児玉源太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
児玉 源太郎
こだま げんたろう
Gentaro Kodama 2.jpg
生年月日 1852年4月14日
嘉永5年閏2月25日
出生地 日本の旗 日本 周防国都濃郡徳山村
(現:山口県周南市
没年月日 (1906-07-23) 1906年7月23日(54歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府
称号 帝國陸軍の階級―肩章―大将.svg 陸軍大将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
功一級
子爵
配偶者 児玉松子(マツ)
子女 兒玉秀雄(長男)
兒玉貞雄(次男)
兒玉友雄(三男)
兒玉常雄(四男)
兒玉国雄(五男)
山口縫子(ヌイ・養女)
山口芳子(ヨシ・長女)
穂積仲子(次女)
兒玉八郎(六男)
児玉九一(七男)
藤田元子(モト・三女)
木戸鶴子(ツル・四女)
親族 児玉忠康(婿養子)
児玉進(曾孫)

War flag of the Imperial Japanese Army.svg 第7代 参謀総長
在任期間 1906年4月11日 - 1906年7月30日

日本の旗 第4代 台湾総督
在任期間 1898年2月26日 - 1906年4月11日

日本の旗 第21代 内務大臣
内閣 第1次桂内閣
在任期間 1903年7月15日 - 1903年10月12日

日本の旗 第21代 文部大臣
内閣 第1次桂内閣
在任期間 1903年7月17日 - 1903年9月22日

日本の旗 第13-14代 陸軍大臣
内閣 第4次伊藤内閣
第1次桂内閣
在任期間 1900年12月23日 - 1902年3月27日
テンプレートを表示
児玉 源太郎
こだま げんたろう
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1869年 - 1906年
墓所 多磨霊園
児玉神社
テンプレートを表示

児玉[注 1] 源太郎(こだま げんたろう、嘉永5年閏2月25日1852年4月14日) - 明治39年(1906年7月23日)は、日本陸軍軍人政治家階級位階勲等功級爵位陸軍大将正二位勲一等功一級子爵日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した。

生涯・人物[編集]

児玉源太郎の墓

嘉永5年(1852年)、周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長州藩の支藩徳山藩の中級武士(百石)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。父とは5歳で死別し、姉である久子の婿で家督を継いだ児玉次郎彦に養育された。しかし、源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。

明治元年(1868年)に初陣。下士官として箱館戦争に参加した後、陸軍に入隊する。明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し戦傷を受けている。

熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱を鎮圧。同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされることとなる。

台湾総督時代(1898-1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した[1]。 後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。

日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長・大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して降格人事となる参謀本部次長に就任する(台湾総督は兼任)。日本陸軍が解体される昭和20年(1945年)まで、降格人事を了承した軍人は児玉ただ一人である。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務めた。

満州軍総参謀長として満州に渡って以降は遼陽会戦沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れている。

奉天会戦勝利の報に大本営がウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画した際、児玉は急ぎ東京へ戻り戦争終結の方法を探るよう具申している。目先の勝利に浮かれあがっていた中央の陸軍首脳はあくまで戦域拡大を主張したが、日本軍の継戦能力の払底を理解していた海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成したこともあり、ようやく日露講和の準備が始められることとなった。

日露戦争後、陸軍参謀総長に就任。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の明治39年(1906年)7月23日、就寝中に 脳溢血で急逝した。享年55。戒名は大観院殿藤園玄機大居士[2]。墓所は東京都府中市の多磨霊園にある。また神奈川県藤沢市江ノ島および山口県周南市にある児玉神社に祭神として祀られている。

年譜[編集]

児玉の書(七言二句「唯覚宦情如水薄 不知人事有山高 藤園」)
臺北市臨濟護國禪寺にある児玉源太郎髪塔

※明治5年までの日付は旧暦

  • 慶応元年(1865年)7月13日 - 周防国徳山藩中小姓となり、源太郎忠精を称す。
  • 明治元年(1868年)9月22日 - 献効隊半隊士令として初陣。
  • 明治2年(1869年)8月1日 - 兵部省御雇として仕官。
  • 明治3年(1870年)
    • 6月2日 - 大隊第六等下士官となる。
    • 12月10日 - 陸軍権曹長に任官。
  • 明治4年(1871年)
    • 4月15日 - 陸軍准少尉に進級し、歩兵第3連隊第2大隊副官となる。
    • 8月6日 - 陸軍少尉に進級。
    • 9月21日 - 陸軍中尉に進級。
  • 明治5年(1872年)
    • 6月17日 - 歩兵第19番大隊副官に異動。
    • 7月25日 - 陸軍大尉に進級。
    • 8月1日 - 大阪鎮台地方司令副官心得に異動。
  • 明治6年(1873年)
    • 3月17日 - 大阪鎮台歩兵第1大隊近衛へ編入異動。
    • 10月9日 - 歩兵科二等となる。
  • 明治7年(1874年)
  • 明治10年(1877年)2月 - 西南戦争熊本城に籠城。
  • 明治11年(1878年)
    • 1月31日 - 勲四等に叙勲。
    • 2月25日 - 熊本鎮台参謀副長から近衛局に異動。
    • 12月9日 - 勲功調査御用掛兼務。
  • 明治13年(1880年)
  • 明治16年(1883年)
    • 2月6日 - 陸軍歩兵大佐に進級。
    • 4月18日 - 従五位に昇叙。
  • 明治18年(1885年)
  • 明治19年(1886年)9月30日 - 陸軍大学校幹事兼任。
  • 明治20年(1887年)
    • 6月3日 - 監事部参謀長に異動。
    • 10月24日 - 陸軍大学校長を兼任。
  • 明治22年(1889年)
  • 明治25年(1892年)8月23日 - 陸軍次官陸軍省軍務局長に異動。
  • 明治26年(1893年)4月12日 - 兼任 理事、叙 高等官一等、陸軍省法官部長に異動。[3]
  • 明治27年(1894年)
  • 明治28年( - 1895年)
    • 3月25日 - 大総督府派遣中大本営陸軍参謀に異動。
    • 4月1日 - 臨時陸軍検疫部長を兼帯。
    • 6月29日 - 臨時台湾電信建設部長兼臨時台湾燈標建設部長に異動。
    • 8月20日 - 男爵を受爵。勲二等旭日重光章を受章。
    • 11月14日 - 臨時広島軍用水道施設部長を兼帯。
  • 明治29年(1896年)10月14日 - 陸軍中将に進級。
  • 明治31年(1898年)
  • 明治32年(1899年)12月27日 - 勲一等瑞宝章を受章。
  • 明治33年(1900年)12月23日 - 台湾総督のまま第4次伊藤内閣陸軍大臣
  • 明治34年(1901年)4月20日 - 正三位に昇叙。
  • 明治35年(1902年)
  • 明治36年(1903年)
  • 明治37年(1904年)
  • 明治38年(1905年)
    • 3月1日 - 奉天会戦(3月10日終結)参加。
    • 9月5日 - 日露戦争終戦。
    • 12月20日 - 参謀次長事務取兼帯。
  • 明治39年(1906年)
  • 明治40年(1907年)10月2日 - 家督相続者児玉秀雄が父源太郎の勲功により伯爵に陞爵。

旅順戦に関して[編集]

旅順攻囲戦においては児玉の功績が語られることがある。日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと『機密日露戦史』で紹介され司馬遼太郎の小説作品などで世間に広まった[注 2]

  • 児玉らが203高地攻略を支持していたことについて、児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持したとされる[注 3]。満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると作戦を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍参謀の白井二郎が説得した程だった[7]
  • 児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し参謀長・伊地知幸介らを論破したことについて、第三軍の参謀は殆どが児玉と直接会っておらず電話連絡で済ましていた可能性がある[8]
  • 地図の記載ミスで児玉に陸大卒業記章をもぎ取られたのは第三軍参謀ではなく第7師団の参謀で、戦闘視察時に第三軍参謀を叱責した話も事実ではないとされる[注 4]
  • 児玉が命じた攻城砲の24時間以内の陣地変更と味方撃ちを覚悟した連続砲撃について、児玉は実質的には何もしていないとされる。既に28センチ榴弾砲は第三軍に配備されていた全砲門が203高地戦に対して使用されているし、児玉来着から攻撃再開の5日までの間に陣地変更することは当時の技術では不可能だったはずとのこと[注 5]
  • 味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたことについて、攻城砲兵司令部にいた奈良武次少佐は「友軍がいても砲兵が射撃して困る」と逆に児玉と第七師団長・大迫尚敏中将が攻城砲兵に抗議したと述べている。奈良の「ロシア軍の行動を阻止するためには致し方ない」という説明に児玉は納得したが第三軍参謀の津野田是重も「日本の山砲隊は動くものが見えたら敵味方か確認せずに発砲していた」と証言しており、児玉ではなく第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していた可能性がある[9][8]
  • 攻撃部隊の陣地変更なども為されておらず、上記の様に従来言われる児玉の指揮介入も大きなものでは無かったのではないかとの見解もなされて、203高地は殆ど従来の作戦計画通りに攻撃が再開され第三軍の作戦で1日で陥落したという説や、白井二郎や独立砲兵大隊長・上島善重の回想といった第三軍司令部側の史料から、児玉が旅順で実際に第三軍の作戦に指示を与えていたことを指摘する研究が新しく出されている[5][10]。ただし、これによると児玉は作戦立案自体は伊地知幸介以下の第三軍司令部参謀に行わせており、児玉の発案だけで作戦が決まったとは述べられていない。上記の通り作戦自体ほとんど変更が見られない点から見ても児玉の指導があったにせよ内容的には極めて少なかったと考えられている。

これらは旅順戦に関しての児玉の作戦行動の可能性を示唆しているが、現在のところ複数の資料から検討されている段階で、未だ決定的証拠とまでは至っておらず、今後の研究で児玉の旅順戦に関しての実像解明が待たれている。

エピソード[編集]

  • 性格的には情に脆く友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。
  • 神風連の乱鎮圧の直後、東京から現地へ真っ先に送られた電報が「児玉少佐ハ無事ナリヤ」であったという。当時24歳の若い少佐だった児玉にかけられた、当時の日本陸軍の期待を物語る逸話である[11]
  • 日本軍の参謀育成のため、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。
  • 乃木希典とは旧知の間柄であった。児玉が東京鎮台第二連隊長時代、千葉県佐倉における演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が奇襲によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな花火のことで、身長の低かった児玉が「一寸に満たないほど小さい小玉(児玉)」と自分自身をもじったものであるとされる。
  • 児玉は乃木希典の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木に対する尊敬の念を終生抱き続けたと言われ、日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。
  • 晩年、浅草凌雲閣で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオン・ボナパルトに準えて称える二人の陸軍将校の傍にそっと歩み寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむというお茶目な面もあった。
  • 千葉県佐倉市の武家屋敷通り沿いに旧宅跡がある。当時の建物は失われているが、生垣と土塁は現存しており、説明看板が立っている。
  • 台湾の国立台湾博物館には児玉の銅像が展示されている。これは戦前に後藤新平の像と共に正面エントランスに設置されていたものであるが、戦後は国民政府下、学芸員が破壊を恐れ独断で隠し、その後展示されるようになったものである[12]
  • 日本独自の海底ケーブル敷設船で九州 - 台湾間を海底ケーブルで繋ぎ、さらにイギリスのインド・アフリカ回線と結んだ。バルチック艦隊が喜望峰インド洋を周回している情報は、イギリスのインド・アフリカ回線を通じてロシアには秘密で、次々に日本に送られた。さらに、この児玉ケーブルといわれる海底ケーブルは朝鮮半島と日本間など、日本周辺に張り巡らされ、朝鮮半島に停泊していた連合艦隊旗艦「三笠」と東京の大本営とで電信による通信が可能であった。1分間で20数文字と限られた情報量であったが、最前線と大本営の間で、情報や命令のやりとりを短時間で行うことが可能であった。このため、大本営はいつでも、連合艦隊に移動命令を出せるようになったため、持てる戦闘力の全てを日本海海戦だけに集合させることが出来た。

近年の研究動向[編集]

従来、児玉に関しては、古川薫生出寿など歴史小説家による評伝が多く、史料に依拠した実証的研究が少なかった。だが、平成23年(2011年)に長南政義が、一次史料を典拠とした「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」(並木書房『坂の上の雲5つの疑問』収録)を発表して以降、小林道彦『児玉源太郎 そこから旅順港は見えるか』(2012年、ミネルヴァ書房)、長南政義「児玉源太郎は名将だったのか?~「参謀本部次長」「満洲軍総参謀長」としての児玉源太郎の手腕~」(2013年、国学院大学『國學院法研論叢』第40号掲載)が出され、良質な史料に基づいた実証的な児玉研究が相次いで刊行されている。

長南政義は、参謀本部次長・満洲軍総参謀長としての児玉の役割について詳細に検証し、児玉が内務大臣を辞めて参謀本部次長に就任した人事を「降格人事」とする通説を批判し、降格人事ではなかった旨を証明している。また、小林道彦は統帥権を憲法的秩序に適合させようとした「立憲主義的軍人」としての児玉像を実証的に描き出している[13]

栄典・授章・授賞[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜[編集]

系図[編集]

  • 児玉氏家紋は二文字に三つ星。
源太郎━━┳秀雄━忠康━━━━━━━┳健
     ┣貞雄━信男━幸子┳純    ┣進
      ┣友雄       ┣健    ┣実
        ┣常雄            ┗博
     ┣国雄
     ┣ヌイ
     ┣ヨシ
     ┣仲子
     ┣八郎
     ┣九一
     ┣モト
     ┗ツル

家族・親族[編集]

岩永秀松の娘松子(マツ)と結婚、7男4女を儲けた(養女も1人迎えた)[30]

爵位は嫡男秀雄が継いだが、秀雄と澤子夫妻に息子が生まれなかったため、2人の間に生まれた孫娘貞子(1902年 - ?)の夫忠康広幡忠朝の子、1898年 - 1990年)が婿養子に迎えられた。曾孫で忠康の息子映画監督テレビ映画監督。

登場作品[編集]

テレビドラマ

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 兒玉の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体である。学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書などにおける歴史人物としての表記は「児玉源太郎」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉源太郎」、御署名原本における大臣副書の本人署名は「児玉源太郎」である。
  2. ^ ただし、機密日露戦史は旅順戦において第三軍の方針と反発した大本営側の人間の証言を取り入れ現場の第三軍側の証言を殆ど採用していない内容の資料であり、誤りが多いと別宮暖郎長南政義原剛などが研究調査して書籍などで発表されている [4][5]
  3. ^ 正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当初は203高地攻略も提案していなかった[6]
  4. ^ この際同行していたのは第一師団長・松村務本中将と第七師団長・大迫尚敏中将[8]
  5. ^ 実際のところは予備の12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけではないのかと検証されてもいる[8]

出典[編集]

  1. ^ 越澤(2011)、72-74頁。
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)124頁
  3. ^ 『官報』第2934号「叙任及辞令」1893年4月14日。
  4. ^ 別宮(2009)[要ページ番号]
  5. ^ a b 長南(2011b)[要ページ番号]
  6. ^ 学研パブリッシング(2011)、p.59
  7. ^ 学研パブリッシング(2011)、p.69
  8. ^ a b c d 学研パブリッシング(2011)、p.70 奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想
  9. ^ 長南(2011a)、pp.150 f
  10. ^ 長南(2011a)[要ページ番号]
  11. ^ 学習研究社刊:歴史群像『日露戦争~陸海軍、進撃と苦闘の五百日』記述より
  12. ^ 國立臺灣博物館
  13. ^ 長南(2011a)、p129。長南(2013)、pp68-69。小林(2012)、ppⅴ-ⅵ
  14. ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号240
  15. ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
  16. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  17. ^ 『官報』第6843号「叙任及辞令」1906年4月25日。
  18. ^ 『官報』第6921号「叙任及辞令」1906年7月25日。
  19. ^ 『官報』第548号「賞勲叙任」1885年5月2日。
  20. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  21. ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
  22. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  23. ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
  24. ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
  25. ^ 『官報』第6920号・付録「叙任及辞令」1906年7月24日。
  26. ^ 『官報』第6832号「授爵・叙任及辞令」1906年4月12日。
  27. ^ a b 『官報』第2767号「叙任及辞令」1892年9月15日。
  28. ^ 『官報』第3691号「叙任及辞令」1895年10月16日。
  29. ^ 『官報』第6919号「叙任及辞令」1906年7月23日。
  30. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年、P596 - P597、小林(2012)、ppxxiv - xxv。

参考文献[編集]

「児玉」「兒玉」の表記は、著者がどちらを用いていたのかに従う。

  • 『歴史群像アーカイブ FILING BOOK volume 22(日露戦争)』 学研パブリッシング 編、学研パブリッシング(出版) 学研マーケティング(発売)〈歴史群像シリーズ〉、2011年12月。ISBN 978-4-05-606513-8
  • 越澤明 『後藤新平 大震災と帝都復興』 筑摩書房〈ちくま新書933〉、2011年11月。ISBN 978-4-480-06639-8
  • 長南政義 「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」『坂の上の雲5つの疑問』 ゲームジャーナル編集部 編著、並木書房、2011年12月。ISBN 978-4-89063-284-8
    • 長南政義「児玉源太郎は名将だったのか? 〜「参謀本部次長」「満洲軍総参謀長」としての児玉源太郎の手腕〜」『國學院法​研論叢』第40号(国学院大学、2013年3月)
  • 長南政義 「第三軍参謀が語る旅順戦」『坂の上の雲5つの疑問』 ゲームジャーナル編集部 編著、並木書房、2011年12月。ISBN 978-4-89063-284-8
  • 別宮暖朗 『日露戦争陸戦 「坂の上の雲」では分からない 児玉源太郎は名参謀ではなかった』 並木書房、2009年10月。ISBN 978-4-89063-249-7

関連書籍[編集]

「児玉」「兒玉」の表記は、著者がどちらを用いていたのかに従う。

外部リンク[編集]


公職
先代:
桂太郎
日本の旗 陸軍大臣
第13・14代:1900年12月23日 - 1902年3月27日
次代:
寺内正毅
先代:
内海忠勝
日本の旗 内務大臣
第21代:1903年7月15日 - 同10月12日
次代:
桂太郎
先代:
菊池大麓
日本の旗 文部大臣
第17代:1903年7月17日 - 同9月22日
次代:
久保田譲
先代:
乃木希典
日本の旗 台湾総督
第4代:1898年2月26日 - 1906年4月11日
次代:
佐久間左馬太
軍職
先代:
大山巌
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 参謀総長
第7代:1906年4月11日 - 同7月30日
次代:
奥保鞏
日本の爵位
先代:
陞爵
子爵
児玉家初代
1906年
次代:
児玉秀雄
先代:
叙爵
男爵
児玉家初代
1895年 - 1906年
次代:
陞爵