かれている。

日本陸軍は1944年2月25日に第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成、マリアナ諸島やカロリン諸島西部の指揮を担当させることにした。第31軍は司令部をサイパン島に置いて、テニアン以北を担当する北部マリアナ地区集団(指揮官:斎藤義次第43師団長)と、ロタ以南を担当する南部マリアナ地区集団(指揮官:高品彪第29師団長)を持ち、マリアナ方面の防備を担当する海軍の連合艦隊司令長官の指揮下に入って、中部太平洋方面艦隊(司令長官:南雲忠一中将)の指揮を受ける形式になったが、実際には陸海軍部隊の指揮はそれぞれの司令部により行われた。第43師団は北部マリアナ地区集団に組み込まれてサイパン守備を受け持ち、第29師団は南部マリアナ地区集団の主力としてグアムに配置された[5]。 このほかサイパン島には海軍部隊の司令部が多く置かれており、第六艦隊司令長官の高木武雄中将、第1連合通信隊司令官の伊藤安之進少将、第3水雷戦隊司令官の中川浩少将、南東方面航空廠長の佐藤源蔵中将ら高級指揮官が集中していた。

こうしてマリアナ諸島には大本営が満足すべき兵力が展開できつつあった。 日本軍の守備計画は、水際作戦による上陸部隊撃破に主眼が置かれていた。山がちなサイパンは断崖続きで周囲をリーフに覆われており、大部隊の上陸に適している平坦な海浜は南部西岸に位置するガラパンからチャラン・カノアまでの約40kmに渡る海岸線しかない。そのため、この海岸地帯への防衛線構築が優先され、戦車などを投入した大規模な反撃も計画していた。サイパン島の兵力密度は1平方キロメートル当たり約236名、上陸可能な海岸に対する火力密度は1キロ当り6.5門となり、大本営陸軍部参謀本部)作戦課長の服部卓四郎大佐は「たとえ海軍航空がゼロになっても敵を叩き出せる」と称した[5]

確かに絶対国防圏が設定されてからサイパンには地上部隊が五月雨式に送り込まれていたのだが、実際はアメリカ軍潜水艦のウルフパックにより輸送中の部隊や物資が海没したり、到着した部隊もパラオやテニアン、グアムなどに転用されることが度々であった。 さらに日本海軍は築城よりも飛行場の建設、整備を重視したため、早期に到着した部隊もアスリート飛行場の拡張や北部のパナデル飛行場の建設に駆り出されることが多く、潜水艦攻撃で補給が滞ってただでさえ少ないセメントや鋼材などの資材も飛行場に優先されて、陣地造営へ充てる人的、物的余裕はなかった。

中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワマーシャルトラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがあった。日本海軍は、アメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬頃に西カロリン、そしてパラオへと侵攻し、それからパラオを経由して次にフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、敵艦隊に決戦を挑み撃破して戦局の転換を図るとした「あ号作戦」を5月20日に発令、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、マリアナ諸島にも零式艦上戦闘機(サイパンに第261海軍航空隊第265海軍航空隊、テニアンに第343海軍航空隊、グアムに第202海軍航空隊第263海軍航空隊)、月光(テニアンに第321海軍航空隊)、彗星(テニアンに第121海軍航空隊第523海軍航空隊)、天山(グアムに第551海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(テニアンに第761海軍航空隊、グアムに第755海軍航空隊)、銀河 (グアムに第521海軍航空隊)が分遣された。 日本側の予想に沿うように5月27日、西部ニューギニア沖合のビアク島にアメリカ軍(ダグラス・マッカーサー大将率いる連合国南西太平洋軍)が上陸したので、日本軍は渾作戦を発動し海軍第一航空艦隊の大部分をビアク島周辺へ移動、合わせて大和武蔵戦艦部隊を送ってアメリカ上陸支援艦隊を撃退しようとした[6]

これらは、日本陸海軍上層部の多くが「アメリカ軍はいずれマリアナに来るが、それはパラオに来寇した後で、時期としては1944年末」と見ていたことに起因する[4]海軍乙事件が発生する前の古賀峯一連合艦隊司令長官新Z号作戦を策定しており、マリアナ諸島~西カロリン~西部ニューギニアに邀撃帯を設けて、ダグラス・マッカーサー軍とチェスター・ニミッツ軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとしていたが、海軍乙事件の連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定と、帯よりも三角地帯で迎撃する方が艦隊決戦を行うには都合が良いという主観的判断で、作戦構想が見直されて軍令部が中心となって「あ号作戦」として決戦構想がつくられた[7]。 これら大本営の間違った情勢判断から、主力の第43師団がサイパンに到着して配置が決まったのがアメリカ軍上陸の僅か20日前であり、簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しかなかった。

日本の委任統治領だった関係でサイパン島には日本の民間人多数が戦前から居住しており、情勢の悪化に伴い5000人が本土へ疎開したものの、約2万人がアメリカ軍上陸時にも在島していた(詳細は#島民及び日本人入植者で後述)

アメリカ軍の事情[編集]

1943年、アメリカはアリューシャン方面の戦いソロモン諸島の戦いで日本に対して反攻を開始、8月のケベック会談において中部太平洋を西方に侵攻していく作戦案をイギリスのウィンストン・チャーチル首相に発表、11月ガルヴァニック作戦としてアメリカ海兵隊などが日本の占領するギルバート諸島へ上陸した。 それまで日本に対する反攻ルートとして、アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将率いる連合国南西太平洋軍がソロモン諸島ニューギニア島ミンダナオアメリカ海軍チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍がハワイ - トラック諸島パラオルソンと、2方面での進攻を企図していたが、ガルヴァニック作戦が実施された頃からアメリカはマリアナ進攻を検討し始める。 それは「マリアナを経由して台湾を目指し、中国大陸沿岸部に到達すれば、日本本土と南方の間のシーレーンを遮断できる。日本は中部太平洋への航空機、船舶の中継、補給拠点としてマリアナを活用しており、ここを押さえればカロリン諸島、パラオ、フィリピン、ニューギニアへの補給を絶てる。」とのアーネスト・キング海軍作戦部長の主張によるものであった。

アメリカ統合参謀本部で、陸軍、陸軍航空軍、海軍の参謀たちが会議を繰り広げた末、1944年3月にフォレイジャー作戦としてマリアナ侵攻が決定した。なおフォレイジャー作戦が練られ始めた当初は、マリアナ諸島を日本本土への爆撃拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、これはキングが自説を軍事作戦化させるのに陸軍航空軍を味方にするため、作戦実現のメリットに日本本土への爆撃機基地を得ることを付け加え、それが反映されて立案されたものである[4]

チェスター・ニミッツ大将の連合国太平洋軍司令部は翌4月から作戦準備に入り、航空機からの空撮、潜水艦で沖合からの海岸撮影など偵察を繰り返し、日本側の暗号電報や海軍乙事件で入手した機密書類で得た情報を総合的に分析していく。 サイパンの日本人は3万人で内戦闘員は1万前後だが、上陸実行時には守備隊は1万5千~1万8千に増強されていると推定[4](実際は陸軍が約2万8千、海軍が陸戦隊と兵站部隊で約1万5千とアメリカの推定よりもかなり多かった)、対するアメリカ軍上陸部隊は第2海兵師団第4海兵師団で約7万1千、他に陸軍第27歩兵師団英語版など2.5個師団分を予備兵力として準備しており、また艦砲射撃、戦車、バズーカ、航空機の地上支援など火力と物量で圧倒し、日本軍兵数に関する推定と実際の誤差など問題にならないほど大兵力を集中させていた[6]

主要戦闘経過[編集]

前哨戦[編集]

チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結した。5月30日、千早猛彦海軍大尉の操縦でナウル基地を飛び立った日本海軍の偵察機彩雲が、これを確認した。6月5日、彩雲で再びマジュロ環礁を偵察し、アメリカ軍が出撃準備を急いでいることを確認した。しかし、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強した。これは、直前の5月27日から始まったビアク島の戦いが続いていたため、ビアク島から遠いマリアナ諸島最北端のサイパンに上陸する可能性は小さいと思われたからである。第31軍司令官の小畑中将も、5月28日からパラオへ作戦指導のため出張している。6月9日、彩雲による3度目のマジュロ環礁の偵察をしたが、既にアメリカ軍は6日にサイパンに向け出撃しており、その姿はマジュロ環礁から消えていた。

6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。これにより水際にあった日本軍の陣地は半壊し、サイパン基地の航空機は20機を残し撃破された。(その20機は後日、飛行場を占領したアメリカ軍にそのまま鹵獲される)在泊中の日本艦船は脱出を図ったが、そのうち最大の第4611船団はほぼ全滅した。

このサイパン島への侵攻は、パラオ方面への侵攻を予想していた日本軍を驚かせた。小畑軍司令官は急いでサイパンの軍司令部へ帰還しようとしたが、既にサイパン島周辺はアメリカ軍の制空権下となっていたため不可能で、小畑軍司令官はグアム島から指揮を執ることになった。軍司令官不在の第31軍司令部は、井桁参謀長が責任者となって作戦指導を行ったが、少将である井桁参謀長が中将である斎藤第43師団長を指揮するという変則的な形となった。

6月15日早朝にアメリカ軍サイパン上陸の報に接した大本営並びに連合艦隊は、直ちに指揮下全部隊に対し「あ号作戦決戦発動」を下令した。基地航空隊と機動部隊で来寇アメリカ機動部隊を撃滅し、次いでサイパン攻略部隊も全滅させようという計画であった。[8] 豊田副武連合艦隊司令長官は全軍に対し『皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ、各員一層奮励努力セヨ』と宣し、士気を鼓舞した。第一機動艦隊もフィリピンのギマラスよりマリアナに向けて出撃し、6月18日~19日の艦隊決戦を予想していた。[9]

海軍はマリアナ、西カロリン、パラオ、フィリピン南部に基地航空隊の第一航空艦隊約650機を展開していたが、ビアク島にアメリカ軍が上陸するとそのほとんどを西部ニューギニア方面に進出させて、ビアク島周辺の作戦で430機まで消耗していた。またパイロットの多くもマラリアやデング熱に罹っていて、アメリカ軍のサイパン上陸に対してマリアナへ急行、迎撃できたのは100機そこそこだった。[6]

水際撃滅[編集]

アメリカ軍の上陸地点、海兵2個師団の4個連隊が初日に上陸している

大本営はマリアナに来寇してきたアメリカ軍は、空母9隻、戦艦9隻を基幹とするもので、上陸兵力は1~2個師団と判断し、『この堅固なる正面に猪突し来れるは敵の過失』として、守備隊の勇戦敢闘で撃退できると確信し、[10]東条英機参謀総長内閣総理大臣陸軍大臣の三職兼務)も昭和天皇に対して「サイパン、テニアン、グアムは確保できる」と、絶対の自信を披瀝するほどであったが[6]、日本側の来襲したアメリカ軍に対する戦力判断は過小評価であった。

6月15日7時15分にアメリカ軍は、第一波の大型上陸用舟艇70隻、小型100隻、LVT68両が、上陸支援艦24隻の支援射撃の下にチャラン・カノア南北の海岸に殺到した。同海岸を守っていた日本軍歩兵2個大隊は連日の砲爆撃で大損害は被っていたが、上陸部隊に対し激しい集中砲火を加えた。特に九六式十五糎榴弾砲大隊(大隊長 黒木少佐)は砲爆撃による損失は一門もなく、絶大な威力を発揮した。[11]日本軍の激しい砲撃でLVT68両の内50両近くが撃破されている。[12]

6月11日から続いた上陸までの激しい艦砲射撃で地上に暴露していた陣地施設等は殆ど破壊されてしまっていたが、しかし掩蓋をかけたり地形を巧みに利用した陣地の多くは健在であった。また多数設置していた偽陣地に砲撃が分散したのも艦砲による被害を減少させる要因となった。 [13] 健在であった海岸砲は艦砲射撃をしている艦船に応射を行い、戦艦テネシーの5インチ砲を1門撃破し死傷者35名、[14]戦艦カリフォルニア損傷させ死傷9名、駆逐艦ブレイン損傷させ戦死3名、負傷者多数の損害を与えている。[15]

アメリカ軍は138,891発8,500トンの艦砲射撃を行い、海岸陣地をもっと弱体化できたと考えており日本軍の猛烈な反撃は全くの予想外だった。 アメリカ軍による自らの艦砲射撃についての評価は、かなりの成果を挙げてアメリカ軍の勝因の最有力なものの一つとなったとの前向きな評価をしつつも、[16]上陸当日、海岸線で日本軍の猛烈な反撃を被る事となった為、サイパン戦での艦砲射撃の効果は「不十分」であったとも分析し、

  • 準備砲撃期間が短く、目標が多かった
  • 空中観測の訓練が不十分
  • グアム戦を見越して弾薬を節約していた
  • 日本軍火器の偽装と陣地変換が巧みであった

との反省点を挙げている。[17]

連合国太平洋軍最高司令官チェスター・ニミッツも「上陸地点に向けられた不十分な砲火だけではあまりにも不徹底であり、海岸の背後や両翼陣地には、丘陵地帯にガッチリ据えつけられた多数の火砲や機銃が無傷で残っていた。」と回想している。[18]

一方で、日本軍側より見た艦砲射撃の効果は、アメリカ軍の捕虜となった兵士の尋問により「艦砲射撃による戦死者のあまりの多さにぞっとした」「艦砲射撃が最も恐ろしかった」「アメリカの最大の勝因は艦砲射撃」との証言あり、かなりの脅威となっていた事が窺がえる。[19]

その後もアメリカ軍は第四派までを次々に海岸に向けて送り込み、その合計はLVTと上陸用舟艇で700両、兵員は8,000名に達していたが、上陸開始からわずか1時間でアメリカ軍の死傷者は4名の大隊長も含めて1,000名を超えていた。[20]

第43師団斎藤義次師団長はアメリカ軍の上陸を受けて、戦闘指揮所を前線により近いヒナシス山付近に前進させ、自ら第一線の戦闘を指揮した。また水際逆襲の為に戦車第9連隊第5中隊(吉村中隊長)などの戦力を第二線に集結させた。[21]

激しい日本軍の射撃に死傷者続出のアメリカ海兵隊

11時までには上陸したアメリカ第2海兵師団は多数の死傷者を出しながら、前線を400フィート(365m)進めたが、リーフ上では後続部隊が日本軍の攻撃で混乱状態に陥っていた。[22] 12時ごろにオレアイ付近のアメリカ第2海兵師団に対して、歩兵第40連隊第3大隊(河村大隊長)を主軸とする1,000名の歩兵と吉村戦車中隊約15両が反撃を行った。[23]戦車の揚陸が未だであった海兵第二師団は日本軍の戦車の攻撃にM3 37mm砲バズーカで対抗したが、日本軍の猛攻に水際まで一旦押し切られそうになった。日本軍戦車はアメリカ軍の水陸両用戦車LVTアリゲーターなどを戦車戦で撃破しながら進攻したが、アメリカ軍は艦砲射撃の支援でかろうじて戦線を支え日本軍を押し戻した 。[24]しかし、第6海兵連隊は死傷率は35%を超える大損害を被った。[25]一方日本軍は河村大隊は壊滅し、河村戦車中隊も2両を残し撃破された。[26]アメリカ海兵第2師団だけで、上陸当日の戦死者・行方不明者は553名負傷者は1,022名に上った。[27]また第4海兵師団を含めれば死傷者は2,000名以上となり上陸したアメリカ軍の10%にも達している。[28]

日本軍の反撃は撃破されたが、防衛線は各所で頑強な抵抗を行いアメリカ軍の占領地域は容易には拡大できなかった。夜までにアメリカ軍が確保したのは、海岸線のチャラン・カノアを含む南北1キロ縦深数百メートルと細長い地域に過ぎず[29]これはアメリカ軍の計画の半分にも満たなかった。[18]特にアギガン岬とススぺ崎の日本軍陣地はアメリカ軍の攻撃を何度も撃退し、陣地を確保していた。[30]アメリカ軍はこの狭い地域に2個師団20,000名がひしめく事となった為、混雑と混乱が大きな問題となっていた。[31]

日本軍は6月15日夜半に軍の総力をもっての総攻撃を企画したが、通信線が寸断されており部隊の掌握ができなかった。その為夜襲は連絡が取れた一部の部隊のみで行われたが、小規模な夜襲となってしまった。アメリカ軍は日本軍の夜襲を警戒し、沖合の戦艦や駆逐艦が照明弾を打ち上げていたが、日本軍の夜襲を確認すると艦砲により支援射撃を行ってきた。それでも夜襲部隊はオレアイ三叉路付近のアメリカ軍連隊指揮所まで達したが、艦砲を含むアメリカ軍の激しい砲撃に700名の遺棄遺体を残し撤退した。[32]

戦車第9連隊の五島正大佐はアメリカ軍が狭い橋頭堡にひしめき合い、戦車も十分に揚陸できてない今の状況で戦車で攻撃すれば効果は絶大と判断し、鈴木参謀長に6月16日早朝に戦車第9連隊単独での挺身攻撃を提案したが、参謀長よりは歩兵との連携攻撃を指示され戦車第9連隊は歩兵が集結するまで待機させられる事となった。戦車第9連隊は満州で戦車独自で機動攻撃する猛訓練を積んでおり、戦中に急造された第43師団とでは練度的に連携攻撃は困難と評価していた上に、歩兵が集結するのを待てばアメリカ軍が戦車などの重火器を揚陸し反撃が困難になると主張したが、五島大佐の上申が取り上げられる事はなかった。戦車第9連隊の生存者下田四郎氏は6月15日夜~16日朝までにアメリカ軍に臼砲を撃ちこみ、戦車突撃できていればアメリカ軍上陸部隊を撃破することも可能だったと悔やんでいる。[33][34]

大本営では必勝の確信が強かっただけに、アメリカ軍の上陸成功に対しての失望は大きく、上陸当日の陸軍省、参謀本部では、いたるところで「31軍は腰抜け」「井桁のぼやすけが」と敵上陸を許した井桁参謀長に対する非難と罵声があふれていたという。また井桁参謀を解任し、長勇少将と交代させるべきだとの声も起こった[35]

日本軍総攻撃[編集]

翌6月16日、アメリカ軍は輸送船35隻、LST40隻、上陸用舟艇多数で膨大な量の物資を揚陸し、戦力の充実を図り激しい攻撃を加えてきた。6月15日はアメリカ軍の攻撃を何回も撃退してきたススべ崎の陣地も攻略され、アギガン岬を死守してきた独立歩兵第316大隊(江藤大隊長)は機銃から高射砲まで駆使して激しく抵抗したが、包囲されて壊滅しアギガン岬も占領された。[36]これにより、第2海兵師団と第4海兵師団の占領地が連結され、連携しての進撃が可能となった。

アメリカ軍は徐々に前進していき、 チャラン・カノア 東側を防衛していた高射砲第6中隊は高射砲により戦車6両を撃破したが反撃で壊滅、またヒナシス付近の同第2中隊もアメリカ軍の攻撃で壊滅し生存者50名はタポチョ山に撤退した。[37]

若獅子神社に安置されている97式中戦車、当車両はサイパンで全滅した戦車第9連隊のもの。

また本日に、第一機動艦隊の出撃知ったレイモンド・スプルーアンス提督が、日本艦隊迎撃の為に6月18日のグアム島上陸予定を一旦延期した。その際に予備兵力であったアメリカ陸軍の第27歩兵師団の内1個連隊を上陸させ、輸送艦隊を沖合に退避させた。この為サイパンのアメリカ軍陸上部隊は強化される事となった。[38] 第27歩兵師団はアスリート飛行場に向け進撃した。飛行場までの間に広がるサトウキビ畑中に日本兵が潜んでおり、そこから奇襲攻撃が加えられた。そのため上陸アメリカ軍は、火炎放射器で畑を焼き払い、日本兵が出てきた所を攻撃する作戦に出た。アメリカ第27歩兵師団は夜半までに飛行場に到達した。[39]

6月16日夜に、前日より続けてきた戦力集結の目途がついた為、第43師団長より守備隊の総力を挙げての逆襲が下令された。また戦車第9連隊は戦車単独攻撃を主張したが、結局は歩兵との連携攻撃となった。[40] 攻撃目標は海岸ではなくオレアイのサイパン無線局とし、戦力は歩兵第306連隊、歩兵第40連隊第三大隊、歩兵第18連隊第1大隊、戦車第9連隊と砲兵隊、海岸で壊滅した部隊の残存兵であった。攻撃開始時刻はアメリカ軍が夜襲対策として防御を固める夜半ではなく、夕方の17時としたが、結局準備に手間取り、攻撃開始は深夜の6月17日2時30分が攻撃開始時間となった。[41]

戦車第9連隊の30両の戦車はそれぞれ歩兵数名を乗せて突撃するタンクデサントが行われた。本来であれば戦車部隊は横隊で突撃するのが理想的であるが、地形的に2列縦隊での突撃を余儀なくされ火力が大きく減じられた。一方アメリカ軍はM4中戦車を多数揚陸済みであり、他にも大量のバズーカと対戦車砲を搭載したM3 75mm対戦車自走砲も待ち構えていた。 空には無数の照明弾が打ち上げられ白昼のような明るさの中で、97式中戦車M4中戦車の戦車戦が行われたが、砲撃の練度は日本軍が勝り次々と命中弾を与えるが、全てM4中戦車の厚い装甲にはね返されるのに対し、M4中戦車の砲弾は易々と97式中戦車や95式軽戦車を撃破していった。[42]戦車の上に乗っていた歩兵も激しい射撃で死傷者が続出して殆どが振り落された。 戦車戦で撃破されなかった日本軍戦車もバズーカや対戦車砲で撃破され、2時間で戦車第9連隊は壊滅し連隊長の五島正大佐も戦死した。[43] 戦車第9連隊に呼応して夜襲をかけた歩兵も、昨日より格段に強化されたアメリカ軍陣地の前に死傷者続出で第36連隊は一個大隊程度の兵力にまで落ち込んで退却、歩兵第18連連隊第一大隊は久保大隊長以下殆どが戦死した。[44]

この総攻撃は失敗に終わり日本軍は主力が潰えたが、アメリカ軍も上陸3日間で5,000名以上の予想外の戦死傷者を出して、予備の第27歩兵師団の全部隊をサイパンへの投入を余儀なくさせられている。[45]

サイパン島孤立化[編集]

戦艦の16インチ砲弾の不発弾に座って寛ぐアメリカ軍海兵隊

日本軍総攻撃が失敗した6月17日の夜明けよりアメリカ軍は激しい砲爆撃の援護の下で全線に渡って前進を開始した。 海岸付近に残存していた部隊は勇戦敢闘するも、圧倒的な火力の前に後退を余儀なくされた。ヒナシス山では激しい防衛戦となり、一旦はアメリカ軍に山頂を占領されたが、日本軍は残存の火砲を集中しアメリカ軍を撃退し山頂を奪還している。[46]一方でアメリカ軍上陸以降、地形と陣地を上手く活用しアメリカ軍に痛撃を与えていた九六式十五糎榴弾砲大隊も夕刻までには砲の全てが撃破され、黒木大隊長以下が歩兵として夜襲をかけるも全滅し黒木大隊長も戦死するなど[47]防衛線各所でそれまでアメリカ軍の攻撃を防いでいた部隊が大損害を被った。

大本営は6月17日未明の総攻撃の失敗の報に接し、これ以上の事態の重大化を抑える事と、先日に東条英機参謀総長が天皇にサイパンは確実に防衛できるとの上奏した手前もあり、サイパン失陥は絶対に防がないといけないとの意志で、6月17日夜には速射砲5個大隊や20糎臼砲大隊等の増援部隊や武器弾薬を送り込む事を決定し、第五艦隊に準備を指示している。(イ号作戦と呼称、い号作戦とは別)[48]

6月18日にはさらに戦力を充実させたアメリカ軍が9時ごろより攻撃を開始、昨日日本軍より奪還されたヒナシス丘陵を再度占領すると、そのわずか1時間後にはアスリート飛行場も占領した。日本軍はアメリカ軍の速攻により飛行場の設備を破壊する間もなく、酸素工場・発電所・燃料タンクがそのままアメリカ軍に使用される事となりまた多くの航空機とその部品も鹵獲された。[49]

この頃には第31軍司令部と第43師団司令部の連絡も断絶し、相互に全く状況は不明となっていた。その為第31軍の井桁参謀長は6月18日に大本営に戦況報告をした際に『第43師団司令部は本日午前敵の攻撃を受け師団長は幕僚と共に戦死せり』と誤報告を送っている。(実際は南興神社にあった師団司令部は健在)[50]その報告を受けた大本営は直ちに堤三樹男少将を後任として準備を進めたが、第31軍司令部はその後に師団長戦死は誤報であった事を打電している。[51] 第31軍司令小畑英良中将はサイパンへのアメリカ軍上陸前にヤップ島を視察していたが、アメリカ軍上陸後の6月16日にパラオに移動しサイパンへの帰還のタイミングを見計らっていた。東條首相からは『貴官は手段を尽くして速やかにサイパンに帰着し直接該方面の作戦を指導するを要す』との強い指示があっており、第31軍の各参謀を連れて6月21日にペリリュー島、6月24日にグアム島と次第にサイパンに近づいたが、アメリカ軍の重囲下にあるサイパンへの上陸はどうやっても困難であり、小畑中将は結局グアム島よりの指揮を行う事となった。[52]

この頃の日本軍の戦力は下記の通りと推定された。[53]

  • 第43師団 歩兵4個大隊半 砲兵1個大隊
  • 独立歩兵第47旅団 歩兵半個大隊
  • 他、歩兵1個中隊 戦車1個中隊 高射砲 1個中隊
  • 兵器 野砲12 高射砲6 機関砲5 戦車十数両 

この残存戦力ではもはや水際撃滅も不可能で、各部隊も組織としての戦闘力を失いつつあった。この状況により第31軍は全軍にタポチョ山付近に後退し戦線を整理する事を下令した。この頃にグアム島、テニアン島から増援部隊がサイパン島逆上陸を目指して出撃しているが全て失敗している。[54]

マリアナ沖海戦でアメリカ軍の航空攻撃を受ける空母千代田と戦艦榛名

サイパン島がいよいよ重大な局面に立ち至った6月18日夜、サイパン守備隊に対し『前線将兵の善戦を嘉賞する、萬一サイパンを失うようなことになれば、東京空襲も行われる様になるから、是非ともサイパンを確保せねばならぬ』との昭和天皇の御言葉が伝達された。[55]

大本営は前述のサイパン島増援作戦「イ」号作戦に加えて、6月19日に開始される予定の機動部隊と基地航空隊による「あ」号作戦でのアメリカ艦隊撃滅を期待し、サイパン奪回作戦となる「ワ」号作戦も上奏した。これはサイパン守備隊残存と「イ」号作戦の増援である歩兵第145連隊でサイパン要域を確保しつつ、「あ」号作戦でアメリカ艦隊に打撃を与えた後に、第9師団と第68旅団と空挺部隊等でサイパンに逆上陸を果たしアメリカ軍上陸部隊を撃滅しようと言う作戦であった。サイパン奪回にかかる全作戦は総称で「Y号作戦」と呼称された。[56]

しかし、6月19日~20日にアメリカ機動部隊と日本機動部隊の決戦となるマリアナ沖海戦では、第一機動艦隊は空母3隻と艦載機の大半を失う惨敗を喫しマリアナ海域より退避した。また同時に基地航空隊も目ぼしい戦果を挙げる事なく壊滅し、いよいよマリアナ周辺の制空・制海権はアメリカのものとなった。

6月20日の「あ」号作戦の失敗を受けて、陸軍はサイパン奪還作戦の「ワ」号作戦はもはや実現不可能と判断し、第9師団等の該当部隊を他戦域に転用することを内定した。増援の「イ」号作戦については海軍に積極的意図があればやってもよいという消極的な対応となったが、陸海軍の間でサイパンへの対応について6月22日~23日の2日間に渡って協議がなされた結果、もはや連合艦隊にマリアナ海域に突入できる戦力はないことや、制空・制海権が無い中での増援部隊の海上輸送は困難との事で、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には陸海軍総長が中部太平洋方面に対する今後の作戦指導について上奏したが、これによりサイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。[57]

タポチョ山の攻防戦[編集]

海兵隊の戦死者の目印として立てられた自動小銃。

マリアナ沖海戦が戦われている頃、タポチョ山付近に後退していた日本軍は防衛線を再構築していた。右翼はガラパン市街を防衛する海軍部隊、防衛線の中核となる268高地、343高地には損害が比較的少ない歩兵第135連隊主力が陣地を構築、タポチョ山東側のラウラウ湾方面にはアメリカ軍の再上陸を警戒して、今までの戦闘で大きな損害を受けていた歩兵第118連隊、同136連隊、独立混成第47旅団の残存兵力が配置された。[58]第43師団司令部はドンニイ西側山中に移動した。

タポチョ山で防衛線を構築していた日本軍の残存兵力は下記の通りと推定された。[59]

  • 第43師団 9,000名 砲兵13門
  • 独立歩兵第47旅団・その他 6,000名
  • 軍砲兵全滅 戦車2両 高射砲1個中隊 機関砲1個中隊

アメリカ軍の作戦は第一次作戦がアスリート飛行場の占領で、態勢を立て直し6月21日以降は第二段階として日本軍残存部隊の殲滅を図るものと予想されていた。その為6月20日は主陣地方面では大きな動きは無かったが、サイパン島の南東方面のナフタン半島には第317独立歩兵大隊、高射砲第25連隊第一中隊、アスリート飛行場の海軍基地員の残存兵が立て籠もり、6月18日よりアメリカ軍の攻撃に対して激しい抵抗を示している。[60] またアメリカ軍支配地域でも日本軍の残存兵がゲリラ活動を続けており、後方施設を破壊し補給活動の妨害を行っており、チャラン・カノアでは第2海兵師団の弾薬倉庫の爆破に成功している。[61]

6月19日に、先の総攻撃で壊滅した戦車第9連隊の生存者30名が、ガラパンにトラック島に移送予定だった95式軽戦車10両がそのまま放置してあることを聞きつけ、その内稼働した9両に分乗し再度戦車攻撃を仕掛けた。6月20日の夜半に40㎞/hの最高速でアメリカ軍の歩兵を蹴散らしながらツツーランの陣地に夜襲をかけたが、前回と同様に照明弾で昼の様な明るさの戦場でM4中戦車と対戦車砲の集中砲撃で壊滅し、戦車を失った戦車第9連隊の将兵は戦車から外した機銃等を持ち歩兵部隊に合流した。[62]

6月21日には硫黄島に進出していた海軍八幡部隊の一式陸攻12機がサイパン沖合のアメリカ軍艦隊に攻撃したが戦果はなかった。[63]

アメリカ軍はいよいよ6月22日にタポチョ山の防衛線に対して攻撃を開始した。防衛戦中核の230高地(アメリカ軍呼称 ティポベイル)343高地、286高地にも戦車150両を主軸として猛攻撃を加えてきた。翌6月23日はタポチョ山の東側の峡谷にむかって第27歩兵師団が進撃してきたが、河村大隊や歩兵第118連隊他残存部隊で編成された守備隊の地形を最大限利用し巧みに構築された陣地による頑強な抵抗を受けて全く進撃ができなくなった。[64]あまりに死傷者が続出するのでアメリカ軍はこの峡谷に「死の谷」とか「パープルハートリッジ」とか「地獄谷」とか思いつく限りの禍々しい名前を付けた。[65]

山腹にある洞穴から日本軍は重迫撃砲や重機関銃で攻撃してくるも、下にいるアメリカ軍戦車からは角度的にその洞穴を戦車砲で攻撃する事ができなかったので、手榴弾や銃剣や時には素手による日米両軍の歩兵での激しい白兵戦が展開された。[66]それでもアメリカ軍は一日に100ヤード(91m)も前進できず、第27歩兵師団の両翼を進撃していた海兵隊が側面から日本軍の攻撃を受ける懸念が大きくなり、6月23日のアメリカ軍の総攻撃は失敗に終わった。[67]

6月24日に上陸軍司令官のホーランド・スミス中将が、マリアナ攻略艦隊司令のレイモンド・スプルーアンス大将に第27歩兵師団長ラルフ・スミス英語版少将の更迭を申し出た。その理由はラルフ・スミス少将の指揮が、今回の攻撃失敗を含めて、上陸以来適切でなかった上に、師団長に任命されて20ヶ月経つが、その間にホーランド・スミス中将が満足できるレベルまで第27歩兵師団の戦力を向上させる事ができなかったということであった。[68]スプルーアンスはこのことにより陸軍の名誉が傷つけられ、陸海海兵隊3軍の関係が悪化し今後の作戦に支障をきたす事を懸念し躊躇したが、結局はマリアナ諸島の陸上作戦の総責任者であるホーランド・スミス中将の意見を尊重してラルフ・スミス少将を更迭した。[69]後任はスタンフォード・ジャーマン少将となったが、師団長を挿げ替えたところで戦況に大きな進展も無かった上に、ジャーマンは進撃遅延の責任を取らせて連隊長を更迭したため、逆に第27歩兵師団の士気は下がり、わずか4日後の6月28日にはジョージ・W・グライナー少将に師団長が再度変更になるといったドタバタ劇を演じている。この更迭事件は『スミスVsスミス事件』と呼ばれてアメリカ軍内で大問題に発展し、スプルーアンスの心配通り、この後の3軍の連携に大きな影響を与えている。この後の3軍連携の大規模作戦となった沖縄戦では陸上作戦の総指揮官は陸軍のサイモン・B・バックナー中将となったが、陸軍のバックナー中将に対し海軍や海兵隊は気兼ねせざるを得なくなって積極的な作戦提案等がしにくい状態となり、沖縄戦苦戦の一因となった。[18]

上陸以来2週間に及ぶ激戦で、戦死者数は圧倒的に日本軍が多かったが、アメリカ軍も数千人単位で戦死者が出ており埋葬が間にあわなくなっていた。その為、死体袋が砂浜にうず高く積み上げられる状態となり、それを見たアメリカ兵士の士気に大きな影響が出かねなかったため、途中から海軍の艦艇に積んで沖合で水葬にすることとしている。[70]

M3 37mm砲で砲撃を加えるアメリカ海兵隊、防盾が銃撃により穴だらけなっている

日本軍守備隊がタポチョ山でアメリカ軍の進撃をよく足止めしていた6月24日に井桁参謀長は大本営に、「イ」号作戦による増援と航空支援を要請しているが、しかし大本営の方針は前述の通りサイパン放棄であり、増援は送れない旨返電している。[71]

その後もタポチョ山の攻防戦は続き、死の谷で第27歩兵師団が苦戦していた6月25日には第2海兵師団はタポチョ山山頂に到達し、日本軍歩兵第135連隊と激しい争奪戦を6月26日まで繰り広げている。特に第6中隊(大津理作中隊長)の勇戦は目覚ましく、アメリカ軍の迫撃砲陣地や照明班を撃破し山頂を死守していたが、撤退を命じられると、撤退の途中でアメリカ軍の戦闘指揮所を襲撃し150名のアメリカ兵を掃討して無事に本隊に合流している。[72] タポチョ山では日米両軍の激しい近接戦闘が続き、激しい白兵戦の中で日本軍の手榴弾から味方の部隊を守る為、自ら日本軍が投擲してきた手りゅう弾の上に覆いかぶさって戦死したハロルド・G・エパーソン英語版一等兵はアメリカ軍の最高勲章であるメダル・オブ・オナーを死後受賞している。[73]激しい白兵戦の後に6月26日中には山頂はアメリカ軍の支配下となり、日本軍はその夜夜襲をかけたがついに奪回できなかった。

この頃になると日本軍は第31軍司令官小畑中将がグアム島におり、陸戦の最高責任者が現地不在だったのに対して、サイパン島には中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将、第43師団斎藤師団長、第31軍参謀長井桁少将など多くの高級将官がいたため、通信手段の断絶もあって命令が入り乱れ指揮が混乱していた。戦闘に参加する部隊もあれば、命令だからといって後退する部隊もおり作戦が一貫していない場合もあったという。[74]

また上陸の6日後にはアメリカ軍が占領したアスリート飛行場は、アメリカ軍の突貫工事にて利用可能になっていたが、皮肉にも飛行場とチャラン・カノアなどのアメリカ軍占領地域の物資輸送には日本が敷設した鉄道が活躍している。[75]6月26日夜にはトラック島から出撃した陸攻数機がアスリート飛行場とアメリカ艦船を攻撃したが、飛行場は若干の損害に止まり、貨物船にも爆弾が命中したが不発であり11名の死傷に終わった。[76]

6月27日になるとタポチョ山はほぼアメリカ軍に制圧され、「死の谷」で苦戦していた第27歩兵師団も両翼の海兵師団と肩を並べるところまで進撃してきた。斎藤第43師団長は「在島守備隊は最後まで、わが空軍または増援部隊の来着を信じている。(中略)サイパン島防衛は7月10日まで可能である」と切実な支援要請をグアム島の第31軍小畑司令に打電している。[77]

一方アメリカ軍の損害も大きく、このタポチョ山の一連の戦いでの死傷者は、第27歩兵師団1,465名 第2海兵師団1,016名 海兵第4師団1,506名 合計3,987名に上った。特に「死の谷」で苦戦した第27歩兵師団は第165連隊長のケリー大佐が戦死、他2名の大隊長も戦死、中隊長は22名が死傷するといったように高級将校の損失が大きかった。[78]

サイパン守備隊玉砕[編集]

ガラパンでの市街戦。

6月28日にアメリカ軍は、サイパン最大の市街地ガラパンに攻撃を開始した。守備隊はガラパンの起伏が多い地形を活用したり、市街地の建築物を利用した市街戦で肉薄攻撃、白兵突撃を駆使して3日に渡って勇戦・敢闘するも、食糧も飲料水もなく3日間飲まず食わずでの戦いとなり、守備隊主力の第118連隊はほぼ全滅した。[79] 陸海軍合同司令部は、6月27日に今後の作戦指導を検討した結果、「タナバク、221高地、タロホホの線を最後の抵抗線として戦闘を続行する」と決定し、各部隊に新防衛線への移動開始を7月2日とすることを通知し司令部も後方の地獄谷に移動した。[80] ガラパンが戦場になり行き所を失った一般邦人の多くは島の北端パナデル付近に集まっていた。

6月18日よりナフタン半島で敢闘してきた日本軍の独立歩兵第317大隊らの生存者約500名は、アメリカ軍の猛攻で進退窮まった6月26日夜半に佐々木大隊長指揮の下でアスリート飛行場を混乱させ、味方主力に合流すべく最後の突撃を行った。突撃隊は「七生報国」を合言葉に一心不乱にアスリート飛行場に向けて突撃を行った。[81] 部隊の一部はアスリート飛行場に突入し既に展開していたP-47戦闘機を4機撃破し、アメリカ軍と激しい白兵戦を演じアメリカ兵33名が戦死、日本兵は143名が戦死した。また別の部隊が第104野砲大隊陣地にも突入し20名のアメリカ軍砲兵が戦死した。[82]しかし突撃は翌朝には鎮圧され、6月27日中にはナフタン半島全域がアメリカ軍の占領下となった。

しかし、残存兵わずか1,000名足らずのナフタン半島の攻略に日本軍の頑強な抵抗に手間取り、攻略に1週間を要し第27歩兵師団第105大隊だけで556名も死傷者を出したことにホーランド・スミス中将は激怒し、『スミスVsスミス』事件の一因ともなっている。[83]

日本軍守備隊の崩壊は深刻な水準となっており、7月2日を待たずに後方に退却する部隊が続出したが、アメリカ軍の進撃は早く、新防衛線にたどり着く事ができず壊滅する部隊も多かった。歩兵第136連隊主力も撤退途中にアメリカ軍に包囲され、7月4日に連隊長小川雪松大佐ら司令部要員はアメリカ軍第165連隊の戦闘指揮所と不意に遭遇し、日米の連隊司令部同士の銃撃戦となり、日本軍第136連隊の小川大佐を含む司令部要員27名が全員戦死した。[84] また日本軍各部隊が撤退したことで、ガラパンを防衛していた海軍部隊や陸軍の残存部隊も退路を断たれガラパンを放棄せざるを得なくなり、ガラパン全域はアメリカ軍に占領された。[85] 7月4日にはアメリカ軍の砲撃が激化し、地獄谷の合同司令部付近にも着弾し第31軍高級参謀伊藤誠逸大佐が戦死、斎藤師団長も負傷した。

ホーランド・スミス中将はいよいよ日本軍を撃滅する時が来たと考え、サイパン島を東西に分割し、西側を第27歩兵師団、東側を第4海兵師団(第2海兵師団は予備)それぞれがマッピ岬に向けて進撃する事とした。[86]

アメリカ軍の攻勢が強まる中で新防衛線もアメリカ軍の包囲を受けており、合同司令部は今後の方針について協議し、さらに島の北端まで撤退するか、全軍挙げて玉砕攻勢を行うかの二者択一に迫られたが、7月7日をもって全軍で玉砕突撃し全員の死を持って太平洋の防波堤となる事に決した。[87]

7月5日に南雲中将と斎藤中将は全兵士に対して「明後7日、米鬼を索めて攻撃に前進し一人よく十人を斃し以って全員玉砕せんとす」「予は諸隊の奮戦敢闘を期待し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念しつつ諸士とともに玉砕す」と総攻撃の命令を行った。[88]

そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は全軍に「(前略)今や止まるも死、進むも死、生死すべからくその時を得て帝国男児の真骨頂あり、今米軍に一撃を加え太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす」との訓示を行った後に、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決した。また南雲中将らの自決の前に行政のトップ辻北部支庁長も自決している。[89]

残存部隊は陸海軍や部隊の他、警防団員、青年団、その他一般邦人も入り混じった混成部隊でおおよそ3,000名の部隊であったが、武器が無い者も多く、棒に銃剣を結び付けたものや、石を持っただけの者もあった。突撃部隊は3軍に分けられ海軍基幹部隊は海岸沿いに、陸軍基幹部隊の2軍は中央と山地に分かれて突撃することとした。海軍部隊には残存戦車5両が先頭を進む事になっていた。7月6日の日没後に自決した3将官の遺体を火葬に付すと7月7日3時にアメリカ軍がバンザイ突撃と名付けた白兵突撃が行われた。[90]

7月8日の掃討戦、M4中戦車の車体に貼り付けられているのは九九式破甲爆雷や速射砲対策の増加装甲。

アメリカ軍は攻撃直前となる7月6日の日没後に捕らえた日本兵の捕虜からこの攻撃の情報を得ており、各部隊に警戒体制をとらせていた。そこに日本軍が白兵突撃を行ってきたので、照明弾を無数に打ち上げ、一斉にあらゆる火器で集中攻撃を開始した。日本軍はバタバタと斃されたが、ひるむことなく戦友の遺体を乗り越え決死の突撃を敢行した。事前に警戒はしていたが、日本軍の激しい突撃にアメリカ軍も近接戦闘に引きずり込まれる事となり、突撃の正面となった第27歩兵師団第105歩兵連隊の前線が突破されたが、同連隊のある大隊長は日本軍の突撃を「その様子はまるで前に見た映画でバッファローの集団が突進してくるシーンに似ていた。それを地面に設置したカメラで見上げている様だったが、日本兵は次々と突撃してきて立ち止まる事はなかった。」と述べている。[91]第一線を突破した日本軍は、アメリカ軍の砲兵陣地に迫ったが、アメリカ軍砲兵は水平射撃で日本軍の95式軽戦車を一両撃破すると、砲を使えない様に細工して退却した。[92]日本軍の突撃部隊の中にアメリカ軍の第105歩兵連隊の2個大隊が孤立し、両大隊はタナバク村に陣地を築いて生存を図った。突撃部隊との激しい近接戦闘で、アメリカ軍の中でも英雄的行為を行い死傷する兵士も多くなり、この日だけで4名ものメダル・オブ・オナー受賞者が出ている(全員戦死)、孤立した2個大隊は全滅は免れたが残存兵力は20%になっていた。[93]

アメリカ軍は夜明けと共に体勢を立て直すと、戦車と後方の予備隊を中心として反撃を開始した。戦闘は昼まで続き日本軍の突撃部隊は壊滅し、ここで日本軍の組織的抵抗は終わりを告げた。[94]この戦闘で米軍に死傷者658名の損害を与えたが、日本軍出撃部隊はほぼ全滅した。翌日戦場は「死の谷」と呼ばれるほど、両軍の死体が累累と積み重なっていた。

日本軍のバンザイ突撃を撃破したアメリカ軍は翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始した。日本軍は洞窟や草むらに潜み絶望的な抵抗を行ったが、アメリカ軍は火炎放射器と爆薬で容赦なく日本軍を殲滅しながら前進し7月9日には日本軍と在留邦人を南端に追い詰めた。日本兵や在留邦人の多くが自決したり、ガケや岸壁から身を投げた(バンザイクリフスーサイドクリフ)。この日を持って、アメリカ統合遠征軍司令リッチモンド・K・ターナー中将はサイパン占領を宣言した。[95] マリアナ攻略艦隊の司令官スプルーアンス大将はサイパンの占領の報告と一緒に南雲中将の自決の情報を聞き「この作戦で私がもっとも嬉しかった事は、サイパンの敵軍の司令官南雲中将の最期である。南雲は真珠湾攻撃とミッドウエー海戦の際の日本艦隊の司令官であった(中略)スリーストライクのアウトというわけだ」と喜んだ。[96]

日本軍のゲリラ的抵抗[編集]

イズリー飛行場で日本軍機の空襲により地上撃破されたB-29の残骸。

奪回作戦を断念した日本軍は、硫黄島を中継基地として利用し、サイパン航空基地への航空攻撃を行っている。

初回攻撃は1944年11月2日に陸軍航空隊 九七式重爆撃機9機出撃、3機が未帰還となったがアメリカ軍に被害はなかった。 また、東京が初空襲を受けた3日後の11月27日に報復攻撃として、陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃している。陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆撃機2機がイズリー飛行場(アスリートよりアメリカ軍が改名)を爆撃し完全撃破4機と16機が損傷させ2機とも生還した。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御盾隊の零戦12機が、イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を5機撃破し、また迎撃してきたP-47の1機を撃墜したが全機未帰還となった。 新海少佐の第二独立飛行隊は12月7日の夜間攻撃でもB-29を4機を撃破、23機を損傷させている。 最後の攻撃となったのは1944年のクリスマスで、まず錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)を散布し、レーダーを欺瞞させた後に高低の同時進入という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、アメリカ軍の死傷者は245名となった。[97]

投降した大場栄陸軍大尉以下47名の部隊

サイパン島に残ったわずかな日本軍地上部隊はゲリラ化し、遊撃戦に移行して各個で戦闘を継続した。日本のポツダム宣言受諾後も、その事実を知らない陸海軍将兵は遊撃戦を継続していたが、ポツダム宣言受諾の事実を知り順次投降した。タッポーチョ山を拠点としていた歩兵第18連隊衛生隊大場栄陸軍大尉以下47名の部隊は、1945年11月27日(発令は25日)に独立混成第9連隊長の天羽馬八陸軍少将陸士第23期卒)の正式の命を受け、12月1日、軍歌(彼らの部隊の隊歌と「歩兵の本領」)を歌って戦没者の霊に弔意を示しながら山を降り投降した。彼らは、大本営のサイパン放棄を知らず、必ず友軍がサイパンを奪還に来ると信じていたという。大規模な投降としては最後のものである。なお、歩兵第18連隊主力は1944年5月にグアムに移駐したが、衛生隊ほかは移駐が間に合わず、サイパンの戦いに加わることになっていた。[注 1]

このほか、空挺部隊により飛行場を攻撃する剣号作戦と、その補助空襲である烈号作戦が計画されたが、実行前に終戦を迎えている。

サイパン戦へのアメリカ軍評価[編集]

アメリカ海兵隊の戦史局はサイパン戦での日本軍を「日本軍は最後は膝を屈したが、それでもよく戦った。世界中の兵士を比較した場合においても日本兵の粘り強さは最高水準にある。それは狂信的とも評価されるが公正な評価とは言えず、「実に素晴らしい愛国心」と評価すべきであろう。いずれにしても日本軍はどのような国とでも誇り高く戦える特徴を有していた。」[99]とサイパンでの日本軍の戦いぶりを評価する一方で、アメリカ軍自身へも「サイパン戦は、アメリカ陸海軍及び海兵隊が日本軍の障害を打ち破った大胆な冒険であった。それは強大な戦力を有する諸島の中心に、最寄りの拠点より1,000マイルを超えてアメリカの兵力と資材を送り込まなければいけないという課題があった。これまで飛び石作戦は600マイルを超えていなかったし、敵の強力な航空基地に守られていなかったが、このような状況でもアメリカ軍は勝利した。」と評価し大遠征作戦を成功させた自信も覗かせている。[100]

また、マリアナ攻略艦隊第5艦隊司令スプルーアンス大将や統合遠征軍第51任務部隊ターナー中将などマリアナ攻略作戦の指揮官や幕僚らは、サイパン戦での日本軍の頑強な抵抗とその持続力に畏敬の念を抱き、戦闘は今後、ギルバート・マーシャル諸島の戦い様に短期間で決定的な勝利を収める事はもうできないと考えた。サイパン上陸部隊の死傷率は最終的に20%を超える高い確率となり、(アメリカ軍が恐怖と呼んだタラワの戦いと同じ死傷率)今後はサイパン戦で立証された通り、戦いは長引き、そして多大な犠牲を強いるようになると確信した。その為、戦力増強が不可欠になると判断し、一旦延期となっていたグアム島の上陸作戦に陸軍第77歩兵師団の増強を要請している。[101]

島民及び日本人入植者[編集]

日本人居留民の本土疎開[編集]

マリアナ諸島防衛が真剣に検討されるようになると食糧事情も鑑み、昭和19年2月に兵員増強の輸送船の帰りの船を利用して、婦女子・老人の日本への帰国が計画された。一方、16歳~60歳の男性は防衛強化要員として帰国が禁止された。

上記の疎開計画に従い、日本への帰国対象者はマリアナ諸島各島からサイパンへと集結していた。しかし、3月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水艦に撃沈され、500名の民間人ほぼ全員が死亡するなどの事件があったため疎開は進捗しなかった。そのほか、6月4日沈没の「白山丸」などで多数の民間人犠牲者が出ている。アメリカ海軍は、太平洋戦争開戦当初から民間船への無差別・無警告攻撃を行う無制限潜水艦作戦を実施していた。戦闘開始段階での在留邦人は約20,000人と推計される。

戦闘による犠牲[編集]

死体で折り重なった洞窟から赤ん坊を救出する米軍兵士

攻略作戦が始まると、多数の民間人が砲爆撃に巻き込まれて死傷した。

また、戦闘の末期になると、多くの日本人居留民が島の北部に追い詰められ、アメリカ軍に捕らえられることを避けるためバンザイクリフスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。多いときでは1日に70人以上の民間人が自決したといわれる。民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。

アメリカ軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、「残虐非道の鬼畜米英」のイメージや帰国船撃沈事件による米軍への恐怖のためにほとんど効果がなかった。また、退避中の民間人が米軍による無差別攻撃により死傷者を出していたことも影響した[102]。サイパン島の日本軍が民間人の自決を禁止しなかったことも指摘される。この点、テニアンの戦いでは日本軍が民間人に対し自決行為を強く戒めた事が効果を出し、民間人の自決行為が少なかったのと対照的である。

なお、日本の軍人の中には、アメリカ軍による意図的な民間人虐殺を目撃したと証言する者もあるが、信憑性は疑問視されている(詳細は#アメリカ軍の虐殺行為に関する田中徳祐の証言で後述)。

戦闘終了後、アメリカ軍は非戦闘員14,949人を保護収容した。内訳は、日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人となっている。逆算すると8,000人~10,000人の在留邦人が死亡したとみられる。

大本営は「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し、当時の日本の新聞各紙も上記『タイム』の記事を引用して民間人の壮絶な最期を記事にした。また、藤田嗣治によるサイパンの民間人の最後を描写した絵画「サイパン島同胞臣節を全うす」が制作展覧された。

戦闘終了後にアメリカ軍が生存者に対して行ったアンケート調査では、サイパンの日本兵が民間人にガダルカナルの戦い(日本の民間人がいなかった)で民間人がアメリカ軍に虐殺され女子は暴行された話を語っていたことが、サイパンの日本人民間人がアメリカへの投降を躊躇わせた原因として挙げられている[103]

サイパン戦の影響[編集]

B-29が並んでいる占領後のサイパンの飛行場。本土空襲の為の航空基地となった

日本本土爆撃の本格化[編集]

これまで距離的に九州までしか爆撃できなかった中国成都からのB-29による爆撃が、サイパンを含むマリアナ諸島を基地とする事でほぼ全国どの都市にでも爆撃が可能となった。 アメリカのタイム誌も1944年7月17日号の記事で「太平洋の島づたいの反攻作戦での最大血戦は終わり、東京へ1,500マイル以内の航空基地がアメリカ軍の手に入った。一番良い事は、この基地への補給が海路で容易にできることだ」とその意義を報道している。

アメリカ軍はサイパン上陸のわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている頃に、占領したアスリート飛行場に開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。その後飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んでイズリー飛行場と改名し、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行いB-29の運用が可能な飛行場となり10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した。[104]

この頃ワシントンでは空襲目標リストが作成されていたが、まずは航空産業を壊滅させるため、大小の工場1,000以上が目標としてリストアップされた。入念なB-29の偵察機型F13Aによる写真偵察の後に11月24日にB-29による初の東京空襲が行われ、以降は産業への爆撃の他に人口密集地などへの無差別爆撃も行われ、夥しい一般市民の犠牲を出し、日本の戦争遂行能力を喪失させていった。[105]サイパン戦以降も日米での激しい戦闘は続いたが、実質的にはサイパン島を含むマリアナ諸島の失陥と絶対防衛圏の崩壊が日本の敗戦を決定づけたと言っても過言ではない。

アメリカ軍上陸作戦での戦術の確立[編集]

アメリカ軍はサイパンでの勝因として

  • 艦砲射撃
  • 航空支援
  • 火砲
  • LVT
  • 戦車
  • 工兵隊
  • 通信
  • 輸送力
  • 野戦病院

以上の果たした役割が大きかったとした。[106] これらはサイパン戦までの日本軍との戦いで培われ洗練されたものであったが、前述の通り艦砲射撃の効力など一部の問題点は、サイパン戦以降の作戦で順次改善されていった。

上陸軍司令官のホーランド・スミス中将はこの後の硫黄島の戦い沖縄戦の大規模な上陸作戦を指揮することになったが、サイパン戦がもっとも重要で意義深い戦いであったと位置付けている。その理由はサイパン戦により大規模な上陸作戦の戦術が確立され、その後のもっと大規模な上陸作戦でその経験則を活かすことができたからとしている。[107]

東條内閣崩壊[編集]

上記の通り、絶対国防圏の崩壊とマリアナ失陥による東京爆撃が現実化した為、求心力を失った東條英機は続投工作するも実らず、首相辞職に追い込まれた。

日本軍島嶼防衛戦術の改善[編集]

大本営はサイパンから報告された戦訓を元に、1944年7月20日に戦訓特報第28号を発行し全軍に通知した [108] [109]

  • アメリカ軍の上陸が従来と違い、太平洋艦隊の主力による激しい砲爆撃で防御の核心的要点を壊滅させ、一挙の攻略を企画した
  • 作戦距離が飛躍的に増大した
  • 機動部隊とは別の、上陸支援を主任務とする戦艦を主力とした有力な艦隊が存在する
  • 敵の揚陸速度は迅速で、わずか10時間以内で一個師団が上陸完了する
  • 夜襲を行えば照明弾により白昼化して艦砲により阻止砲撃が行われる

ことなど、アメリカ軍の新たな上陸戦術の特徴を説明し、今後の島嶼防衛戦の留意すべき事項として下記が説かれた。

  • 今後の島嶼防衛は制空・制海権は圧倒的にアメリカ軍側にあるものという最悪の場合の前提が必要
  • 友軍の地上兵力の増援は期待せず独力戦闘を行う
  • 築城(陣地構築)の教育の必要性の認識
  • 上陸準備の艦砲射撃は一万~二万トンに及び想像以上である

以上を踏まえた今後への教訓は下記の通り徹底された。

  • 砲爆撃対策と対戦車戦闘は対米戦の運命を決する二大項目である
  • 戦車には砲撃と肉弾戦が有利 
  • 縦深陣地は絶対に必要、複郭陣地も準備必要
  • 熾烈な砲爆撃特に艦砲射撃に対し、築城により兵力・資材をなるべく貯存して、敵に近迫して白兵戦に持ち込む訓練を行う
  • 砲爆撃により、幹部の死傷者が増え指揮組織が崩壊した時に対する事前対策、特に中隊長級指揮官の統率力の強化
  • 戦況が切迫してきた際は直接戦闘に関係ない土木作業(飛行場設営など)に無用な人力はかけず、陣地構築に集中する。

この戦訓はこの後のペリリューの戦い硫黄島の戦い沖縄戦に活かされる事となった。

大本営晴気誠参謀の自決[編集]

大本営陸軍部参謀晴気誠少佐はマリアナ方面作戦の担当参謀であったが、自らが関与したサイパンの水際撃滅作戦が破られアメリカ軍に上陸を許したのを知ると、現地での直接作戦指導を直訴した。硫黄島まで飛行したがサイパンは敵の制空権下で近づく事ができず、それでもパラシュートでのサイパン降下を懇願したがそれも果たせず、失意の上に断念している。その後サイパンの戦訓を活かした島嶼防衛などの作戦指導に精励していたが、終戦後8月17日に責任をとって自決している。家族に宛てた遺書は8月10日付けであり、終戦前に自決を決心していた。その遺書には「サイパンにて散るべかりし命を今日まで永らえてきた予の心中を察せられよ・・・」とサイパンでの作戦指導の責任を最期まで感じていた事が記されていた。[110]

参加兵力[編集]

日本軍[編集]

陸軍[編集]

第43師団長斎藤義次中将
  • 第43師団(師団長:斎藤義次中将)司令部 253名
    • 歩兵第118連隊 連隊長 伊藤豪大佐 兵員 1,033名(海上輸送中に連隊長以下2,240名が海没しその残存部隊)
    • 歩兵第135連隊 連隊長 鈴木英助大佐 兵員 3,295名
    • 歩兵第136連隊 連隊長 小川雪松大佐 兵員 4,055名
    • 師団直轄部隊 通信 輜重 野戦病院 庶務 合計 3,667名
  • 独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐) 兵員 1,470名
    • 旅団砲兵 旅団工兵 合計499名
  • 第9派遣隊(旅団長:有馬純彦大佐) 兵員 1,555名
  • 戦車第9連隊 (連隊長:五島正大佐) 兵員 990名
  • 高射砲第25連隊(連隊長:新穂寛徳中佐) 兵員 1,117名
  • 独立山砲第3連隊(連隊長:中島庸中佐)兵員 978名
  • 独立工兵第7連隊 (連隊長:小金澤福次郎)兵員 775名
    • 歩兵第40連隊 第3大隊 兵員 618名
    • 歩兵第15連隊の一部 兵員 610名
    • 歩兵第150連隊牛山隊 兵員 700名
    • 独立臼砲第14大隊 兵員 649名
    • 独立臼砲第17大隊 兵員 634名
    • 野戦機関砲第44中隊 兵員 105名
      • 独立自動車第264中隊 兵員 181名
      • 独立自動車第278中隊 兵員 187名
      • 独立戦車第3.4中隊 兵員 174名
      • 他島部隊よりの派遣  合計556名

* 米軍上陸時での陸軍戦闘部隊  合計 24,875名

  • 陸軍航空関係人員 合計 1,285名
  • 陸軍船舶関係人員 合計 1.375名

海軍[編集]

中部太平洋方面艦隊司令官南雲忠一中将
  • 中部太平洋方面艦隊(司令官:南雲忠一中将) 司令部要員 502名
  • 第5根拠地隊(司令官:辻村武久少将) 合計 456名
    • 第五通信隊 兵員 369名
  • 第55警備隊 (隊長:高島三治大佐) 兵員 2,000名
  • 横須賀第一特別陸戦隊 (隊長:唐島辰男中佐)兵員 800名
  • その他艦隊関係人員、海軍航空隊関係人員、設営隊等

* 米軍上陸時での海軍部隊  合計 6,160名


アメリカ軍[編集]

陸上部隊[編集]

アメリカ統合遠征軍司令 リッチモンド・K・ターナー中将
  • 統合遠征軍 第51任務部隊(司令官:リッチモンド・K・ターナー中将)
  • 上陸軍総司令部(司令官:ホーランド・スミス中将) 司令部 2,296名
    • 軍直轄砲兵部隊 2,682名
    • 軍直轄高射砲部隊 949名
    • 第2海兵師団 兵員 22,702名
      • 第2海兵連隊
      • 第6海兵連隊
      • 第8海兵連隊
      • 第10海兵連隊
      • 第18海兵連隊
      • 師団戦車隊
      • 師団砲兵(155mm野砲)
    • 第4海兵師団 兵員 21,618名
      • 第23海兵連隊
      • 第24海兵連隊
      • 第25海兵連隊
      • 第14海兵連隊
      • 第20海兵連隊
      • 師団戦車隊
      • 師団砲兵(155mm野砲)
    • 第27歩兵師団 兵員 16,404名
      • 第105歩兵連隊
      • 第106歩兵連隊
      • 第165歩兵連隊
      • 第104野砲大隊
      • 第105野砲大隊
      • 第106野砲大隊
      • 第249野砲大隊
      • 第295戦車大隊
      • 第766戦車大隊

海軍[編集]

太平洋艦隊司令官兼太平洋方面最高指揮官チェスター・ニミッツ大将


信頼性等に議論のある主張[編集]

サイパンの戦いに関しては、以下のような事実や仮説を主張している少数者もある。

アメリカ軍の虐殺行為に関する田中徳祐の証言[編集]

独立混成第47旅団に所属してサイパンの戦いに従軍した田中徳祐(豊橋陸軍予備士官学校卒業)は、以下のような米軍による残虐行為を目撃したと主張している[111][112][113]

  1. マッピ岬のパナデル飛行場に追い詰められた民間人のうち、婦女子を選び出して裸にし、数台のトラックに積み込まんでいった。女たちはトラックの上で泣き叫んでいた。
  2. 残りの老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火がつけられた。忽ち阿鼻叫喚の巷と化した滑走路。火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れた。二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。
  3. こんなに優勢な戦闘にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
  4. マッピ岬では、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串さしにされた婦人を見た。 更に自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。
  5. 米軍の残忍非道から名誉と身を守るために「天皇陛下万歳」を奉唱してマッピ岬から太平洋に身を躍らせた老人、婦女子や、左腕に注射針を刺し、君が代と従軍歌「砲筒の響遠ざかる…」を斉唱しつつ自らの命を断った十余名の従軍看護婦達の最期を田中は見た。

田中徳祐の証言は自身の階級を大尉としているものがある一方、『別冊 太平洋戦争証言シリーズ(6)玉砕の島々 中部太平洋戦記』では自身の階級を中尉としており、証言に変遷が見られる[113]。また、大場栄大尉に取材して創作を加えた小説『タッポーチョ』では階級は少尉となっている。なお、『タッポーチョ』でも、田中を指揮官とした隊は、投降直前まで大場隊とは別行動を取っていたとしている[114]

田中の証言にはこのほか、最後の地獄谷の突撃を含むサイパン戦での主要な戦闘のほとんど全てに参加し多くのアメリカ兵を殺害したこと、斎藤中将ら日本軍最高幹部の自決シーンを目撃したこと、歩兵火器でアメリカ軍機を撃墜しそのアメリカ人パイロットが女であったことなど、ホラを吹いているとしか思えない内容も多々含まれているため、どこまで信用できるか疑問である。また、日本軍と行動を共にしていた日本人民間人婦女子がアメリカ軍に内通して日本軍部隊の位置をアメリカ側に知らせていたことなどが述べられている。

海軍を恨むという決別電[編集]

新聞記者の中所豊の『日本軍閥秘史―裁かれる日まで』によると、斎藤中将は玉砕にあたり最後の通信で「我々陸軍将兵一同は敵アメリカ軍を恨まずして日本海軍を永遠に恨みつつ玉砕する」と打電。この電文は陸軍の暗号で暗号化され、海軍の無線を通じて陸軍側に取り次がれたという[115]。ただし、斎藤中将の最後の状況については、捕虜となって生還した平櫛孝参謀によると、海軍の南雲中将と同時に自決している。この点、南雲中将は自決せずに最後の突撃に参加したとする説もある。中所の著作は戦後の暴露ブームの中で発表されたもので、版元は中華国際新聞社である。

地下陣地化によって戦争全体を膠着化できたとする仮説[編集]

小室直樹は、サイパンの戦いで日本軍が徹底した地下陣地化と大量の陸上戦力の配備をしていれば、戦争全体を膠着状態にできたと主張している。サイパンの戦いやテニアンの戦いなどでは、東条英機参謀総長によって未だ水際作戦がとられていたために、日本軍は早々と玉砕することになった。小室はこの点に着目し、ペリリューの戦い硫黄島の戦いのように地下壕陣地をつくり、地下飛行場を築き中国戦線から20個師団を転用し抗戦をしていれば、サイパンの土壌は強固な珊瑚などで構成されていることから艦砲射撃に堪えられ、硫黄島同様に熾烈な戦いとなり、戦争全体の展開も膠着した可能性があると説く[116]。この説は一部の仮想戦記でも採用されている。

しかし、この見解に対しては、当時の日本の国力でサイパンを要塞化することは困難であったとの批判がある。大兵力を輸送するような輸送船団もなく(20個師団の兵力を輸送するための輸送船団がどれほど大規模になるのか、又サイパンの港湾の能力を考えれば、これがどれほど困難な作業であることは単純に想像・計算出来るものである)、補給の能力も著しく欠いていたとする[誰によって?]

また、過去にラバウル他各地が放置されたと同様に飛び石作戦でフィリピンへ迂回侵攻されれば、サイパンが無力化されるだけであり、戦争が膠着する可能性は連合軍が無意味にこの拠点に固執しない限りありえないとも批判される[誰によって?]

このほか、アメリカ軍を上陸させた上でフィリピンの第14方面軍のように持久戦を行うことで、一定のアメリカ軍を現地に拘束して進行計画を遅らせる程度の事は可能であったとの見解もある。この点、フィリピンの方については、米軍5個師団をひきつけ続けることで九州上陸作戦の予定を昭和20年6月から同年11月に遅らせ、結果として九州への米軍上陸を防いだとの分析がある[117]

史跡[編集]

ラストコマンドポスト

サイパン島には多数の戦争関連施設や戦争遺構があるが主なものを挙げる。 今日でも戦跡巡りのツアーが多く行われており、サイパン島観光の定番メニューとなっている。 また、戦跡以外でも日本委任統治領時代の名残が多く残っている。

サイパンの戦いを描いた作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大場栄が20代の憲兵伍長Tを民間人に装わせて投降させる形でアメリカ軍が設置した民間人収容所に送り込み[要出典]、収容所内の10代の青少年をオルグしてアメリカ軍に対する抵抗組織をつくる[要出典]。1945年8月15日の終戦後、収容所内での民間人は、終戦(日本の敗戦)はアメリカ軍の陰謀だと主張する勢力と、終戦を信じる勢力が対立する[要出典]。その後憲兵伍長は少年組織を唆して終戦派のリーダーを殺害させ、さらに山に立てこもる日本軍を説得しようとした民間人をも殺害[要出典]。主犯の憲兵と実行犯の少年は収容所を脱出し大場のもとに帰る[要出典]。大場らが投降した後、少年は逮捕されるが憲兵伍長に単独犯と自白するよう言い含められ、死刑判決(後無期懲役に減刑)を受けアメリカ本土で服役、出所以後牧師となった[98]

出典[編集]

  1. ^ "Saipan: The Beginning of the End by Major Carl W. Hoffman, USMC Historical Branch, G-3 Division, Headquarters, U.S. Marine Corps1950"
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  3. ^ "Saipan: The Beginning of the End by Major Carl W. Hoffman, USMC Historical Branch, G-3 Division, Headquarters, U.S. Marine Corps1950"
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  100. ^ "Saipan: The Beginning of the End by Major Carl W. Hoffman, USMC Historical Branch, G-3 Division, Headquarters, U.S. Marine Corps1950"
  101. ^ 『提督スプルーアンス』トーマス・B・ブュエル(著)小城正(訳)学習研究社 446頁
  102. ^ 宮城信昇『サイパンの戦いと少年』31-38頁(新報出版 2002) 宮城は機関銃射撃で母と右手を失った。
  103. ^ 林博史サイパンで米軍に保護された日本民間人の意識分析関東学院大学経済学部教養学会。
  104. ^ 『ジャパニーズ・エア・パワー 米国戦略爆撃調査団報告書 日本空軍の興亡』米戦略爆撃調査団(編)大谷内一夫(訳)光人社 208頁
  105. ^ 『ジャパニーズ・エア・パワー 米国戦略爆撃調査団報告書 日本空軍の興亡』米戦略爆撃調査団(編)大谷内一夫(訳)光人社 211頁
  106. ^ "Saipan: The Beginning of the End by Major Carl W. Hoffman, USMC Historical Branch, G-3 Division, Headquarters, U.S. Marine Corps1950"
  107. ^ "Saipan: The Beginning of the End by Major Carl W. Hoffman, USMC Historical Branch, G-3 Division, Headquarters, U.S. Marine Corps1950"
  108. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』509頁
  109. ^ 『日本陸軍「戦訓」の研究』白井明雄(著) 芙蓉出版書房 2003年 70頁
  110. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』513頁
  111. ^ 田中(1956年)
  112. ^ 田中(1983年)
  113. ^ a b 田中(1987年)
  114. ^ ドン・ジョーンズ(著)、中村定(訳) 『タッポーチョ―「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』 祥伝社、1982年、219頁。大場が同書末に寄せた文によると、同書の主な事実経過は史実に沿っているものの、ところどころフィクションが加えられている。
  115. ^ 中所豊『日本軍閥秘史―裁かれる日まで』1948年(中華民国三十七年三月初版) 中華国際新聞社
  116. ^ 小室(1995年)
  117. ^ 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年、263ページ。

参考文献[編集]

  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編) 『中部太平洋陸軍作戦〈1〉』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年
  • 小室直樹 『太平洋戦争、こうすれば勝てた』 講談社、1995年
  • 田中徳祐 『今日の話題. 戦記版 第三十二集 サイパン玉砕記』 土曜通信社、1956年
  • 同上 『我ら降服せず―サイパン玉砕戦の狂気と真実』 立風書房、1983年
  • 同上「岡兵団 われサイパン戦に生きて」、『別冊 太平洋戦争証言シリーズ(6)玉砕の島々 中部太平洋戦記』、潮書房、1987年
  • 平櫛孝「(不明)」、『文藝春秋臨時増刊 目で見る太平洋戦争史』昭和48年12月増刊号1973年、 180-182頁。
  • 同上 『サイパン肉弾戦―玉砕戦から生還した参謀の証言』 光人社〈光人社NF文庫〉、2006年
  • 宮城信昇 『サイパンの戦いと少年』 新報社、2002年ISBN 4-916224-12-4
  • Spector, Ronald (1985-10-12). Eagle Against the Sun: The American War With Japan. Vintage Books Ed edition. ISBN 978-0394741017. 
  • 『グアム戦跡完全ガイド』(社会批評社小西誠
  • 『サイパン&テニアン戦跡完全ガイド』(社会批評社小西誠
  • ジェームス・H・ハラス 『沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』 猿渡青児(訳)、光人社、2007年ISBN 4769813457
  • チェスター・W・ニミッツ 『ニミッツの太平洋戦史』 実松譲(訳)、恒文社、1966年
  • トーマス・B・ブュエル 『提督スプルーアンス』 小城正(訳)、学習研究社2000年ISBN 4-05-401144-6
  • 佐藤和正 『玉砕の島』 光人社、2004年
  • 下田四郎 『サイパン戦車戦』 光人社、2014年
  • チェスター・マーシャル 『B-29日本爆撃30回の実録』 ネコパブリッシング、2001年
  • 米戦略爆撃調査団 『ジャパニーズ・エア・パワー 米国戦略爆撃調査団報告書 日本空軍の興亡』 光人社、1996年
  • 白井明雄 『日本陸軍「戦訓」の研究』 芙蓉出版書房、2003年

外部リンク[編集]