中国空軍の上海爆撃 (1937年)

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中国軍機から爆撃を受けた後の惨状[1]

中国空軍の上海爆撃は、第二次上海事変中の1937年8月に中華民国空軍により上海に対して行われた空爆である。

中国側では“大世界墜弾惨案”、もしくは“黑色星期六”(暗黒の土曜日)と呼称される。

背景[編集]

航空機が大きな役割を果たした第一次世界大戦後より1920年代にかけ、航空戦力の本質を攻勢として爆撃機による決定的破壊攻撃を説いたジュリオ・ドゥーエをはじめ、ウィリアム・ミッチェルヒュー・トレンチャードなどの制空獲得、政戦略的要地攻撃理論は大きな注目を集めた。1930年代にはそれらの理論は技術的にも可能となり、列強は分科比率で爆撃機を重視するようになった。

そんな中、満州事変以後、空軍の拡充に乗り出した中華民国は、アメリカ、ドイツ、イタリアなど列強各国からの航空機と運用理論を貪欲に集めた。その中でも大きな影響を与えたのが33年より招聘されたイタリア軍事顧問団だった。蒋介石は彼らに中央航空学校での教育のみならず、空軍再編計画をも依頼した。この際、同国のドゥーエの制空思想も伝わったと考えられている[2]。1936年末、国民政府軍事委員会参謀本部(開戦後軍令部と改称)は、1937年度の「国防作戦計画」を制定。その中の「作戦指導要領」で中国空軍による戦略爆撃を立案したが、その中身は大型爆撃機にて佐世保、横須賀などの軍飛行場を奇襲攻撃し、さらに東京、大阪などの大都市を爆撃準備するというもので、当時の中国の軍事力では不可能であった[2]。当時、中国空軍が保有する大型爆撃機といえばマーチンB-10 6機と中独合作で得たハインケル He111 6機のみで、あとの大半はノースロップ・ガンマ2EC英語版ダグラス O-2MC英語版などの軽爆撃機であったからである[3]。ただし、中国国内の戦場ならば日本軍の航空機が序盤で展開できる数は限られており、内線作戦で用いれば集中使用しやすかった。盧溝橋事件後、抗戦計画策定に携わった軍政部次長の陳誠は、日本軍の拠点たる天津、豊台の航空基地を奇襲、徹底的に爆撃するという計画を立てた[2]

事実、上海攻略に当たる日本軍にとって、最新鋭の戦闘機を揃えた中国の空軍戦力は侮りがたいものであった。戦力を無力化すべく、当時木更津・鹿屋航空隊に配備されていた最新鋭の96式陸上攻撃機38機の投入を決定、両航空隊をして第1連合航空隊を結成した。8月8日に九州・鹿屋航空隊所属の陸攻が本拠地を離れ、台湾に進出。これに先んじて中国空軍も南昌に集中する9個大隊の戦闘配置命令を下し、5日に空軍戦力を各地に分散させた。しかし、台風によって両者は睨み合いのまま足取りを阻まれていた。

13日、第三艦隊指令長官長谷川清中将は中国空軍に先制攻撃を加えるべく、第1連合航空隊および大連港の加賀、鳳翔、龍驤に出撃命令を下したが、三隻ともに台風のため身動きが取れない状況となっていたため、翌日5時30分、天候回復するまで空襲を見合わすべきと発令した[4]。一方、中国空軍司令周至柔も13日に「空軍作戦第一号令」を発動。これは上海に上陸した日本軍、および長江に展開する日本艦艇を爆装した空軍戦力をして壊滅させる計画であった。

上海の爆撃[編集]

14日早朝、続く「空軍作戦第二号令」を受けた暫編第35中隊の許思廉率いる5機のヴォート V92「コルセア」が筧橋を発進、続いて8時40分、安徽省広徳基地の空軍第2大隊(大隊長:張廷孟中校)に出撃命令が下り、同大隊所属のノースロップ・ガンマ 19機が副大隊長孫桐崗少校に率いられ上海へと向かった[5][6]。9時20分、250キロ瞬発爆弾1発をそれぞれ爆装したアメリカ製のカーチス・ホークⅢ英語版を主力とする第5大隊第24中隊の8機が大隊長丁紀徐に率いられ揚州飛行場を発した[6]

10時30分、龔穎澄率いる第11中隊6機が黄浦江にいた日本の第三艦隊の旗艦装甲巡洋艦出雲」上空に飛来し、うち3機が11時22分[4]、250キロ爆弾6発を投下。しかし雲によって照準が定まらず、5発は川に落ちて巨大な水柱を起こし、残り1発は、ジャーディン・マセソン社の倉庫に当たる。出雲ともう1隻の軽巡洋艦川内」は高射砲の一斉射撃2回で援護しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を飛ばした。第8戦隊では波が高く、艦載機の使用不能と判断された[7]。また、午前10時50分に戦闘機3機、爆撃機1機が上海特別陸戦隊本部を、55分には爆撃機5機が呉淞沖の第8戦隊を攻撃した[4]

出雲、川内の九五式水上偵察機は午後2時45分、虹橋飛行場をそれぞれ爆撃、また閘北方面の中国軍地上部隊を攻撃し帰還、上空警戒にあたった[7]

同日午後4時、南から再び第5大隊第24中隊3機、ついで第25中隊の3機が飛来し、フランス租界と国際共同租界を横切って再び日本の軍艦への攻撃を開始、日本側は高射砲の射撃を続ける。10機の中国軍爆撃機が雲の内外を飛び回り、迎撃する2機の日本軍水上偵察機は常に空中にいたが、射程距離に到達するには速度が遅く、目標に達するために旋回と出直しを繰り返す。

上海租界の爆撃[編集]

大世界近くのチベット通りとモンティニー大通りの交差点付近への中国軍機の爆撃による民間人被害者
中国軍機の爆撃による大世界前の惨状

やがて、1機の中国軍爆撃機から2つの爆弾がチベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線であるエドワード7世大通りと交差する場所に落とされる。直ちに巨大な炎が起こり、激しい爆発となり、5人の外国人を含む850人が負傷し、450人が死亡、12台の自動車が破壊。さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷[8]

およそ1,000ポンドの重さだったと見られる爆弾が半径50メートルの範囲を壊滅させた。犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。遅延起爆型と思われるひとつの爆弾はその爆発力による周囲への損害は限定的ながらコンクリート、石敷、及び固めた地面の層を通して通りに幅3メートル、深さ2.4メートルのクレーターを造った。 その31分後には、婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センター英語版に2発の爆弾が落とされ、1,012人が死亡し、1,007人が負傷[9][10][10]。 この一連の爆撃でノースチャイナ・デイリー・ニュース英語版会計部長ウィリアムズ、チャイニーズ・レコーダー紙英語版記者ローリンソン、上海市参事会員エスリン、プリンストン大学教授ロバート・カール・ライシャワー(Robert Karl Reischauer, 1907-37)、南部バプテスト連盟の宣教師フランク・ジョセフ・ローリンソン英語版ら海外要人が多数犠牲となった[11]

中国軍爆撃機の攻撃は黄浦江の呉淞近くにいたイギリス海軍重巡洋艦カンバーランド(Cumberland)」及び合衆国アジア艦隊旗艦である重巡洋艦「オーガスタ(Augusta)」の2隻にも向けられた。爆撃機2機の急降下はカンバーランド上空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に向けたため攻撃は失敗。中国軍機は悪天候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えたと判断し、どちらの艦からも発砲はなかった。

日本艦の対空砲火により中国軍機は爆撃には高すぎる場所にいることを強いられ、その爆弾を目標近くに落下させることができなかった。しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社の設備に当たり、一晩中燃え続ける火災を起こした。

午後5時[7]、山崎良平三空曹操縦、宮田旻大尉偵察の95式水偵は祝鴻信の操縦するノースロップ907号を射撃し黒煙を吐かせた。ついで第34中隊長・周庭芳上尉のカーチス・ホークⅡと20分間の格闘戦になるが、15発の命中弾を受け形勢不利と見て雲の中に撤収した[12]。また、森澄夫三空曹操縦、藤岡与一一空曹偵察の水偵も梁鴻雲上尉操縦のカーチス・ホークⅢ2410号を撃墜した[13]

この日の戦闘において日本軍は、艦載機による中国軍機2機と、艦船の高射砲により墜落した李傳謀少尉操縦のノースロップ1408号を加えた3機を撃墜したと発表[14]。ただし、祝鴻信機は後部座席の任雲閣准尉を失いながらも帰還している。

八一四空戦[編集]

一方同日、日本海軍は台湾松山飛行場より新田慎一少佐率いる鹿屋海軍航空隊九六式陸上攻撃機 9機、浅野楠太郎少佐率いる8機を飛ばし、杭州広徳渡洋爆撃に向かわせた。しかし周家口より飛び立った高志航中校率いる第4大隊がこれを迎撃。新田隊が2機未帰還・1機大破、浅野隊が1機不時着放棄の損害を負った[15]。空中戦における中国空軍初の戦果となった。この事から、戦後に8月14日は中華民国空軍の記念日「空軍節」に指定された。1955年に三軍共通の軍隊記念日「軍人節」が制定されたが、現在でも台湾空軍ではこの日に盛大なイベントを催している[16]

16日~25日[編集]

16日、中国空軍は6回、のべ25機で上海、呉淞沖の艦戦及び陸戦隊本部を爆撃した。日本軍は射撃で2機を撃墜したが若干の被害を受けた[17]

17日、中国空軍は昼間5回、夜間1回、のべ40機で飛来し、陸戦陣地、楊樹浦飛行場陣地、出雲他艦船が攻撃を受けたが損害はなかったとされる[18]。この日をピークとして航空戦は開戦初頭の混乱を脱し、落ち着きを見せた[18]。爆撃は25日まで行われた。

その後[編集]

この事件については当日に仏領事が、翌15日にはヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン英語版英大使、ネルソン・ジョンソン米大使、ポール=エミール・ナジアルドイツ語版仏大使がそれぞれ中国側に空爆の抗議を行った。上海のフランス租界工部局も15日夕刻にフランス租界上空に中国軍航空機が進入することを許さず、そのような場合には有効適切な処置を取ると発表し、16日にはフランス租界上空を通過した中国軍航空機に対してフランス駐屯軍は高射砲の一斉射撃を行った[19][20]

この爆撃に参加した者には特に処罰は下されなかった。しかし8月30日、今度は杭州湾に展開していた第4大隊22中隊が米国民間船「プレジデント・フーヴァー号英語版」を日本の兵員輸送船と誤爆し船員数名が死亡する事件が起こった。アメリカ政府は駐米大使王正廷国務省に召喚して厳重抗議を行い[21]、結果22中隊長の黄光漢は銃殺刑[22](のち恩赦)、第5大隊長兼駆逐司令官の丁紀徐に軍籍剥奪処分が下された[23]

事件から半年後の1938年頭、周至柔は宋美齢との抗争に負けて失脚、空軍軍官学校教育長に左遷され、爆撃の責任者であった張廷孟もソ連空軍志願隊の連絡要員に左遷された。しかし、宋美齢が負傷して空軍への影響力が弱まり、銭大鈞が汚職で失脚すると復権した。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

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  1. ^ ノース・チャイナ・デイリー・ニュース、1937年8月15日
  2. ^ a b c 菊池 2009, p. 169.
  3. ^ 朱 2015, p. 79.
  4. ^ a b c 戦史叢書72 1974, p. 340.
  5. ^ 新華軍事 淞滬会戦:奇襲日軍旗艦“出雲号”始末2010年08月22日
  6. ^ a b 中山 2007, p. 173.
  7. ^ a b c 戦史叢書72 1974, p. 342.
  8. ^ ロンドン・タイムズ紙、1937年8月16日、"1,000 DEAD IN SHANGHAI/DEVASTATION BY CHINESE BOMBS"
  9. ^ 渡部昇一『渡部昇一の昭和史』ワック、2003年、274-275頁。ISBN 4898315135
  10. ^ a b Frederic E. Wakeman (September 1996). Policing Shanghai, 1927-1937. University of California Press. p. 280-281. ISBN 0520207610. http://books.google.com/?id=vT5GrHv4VcMC&pg=PA281&lpg=PA281&dq=August+14,+1937+Shanghai&q=August%2014%2C%201937%20Shanghai 2011年10月20日閲覧。. 
  11. ^ 朝日新聞 昭和12年8月16日 第18444号2面
  12. ^ 中山 2007, p. 176.
  13. ^ 中山 2007, p. 175.
  14. ^ 支那事変実記 第1輯(読売新聞社、1941年)
  15. ^ 中山 2007, p. 188.
  16. ^ 節日大搜尋-空軍節(国暦8月14日)
  17. ^ 戦史叢書72 1974, p. 346.
  18. ^ a b 戦史叢書72 1974, p. 348.
  19. ^ 『東京朝日新聞』 1937年8月16日付号外 2面
  20. ^ 'French Protest and Warning', The Times August 16 1937, p.10
  21. ^ 朱 2015, p. 344.
  22. ^ 朱 2015, p. 145.
  23. ^ 丁紀徐将軍二三事” (中国語). 広州文史. 2017年1月13日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]