南京攻略戦

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南京攻略戦
Attacking the Gate of China02.jpg
南京中華門爆破の瞬間
戦争日中戦争
年月日1937年12月4日 - 12月13日
場所中華民国の旗 中華民国南京市
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
Flag of Japan (bordered).svg 中支那方面軍 Flag of the Republic of China.svg 南京防衛軍
Flag of the Republic of China.svg 第23集団軍
Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg ソ連空軍志願隊[1]
指導者・指揮官
松井石根大将 唐生智
戦力
約120,000名 約120,000名
損害
戦死800
戦傷4,000[2]
戦死と捕虜50,000
逃亡70,000[3]
昭和12年12月上旬 南京近郊戦闘経過要図[4]
簡略化させた模式図

南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん、中国語: 南京保卫战英語:Battle of Nanking)は、日中戦争における戦闘の1つ。日本軍は、中華民国の首都南京陥落させた。略称として南京戦(なんきんせん)とも[5]

背景[編集]

第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、日本軍上海付近の敵を掃討して中国側の戦意を喪失させ戦争を終結させる目的で1937年8月15日上海派遣軍を編成して派遣し、次いで第10軍を派遣した。11月7日に上級司令部中支那方面軍を編成。上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域[要出典]とする。

11月16日国民政府重慶への遷都を宣言。中支那方面軍は独断で[要出典]作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。 11月24日大本営は中支那方面軍の作戦制限区域[要出典]を解除し、12月1日には南京攻略を命令した。

経過[編集]

1937年(昭和12年)[編集]

11月7日
臨参命第百三十八号「中支那方面軍」(第10軍上海派遣軍を隷下に置く)編合(戦闘序列ではない)の下令[6] が出され、臨命600号により作戦地域は「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限された。
11月9日
上海戦線の中国軍は退却を開始した。
11月16日
中国国民政府は重慶への遷都を宣言した。
11月19日
中支那方面軍は独断で[要出典]作戦地域を越え、無錫湖州の攻撃を準備した。
11月20日
皇居内に大本営設置。参謀本部に第十軍より南京追撃命令の報が届き、これに対して中支那方面軍参謀長に臨命600号の指示範囲を逸脱すると打電した。
11月21日
陸軍参謀本部第一部第二課より対支那中央政権方策提示。現下時局解決のため現状に於ては尚中央政権をして翻意我に提携せしめ全支の問題を統一処理するの方針を堅持す。(蒋政権の)面子を保持して講和に移行する如く我諸般の措置を講ずるを要するものとす。
11月22日
中支那方面軍が「南京攻略の必要性」を上申した。
11月24日
第1回大本営御前会議で中支那方面軍の作戦地域の制限が解除される。ただし多田駿参謀次長より南京方面への進撃はしないよう打電された。
11月24日
唐生智が南京の防衛司令長官に任命された。
11月25日
中支那方面軍が独断で南京へ進撃を開始した。
11月28日
下村定作戦部長が多田駿参謀次長に南京攻略を同意させた。
12月1日
大本営は大陸命第七号を発令し中支那方面軍戦闘序列を編成、大陸命第八号「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」を発令し南京攻略を命令した[7]南京安全区国際委員会事務所開設。
12月4日
日本軍は、南京市郊外まで進軍した。
12月7日
日本軍は、南京防衛軍の外郭防御陣を突破し、午後一時に南京市へ攻撃を開始した。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して総統蒋介石ら中国軍首脳陣が南京を脱出した。続いて中国政府要人や地方公務員等が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥った。これにより電話不通、電気水道が停止。中支那方面軍は「南京城攻略要領」を示達[8]
12月9日
南京城を包囲した日本軍(松井最高指揮官)は9日の正午、飛行機で南京城内にビラ(和平開城勧告文)を撒き、中国軍(唐生智南京防衛司令官)に対し降伏勧告を行なった。
12月10日
和平開城勧告文の回答期限の午後一時、中国軍からの反応なく、日本軍は総攻撃を開始した。夕方には光華門を確保した[9]
中国無名兵士の墓を慰霊する日本軍将兵
(1937年12月11日)[10]
12月11日
日本国内で南京陥落の祝賀行事を挙行した。
12月12日
午後8時、唐生智は全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と指令し、無秩序な状況で南京城を脱出した。しかし、中国兵の中には塹壕に足を縛られて防戦させる者もいたし、唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門に仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊が置かれて撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)。[11]
12月13日
南京城陥落。日本軍が南京城内へ入城。(写真)
12月14日
南京城内の敗残兵掃蕩を開始(-16日)[12][13]。主にこの日以降、捕虜、敗残兵の数千人単位の殺害が何か所も殺害が行われたが、一部民間人の殺害・暴行も含めて、その中には戦時国際法違反の疑いもある(南京事件 (1937年)[14]
日本軍による南京城への入城式
(1937年12月17日)[15]
「日本軍万歳」を叫ぶ南京の避難民
(1937年12月17日)[16]
12月17日
日本の陸海軍による入城式が挙行された。(写真) 中支那方面軍司令部が南京に移動。
南京城中山門内故宮飛行場戦没勇士慰霊祭で弔辞を述べる松井石根(1937年12月18日)
12月18日
日本の陸海軍合同慰霊祭が故宮飛行場で挙行された[15](写真)
南京城内中山路にて子供達と戦車の玩具で遊ぶ日本兵(1937年12月20日)
12月21日
各兵団は城内から退出[17]
鹵獲されたソビエト製I-16戦闘機(1937年12月22日)
12月22日
第16師団歩兵第30旅団が警備を担当[17]
12月23日
陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復した[18][19](写真)
12月24日
第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が合同し南京難民区の兵民分離査問工作が開始され1月5日に終了した[20]
12月28日
当日における各兵団の配置は、以下のとおり[21]
部隊 配置
中支那方面軍司令部 南京
上海派遣軍司令部 南京
上海派遣軍直轄の軍高射砲隊 南京
上海派遣軍通信隊 南京
上海派遣軍砲兵隊 鎮江及び常州
第十六師団司令部、歩兵第三十旅団主力、直轄部隊 南京
第十六師団その他の諸隊 湯水鎮、句容、抹陵関、その他交通上の要点
第三師団司令部、歩兵第五旅団主力、直轄部隊 鎮江
第三師団その他の部隊 無錫、江陰、常州、丹陽、金壇等
第九師団司令部、歩兵第六旅団主力、直轄部隊 蘇州
第九師団その他の諸隊 紺崑山、常熟、福山、太倉、劉河鎖、嘉定、南翔
中支那方面軍直轄 呉淞、北部上海地区
揚子江左岸地区
第十三師団司令部、歩兵第百三旅団主力、直轄部隊 滁県
第十三師団その他の諸隊 来安、全校、六合
天谷支隊、司令部、歩兵第十旅団主力 揚州、
天谷支隊その他の諸隊 儀徴、仙女廟、邵伯鎮
12月31日
南京城内の電気、水道が復旧[22]

1938年(昭和13年)[編集]

放火により焼失するソビエト大使館(1938年1月1日)
南京市内には日本軍司令官によって戦闘の目的は軍閥にあって一般の中国人ではないと布告された。

南京のソビエト大使館が全焼、この事件は1月5日に逮捕した中国人の取調べにより敗残兵によるものと判明[2]。ただし、ソ連大使館の放火は、戦後に中国人の証言として日本兵の放火の疑いもあり、陸軍OB会偕行社の編纂する「南京戦史」においても日本軍の不祥事の疑いがあることが記録されている[23]

1月11日
大本営における政府首脳による御前会議は支那事変(日中戦争)処理根本方針を決定。それまでの和平を打ち切って、国民政府が日本の提示した条件をのまない場合は、以後これを対手にせずとし、日本に有利な新南京政権の成立を援助する。
1月15日
大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は政府の和平交渉打切り案に激しく反対。しかし、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見におれ、中国との和平交渉打切り決定[24]
1月16日
警備を第16師団歩兵第30旅団から天谷支隊(第11師団歩兵第10旅団)に交代[21]
1月26日
南京市内で日本兵による米国大使館のアリソン三等書記官殴打事件(アリソン殴打事件)が起こる。アリソンは、戦後、駐日大使になる人物である。
2月14日
大本営は中支那方面軍、上海派遣軍、第10軍の戦闘序列を解き、中支那派遣軍の戦闘序列を下命。
3月28日
中華民国維新政府が中支那派遣軍の指導で南京に成立。

南京自治委員会の発会式[編集]

南京自治委員会発会式における陶錫三会長の宣言朗読[25]

1938年1月1日、南京自治委員会の発会式が挙行された。南京難民区に避難していた市民も日の丸と五色旗を振って祝い、式場には3万人の参加者がつめかけた。新政権の出現を祝い、国民政府の悪政を非難する主意書および同政府と絶縁して目指す政治を示す以下の宣言が発表された[2]

  • 一、国民党の一党専政を廃止し民衆を基礎とする政治を実行す
  • 二、各種親日団体と合作し日支提携の実を挙げもつて東洋平和の確立を期す
  • 三、防共政策を実行し抗日、排日思想を絶対に排除し欧米依存の観念を矯正す
  • 四、産業を振興し民衆の福祉を増進す
  • 五、広く人材を登用し民衆自治の徹底を期す

その後[編集]

1937年12月29日、上海派遣軍は「南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である」と発表した[26][27]。しかし、翌年1月、敵の損害は約八万、うち遺棄死体は約五万三、八七四」と算定した[28]。これにつき、防衛庁防衛研修所戦史室の『戦史叢書』は「日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい」[28]とし、偕行社の『南京戦史』は「上海派遣軍発表の遺棄死体数は、中国防衛軍の総兵力判断6~7万と比べ著しく過大である」[29]としている。

また、南京陥落後に日本軍は多数の捕虜や民間人を殺害したとされ(南京事件)論争となっている(南京事件論争)。第二次世界大戦終結後の東京裁判では「捕虜及び一般人に対する国際法違反」により陸軍大将・松井石根らが処刑された。

この戦いの後、日本軍は徐州武漢を含むいくつかの都市を占領し(徐州会戦武漢作戦)、一方、中国側は1938年の黄河決壊事件によって三つの省を覆う洪水を引き起こし、日本軍の侵攻を止めようとした。

毛沢東延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ[30]

映像記録[編集]

脚注[編集]

  1. ^ J-aircraft.com Soviet Fighters in the Sky of China(1937-1940)
  2. ^ a b c 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年)、156頁
  3. ^ 民国档案 2004.3、133頁
  4. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P420より作成
  5. ^ 太平洋戦争研究会編「図説 日中戦争」河出書房新社,2000年,88頁ほか
  6. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P397
  7. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P422
  8. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P427
  9. ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年),156頁
  10. ^ 「支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影 第15集」、毎日新聞、昭和12年12月11日発行
  11. ^ 笠原 (1997) 126-140頁
  12. ^ 『東京朝日新聞』1937年12月15日付朝刊、2面
  13. ^ 12月14日から16日にかけて難民区の敗残兵掃蕩が行われていたことが参加した兵士から報告され、(1)外国権益への留意(2)住民に対する配慮 (3)失火放火に厳重注意とされ、犯せば厳罰と通達された(4)将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない(5)無用の部隊の侵入は認めない(富山と金沢部隊が実行している)(6)掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた(7)捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求することが命令として言い渡されていた。さらに通訳役をつけて問題を起さないように注意もあった(喜多留冶 他『参戦勇士九人が語る「南京事件」の真実』 ISBN 978-4-89831-294-0)。
  14. ^ 秦 (2007) p.209-210
  15. ^ a b 「支那事変写真全集 <中>」、朝日新聞、昭和13年発行
  16. ^ 「支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影 第15集」、毎日新聞、昭和13年1月11日発行
  17. ^ a b 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P429
  18. ^ 英国紙THE TIMES(タイムズ), Dec. 24 1937, Nanking's New Rulers/Autonomous Commission Set Up
  19. ^ “ブリタニカ国際年鑑 1938年版(Encyclopaedia Britannica Book of The Year 1938)”
  20. ^ ジョン・ラーベ『南京の真実』講談社、1997年、P135 12月22日
  21. ^ a b 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P432
  22. ^ パラマウント社カメラマンのアーサー・メリケンとニューヨーク・タイムズのテールマン・ダーリングによると南京市内の水道は12月9日、電気は12月10日に利用できなくなった。『東京朝日新聞』1937年12月16日付朝刊、十一面
  23. ^ 偕行社『南京戦史資料集』 233頁 「飯沼守日記」1月4日
  24. ^ 『南京戦史資料集』偕行社、1989年
  25. ^ 『アサヒグラフ』(朝日新聞、昭和13年1月26日発行)
  26. ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年)、156頁
  27. ^ 『朝日新聞』昭和12年12月30日掲載
  28. ^ a b 支那事変陸軍作戦 1、436頁。
  29. ^ 南京戦史 (1993)、300頁。
  30. ^ 金文学『「反日」に狂う中国 「友好」とおもねる日本』祥伝社、2004年、55頁。
  31. ^ (画像)
  32. ^ 清水俊二『映画字幕五十年』早川書房、1985年
  33. ^ 『参戦勇士九人が語る「南京事件」の真実』 ISBN 978-4-89831-294-0

南京攻略戦を描いた作品[編集]

映画

関連項目[編集]

南京攻略戦の戦闘序列 - 南京事件 - 南京事件論争
外交関連
トラウトマン工作 - パナイ号事件 - ジョン・ムーア・アリソン
治安・住民対策
堅壁清野 - 宣撫工作 - 便衣兵 - 南京安全区国際委員会 - 世界紅卍字会


外部リンク[編集]