フジタ礼拝堂
| フジタ礼拝堂 | |
|---|---|
| Chapelle Foujita | |
![]() | |
| 別名 |
(正式名称) 平和の聖母礼拝堂 (La Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix) |
| 概要 | |
| 用途 | 礼拝堂 |
| 建築様式 | ロマネスク様式 |
| 住所 |
33 Rue du Champ de Mars, 51100 Reims ランス, マルヌ県, シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏, |
| 座標 | 北緯49度15分51秒 東経4度02分17秒 / 北緯49.26417度 東経4.03806度 |
| 着工 | 1965年 |
| 完成 | 1966年 |
| 落成 |
(奉献) 1966年10月1日 (ランス市への引渡) 1966年10月18日 |
| 所有者 | ランス市 |
| 設計・建設 | |
| 建築家 | モーリス・クロジエ |
| 脚注 | |
| 歴史的記念物 | |
平和の聖母礼拝堂 (へいわのせいぼれいはいどう、仏:La Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix; 通称「フジタ礼拝堂 (フジタれいはいどう、Chapelle Foujita)」) は、日本人画家の藤田嗣治 (レオナール・フジタ; 1886-1968) がG.H.マムの社長で代父でもある友人ルネ・ラルー (1877-1973)とともに、マルヌ県(シャンパーニュ=アルデンヌ地域)ランスのG.H.マム社の敷地内に建てたロマネスク様式の礼拝堂である。壁画(フレスコ画)、ステンドグラスなどを含み、藤田がすべて設計した。フジタ礼拝堂には、藤田と君代夫人の遺骨が埋葬されている。
概要・歴史
[編集]エコール・ド・パリの画家として知られる藤田嗣治は、1955年にフランス国籍を取得した。
1959年6月18日、藤田はG.H.マムの社長で友人のルネ・ラルー (1877-1973)とともにランスのサン=レミ聖堂を訪れた。中世初期のキリスト教の聖職者でランス司教であった聖レミギウス(サン=レミ)はフランク王クローヴィス1世のカトリック改宗のための洗礼を施した聖人であり、フランスの守護聖人である。藤田は聖レミギウスの墓の近くの聖母マリアにろうそくを捧げ、キリスト教徒になる決意をした。聖職者らは藤田に離婚歴があり、波乱万丈の人生を送ったにもかかわらず、彼の希望を受け入れた[1]。
1959年10月14日、藤田は君代夫人とともにランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受けた。藤田は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチへのオマージュとして「レオナール (Léonard)」という洗礼名を選んだ[1]。君代夫人の洗礼名は「マリー=アンジュ・クレール (Marie-Ange Claire)」である[2]。洗礼式はメディアで大々的に報じられた(動画:藤田の洗礼式とインタビュー[フランス語])[3]。藤田はこれを記念して聖母子像を描き、ランス司教に捧げ、さらにランス美術館に寄贈した(なお、ランス美術館には藤田の特別室(260 m²)があり、1999年に君代夫人から寄贈された1958-59年の『メカニカル・エージ』や主に子供を題材にして1965-67年に制作されたガラスのペイントや陶器などの藤田の珍しい作品が展示されている[4])。
藤田はさらに、ランス市へのオマージュとして礼拝堂を建てることにした。友人のルネ・ラルーはこのためにG.H.マム社の敷地と資金を提供した。藤田は早速この人生最後の大仕事に取りかかり、完成したときには80歳だった。
礼拝堂は「平和の聖母礼拝堂」と命名され、1966年10月1日に奉献され、10月18日にランス市に引き渡された[1]。
正式名称は「平和の聖母礼拝堂」だが、通常、「フジタ礼拝堂」と呼ばれている。
藤田は礼拝堂の設計だけでなく、壁画、ステンドグラス、金属装飾・彫刻、庭などのすべてを設計し、建築家はモーリス・クロジエ、ステンドグラスはシャルル・マルク、金属装飾と彫刻はマクシム・シケ (Maxime Chiquet) とアンドレ兄弟 (Frères André) が製作した[5]。
藤田の壁画はフレスコ画で、キリストの生涯が描かれているが、同時にまた、藤田自身にとってのキリスト教を描いたものとなっており、さらに、デューラー、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロと思われる人物や君代夫人、ルネ・ラルーなども描かれている[2][4]。
藤田(レオナール)は1968年に死去し、フジタ礼拝堂に埋葬された。2009年に死去した君代夫人(マリー=アンジュ・クレール)の遺骨も彼女の遺言によりこの礼拝堂に埋葬されている。
1992年6月8日、フジタ礼拝堂は歴史的記念物に指定された。
脚注
[編集]- 1 2 3 “DOSSIER DE PRESSE – mars 2010, Foujita Monumental ! Enfer et Paradis”. 2010年にランス美術館で藤田嗣治回顧展が開催された際に、フジタ財団が作成. 2018年8月8日閲覧。
- 1 2 “FOUJITA, DES FRASQUES AUX FRESQUES”. La Croix (フランス語). 1995年10月14日. ISSN 0242-6056. 2018年8月8日閲覧.
- ↑ Ina.fr, Institut National de l’Audiovisuel – (1959年10月25日). “[Le baptême de Foujita]” (フランス語). Ina.fr. 2018年8月8日閲覧。
- 1 2 “パリから45分。藤田嗣治の第二の故郷ランスへ。|特集|Paris|madameFIGARO.jp(フィガロジャポン)”. madameFIGARO.jp(フィガロジャポン). 2017年7月24日. 2018年8月8日閲覧.
- ↑ “Monuments historiques, Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix”. 「平和の聖母礼拝堂」の歴史的記念物登録に関する情報. 2018年8月8日閲覧。
参考資料
[編集]- DOSSIER DE PRESSE – mars 2010, Foujita Monumental ! Enfer et Paradis:2010年4月4日から6月28日までランス美術館で藤田嗣治回顧展が開催された際に、フジタ財団が作成した資料。藤田嗣治の生涯を特にランス市に焦点を当てて紹介。
- Le baptême de Foujita:(動画) 藤田嗣治・君代夫人の洗礼式および藤田のインタビュー(フランス国立視聴覚研究所提供)
- Monuments historiques, Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix:平和の聖母礼拝堂の歴史的記念物登録に関する情報(フランス文部省)
- La chapelle Foujita:ランス市の美術館・博物館の紹介(フレスコ画などの写真)
- :「レオナール・フジタとランス―藤田嗣治をめぐるキリスト教図像の系譜」村上哲『ランス美術館展』カタログ 2016年
詳述
[編集]ノートル=ダム=ド=ラ=ペ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂) La Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix/藤田嗣治 明治19年-昭和43年 Léonard-Tsuguharu FOUJITA 1886-1968
1959年、藤田嗣治はランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチに肖って「レオナール・フジタ」と改名。1961年、パリ市立近代美術館に《ジュイ布のある裸婦》を寄贈、同年11月、パリ南郊・エソンヌ県の村ヴィリエ=ル=バクルに、農家を改修したアトリエ兼住居を建てて転居し制作を続けた。晩年の1966年、ランスにノートル=ダム=ド=ラ=ペ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)/La Chapelle Notre-Dame-de-la-Paixを建立して、6月から8月までフレスコ壁画に携わる。 礼拝堂の建設に先立って、フレスコ画に取り組む1年前の1965年の4月から7月まで、礼拝堂のための原寸大の準備素描をヴィリエ=ル=バクルのアトリエで描いているが、これらの大作群はフレスコ画への最終段階を示すものである。このなかで最初に描かれた原寸大素描は1965年4月18日の年記のある磔刑のキリストの全身像であり、はじめに藤田は礼拝堂のハイライトともいうべき中核を占めるイメージに取り組んでいる。そしてその翌日の4月19日に、主祭壇の奥に位置する聖母子像のための習作素描を描いており、フレスコ群の機軸をなすふたつの重要な図像が最初に形作られて他の群像へと展開されていった。 磔刑のキリストと聖母子像は礼拝堂の内陣において手前と奥で向かい合うように配置されており、素描の段階で藤田は礼拝堂の空間的な構築を強く意識しながら制作に臨んでいる。この2点に引き続いて、4月23日にキリストの洗礼を拝む人物像、5月4日と5月5日に磔刑の周辺の聖人たち、5月5日と5月6日に聖母子を拝む聖女たち、5月12日に十字架降下、5月15日に受胎告知、5月17日に十字架を担うキリスト、5月20日に病者を癒すキリスト、5月22日にキリストの降誕、5月24日にキリストの洗礼などの順に1ヶ月で集中的に取り組んでいる。 礼拝堂の建設には、ルネ・ラルーと親交の深い建築家のモーリス・クロジエとその息子のロベール・クロジエが携わり、1966年の3月に掘削工事が始まり、6月には建物自体はほぼ完了している。この間、ランスからは遠いヴィリエ=ル=バクルのアトリエにいる藤田は、建築家と書簡を交わしながら礼拝堂の構想を綿密に練り上げていった。建築の石彫には石材職人のマキシム・シケとアンドレ・シケの兄弟が携わり、ステンドグラス職人のシャルル・マルクが藤田の下絵をもとにランスの工房で12点のステンドグラスを完成させている。 建物の壁面が完成したのち、藤田は1966年6月3日からフレスコ画に取り組み、8月31日まで夏の3ヶ月間を費やした。朝8時から仕事を始めて、日に平均して10時間から12時間、ときには深夜まで描き、フレスコ画の総面積は100㎡に及んでいる。各場面の描画の順序については、1966年の6月から8月にかけての日記のなかで詳しく記録している。それによるとまず礼拝堂の左側の壁面から描き始めており、6月3日に左手前の「十字架降下」から取り掛かり、6月20日にかけて「キリストの洗礼」「病者を癒すキリスト」「受胎告知」「奇跡の漁り」へと描き進めたことが判る。6月24日には右の壁面へと移り、「キリスト降誕」から「十字架を担う」へと展開したのち、7月中旬からはハイライトである「キリストの磔刑」とその周辺に専念している。壁画に着手して4日目の1966年6月6日、幼少期を暮らした熊本からの来訪者を迎える。そして7月下旬から8月初旬にかけては、主祭壇に位置する正面の「聖母子」とその周辺を描いたのち、8月23日に「最後の晩餐」に取り組んでいる。 藤田は礼拝堂壁画の完成にあたって、正面奥の主祭壇の《聖母子》のフレスコ画の右下に描きこまれた君代夫人(洗礼名マリー=アンジュ・クレール)の肖像の足もとに、「Leonard Foujita 80 ANS 1966 3 Juin – 31 Aout 」 (レオナール・フジタ、80歳、1966年6月3日-8月31日)と署名と年記を入れ、制作に携わった期間を正確に明示している。藤田という画家は自らの描いた作品の画面や裏、木枠に、制作の年月日や場所、自身の年齢など詳細なデータを書き込むことがしばしば見受けられ、大壁画の《秋田の行事》(1937年)の署名・年記に代表されるように、とりわけ精魂を傾けた仕事のときは顕著であった。1966年10月1日にランスの大司教によって礼拝堂を神に捧げる聖別/献堂の式が執り行われ、10月18日には落成式が挙行されてその日のうちにノートル=ダム=ド=ラ=ペ礼拝堂はランス市に寄贈された。1966年の年末から1967年にかけて入退院を繰り返し、1968年1月29日、スイスのチューリッヒの病院にて死去。享年81。2月3日、ランスの大聖堂で葬儀。4月、日本政府から勲一等瑞宝章を授与される。1970年、アメリカに接収されていた戦争画が無期限貸与の形で日本に返還され、東京国立近代美術館に保管される。ノートル=ダム=ド=ラ=ペ礼拝堂に埋葬されていた亡骸は、晩年を過ごしたヴィリエ=ル=バクルの教会墓地に移されたが、2003年10月、再びノートル=ダム=ド=ラ=ペ礼拝堂に戻されて、2009年に亡くなった夫人の君代とともにランスの地に眠っている。
