アメデオ・モディリアーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
アメデオ・モディリアーニ
Amedeo Modigliani Photo.jpg
洗濯船におけるモディリアーニ
生誕 1884年7月12日
イタリア王国の旗 イタリア王国 リヴォルノ
死没 (1920-01-24) 1920年1月24日(35歳没)
フランスの旗 フランス共和国 パリ
国籍 イタリア王国の旗 イタリア王国
教育 Accademia di Belle Arti
著名な実績 画家彫刻家
代表作 『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』等
運動・動向 エコール・ド・パリ

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884年7月12日 - 1920年1月24日)は、イタリア画家彫刻家。主にパリで制作活動を行った。芸術家の集うモンパルナスで活躍し、エコール・ド・パリ(パリ派)の画家の一人に数えられる。

来歴[編集]

幼少期[編集]

モディリアーニの生家

1884年にトスカーナ地方のリヴォルノのローマ街33番地でフラミニオ・モディリアーニ(父)とエウジェニア・ガルシン(母)の間に2男1女に続く末っ子として生まれる。両親はともにセファルディ・ユダヤ系のイタリア人である。当時モディリアーニ家は林業や銀鉱を経営していたが、モディリアーニが生まれた年に倒産している。幼少期に父フラミニオは旅行をすることが多くモディリアーニの話し相手になっていたのは母方の祖父イサーク・ガルシンであった。彼は博学でモディリアーニに芸術や哲学の話を聞かせていた。一方母エウジェニア・ガルシンには日記をつける習慣があり、そこからはモディリアーニの芸術の才能に早くから気づいていたことを知ることができる。1895年の日記にはこう記されている。

「この子の性格はまだ十分形成されていないので、今自分の意見をいえるところに来ていないが、その態度は知能はあるが甘やかされた子供のそれである。このサナギの中に何があるのか、もう少し時期がたてば見えてくるだろう。あるいは芸術家?」

学生時代[編集]

1898年14歳のときに風景画家のグリエルモ・ミケーリのアトリエでデッサンの指導を受けるようになる。1899年アトリエで最良の友となるオスカル・ギリアに出会う。1900年結核に冒される。翌年転地療養のため母とナポリ、カプリ、アマルフィ、ローマ、フィレンツゥエ、ヴェネチアを旅行する。この際訪れた教会などで見たイタリア美術、殊に14世紀シエナ派のティーノ・ディ・カマイーノの彫刻に強い感銘を受ける。このときの強い印象について彼は友人のオスカル・ギリアに何度も手紙を書いている。1902年フィレンツェに赴き裸体画教室に学ぶ。翌1903年ヴェネツィアに移住し美術学校に入学する。そこで、カルパッチョベリーニシエナ派の研究を行う。この頃伯父のアメデ・ガルシンの援助を受けていたが1905年の死去によりモディリアーニのパリ移住は先延ばしとなる。しかしその年の暮れに母が資金を与えついにパリへ向かう。

パリ時代[編集]

1906年1月パリへ移住。アカデミー・コラロッシに入学。モンマルトルのコランクール街にアトリエを借り活動を始める。そこはアパート洗濯船に近くモンマルトルの画家たちと知り合う。この頃パブロ・ピカソギヨーム・アポリネールアンドレ・ドランディエゴ・リベラらと交流を結ぶ。1907年末サロン・ドートンヌに出品するが同所の回顧展でポール・セザンヌを知り強い衝撃を受ける。なお、同サロンには1912年にも出品している。また同じ頃医学研修生のポール・アレクサンドルの勧めでサロン・デ・サンデパンダンに入会する。アレクサンドルはモディリアーニの絵画をパリで最初に購入した人物である。アンデパンダン展には第24回展(1908年)、第26回展(1910年)、第26回展(1911年)と出品している。しかし当時の評価は低くごく少数の新聞に他の作家と共に名が載った程度であり、また作品も売価を大幅に値引かないと売れない状況だった。なお、彼の死後の1926年の回顧展では新聞は高く評価し、例えば肖像画は3万5千フランで売れたことが記録されている。

1909年モンパルナスに移る。ここでルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交流する。またこの時期彼は彫刻に没頭し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていた。しかし、資金不足と健康の悪化による体力不足などの理由により断念せざるを得なかった。しかし、その間に残した一連のスケッチからは、後の作品の特徴であるフォルムの単純化の過程を知ることができる。

左からモディリアーニ、ピカソ、アンドレ・サルモン(1916年8月12日パリ)

1914年、パリでも著名な画商ポール・ギヨームと知り合い、ギヨームや友人のマックス・ジャコブの勧めもあって1915年頃から絵画に専念し画業を始める。当時シャイム・スーティン藤田嗣治モーリス・ユトリロとも交友関係にあった。1914年7月英国人の女性ベアトリス・ヘイスティングスと知り合いその後2年間交際する。同じ頃第一次世界大戦が起こり、モディリアーニは病弱なため兵役は不適格となるが、一方ポール・アレクサンドルは召集され以後出会うことはなくなる。1916年には、ポーランド人の画商レオポルド・ズボロフスキーと専属契約を結び、絵をすべて引き取る代わりに画材などを提供してもらっている。この年シモーヌ・ティローを愛人とするが翌年別れる。

1917年3月アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと知り合い同棲を始める。12月3日ベルト・ヴァイル画廊にて生前唯一の個展を開催したが、裸婦画を出展したのが元で警察が踏み込む騒ぎとなり、一日で裸婦画を撤去する事態となった。1918年転地療養のためニースに滞在する。同年11月29日長女ジャンヌが誕生。1919年7月にはジャンヌ・エビュテルヌに結婚を誓約している。しかし、貧困と生来患っていた肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生で荒廃した生活の末、1920年1月24日に結核性髄膜炎により死亡した(飲酒については肺結核による咳を抑えるため仕方なく飲んでいたとも言われる)。35歳没。ジャンヌもモディリアーニの死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺した。この時妊娠9ヶ月だったという。ジャンヌの遺族の反対もあり、2人の遺体は10年後になってようやくパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬された。

ペール・ラシェーズ墓地にあるモディリアーニとジャンヌの墓石

作風[編集]

モディリアーニの絵画の代表作の大部分は1916年から1919年の間に集中して制作されている。モディリアーニの絵画のほとんどは油彩の肖像と裸婦であり(風景は4点、静物はなし)、顔と首が異様に長いプロポーション[1]で目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっているが、これは自身の彫刻の影響が指摘されている。肖像画についてはモデルの心理や画家との関係を表現するが、一方裸体画については女性の造形美への関心が表れているのが特徴である[2]。なお、初期にはピカソの『青の時代』やポール・セザンヌの影響を受けた絵を制作している。

後年の評価[編集]

モディリアーニの生涯は半ば伝説化しており、映画化もされている。

エピソード[編集]

  • ピカソに12年前の借金を返済されたとき、100スー(5フラン)の借金に対して「利子」と称して20倍の100フランを請求したという。
  • モディリアーニはしばしばカフェで臨席した客の似顔絵を描いて、それを半ば無理やり売りつけて得た金を酒代にして夜の街を徘徊していたといわれ、それを身重のジャンヌが一晩中探し回ることもあったという。
  • 1歳2ヶ月で両親に先立たれた一人娘ジャンヌはモディリアーニの姉フローレンスに引き取られ、フィレンツェで育てられたが、はじめは両親をめぐる事実を知らされていなかった。後年自らも美術に携わり、ドイツ表現主義やエコール・ド・パリ、ゴッホなどの研究を経て、父モディリアーニの研究にも従事し、1984年に死去した。

作品[編集]

上記以外の代表作[編集]

タイトル 制作年 技法・素材 サイズ(cm) 所蔵先 備考
若い女性の胸像(帽子の女) 1908年 油彩・キャンバス 57x55 リール近代美術館
チェリスト 1910年 130x81 Galerie Jan Krugier(スイス) 1910年のアンデパンダン展に出品した2点のうちの1つ。もう1点の「チェロ弾く男の習作」は個人蔵。
夢想(フランク・バーティ・ハヴィランド) 1914年 油彩・厚紙 62.2x49.4 ロサンゼルス・カウンティ美術館
座る裸婦 1916年 油彩・キャンバス 92x60 コートールド・ギャラリー
カーニュ=シュル=メールの木と家 1919年 油彩・キャンバス 55x46 個人蔵 4点しかない風景画のうちの1点

日本にある作品[編集]

タイトル 制作年 技法・素材 サイズ(cm) 所蔵先 備考
ポール・アレクサンドル博士 1909年 油彩・キャンバス 100.5x81.5 東京富士美術館 モディリアーニは5点アレクサンドルの肖像を描いている。
ポール・アレクサンドル博士の肖像 1909年 油彩・キャンバス 100x81 ヤマザキマザック美術館
青いブラウスの婦人像 1910年頃 油彩・キャンバス 80.7x54.2 ひろしま美術館
立てる裸婦(カリアティードのための習作) 1911-12年頃 名古屋市美術館
カリアティード 1911-12年 油彩・キャンバス 板 87.5x67.0 愛知県美術館
頭部像 1911-12年頃 ブロンズ 72.0x22.8x30.0 ひろしま美術館
ベアトリス・ヘイスティング 1915年 京都国立近代美術館寄託
婦人像(C.D.夫人) 1916年頃 油彩・板 79.5x48.5 ポーラ美術館
若い女の胸像(マーサ嬢) 1916-17年頃 松岡美術館
ルニア・チェホフスカの肖像 1917年 油彩・キャンバス 72.8x45.0 ポーラ美術館 類作がサンパウロ美術館に所蔵。
ルネ 1917年 油彩・キャンバス 61.1x50.2 ポーラ美術館
髪をほどいた横たわる裸婦 1917年 大阪市立近代美術館
首飾りの女 1917年 油彩・キャンバス 65.0x50.0 イセ文化基金[4]
若き農夫の肖像 1918年 ブリヂストン美術館
少女の肖像(ジャンヌ・ユゲット) 1918年 油彩・キャンバス 91.5x60.5 アサヒビール大山崎山荘美術館
ジャンヌ・エビュテルヌの肖像 1918年 大原美術館
赤毛の女 1918年 長島美術館
おさげ髪の少女 1918年頃 名古屋市美術館
フジタの肖像 1919年 鉛筆・紙 48.5x20.0 北海道立近代美術館 親交のあった藤田嗣治を描いたデッサン。藤田は生涯このデッサンを大切にしたという[5]
青男の肖像 1919年 油彩・キャンバス 99.0x65.0 ひろしま美術館
ニースの歌姫 1919年頃 鎌倉大谷記念美術館
イタリアの娘 不明 油彩 77.0x68.0 和泉市久保惣記念美術館

脚注[編集]

  1. ^ 晩年の藤田嗣治は「あの首の長い婦人像は俺がやったんだ。モディリアーニがそれを油で受け継いだ」と語ったという。『画商の「眼」力 真贋をいかにして見抜くのか』長谷川徳七著 講談社 2009年 80頁参照 ISBN 9784062149525
  2. ^ 肖像画のモデルは名前やモディリアーニとの関係がわかっているが裸体画はすべて匿名である。
  3. ^ 「パナマ文書」で所有者特定、モディリアニ作品を押収 スイス”. AFPBB News (2016年4月12日). 2016年4月26日閲覧。
  4. ^ 東京都庭園美術館編集 『東京都庭園美術館建物公開 イセ・コレクションによる名画の花束―フランス近代絵画を中心に』 (財)東京都歴史文化財団〈東京都庭園美術館資料第31輯〉、1999年、p.36。
  5. ^ エコール・ド・パリ | 教育庁北海道立近代美術館

参考資料[編集]

  • 酒井忠康編著 『ヴァヴァン 新装版・25人の画家 第14巻 モディリアーニ』 講談社、1995年5月20日、ISBN 4-06-254764-3
  • ピエール・デュリュー 清水敏男訳 『岩波 世界の巨匠 モディリアニ』 岩波書店、1996年1月23日、ISBN 4-00-00-8325-2
  • アネッテ・クルシンスキー解説 諸川春樹翻訳 『岩波アート・ライブラリー アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像』 岩波書店、2010年1月22日、ISBN 978-4-00-008988-3
展覧会図録