南京安全区国際委員会

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南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone)は、南京難民区国際委員会ともいい、日中戦争初期の南京攻略戦に際し、戦災で家を失い南京に流入してきた難民や、南京から避難できない貧しい市民などを救済するために、南京城内の一部に安全区(難民区)を設定したアメリカ人宣教師を中心とする組織[1]。安全区は「南京安全地帯」ともいう[2]第二次上海事変の上海南市難民区に倣って設置された[3]

沿革[編集]

  • 1937年8月13日 - 10月26日の第二次上海事変では上海に住むフランス人のカトリック教会ロベール・ジャキノ・ド・べサンジュ(Robert Jacquinot de Besange)神父は避難民のための上海南市難民区の設置を日中双方に提示し了承された[4]。フランス人3名、イギリス人1名、スウェーデン人1名から成る南市避難民救助国際委員会が設置され、区域内に武器を携帯する者が在住しないことを宣誓した。日本側は区域内の非戦闘性が持続する限り攻撃しないと約束した[5]。上海市長の受諾をもって1937年11月9日正午から正式に認められた[6]
  • 1937年10月中旬 金陵大学マイナー・シール・ベイツルイス・S・C・スマイスロバート・O・ウィルソン英語版W・プラマー・ミルズらが、同大学教授で社会学者のロッシング・バックの邸宅を借りて共同生活を始める。この頃から南京で難民を救済する施設を作る計画を話し合う[7]。南京安全区はこれら米国人教授たちにより上海南市難民区に倣って提案された[3]
  • 11月17日 ベイツ、スマイス、ミルズの3人は、アメリカ大使館員ウィリヤ・R・ペックに、南京に安全区を設置する計画を説明し、中華民国日本両政府に認知させるための仲介役を依頼する。同日、ミニー・ヴォートリンからも、同趣旨の手紙を受け取る。このことを受け、ペックは、国民政府立法院委員長・孫科、抗戦最高統帥部第二部長・張群、南京市長・馬超俊らに非公式に伝えた[8]
  • 11月22日 南京安全区国際委員会が結成される。委員長は、ジーメンス南京支社の支配人であるジョン・H・D・ラーベが就く。
  • 12月8日 『告南京市民書』を配布し、安全区への市民の避難を呼びかける。日本軍入城前までに国際委員会は残留していた南京住民20万人余りのほぼ全員を安全区に収容したため、安全区以外の場所には住民はほとんどいない状態となった[9]
  • 12月13日 南京陥落。
  • 1938年2月18日 南京国際救済委員会に改称[10][11]
  • 5月末 日本軍当局、南京安全区を閉鎖。

メンバー[編集]

国際委員会の委員15人のの序列は徐淑希編Documents of the Nanking Safety Zoneによる[12]

名前 国籍 職業・役職
ジョン・ラーベ ドイツ 南京安全区国際委員会委員長。ジーメンス社南京支社の支配人。
ルイス・S・C・スマイス アメリカ 書記。南京国際赤十字委員会委員。金陵大学社会学教授。『南京地区における戦争被害』を発表。
P.H.Munro-Faure イギリス Asiatic Petroleum.co.
ジョン・マギー アメリカ 聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会委員長。16ミリフィルムで被害現場を撮影。
P.R.Shields イギリス International Export co.
J.M.Hansen オランダ Texas Oil Co.
G.Schultze Pantin ドイツ Shinning Trading co.
Iver Mackay イギリス Butterfield & Swire
J.V.Pickering アメリカ Standard-Vacuum Oil co.
エドワルト・スペルリング英語版 ドイツ Shaghai Insurance(上海保険会社)の南京支店長
マイナー・シール・ベイツ アメリカ 南京大学歴史学教授、博士。東中野修道は、中華民国政府の顧問であるという説を唱えている[13]
W.P.Mills アメリカ Northern presbyterian mission(長老派教会)
J.Lean イギリス Asiatic Petroleum.co.
C.S.Trimer アメリカ University Hospital(大学病院)
Charles Riggs アメリカ 南京大学。


また、笠原によれば、南京安全区国際委員と南京国際赤十字委員は日本大使館に提出した名簿では区別しているが、2つの委員会を届けるための形式的な処置で実際は本部も同じであり、共同活動をしていたとして以下も安全区委員とする[14]

ジョージ・アシュモア・フィッチ
ニューヨークYMCA国際委員会書記。中国の青年をYMCAが組織した励志社の顧問として南京に滞在。
アーネスト・H・フォースター英語版
南京国際赤十字委員会書記。米国聖公会宣教師。
ジェームズ・H・マッカラム(James Henry McCallum)
南京国際赤十字委員会委員。連合キリスト教伝道団宣教師。金陵大学付属病院(鼓楼病院)の事務管理総括。手記と手紙は東京裁判に提出された[15][16]
ミニー・ヴォートリン
南京国際赤十字委員会委員。金陵女子文理学院教授。宣教師。学院に婦女子のための難民キャンプを開設し、その責任者として強姦や拉致から大勢の女性を保護した。
ロバート・O・ウィルソン英語版
南京国際赤十字委員会委員。金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。日本軍の南京占領時、唯一の外科医師として鼓楼病院で医療活動に従事し、続々と病院に運び込まれる負傷者の治療にあたった。

安全区[編集]

南京における安全区は南京城内の北西部に設置された。面積は3.85平方キロメートルで、城内全域の11%程度の広さにあたる[2]。外国人の施設や邸宅が多くある地区であった[3]

冨澤繁信は、安全区の設置場所には中国人にとってもっと便利な場所があったがこの地区が選ばれた理由には委員たちの財産保全も考慮したためとし[3]、安全区に残留中国人を集めて戦争に中立な地帯としてその安全を保証し、かつ残留中国人を行政的に支配しようとしたと主張している[2]

国際委員会の行政権[編集]

委員会は馬南京市長が南京を離れる際に委員会に南京の行政権を委ねたと主張した[17]。しかし、日本側はこの件に関する中国政府の日本に対する公式な働きかけと日本側の了解が欠如していることからその行政権委譲の正統性がないと反論した[17]。この反論をうけて委員会は主張を直ちに取り消し、現在の日本軍の無法状況では委員会が南京の行政権を行使して治安維持することが必要であると力説した[17]。日本軍は委員会のこのような活動を占領政策に違反するとして委員会の早期解体を望み、常に対立抗争の状態であった[18]

東中野修道によれば、安全地帯は行政区画ではなく、日本軍が承認しなかった非武装の中立地帯であった[19]

歴史研究家冨澤繁信は、委員会が南京の行政権を主張する限り、委員会は日本軍兵士の暴行を引続き主張する必要があり、これが後に「南京事件(南京大虐殺事件)」としてまとめられたと主張している[20]。また、名称も「国際委員会」として国際機関の国際的活動であるように見せてはいるが、当時の国際連盟などの公式の国際機関がこの委員会を認めたことはなく、委員会自身が自称したのみであったと指摘している[17]

記録集[編集]

日本軍による南京陥落の際に発生したとされる南京事件(南京大虐殺)に関して、南京安全区国際委員会は日本政府へ嘆願書を出したり、事件の記録集を作成した。南京安全区国際委員会による記録は、国民党政府の外交顧問で重慶国際問題研究所の徐淑希博士によってDocuments of the Nanking Safety Zone南京安全区攩案)として1939年にKelly & Walshより上海-香港-シンガポールで出版された[21][10]。日本語訳は『南京安全地帯の記録』[22]。序文には1939年5月9日と日付がある。

1937年12月15日のジョン・H・D・ラーベ委員長の手紙(No.4)では、12月13日に中国軍の敗残兵が安全区に救援を求めたたが、安全区は兵士を保護できないと伝えたが、混乱のなかで軍服を脱いだ兵士と民間人を分離できなくなったため、兵士を確認できたものを戦争捕虜として労務者として使役するなど戦争法に従い処置するよう日本側に要求した[22]

12月16日の岡崎勝男総領事の「国際委員会は何らの法的地位を持っていない」と回答に対して、12月17日にラーベは日本大使館宛手紙(No.9)で、「日本当局に対して我々は何ら政治的地位を要求してはいない」が、12月1日に南京市の馬市長から市政府機能を委託され、日本軍入城時に委員会は唯一の行政組織であったと述べ、、日本兵が掠奪、強姦を行うため日本当局は治安維持のため憲兵隊を設置したり、中国人警官450名を引き取り組織することなどを要求した[22]

評価[編集]

東中野修道によれば、この記録集は国民党政府の外交顧問によって編纂されたもので中華民国(国民党政府)の公式見解であると述べている[19]

冨澤繁信もいわば公式記録とみなし、「記録の内容を分析すれば、これらすべてを、日本軍兵士の所行とされる根拠はなく、むしろ日本軍兵士の所行とされるべきものは、少ない」、またこの記録を認容したとしても、後年の大虐殺説のごとき非難は間違っていることを証明するものと主張している[10]。また、冨澤はこの記録集には12月17日[23]から27日までの文書では「南京市民20万人」とあり、1月14日から2月10日までの文書では「南京難民25万」とあり人口が増加していることから、「30万人虐殺説」への反証となっていると主張している[10]

2007年、南京事件の真実を検証する会(会長:加瀬英明、事務局長:藤岡信勝)は温家宝首相に対してこの記録における南京市の人口推移(占領前20万、占領後25万)と、中国政府の30万人の大虐殺という公式見解との矛盾について公開質問をした[24]

脚注[編集]

  1. ^ 笠原 2005
  2. ^ a b c 冨澤 2005, p. 10
  3. ^ a b c d 冨澤 2005, p. 42
  4. ^ WAR IN CHINA: Safety Zones,7 November 1938,TIME.
  5. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月3日付朝刊 3面
  6. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月9日付朝刊 2面
  7. ^ 笠原 2005, p. 78
  8. ^ 笠原 2005, pp. 80-82
  9. ^ 冨澤 2005, pp. 10-11
  10. ^ a b c d 冨澤繁信『原典による南京事件の解明』
  11. ^ 徐淑希編Documents of the Nanking Safety Zone,文書69号。
  12. ^ バージニア大学所蔵原稿p.4.
  13. ^ "In Nanking With Ropes for Walls", in page 5 "The First Pictures of the Panay Sinking", Carroll Daily Herald, Carrol, Iowa, Thursday, December 30, 1937
  14. ^ 笠原 2005, p. iii,v-ix
  15. ^ [1]Yale Univ.library.
  16. ^ 手記Virginia Historical Society,IPS Doc. No. 2466, Exhibit No. 309.
  17. ^ a b c d 冨澤 2005, p. 36
  18. ^ 冨澤 2005, p. 37
  19. ^ a b 東中野修道著『「南京虐殺」の徹底検証』1998年、展転社
  20. ^ 冨澤 2005, pp. 36-37
  21. ^ バージニア大学TOKYO WAR CRIMES TRIAL DIGITAL COLLECTIONには「Documents of the Nanking Safety Zone. Edited by Shuhsi Hsu, PhD, sometime adviser to the Ministry of Foreign Affairs. Prepared under the Auspices of the Council of International Affairs, Chungking." Printed by Kelly Walsh, Limited, Shanghai-Hong Kong-Singapore. 1939."」と説明してある。またブリティッシュコロンビア大学が公開しているDocuments of the Nanking Safety Zoneでも同様の紹介が記載されている。
  22. ^ a b c 冨澤 2004
  23. ^ 12月17日のジョン・ラーベ書簡「200,000 Chinese civilians」とある。Documents of the Nanking Safety Zone,p.17-18.
  24. ^ 質問状提出経緯, 公開質問状本文

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]