沖縄戦における集団自決

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沖縄戦における集団自決(おきなわせんにおけるしゅうだんじけつ)では、第二次世界大戦太平洋戦争(大東亜戦争))時において、沖縄県で発生したとされる集団自決を扱う。(それ以外の時・場所で発生したものについては集団自決を参照。

概要[編集]

沖縄戦では、一般住民が集団で自殺する行為が発生し、これを「集団自決」と一般的に呼ぶ。主な事例としては、伊江村のアハシャガマ[1]など約100人、恩納村11人、読谷村チビチリガマなど121人以上(詳細は後述#チビチリガマの集団自決)、沖縄市美里33人、うるま市具志川14人、八重瀬町玉城7人、糸満市カミントウ壕など80人、座間味島234人、慶留間島53人、渡嘉敷島329人[2]などとされている。研究者の中には計1,000人以上との見方もあり[3]、これは沖縄戦における住民死者94,000人の1%強にあたる。

戦後、一部の文献(1950年の『鉄の暴風』など)では、日本軍の命令など、強制により自殺することになったとしているが、否定・疑問視する見解もある。

沖縄戦における県民の犠牲者に関する教科書への記載は、1974年に家永三郎著『新日本史』(三省堂)の脚注に「沖縄県は地上戦の戦場となり、10万をこえる多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死に追いやられた」と書かれたのが最初である。1982年の高校教科書『日本史』(実教出版)の脚注において、江口圭一日本軍による住民殺害を書いたところ、検定意見がついて除去されたが、これに沖縄県が猛反発したため次の検定より「住民殺害」という記述が教科書に載るようになった。しかし、1983年に家永三郎が教科書『新日本史』で日本軍住民殺害を記述したところ、当時の文部省は「(自殺である)集団自決が多かったのだから、集団自決をまず書け」との検定意見(修正意見)をつけた。この検定意見の適法性に関して争われた家永教科書裁判の判決において、理由中の事実認定では軍による住民の投降阻止の為の自決強要や殺害など家永の主張に沿う内容が含まれていたが、結論として「集団自決を記述せよとの検定意見は違法とまでは言えない」とされた。この裁判の結果、「集団自決」の記述が教科書に追加されることになったが、その「集団自決」が日本軍の強制であったか否かの論争が活発となっていった[4][5][6]

言葉について[編集]

「集団自決」という言葉は戦後、沖縄タイムスが刊行した『鉄の暴風』の執筆者の一人である太田良博が、沖縄戦当時使われていた「玉砕」という用語を言い換えて作り出した言葉である。戦争中に実際に使われていたのは「玉砕」「自決」「自爆」などであった。沖縄では『鉄の暴風』以後、この「集団自決」という言葉が主として使われてきたが、あくまでそれは軍の命令によって起こされたものとしてとらえられてきた。自決とは本来、軍人が敗北の責任をとって行うものであり、民間人が行うものではないとし、援護法で救護対象者の中で自決者に相当する区分があるにしても、日本語の本来の意味において沖縄戦では「集団自決」はなかったとする主張もある[7]。その一方で「集団自決」とは、「住民が犠牲的精神を発揮し自発的に皇国に殉じた」ことを表す言葉と捉えている者も存在する[8]

沖縄国際大学教授の石原昌家は「“集団自決”という言葉をたとえカギカッコ付きであっても使うべきではない。自決というのは自らの意思によって死んだという意味。したがって、軍人が自らの責任をとって死ぬことに使うことはできても、語句本来の意味から、住民に対しては集団自決という用語は使用できない。集団で命を絶った実態は、日本軍の作戦による強制や誘導、命令によるものだったので“強制集団死”“強制死”として本質をとらえ直さなければ、真実を見誤ってしまう」と主張している[9]

著名な事例[編集]

チビチリガマの集団自決[編集]

沖縄戦でもっともよく知られている集団自決事件として、チビチリガマでの事件[10]が挙げられる。

3月末から激しい爆撃があり読谷村の住民は近隣の者、多くはいくつかの親類で集まってガマで寝起きするようになり、チビチリガマには140人近くがいた。4月1日読谷村に上陸した米軍はチビチリガマに迫った。ガマの入り口に米兵が現れるとガマの中にいた3人(後述の従軍看護婦であった25歳の女性を含む)が竹槍を持って外の米兵に向かって行き2人が死傷した。外が米軍でいっぱいであることがわかりガマの中がパニックになると、南方帰りの在郷軍人(満期除隊した高齢の男性)がサイパンではこうして死んだといって、布団に火をつけて窒息死しようとした。だが4人の女が止め火を消した。ガマの中は騒然となった。4月2日米兵がガマの中に入ってきて投降を呼びかけ投降勧告ビラを残していった。

米兵が去った後、在郷軍人が「見たらいかんよ」「誰も見るな」と言いながらビラを人々から取り上げて回収すると、ガマの中に「もうどうにもならない。終わりだ。」と動揺が走り自決が始まった。在郷軍人が「だから昨日死んでおけばよかった」と言って再び火をつけたが、また4人の女が消した。従軍看護婦であった25歳の女性が、中国戦線で中国人住民がいかにむごく殺されたかを語り、死のうと言った。彼女は毒薬を持っており注射器でそれを家族親戚15人ほどに注射して人々は死んでいった。周囲の人は「あんなに楽に死ねる」と言ってうらやましがった。再び布団に火がつけられ、ガマの中はパニックになった。ガマでは84人が死んだがその半数は12歳以下の子どもである。

数十人はガマを出て米軍に投降した。ガマを出たとたん米兵に大歓迎を受けたと感じる者も[11]殺されるのではないかと思っていた者も[12]いた。なお、同じ読谷村内でもチビチリガマがら600m離れたシムクガマに避難した約1000人は英語の喋れる男性の誘導で1人も死ぬことなく投降した。こうした経緯は1983年ころまでまったく明らかにされなかった、それは率先して死のうと言った者も、その結果死にたくないのに死んだ者も、またその恨みを持つ者それぞれが同じ集落内の隣人や近親者であり、この「集団自決」の忌まわしい記憶を呼び覚ます事に強い抵抗があったからである。読谷村の集団自決については読谷村史がWEB上で公開されている[13][14]

事件の背景[編集]

日本兵の頭部を煮るアメリカ兵(1944年)。アメリカ兵は、日本兵戦死者の遺体を弄ぶ事があった。これは日本でも反米意識を高めるために報じられ、結果としてアメリカ軍への投降よりも死を選ぶ者を増やす事となった。

太平洋戦争(大東亜戦争)では、日本側の軍人をはじめ、戦闘に巻き込まれた民間人などの間で、沖縄戦をはじめとしてサイパンの戦い樺太の戦い満州の戦いで多くの集団自決が発生している。

集団自決について戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」という一節や[15]、当時の日本国政府が軍人国民に対して、降伏の方法などの国際的な常識を教えなかったこと、沖縄のマスコミが日本人虐殺事件(尼港事件済南事件)などについて住民に啓発活動をしていたこと[16]、米軍上陸の前に民間人をも無差別に殺傷する米軍による十・十空襲(無差別爆撃)や「鉄の嵐」と呼ばれた砲撃が行われた後に、中国戦線などから転戦してきた軍人・医療活動に従事経験を持つ従軍看護婦、地元の元出征兵士(在郷軍人会の会員など)による地上戦に対する体験談が民間人の集団心理に大きな影響を及ぼし、夥しい数の戦死や自殺へとつながった原因と考えられることも多い。また、当時のアメリカの軍人は、戦死した日本兵の遺体を切断する行為に及ぶことがあり、これらの事例は日本国内でも反米意識を植え付けるために盛んに報道されたため、「野蛮」なアメリカ軍に降伏しても命が助からないと考える者も多かった。

米軍上陸前まで日本軍が米軍に敗北するという認識をすべての県民がもっていたとはいえないが、海上を埋め尽くした米艦船を目撃した多くの県民の中には、米軍への投降のみが生存への唯一の道と当時考えていたと体験談で語った者も多い。当時の国際法上捕虜になるのは軍人だけで民間人は保護されることになっていたが、住民も捕虜になるのは恥辱であるとされていた[17]

軍部の台頭による国粋主義大和民族民族優越主義)の暴走とそれに伴う教育の強化(神国化教育軍事教練などの精神教育)が大きな原因であるという意見も存在する。

集団自決については、議論があるが、沖縄戦に参加したひめゆり学徒隊の生き残りの本村つるの証言でも戦闘がはじまる少し前までは「戦闘がおわれば、またうちに戻れる、ちょっとした遠足気分にしか考えていなかった」と当時のことを回想し述べており、上陸前に米艦船で海面も見えなくなったのを見た人は軍民ともに多く、そのときになって初めて米軍による全域の占領を初めて悟ったと言う体験談が多い。実際、戦場で追い詰められた軍人や住民の多くは、占領されたときのことをあらかじめ想定する時間がなかったため、生か死かの2択しか基本的に発想できなかったほどであった[要出典]

なお、軍の強制(軍命令)について議論があるのは前述のとおりであるが、詳細は#集団自決が軍の強制か否かを参照。

集団自決が軍の強制か否か[編集]

沖縄戦集団自決には、それが軍の強制であったかどうかで論争が存在する。 戦後の琉球政府の事務上の都合で軍命令はあったとされた例、一将校の精神演説をそのまま軍命令として認識し捉えた例、手榴弾を渡されたことが軍命令があったとされた例、軍機違反のため民間人が壕を追い出されたという経験がそのまま軍強制があったと解釈される例、なんらかの理由で戦闘や軍人自決に巻き込まれたことが軍の強制があったとする例など、地域の状況・個人の捉え方など人によって定義も様々である。軍隊としての組織的命令は無く、むしろ軍隊は自決を阻止しようとしたとする説もある。以下に両論を載せる。

軍の強制によるものとする立場[編集]

研究の経緯[編集]

集団自決がその実態としては日本軍の強制であるという研究者の見解は、1984年の家永教科書裁判第3次訴訟時に研究者により示され、その後に成書として出版されている[18][19]。また、以後の教科書検定撤回運動の際などに、新聞記事にも取り上げられるようになった[20]沖縄国際大学講師の大城将保は「これ以後集団自決が日本軍の強制であることは、研究者の間でも定説となり多くの教科書にもそのように書かれてきた」と主張している[21]

現在までの沖縄戦に関する歴史書の多くは、集団自決は日本軍に強いられたものと主張している[22]。もっとも、軍の強制とする立場の大城将保は、1983年段階では「事実関係については今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない」と否定説に立つ調査について評価していた[23]。また、「『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」と述べた旨も報道された(1986年6月6日付神戸新聞)が、大城は後の自著で捏造記事であると述べている(詳細は後述)。

なお、家永教科書裁判では沖縄戦に関する部分の検定は合憲とされたが、沖縄戦における集団自決については裁判所は判決文の中で、「(当時の)学会の状況にもとづいて判断すると、本件検定当時における沖縄戦に関する学会の状況は(中略)日本軍の命令によりあるいは追いつめられた戦況の中で集団自決に追いやられたものがそれぞれ多数にのぼることは概ね異論のないところ」とした。

主張される強制の事実[編集]

日本軍は、民間人に適用すべきではない戦陣訓や防諜[24]を理由として米軍への投降をしないよう命令していた。投降は敵に情報を提供し日本軍を不利にする行為として、治安維持法の「国体の変革を目的とする者」とされた例もあり、投降者への狙撃[25]も行われた。元大本営参謀厚生省引揚援護局厚生事務官馬淵新治は、沖縄戦での軍による強制によって、なんらかの形で住民が死亡する事例が多数起きていたことを証言した[26]。将兵の一部が住民の避難していたガマに立ち入り、『軍の作戦遂行上の至上命令である、立ち退かないものは非国民通敵者として厳罰に処する』などと言い、住民を威嚇して壕からの立ち退きを命じて自己の身の安全を図り民間人を米軍の砲撃爆撃下にさらし死に追い込んだ例、貧弱極まりない個人の食糧を『徴発』と称して略奪した例、住民の壕に保身から進入した兵士の一団が無心に泣き叫ぶ乳児の親に対して『此のまま放置すれば米軍に発見される』と殺害を強要した例などがある[27]

このように住民が米軍支配下に入ることを認めなかったことから、集団自決は、日本軍の強制と切りはなして考えることはできないと主張する[17]戦陣訓の中の「生きて虜囚の辱を受けず」という一節や、当時の日本政府や軍人が国民に対して、鬼畜米英と恐怖心を植えつけ[28] [29] [30]、投降の方法などを教えなかったことなどが、多くの軍人や民間人に影響を及ぼし、自殺へとつながったとする意見がある。

当時沖縄では、根こそぎ動員により15歳未満の子供から65歳以上の高齢者まで徴兵され、日本軍の指揮下にあった[31]。行政組織の上に軍が指揮・命令する形で住民を完全に統制し、天皇のために死ぬことは尊いという考え方と共に、捕虜となることが確実ならば住民は死ぬべきであるという命令・訓示があらかじめ行われている。また実際に軍管理下の手榴弾を住民や従軍看護婦に配ることが行われた例もある[32]。こうした状況から安仁屋政昭は軍による直接の命令がなくても軍により死に追い込まれたものであり強制されたものだとしている[18]。林博史は同様な状況の2つの壕において、日本軍が同居した壕では「集団自決」がおこり、日本軍の存在しない壕では「集団自決」がおきなかった例を具体的に指摘し、多くの例を検討した上で直接の命令がなくても軍による強制と考えるべきとしている[33]

強制の証拠[編集]

慶良間諸島の場合については、当時の兵事主任(あるいは助役)やその親族が、「集団自決」の命令が直接に日本軍からきたと証言している。具体的には、渡嘉敷島では兵事主任富山真順(戦後死去)が、戦後「軍から命令された」と証言しているし、金城重明が兵事主任からその話を聞いたことを現在も証言している[34]。慶良間島では、宮里盛永、宮平春子及び宮村トキの3人(それぞれ兵事主任の宮里盛秀の父親と妹達)が、宮里盛秀より「軍から命令が出ている」と聞いた旨を手記に書いたり、証言している[35]。ただし、宮里盛秀の弟の宮村幸延は、後述のように軍からの命令は無かった旨の証言をしている。

軍の強制を否定・疑問視する立場[編集]

集団自決の強制を否定する意見[編集]

集団自決は「軍の命令だった」とする意見や、「強制があった」や「関与があった」とする曖昧な指摘を、否定・疑問視する意見が、軍命をしたとされる本人や体験者、研究者、ジャーナリスト等から出ている。

渡嘉敷島の陸軍海上挺身戦隊第三戦隊第三中隊長、皆本義博中尉(陸士57期)によれば、「戦後、沖縄の集団自決は軍の命令によるものだという説が出ましたが、そんなことはありえません。むしろ渡嘉敷の方々は、命をかけて父祖の土地を守ろうと会津白虎隊のような精神で殉ぜられたのではないかと考えます。そのような気質の方ばかりでした。また、そもそも軍には村民に命令を下す権限はなく、集団自決を命じたなどという証拠は何もない。軍が手榴弾を渡したということもありません。当時、村では臨時の防衛隊が組織されていて、これは在郷軍人を長として協力者を集めたものでした。いわば義勇兵です。彼らは手榴弾などを持っていました。それが、村民の手に渡るのは容易だったのです。」と回想している。

2009年5月1日発売のうらそえ文藝第14号で、沖縄県文化協会長星雅彦沖縄タイムス琉球新報上で寄稿記事を執筆していた上原正稔は慶良間諸島の赤松嘉次隊長と梅澤裕隊長が軍命を出した事実は一切なく、沖縄県内のマスコミによってスケープゴートとされているという内容の論文を発表した[36][37]。2009年6月9日には沖縄県庁で星雅彦、上原正稔は記者会見を開き、「あたかも2人を悪者に仕立てた沖縄タイムスと琉球新報の責任は非常に重い」「真実が明らかになった今、沖縄県民は2人の隊長に謝罪し、人間の尊厳を取り戻すべきだ」「(「鉄の暴風」は)現地調査しないまま軍命による集団自決をでっち上げたという結論に達した」と訴えた[36][37][38][39]

命令者とされてきた赤松元大尉の弟と梅澤元少佐は、後述のような証言・著書等を証拠として[40][41] 、命令をしたと断言してきた大江健三郎の『沖縄ノート』[42])、家永三郎の『太平洋戦争』に関し、名誉毀損による損害賠償、出版差し止め、謝罪広告の掲載をもとめ、大江健三郎と岩波書店を訴えるに至った(「集団自決」訴訟)が、請求は退けられた。

日本会議は、「日本軍の強制性を強める修正を行うことは教科書への国民の信頼を傷つける」として記述の再訂正に反対する決議を採択した[43]。また、議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」も否定的な見解を示している。

証拠が不十分との研究[編集]

渡嘉敷島における「集団自決」について、赤松嘉次隊長による命令によるものという沖縄で言われてきたことに対し、それを否定したのが曽野綾子の『ある神話の背景』である。曽野は、隊長命令説の根拠が曖昧で疑わしいことを、赤松元隊長や隊員への取材や渡嘉敷島現地での取材を通して明らかにしたとする。曽野は「神と違って人間は、誰も完全な真相を知ることはできない」とし、「私は、直接の体験から『赤松氏が、自決命令を出した』と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった」と言うより他はないとした。この著書について仲程昌徳琉球大学法文学部教授は「この著書は公平な視点でルポルタージュされた「本土の作家の沖縄戦記」である。曽野の調査が進んでいくにしたがって集団自決は疑わしくなっていくばかりではなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。これまで集団自決のあらゆる著書で引用された『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられた。」と評価した[44]

曽野の調査について、『沖縄県史』の解説文で梅澤命令説を記述した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員も、「曽野綾子氏は、それまで流布してきた従来の説をくつがえした。『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの記述の誤記や矛盾点などを丹念に指摘し、赤松隊長以下元隊員たちの証言をつき合わせて、自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。事実関係については今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない」と述べた[23]

1986年には神戸新聞が「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の命令なかった」との見出しを掲げ、大城が「紀要」に梅澤元隊長の手記を掲載したうえ、梅澤命令説の根拠となった手記「血塗られた座間味島」を書いた宮城初枝自身が「真相は梅澤の手記のとおりであると言明している」と記述し、実質的に県史を修正したと報じた。同時に大城将保主任専門員の「宮城初枝さんからも何度か話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」というコメントを掲載した[45]

しかし、その後、大城は1989年の『沖縄戦の歪曲と真実』のなかで、「私は『神戸新聞』からインタビューを受けたこともないし、掲載紙が私や史料編集所へ送られてきた形跡もまったくないし、最近までこのような記事の存在さえ知らなかった。念のため複数の当時の同僚にも確かめてみたが誰も知らないという返答だった。」と否定し、沖縄資料編集所の紀要に梅澤手記を載せたが、それについては手記を載せたことが『沖縄県史』を訂正したことにはならない、と主張している。

強制を否定する証拠[編集]

1985年7月30日付神戸新聞では「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった。」という大見出しの下、軍命令はなかったとする島民の証言を掲載し、座間味島の集団自決は「米軍上陸後、絶望した島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道した。そこには宮城初枝が「梅澤少佐に自決を求めたが、「最後まで生き残って軍とともに戦おう」と武器提供を断られた」という証言が掲載されている。

慶留間島の大城昌子によれば「前々から阿嘉島駐屯の野田隊長(海上挺進第三戦隊長・野田義彦少佐)さんから、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて、早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです」、「米軍にひきいられながら、道々、木にぶらさがって死んでいる人を見ると非常にうらやましく、英雄以上の神々しさを覚えました。(自分がなさけなくて)しまいには、死人にしっと(嫉妬)すら感じるようになり、見るのもいやになってしまいました」と述懐している[46]

また、2008年には座間味島で梅沢少佐のもとで防衛隊員であった宮平秀幸が梅澤命令説を否定する新証言を行った。宮平によれば、1945年3月25日10時ごろ、野村村長や村三役(宮里盛秀助役)、女子青年団の宮城初江らが、梅沢少佐のいる本部壕を訪ねて「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英に獣のように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」「すでに住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」と梅沢少佐に頼み、自決用の弾薬や手榴弾、毒薬などの提供を求めたが、梅沢少佐に断られた。そのため同日午後11時ごろ、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、野村村長は「梅沢少佐に自決用の弾薬類をもらいに行ったが、もらえなかった。皆さん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と話し、住民たちはそれぞれの家族の壕に引き返したという。これらのやりとりを宮平秀幸は「すぐ近くで聞いていた」とし、また彼は梅沢少佐の元部下から生前に送られた手記を保存しており、そこにも、まったく同じことが書かれていると語っている。[47]
しかし、大江・岩波沖縄戦裁判の大阪高裁(2008年10月31日判決)は、宮平秀幸新証言は「自らが述べてきたこととも明らかに矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも多くの証拠と齟齬している。」「明らかに虚言であると断じざるを得ず、到底(証拠)採用できない。」とした。最高裁(2011年4月21日判決)も高裁判決を支持した。

援護法適用のための偽証との見方[編集]

座間味島の事例などについて、軍による強制であるとの証言が行われてきたのは、援護法の適用を受けるための偽証だったのではないかとの見方もある。

宮城晴美は「厚生省の職員が年金受給者を調査するため座間味島を訪れたときに、生き証人である母(宮城初枝)は島の長老に呼び出されて命令があったと言って欲しいと頼まれ、隊長命令は聞いていないが、命令があったと偽証した」(『母の遺したもの』)と自著に記していた。しかし大江・岩波沖縄戦裁判が始まると一転して、この部分は米軍上陸前夜のその時点の出来事を直接述べたのであり、集団自決自体は軍の強制であると新聞で主張した。

桜井よしこは、週刊新潮の自身のコラム『日本ルネッサンス』において、宮城初枝は、上記の告白後、「国の補償金がとまったら、弁償しろ」などと村民等から非難を浴びることとなったが、彼女が再び発言を変えることはなく、数人の住民も真実を語り始め、自決命令は宮里盛秀助役が下した、と書いている[48]

座間味島の宮里盛秀助役の弟の宮村幸延は、「兄の宮里盛秀(当時の助役・兵事係)は軍から自決命令を受けていない、梅澤命令説は援護法の適用を受けるために創り出されたものであった」[49]と証言したと伝えられている。

戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄は、「遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」「戦後、島の村長らが赤松嘉次元大尉に連絡し、命令を出したことにしてほしいと依頼し、赤松元大尉から同意を得て(本当は命令していないが)命令があった事となった」と証言している[50]

現地の関係者から聞き取り調査をした中村粲は、「命令がなかったことが明らかであり、年金支給のために軍命令があったという証言が発生した」という調査結果を出している[51]

家永三郎は、『太平洋戦争』の第二版(1986年)では、赤松命令説に関する記述を削除している(ただし梅澤命令説は削除していない)。

しかし、大江・岩波沖縄戦裁判の大阪高裁(2008年10月31日判決)は、次のように判示した。最高裁(2011年4月21日判決)も支持している。

  • 宮城晴美『母の遺したもの』について。「『母の遺したもの』から集団自決について援護法の適用のために梅澤命令説が捏造されたとは 認めることはできない。」
  • 宮村幸延の「証言」と題する親書について。 作成経緯に疑念がある上、宮村幸延は、「集団自決が発生した際には、座間味島にいなかったのであって、集団自決は 盛秀の命令で行われたとか、梅澤命令が実際にはなかったなどと語れる立場になかったことは明らか」 「当時の 事情を知らず、日本軍と村の関係や集団自決の背景には通じていないのであり、自決命令について語れる立場になかった」として、証拠採用しなかった。
  • 照屋昇雄の証言について。 「反対尋問を経ていないこと」「あいまいな点が多く、裏付け調査がされた形跡もないことなど問題が極めて多いものといわざるを得ない」よって「照屋昇雄の話は全く信用できず」として、証拠採用しなかった。

以上のように原告提出の証拠の信用性を否定した上で、「村当局から、援護法適用のため自決命令を出したことにしてくれなどという依頼がなされた形跡はなく、梅澤もその様な依頼を受けたことを述ぺていない。厚生省は現地調査をしているのであり、旧日本軍側への調査なしに(援護法の適用が)なされたとは考えにくい」
「梅澤命令説及び赤松命令説は、沖縄において援護法の適用が意識される以前から具体的な内容をともなって存在していたことが認められる」。「日本軍がその作戦に様々な形で住民を協カさせ、軍と行動を共にさせるなどして集団自決などの悲惨な結果を招いていることは沖縄戦全体の特徴(であるとして厚生省は広く適用を認める認定要綱を作成しており、なかでも慶良間諸島は)戦闘に協カした住民を広く準軍属として処遇することになっていたのであるから、梅澤命令説及び赤松命令説を後日になってあえて握造する必要があったとはにわかに考え難い。」
よって「援護法適用のために捏造されたものであるとする主張は採用できない」とした。

議論の曖昧化への批判[編集]

秦郁彦は、証言の裏づけも見つからない状況の中で「関与」というあいまいな言葉にすり替えて軍の強制性を語る人間が増えており、これは慰安婦問題と同じことが繰り返されていると批判している[52]。また、日本軍の手榴弾が自決用に使われた事を指して「軍の関与があった」としている人間がいるが、兵器不足であり、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手榴弾は貴重な武器だった。それを現地召集の防衛隊員に持たせていたものが、家族の自決に流用されただけなのに「手榴弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのは問題だとも批判している[53]

論争に関する社会問題[編集]

法廷闘争[編集]

2005年8月に座間味島の元戦隊長であった梅澤裕と、渡嘉敷島の戦隊長であった赤松嘉次の弟が、大江健三郎岩波書店大阪地裁に提訴した。二人は大江健三郎著『沖縄ノート』の記述が、慶良間諸島における「集団自決」は隊長の命令によるものとすることで、元戦隊長の名誉を毀損し、遺族の敬愛追慕の念をそこなうものであるとして、出版差し止めや謝罪広告、慰謝料を請求した。原告側は宮城晴美著『母の遺したもの』や曽野綾子著『ある神話の背景』などをあげ、「集団自決」に対する元戦隊長の命令は否定されているとした。

2007年11月9日、大阪地裁にて『沖縄ノート』の著者である大江健三郎の本人尋問が行われた。大江は「現地調査はしなかったが参考資料を読み、また『鉄の暴風』の著者や沖縄の知識人から話を聞き、「集団自決」は日本軍の命令によるものという結論に至った」とした。これについて原告である渡嘉敷島の元戦隊長・赤松嘉次の弟、赤松秀一は「大江さんは直接取材したこともないのに、いい加減なことを書き、憤りを感じた」と批判した。

2008年3月28日大阪地裁の判決においては、原告の主張は退けられ、被告の大江・岩波側の勝訴となった。焦点となった『母の遺したもの』については、著者の宮城晴美が裁判でみずからの記述に問題があったとし、被告の側に立った証言を行なった。座間味島の戦隊長の命令については、日本兵によって住民に手榴弾が渡されたなどの証言が「梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る」とされた。『ある神話の背景』については「命令の伝達経路が明らかになっていないなど、命令を明確に認める証拠がないとしている点で赤松命令説を否定する見解の有力な根拠にはなる」としながらも「取材対象に偏りがなかったか疑問が生じる」「軍の関与を否定するものともいえない」とされた。司法が歴史研究に口を挟むことは、思想や学問の自由に対する迫害になりかねないので、裁判所による軍命と集団自決に関する明確な判断は避けられた。

原告は判決を不服として控訴したが、2008年10月31日に大阪高裁は控訴を棄却[54]、原告側は最高裁判所に上告したが、最高裁も大阪地裁の判断と同じく、隊長が自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、「軍の関与」など合理的資料若しくは根拠があり、当時の被告が隊長が自決命令をしたと「信じるに相当の理由」はあり、それは「名誉毀損」にはあたらないとして原告の訴えを退けた。

集団自決に関する沖縄県民集会[編集]

この大江・岩波沖縄戦裁判は、さらに教科書検定問題につながっていく。2008年度分の教科用図書検定(教科書検定)で、軍による関与という記述について検定意見がつき、関与を意味する部分が削除された。この検定の参考資料として文科省は、21の図書とともに大江・岩波沖縄戦裁判における元戦隊長の証言もメディアに公表した。

教科書検定に対する沖縄県民の反発は急速に拡大した。沖縄のマスコミは連日この問題を大きく取り上げ、教育関係者や市民団体の抗議も相次いだ。大江・岩波沖縄戦裁判の被告を支援する団体の活動も活発となった。県議会及び全市町村議会において「検定意見撤回・軍関与記述の復活」を求める決議案が可決された[55]

2007年9月28日、山崎拓代議士は沖縄において「渡海文科大臣は自分の派閥だ。教科書検定意見に反対するように、自分から言っておく」と発言し[56]、翌日の9月29日には宜野湾海浜公園において、主催者発表で11万人が参加したとする超党派の県民大会が開催された。大会では、文部科学省の教科書検定意見の撤回を求め、集団自決の軍による強制という記述の復活を求める決議があげられた。なお、このときの11万人という主催者発表の動員人数に関する議論に関しては後段を参照のこと。

沖縄県民集会の参加者数の問題[編集]

集会に11万人が集まったとする主催者側発表が琉球新報(見出しで11万6000人)、沖縄タイムス(同11万人)、朝日新聞(同11万人)等で大々的に報道された。これに関して「スペース的に不可能ではないか」などの疑問の声が上がった。世界日報が「参加者は4万2千人である」と報道した[57]のをはじめ、産経新聞も“関係者から聞いた数字”として4万3千人と載せた[58]新しい歴史教科書をつくる会(以下「つくる会」)の藤岡信勝は、「実数はおよそ2万人だ、政治的なキャンペーンに政府や文科省が動かされてはいけない」と批判している[59]日本経済新聞では「県警調べ約4万2千人」と載せた[60]西日本新聞は政府関係筋の数字として4万人程度であると指摘した上で、主催者発表の参加者数は虚偽であると主張して問題視する意見が出てきており、特に本土では、そういった人間に対しての嫌悪感が広がっており、抗議メールが殺到していると報じた[61]

週刊新潮惠隆之介の「反対集会が開催された会場の最大収容人数は5万人で11万人を収容するには肩車の上に肩車をしなければ不可能な事、当日の会場には日傘を差したり、敷物の上に座っている人がいるなど、相当な空きスペースがあった事から参加者は最大で3万5千人程度だ」との意見を掲載した一方で主催者発表の11万人のみを報道することについて他社を批判した産経新聞の報道について「例えば北朝鮮による拉致集会の参加者だったら産経は主催者発表を参加者数として報じるでしょう」との田島泰彦のコメントも掲載した[62]。また、同号では沖縄県警が参加者人数は公開しないと言明していることや、屋山太郎の数は問題ではないとの主張も掲載している。熊本大学の2人の学生が琉球新報一面に掲載された県民大会の空中写真に写った人数を計測した調査によれば、参加者の数はそれを更に下回る1万3千人にとどまったと藤岡は発表した。日本会議熊本や「つくる会」は、それを根拠として主催者発表の参加者数を誇大発表と断じ「政治的キャンペーンをするな」等の批判を行った。

テイケイが、琉球新報が一面掲載した県民大会の空中写真を拡大して細かく分割して1人ずつカウントして集計した視認可能の合計が1万8千人程度であり、建物、木陰、写真外などを推定で加えても総数1.9万~2万人と算出し発表し、各政党や各新聞社、出版社に送付し、これを受けて産経新聞は10月28日朝刊に掲載した。また、週刊新潮もテイケイの数字を使い『本当は<1万8179人>だった11万沖縄県民大会』との記事を掲載し、沖縄タイムスが「22万の瞳に答えよ」との記事を人数を11万からさらに倍加したと非難した[63]

また、産経新聞によると全日本学生文化会議の学生達が9月29日の沖縄県民集会について沖縄県民を対象にアンケートをおこなった結果、「参加した」が11.2%だったと報じ、高校サッカーバスケットボールなどの部活動単位で集会に動員されたという生徒も多数いるというその調査結果を掲載した[64]

こうした批判もある中、当時の福田康夫総理大臣は国会で参加者は11万人であると主催者発表のままの答弁をし、教科書に軍の関与があったとする記述が復活する流れとなった。

異論を許さない雰囲気への懸念[編集]

県民大会では、仲井眞弘多知事が職員に参加を促したほか、県教育長も県立学校長らに呼び掛け、那覇市は公費(約40万円)で参加者の送迎バス10台を借り切った。このような官民一体となった一様な空気には、懸念する声も出た[61]

沖縄県出身の芥川賞作家・大城立裕は、今回の集団自決をめぐる沖縄の県民集会や雰囲気が「異論を許さない雰囲気になっている」と指摘し、「危うさを感じる」と懸念を表明した[61]

2009年6月9日の記者会見で、作家の上原正稔は軍による自決命令はなかったとした結論を2007年当時に琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」と説明しており、沖縄県文化協会長の星雅彦は「今回は勇気を持って真実を知らせるべきと決心した」と述べている[37][36][38][39]

参考文献[編集]

2007年に文科省が教科書検定で参考とした図書[編集]

  • 家永三郎『太平洋戦争』岩波書店〈日本歴史叢書〉、1968年
  • 同『太平洋戦争 第2版』岩波書店〈日本歴史叢書〉、1986年
  • 石原昌家『証言・沖縄戦:戦場の光景』青木書店、1984年
  • 石原昌家ほか『争点・沖縄戦の記憶』社会評論社 2002
  • 大江健三郎『沖縄ノート』岩波書店〈岩波新書〉、1970年
  • 大城将保『沖縄戦:民衆の眼でとらえる「戦争」』高文研、1985年
  • 大田昌秀『写真記録・これが沖縄戦だ(改訂版)』琉球新報社、1977年
  • 同(編・著)『総史沖縄戦:写真記録』岩波書店、1982年
  • 同『沖縄戦とは何か』久米書房、1985年
  • 沖縄県沖縄史料編集所(編)『沖縄資料編集所紀要、第11号』沖縄県沖縄史料編集所、1986年
  • 沖縄タイムス社『鉄の暴風』沖縄タイムス社、1950年
  • 嶋津与志(大城将保の筆名)『沖縄戦を考える』ひるぎ社〈おきなわ文庫〉、1983年
  • 下嶋哲朗『沖縄・チビチリガマの“集団自決" 』岩波書店〈岩波ブックレット〉、1992年
  • 曽野綾子『ある神話の背景 ― 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』文藝春秋、1973年 ISBN 978-4569564760
  • 富村順一ほか『隠された沖縄戦記』JCA出版、1979年
  • 仲程昌徳『沖縄の戦記』朝日新聞社〈朝日選書〉、1982年
  • 林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001年
  • 藤原彰(編)『沖縄戦-国土が戦場になったとき』青木書店、1987年
  • 宮城晴美『母の遺したもの-沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』高文研、2000年
  • 森山康平『図説沖縄の戦い:太平洋戦争の戦場』河出書房新社、2003年 ISBN 4-309-76031-7
  • 琉球政府(編)『沖縄県史 第8巻』琉球政府、1971年

その他[編集]

関連項目[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 伊江島 アハシャガマ
  2. ^ 『琉球新報』2007年6月22日
  3. ^ 沖縄戦と「集団自決」―― 何が起きたか、何を伝えるか」『世界』764号、岩波書店、2008年。
  4. ^ 林博史『歴史学研究』
  5. ^ 書き換えの流れ 2007年6月20日沖縄タイムス[リンク切れ]
  6. ^ せめぎ合い 2007年4月30日沖縄タイムス[リンク切れ]
  7. ^ 沖縄タイムス2005年7月2日 朝刊26面 「集団自決」を考える(18) 識者に聞く(1) 安仁屋政昭沖国大名誉教授 すべてが軍の統制下に 足手まとい恐れ死選ぶ[リンク切れ]
  8. ^ 太田は自らが作り出した言葉がそのような捉えられ方をされていることに、のちに反省の意を表している。
  9. ^ 沖縄タイムス2005年7月3日 朝刊26面「集団自決」を考える(19) 識者に聞く(2) 石原昌家沖国大教授 住民には当てはまらぬ 実態ゆがめる教科書懸念[リンク切れ]
  10. ^ 読谷村役場 - 読谷村の戦跡めぐり[リンク切れ]
  11. ^ 体験記 - 読谷村史
  12. ^ 体験記 - 読谷村史
  13. ^ 下嶋哲朗(1992年)。
  14. ^ 読谷村史[リンク切れ]9
  15. ^ 戦後30年して帰国した小野田寛郎は出征前に、軍からは「最後の一人になっても生きて戦え」と命令を受けていたが、母親からは短刀を渡され「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げ、小野田家の名誉を辱めないで下さい」と言われており、当時は敵に捕まることを「恥」とする風潮が日本には存在していたことがうかがえる(戸井十月著 『小野田寛郎の終わらない戦い』)
  16. ^ 沖縄の実態軍命令は創作!沖縄集団自決
  17. ^ a b 林博史「沖縄戦記録・研究の現状と課題 ―“軍隊と民衆”の視点から―」東学院大学経済学部一般教育論集『自然・人間・社会』第8号、1987年4月。
  18. ^ a b 安仁屋政昭『裁かれた沖縄戦』晩声社、1989年。
  19. ^ 石原ほか(2002年)。
  20. ^ 沖縄タイムス、2005年7月「集団自決」を考える(18)識者に聞く(1)~(2)[1]あるいは[2]など
  21. ^ 大城(2007年)。
  22. ^ 安里進ほか『沖縄県の歴史』山川出版、2004年。
  23. ^ a b 嶋津与志(大城将保の筆名)(1983年)。
  24. ^ 昭和19年牛島司令官の7項目の訓示の7項目目に「厳ニ防諜ニ注意スヘシ」とある
  25. ^ 沖縄県公文書館所蔵
  26. ^ 沖縄県公文書館所蔵
  27. ^ 大阪地方裁判所民事第9民事部(深見敏正裁判長2008年3月28日判決全文
  28. ^ 沖縄県公文書館所蔵
  29. ^ 沖縄県公文書館所蔵
  30. ^ 沖縄県公文書館所蔵
  31. ^ 沖縄県公文書館所蔵「3人の捕虜」読谷バーチャル平和資料館
  32. ^ 沖縄県公文書館所蔵沖縄県公文書館所蔵
  33. ^ 林(2001年)。
  34. ^ 琉球新報
  35. ^ 沖縄タイムス2007年7月6日および「集団自決」訴訟の陳述書。
  36. ^ a b c 「集団自決の軍命はなかった」作家の星雅彦、上原正稔氏が会見 沖縄県庁 世界日報 2009年6月10日付 閲覧
  37. ^ a b c 沖縄集団自決「軍の命令ではない」 地元誌が特集記事 産経新聞 2009年6月10日付 閲覧
  38. ^ a b 1/2【沖縄集団自決】「軍命令はなかった」-『うらそえ文藝』会見・前半【桜 H21/6/15】 日本文化チャンネル桜 2009/06/15
  39. ^ a b 2/2【沖縄集団自決】「軍命令はなかった」-『うらそえ文藝』会見・後半【桜 H21/6/15】 日本文化チャンネル桜 2009/06/15
  40. ^ 書証一覧
  41. ^ 赤松手記
  42. ^ 沖縄ノートIX-「本土」は実在しない
  43. ^ 「議員懇」教科書修正に反対
  44. ^ 仲程昌徳(1982年)。
  45. ^ 神戸新聞1986年6月6日
  46. ^ 『図説沖縄の戦い:太平洋戦争の戦場』 24頁
  47. ^ 産経新聞2008年2月22日
  48. ^ 『週刊新潮』2007年1月4日・11日号
  49. ^ 神戸新聞1987年4月18日
  50. ^ 産経新聞2006年8月27日
  51. ^ 産経新聞2007年10月3日
  52. ^ 2007年10月3日産経新聞朝刊正論
  53. ^ 産経新聞2007年7月6日朝刊「正論」
  54. ^ 沖縄タイムス2008年10月31日『元戦隊長の控訴棄却 「集団自決」訴訟
  55. ^ 強制でなく関与として可決-沖縄県議会意見書
  56. ^ 惠隆之介 「虚構の『軍命令・強制説』の復活を許さない国民決起集会」(2007年11月13日)における証言
  57. ^ 『世界日報』2007年10月2日
  58. ^ 『産経新聞』産経抄、2007年10月3日
  59. ^ 『報道ステーション』2007年10月4日
  60. ^ 『日本経済新聞』2007年10月9日
  61. ^ a b c 『西日本新聞』2007年10月10日
  62. ^ 『週刊新潮』2007年10月18日号
  63. ^ 『週刊新潮』2007年11月1日号
  64. ^ 『産経新聞』2007年11月20日

外部リンク[編集]