有末精三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
有末 精三
生誕 1895年5月22日
大日本帝国の旗 大日本帝国 北海道
死没 (1992-02-14) 1992年2月14日(満96歳没)
日本の旗 日本
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1917 - 1945
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

有末 精三(ありすえ せいぞう、1895年明治28年)5月22日 - 1992年平成4年)2月14日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴[ソースを編集]

北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の長男として生まれる。上川中学仙台陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1917年5月、陸軍士官学校(29期)を優等で卒業し恩賜の銀時計を受けた。また、1924年11月、陸軍大学校(36期)も優等で卒業し恩賜の軍刀を受けた。

二・二六事件以後の軍内部でのいわば下克上の風潮が強まる中、陸軍省軍務課長時代に、阿部内閣の実質的成立者であったといわれる。

また終戦後は渉外委員会委員長に就任し、GHQと陸軍との連絡役として働いた。有末は参謀本部第二部長であった敗戦前から諜報関係資料を秘密裏に回収しており、戦後になりこれらをマッカーサーのもとで諜報を担当していたチャールズ・ウィロビー少将に提出した。有末は参謀次長の河辺虎四郎中将や渡辺渡少将と協力し東アジアおよび日本国内の共産主義者に対する諜報網を作ることをウィロビーに約束した(「タケマツ」作戦)が、この計画は嘘やでっち上げによる資金集めにすぎないとCIAに報告されている[1][2]。またCIAの記録によると有末とその部下は在日中国共産党員に情報を売っていたとされている[3]

昭和天皇は、役職を超えて政争に関与した有末を毛嫌いしており、阿部内閣の陸相人事に口を出したのは有末の影響力を排除するためだと語っていた[4]。また戦後になり「有末はなぜ戦犯として逮捕されないのか」と寺崎英成を通じて周囲に尋ね、この話を聞いたGHQのモーガンは有末の戦犯指定を検討するが、ウィロビーの反対により実現しなかった[5]。のち公職追放となった[6]

年譜[ソースを編集]

栄典[ソースを編集]

著作[ソースを編集]

  • 『有末精三回顧録』芙蓉書房、1974年。
  • 『政治と軍事と人事 - 参謀本部第二部長の手記』芙蓉書房、1982年。
  • 『ザ・進駐軍 - 有末機関長の手記』芙蓉書房、1984年。
  • 『終戦秘史有末機関長の手記』芙蓉書房出版1987年。ISBN 4829500093

親族[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ CIA Records - Name Files
  2. ^ Research Aid: Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Files Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Disclosure Acts
  3. ^ ワイナー『CIA秘録』
  4. ^ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う〈下〉』 文春文庫1999年、34頁。ISBN 4167453053
  5. ^ 粟屋憲太郎 『東京裁判への道』 講談社学術文庫2013年、206頁。ISBN 4062921790
  6. ^ 公職追放の該当事項は「陸軍中将」。(総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年27頁。NDLJP:1276156 
  7. ^ 『官報』第5427号「叙任及辞令」1945年2月19日。

参考文献[ソースを編集]

  • ティム・ワイナー著、藤田博司他訳『CIA秘録』上・下、文藝春秋、2008年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

外部リンク[ソースを編集]