慰安所

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慰安所(いあんじょ)とは、旧日本軍が公認した売春宿のこと。戦時中、炭鉱鉱山に設置された遊郭や、外国の軍用売春宿についても用いられる。

概略[編集]

「慰安所」という言葉は、例えば、1924年に当時の衆議院議長が、国立公園について「(京阪神大都市)数百万の市民の慰安所として・・・」などと述べたように[1]、本来は「憩いの場」あるいは「慰安する場」という意味であり、各国の軍隊同様、日本軍にも食堂遊技場劇場など将兵に慰安を供する為の「慰安施設(福利厚生施設)」があった[2]

こうした日本軍の慰安施設の一つとして、上海事変の頃から、公認の軍用売春宿が置かれるようになった[3]。一般的に、この日本軍公認の売春宿を「慰安所」と言う。

日中戦争から太平洋戦争にかけ、炭鉱鉱山で働く朝鮮人労務者中国人労務者の為に企業が設置した遊郭を「(産業)慰安所」と呼ぶこともある[4]:40-47[5][6]

最近では、日本以外の近代国家の軍隊が公認あるいは黙認した軍用売春宿も慰安所と呼ばれる事がある[7]:210[8]:1。ただし、日本以外では単に(軍用)売春宿と呼ぶか独自の俗称で呼ばれており、慰安所とは、あくまでも日本独自の呼び方である。

日本軍の流れをくむ韓国軍では、慰安所(慰安隊)や慰安婦の呼称も受け継がれていた[9]

日本軍においても、慰安所という呼び名は、統一された公式のものではなく、実際には様々な名称で呼ばれていた。

第二次大戦後の日本で、米軍を中心とした進駐軍の為に設置された売春宿も、慰安所と呼ばれる(詳細は「特殊慰安施設協会」を参照)。

慰安婦[編集]

慰安所で兵士の相手をした女性を慰安婦という。

日本軍の慰安所[編集]

慰安所の入口。「聖戦大勝の勇士大歓迎」「身も心も捧ぐ大和撫子のサーヴイス」と書かれている。
上海の日本軍慰安所であった建物

日本政府によれば、慰安所の開設は軍の要請により、軍人の住民に対する不法行為、性病の防止、防諜の必要性などから設置された[10]

軍事史家の藤田昌雄によれば、軍が直接慰安所を設置するケースは稀で、部隊出入りの御用商人に依頼して開設することが殆どだったという。あるいは、現地にあった遊興施設を軍が借り上げ、軍の指導の下で指定業者が経営した[11]

日本軍にいわゆる〝慰安所〟[注釈 1]が初めて設置されたのは、1932年の上海事変の時だったとされる。最初に海軍が設置し、陸軍でもこれに倣い、上海派遣軍参謀副長の岡村寧次が、長崎県から女性を呼び慰安所を開設した[12][13]

慰安所は、日本軍の酒保の延長として存在した。1937年に改定された野戦酒保規程に「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」という下りがあり、これが慰安所設置の法令根拠とされる[14]


シンガポールの初代首相となったリー・クアンユーは、シンガポールを占領した日本軍が、西洋人の邸宅の空き家を利用して慰安所を開設したのを目撃している。塀の外には100人から200人の兵隊が列を作って順番を待っており、日本人と朝鮮人の女性が兵士にサービスするために従軍して来たと聞いたという。リーは、日本軍がこのような問題に対して実用的かつ現実的な処理の仕方をすると思ったという[15]:40

戦地では、指定業者以外の売春宿や私娼の利用は、防諜と衛生面の見地から厳禁とされた[16]

慰安婦の募集は、多くが民間業者によって行われ、軍はそれらの取り締まりや衛生等の管理に直接・間接的に関与したと考えられている[17][18]

将兵は軍政に部隊責任者が届け出た日に時間を割り当てられ、軍兵站部を通じて軍政から支給された花券で利用した[19]

前史・軍と遊郭[編集]

日清日露戦争を通じて軍拡が進む中、軍港兵営遊郭は不可分な関係だった。軍隊を誘致すれば、インフラや地域経済の活性化が期待出来、日本各地で師団歩兵連隊の誘致合戦が繰り広げられた。同時に、商機や税収を狙い、軍隊を当て込んだ公娼設置運動が展開された[20]

戦時中の軍港の町、を舞台にしたこうの史代の漫画『この世界の片隅に』にも、呉の遊郭[注釈 2]が登場する[21]:163-170

日本には、1930年代に戦地に登場する「慰安所」とは異なるが、実態としてはそれに近いものが、それ以前から存在していた[22]。こうした遊郭は、軍隊ではなく、警察の監督下にあった(「娼妓取締規則」)。

日本統治下の朝鮮半島にも軍隊を得意客とする遊郭があり、その一部は、第二次大戦後、米軍の「基地村」となった[23]:103

戦時中は、こうした国内の遊郭の関係者が、慰安所の経営者などとして戦地へ赴いた。国内の売春宿が、戦地に支店(慰安所)を出すケースもあった[24]

名称[編集]

1932年に初めて作られた陸軍公認の売春施設の名称は、「軍娯楽所」だった[25]

慰安所の他に「軍人倶楽部」という呼び方もあった[注釈 3]

外務省の公電などには「軍慰安所」と書かれているものもある[28]。「特殊慰安所」[注釈 4]や「特殊慰安施設(慰安所)」[29]:22と記載されている資料もある。商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた小野田寛郎は、1939年に漢口の日華区で「漢口特殊慰安所」という看板を掲げた慰安所を目撃している[30]:143

軍人には「ピー屋」とも呼ばれた。ピーとは、英語のprostitute(売春婦)の略、あるいは中国語で女陰を表す言葉などと言われている[27]:68[31]:178

当時の慰安所の管理人の日記を分析した崔吉城によれば、関係者の間の会話では、〇〇楼や〇〇倶楽部などという固有名が主に使われていたという[32]:162

設置場所[編集]

設置地域は沖縄[33]・中国・フィリピン・インドネシヤ・マラヤ(現在のマレーシア)・タイ・ビルマ(現在のミャンマー)・ニューギニア香港マカオ仏領インドシナ[34]

中国[編集]

上海師範大学中国慰安婦問題研究中心」所長の蘇智良2005年6月に『上海日軍慰安所実録』を刊行し、上海市内には慰安所が149ヵ所あり、最初に「大一沙龍(サロン)」が設置されたとしている[35]

慰安所の種類[編集]

吉見義明は、日本軍の慰安所を以下の1から4のタイプに分類している[36]。秦郁彦は、吉見の分類をほぼ妥当とした上で、これに5のタイプを付け加えた[37]。吉見によれば、1と2が純粋の慰安所である。

  1. 軍直営の慰安所
  2. 軍が監督・統制する軍専用の慰安所(特定の部隊専属のものと、軍が指定したものとに分けられる)
  3. 一定期間軍が兵員用に指定した民間の売春宿(民間人も利用)
  4. 純粋に民間の売春宿
  5. 料理屋、カフェ、バーなど売春を兼業した施設

陸軍の慰安所には、部隊と共に行動する部隊専属型と、駐屯地(都市)で営業する遊郭型の二種類があった[38]:59

慰安所の設置が認められていない小部隊に、慰安婦が巡回して営業するというシステムをとった地域もあった[注釈 5]

こうした事情もあり、例外ながら、末端の部隊が勝手に作った慰安所も存在した。サンフランシスコ州立大学サラ・ソー英語版は、戦争末期のフィリピンの最前線で兵士らが独自に設置したこうした慰安所は、軍の規程にも沿っておらず、日本人や朝鮮人がマニラで経営していた(公式の)慰安所とは別物だったと述べている[41]。こうした無許可の慰安所は、拉致や強姦と無縁ではなかったとされる[42][43]

経営者[編集]

慰安所の多くは、請負契約[44]の形で民間人が経営し、軍がこれを管理した[45]

軍直営の慰安所もあったが、秦郁彦は、直営は過渡的存在で1938年中にほぼ姿を消したとしている[46]林博史は、太平洋諸島の小さな島や町では、駐屯部隊が地元民を採用して直営するケースも多々あったとしている[47]:126[注釈 6]

ソウル大学安秉直名誉教授は、経営者の半数は朝鮮人だったとしている[49]。朝鮮人は台湾人と共に、当時の邦人(日本人)の一部を構成しており、朝鮮人の他に台湾人の経営者もいた[50]

経営者は邦人に限るとする内部規程も残されているが(馬来軍政監部の規程)[注釈 7]、日中が戦争中であったにも関わらず、中国人が経営する慰安所も存在した[53]:147フィリピンインドネシアにも、現地人が経営する慰安所が存在した[54]

産経新聞』紙上の証言として「軍の経理を担当した当時、日本人や中国・朝鮮人の売春業者から兵隊相手の売春宿をやりたいと申し入れが相次ぎ許可した。これが慰安所の始まり。それまで上層部から設置を指示されたことはなかった」(八王子市の94歳男性)、というものがある[55][56]

慰安所の経営権は民間で売買が可能で、慰安所経営者の組合があった[32]:122,123[57]:150

組合[編集]

慰安所には組合があり[58][59][60][注釈 8]、組合事務所があった。選挙で選ばれた役員の下で、防空当番や常会など様々な組合活動が行われていた[62]

漢口では、内地人の組合長と朝鮮人の副組合長を中心に組合が結成され、軍は組合を通じて慰安所を監督した[63]。漢口の組合事務所には、診療所や病室が併設されていた[64]

シンガポールでは、慰安婦も一人2円の組合費を納めていた(経営者=30円)[65]:149。後述する「管理人の日記」の著者は、担当の憲兵が転勤の際、組合事務所に挨拶に訪れたと記している[66]

慰安所管理人の日記[編集]

ビルマやシンガポールで日本軍の慰安所の管理人(帳場人)を務めた朝鮮人が残した日記(以下『管理人の日記』)。

2000年頃、韓国の古書店で発見され、2013年に安秉直ソウル大学名誉教授らによって、一般に公開された[67]

朝鮮人は当時、日本軍の占領地で食堂や写真館、製油工場などと共に慰安所を経営しており[32]:145崔吉城は、こうした人々にとって慰安所経営は事業であり、戦地における数ある職種の一つに過ぎなかったと述べている[32]:126,147

軍と慰安所の関係[編集]

慰安所の設営などの業務に携わった第十五軍司令部管理部将校の証言によれば、慰安所は軍の系列下にあったわけではなく、家屋や食料、日用品などを軍から支給されるかわりに軍に協力したもので、軍は監督や管理はしても、慰安所に対する命令権はなかった[68]:89。軍と経営者の間には、契約があり、軍の規定に反した場合は契約を解除されることになっていた[69]:28

崔吉城は、軍と慰安所の関係を「指定関係」あるいは「得意先の関係」と見て[70]、軍の規定から「地方団体等の篤志により開設したる軍人慰安施設を言う」というのが慰安所の実態だろうとした[71]。しかし、軍に命令権はなくとも、慰安所の経営者は軍の威光には逆らいづらく、移転〝命令〟とそれに反対する慰安婦との間で板挟みになることもあった[72]

憲兵として福建省福州にいた鈴木卓四郎は、同市に駐留していた台湾師団が、直属の慰安所として援助していた慰安所に、師団と共に移動することを断られたエピソードを記している。師団が将来台湾に戻ることを予想した業者が、戦地(南支)に留まるために一軒残らず軍の誘いを断ったという。その為に同師団は、住民に対する事故が起こることを心配し、改めて慰安所を設置する為に奔走せざるを得なくなった[38]:50,51

占領地に慰安所を設置する場合は、部隊長が決定し、副官が主計将校などに指示してこれを行わせた[73]

現地軍司令部の管理部や後方参謀、兵站の慰安係、師団や連隊などの副官や主計将校、憲兵隊などが、慰安所を監督した[74]

慰安係[編集]

漢口兵站司令部で慰安係長を務めた山田清吉によると、慰安係の仕事は、料亭や食堂、慰安所の管理と、演芸や映画、慰問団の取り扱いに分かれていた。山田は司令官から、慰安係の仕事のうちで一番厄介なのは、「特殊慰安所」の監督指導だと説明されたと書き残している[75]

第十五軍の司令部では、管理部の将校が慰安所の管理・監督を担当していた[68]:81-96

軍医[編集]

軍医が慰安婦の性病検査(検梅)を行い、検査に合格しなければ、慰安婦の営業は認められなかった[76]

将兵にコンドームを使用させるなど慰安婦と将兵の公衆衛生面の管理も軍医がこれにあたった[77]

漢口兵站司令部で軍医として慰安婦や業者らと交流する機会のあった長沢健一は、戦後その体験を『漢口慰安所』(1983年)にまとめて出版した。

軍医として中国に従軍した麻生徹男も、慰安婦や慰安所に関する写真等の資料を残した[78]:14-19

警備・憲兵隊[編集]

慰安所の警備は、軍が行った[79]:20

中国江西省南昌の慰安所は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業しており、小野田寛郎は、軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒するため、歩哨を引率し、慰安所の内部まで巡察して利用者数の記録を確認したと語っている[30]:147[80]

憲兵隊が慰安所を管理・監督した地域もある。

チチハルに近い白城子[注釈 9]では、憲兵隊の慰安婦係が、慰安所内を見回ったり慰安婦の検診に立ち会った他、新しい慰安婦が来ると楼主に慰安婦の名前(日本名)、本籍、本名、生年月日、両親の氏名を書類にして提出させたと、担当者が後に語っている[81]:93-98

憲兵は、兵士の暴力や軽蔑から慰安婦を守る役割も果たした(朴裕河[82]:94

経営に関する統制[編集]

吉見義明は、民営であっても、軍は慰安所の経営に関し厳しく監督・統制したとしている[83]

業者は、慰安婦との契約内容について軍/軍政英語版の認可を受けねばならず(馬来軍政監部の規程)[84]、業者と慰安婦の売上高の配分比も軍が決定した。こうして決められた条件は、内地の遊郭に比べ慰安婦側にやや有利だったと、秦郁彦は述べている[85]

中国の広東省に駐留していた部隊[注釈 10]では、月報の形で営業主に「営業主の収入」「慰安婦の収入」「慰安婦の商売日数」等を報告させていた[86]

シンガポール(昭南島)やマレー半島でも、業者は、営業収入等の情報を軍政に報告する事を義務付けられていた(「管理人の日記」[87]「馬来監達第二九号」[88])。

長沢健一は、前任の兵站司令部の軍医が、業者が慰安婦を搾取する構造を是正する為に、様々なルール作りを行ったことを記している。朝鮮人業者の中には証文などの類が一切ない例もあり、女性たちも自分たちが悪条件の下に置かれていることを自覚していなかったという[89]。山田清吉(元兵站副官)も、長沢から聞いた話として、初代の兵站司令官の下で、副官や慰安係長らが、業者によって奴隷状態に置かれていた朝鮮人慰安婦らを内地人同様に借金制度に切り替えたと書いている[90]

陸軍経理学校では慰安所の経営についても講義があったといわれ、陸軍経理学校を卒業した鹿内信隆は「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑)。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」[91][92]と述べている[注釈 11]

便宜の供与[編集]

日本政府は、日本人女性の海外遠征売春(からゆきさん)を日本の体面を汚すものとして、新規の海外への渡航を認めない方針だったが、慰安婦については、軍が身分を保証し、渡航を容認した[94]

慰安所関係者は、日中戦争の際は鉄道と民間航路が利用したが、太平洋戦争ではそれが難しく、関係者は、軍の船舶司令部に頼むなどして軍の統制下にある船に便乗した[95]

軍が業者の為に建物を提供するのは一般的だった[79]:20[96]:497 。その為に軍は建物を接取したり、新たに建設した[97]。工事には、兵士があたった[98]

慰安婦の帰国の為の船便も軍が用意したが、米軍の攻撃が激しくなると、帰国出来なくなる女性も少なくなかった[99]

吉見義明は、業者が慰安婦に払う前借金を、軍が肩代わりしたケースも少なくないと推測している[100]:135[注釈 12]

規則[編集]

慰安所に関する規則は、軍が制定した。慰安所の管理・運営方針を規定した現地軍の公文書のうち、以下の三つは、原文が残されている[101]

  1. 馬来軍政監(シンガポール)の「慰安施設及旅館営業取締規程」
  2. マニラ兵站司令部の「在マニラ認可飲食店・慰安所規則」
  3. マンダレー駐屯地司令部(ビルマ)の「駐屯地慰安所規定」

この他にも、各部隊が定めた慰安所の利用規定が残されている[79]

マンダレーの慰安所規定には、不当な行為は報告するよう、その場合、所属部隊の全員を出入り禁止にする事もありうると書かれている。秦郁彦は、兵士の暴力や業者の搾取から慰安婦を保護しようとする配慮だとしている[102]

国連人権委員会クマラスワミ報告書も、こうした規則をもって「『慰安婦』を正しく扱うべく十分な注意が払われている」と認めている。ただしクマラスワミは、逆にこうした規則は「(日本の)有罪を示す証拠」だと結論づけている[103]

軍が直接慰安所を経営すると、軍律違反で慰安所は閉鎖、関与した将兵や責任者は軍法会議行きだった[要出典]

利用料金[編集]

  • 1939年頃、陸軍主計将校として陸軍経理学校で慰安所開設のマニュアル作成に関わっていた鹿内信隆によると、階級ごとに使用時間と料金が決められていた[104]金子安次によると慰安料金は1円50銭くらい(当時の一等兵の月給は8円80銭くらい)だったとしている[105]
  • 李榮薫によれば、日本軍相手の慰安婦の利用料金は兵士と将校には区別があったが、兵士はおおむね1円から2円であった[106]。当時の兵士の月給は7円から10円であった[107]。売上金はおおむね慰安婦と業者間で折半されたが、業者に負った前借金が多すぎたり、悪徳業者に出会った場合は、首尾よく金を稼ぐことができない場合もあったとしている[108]
  • 日本人戦争捕虜尋問レポート No.49によれば中部ビルマにおける朝鮮人慰安婦のケースで平均的な料金体系は、兵士が1円50銭、下士官は3円、将校は5円、将校は20円で宿泊も可能だった。当レポートによれば、慰安婦の月給は平均で1500円であったという[109]。が後に1500円〜300円と慰安所の楼主は証言しているのでATISの調査報告書No.120 (1945-11-15)、平均とするのは誤りであろう。また売り上げであって月給ではない。仮に月給が1500円とするならば利用料金から逆算して毎日60人前後の兵を相手にした事になる。
  • フィリピンのマニラの慰安所を利用した日本兵捕虜に対する連合軍の尋問記録によると、慰安婦は通常、スペイン人とフィリピン人の混血であり、利用料金は10円ないし20円……日本人及び朝鮮人女性については2円ないし3円であった」という[110][111]
  • 近年、日本軍兵士の月給が24円程度だった中、慰安所(amenities)における慰安婦(comfort girls)の料金相場が3.5〜5円だったとする、米軍による日本軍捕虜に対する審問記録が、聯合ニュースの申請により開示されている[112][113]
  • 料金は泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった(接待時間ではなく、性交労働時間だったと考えられる)。
  • 古山高麗雄は、利用料金は、兵2円、下士官3円、将校は5円ではなかったかと回想している。慰安婦に気に入られようと、決められた料金以上に払う者が多かったとも[114]

慰安婦の募集方法[編集]

日本国内(内地・朝鮮)では、慰安所の経営者や仲介業者が、当時の一般的な接客業婦の募集方法と同じやり方で慰安婦を募り、戦地へ引率した[115]:52,53[116]その際、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」に見られるように、 就業詐欺に類する事案も発生し、軍や政府は幾度か業者の選定について注意勧告を行っている[117]。「行先 〇〇部隊慰安所」と書かれた朝鮮の新聞の募集広告も残されている[118]

太平洋戦争の生き残りの兵士として有名になった小野田寛郎は、1940年前後に商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた時代に、朝鮮半島では悪徳詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いたという[30]:145

中国や東南アジアなど日本軍の占領地では、軍人が地元の有力者に協力を呼び掛けて慰安婦を集めることもあった[119]:106[120]。もともと慰安所は、住民に対する非行を防止する目的もあって設置されたものだが[121]、占領軍という立場上、(軍の意図に反し)住民に対し強制力が働いたケースもあったはずだという指摘もある[122]

シンガポールなどでも、新聞広告で募集した例がある[注釈 13]

慰安婦の収入・生活状況[編集]

慰安所の設置理由[編集]

当時の公文書から以下の設置理由が考えられている。[124]

  1. 強姦などの抑止:占領地で日本軍人による強姦や性的虐待、男女関係が多発したため。[125][要出典]日本軍の占領を経験したリー・クアンユーは、日本軍のシンガポール占領時にはレイプは殆ど発生せず、起きたレイプ事件の大半は郊外での出来事で、これは「慰安所の存在でその説明がつくと思う」と回顧録に書いている[15]:40
  2. 将兵への「慰安」の提供:将兵の生理的欲求の処理が根本にある。日本軍には休暇制度がなく、また長期間戦地での自由の制限により不平が溜まりやすかったため。
  3. 克己的性病の防止:将兵の公衆衛生上の安全確保。民間の売春宿を利用して性病が蔓延する事を恐れたため。

設置経緯[編集]

1932年、第一次上海事変が起きる。上海事変から南京攻略を終えた1937年末までに、日本兵による強姦が頻発したため、その防止に向け慰安所が設置されたといわれる[126]。この時期は民間の経営による民間客と兼用の慰安所・風俗売春店が多く[127]、長崎の女性達がだまされ帰りの旅費がないためにそのまま就業したという事件も起きている[128]

1937年10月6日、当時の中国には紅槍会という地方農民の自衛団があり「特に強姦に対しては各地の住民一斉に立ち死を持って報復せるを常しあり」と、各方面軍から通達が回っている[18]

慰安所開設時の娼婦の状況[編集]

中国でイギリスフランスが公娼制を行っていたので娼婦が集まったが、1929年に中国の国民政府国家主席である蔣介石が上海の公娼廃止を行ったため、1930年の統計では上海で私娼が圧倒的多数となっている。[要出典]上海租界では、1930年統計で、中国人2万人余り、朝鮮人千人余り、日本人7百人余りで、そのほとんどが私娼である。

日本では、1920年に海外への日本人娼婦である「からゆきさん」を廃止。朝鮮では、1920年代に年間3万人の私娼が朝鮮で売り買いされ、1920年代半ばには外国に売られたの人が年間5000人、8割が騙されてだという。1930年頃の朝鮮内の公娼は、日本人と朝鮮人それぞれ4、5千人程度とされる。1937年、日本内地では、芸妓を含めて21万人とされる[129]

本格的設置の始まり[編集]

1938年、慰安所の数が増え、管理体制が決められ、それまで個々の軍がやっていたことを兵站の一部として設定される。

このときの慰安婦の募集では、地方警察に無連絡であり、日本国内法の常識から大きくはずれる点が多く、誘拐と疑わしいトラブルが、警察との間に生じた[130]。日本では公娼が廃止の方向に向かっていたこと、「からゆき」といわれる主に南方の海外娼婦を廃止させた(1920年)政策も背景と見られている。

1938年2月に内務省警保局から地方にあてた「支那渡航婦女の取扱に関する件」と題する通達[131]では、海外渡航の売春関係の女性が増えていること、その中には、軍が了解していると言って回る者が頻発しつつあるとし、取り締まりの基準として、成人以上で親族・本人の同意を直接確認するなどし、社会問題が起きないよう広告を禁じている。これを受けた3月には、陸軍省から華中派遣軍に対して、業者による募集が誘拐に類するものなどが少なくないなどの懸念を通知し、軍の威信保持、ならびに社会問題上遺漏なきようにとの指示が出されている。[132]

1937年までは、風俗関係の取り締まりが地方領事館によって一定でなかった[133]。当時の上海などでは取り締まりの厳格さのために新規営業を認めない方針であったが、1938年以降、日本軍占領地域での犯罪の防止と治安維持のために、民間業者による軍人専用の「特殊慰安所」の設置が始まり、多くの施設が作られた[18][134]

1941年太平洋戦争開始に伴い慰安所は太平洋地域へも拡大したと考えられている[135]。太平洋戦争期の全ての戦地(満州を除く)での性病の罹患率は、100万以上の[136]陸軍兵士・軍属に対し年間約1.2万人で[127]、終戦時の連合軍の調査では南西太平洋地域では日本軍の罹患率はきわめて低いとしている。[127]

慰安所は1942年9月3日の陸軍省人事局恩賞課長の報告「金原日誌」によれば400箇所が設営された[137](地域別の内訳は北支100、中支140、南支40、南方100、南海(南西太平洋)10、樺太10)。しかしこの報告書で言及された施設のすべてが慰安所であったかどうかは不明であり、新設計画を含めたものかどうかも不明である。秦郁彦は、陸軍の慰安婦関係は1942年の4月から人事局恩賞課が担当したが、1942年夏に要望があったがうまく派遣を実行できず、業者が部隊と連絡して行なったという。資料の「金原日誌」9月3日には将校以下の慰安施設として数字があるだけであると指摘している[138]

慰安婦問題[編集]

90年代に入り、韓国挺身隊問題対策協議会日本弁護士連合会戸塚悦朗国連に日本軍性奴隷問題として問題提起してから国際的に注目され[139]:30,34[140]国連人権委員会に「強姦所」として報告されていた時期もある。1998年国連人権委員会に取り上げられた「マクドゥーガル報告書」では日本軍の慰安所を「rape center(強姦所)」としているが、この報告書の事実認識を含め「アジア女性基金[141]ではこれを批判している。

2009年になると、欧米の研究者の間からも、慰安婦は当時の公娼と変わらず、慰安所を強姦所などと呼ぶ事に反対する意見が出てきた[142]

研究者の間では、日本軍の慰安所を、当時の遊里(遊廓)と変わらないという見解(秦郁彦ら)[143]と、奴隷状態に置かれた慰安婦が強制的に売春させられていたという見解(吉見義明ら)[144]がある。韓国政府は、ウェブサイト上で、日本軍の慰安所を、女性が強引に閉じ込められ性的に搾取された場所と解説し、ここで慰安婦は日本の軍人たちに強制的に性的暴行を受けたとしている[145]

産業慰安所[編集]

太平洋戦争中の炭鉱軍需産業の周辺には、朝鮮人労働者向けに企業が指定[注釈 14]あるいは設置した遊郭があり、これらは、「産業慰安所」「事業場慰安所」などと呼ばれる事がある[81]:40-47[119]:142-145。こうした慰安所では、企業が料金を決定し、炭鉱医や町医が性病検査を行っていた。企業の金券が利用されることもあった[119]:143,144。「強制連行」された朝鮮人労働者の為に「『強制手段』により連行」された朝鮮人女性が働いていたとする見解もあるが(林博史[119]:143、炭鉱周辺にはもともと遊郭があり、戦時中は「特殊飲食店」などと名を変え[注釈 15]、日本人女性や朝鮮人女性が働いていた[81]:34,41

松代大本営[編集]

戦争末期の松代大本営の建設工事でも、工事に携わる朝鮮人労働者の為に慰安所が設置された[146]:7,8[119]:140,141

警察が借り上げた建物で慰安所を経営していたのは、朝鮮人の夫婦で、夫婦が朝鮮人慰安婦を松代に連れて来た[119]:141。利用者はもっぱら現場頭など上層の朝鮮人で、日本人の軍人は利用しなかったという[146]:8

各国の軍用売春宿[編集]

日本以外にも、軍隊専用の売春宿を持つ国があった。ここでは便宜上、こうした各国の軍用売春宿を「慰安所」と呼んでいる。

フランスの軍用売春宿計画は「キャンディボックス(la boîte à bonbons)」などと婉曲表現された[147]。韓国で設置された国連軍・米軍のための軍用売春宿は「基地村(Camp Town 기지촌 Kijichon)」と呼ばれた[148]。また、ベトナム戦争時、韓国軍が韓国兵専用としてサイゴンに設立した慰安所は「トルコ風呂(The Turkish Bath)」と呼ばれた[149]

軍隊と娼婦[編集]

16世紀にはスペイン軍がオランダ侵攻した際に売春婦が1200人随行したとされ、またドイツで1598年に刊行された軍事教科書では随行売春婦の役割について論じられている[150]

十字軍の遠征にも売春婦が同行していた[151] [152]。売春婦部隊が存在したとする者もいる[153]

朝鮮の妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族が出没する白頭山付近の「邑」に派遣された[154]

日本にも古くから御陣女郎がいた[155]:91

近代公娼制と軍隊[編集]

藤目ゆきは、近代の公娼制と軍隊が密接に関連していたと述べている。

兵士の性病防止の為の売春の国家統制は、まず19世紀初頭のフランスで始まり、ヨーロッパ大陸とイギリスに広がった。この当時、ナポレオン戦争の副産物として性病がヨーロッパ中に広まっていた。

その後プロイセンは一時公娼制度を中断したが、軍当局の圧力で1851年に再開した。イギリスもクリミア戦争による性病の蔓延を受けて公娼制度を導入した。1886年に本国で公娼制度を撤廃した後も、イギリス軍の利益の為に、イギリスの植民地ではこの制度は温存された。

北アメリカでは、法制化にこそ至らなかったが、南北戦争中に北軍が南部の都市を占領すると、北軍の指導者が売春の統制に乗り出し、1870年にセントルイスでヨーロッパ型の公娼制度が正式に採用された。

藤目は、近代の公娼制度は「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」であるとしている[156]

近代型の公娼制度は、その後、日本でも導入された。

各国における近代公娼制度の詳細については、「近代公娼制#各国の近代公娼制」を参照。

公娼制度[編集]

国家による管理売春公娼制度という[157][158]。公娼制は古代ギリシアローマ帝国にもすでに存在した[152]

江戸時代にも公娼制度は存在したが(例えば、吉原遊郭)、明治以降の近代型公娼制度はヨーロッパから輸入されたもの[159]

アメリカ軍の慰安所[編集]

米軍は、売春を悪と見なすピューリタニズムの影響で、20世紀初頭から売春禁圧の方針をとっていたが、海外の派兵先では建前化していた[160]:72

アメリカ本国では国家レベルの公娼制は存在しなかったが、イギリス同様、植民地には公娼制を導入し[161]フィリピンなどでは、米軍基地目当ての売春宿や性病検診と登録制が、1990年代になっても廃止されなかった[162]。フィリピンでは、米西戦争の頃から米軍将兵を顧客として売春が行われていた。

第二次大戦後に日本に進駐した米軍の場合も、慰安所の利用がアメリカ本国に知られると慰安所は閉鎖されたが[163]:128朝鮮戦争が始まると、米軍は韓国軍が提供した慰安所を利用し、その後はベトナムとその周辺の国々で、売春宿の利用が黙認されていた(ベトナム戦争)。

米軍は、幕末と第二次大戦後の二度、日本において「慰安所」の提供を受けた。

19世紀[編集]

幕末の日本[編集]

タウンゼント・ハリス駐日領事が江戸幕府に要請した結果、横浜沖に停泊する軍艦(黒船)の水兵たちの為に女性が集められ、現在の横浜スタジアムの地に港崎遊郭が作られた[164]:81-85。港崎遊郭は、8軒、331人の遊女で開業した[164]:96[注釈 16]

港崎遊郭が造られるまで、日本に駐留する欧米各国の兵士は、神奈川宿周辺の遊郭を利用していた[164]:73

米西戦争・米比戦争[編集]

フィリピン[編集]

アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、イギリスと同様、植民地で公娼制度を導入した[161]米西戦争でスペインに勝利したアメリカが1898年にフィリピンを占領してからは雨後の筍のように売春宿が蔓延し、また米軍は、現地の娼婦の検診を施したため、宣教師がこれらを訴えた[165]。1902年4月、キリスト教婦人矯風会(WCTU)のマーガレット・エリスがマニラ管理売春や児童買春の実態を報告するなどフェミニズムからの抗議を受け、米国政府は性病検査と検査料金徴収を中止し、健全な娯楽施設、読書室、体育館をかわりに建設するとした[165]。ルーズベルト大統領は現地娼婦と軍との関係を不明瞭にしたが、フィリピン軍政責任者のルート陸軍長官は診断料や診断証明書の料金がなくなっただけと語ったような実情であった[161]。のちにマーガレット・エリスと政府とのあいだで裏取引が発覚しており、その後も米軍慰安所は実質的に存続し、フィリピンで売春街を紅灯街に限定するようにし、性病検査を継続しながらもアメリカ政府が公式に関与していないように努力した[166]。当時のフェミニストは米国の帝国主義と植民地主義を支持しており、矯風会もフィリピン、ハワイ、プエルトリコ領有を支持し、米国が神の目的を実現する救済者国家であると信じていたため、植民地での売春宿・慰安所についての反対運動は後退した[167]

米軍目当てのフィリピンの売春宿と性病検査はその後も第二次世界大戦、ベトナム戦争、1990年代の米軍の一時撤退まで継続し、廃止されることはなかった[168][161]。また、アメリカ人女性、フランス人、イタリア人、ロシア人、ユダヤ人の白人娼婦もボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、上海、ハルビン、マニラなどで就業した[169]

第一次世界大戦[編集]

こうした出来事を背景に、第一次世界大戦のアメリカン・プランが推進された。アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった[170][171]。市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると、強制的に収容され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された[171]。この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、兵士で処罰されたものはいない[171]

第二次世界大戦[編集]

第一次世界大戦で性病に悩まされた経験から、兵力保持の観点から売春宿や娼婦の規制を求める動きが現われ、1941年7月、基地周辺での売春を禁止するメイ法(連邦法)が制定された。しかし、ハワイや海外では必ずしもこの原則は守られていなかった[172]。ハワイ準州(当時)に存在した「慰安所」については、実際に米兵を相手に売春したジーン・オハラ英語版の体験談が知られている。

ハワイ[編集]

軍事基地が多かったハワイでは、第一次世界大戦後から軍の主導下で警察による管理売春が行われていた。カリフォルニアから出稼ぎに来た白人の売春婦が多く、ホノルルの赤線地帯では、兵士専用の売春宿が20軒ほどあった。警察に登録された売春婦は250人で、売春宿(民間経営)の前では、毎日兵士が2時間待ちの行列をつくり、月25万人近い軍関係者が利用した。殆どの所では、月20日以上の労働と1日100人以上を相手にするノルマが課せられていた[172]

リビア[編集]

現地の米軍の要請により、リビア政府によって二か所の”セックス・キャンプ”がモンロビアに設置された。女性たちは、米軍の軍医の検査を受け、リビア政府から購入したコテジで商売をした。病気になると標識票を取り上げられ、追放された。この施設は、1942年から1945年まで存在した[173]

日本[編集]

太平洋戦争後、日本を占領した米軍には、基地周辺からの売買春の一掃を主張する司令官と、現実的な性病予防策として日本の公娼制度の再興を提案する司令官が混在していた[160]:72-73

結果的に米軍(連合国軍)の為に慰安所が作られたが、強姦事件も多く、RAA(特殊慰安施設協会)の情報課長であった鏑来清一は後年、日本軍は自国の慰安婦を同行したがアメリカではそれは許されないとしつつ、RAAの施設がなかったら「どんな結果になったか明白」だと述べた[163]:29

米軍は、RAA以外にも、日本各地で慰安所を利用した。日本側から設置を申し入れたケースもあれば、米軍が日本側に要請して設置させたケースもある[160]:39

沖縄では、日本軍と米軍の戦闘が継続中に、米兵による強姦事件に悩まされた住民が自発的に慰安所を設置した例がある。女性たちは毎日10数名の米兵の相手をさせられ、この状態が、住民が収容所に移されるまで約一カ月続いた[174]:69-70

朝鮮戦争[編集]

韓国軍も日本軍同様慰安所を設置したが、この中には米軍用の慰安所も存在した[175]:288

この他にも、韓国政府は米軍基地の周りに「基地村」を造り、女性を送り込み米軍と共同でこれを管理した。1977年の韓国政府の資料では、9935人の女性が基地村で米兵を相手に売春していた[176]。2000年代に入り、1980年代まで続いた基地村での売春について韓国政府と米軍を告発する慰安婦も現われた。この告発について、在韓米軍も韓国政府もニューヨーク・タイムズ紙に対し明確なコメントを拒否した[177][178]

近年でも、米軍基地周辺でフィリピン人などの外国人娼婦がジューシーバーなどで売春をおこなっており、現在進行中の人身売買であると米軍も注意勧告を行っているが[179]、問題解決にはいたっていない(在韓米軍慰安婦問題)。

ベトナム戦争[編集]

ベトナム戦争においても、米軍の周りには黙認という形で「慰安所」が存在した。旅団長がこうした売春宿を監督し、ウィリアム・ウェストモーランド司令官や国防省はこれを黙認していた。第一師団第三旅団の例では、「慰安所」の周りには兵士が歩哨に立ち、地元民が女性を集めてくるという形式をとっていた。値段が安い点を除けば、日本軍のシステムに酷似していると秦郁彦は述べている[180]

台湾[編集]

1958年以降、中華民国側から米軍専用の慰安所(特約茶店)の提供を受けていた。施設の管理は台湾側、衛生・性病の管理に関しては、米軍と台湾側が共同して行った。1979年に米軍が台湾から撤退するまで、この状況が続いたと見られる(「台湾(中華民国国軍)の慰安所」も参照)[8]:71-75

イギリス軍の慰安所[編集]

将兵の買春や売春宿の利用はイギリスにおいてはタブーであり、あまり語られないが、一部の兵士の残した記録から、少なくとも第一次大戦中の西部戦線などでは、イギリス軍が公式に「慰安所」の利用を認めていたことが分かっている[181]

19世紀[編集]

19世紀のイギリス海軍では、船が入港すると、売春婦を船内に呼び入れるのが一般的な慣習だった。イギリスの港町では、ランチが女性を軍艦に運び、ランチの船長が代金を受け取る光景が見られた。そんな中で性病に対する懸念が高まり、1864年制定の法律により、指定された11の港町の売春婦が陸軍省と海軍省の管理下に置かれた。やがて医師による定期的な検診が義務付けられるようになり、売春婦は登録制となる。その後、陸海軍が常駐する町以外にも法律を適用させようという動きもあったが、実現しなかった[182]:307

インド[編集]

1891-92年の調査によれば、(イギリス女王が皇帝を兼ねる)インド帝国政府が、娼婦の為の施設を作り、イギリス軍が娼婦に支払いをし、政府の監視員が兵営への娼婦の出入りを監督していた[183]

1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった[184]。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した[184]。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた[184]。売春婦登録簿は1888年まで記録されている[184]

藤目ゆきは「植民地においてこそ、帝国主義軍隊の維持がより重大であり、だからこそ公娼制の温存は植民地において本国より重視された」と指摘したうえで、娼家の供給は「貧しい親に売られるのも、だまされて売春を強要されるのも、前借金に縛られ逃げられない状態に置かれたのも、日本人の娼婦に限ったことではない」と指摘している[185]

イギリスは1921年の婦人及児童ノ売春禁止ニ関スル国際条約に調印しながらも植民地での公娼制は維持された[162]

第一次世界大戦[編集]

フランスに出征中のイギリス軍将兵は、売春宿の利用を軍に公認されていた。将校用の売春宿(慰安所)は「ブルー・ランプ」、一般兵士用は「レッド・ランプ」と呼ばれていた[181]

開戦当初のイギリス政府の方針は、医学的管理下にある売春宿での買春の容認であった。終戦近くになると、兵士に対する性教育と同時に、兵士たちが匿名で治療薬(消毒剤)を使用出来るようにした。当局によって調査済み売春宿は特例とされた[186]

イギリスの詩人ロバート・グレーヴズは、第一次大戦に従軍した際、フランスのベテューヌでイギリス軍の慰安所を目撃している。グレーヴズによれば、「レッド・ランプ」と呼ばれた慰安所には、3人の慰安婦の順番を待つ為に150名からの兵士が列を作っていた。料金は10フラン(当時の8シリング)だったと言う[187]:213

第二次世界大戦[編集]

第二次世界大戦中は軍公認の慰安所は置かず、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した[188]

シンガポールの政治家リー・クアンユーは、シンガポールに駐留していたイギリス軍の周りに売春婦が集まっていた様子や、イギリスへの帰還兵が船の上で同僚の女性兵士たちと人目もはばからずセックスしている様子を見て、「慰安所に整列して順番を待つ日本兵の記憶と対照的な光景だと思った」と振り返っている[15][189]

秦郁彦は、第二次世界大戦当時の英米では兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したと指摘している[190]

オーストラリア軍の慰安所[編集]

第二次大戦中、オーストラリア軍は、南方戦線で占領した日本軍の慰安所を自分たちが利用する為に転用した[注釈 17]

韓国軍の慰安所[編集]

朝鮮戦争時の韓国軍[192][193]アメリカ軍[194][195]などが戦地・占領地・訓練地で軍隊慰安所を設置・利用したという研究がなされている。

韓国・慶南大学校客員教授の金貴玉によると、韓国の公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所-特殊慰安隊」との記述があり、旧日本軍に関係した韓国軍の幹部によって設置されていたと考えられると言う[196][197]

1950年、韓国釜山に韓国軍慰安所、馬山に連合軍慰安所が設置され、1951年には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される[198][199]

ソウル特別市地区には以下の3ヶ所が設置された[200]

  • 第一小隊用慰安所(現・ソウル市中区忠武路四街148)
  • 第二小隊用慰安所(現・ソウル特別市中区草洞105)
  • 第三小隊用慰安所(現・ソウル特別市城東区神堂洞236)

江陵市には、第一小隊用慰安所(江寮郡成徳面老巌里)が、他に春川市原州市束草市などに慰安所が設置された[200]

慰安婦をドラム缶にひとりづつ押し込めて、トラックで前線まで移送したという証言もある[注釈 18]。こうした慰安婦を米兵も大いに利用したという[201]

1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖された[200]。金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」としている[200]

ベトナム戦争においても「トルコ風呂(The Turkish Bath)」と称する、韓国軍による韓国兵専用の慰安所がサイゴンに存在していた[149]

台湾(中華民国国軍)の慰安所[編集]

「軍中楽園」「特約茶店」などと呼ばれる。1950年代より営業を開始。台湾本島では1974年に廃止されたが、金門島では1990年代の初めまで存在した(「zh:軍中樂園」「zh:金門八三一」)。金門島の八三一軍中楽園が有名[8]:73。本島から離島まで、台湾の各地に設置された[8]:75

中華民国国防部は、1954年1月、軍中楽園という名の慰安所の設置を検討し始め、翌月には設置は陸軍から始めること、軍が運営の責任を担うこと、娼婦には食事を支給することなどが決まった。設置の理由は、軍規と兵士の健康の維持の為とされる[8]:72,73。軍妓(慰安婦)の中には、意に反して働いていた女性もいたと言われる[8]:74[202]。1957年に、名称が軍中楽園から特約茶店に変更された[8]:72

1987年、16歳の少女が金門島の特約茶店で3000人以上の客を相手に売春を強要されるという事件が起こった[202]

1951年の料金は、軍人〔ママ〕が15元、兵士が10元。1989年では、それぞれ250元と150元だった(当時の一般兵士の給料は、3100元)[203]

金門島には、軍中楽園を復元した特約茶室展示館が一般公開されている[203]

台湾に駐留する米軍専用の「特約茶店」も存在した(「アメリカ軍の慰安所」参照)[8]:75

2014年、ニウ・チェンザー監督の映画『軍中楽園』が公開された[204]

ドイツ軍の慰安所[編集]

第一次世界大戦[編集]

第一次大戦中のドイツ軍には、軍が管理、あるいは直接運営する売春宿が存在した[205]

1917年に、フランスのヴァランシエンヌで「慰安所」の帳簿係を命じられた兵士によれば、慰安所には18人の慰安婦がおり、6人が将校担当だったという。兵士相手の慰安婦は一日30人を相手にし、将校担当は25人を相手にした。業務日誌には、慰安婦の名前と番号、部屋の番号、開始時間と終了時間を記入した。料金は4マルクで、取り分は、女性1、管理人1、慰安所業務の責任を負う赤十字社が2だったという[205]

第二次世界大戦[編集]

フランスのブレストで慰安所に入るドイツ軍兵士(1940年)。建物は以前のユダヤ教施設(シナゴーグ)。

ドイツ軍には日本軍と似た形の「慰安所」が500箇所存在した。ただし、日本軍の場合と異なり、ドイツ軍は、軍の最高レベルで慰安所を律していた[注釈 19][206]

フランツ・ザイトラーの著作によれば、1939年9月9日、ドイツ政府は、軍人の健康を守るために、街娼を禁止し、売春宿 (Bordell) は警察の管理下におかれ、衛生上の監督をうけ、さらに1940年7月にはブラウヒッチュ陸軍総司令官は、性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止した[207]。入場料は2-3マルク、高級慰安所は5マルクだった[207]。ヒトラーは「性病の蔓延は民族の没落の現れ」とみなしたため、ナチスドイツはドイツ国内および占領地でも売春を徹底的に管理し、路上客引きを禁止し、民間の売春宿は警察と保健所の監督下に置いた[208]

ソ連スターリンが売春を禁止していたため、東方の占領地では売春宿を新設し、慰安婦はしばしば強制徴用されたといわれる[209]

強制収容所の中の慰安所[編集]

強制収容所での囚人用売春施設についてはオイゲン・コゴンの『親衛隊国家』、ヘルマン・ラングバインの『アウシュヴィッツの人間』でも知られていたが、戦後英雄視された政治犯も当時囚人であったためタブー視され研究されることがなかったが、2009年にロベルト・ゾンマー(Robert Sommer)が『Das KZ-Bordell:Sexuelle Zwangsarbeit in nationalsozialistischen. (強制収容所の売春施設:ナチス強制収容所での性的強制労働』(Paderborn)を発表した[208]

ゾンマーによれば、この強制売春施設はハインリヒ・ヒムラーがソ連のラーゲリ強制労働所における報奨制度にならって強制労働の生産性を向上させるために構想された[208]ゲシュタポは1942年6月にオーストリア、ドイツ、ポーランドの強制収容所などに13の強制売春施設を建設した[208]。そのうち9カ所が囚人専用、4カ所は収容所警備のウクライナ人親衛隊員専用であった[208]。被害女性の数は210人と推計され、114人がドイツ人、46人がポーランド人であった[208]。この実証研究によって、これまで流布した「ナチスがユダヤ人女性を強制売春させた」ということには根拠がなくなった[208]。女性たちの平均滞在期間は10ヶ月で、最長34ヶ月であった[208]。食料は親衛隊員待遇で豊富であった[208]。毎晩2時間、6人〜8人の男性囚人を規則に従って受け入れた[208]

フランス軍の慰安所[編集]

フランスには、1800年代から海外の植民地に展開した軍隊の為の軍用売春宿が存在した。こうした「慰安所」は、21世紀直前まで存在した[210]

第一次大戦[編集]

第一次世界大戦が始まり、軍人・民間人を問わず20~30パーセントのフランス人男性が梅毒に感染する状況に陥ると、フランス政府は国内に「慰安所」を開設した(1915年)。フランス軍は、既に外地におい軍用売春宿(BMC)を運用していたが、フランス本土に設置されたのは、この時が初めてだった。アメリカ軍は、こうした方式を取らなかった為に、フランスのサン=ナゼールにアメリカ軍が上陸すると、町中に梅毒を広めてしまった[210]

移動慰安所(BMC)[編集]

モロッコでのフランス軍の移動慰安所(1920年代)

フランス軍、特にフランス植民地軍には「移動慰安所」というシステム(慣習)があった[211][212]。「移動慰安所」は、フランス語でBordel militaire de campagne、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、第一次世界大戦第二次世界大戦インドシナ戦争アルジェリア戦争の際に存在した[213]

移動慰安所は1830年にアルジェリア、あるいはモロッコで成立したといわれ[214][215]チュニジアにも存在した[216]慰安婦には北アフリカ出身者が多かったが[211]、現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされた[217]

BMCは、第二次大戦中、ドイツにも設置された。大戦後も、1950年代まで戦われたインドシナ戦争で運用された[210]

その後も、1978年までヨーロッパにおけるフランス領土、いわゆるフランス・メトロポリテーヌ内に4つのBMCが存在し、ギアナのフランス領クールーでは、1995年までBMCが稼働していた[210]

秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している[211]

ロシア(軍)の慰安所導入計画[編集]

第一次世界大戦[編集]

ロシアでは、第一次世界大戦の頃から、軍用売春宿(慰安所)の導入が検討されていた。ロシア帝国ロシア臨時政府がそれぞれ別個に各々の陸軍の為に検討していた。モデルとなったのは、当時のドイツ軍の軍用売春宿(慰安所)であった。ボリシェビキも同様の検討を行っていた。ロシア軍はブルシーロフ攻勢後ドイツ軍の慰安所を複数個所手に入れ、コサック兵たちの利用が黙認されていた。戦争が塹壕戦に入ると、前線のあちこちに売春宿が乱立するようになり、ロシア臨時政府はこれらの合法化を考えた。臨時政府の外務大臣であったパーヴェル・ミリュコーフによれば、目的は兵士のモラルの向上と、臨時政府に対する不満の捌け口となるはずだった。彼の提案は陽の目を見なかったが、ペトログラード・ソビエト英語版に引き継がれ、1917年、ペトログラード・ソビエトは、兵士達の住民に対する暴力の抑止になると期待して再検討に着手した。しかし、この計画も内戦の勃発により実現しなかった[218]

第二次世界大戦[編集]

ソ連軍は慰安所を持たず、ベルリン満州で大規模な強姦事件を起した[219][220]

秦郁彦は、伝聞と断った上で、日本の慰安婦問題についてソ連軍の元将軍が地元のテレビで「日本軍のように兵士の面倒見をよくしていたら、対独戦は一年早く終わっていたろう」とコメントした話を伝えている[221]

国連軍・連合国軍の慰安所[編集]

安浦ハウスに集まる米国将兵たち

国連軍とその前身である連合国の軍隊は、過去に韓国や日本において慰安所を利用した。

第二次世界大戦[編集]

終戦後、連合国軍占領下の日本において内務省により占領軍のために特殊慰安施設協会(RAA)が東京都京橋区銀座七の一(現在の中央区銀座南部)に設立された。地方にも同様の「特殊慰安施設」が設立されたが、地方自治体が主導したもの、警察が主導したもの、米軍が要求して設置させたものなど様々な形態がある[160]:39

朝鮮戦争[編集]

1951年に、韓国政府が「国連軍への慰安方法の一例」という方針を決定し、同年、釜山において、74軒の国連軍専用の慰安所が公認された。翌年、更に78軒が公認された。こうした慰安所が、韓国全土に作られた。この他にも、国連軍向けの非公認の売春施設が、その数倍存在したとされる[222]:238。韓国の研究者は、国連軍用の慰安所が設置されるにあたり、米軍が最終的な承認を与えたと推測している。ただし、それを裏づける決定的な文書資料は見つかっていない[200]:296[注釈 20]

米軍の資料によれば、1950年に「国連軍向けのレクリエーションハウス」が多数店開きしたとされるが、林博史はこれを、国連軍の兵士たちが夜の女を選ぶ場であり、売春宿とは異なる性売買の形態だとしている[222]:239

1951年に現地調査を行った国際NGO団体は、黄海道に住む女性から、米軍が娼家をこしらえ、若い女性を無理矢理連れて行き、米軍と英軍の将兵にあてがったという証言を得た[223]:230平壌でも、米軍がオペラハウスや近所の住宅を軍用娼家にし、町で捕まえた女性を強制的に連れて来たといった証言が得られている[223]:214

脚註[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ この時点では、まだ慰安所という呼称はなかった。
  2. ^ この世界の片隅に」の頁、「呉朝日町」の説明参照。
  3. ^ 「マスバテ島警備隊 軍人倶楽部規定」[26]:321など。ただし、独立歩兵第一三旅団中山警備隊の規定では、第一軍人倶楽部を食堂、「第二軍人倶楽部ト称スルハ慰安所トス」となっており、軍人倶楽部=慰安所と言えるかは分からない[26]:285。沖縄に派遣された第24師団歩兵第三十二連隊(沖縄在住の元慰安婦、裵奉奇<故人>の証言で知られる)でも軍人倶楽部と呼称していた[27]:75
  4. ^ 「在留邦人の各種営業許可及取締に関する陸海外三省関係者会同決定事項」「独立自動車第四二大隊第一中隊陣中日誌」など[26]:180,267,270,354
  5. ^ 秦郁彦は、中支、南支、満州で見られたとしている。北支那派遣軍の規定では、慰安所の設置には、大隊長以上の許可が必要だった[39]。慰安所設置の根拠法令である野戦酒保規程にも、(野戦酒保は)連隊や大隊、編成員500名以上の部隊に設置すると定められていた[40]
  6. ^ 秦も、僻地の末端部隊で後に直営が一部復活するが、その場合も業者が介在することが多かったとしている[48]
  7. ^ 馬来監達第二八号「第七条 慰安施設の経営者は邦人に限定するを本則とする・・・」[51][52]
  8. ^ この他にも、フィリピンのパナイ島には、接客業組合があり、理髪業や酒場などと共に慰安所が登録されていた[61]
  9. ^ 白城子には二軒の慰安所があり、一軒に三十人弱の朝鮮人慰安婦がいた。経営者は朝鮮人の夫婦だった。
  10. ^ 第二三軍独立歩兵第一三旅団遠山隊
  11. ^ 吉見義明は、公文書で「ピー屋」という言葉を使うわけがないので、実際は「慰安施設設置要綱」などといったのだろうとしている[93]
  12. ^ 前借金とは、働いて返すことを条件に、雇い主(業者)が慰安婦側(本人・両親)に前貸しする金銭。この場合、業者は少ない資本で慰安所を開業出来る。
  13. ^ 林博史は募集広告を出したのが何者かについては、触れていない[119]:106。前述の朝鮮半島の広告は、業者が出したものである[123]
  14. ^ 朝鮮料理店を指定して酌婦を置くなどした。朝鮮料理店で酌婦が売春を行う傾向は全国的に見られた[119]:143
  15. ^ 筑豊炭田周辺を取材した西野留美子による。全国的にこの名称が使われていたのかは不明。
  16. ^ 川元祥一は、これを「開港慰安所」と呼んでいる。
  17. ^ これを指摘した田中利幸はオーストラリアの退役軍人会から非難された[191]
  18. ^ 証言者は、慰安婦を前線まで連れて行くことは許可されていなかったとも言っている。
  19. ^ 秦によれば、日本軍の場合、輸送関係を除くと出先部隊の低いレベルで業者と取り決めしていた。
  20. ^ 金貴玉は、米軍用の慰安婦として論評しており、明確に国連軍用という言い方はしていないが、国連軍も責任は免れないと言っている。

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]