白山丸 (1923年)

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Hakusan Maru NYK Scan10019.JPG
船歴
建造所 三菱造船株式会社長崎造船所
起工 1922年1月30日[1]
進水 1923年5月19日[1]
竣工 1923年9月20日
喪失 1944年6月4日
性能諸元
総トン数 10,380 トン
載貨重量トン数 11,535 トン[2]
排水量 18,851 トン[1]
全長 158.5 m[3]
垂線間長 150.88 m[1]
18.89 m[1]
型深 11.27 m[1]or 11.28 m[2]
喫水 8.8 m[1]
主機 蒸気タービン 2基2軸
出力 9,299馬力[4] or 9,600馬力[5]
速力 16.526ノット(最大)[1]
15ノット(航海)[5]or 14ノット[4]
乗客定員 計 307名[1][3]
  • 一等 118名
  • 二等 55名
  • 三等 134名
乗員
同型船 箱根丸榛名丸筥崎丸

白山丸(はくさんまる)は、日本郵船が保有した貨客船である。欧州航路向けの優秀船として1923年に竣工した。第二次世界大戦期には日本海軍に徴用され、特設艦船として危険な任務に従事。2度の損傷に耐えながら戦争後半まで残存したが、1944年6月にサイパン島から疎開する民間人多数を乗せて航行中、アメリカ海軍潜水艦により撃沈された。

商船時代[編集]

「白山丸」は、H型と通称される「箱根丸」型貨客船4隻の最終船として、三菱造船株式会社長崎造船所で起工された。日本郵船の欧州航路用として設計された船であるが、進水時までは日本郵船が船主でなく、長崎造船所のストックボート扱いであった[5]。1923年(大正12年)9月20日に竣工した。

本船を含む日本郵船H型は欧州航路向けの優秀船であり、日本の欧州航路にとって画期的な性能を有した。デザインは大正時代の船らしい古典的な姿で、中央に高い1本煙突、前後の甲板に1本ずつのマストが立っている。ヨーロッパ各国の客船に比べると小型であったが、日本を代表するという立場から内装は豪華な設備が施されていた[6]

竣工した「白山丸」は、命令航路である横浜ロンドン航路(スエズ運河経由)に就航した。途中寄港地は神戸港上海香港シンガポールコロンボポートサイドマルセイユなどとなっている。1924年(大正13年)1月には、フランスで死去した北白川宮成久王の遺体を、王妃の房子内親王とともに日本へ運んで話題になった[7]。新型の「照国丸」と「靖国丸」が竣工した後も、ともに同航路での航海を続けた。第二次世界大戦が勃発してもロンドン航路の運航は継続されたが、バトル・オブ・ブリテン開始など情勢悪化のため、1940年(昭和15年)6月には目的地をリバプールに変更して、日本への帰国者を収容している[8]。最終的に「白山丸」は同年9月に日本海軍に徴用され、同年10月をもってロンドン航路も運休となった。

特設艦船時代[編集]

太平洋戦争中期まで[編集]

1943年11月2日のラバウル空襲で被爆炎上中の「白山丸」(右)。なお、中央手前は重巡洋艦「羽黒

1940年9月17日付で日本海軍に徴用された「白山丸」は、佐世保鎮守府所管の特設港務艦となった[9]。占領地の港湾設備を整えることが主任務で、船首と船尾に砲座を設け、船倉の一部を弾薬庫に改装するなど所要の工事を受けている。最終時には水中聴音機も装備されていた。太平洋戦争開始後の1942年(昭和17年)3月10日に特設運送船へ類別変更された[9]。なお、姉妹船のうち「筥崎丸」も同様に特設港務艦として徴用されている[6]

「白山丸」は、1942年6月にアリューシャン作戦に投入され、海軍陸戦隊を輸送して6月8日のキスカ島無血上陸に参加した[7]。その後は、日本軍占領地への人員・物資の補給任務に従事した。

1943年(昭和18年)10月17日には、「東京丸」とともに駆逐艦「白露」の護衛下で、トラック島からラバウルに人員および建築資材や食糧を輸送中、ニューアイルランド島カビエンの北北西70海里(約130km)付近において、アメリカ陸軍航空軍B-24爆撃機による爆撃と機銃掃射を受けて炎上[10]、船長以下36人が戦死した[11]

翌10月18日にラバウルへたどり着いて応急修理を開始したが、11月2日にもアメリカ陸軍航空軍のB-25爆撃機P-38戦闘機によるラバウル空襲に巻き込まれた[10]。左舷に爆弾が命中、煙突などを損傷して、乗員2人と作業中の工員多数が戦死した。このときも沈没は免れて応急修理され、「恵昭丸」と「第五日の丸」から49人の乗員補充を受けた後[12]、アメリカ軍哨戒機の空襲を撃退しつつ[5]、1944年(昭和19年)1月29日に大阪港へ帰還した。

最期[編集]

「白山丸」の最期の航海となったのは、日本からサイパンへの往復の帰途であった。当時、サイパンにはアメリカ軍の侵攻が迫っており、防備強化と居留民の本土引揚げが進められていた。1944年5月3日に大阪を出港した「白山丸」は、三池港に寄って石炭を積み取った後、横須賀港でサイパンへ向かう増援部隊600人と軍需物資を満載した。第3515船団(輸送船12隻・護衛艦8隻[注 1])に加入し、5月17日に館山沖を出撃、同月25日に無事にサイパンへ到着した[13]

帰途は、第4530船団(輸送船8隻・護衛艦5隻[注 2])に組み込まれて、サイパンから日本本土へ向かう軍人軍属計71人と、本土疎開する民間人375人が乗船した。民間人のほとんどは女性と子供で、特に11歳以下の子供が190人も含まれていた[9]。ほかに、乾カタツムリ27トンと揚げ残しの石炭265トンを積荷としている[7]

第4530船団は、5月31日の朝にサイパンを出発した。加入輸送船の中で最優秀だった「白山丸」は、基準船として船団の先頭中央に位置した。最初は北西への欺騙航路を進み、途中から北に針路を変えたが[12]、アメリカ潜水艦の待ち伏せを受けてしまった。6月2日午後10時頃、浮上したアメリカ潜水艦「シャーク」が船団左方から魚雷を発射[16]、本船の左隣に位置していた「千代丸」(栃木汽船:4700総トン)に2発が命中し、炎上沈没した[12]。「白山丸」は回頭して逃れた。

6月4日未明の午前4時5分頃、北緯22度37分・東経136度50分(硫黄島西南西280海里)、アメリカ側記録によれば北緯22度45分・東経136度50分(父島南西350海里)の地点で、アメリカ潜水艦「フライアー」の雷撃を受け[16]、魚雷1発が左舷に命中した。2番船倉と3番船倉の中間に命中したことから両船倉へ急速に浸水が進み[12]、午前4時10分には総員退去が発令された。女性と子供を優先的に救命艇で避難させようとしたが、ダビット英語版による降下作業がうまくいかず、1隻を除いて本船とともに沈没してしまった。被雷から約10分後、「白山丸」は船首を直立した状態で沈没した。第12号海防艦など4隻が救助作業にあたったが、収容できたのは乗船者のうち約半数である320人にとどまり、民間人276人を含む324人が死亡した[9]。沈没までの時間の短さと、女性や子供の多さが犠牲を大きくしたものと推定されている[15]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 加入輸送船は「白山丸」「濱江丸」「日本海丸」「第八雲洋丸」「営口丸」「麗海丸」「錦州丸」「夏川丸」「東豊丸」「清海丸」「明島丸」「千代丸」。護衛艦は、駆逐艦「旗風」(旗艦)、海防艦「御蔵」、同「三宅」、第16号海防艦、敷設艇「猿島」、第20号掃海艇第48号駆潜艇および特設防潜網艇「第二号興亜丸」[13]。指揮官は第5護衛船団司令官吉富説三少将。船団名は横須賀鎮守府の護送船団への命名規則に基づくもので、千の位の3は横須賀・トラック島間航路の下り方面を、下3桁は5月15日出航を意味する[14]
  2. ^ 加入輸送船は「白山丸」「仁山丸」「第八雲洋丸」「営口丸」「夏川丸」「春川丸」「海光丸」「千代丸」。護衛艦は、往路と同じ「旗風」(旗艦)と「猿島」、第20号掃海艇のほか、第12号海防艦および特設駆潜艇「第二文丸」。駒宮(1987年)は、「拓南丸」も護衛艦に挙げている[15]。指揮官は往路と同じ吉富少将。船団名は千の位の4は横須賀・トラック島間航路の上り方面を、下3桁は5月30日出航を意味する[14]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 『船の科学』1979年10月号 第32巻第10号、30頁
  2. ^ a b 『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』、59頁
  3. ^ a b 『世界の艦船 別冊 日本の客船[1] 1868-1945』、63頁
  4. ^ a b 『日本郵船戦時戦史』上、690頁。
  5. ^ a b c d 岩重(2011年)、102頁。
  6. ^ a b 岩重(2011年)、9頁。
  7. ^ a b c 『日本郵船戦時戦史』上、691頁。
  8. ^ 日の丸船隊の意気 欧洲航路を確守―今ぞ度胸の見せどころ大阪毎日新聞1940年6月2日。
  9. ^ a b c d 『日本郵船戦時船史』上、694頁。
  10. ^ a b Cressman (1999) , chapter V.
  11. ^ 『日本郵船戦時船史』上、692頁。
  12. ^ a b c d 『日本郵船戦時船史』上、693頁。
  13. ^ a b 駒宮(1987年)、176-177頁。
  14. ^ a b 岩重(2011年)、71頁。
  15. ^ a b 駒宮(1987年)、184-185頁。
  16. ^ a b Cressman (1999) , chapter VI.

参考文献[編集]

  • 岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド2―日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2011年
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年
  • 日本郵船株式会社 『日本郵船戦時船史』上、日本郵船、1971年
  • Cressman, Robert J. (1999). The Official Chronology of the US Navy in World War II. Annapolis: MD: Naval Institute Press. http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron.html. 
  • 船舶技術協会『船の科学』1979年10月号 第32巻第10号
  • 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年
  • 海人社『世界の艦船 別冊 日本の客船[1] 1868-1945』1991年 ISBN 4-905551-38-2

関連項目[編集]

  • 白山丸 - 他の同名船についての曖昧さ回避項目。
  • 亜米利加丸 - 同じくサイパンからの避難民を輸送中に撃沈された船。
  • 対馬丸 - 沖縄からの本土疎開で多数の民間人犠牲者を出した船。