チビチリガマ

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チビチリガマは、沖縄県中頭郡読谷村波平にある鍾乳洞ガマ)。1945年昭和20年)、沖縄戦における集団自決(集団死)が行われた場所である。

対照的に米兵の説得により団自決による死亡者は出なかったシムクガマも合わせて解説する。

戦前のガマ[編集]

読谷村の波平地区には、チビチリとシムクという2つのガマがある。「チビチリ」は「チビ」が「尻」を、「チリ」が「切る」を意味するが、チビチリガマは浅い谷の底にあるが、谷底を流れる細い川がチビチリガマへ流れていくが、最後はどこへ流れていくかわからないことからこの名が付いた。

「シムク」は「シム」が「下」を、「ク」が「向」を意味し、シムクガマも谷の下にあることからこの名が付いたといわれる。ガマ内の温度は通年ほぼ一定しており、夏は涼しく冬は暖かいことから、村民は憩いの場として利用していた。

米軍上陸[編集]

1945年4月1日、読谷村にアメリカ軍が上陸し、読谷村を爆撃、破壊した。村民は、1944年(昭和19年)10月10日の空襲(十・十空襲)以来、爆撃を受けるたびにガマへ逃げ込んでいた。上陸前の連日の爆撃は、朝8時頃から始まり夕方5時頃には収まっていたが、上陸を間近に控えた3月23日から上陸前日の3月31日までの爆撃は昼夜通しで行われた。チビチリガマは、読谷村の浜から600メートル、シムクガマは1200メートル内陸に入った場所にあり、4月1日午前9時半(遅くても10時頃)には、アメリカ軍がチビチリガマへ到着して通過した後、まもなくシムクガマへ到達した。シムクガマには、警防団の本部が設置されていた。団長は銃を持つ元日本兵で、団員は13〜15歳までの少年で構成されていた。

集団自決・集団死[編集]

チビチリガマ[編集]

4月1日、アメリカ兵がチビチリガマへ最初に来た際、ガマの入り口まで降りて「デテコイ」と呼びかけて去っていった。「鬼畜米英」と教えられていたアメリカ兵が突然目の前に現れたことで、村民は恐怖のあまりパニック状態に陥るが、その時18歳の女性が「アメリカを恐れることはない。竹槍で戦いなさい」と言ったことで落ち着きを取り戻した。チビチリガマやシムクガマに避難した住民は全員竹槍を持ち込んでいたが、アメリカ軍が浜から上陸したことを知らない住民たちは、敵は落下傘で降りて来ただろうから人数も少ないから竹槍で十分戦えると考え、竹槍を手に取り入り口に向かった。村民の一部は、「殺せ」「やっつけろ」「天皇陛下万歳」と口々に叫び、ガマから飛び出して突撃し、2メートルほどの竹槍を、7メートル以上上のガマの崖上に並んでいたアメリカ兵に向かって突き出した。崖の上から機関銃手榴弾の攻撃が降り注ぎ、先頭にいた2人の男が狙撃された。アメリカ兵は救出をあきらめて立ち去り、「安心して出てきなさい」といった内容のビラと一緒にチョコレートや缶詰、タバコを置いていったが誰もビラを信じず、食べ物を口にする者は一人もいなかった。元日本兵を名乗る男が、ガマ内の前と奥をつなぐ場所に持ち込んでいた布団を積み上げて火をかけ、煙により死のうとしたとき、一人の女が炎に飛びかかり山を崩し火を消した。

4月2日時点のガマは、過密状態で風が通らず、酸欠状態になっていた。午前8時頃に再びアメリカ兵が来て、ガマから出るよう呼びかけるが、元日本兵の「出て行けば殺される」という言葉を信じ、ガマを出る者はいなかった。その後、娘から「殺して」と頼まれた一人の母親が、娘の首を包丁で刺した後、続いて息子を包丁で刺すと、自決する者が続出し、元日本兵が再び火を付けると、炎と煙がガマ内に充満した。煙で苦しむよりはアメリカ兵に撃たれて楽に死のうと考えた者はガマの外に出たことで助かり、都屋の収容所に移送された。

チビチリガマへは世帯数31、総人口194名のうち139名が入ったが、自決者数は82名(85人とする場合あり[1])、死亡率は60%に上り、その過半数が子どもであった。

シムクガマ[編集]

一方、チビチリガマから南東に600メートル離れたシムクガマでは、4月1日午前5時30分、砲撃が開始されると、警防団に集合命令がかかり、ガマの入り口付近で見張りをしていた。午前10時頃にアメリカ兵はシムクガマに到達し、「出てこい」と呼びかけるが、チビチリガマ同様、ガマを出る者はいなかった。自決するべきという意志が村民の間で広まっていき、子どもの警防団員らが、竹槍を持ってアメリカ兵へ突撃しようと動き出したとき、もとハワイ移民であった住民が少年たちを止め、アメリカ兵と対話したところ、手向かいしない限り殺さないのでガマを出るように伝えられたため、村民たちを説得した。その結果、シムクガマからは1000名あまりの村民が自決することなく脱出した。

現在[編集]

チビチリガマへの入壕は、犠牲者の墓でもあることから、遺族会の意志により禁止されている[2]

1987年には遺族らにより入り口に「世代を結ぶ平和の像」が建立されたが、右翼団体員により同年11月に破壊され、1995年に再建された[2][3]

2017年9月には、ガマの入り口の看板が引き抜かれ、「世代を結ぶ平和の像」の石垣が破壊され、内部の瓶やつぼ等が割られて散乱し、平和学習で訪れた中高校生による千羽鶴が引きちぎられて放り出され、遺骨が集められている部分も荒らされるなどの事件が起きた[2][3][4]。遺族会会長は「骨にも手を掛けられていて、ひどすぎる」と憤り、石嶺伝実読谷村長は「常識では考えられない行動」と述べた。沖縄県警察嘉手納警察署は、本島中部の16歳、18歳、19歳の無職少年と17歳の型枠解体工の少年を器物損壊容疑で逮捕した。動機は肝試しだと話している。[5]

脚注[編集]

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  1. ^ チビチリガマ(読谷村) 【放送日 H20.4.2】NHK公式ホームページ・沖縄戦70年
  2. ^ a b c 朝日新聞 (2017年9月12日). “チビチリガマ荒らされる 沖縄戦で80人以上自決の洞窟” (日本語). 2017年9月12日閲覧。
  3. ^ a b 琉球新報 (2017年9月12日). “チビチリガマが破壊 内部荒らされる 遺骨や遺物、折り鶴も 遺族「ひどすぎる」” (日本語). Yahoo!JAPANニュース. 2017年9月12日閲覧。
  4. ^ 沖縄タイムス (2017年9月12日). “チビチリガマ荒らされる 沖縄戦「集団自決」の壕 遺品など破壊” (日本語). Yahoo!JAPANニュース. 2017年9月12日閲覧。
  5. ^ チビチリガマ 少年4人を逮捕 荒らした器物損壊の疑い NHKニュース 2017年9月16日

参考文献[編集]

  • 下嶋哲朗『沖縄・チビチリガマの集団自決』岩波書店、1992年

外部リンク[編集]

座標: 北緯26度24分21.8秒 東経127度43分26.6秒 / 北緯26.406056度 東経127.724056度 / 26.406056; 127.724056