近代公娼制

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近代公娼制では、欧米その他の国において、近代化に伴い、性病の予防などの目的で実施された公娼制について記述する。

近代公娼制の設立目的と経緯[編集]

18世紀のヨーロッパでは売春が盛んになり、私生児も増加したため[1]、1724年には医師バーナード・デ・マンデヴィルが書いたと伝わる『公営売春宿擁護論』(A Modest Defense of Publick Stews)が刊行され、自由売春や私的な売春にまつわる病気などの様々な弊害は、売春を公認することですべて解決できると主張し、公認売春宿の詳細な計画を発表した[2]

産業革命期以降、ヨーロッパでは娼婦登録制による売春公認政策がとられ、1795年のベルリンでの登録娼婦は257人、1820年のパリでの登録娼婦は2800人だった[3]。しかし非登録の私娼も多く、1843年頃の調査ではロンドンに9万人、パリに3万人、ベルリンに1万人の娼婦がいた[3]。1860年のロンドンでは30万人の娼婦がいたとされる[4]

藤目ゆきは近代公娼制度を「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」と定義したうえで、近代公娼制度はフランス政府で確立し、その後ヨーロッパやイギリス、日本にも導入されたと指摘している[5]。藤目はフランスを「公娼制度の祖国」と評している[6]

秦郁彦も、近代公娼制が始められたのは性病対策がきっかけであったとし、ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノーは軍隊についてくる売春婦と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだが、ナポレオン軍は性病を欧州中に広めたとした[7]。1901年に軍医の菊池蘇太郎も「軍隊ニオケル花柳病予防法」で、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたとしている[8]

各国の近代公娼制[編集]

近世以前の公娼制については公娼参照。

フランス[編集]

19世紀初頭の1802年、フランスで警察による公娼登録が開始された[9]。1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった[10]。16世紀に梅毒が流行したが18世紀末にも梅毒流行が再燃し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがったが、同時に医学研究もすすみ、1837年には医師フィリップ・ニコールによって梅毒と淋病の区別が証明された[11]

フランス軍、特にフランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があった[12][13]。「移動慰安所」は、フランス語でBordel militaire de campagne、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、第一次世界大戦第二次世界大戦インドシナ戦争アルジェリア戦争の際に存在した(en:Bordel militaire de campagne参照)。移動慰安所はモロッコで成立したといわれ[14]、ほかアルジェリアチュニジアにも存在した[15]。慰安婦には北アフリカ出身者が多かった[12]。現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされた[16]。秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している[12]

プロシア[編集]

プロシアでは公娼制度が一旦廃止されたあと1851年に性病予防のためには私娼の蔓延よりも公娼制度が優れているとして軍によって再開された[9]、風紀警察が特別に設置された[17]

イギリス[編集]

イギリスはクリミア戦争の際の性病問題に対してイギリス軍の提案[18]で1864年から1869年にかけての伝染病法(Contagious Diseases Acts)英語版によって公娼制度が導入され[9]、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された[18]。1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された[9]

1870年代になってジョセフィン・バトラー[19]らの売春婦救済運動(廃娼運動[3])が盛んになり、19世紀末のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止される[3]。しかし、植民地においては存在し続けた(秦郁彦[20]、ヒックス[21]、藤目ゆき[22])。

アメリカ[編集]

アメリカ合衆国では南北戦争時に性病予防のための管理売春を計画し、戦後の1870年にセントルイスでヨーロッパ型の公娼制が導入され[23]、ニューヨーク、シカゴ、シンシナティー、サンフランシスコ、フィラデルフィアでも計画がすすめられた[24]

売春禁止運動[編集]

しかし、同時に公娼制度・売買春反対の運動がおこり、1880年代からは純潔十字軍が社会浄化運動を行い[25]、米国純潔連合、米国自警協会、米国社会衛生協会などの組織がつくられ、娼婦を「白人奴隷」と表現し、公娼制度を「白い奴隷制度」とセンセーショナルに報告し、WASPの公共心に道徳的なパニックをひきおこした[26]

アジア系外国人・娼婦排斥運動[編集]

またアメリカでは娼婦への反感と人種差別がむすびつき、1875年には世界ではじめて中国人娼婦の入国禁止法を制定し、のちに国籍問わず娼婦の入国を禁止し[27][28]、さらに中国人娼婦を口実に1882年中国人排斥法が成立し、また日本人娼婦も排斥された[25]。サンフランシスコ労働者党のデニス・カーニーは中国人と日本人排斥運動を行い、1892年5月にサンノゼ市のサンタクララ町で、「(中国人と)同じアジアの奴隷が流れ込んでいる。日本には馬も馬車も何もなく、人間がその代役を勤めている。女は十歳にしていうをはばかる職業に従事するため、政府より許可状をもらう」「日本人には貞操という観念はまったくない。男と女が野獣と同様に無茶苦茶に交合する」などと演説し、日本人娼婦や労働者の排斥を訴え、群衆から拍手で迎えられた[29]。当時のアメリカの売春宿は一般的に最貧地域にあり、黒人、東欧移民が多く、太平洋沿岸では中国人、日本人娼婦がおり、肌の色で区分されることもあり、たとえばサンフランシスコの娼家では最上階は白人娼婦、下の階に中国人、日本人、メキシコ人女性が営業していた[30]

1903年、1907年、1910年と外国人女性を含む娼婦排斥法が厳格化し、1910年のマン法英語版では不道徳な目的による女性の移動が禁止され、さらにあらゆるセックス行為が罪に問われるようになり、紅灯地区は閉鎖され、売買春は地下に潜るようになり、娼婦は公共の売春宿を失ったため、電話、街頭、マッサージ・パーラー、ダンス・ホールなどで客をとるようになり、また経営も組織犯罪シンジケートに移っていった[31]

植民地[編集]

イギリスは1921年の婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約に調印しながらも植民地での公娼制は維持された[22]。アメリカ合衆国もフィリピンなどでは、米軍基地目当ての売春宿や性病検診と登録制は1990年代になっても廃止されなかった[22]。秦郁彦は、第二次世界大戦当時の英米では兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したと指摘している[20]

植民地の公娼制について藤目ゆきは「植民地においてこそ、帝国主義軍隊の維持がより重大であり、だからこそ公娼制の温存は植民地において本国より重視された」と指摘したうえで、娼家の供給は「貧しい親に売られるのも、だまされて売春を強要されるのも、前借金に縛られ逃げられない状態に置かれたのも、日本人の娼婦に限ったことではない」と指摘している[32]

植民地インド[編集]

1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった[21]。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した[21]。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた[21]。売春婦登録簿は1888年まで記録されている[21]

第二次世界大戦の時代にはイギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した[33]

植民地フィリピン[編集]

アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、植民地で公娼制度を導入した[24]米西戦争でスペインに勝利したアメリカが1898年にフィリピンを占領してからは雨後の筍のように売春宿が蔓延し、また米軍は、現地の娼婦の検診を施したため、宣教師がこれらを訴えた[34]。1902年4月、キリスト教婦人矯風会(WCTU)のマーガレット・エリスがマニラ管理売春や児童買春の実態を報告するなどフェミニズムからの抗議を受け、米国政府は性病検査と検査料金徴収を中止し、健全な娯楽施設、読書室、体育館をかわりに建設するとした[34]。ルーズベルト大統領は現地娼婦と軍との関係を不明瞭にしたが、フィリピン軍政責任者のルート陸軍長官は診断料や診断証明書の料金がなくなっただけと語ったような実情であった[24]。のちにマーガレット・エリスと政府とのあいだで裏取引が発覚しており、その後も米軍慰安所は実質的に存続し、フィリピンで売春街を紅灯街に限定するようにし、性病検査を継続しながらもアメリカ政府が公式に関与していないように努力した[35]

米軍目当ての売春宿と性病検査はその後も第二次世界大戦、ベトナム戦争、1990年代の米軍の一時撤退まで継続し、廃止されることはなかった[36][24]。また、アメリカ人女性、フランス人、イタリア人、ロシア人、ユダヤ人の白人娼婦もボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、上海、ハルビン、マニラなどで就業した[37]

フェミニズムと帝国主義

フィリピンの状況はその後も断続的に報告されるが、管理売春反対運動は後退した[38]。理由としては当時のフェミニストは米国の帝国主義と植民地主義を支持していたことがあげられ、矯風会もフィリピン、ハワイ、プエルトリコ領有を支持し、米国が神の目的を実現する救済者国家であると信じていた[38]

アメリカン・プラン[編集]

こうしたことを背景に、第一次世界大戦のアメリカン・プランも推進された。アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった[39][40]。市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると、強制収容され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された[40]。この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、兵士で処罰されたものはいない[40]

日本[編集]

明治時代以降の公娼制[編集]

明治時代になって遊郭はさらに需要を増した。当時の日本では性病の罹患者比率がきわめて高く、イギリス海軍は娼婦から性病を移されることを問題にした。横浜では外人目当ての遊郭の港崎遊郭が生まれ、政府は会津征伐の軍資金五万両を業者に出させ、代わりに外人居留地に築地鉄砲洲遊郭の設置をした。

公娼取締規則・娼妓取締規則[編集]

1872年のマリア・ルーズ号事件の際、「日本では国家が人身売買を公認している」と指摘された政府は、太政官布告で芸妓・娼妓の解放令を出した。しかし遊郭自体を廃止する事はなく、遊女屋は「貸座敷」と名を変えて帰り先のない遊女たちを吸収し、借金による年季付きの人身売買は太平洋戦争後まで存続した[41]

1873年明治6年)12月、公娼取締規則が施行された。ここに警保寮から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令された。のちに公娼取締規則は地方長官にその権限がうつり、各地方の特状により取締規則が制定された。たとえば東京では、1882年(明治15年)4月、警察令で娼妓渡世をしようとする者は父母および最近親族(が居ない場合は確かな証人2人)から出願しなければ許可しないとした。 やがて群馬県では県議会決議によって、全国で初めて公娼そのものを全面的に禁止する条例が可決された。

1886年(明治19年)、キリスト教活動家の矢嶋楫子が東京キリスト教婦人矯風会を組織(のちに日本キリスト教婦人矯風会)。矢嶋は1873年にアメリカオハイオ州クリーブランドで結成されたWoman's Christian Temperance Union(WCTU、キリスト教婦人矯風会)の影響を受けていた。翌年には「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出した。

1889年(明治22年)、内務大臣から、訓令で、これより娼妓渡世は16歳未満の者には許可しないと布告された。

1891年(明治24年)12月までは士族の女子は娼妓稼業ができなかったが、内務大臣訓令によりこれを許可するとし、1900年(明治33年)5月、内務大臣訓令により、18歳未満の者には娼妓稼業を許可しないと改正された。

1900年(明治33年)10月、内務省令第44号をもって、娼妓取締規則が施行された。これによって、各府県を通じて制度が統一され、明治初年の制度に戻ったかたちとなった。これは16条からなり、娼妓自由廃業がみとめられていたので、公娼制度を大きく変えるはずだったが、実際にはこの法律自体を知らない娼妓もおり、その後も娼妓廃業の自由は、前借金を盾に阻害されることもあった[42]。とはいえ自由廃業者は増え、東京府の統計では、娼妓取締規則施行後、年内に自由廃業した娼妓は429名で[43]、この動きは大阪など地方の遊郭にも広がった[44]サンデー毎日の記者が1940年ごろに、当時を知る元娼妓や元楼主などに取材したところでは、娼妓取締規則に前後する明治32、33年には、自由廃業を認めない楼主を相手取った訴訟が各地で起き、娼妓の勝訴が相次いだため、次第に廃業する者が増えていった[45]

1911年、キリスト教系の廃娼運動団体廓清会が発足。島田三郎安部磯雄矢嶋楫子江原素六小崎弘道植村正久井深梶之助元田作之進山室軍平らが関わった。翌1912年(明治45年)、安部磯雄は『風紀問題としての公娼制度』(廓清会本部)を刊行。

朝鮮[編集]

日本の遊郭業の進出から近代公娼制の確立[編集]

1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった[46]

金一勉金両基は、朝鮮の都市に公然と遊郭が登場したのは日本人の登場以来の事で、朝鮮各地に娘の人身売買が公然と横行するようになったと主張している [47][48][49]

1881年10月には釜山で「貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた[46]。翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札(営業許可証)の取得を義務づけた[46]。1885年には京城領事館達「売淫取締規則」が出され、ソウルでの売春業は禁止された[50]。しかし、日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され[50]、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦遊郭が形成された[46]

日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した[50]。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった[46][50]

1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった[46]。同1906年には龍山に桃山遊廓(のち弥生遊廓)が開設した[50]。日本人の居住地で知られる京城の新町、釜山の緑町、平壌の柳町、太田の春日町などには数十軒から数百軒を数える遊郭が設けられ、地方の小都市にも十数件の青桜が軒を連ねた[51]

日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した[46]。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ[46]。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された>[46]

日本統治下の公娼制[編集]

1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された[50]

他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった[50]。 当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷[52][50]であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた[52][50]第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城花柳界は全盛を極めた[50]。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している[50]。1918年の京城・本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている[50]

1918年6月12日の『京城日報』は「京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた」と報道した[50]

1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している[50]。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった[53]

脚注[編集]

  1. ^ ブーロー et al. 1991, p. 287
  2. ^ ブーロー et al. 1991, pp. 289-291
  3. ^ a b c d 山田宏「売春」世界大百科事典平凡社、2007,p333
  4. ^ 山手茂「売春」日本大百科全書、小学館、1987
  5. ^ 藤目 1997, p. 51
  6. ^ 藤目 1997, p. 64
  7. ^ 秦 1999, p. 145
  8. ^ 川田文子 『戦争と性 近代公娼制度・慰安所制度をめぐって』 明石書店、1995年ISBN 978-4750306933
  9. ^ a b c d 藤目 1997, p. 53
  10. ^ ブーロー et al. 1991, p. 300
  11. ^ ブーロー et al. 1991, p. 301
  12. ^ a b c 秦 1999, p. 171
  13. ^ 金貴玉「朝鮮戦争時の韓国軍「慰安婦」制度について」、『宋連玉,金栄編 軍隊と性暴力―朝鮮半島の20世紀』、現代史料出版、2010年
  14. ^ Mustapha El Qadéry, BNRM, Rabat「Femmes des Bordels Militaires de Campagne. Les BMC de l’armée coloniale française au Maroc」Publié in, M. Cheikh & M. Péraldi, Des femmes sur les routes. Voyage au féminin entre Afrique et Méditerranée, éd. CJB, le Fennec, Karthala, Cacablanca, 2009, pp. 229-244
  15. ^ Christelle Taraud, La prostitution coloniale. Algérie, Maroc, Tunisie (1830-1962), Paris, Éditions Payot & Rivages, 2009 [2003],
  16. ^ Bernard B.Fall, Street without Joy, Harrisburg, 1961.
  17. ^ ブーロー et al. 1991, p. 304
  18. ^ a b 藤目 1997, pp. 54-55
  19. ^ 小谷野敦 『日本売春史』 新潮社、2007年、149頁。ISBN 978-4106035906
  20. ^ a b 秦 1999, p. 146
  21. ^ a b c d e ヒックス 1995, p. 24
  22. ^ a b c 藤目 1997, p. 56
  23. ^ John C.Burnham:Medical Inspection of Prostitutes in America in the 19th Century,Bulletin of the History of Medicine,45,May-June 1971
  24. ^ a b c d 藤目 1997, 第一章
  25. ^ a b 藤目 1997, p. 70
  26. ^ 藤目 1997, pp. 73-74
  27. ^ Lucie Cheng Hirata,Free,Indentured,Enslaved:Chinese Prostitute in 19th Century America,Journal of women in culture and socaiety,vol,5.no1,1979
  28. ^ Judy Yung,Chinese Women of America,University of Washington Press,1986
  29. ^ 若槻泰雄 『排日の歴史』 中央公論新社〈中公新書〉、1972年ISBN 978-4121002747
  30. ^ 藤目 1997, p. 72
  31. ^ 藤目 1997, p. 75
  32. ^ 藤目 1997, p. 79
  33. ^ 秦 1999, p. 156
  34. ^ a b 藤目 1997, p. 76
  35. ^ 藤目 1997, pp. 76-77
  36. ^ Carol Anonueva,Prostitution in Philippines,in Cast the First Stone,pp64-89
  37. ^ 藤目 1997, p. 59
  38. ^ a b 藤目 1997, p. 77
  39. ^ David J.Piver,Cleansing the Nation:The War on Prostitution 1917-1921,Prolougue:The Journal of the National Archives,No.12,Spring,1980.,pp.24-30
  40. ^ a b c 藤目 1997, p. 78
  41. ^ 藤原彰 『天皇の軍隊と日中戦争』 大月書店、2006年、6頁。ISBN 978-4272520763
  42. ^ 森光子 『吉原花魁日記』 朝日新聞出版〈朝日文庫〉、2010年ISBN 978-4022645357
  43. ^ その三、十月の巻『娼妓解放哀話』沖野岩三郎著 (中央公論社, 1930)
  44. ^ 東雲のストライキ『娼妓解放哀話』沖野岩三郎著 (中央公論社, 1930)
  45. ^ 東雲のストライキ『生きている歴史』毎日新聞社サンデー毎日編集部編 (教材社, 1940)
  46. ^ a b c d e f g h i 山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉編著『朝鮮人女性がみた慰安婦問題』三一新書,1992.
  47. ^ 金 1984, p. 38
  48. ^ 櫻井 et al. 1997, p. 86
  49. ^ 櫻井 et al. 1997, p. 95
  50. ^ a b c d e f g h i j k l m n 藤永壮「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程―1910年代のソウルを中心に―」京都大学大学院文学研究科・文学部・現代文化学系「二十世紀」編『二十世紀研究』第5号、2004年12月
  51. ^ 金 1984, p. 38
  52. ^ a b 『朝鮮新聞』1911年4月19日記事
  53. ^ 宋連玉「日本の植民地支配と国家的管理売春-朝鮮の公娼を中心にして」(『朝鮮史研究会論文集』32集、1994年、pp.37-88, 緑陰書房)

参考文献[編集]

  • 金, 一勉 『天皇と朝鮮人と総督府』、1984年ISBN 978-4803801774
  • 櫻井, よしこ、金, 両基 『日韓歴史論争-海峡は越えられるか』 中央公論社、1997年ISBN 978-4120027109
  • 秦, 郁彦 『慰安婦と戦場の性』 新潮社、1999年ISBN 978-4106005657
  • ヒックス, ジョージ 『従軍慰安婦:性の奴隷』 三一書房、1995年ISBN 978-4380952692
  • ブーロー, バーン、ブーロー, ボニー 『売春の社会史』 筑摩書房1991年ISBN 978-4480855732
  • 藤目, ゆき 『性の歴史学―公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ』 不二出版、1997年ISBN 978-4938303181

関連項目[編集]