藤田嗣治

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藤田 嗣治
Foujita.jpg
1917年パリにて
生誕 1886年11月27日
日本の旗 日本 東京府牛込区新小川町
死没 (1968-01-29) 1968年1月29日(81歳没)
スイスの旗 スイス チューリヒ
国籍 日本の旗 日本
フランスの旗 フランス(1955年帰化)
教育 東京美術学校
著名な実績 画家、彫刻家
代表作 『ジュイ布のある裸婦(1922年)』
『五人の裸婦(1923年)』
『舞踏会の前(1925年)』
『自画像(1929年)』
『カフェにて(1949年)』
運動・動向 エコール・ド・パリ
受賞 レジオンドヌール勲章朝日文化賞、第1回トリステ宗教美術展金賞、勲一等瑞宝章
選出 サロン・ドートンヌ
近代日本美術総合展
活動期間 1910年 - 1968年
この人に影響を
与えた芸術家
パブロ・ピカソモイズ・キスリングアメデオ・モディリアーニ
この人に影響を
受けた芸術家
カンディド・ポルチナーリ

藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家彫刻家第一次世界大戦前よりフランスパリで活動、を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランス帰化後の洗礼名レオナール・フジタLéonard Foujita)。

生涯[編集]

家柄[編集]

1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野中原中也の名づけ親(当時父が中村の部下であった)が、従兄には小山内薫がいる。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいる。

パリに至るまで[編集]

藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の熊本大教育学部附属小[1]に通った。1900年、高等師範附属小学校(現・筑波大附属小)を、1905年に高等師範附属中学校(現・筑波大附属中学・高校)を卒業。その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。

森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。1910年に卒業。卒業に際して製作した自画像(東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれている。[2]なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。

1911(明治44年)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺の天井画を描いた(現存)。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚。新宿百人町アトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。

パリでの出会い[編集]

パリのアトリエにて(1918年)
藤田の肖像(イスマエル・ネリ、1930年代)

1913年大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリジュール・パスキンパブロ・ピカソオシップ・ザッキンモイズ・キスリングらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。

また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村薩摩治郎八金子光晴ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。

パリでは既にキュビズムシュールレアリズム素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。

第一次世界大戦[編集]

1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をした。このころに初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。

シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンen:André Salmon)が序文を書きよい評価を受けた。すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況が藤田に追い風となった。

パリの寵児[編集]

面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。

当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。

このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。

南アメリカへ[編集]

2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[3]、その後離婚する。

1931年には、新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。

日本への帰国[編集]

その後1933年に南アメリカから日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中国に渡り、1939年に日本に帰国した。

陸軍美術協会理事長時代の藤田

その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。その後大東亜戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』や『アッツ島玉砕』などの作品を書いた。

しかし終戦後の連合国軍の占領下において、画壇で影響力を増してきた共産主義者などから「戦争協力者」と批判されることに嫌気が差して1949年に日本を去った。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、終戦後の一時にはGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった[4]

フランスに帰化[編集]

傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。

晩年[編集]

フジタ礼拝堂

1959年にはランスノートルダム大聖堂カトリック洗礼を受け、シャンパン「マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂フランス語版」の設計と内装のデザインを行った。

1968年1月29日にスイスチューリヒにおいてガンのため死亡した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルフランス語版に葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。

死後[編集]

最後を見取った君代夫人は、没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外の旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に向け尽力、晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開[5]された。藤田自身から40年余りを経て2009年4月2日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。君代夫人が所有した藤田作品の大半はポーラ美術館ランス美術館に収蔵されている。

2011年、君代夫人が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年1948年から1968年までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている[6]

戦争画[編集]

南方戦線に従軍画家として派遣された藤田、宮本三郎小磯良平1942年)藤田は黒いシャツを着ているように見えるが、よく見ると後の修正で、実際は上半身裸だったと考えられる。

日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。同時に自身は、クリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。

1945年8月の終戦で戦争画を描くことはなくなったが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に日本共産党に入党した内田巌などにより、半ばスケープゴートに近いかたちで「戦争協力者」と非難された藤田は、連合国軍占領下の1949年に渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残しフランスへ移住、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。

その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いている。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後日本を占領する連合国軍において美術担当に当たったアメリカ人担当者とも友人であったがゆえに、戦後に「戦争協力者」のリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。

パリでの成功後も戦後も、存命中には日本社会から認められることはついになかった。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」や「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきた。死後に日本でも藤田の評価がされるようになり、展覧会なども開かれるようになった。

乳白色の肌の秘密[編集]

藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウム鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた[7]。炭酸カルシウムはと混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂シッカロールだったことが2011年に発表された[8]

タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上する。この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942年の写真から判明した。以上の2つが藤田の絵の秘密であったと考えられている。ただし、藤田が画面表面にタルクを用いているのは、弟子の岡鹿之助が以前から報告している[9][10]

作品[編集]

藤田の作品は、日本国内では東京のブリヂストン美術館東京国立近代美術館国立西洋美術館赤坂迎賓館や箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館富山県美術館で見ることができる。

関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵…」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。現在は秋田県立美術館に展示されており、藤田が設計に携わった平野政吉美術館での展示から秋田県立美術館での展示になったことへの批判も存在する。

晩年に手がけた最後の大作は、死の直前に描きあげたランスの教会における装飾画である。

藤田は挿絵作家としても独自の地位を得ている。ピエール・ロティラビンドラナート・タゴールギヨーム・アポリネールポール・クローデルピエール・ルイスジャン・ジロドゥキク・ヤマタジャン・コクトー等、大作家の著作に木版や銅版の版画を寄せている。なかでも、フォーブール・サン=トノレ通りの歴史風俗を描いたド・ヴィルフォスの『魅せられた河』(1951年)は石版による傑作である。

また藤田は多くのエッセイを書き残し没後出版されている。藤田の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。死の直前までノートに書かれたモノローグの一つに、「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」がある。

藤田は当時の男性としては珍しく、裁縫や木工など身の回りの様々な物を手作りしていた。理由のひとつにフランスで自分の気に入った物で自分の体の大きさに合う物が無かったからと言うのがあるようだが、藤田本人は「デパートなどで売っているのは全て商品に過ぎないという主張で、芸術家は宜しく芸術品を身に纏うべし」と言い[11] 、自身をアーティストではなくアルチザンであると語っていた。製作した物は自分が着用する服や帽子、自分の絵に使う額縁、象嵌細工を施した机や小箱など多岐に亘る。象嵌細工の机は目黒区美術館が所蔵[12]する物の他に同一デザインのものが5点ほど存在する[13]

主な作品[編集]

タイトル 制作年 技法・素材 サイズ(cm) 所蔵先 備考
にわとりとタマゴ 1901年頃 油彩・キャンバス 22x16 個人(パリ)
自画像 1910年 油彩・キャンバス 59x43.5 東京芸術大学
花を持つ少女 1914年 水彩・紙 30.5x22.5 徳島県立近代美術館 キュビズム
パリ風景 1918年1月 油彩・キャンバス 84.0x103.5 東京国立近代美術館
巴里風景 1918年 油彩・キャンバス 46.0x55.2 ブリヂストン美術館
聖誕 於巴里 1918年 油彩・キャンバス 114x146 松岡美術館
花を持つ少女 1918年 油彩・キャンバス 65.4x54.0 栃木県立美術館
二人の女 1918年 油彩・キャンバス 92.2x73.3 北海道立近代美術館
聖母子 1918年頃 油彩・金箔、キャンバス 58.0x48.0 ヴァチカン美術館
自画像 1921年 油彩・キャンバス 100.0x80.5 ベルギー王立近代美術館 同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点
私の部屋、目覚まし時計のある静物 1921年 油彩・キャンバス 130x97 フランス国立近代美術館 同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点
横たわる裸婦と猫 1921年 油彩・キャンバス 72x115 プティ・パレ美術館(パリ) 同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点の可能性がある。
私の部屋、アコーディオンのある静物 1922年 油彩・キャンバス 130x97 フランス国立近代美術館(ナンシー美術館寄託 同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点。他は《裸婦》《学校》という題名は判明しているものの、作品は特定されていない。
寝室の裸婦キキ 1922年 油彩・キャンバス 130x195 パリ市立近代美術館 その大きさから、同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの《裸婦》の可能性がある。
ジュイ布のある裸婦 1922年 油彩・キャンバス パリ市立近代美術館
横たわる裸婦 1922年 油彩・キャンバス 72.5x116 ニーム美術館
エミリー・クレイン・シャドボーンの肖像 1922年 テンペラ、銀箔・キャンバス 89.5x146.1 シカゴ美術研究所
バラ 1922年 油彩・キャンバス 81x65 青山ユニマット美術館旧蔵
裸婦 1923年 油彩・キャンバス 144x87.5 フォール美術館
裸婦 1923年 油彩・キャンバス 54.5x100 公益財団法人 ひろしま美術館
五人の裸婦 1923年 油彩・キャンバス 169x200 東京国立近代美術館 同年秋のサロン・ドートンヌ出品
座る女性と猫 1923年 油彩・キャンバス 114.0x77.0 鹿児島市立美術館
タピスリーと裸婦 1923年 油彩・キャンバス 130.0x96.0 京都国立近代美術館
室内、妻と私 1923年 油彩・キャンバス 145.8x114.0 笠間日動美術館 ソシエテ・ナショナルのサロン出品作
ヴァイオリンをもつ子ども 1923年 油彩・キャンバス 116x73 熊本県立美術館
友情 1924年 油彩・キャンバス 146.0x89 フランス国立近代美術館(リブルヌ美術館寄託) 同年のサロン・ドートンヌ出品作2点のうちの1点。
ユキ(雪の女王) 1924年 油彩・キャンバス プティ・パレ美術館 同年のサロン・ドートンヌ出品作2点のうちの1点。
エレーヌ・フランクの肖像 1924年3月 油彩・キャンバス 142.0x112.0 イセ文化基金
動物群 1924年 油彩・キャンバス 97x145.5 目黒区美術館
砂の上で 1925年 油彩・キャンバス 70.3x160.8 姫路市立美術館
座る裸婦 1925年 油彩・キャンバス 73x60 アンドレ・マルロー美術館
舞踏会の前 1925年 油彩・キャンバス 168.5x199.5 大原美術館
横たわる裸婦(夢) 1925年 油彩・キャンバス 142x123 国立国際美術館
夢から醒めて 1925年 油彩・キャンバス 142.0x123.0 テレビ朝日
1925年 油彩・キャンバス 142.3x123.4 岐阜県美術館
青衣の女 1925年 油彩・キャンバス 55x38 愛知県美術館
二人の女 1926年 油彩・キャンバス 92x73 プチ・パレ美術館
横綱栃木山の肖像 1926年 水彩、木炭・絹 115.2x89.5 グルノーブル美術館 同年のサロン・ドートンヌ出品作
アトリエの自画像 1926年 油彩・キャンバス 81.0x61.0 リヨン美術館
インク壺の静物 1926年 油彩・キャンバス 22x26.9 ブリヂストン美術館
アンナ・ド・ノアイユの肖像 1926年頃 油彩・キャンバス 167.1x108.4 川村記念美術館
シュジー・ソリドールの肖像 1927年 油彩、金箔・キャンバス 97x63 カーニュ=シュル=メール・シャトー美術館
裸婦 1927年 油彩・キャンバス 63.5x98.5 ベルギー王立美術館 薩摩治郎八が、外交官安達峰一郎の仲介を経て王立美術館に寄贈
横たわる裸婦 1927年 油彩・キャンバス 81x100 茨城県近代美術館
受胎告知・三王礼拝・十字架降下 1927年 油彩、金箔・キャンバス 前2者が150.0x100.0
後者が150.0x150.0
公益財団法人 ひろしま美術館 三連祭壇画を意識して制作されたと推測される。
座る女 1929年 油彩、金箔・キャンバス 110x125 国立西洋美術館
自画像 1929年 油彩・キャンバス 81x65 名古屋市美術館
自画像 1929年 油彩・キャンバス 61x50.2 東京国立近代美術館 同年10月の第10回帝展出品
欧人日本へ渡来の図 1929年 油彩、金箔・板パネル張り 300x600 パリ日本館
馬の図 1929年 油彩、金箔・板パネル張り 235x462 パリ日本館
二人裸婦 1930年 油彩・キャンバス 143x125 神奈川県立近代美術館
三人の女 1930年 油彩・キャンバス 142.5x124.5 エソンヌ県議会
死に対する生命の勝利 1930年 油彩・キャンバス 161.0x183.5 パーフェクト リバティー教団
調教師とライオン 1930年 油彩・キャンバス 147x91 プチ・パレ美術館
横たわる裸婦と猫 1931年 油彩・キャンバス 73.2x116.2 埼玉県立近代美術館
眠れる女 1931年 油彩・キャンバス 74.4x125.0 公益財団法人 平野政吉美術財団
カーニバルの後 1932年 油彩・キャンバス 98.5x79 公益財団法人 平野政吉美術財団
家族の肖像 1932年 鉛筆、パステル・紙 86.5x67.2 名古屋市美術館
ラマと四人の人物 1933年 水彩・紙 155x95 三重県立美術館 翌年の二科展出品
大地 1934年 油彩・キャンバス 244.6x968.0 公益財団法人 ウッドワン美術館 元は銀座聖書館ビル内ブラジルコーヒー陳列所を飾った幅15メートルを超える壁画。6年後に依頼主だったブラジルのアッスムソン邸に移設され、この時3割ほど切り取られた[14]
メキシコに於けるマドレーヌ 1934年 油彩・キャンバス 91X72.5 京都国立近代美術館
力士と病児 1934年 油彩・キャンバス 116.8x91.0 大日本印刷株式会社
北平の力士 1935年 油彩・キャンバス 180.9x225.4 公益財団法人 平野政吉美術財団 第22回二科展出品
五人女 1935年 油彩・キャンバス 192.5x128.5 公益財団法人 平野政吉美術財団 第22回二科展出品
Y夫人の肖像 1935年 油彩・キャンバス 92x117.5 個人 第22回二科展出品
銀座コロンバン壁画 母と子・天使と女性 1935年 油彩・キャンバス 131.0x188.0(各) 迎賓館
ノルマンディーの春 1936年 油彩・キャンバス 221.5x291.8 関西日仏学館玄関ホール
自画像 1936年 油彩・キャンバス 127.7x191.9 公益財団法人 平野政吉美術財団
秋田の行事 1937年 油彩・キャンバス 365.0x2050.0 公益財団法人 平野政吉美術財団
那覇の客人 1938年 油彩・キャンバス 114.5x89.5 公益財団法人 平野政吉美術財団 第25回二科展出品
1938年 油彩・キャンバス 100.0x80.5 沖縄県
ディナー・パーティー 1939年 油彩・キャンバス 88.5x129.6 公益財団法人 ウッドワン美術館[14]
猫のいる風景 1939-40年 油彩・キャンバス 80.6x99.9 ブリヂストン美術館
猫(闘争) 1940年 油彩・キャンバス 78.7x98.5 東京国立近代美術館 第27回二科展出品
哈爾哈河畔之戦闘 1941年 油彩・キャンバス 140.0×448.0 東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与) 翌年7月の第2回聖戦美術展出品
アッツ島玉砕 1943年 油彩・キャンバス 193.5×259.5 東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与) 同年9月の決戦美術展出品
サイパン島同胞臣節を全うす 1945年 油彩・キャンバス 181.0×362.0 東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与) 同年4月の「戦争美術展 昭和19年度陸軍作戦記録画」出品。バンザイクリフの凄惨な情景を描いた作品で、その残酷さから児童生徒には公開されなたっという。
優美神 1946-48年 油彩・キャンバス 127.3x191.0 聖徳大学川並記念図書館
私の夢 1947年 油彩・キャンバス 64.3x99.0 新潟県立万代島美術館 同年5月の東京都美術館開館20周年記念現代美術展覧会出品
カフェ 1949年 油彩・キャンバス 76x64 フランス国立近代美術館
美しいスペイン女 1949年 油彩・キャンバス 76x63.5 豊田市美術館
占いの老女 1949年 油彩・キャンバス 101.6x76.0 公益財団法人 ウッドワン美術館
姉妹 1950年 油彩・キャンバス 60.8x45.3 ポーラ美術館
アージュ・メカニック(機械の時代) 1958-59年 油彩・キャンバス 114.0x146.0 パリ市立近代美術館
EVE 1959年 油彩・キャンバス 61.0x38.0 公益財団法人 ウッドワン美術館[14]
アッシジ 1961年 油彩・キャンバス 38x61.2 ひろしま美術館
礼拝 1963年 油彩・キャンバス 114.8x147 パリ市立近代美術館

著作[編集]

  • 『猫の本 藤田嗣治画文集』(講談社、2003年)
  • 『腕一本・巴里の横顔』(近藤史人編、講談社文芸文庫、2005年)。旧版は講談社、1984年
  • 『藤田嗣治随筆集 地を泳ぐ』 (平凡社ライブラリー、2014年)。同上

関連図書[編集]

  • 田中穣 『評伝藤田嗣治』(芸術新聞社、1988。改訂新版2015)
  • 近藤史人 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社、2002/講談社文庫、2006)
  • 渡部琴子 『平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』(新潮社、2002)
  • 湯原かの子 『藤田嗣治 パリからの恋文』(新潮社、2004)
  • 林洋子 『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』(名古屋大学出版会、2005)
  • ユリイカ 詩と批評 藤田嗣治』(2006年5月号 青土社) 
  • 蘆原英了 『僕の二人のおじさん、藤田嗣治と小山内薫』 (田之倉稔解説、新宿書房 新版2007)
  • 『藤田嗣治 手しごとの家』(林洋子解説、集英社新書ヴィジュアル版、2009.11)
  • 柴崎信三 『絵筆のナショナリズム フジタと大観の〈戦争〉』(幻戯書房、2011)
  • 『藤田嗣治 本のしごと』(林洋子解説、集英社新書ヴィジュアル版、2011.6)
  • 『もっと知りたい藤田嗣治 生涯と作品』(林洋子監修、東京美術「アート・ビギナーズ・コレクション」、2013)
  • 矢内みどり 『藤田嗣治とは誰か』(求龍堂、2015)
画集
  • 『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』(藤田君代監修、講談社、2002)
  • 『藤田嗣治画集』(全3巻、林洋子監修、小学館、2014)
展覧会図録
  • 尾崎正明ほか編集 『生誕120年 藤田嗣治展 パリを魅了した異邦人』 NHK NHKプロモーション 日本経済新聞社、2006年
  • 村上哲 ブレーントラスト編集 『藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ 1913-1931』 藤田嗣治渡仏100周年記念「レオナール・フジタとパリ 1913-1931」カタログ委員会、2013年
  • 公益財団法人 平野政吉美術財団編集 『秋田県立美術館 開館記念特別展 壁画《秋田の行事》からのメッセージ 藤田嗣治の1930年代』 秋田協同印刷株式会社、2013年9月28日

脚注[編集]

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  1. ^ 『藤田嗣治の肖像』西日本新聞. 2009年3月3日朝刊
  2. ^ この自画像については、2007年8月19日放送のETV特集日本人と自画像~東京芸術大学 4800枚の証言~」で紹介された
  3. ^ 「異邦人の視線 -金子光晴とジャン・コクトー」西川正也
  4. ^ 遠山彰『日本ダービー物語』p11(丸善、1993)
  5. ^ 東京国立近代美術館アートライブラリ所蔵 藤田嗣治旧蔵書
  6. ^ “藤田嗣治の日記・写真6000点 東京芸大に寄贈「生涯知る資料」”. 日本経済新聞夕刊. (2011年2月9日) 
  7. ^ 『藤田嗣治の絵画に迫る 修復現場からの報告』 東京藝術大学出版会、2010年。
  8. ^ “藤田嗣治、あの乳白色はベビーパウダー”. 読売新聞. (2011年1月12日). http://otona.yomiuri.co.jp/news/news110113_03.htm 2011年2月15日閲覧。 
  9. ^ 岡鹿之助 「藤田嗣治―ドランブル時代」『みづゑ』593号、1955年1月。岡鹿之助 『フランスの画家たち』 中央公論美術出版、2004年、p.115、に再録。
  10. ^ 内呂博之 「「かたち」への挑戦―岡田三郎助と藤田嗣治」(東京文化財研究所編 『「かたち」再考 開かれた語りのために』 平凡社、2014年12月17日、pp.162-165)。
  11. ^ 林洋子 『藤田嗣治 手しごとの家』 集英社、2010年3月9日、60頁。ISBN 978-4-08-720519-0 
  12. ^ 林洋子 『藤田嗣治 手しごとの家』 集英社、2010年3月9日、69-70頁。ISBN 978-4-08-720519-0 
  13. ^ 開運なんでも鑑定団 2016年8月16日放送 レオナール・フジタの円形机”. テレビ東京 (2016年8月16日). 2016年9月23日閲覧。
  14. ^ a b c ウッドワン美術館編集 『ウッドワン美術館所蔵 近代日本絵画の巨匠立たち』 青幻舎、2011年2月10日、pp.105-111,187-188、ISBN 978-4-86152-295-6

関連項目[編集]

外部リンク[編集]